メギド72『嵐の暴魔と囚われの騒魔』について(Ⅱ)

 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想について、続編です(前回は下記)。

 

A.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』について私が読み落としていた部分についてまずは書きます。それは(明瞭そのものだろうけれども)これが「差別」の物語である、ということです。
 作中を貫く「外見」(ジズ)と「声」(プロメテウス)の対比について、プロメテウスがアイドル、正確には歌手の設定が物語上何を意味しているか、メギドとして差別を受けた経験のあるモラクスと、「正義」を理想とするマルコシアスこそが、エイジズムの表れと取れる発言をする意味について言及します。

 

B.続けて、私が書いた感想の何が問題であったかについて書きます。テキストを批判するときは、当たり前だけれども、そのテキストの可能性を最大限まで読んだうえで行うべきだ、ということです。
 また「私はこれは差別表現だとは取らないが、これを差別だと思う人も居るハイリスクな表現であるからやめたほうがいい」という批判が今回どうなのか、について書きます。
 なお、以前の感想については、無修正で公開とします。

roughpaper.hatenablog.jp

 

 本稿は私が『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の何を読み落としていたか、に関しての文章であり、他人を批判する意図はありません(というか他人の読みについて、それに対して疑問を抱くならともかく、その存在を否定するような筋合いは、別にこの文章に限らずどこにもありません)。また、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の修正を歓迎する方への批判の意図、および修正を批判する人への批判の意図も、断じてありません。

 

①『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は差別の物語である――救いとしての眼と声

 

 大変今更ですが、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は差別について書かれた物語です。
 差別される対象とは第一にジズであり、第二に「悪魔」として幽閉されるプロメテウスです。まずは、ジズの差別のプロセスを読んでいきます。

 

 プロローグです。
 何故ジズが村から追放されるに至ったかは微妙に難しいところですが、次の二点の台詞に注目します。

 ジズ:
 ジズ、ちゃんとやるから
 「力」を…
 …こんとろーるできたら、
 帰ってきていいんだよね…?

 ジズが追放された理由は第一にメギドとしての「力」です。それを裏付けるように、

 厳しい顔をした村人:
 …体のいい追放じゃよ
 でも、やっと村も安全になる…

 と続きます。作中でははっきりとは描写されないのだけれども、ジズは故郷の村でも力をコントロール出来ずにトラブルを起こすことがあったのでしょう。

 このことは第02話・1でも、 

 

 ブネ:
 バフォメット、
 迫害の理由はなんなんだ?

 バフォメット:
 「力」である

 

 と裏付けられます。一方で、ジズの差別はそれだけによりません。同じくプロローグでは、

 陰口を言う村人:
 …悪魔の子
 なによあの耳、気持ち悪い…

 と、ジズの耳が忌避されていることが書かれます。
 つまり、ジズが差別を受けるのは「力」と「外見」の二重の条件によるものです。バフォメットが語る迫害の理由は「力」ですが、第2話で語られるジズの迫害は、「力」よりもむしろ「外見」によるものが先行しています。ジズが「力」のコントロールが付かなくなるのは、そもそも「外見」によって差別され悲しみに暮れたときなので、この順番は自然です。たとえば、第02話・2の、ジズが街にたどり着く場面です。

 ジズ:
 ま、まって…
 どうして、ジズに冷たいの
 ジズはみんなと仲良くしたいの

 街の悪ガキ:
 だってオマエ、変じゃんっ!
 なんだよ、その耳っ!
 しっぽとかキメーんだよっ!

 ジズ:
 こ、これは生まれつきなの…
 ジズがわるいわけじゃ…

 街の悪ガキ: 
 でも変じゃんっ!
 こっち来るな、あっち行けよ!

 このあとジズは彼らに金を奪われ、風の力が暴発しそうになります。その際に、

 ジズ:
 ううう…
 おとうたん…ひぐっ!
 そうだ、ジズ、笛持ってる…

 

 プロローグ、村を出るとき父親が笛を渡した場面を読み返すと、

 父親:
 違う、笛が「力」を
 起こしてるわけじゃない!
 むしろ「音楽」は
 心を落ち着けるんだ
 この子にはそれが必要なんだ
 

 とあります。つまり、ジズはこれまでも風の力を抑えられなくなったとき、笛を吹くことで感情を抑えて乗り切ってきた経験があるわけです(これはバフォメットによっても説明されます)。
 ところがその順番を入れ替えて、笛が力のキーだと考えた村長は笛を持たせないようにしています。
 この「順番を入れ替えて」というのは、さりげないですが、本イベント全編で繰り返される構造です。第一にそれはジズの過去が錯時的に語られる構造であり、第二に本来プレイヤーが出会っていないバフォメットがあたかも既に登場したかのように語られる構造です(これがどこまで意図されたものかは分かりませんが)。

 このあと実際にジズは笛を吹き、なんとか落ち着きを取り戻してロールケーキを買いに行きます。ところがロールケーキでは自分の力をコントロール出来ない事実にショックを受けます。ここで猫耳、という「外見」について店員と客の間で言及があります。
 第2話・03でもジズの放浪が描かれます。新たな街に訪れた村人の会話です。

 暇そうな人:
 …なんだい、あんた
 見慣れない子だねぇ

 迷惑そうな人:
 な、なんだか薄汚れた子だな
 親はどうしたんだ

 (……)

 警戒してる人:
 …おい、これ…
 変だぞ、なんだこの耳…
 

 

 既に複数の指摘があるように、ここで言及されるのは「見慣れない」「薄汚れた」「耳」と、徹頭徹尾「外見」についてです。
 それに対して、ジズは「声」を上げます。

 ジズ:
 そ、そんなこといわないで…
 た、「たすけて」…

 助けを拒絶され、悲嘆に暮れたジズは「力」をコントロール出来ず、街を破壊します。次の街では、


 街の人々:
 …おい、あれ…
 …悪魔の力の…
 …どこかの街を壊滅させた…
 …なんてひどいことを…

 
 ジズが差別を受ける所以はもはや「外見」ではなく「力」からに順番が変わります。故郷の村の村長が本来力をコントロールするものを順番を入れ替えて力のキーにしたように、ここでは差別の順番が入れ替っています。

 ジズはこのあと助けを求めるのが「やさしそうな女性」です。
 

 ジズ: 
 あの…
 
 やさしそうな女性:
 は!?
 え、なんで私!?
 なにか用なのっ!?

 ジズ:
 や、やさしそうだったから…

 やさしそうな女性:
 勝手なこと言わないでっ!
 迷惑だわっ!

 

 ジズは「外見」で話しかける相手を選んだ。もちろんこれは外見による差別ではないけれども、外見が最初の判断になる、というものの見方はこれまでジズが受けてきた差別の裏返しです。さて、ジズが「外見」による差別を受けるのであれば、「種族」で差別を受けているのがプロメテウスです。

 

 警備兵:
 …あんたたちは、信用できん
 …悪魔だからな

 
 もっともプロメテウスの場合は、悪魔として警戒されていても歌=「声」で好感を得ています。警備兵がプロメテウスへの差別を解消するのも、最初のきっかけは歌=「声」です。ジズが助けを求める「声」を黙殺されたのは対照的に、です。

 さっきの警備兵:
 好意は不信を塗り替える
 だからあんたたちの歌は、
 嫌いじゃない

 …聞くたびに、不信が薄まるからな
 街の人たちの反応を見てもわかる

 

 第4話の2・3でも繰り返されるのも外見への言及です。ジズがブネと接触しないのはその外見故であり、またマルコシアスが語るのは「一度見た相手であれば警戒心を解く」という悪魔狩りの経験です。何気ない場面ですが、外見と警戒心が密に結びつけられています。
 それは、ジズがまず外見から警戒されてきた流れの反復でもあります。

*1
 「外見」と「声」が、決定的に対比されるのは第5話・01のプロデューサーとプロメテウスの場面です。ソロモンがブネの叱責、あるいは激励を、目を閉じて黙って聞いていた後の場面です。

 プロデューサー:
 見た目はチャラいけど、
 結構クッソ真面目で
 精神的にもタフなやつだったな

 プロメテウス:
 ううん、泣いてた

 プロデューサー:
 ? 

 プロメテウス:
 あの人の気持ち、
 アタシには「聞こえた」から
 …泣いてたよ
 …どうしようもない悲しみで、
 押しつぶされそうな「音色」
 真っ暗闇の中で、
 叩きつけるような暴風に
 晒されてるような孤独を感じた…
 …泣いても泣いても、
 涙が風で飛ばされて乾いてく
 あれはそういう感情の音色だよ

 

 こうして引用してみると、ソロモンの心情を述べるこの部分は、ジズの心情を連想させるようなものです。 バルバトスは2話でこう語っています。

 バルバトス:
 ジズは、たった1人で
 生き抜こうと戦ってるんだ
 「この世界」を相手にね…
 俺は、俺に可能な限り
 そういうヤツに味方したい
 行こう、ソロモン

 こう語るバルバトスが、ブネと共にソロモンの「善性」を護ろう、というのはぐっとくるものがあります。もちろんソロモンは仲間こそ居ますが故郷は一度滅んでいます。世界を救うことは孤独です。「暴風」に等しいような敵も居る。あるいは救うべきヴィータの悪意に晒されることもあるでしょう。ソロモンの戦いの相手は現実的にはメギドラルですが、それは同時にハルマゲドンを巻き起こそうとする「世界」の仕組みでもあります。メインストーリー46話で言及されているように、最終的な戦いの相手は「母なる白き妖蛆」という、メギド達が知覚出来ないシステムです。 
 プロメテウスはソロモン達と一旦は別れますが、「希望」の音色を聴取し、街に戻ります。

 プロメテウス:
 増えてる!
 増えてるよ!
 人を思いやる気持ちが…!
 これを束ねれば、「希望」になる!
 アタシの歌で、それができる!
 (……)アタシわかったの!
 いい歌を歌えばそれでいいって
 ものじゃないって
 心に何かが届くときは、
 受け取る側にも準備がいる…
 それに相応しい「状態」があるの
 きっと、その「状態」を
 いっぱい生み出せることが、
 この世界の懐の広さなんだ!
 今、ヴィータたちの気持ちが
 素敵な音色を響かせてるのが、
 アタシには聞こえるの!
 ドン底の最低にあっても、
 それでもあきらめない心が…
 人を想う気持ちが…
 その「音色」を歌に乗せて、
 みんなの気持ちを繋いで、 
 ジズに届けたいの!

 歌をジズに届けるには街が騒がし過ぎる。状況の打開策を提案するのはプロデューサーです。

 プロデューサー:
 ふぅ、仕方ねぇな…
 あっちを見な、見張り台があるだろ
 あそこからなら街中に響くぜ!

 (……)

 プロメテウス:
 …………
 (さっすが視点が高い鳥だって
 言わなくてよかったかも)

 

 ジズが召喚される場面で鍵となるのは「声」です。それは第一に「みんなの気持ち」を繋いだプロメテウスの「歌」であり、暗闇から聞こえてくるソロモンの「声」です。「外見」による差別の過去に苦しみ、ヴィータ不信に陥ったジズの心を救い上げるのは「声」です。しかしプロメテウスの声が届くのはそもそもプロデューサーの「眼」があったからです。ジズを差別した「眼」がジズの救いに繋がる。あるいはジズを苦しめた非難の「声」が、プロメテウスとソロモンの呼びかけという救いの「声」に転じる。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は、災いを与える目と声が、救いへと転じる物語です。

 

②「年を取ったらキツイ」は何故モラクスの言葉なのか

 今回修正された表現について再確認します。

 

ジズ:
 こんとろーる…!
 ジズは…
 もうだいじょうぶ…なの?

 シャックス:
 でもでもー
 耳とかしっぽは
 そのままなんだねー?

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 マルコシアス
 大丈夫ですよ、
 すごく可愛いですから!

 モラクス:
 でも年取ったら、ヤバくね?

 マルコシアス
 そ…そのときはそのときです
 周りがキツくなってから、
 対策を考えましょう

 

 前回の記事で私はこの部分は先天的なジズの特徴が、後天的なアクセサリーとして変換された上で周りが「キツく」なると、エイジズムを彷彿とさせる表現をしていてハイリスクである、と書きました。マルコシアスの「周りがキツく」に対するジズのリアクションは書かれていません(もう修正されて読めないですがまず書かれていないはずで、この流れでジズが落ち込んだりしたら後味がいくらなんでも悪いです)。

 最初にこの部分を読んだときに感じたのは、同じくメギドとして村で差別を受けていて、故にジズの境遇に憤慨したモラクスがする発言としてはあまりに不用意なんじゃないか、そしてそれに同調するのがマルコシアスなのも違和感がありました。マルコシアスについては、「マルコシアスの章で行き遅れとして描かれているので、外見と年齢が結び付くのは理解出来る」という意見もあり、筋は通っているのかもしれないとは思いましたが、個人的にはちょっとしっくりこないものがあります(メインストーリーでバラムがマルコシアスの婚期についてからかっているのは確かで、ただ普段から本人や周囲がそういう言動を繰り返しているわけでもないしなあ……というところです。私がマルコシアスを推しているわけじゃないのもあるだろうけれど、それを言われて初めて「そういえばそんな描写もあったなあ」と思い出す程度ではありました)。

 この部分でまず私が最初に疑問に感じたのは、
①モラクスとマルコシアスがこの発言をするのは不自然では?
②どういう意図でこの会話をわざわざ挿入したのか?
 の二点です。

 しかし、差別というテーマに視点を絞れば、この被差別者のモラクスと「正義」のマルコシアスの発言は実にありふれたことです。差別を受け、同じ差別自体に激昂することが出来る人が、エイジズムのような別の抑圧には不用意に加担してしまう。たとえば自身が「男らしくない」と性別による抑圧を受け、他人の女性差別に憤慨したとしても、「年を取れば自然に~するものじゃないか」とか無意識に思ったりするようなことは、これは単純に責められるべきこととも言い切れず、あり得ておかしくない現象です。 
 実際「正義」のマルコシアスですら、「周りがキツく」なる、という表現をごく自然に使ってしまう。マルコシアスは自分を「正義」だと思っているだろうけれど、モラクスは自分が被差別者という認識がどこまであるかは難しい(でもマリーとの一件は確実に心の傷になっているでしょう)。とはいえ、被差別者が別の抑圧を意図せずしてしまうのは別にヴァイガルドに限らず現実にもよくあることでしょう。
 嫌な話です。でも、この嫌な重さは、ジズによる死人の存在を明確に描き出したことを考えれば、ライターが表現したい内容としてあり得たと思います。そしてもうひとつ大事なのは、この発言に対してジズのリアクションは書かれていない。ジズにとっては今現在のことが全てで、未来においてどうするかなんて考えようがない。
 ただ、この発言を聞いて(この時点で言語化出来なくても)ジズが感じるのは「私は一生この猫耳と付き合わなくてはいけないのか」という重さではないか、と思います。そしてその重い条件を実際に(まあハルマゲドンでヴァイガルドが吹っ飛べばそんな問題もないのですが)ジズは引き受けなくてはならないのです。やはりこれも、ジズによる死人の存在を描き出したのと同水準の重さでしょう。
 
 もうひとつ。モラクスの疑問自体は、ヴァイガルドというお先真っ暗な土地であれば本来は現実問題として目を外すわけにはいきません。一般に状況の悪い場ではとんでもない抑圧が平気で起こりますし、正当化されます(東京医大の一件のように)。ヴィータに対して友好的なアイムですら、「見た目が変わらない」とたったそれだけの、しかし暗い状況下では恐怖に繋がりかねない理由で迫害を受け、住まいを追い出されています。

 したがって、「年取ったら、ヤバくね?」というモラクスの問は、ヴァイガルドに生きる者として自然です。テーマとは別に、被差別者であったからこそ現実を考えずに居られないモラクスの視点のはありえるわけです(というかメインストーリーでのモラクスも現実をシビアに考えがちです)。いくら差別に憤慨していても現実の差別について意識が向く描写は、「ヤバい」という言葉選びを当のジズの前でするのは配慮には欠けるかもしれませんが、キャラクター性として不自然なものではない、と今は思います。

 したがって、何故「年取ったら、ヤバくね?」がモラクスの発言かについては、
①差別というテーマに絞って見れば、被差別者であっても無意識に別の抑圧には加担する
②キャラクター性に絞って見れば、被差別者として暗い現実を突きつけられたモラクスであるからこそ、あの明るい場面でも現実を見据えた冷めた問が湧き上がってくる
 の二点を考えます。マルコシアスが「周囲がキツく」なると発言する理由については、私は①でのみ考えます。行き遅れの設定だから年齢と外見が結びつく、という考えについては、筋は通っているかとも思いますが、感情的に同意はしにくいです(でも、それはあくまで感情です)。

 さて、修正後のシナリオを見てみます。

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 シャックス:
 そうなの?
 ジズジズが嫌なわけじゃないなら、
 よかったよかった!

 マルコシアス
 そうですね
 心配いりませんよ、ジズ
 なにもおかしくありませんから!

 モラクス:
 文句言うヤツがいたら
 俺がぶちのめしてやるってっ!

 

 シャックス、マルコシアス、モラクスと今回のイベントで問題になった(シャックスの台詞が問題になるのは私は正直よくわからなくはありますが)三人による肯定が続きます。しかし重要なのは、ここでもジズのリアクションは書かれていないことです。
 実際にはシャックスが言う通り「ジズジズが嫌なわけじゃない」かどうかはよくわかりません。というか、「年取ったら、ヤバくね?」とモラクスの現実的な問があることを踏まえると、少なくとも肯定は難しいだろうし(……なので、修正されたことでシャックスの個性が消されてるんじゃないか、という問題は実にトリッキーな形で解決されていると考えます)マルコシアスが「なにもおかしくありません」と言うのは、もちろん「おかしい」と抑圧するヴァイガルドの人々が前提にあります。
 でも現実を離れた「気遣い」としてはこれが適切です。
 モラクスの「年取ったら、ヤバくね?」は今は言わなくていい。「そのときはそのとき」なのです。このタイミングでは「なにもおかしく」ないし、「文句言うヤツ」からは守ってやる、と保護のスタンスが出て自然でしょう。ただそこには「おかしい」と思う風潮は示唆されているし、「文句言うヤツ」も想定されている、というところで、本来のシナリオの苦味を維持していると考えます。
 
③私の『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想のなにが問題なのか

 既に書いた『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想の問題点について取り上げます。
 私が「年取ったら、ヤバくね?」は削除修正すべきだ、と書いたのは、あの箇所が差別表現として読めたからではなくて(ある表現が現に差別的かどうかに対しては私は興味はないので)「差別表現として読み取って攻撃する人がいるだろうし、ハイリスクではないか」と感じたからです。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』はこれまででも最高傑作に近いシナリオであり(その理由についてはひとえに「敵」の表現によるとは書いた通りです)だからこそこんな些末な部分で批判されるぐらいであれば、もうとっとと消してしまったほうがいい、という意見でした。

 

 これは、事なかれ主義でもありますが、責任逃れでもあります。
 「私は悪く思わないけれど、悪く思うような人もいるから、そんなラディカルな表現はしないほうがいいよ。それに、別にこの部分が無くたって大して話の内容は変わらないし」という意見に過ぎません。
 何の責任かと言えば、表現の修正を推す責任です。私のこんな小さなブログに影響力があるかというと私自身は疑わしいし、また公式へ直接的に意見を述べたこともないのですが、しかし、表現が実際に修正された以上、その責任がまったくもってないかというと、断じてそんなことは言えない。
 表現の修正を推すには、相応の責任があります。

 私は小説を書いたり読んだりして、人の作品に意見したりもするのですが、基本的にテキストに対して修正変更を提案するときには、その可能性を最大限に引き出した上ですべきだと思っています。ひとつは「変えたほうがいいって、お前が読めてないだけやんけ」と思うのが普通だし、何よりテキストを書く行為自体が大変だからです。
 作品の最大限の可能性を引き出してもいないのに雑に「こんな部分はまずい」と言ってそのまま進むのは、相手が納得しているのではなくて、単に立場による抑圧である場合が少なくないはずです。テキストの最大限の可能性を吟味したうえで、それでも修正したほうがいい、というのは、これは批判をするうえで必要な礼儀ではないかと思います(もちろん他人にそれを押し付けるつもりはありません)。
 
 では、そもそも私がこの部分の意味を最大限に読めていたかというと、否です。
 具体的には、これが「差別」の物語である、という素朴な事実を見落としています。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は議論を呼んだテキストでした。私もものを読むのは得意なほうではありませんが、あの部分について議論が巻き起こること自体、複数の意味を持ち得る証左として読んで差し支えないと思います(いや、そんなもの、こういう意味に決まっているだろう、お前が読めていない、と言われれば他に何も言いようはありませんが)。この場面の解釈について書かれた文章を複数読みましたが、どれもある程度以上の筋は通っている、という印象は正直受けます。
 
 テキストは複数の解釈を生みます。でもその広がりがまずい、今回のようにハイリスクなのであれば相応の注意は必要なはずで、たとえばバルバトスに「たとえ迫害された者であっても同じように迫害することはありうる」ぐらいの注釈は入れて良かっただろう、と思います。
 つまり、削除ではなく、追記であの部分の可能性を救う選択肢はあった。
 もし小説であれば、私はたぶんそう言っていたとも思います。よく実際に口にする言い回しであれば「この部分はテーマは分かるけれど、これだけだと意味が広がり過ぎるし、人によっては差別の現れだと受け取りかねないから、言い訳じゃないけどちょっと注釈を入れたほうがいい」というところです(文面で書くと実にアホですが)。

 また、私が「被差別者もまた差別をし得る」というテーマの表れだ、と読んでいるのも実のところこのシナリオに直接書かれていないテーマに過ぎません。それは擁護であっても「差別表現はいかなるものであっても作中の主人公寄りのキャラクターにはさせるべきではない」というぐらい、テキストの中身と本来無関係な発想と個人的には思います。なので、本来は削除よりも注釈、のほうが望ましかったような気はします。
 ただし、それは今だから言えることで、そもそも差別と被差別の物語である、という事実を読み落としている時点で、確かにハイリスクな表現ではあるにしても、あまりに性急でした。
 
 もうひとつの問題点は、「ハイリスクだから止めたほうがいい」に底流する萎縮の論理です。
 これは「無難なことだけ言っておいたほうがいい、というのでは書けるべき内容が狭まるのでは」という問に関するものです。リスキーな表現でしか書けない場面自体そんなに多いとも思わないのですが、もし読み手に違和感を感じさせる(さらに外傷経験があるような人にかなりのダメージを与える)リスクを承知でするのであれば、話はまったく変わってきます。「リスクを承知でやっています」に対して「ハイリスクだからやめたほうがいい」というのは、単純に萎縮を強いる論理でしかありません。
 
 大多数の人とは無関係な、まったくもって個人的な感情ですが、これだけの傑作シナリオを書いたライターさんが、単なる不注意であんな場面を入れたわけではなかった、と一歩踏み止まれれば良かったなあとすごく後悔しています。これだけの作品を書いている以上、やはり何らかの意味はあるはずだという眼で見ていれば、拾い上げられた可能性があった(もちろん注釈無しの現状では妄想に等しい読みですが)。だって、もしこれで今後ライターさんが萎縮することがあれば、その責任の一端がないとは断じて言えない。
 言えない、どころではない。ある。
 あると見なせないのなら、そもそもそんな文章を長々書くべきじゃない。
 そこで「結局修正したほうがいいと判断したのは公式だったんでしょ?」と私が言うのは、それは単なる後付けの正当化です(他人が同じことを言うのはどうでもいいです)。表現の修正を推す側として意見することには相応の責任があって、たとえば作品を酷評した相手が小説を書けなくなるとか(私も忘れているだけでそういう最悪なことに加担していたに違いありません)書いた側の心を破壊するぐらいのリスクはある。

 私自身、作品を否定される側に回って渋い思いをしたことは何度かあります。そういう否定をされて苦い思いをした自分が、別の作品に対して同じような否定を繰り返す。それは差別ではなくて単なる否定だけれど、その反復について考えたとき、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のあの場面は、かなり重い気持ちで読み返さずにはいられません。長くなった上に余計なところが多い文章になってしまいましたが、以上です。(了)

 

note.mu

 なお、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』が差別の物語である、という事実を気付かさせてくれた文章は上記リンクです。紹介を許可してくださったモ。さんに深く御礼申し上げます。

*1: なお、シャックスの台詞修正を受けてバルバトスが「裏表がない」というのは、「外見」ではない部分についての言及であって、この場面は単に差し替えという以上に、流れに沿った優れた台詞です(私はシャックスの台詞は修正不要と感じていましたが、それとは別に、このバルバトスの台詞は物語に沿った形と考えます)。吟遊詩人、「声」の人であるバルバトスが、「外見」による差別を織り込んだジズを巡る計画を見抜くのもよく出来た流れだと思います。