メギド72『さらば哀しき獣たち』について

 メギドの月初イベントの感想を、月後半実装メギドのキャラエピを読んでから書こうとして失敗し続けた。そうするといつまでたっても書き終わらないし、そもそもメギドのイベントストーリーはイベント本編でほぼ完成している。その月の実装メギドのキャラエピがその前日談や後日談に当たることは多いものの、本筋に絡まない場合もまた多い。これは新規実装メギドの所持率を考えれば当然のことで、たとえばエリゴスBやフェニックスCのキャラエピはイベントの後日談に相当はするけれども、イベントの内容をより深めるというよりは、対象のメギドの魅力をより引き出す、という点に軸が置かれている(大きな物語はユーザー全員が障壁なく共有できるものであってほしい、と個人的には思うので、是非その方向性で進んでほしい)。
 なので、2019年10月度の『さらば哀しき獣たち』についても、本編(と、一部前日談に当たるべバルのキャラスト)の時点で十分内容としては完結しているものとして、感想を書いておきたい。

 シナリオに触れる前に、まずは初の配布メギド不在の月初イベントだった。
 これまで『紡ぎ紡がれし思い』や『届かぬ心・モラクスの願い』など、新規実装メギドなしで特定メギドの活躍を描くイベントはあったが、これは復刻するに足るイベント数がまだない運営当初、間を持たせるための幕間だったと思う。
 今回の配布メギド不在の理由は、いくつか推測される。

 まず思い付くのは(これがいちばんの妄想という気もするが)今後配布可能なメギドの枠の少なさだ。
 今現在の真メギドの残り枠数は、アバラムまでを入れて32枠であり、祖真リジェネは足しても50+66枠となる。このまま月三枠で実装を続けていくと、単純計算で50月で枠を使い切る計算になる(もちろんメインストーリーでの配布や、年末など月によっては四柱の実装もあり得るだろう)。72という数字にこだわって追加するとなれば大がかりだし、いずれにせよ準備まで時間が掛かる。やはり新規メギドが居るか居ないかは、物語を魅力付けるうえで大きいとは思う。もちろんリジェネの枠はまだまだ残っているので、今後も新規メギド1体+リジェネメギド2体のペース配分を続けていくのではないかと推測するけれども、時計を追加しないのであれば、どこかで新規メギド実装のペースは落とす必要があるかもしれない。これまでは初心者にとにかく戦力を増やすという意味合いもあったが、過去イベントを常設化するのであればその必要性も下がる。
 現在のカウントダウン形式も、見方を変えればイベントと本編の時系列整理=サイドストーリーをより自然に導入するための準備にも見える。
 もうひとつの理由として、配布メギドの加入を終着点としたとき、どうしても物語の展開が固定されがちだった。また、リジェネと新規実装メギドの物語を同時並列する難しさもあった(特にリジェネ実装直後はそれに苦戦していたと思う)。
 新規メギドの活躍を描きながら、どう既存メギドを描写していくかという課題も、実装メギド数の増加と共に(あまりそれを感じさせないのがライターの腕前とは言えるが)難易度が急激に上がっていたと思う。ひとまずはテキスト量の増加で対処出来はしても、それによるテキストの複雑化は避け難い。物語のピント合わせも、どうしても難しくなってくる。特に群像劇を意識したのだろう昨今のイベントではその傾向が強かった。一方で『死を招く邪本ギギガガス』では、既存キャラを活躍させる前半の群像劇、新規実装メギドであるフルーレティに焦点を当てた中盤、ベリトとジルの結末を描いた後半、と構造的にはっきりと整理されていたわけで、その問題意識の現れではなかったか、と今は思う。

 『さらば哀しき獣たち』においては、新規メギドの登場を省くことで、ウヴァル・オロバス・ナベリウスといった、これまでイベントに登場しなかったメギドたちの活躍を詳細に描くことが出来たし、単に新たなメギドが仲間になって終わり、では絶対に迎えられないビターな結末を描くことが出来た。
 まもなく二周年が近いけれども、メギドは現在も自分の物語の領域を拡張し続けようとしている。
 既存メギドの活躍は、コンテンツの人気を安定化させるためにも有用だ。メギドはキャラクターに愛着を抱かせることを主戦略にしている意味でもキャラゲーだし、人気のある同一のキャラばかりを集中的に取り扱うと、どうしても物語の幅が狭くなる。既存メギドの活躍を複数描ける今回のようなイベントは出来れば今後も期待したいし、その役割は十二分に果たせていたと思う。また、今回はあくまでオーブが報酬となったが、たとえば特注霊宝を含めた(比較的製作の容易な)霊宝製作書を報酬にすることも可能だろう。もちろんまだまだリジェネの枠は残存しているが、たとえばリジェネ配布と同時に特注霊宝で無印を強化するといった構成も考えられる。季節のスキンはさすがに金を取るべきだろうが、それを割り当てられた三柱の活躍を描くとか、報酬を新規メギドに絞らなければまだまだ展開は多様化出来る。もちろん新規メギドの配布を含めた実装は嬉しいし、今後にも期待したい。

 物語面について。まず今回目を惹いたのは、「言葉」という主題の取り扱いだった。
 プーパの設定については、第04話・冒頭でサタナイルに「要は言語を扱える幻獣を他とは区別している」と端的に要約されている。とはいえこの発言については、幻獣がコミュニティを作れるとは驚いた、というサタナイルとフォラスの会話に端を発している。オーク、コボルトといった単一種族ならまだしも、今回の「村」は異なる二種族から成るコミュニティであり、(実際に異種族間のやり取りがどうかは原作内での描写が乏しいし、さすがにそこまでの設定は練り固まっていないだろうと思うが)言語によるコミュニケーションは必要だったろうと思われる。
 まして、二種族の村長はべバルとアバラムを欺くために高度な演技までしているのであり、これは言語あってこそのものだろう。
 いずれにせよ、作中のやり取りを見る限り、メギドやヴィータと意思疎通出来るということは、プーパがプーパであるうえで必須の条件だろう。言語を理解されないのであれば、かつてバルバリッサが『暴走少女と一つ目幻獣の島』(復刻改稿版)でサイクロプス三兄弟を欺いたように、相手に嘘を信じ込ませることすら出来ないのだから。ただし、サタナイルのこの要約は、「扱える」であって「話す」ではないところが勘所ではないか。
 これについては、グラシャラボラスがさりげないが、重要な発言をしている。

行商人ヨンチョ
「へえ…言葉を喋れる幻獣ねえ」
グラシャラボラス
「そういう噂自体は聞いたことがあったけどよ…マジでいるとはな」
行商人ニーチョ
「そんなすごいことなのか、それ?
オウムだの九官鳥だの、喋る動物は
他にもいるぜ?」
グラシャラボラス
「オウムも九官鳥も、こっちの言葉を
真似してるだけだろ?
(…)だけど、さっきここに来たのは
自分の意志でちゃんと言葉を
喋るヤツだ」
(第02話・END) 

 「オウム」や「九官鳥」は「言葉を真似してるだけ」であり、そこには「自分の意志」がない。エンキドゥは鍵を勝手に持ち出そうとしているし、そこには明確に自分の意志がある。また、メギドラルに帰りたくないという一心で双子を欺こうとする村の幻獣たちにも、自律した意志がある。
 ただし、その前のエンキドゥとグラシャラボラスの会話には、さながら「オウム」のような同語反復が目立つ。

謎の幻獣?
「「まじ」って…なに?」
グラシャラボラス
「あ…知らねえのか?
「本当」とか「本気」っつー意味さ」
謎の幻獣?
「「まじ」は「本当」とか「本気」…
うん、おぼえた」
(……)
謎の幻獣?
「オイラ、「マジ」は幻獣なの…」
グラシャラボラス
「「マジ」の使い方おかしいぞ、それ」
(第02話・1)

 グラシャラボラスの「マジ」は「本当か」という感嘆詞に近い用法であって、「マジは幻獣」という修飾には使えない。ここで「マジは幻獣」と語ることは「オウム」のような硬直的な反復に近くて、おそらくその後の運用法を推察し、実際に正しく扱うことは「オウム」には出来ない。このグラシャラボラスとエンキドゥのやり取りはさりげないけれども、エンキドゥに「オウム」に近い側面があること、言語運用の生硬さを表している。このあとに続く「ナンコー」をめぐるやり取りも、薬は持っておくものではなく使うもの、飲むものではなく塗るものという推察の難しさを示唆している。
 両者のエピソードには、類推を含んだ検討力の乏しさが共通する。エンキドゥは自分がメギドであると嘘をつくことも出来るし、村長たちも双子を騙すことは出来る。けれども結局村長たちはチリアットの「解放」の言外の意味を疑うことも出来ないし(これは暴力による脅迫もあっただろうが)この点ではバルバリッサに吹き込まれた嘘を吟味なしにそのまま信じるサイクロプス三兄弟に近いものがあるのではないか、と思う。

 人が言葉の運用の力がもっとも試されるのは、未知の語を使うときだろう。外国語であれば文法の類推まで必要になるのかもしれないが、母国語であっても推測が必要になる場面は多々ある。「外」の語は教えられるものだ。エンキドゥ=プーパがグラシャラボラス=メギドに教えられるエピソードとパラレルに、べバルのキャラエピでは、べバルとアバラム=メギドがヴィータの孤児たちに言葉(概念)を教えられる場面が登場する。

興奮している子
「それ、「カッコイイ」だろ!
カチカチのトカゲの人形!
オレのたからものなんだ!」
喜んでいる子
「私のは「カワイイ」でしょ?
モフモフのイタチのぬいぐるみ
私のたからものなの」
アバラム
「たしかに、
カチカチで「カッコイイ」…!」
べバル
「たしかに、
モフモフで「カワイイ」…!」
(2話) 

 この「イタチ」と「トカゲ」が本編の「毛玉」と「鱗玉」に対応するわけだが、べバルとアバラムにとっての「カワイイ」「カッコイイ」はこの孤児の少年少女の教えが第一である。イベント本編でオロバスが「カッコイイ」のは「カチカチ」だからで、ベヒモスが「カワイイ」のは「モフモフ」だからだ(先に「カワイイ」「カッコイイ」の概念を知っているのであれば、ベヒモスはひとまず「カワイイ」には当てはまりづらいのではないか)。
 一方で、彼らにとっての「カワイイ」「カッコイイ」は単にカチカチ/モフモフといった触り心地のみに限定されていないし、孤児たちも3話で楽器を「カワイイ」「カッコイイ」と評する。モフモフした楽器はそうなくて、せいぜい「イカしている」ぐらいの、ファジーな意味だろう。
 べバルとアバラムもまた、「かわいく演奏したいコ/カッコよく演奏したいヤツ」と柔軟に語を運用している。
 メギドの言語運用という点で見逃せないのは「あだ名」である。具体的には、ベヒモスとエンキドゥの差異に注目しなくてはならない。エンキドゥはグラシャラボラスを「グラボス」「グラシャス」と呼び、ベヒモスはモラクスを「モーモー」と呼ぶ。この二組は、エンキドゥは直接的に覚え切れないとは語っていないものの、いずれも名前を中途で省略している、という点は共通している(モーモーについては、メギド体が牛であるのと偶然の一致はあるだろうが)。一方でベヒモスがソロモンを「ピカリン」と、あるいはナベリウスを「ワンコ」と呼ぶのは名の省略ではなく、相手の特徴を捉えた「あだ名」である。こういった創意工夫、あるいは柔軟な言語運用は、エンキドゥにはまず出来ないだろう。べバルとアバラムの「敵」や「仲間」といった語の使い方についても、やはり状況に応じた柔軟な(ファジーな)運用が垣間見える(特に、第04話・1の、エンキドゥを「仲間」にカウントする場面など)。
 生硬な/柔軟な言語運用という枠組みは、作中で繰り返し参照される。たとえばウヴァルのこの台詞である。

ウヴァル
「私はウヴァル…
「幻獣を狩ったり狩らなかったりする者」…だ」
(……)
フォラス
(混乱させてやり過ごしたが…
そもそも名前だけ言ってりゃ済んだ
話なんじゃねえかな…)
(第04話・冒頭) 

 メギド時代の記憶に乏しいウヴァルにとっては「幻獣を狩る者」こそ、わずかなアイデンティティの土台である。ウヴァルのキャラエピは、「キリングマシーン」として機械的に幻獣を狩る彼女の姿を描く一方で、プーパを彷彿とさせるような意志ある幻獣との接触と、彼女が垣間見せる「優しさ」を描いている。ただ幻獣を狩るだけであれば、それは「キリングマシーン」であり、あるいは(エンキドゥが語るように)殺し合う幻獣に近いものかもしれない。そこに少年の親友である幻獣を殺さない、という優しさが働くことで、ウヴァルに「キリングマシーン」以外の意志があることを物語る、という筋立てだ。作中でも、ウヴァルは当初「幻獣を狩る者」として村の幻獣を強く警戒しながらも、最終的にはエンキドゥを「仲間」と認める柔軟な対応をしている(これをウヴァルが口にする構成が素晴らしい)。ウヴァルがプーパからメギドになったのではないかという推測をちらほらと見かけて、根拠は検索した限りではちょっと分からなかったのだが、たしかに上記のやり取りだけを引き抜けば、エンキドゥを含むプーパに近い言語運用ではある。

 ウヴァルのキャラエピは、山の神隠しの噂を聞いた彼女が、幻獣の気配を察知して狩りに行く、というごく単純な筋立てである。
 『さらば哀しき獣たち』を踏まえて読み返すと、神隠しの元凶である幻獣が、少年の親友である幻獣の色違いなのに目が行く。もちろん幻獣の立ち絵自体が少ないのがその最大の原因だが、ウヴァルのキャラエピと本編に共通するのは「似ているようで微妙に異なる二組」というパターンである。
 冒頭のポータルを守る兵士たち、そして村に囚われたキャラバンの商人は同一人物と見紛うような双子、三つ子である。しかし彼らは外見が似ているだけで、決して同一ではない。これはべバルとアバラムが「双子」である以上に、プーパと幻獣の関係に近い。
 そしてプーパとメギドの関係にも、おそらく近い。
 オーブやプーパ/メギドの設定については、おそらく現時点での暫定的な設定という意味合いも含めて、あくまで作中人物が語るのは仮説である。とはいえそれを参照するならば、たとえばベヒモスがプーパではなくて幻獣である理由は、オロバスにこう語られる。

ベヒモス
「キボーだのソンケーだの、
勝手に押し付けんなよ…
オレはオレのために戦ってんだ」
オロバス
「あの「力」に対する欲望が…
彼に「個」を確立させたのかな?」
(第04話・1)

 欲望、言い換えれば強靭な意志こそが「個」を確立する。
 チリアットは身内であるべバルやアバラムに優しい一方で、プーパには「鬱陶しい雑草」と言い放つまで強い不快感を覚えているし、単なる幻獣以上に苛烈な扱いをしているのではないかと思う。仮に言葉の扱いが生硬であっても、「個」の確立があればメギドになるというのであれば、プーパとメギドは双子のように遠く近い(現にベヒモスはプーパからメギドになったのだから)。フォラスが懸念したように、それは家畜が突然人語を喋るような不気味さを有している。そんな状況は現実にはないから想像に過ぎないが、己が唯一言語を話し、かつそれを基盤に「個」=意志を確立する固有種である、という思い込みが崩されたとき、人は自分のアイデンティティが侵犯されるような不快さを感じるだろう。簡単に受け入れられるようなことではない。
 当時のベヒモスは「オレのために戦って」いたであって、誰かを真似て、誰かに命令されて戦っていたわけではない。
 ここで想起されるべきはエンキドゥの振舞いであって、メギドラル時代のエンキドゥの在り方は詳しくは書かれてはいないが、他の幻獣から「戦功」を邪魔する「役立たず」として暴力を振るわれる場面から察するに、命令されて動く集団の一員だったのだろう(第05話・2)。
 エンキドゥの言語運用には、単純に飲み込みの遅さを反映しているとも言えるが、「オウム」に近い模倣の側面がある。

 だからこそエンキドゥが己の危険を顧みず、身を挺してソロモンをかばう場面は意義深い。
 ソロモンは、チリアットとの対峙に際して助力を願い出たエンキドゥを、「駄目だ!下がってろ、エンキドゥ!巻き込まれるぞっ!」と退ける(第05話・4)。
 確かにソロモンをかばうこと自体は、かつて(勘違いとはいえ)ベヒモスが自分にそうしてくれた、その真似に過ぎないのかもしれない。しかし、慕うソロモン王の命令を無視してまでかばうことは、いわば命令違反だし、単なる真似ではない、自立した意志が無ければあり得ない。言い換えれば「個」である。ベヒモスが「オレのために」戦うように、エンキドゥも自分の意志でソロモンを守る。『さらば哀しき獣たち』は直接的にそこまで明言はしていないが、このときのエンキドゥは、「個」に限りなく近い。だからこそ、ベヒモスが真っ先にエンキドゥの活躍を認めるんじゃないか。
 ちょっと甘い読みだけれども、この最期の瞬間、エンキドゥはメギドに限りなく近付いていたと思う。

 テキストは相変わらず精緻で読み応えがあったけれど、今回はゲーム体験として切なさの深く残る、総合的に優れたイベントだったと思う。いつも通りといえばそうだが寄崎さんのイベント曲も素晴らしいし、あとはポースリトスが感慨深かった。イベント交換用のアイテムは毎回味わい深いチョイスで楽しみなのだが、今回のポースリトス(光る石ぐらいの意味だろう)は、色合いからしてオーブの欠片を彷彿とさせる。
 イベントの前半でフォラスとナベリウスが、オーブは幻獣の力の残滓か、あるいは幻獣そのものかと仮説を挙げ合う場面があるが、いずれにせよこの砕け散ったオーブの破片は、芽生えつつあった「個」を散らす他なかったプーパたちの命の名残を集めるようで切ない(争いを厭った彼らも、間違いなく「哀しき獣たち」の一員だろう)。ごく何気ない細部だけれど、こんなところにまで神経が行き届いていると、遊ぶ側としては非常に嬉しい。
 今年の他の傑作群に決して劣ることのない、素晴らしいイベントだったな、というところで終わりとします。