メギド72『嵐の暴魔と囚われの騒魔』秀逸なシナリオと一個のミス

 今回はメギドのシナリオ『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想、および表現面での指摘です。

A.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』が優れたシナリオである、ということを説明します。
B.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』において問題とされ得る、二点の表現の吟味を行います。

①『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は第一に優れたシナリオである――特に「敵」の表現において

 まず初めに、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』はこれまでのメギド72のイベントシナリオで最も秀逸なもののひとつであった、と主張します。特に素晴らしかったのが敵の表現です。これまでメギド72は複数のイベントを開催してきましたが、いずれも「メギドラル本編に比べてアホ過ぎない」と突っ込みたくなるほど、敵の表現については本編ほどの精彩には乏しかった印象があります。

 それはおそらく、メギド72のコストカットに由来します。メギドは基本的に敵として登場したモデルは味方キャラか(最近は少なくなってきましたが)オーブとして再利用していて、モデルの製作コストを考えれば当然のことです。
 そしてそれ故に、「今後仲間になるメギドがあまりに悪辣なことをしにくい」という制約があります。
 メギドの常套句(嘘です)のひとつに「どのツラ下げて仲間になったんだ」がありますが、たとえばデカラビアとフォルネウスはその代表例で、もし仮に彼らがイベントで登場して村人を虐殺したうえで仲間になったとしたら、プレイヤーとしてはかなり微妙な気分になったと思います。。
 『鎮魂の白百合・プルフラス』(これも傑作)におけるサタナキアは、アシュレイをめぐる情念の書き込みを以て「アシュレイを殺害しているが仕方なかった」と思わせる、巧みな描写をしています。
 四冥王はそもそもガープの仲間だし、アラストールは作中でモブに慕われてすらいます。
 カスピエル、インキュバスメフィストの三馬鹿については後述します。
 
 特に興味深いのが今後仲間になるであろうガギゾンで、イベント自体のトリックスターとして用意されたキャラクターでもありますが、実際にやっていることはメギドの範疇では案外無難で、物語の結末で罪深さが軽減されています。『上書きされた忠義』のブニが洗脳を解かれずに人格崩壊していたり、『二つの魂を宿した少年』のシャミハザがジルの魂を殺した、なんて流れがあればガギゾンはまさに「どの面下げて仲間になったんだ」で、実際にはブニは問題なく洗脳を解かれた上にブネの格好良い見せ場を作っていますし、ジルとシャミハザは大変な仲良しです。
 これは今後仲間になるうえであまりに酷い振舞いをさせるわけにはいかない、というユーザーの感情に配慮したシナリオ構成であり、それ故に今後もガギゾンの行動は基本的にヌルいことが予想されます。

 したがって、メギド72のイベントシナリオにおいては、「敵」はしばしばキャラクター性の乏しい幻獣(ドネルケバブ、古き災厄の魔女)か、やむを得ない事情で「暴走」したメギド達(アラストール、ジニマル、ブニ)に設定されている場合が大半です。最後まで正気を保って対立したのはサタナキアのみで、それも作中で殺されたかった、と心情説明が明確にされています。
 基本的にメギドの「敵」には仲間に出来るだけの「ヌルさ」が必要なのです。
 ヌルくないことが発覚しても、それは仲間になった後でなくてはならない、という原則があります。そうでなければ、仲間にする=ガチャを回させる意欲が普通は無くなってしまうわけで、それは商売の観点からよろしくない。
 そしてその制約故に、メギドのイベントは「敵」の描写に苦労させられてきました。本編のメギドラルがかなり強烈な悪意をもって行動してくるのに対して、イベントシナリオのメギドラルはどれもポンコツにせざるをえなかったのが実情だと思います。
 
 「敵」がポンコツの上で盛り上げる物語は非常に難しいです。張り合いがないから。それ故に、メギドのイベントシナリオは、しばしば「敵」の脅威に打ち勝つソロモン、というクライシスとは別の形で盛り上がりを描こうとしてきました。そして、その面倒な条件にもかかわらず、概ねメギドのシナリオは面白く書かれています(すごいです)。たとえばその代表格は物語としては誤解の解消と和解がすべての『死者の国の四冥王』で、メギドのイベントシナリオらしい、非常に穏健な出来栄えです。一方で、敵の意思が明確な『復讐の白百合』は、面白さのベクトルが(同じ感動ものでも)違ってきます。
 
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は、この「敵」の表現で極めて優れていました。ジズがヴァイガルドに追放された理由は実に陰険で、作中で描かれる悲惨な放浪の細やかな描写もあって、ぞっとするぐらい怖いメギドラルです。
 また、ソロモンでは救えない、最後の最後まで勝算が無いんじゃないか、そんな状況のスリリングさも凄まじかった(状況の危うさに匹敵するのはジニマルですが、ジニマルは「敵」が曖昧な自然現象のような幻獣であっただけに、その脅威はより強いです)。なにせソロモンが本当に「殺すしかないかもしれない」と思うところまで来ていて、それだけ「敵」の悪意が凄い。そこを成功に着地させるのがヴァイガルドの人のささやかな善意とプロメテウスの歌なのも、散々ヴィータの悪意を描いただけにグッと来ます。
 キャラクター描写のうえでも、化け物として村で虐げられていたモラクスがジズの境遇に激昂する、戦争の現実を突きつけつつ汚れ役を自ら引き受けようとするブネ、そしてバルバトス、と秀逸な要素が多かったと思います。
 ソロモン一行では打開出来ない状況(プロメテウスの幽閉)を、バフォメットという「悪」を連想させるキャラクターに解決させたのも上手い展開だし、胸糞の悪い描写をジズの放浪を通して描きながら、最後に親子再会を示唆するハッピーエンドに導きつつ、それとなくバフォメットが死者の存在をソロモンに耳打ちする、実に引き締まった終わり方です。敵の悪意の凄まじさ、そして単なるハッピーエンドではない、苦味をわずかに漂わせた終わり、この二点において、今回のイベントはメインストーリーに似たベクトルでの秀逸さがあったように思います(そしてそれ故に、化身舞踏のアレンジBGMを初めて聞いたときは難易度にかかわらずものすごく興奮しました)。
 私は傑作だと感じています。
 
②『嵐の暴魔と囚われの騒魔』と『ソロモン誘拐事件・逃亡編』について

 しかし一方で、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』においては、ハイリスクな表現があるのは確かです。
 少なくとも一個の部分においては問題だと感じます。
 
 まず私はライターの倫理観に基本的に興味がなくて、たとえばキャラクターが倫理的に問題のある発言をしたからといって、ライターの倫理観に問題がある、という思考の型については同意しません。
 そもそもメギド72は「クズ」も容認する「多様性」をテーマに組み込んでいるので、実は「全てのキャラクターは正しく倫理的な言動をすべきだ」という前提が強い場合は、メギド72のシナリオはかなり受け入れ難いものになり得そうなものです。しかし実際にはそうではなくて、そういうタイプの批判をする人でもメギドはある程度楽しくプレイ出来るようなシナリオになっています(多様性か)。

 実はそれもそのはずで、メギドのメインキャラ、つまりユーザー全員が読まずには居られない部分のキャラの発言においては、基本的に無難な発言しかしていません。口の悪いバエルも実際大したことは言っていないし、シャックスも味方やプレイヤーの感情を強烈に踏みにじるような発言は基本的にしていなかったはずです(このあたり私はシャックスの言動に強く注意するほうではないので、もし違っていたら教えてもらえると大変ありがたいです)。
 メインシナリオに登場しないデカラビアやフォルネウスといったキャラクターも、基本的にソロモンに対しては(過剰なぐらい)友好的ですし、フラウロスについても同様です。
 このあたり、実はメギド72には、

①倫理的に問題ある発言(現実のプレイヤーを含めて他人を傷つけるような言動)はしない
ヴィータ=プレイヤーの倫理的感性とは異なるが、それが自然と思わせるようなキャラ描写・説明がある
③対外的にはかなり問題があるが、少なくともこちらに向ける言動ではヴィータ=プレイヤーの神経を逆撫でしない

 という三パターンに分かれた発言の型があります。フォルネウスがキャラストで邪悪なシムシティのついでにソシャカスを揶揄するような邪悪な集金システムとか始めたら最悪です(メギドのガチャは無難な範囲ですが)。
 また、破滅的な状況に陥っているヴァイガルドでは、本シナリオのような陰惨で非倫理的な事態が起きるのはごく自然なことです。メギド達が同じように非倫理的な言動を繰り返すのでは救いがなくて、むしろそのような環境であるからこそ、彼らが倫理的に問題ない、人を傷つけない言動を遵守することは、一定層のプレイヤーにとっては重要なのだろうと思います。だからこそメギドがいちばん注意深く取り扱っているのは「クズ」です。彼らは多様性を担うキャラクターとして当然非倫理的な言動をしなければならない。けれどもそれが現実のプレイヤーに不快感を抱かせることは避けたい。
 この微妙に難しいラインを、メギドのクズは強いられています。

 それがもっとも難しかったのが、おそらく三馬鹿だったと思います。フォルネウスがヴィータの救済は死しかない、と言ってもそれは所詮他の村のモブの悲惨な事件であって、プレイヤーを直接傷つけるような言動はありません。それに対して三馬鹿は物凄く取扱いが難しいキャラクターで、「女性を利用する対象としか見ていない」なんて強烈な設定を与えられているからです。性的搾取を常態にしてるWD配布キャラっていくら多様性でもチャレンジがハイリスク過ぎるだろ。しかし実際にはこの設定は、

①カスピエルは仲間になった瞬間にソロモンに異常に執着し、過去のアーバインへの思慕を見せる
インキュバスには小学生のようなアホな言動を繰り返させる
メフィストはキャラストでハーゲンティとシャックスと仲良くする
 
 この三点で毒抜きが試みられています。この三人のなかで一番性的搾取を露骨にしているのは手段が見えないカスピエルではなくインキュバスだと思うのですが、個人的にはカスピエルのほうがその印象は強いです。カスピエルの変わり身はあまりにメチャクチャですが、実際にソロモンへの執着無しで「もっと女がひっかけやすくなった」とか「どの女を使おうかな」といった言動を繰り返しているとなると、使うのに抵抗の強いプレイヤーは居て自然だと思います。言動ではカスピエルのほうが強烈だけれども、手段としてはインキュバスのほうが露骨である。仮に嫌われるとしても一人にヘイトが集中しないような仕組みにもなっているんじゃないかと思います。

 毒抜きがうまく出来ているかどうかはともかく、少なくともそうした試みがありそうだ、ということです。その毒抜きがされていない、ファーストコンタクトとしてのイベントストーリー『ソロモン誘拐事件・逃走編』に一部から賛否両論があったのは確かですし、女性を操って盾にする展開に一部のプレイヤーが傷つくリスクがあるのは否定出来ません。何故ならそこに描かれているのは、どうしようもなく単純な性的搾取だからです。更に言えば、インキュバスに対応するサキュバスが男性を搾取するような描写が無かったのもあるかもしれません(じゃああったら良かったかと言うと私は嫌です)。

 非常に長い前置きになりましたが、では『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のハイリスクな表現を確認します。
 リスクとは、人を傷つけ得るリスクです。
 
③『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のハイリスクな表現――しかしそれがすべてではない
 
 批判を受けていた描写は、見た限り2点です。
 うち1点は訂正したほうがいいだろう、と思います。そちらを先に挙げます。

 A.

 ジズを召喚した直後の会話です。

 シャックス: 
 でもでもー
 耳とかしっぽは
 そのままなんだよねー?

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 マルコシアス
 大丈夫ですよ、
 すごく可愛いですから!

 モラクス:
 でも年取ったら、ヤバくね?

 マルコシアス
 そ…そのときはそのときです
 周りがキツくなってから、
 対策を考えましょう。 

 これは確実にハイリスクだと思います。猫耳は先天的だ、とジズが説明しているにもかかわらず、モラクスの「年取ったらヤバくね?」を受けてマルコシアスが「周りがキツくなる」と表現する。要するにマルコシアスの発言は後天的につけるアクセサリーとしてわざわざ変換しているうえで、そのうえで加齢と「キツイ」を組み合わせ、しかも人によってはギャグと取りかねない小休止でやっているので、エイジズムと読まれても言い訳が出来ない。
 つまり「年甲斐もなくそんな恰好をして」という抑圧を連想させるわけです。
 モラクスが「周りがキツくなる」と考え無しに言うならまだしも(脳筋の範疇として無理に考えられなくもないので、ただモラクスは無思慮ではないと思うのですが)マルコシアスにこれをやらせるのは猶更わからない。
 そして別にここの発言はさして会話において重要な部分でもないわけで、「あってもなくてもどっちでもいい部分」で「ハイリスクな言動をさせる」のはやはりリスキーです。
 裏返せば、この部分は消したところでさして会話に影響がないので、消したほうが無難だと思います。

 それによってキャラクターの描写が色褪せるとか、そういうデメリットも感じられません。
 
 次を批判を目にしたものの、これに関しては問題としてのリスクは感じなかった、という描写です。
 ただし別の問題は感じます。具体的には、シャックスの取り扱いの難しさです。

 B.
 4章3節ジズが荒野にてソロモン王と対話するのを、仲間たちが見守る場面です。

 マルコシアス
 うまくいきそうですね! 
 ソロモン王1人で
 接触させる作戦は成功です!

 シャックス:
 さすがモンモン、
 やるもんですなー!
 子供をさらうプロになれるネ!
 
 バルバトス:
 なんて人聞きの悪いことを
 言うんだキミは…

 この「子供をさらうプロ」はシャックスの非倫理的言動です。もっともこのあと、マルコシアスの「初対面の人よりも、見たことある人のほうがいくらか警戒心は和らぐはずです」という「悪魔狩り」の経験で得た発言について、バルバトスが「その発言、よく考えると逆に怖いんだけど……」とコメントしています。
 マルコシアスが意味する悪魔狩りとは、追放メギド、つまり同胞を狩っていた経験であり、そのときに「見たことある人」としてある意味騙し討ちに近いことをした。だからこそバルバトスは「怖い」発言だと認識しているし、「子供をさらうプロ」は勿論「人聞きの悪いこと」であり、このマルコシアスの騙し討ち共々「怖い」ニュアンスのうちに含まれる、と読みます。
 シャックスの非倫理的な言動は、作中において非倫理的であると、はっきり説明されています。
 そもそもシャックスは元々爆弾発言をするキャラクターだし、唐突なものとも感じません。
 この「子供をさらうプロ」はエンディングで反復されます。

 シャックス:
 さっすがモンモン、
 やるもんですなー!
 子供をさらへぶぅっ!?
 
 バルバトス:
 …キミ、少し空気を読みなさい

 ここでもバルバトスは倫理的にシャックスを戒めているわけで、「非倫理的な軽口を放つシャックス」「倫理的に諫めるバルバトス」というごく自然な描写をされていると思います。この場面でのシャックスにこう言わせることに、少なくとも消したほうがいいメリットは私は感じません。子ざらいという人権を蹂躙するような行為を軽口で放っているのは問題だと指摘は出来るかもしれないけれども、腐ったフォトン袋の時点で十分非倫理的では。
 
 実はこの描写が問題視されるのは、そもそもシャックス自体の扱いが非常に難しいことにあるんじゃないかと思います。トラブルメーカーの鳥頭設定がある以上、シャックスがプレイヤーに向けて活躍出来るのは「予想外の、だれにも出来ない発想」をする場面が第一なのですが、このパターンは書き方が硬直しがちなので繰り返し使いにくい。
 もっともジズは人によっては扇情的なキャラクター造形には見てもおかしくはないので(あんな悲惨な境遇を見て扇情もへったくれもあるかとは思いますが)そこと「人さらい」は厳しいマッチングではあるかもしれません。
 そこに性的搾取、のようなものを読むことは可能、なのかもしれない。でも一般的ではないんじゃないかな。

 基本的にメインシナリオはずっと状況が緊迫しがちなので、シャックスが間を抜けたことを言った程度では空気が緩んだりもしない。鳥頭! って連呼される描写が続くのは多少は仕方ない気もします。モラックスだー!! なんて秀逸な描写はあるけども、「実は学生で頭がキレる」という設定と鳥頭設定の食い合わせがかなり悪い。不憫です。
 なんか、普通にシャックスが誰かを思いやるような話とかメインストーリーとかでもっとないかなあ。出来なくない気がするんだけども。今のままだと、非倫理的な言動だけが持ち味になっている、と受け取る人はいそう。
 私はシャックスが推しではないけれど、人によってはつらくなっても仕方ないかなあ、と思います。
 
 私が確認する限りでは『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のシナリオを批判可能な点はこの2点に限られると感じます。
 Aは確実にまずい。でもBはシナリオではなくてキャラクターの活用法がまだ模索され尽くしていない、という印象を受ける。したがって、後者についてはこのシナリオに限ったことではなくて、このシナリオ単体だけでは修正が困難な問題です。一方前者は修正(削除)したほうが確実にメリットがある。

 なぜこんなオタクの「お気持ち」を連想させるような七面倒くさい文章を書くかというと、まず何より『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は優れたシナリオだからです。私はこれまでで一番の傑作だと思っています。それを、こんな簡単に削除出来るようなミスひとつで「シナリオに問題がある」などと言われるのは、正直かなり残念です。
 勿体無さすぎる。そんな批判で簡単に崩れるようなシナリオであるはずがありません。あっていいわけがない。

 本当のところを言えば、部分ひとつの間違いで全体全てを批判するのは、物事の吟味としては問題があると感じます。一方で、大まかには問題がないからといって、細部の問題に目を閉じるのもそれは違う。
 Aの描写は迂闊です。非倫理的な言動をするときは必ず注意を集中させているメギド、らしからぬミスだと言ってもいい。でもそれがすべてではない。Aの描写は、シナリオ全体を称賛するにしても、私は削除すべきだと思います。
 でもそれがすべてではない。そのごく僅かな部分を削除したところで全体が台無しになるわけではない。そこさえ無ければシナリオとしては本当によく出来ているのだから、さっさと消してしまったほうがいい、と感じます。
 
④リスクの意識は本筋よりもむしろ細部において重要なのかもしれない

 ここまでがあまりに長過ぎたので、最後は軽く終わらせます。
 今回『嵐の暴魔と囚われの騒魔』で問題になったのは「年甲斐もなくそんな格好をするのはおかしい」とよくある抑圧で、場合にもよるだろうけれど、人を傷つけ得る言動として取り上げられても不自然ではないと思います。
 私はそういう言動で傷ついた記憶はないけれども、それで傷ついた人がいるのは想像出来る。
 人が問題視する言動のひとつは過去の傷を再現し得るものです。もちろんそれ以外に、「理不尽な抑圧」を共通項として括って反応する場合もあるだろうけれども、そうしたハイリスクな表現が、本筋ではなくて細部でされる場のダメージは一般に大きいような気はします。
 女性の性的搾取をメインに露骨に打ち出したコンテンツは、そういうのが無理な人は受け取らないほうが自然でしょう(もっとも広告の問題はあります)。そういう見た目をしていなくて、唐突にそれが飛び出してきたとき、傷の再現は起こりやすくなる。それが本筋であれば、人は完全に拒絶することが出来る。また本筋ならそれなりの救済が来る場合も少なくありません。今回のシナリオで虐待のトラウマが惹起された人はいるかもしれないけれど、それはある程度物語の結末で救われるんじゃないか、ではもちろん、あまりに甘くて無神経だとは思うのですが。
 でも不用意な細部ではそれは難しい。だから、細部に傷が呼び起こされたとき、人はそれを救い得ない全体を急激に否定するのかもしれない。なら、それを「読解力がない」とか「問題の一部でしかない」とかいう気にはなれない。

 ともかく不用意な細部はハイリスクだと感じます。昔読んだ文芸の小説で、義理の兄に性的虐待を受けて妊娠した女性が、そのレイプに快感を覚えていた、と手記に記述している場面があり、これはちょっとどうなんだ、と感じたことがあります。オタクコンテンツに限らず、傷の惹起が生じやすく、また注意を払うべきは、本筋ではなくて細部なのかもしれません。
 長くなりましたが、以上です。