雑記

おもに調べ物のまとめです。

メギド72 『見習い女王と筋肉の悪魔』には何が書かれていたのか

 『見習い女王と筋肉の悪魔』お疲れ様でした。今回のイベントシナリオについては、特にウァプラのキャラ像をめぐって活発な議論を見ました。私も議論や感想のいくつかを読ませていただいて、あらためて『見習い女王と筋肉の悪魔』を再読する機会になりました。

 

 いくつかの感想にもある通り、たしかに粗やわかりにくさはあるテキストだと思います。ただ一方で気になったのは、そうした感想には、原作に確かに書かれているはずのことが、あたかも書かれていなかったように記載されているものがいくつかある、ということです(逆も然りです)。原作との解釈違いは他人の自由で、他人の感想はどう書こうが自由なので、その感想にケチをつけるのは根本的には暴力的な行為です。ただ、そうした文章がインターネットで流通するなかで、(ややダーティな手段を使わなければ)再読出来ないシナリオについて誤った事実を書いているのだとしたら、ちょっとどうなんだろう、とは思ってしまいました。今回読まなかった人は検索したらそうした感想が最初に目につくわけだし、また読んだはずでも「あ、そういう話だったんだね……」という認識が広がっていきます。

 

 誤った事実とは、「書かれていたこと」が「書かれていなかったこと」になっている、あるいは「書かれていなかったこと」が「書かれていたこと」になっている、ということです。ただし、そのような誤認が誘発されてしまうのには、やむを得ない事情もあると思われます(後述します)。
 とはいえ、原作に書かれているはずのことが書かれていないことになり、書かれていないことが書かれていることになってライターが批判される事態は、私個人としてはちょっと思うところがあります。ですので、ひとまず『見習い女王と筋肉の悪魔』を再読し、特に読み落とされているのではないかと思われる部分について、二箇所だけ補記しておくことにします。

 

 第一は、イベントで描かれたウァプラの家畜への考えはどのようなものだったのか、というものです。
 具体的には、食肉は是であり、酪農は否であるというウァプラの考えが語られている場面について、読み返しておきます。
 第二は、ウァプラは牛を野に放とうと提案したのは、どのような場面であり、かつ、どのような考えであったか、というものです。

 

 実際には、粗がやや目立つとはいえ、『見習い女王と筋肉の悪魔』は語るべき部分が多いテキストだと思います。
 ただ、たとえば「ウァプラがザガンと闘牛をめぐる対話で沈黙するのはなぜか」とか、「なぜ物語のハッピーエンドが牛乳で結ばれるのか」あるいは「なぜウァプラの物語が、女王候補、そして理術研究院の計画についてのエピソードと共に語られるか」については、まずは原作に書かれたことを再確認したうえで書こうと思います。それだけの慎重さは必要になるテキストで、でなければこれほど活発な議論は置き得なかったからです。
 したがって、先にこの二箇所について書いておきます。

 

 この文章を読んだ方は、何らかの手段で原作の再確認をしていただけると嬉しいです。
 結局、他人の眼に物事の解釈を任せるより(たとえば「これは6章2節とのキャラ像にズレがあり、外注の弊害だ」とか「こいつが言っているからたぶんそうなんだろう/そうじゃないんだろう」とか)自分で読み直すのがいちばんだと思います。

1.ウァプラはなぜ食肉を許容し、酪農は許容しなかったのか


 ウァプラが「食肉」は許容するけれども、一方で「牛乳」は飲まない、すなわち酪農は許容出来ないのは何故か、そうした自然保護精神に一貫した理由を読み取りづらい、との感想を見ましたので、こちらについて確認します。
 まずウァプラが「食肉」について語る場面は次の通りです。

 ウァプラ
「…あの牛は、家畜だ」

ウァプラ
「本来、自然にあるべき動物を捕らえ
自分たちに都合のいいように囲う…
アレはヴィータのエゴの象徴だ」
 
(……)

バルバトス
「…ひと口に家畜と言ってもいろんな種類があるじゃないか
あの牛は見たところ乳牛だろ?
だったら殺されるために飼われてるってわけじゃない
キミがそこまで嫌悪するようなことじゃないと思うけど…?」

ウァプラ
「…そんな屁理屈はどうでもいい
家畜を飼うヤツはおしなべてクソだ」

バルバトス
「だけどキミだって肉は食うだろ?
家畜はダメで、それはいいのかい?」

ウァプラ
「…それは生物として正当な手段で正当な獲物を得ているだけだ
家畜を食い物にするのとは違う」

 食肉はするが牛乳は飲まないとは、「食肉」は許容するけれど「乳牛」の飼育すなわち酪農は容認出来ない、ということです。ウァプラが食肉を許容するのは「生物として正当な手段で正当な獲物を得ている」からです。「正当な手段」とは、この場面で直接的な記載はありませんが、自然に思い当たるのは「狩り」でしょう。リジェネレイトのアジト内台詞でもウァプラは「俺も狩りくらいはする…だがそれは食うためだ」と発言していますから、これはやはり「狩り」と考えて問題ないはずです。

 

 「正当な手段で正当な獲物を得ている」食肉=狩りが容認され、「自然にあるべき動物を捕らえ自分たちに都合のいいように囲う」酪農が容認されない精神は、果たしてどういう論理=倫理のもとに成立しているのか。もっとも参照しやすいのは、6章2節のアンチャーターに対するウァプラの態度、そしてウァプラ自身の言葉です。苦渋の末、アンチャーターの機能停止を選んだ(というより選ぶしかなかった)ソロモンが、ウァプラに問います。

ソロモン
「…俺、間違ってないよな?」

ウァプラ
「フン、知るかよ
ただ…いいか
…「ただ、そうできるから、する」
命ってのは、みんな、そうなんだ
そいつはテメェも含むんだぜ
道理とか正義とかをふりかざして
なにかを滅ぼして当然だなんて、
テメェが思わなかったのは…
…悪くなかったと思うぜ
命の在り方からはみ出すな
あらゆるものに敬意を払え
俺にとって「そうではないもの」は
悪だからな、覚えとけよ」

 ウァプラにとっての「悪」とは「命の在り方からはみ出」し、「あらゆるものに敬意を払」わないものです。
 「命の在り方」とは、「そうできるから、する」というアンチャーターの言葉を引き継いでいますが、これだけではまだわかりません。
 この「命の在り方」がより具体的に書かれているのは、ウァプラがアンチャーターの「在り方」に憤りを覚えた場面です。

アンチャーター
「私という存在の持つ機能は、
私自身の存続を根底から否定するものなのだ」

ウァプラ
(やっぱり、か…ようやく納得したぜ
こいつにムカつくんじゃねぇ、こいつ自身にはどうしようもねぇってことがムカつくんだ…!)

アンチャーター
「この世界で起動し、生き延びられる限り私は自由を謳歌できる
ただの模倣かもしれないが、「生きる喜び」というものが私にもわかる
誰も傷つけることなく生存を「積み重ねて」いくことは単純な喜び…達成感があるのだ
(…)そこに意味があるかは、私には「わからない」
ただ、そうできるから、する
(…)ヴィータに擬態し、彼らの中に紛れ、平穏に暮らす
「善意」を模倣しながら」

 アンチャーターの運命の何が「どうしようも」ないのか。それはアンチャーターの機能が彼自身の生き続ける世界を破壊することであり、彼の死こそが世界を崩壊から救う唯一の手段だということです。「ただ、できるから、する」とは、すなわち「自由を謳歌」し、「誰も傷つけることなく」「生存を積み重ねて」いくことです。とりわけ重要なのは、「誰も傷つけることなく」すなわち、他者の生命の在り方を歪めない、ということです。
 アンチャーターの不条理とは、まさに自身の機能が「ただ、できるから、する」自然な己の命の在り方を歪めるところにあります。

 「あらゆるものに敬意を払え」とは何を意味するのか。ソロモンが「道理とか正義とかをふりかざ」さなかったことは少なくとも「悪くなかった」のであり、それを受けての説明であることを踏まえれば、これこそが「敬意」に相当するのでしょう。では、なぜソロモンは「道理」や「正義」を「ふりかざ」せなかったのか。世界を滅ぼすことがアンチャーターの本意でないことを知り、一同が衝撃を受けた後の場面を確認します。

アンチャーター
「キミたちが、私に自殺しろと言いたいのはわかる」

ラク
「いや、そんなんじゃっ!! ねえ…けどさ… たぶん…」

アンチャーター
「だが実際にこうして、私は倒されたわけだ
指摘どおり、もう機能停止も近い
(……)…それとも、私を見逃してくれるのか?
これから起動する別のアンチャーターたちも、そのままにしてくれるのか?」

ソロモン
「…………
ごめん、それはできない
俺はただ、これを俺たちの「意思」でやるって…
…道理とか、正義とかで、
アンタが「死んで当然」だって、
そうは言いたくないだけなんだ
ごめん…」

 「死んで当然」と「言いたくない」のが「意思」であり、「死んで当然」と主張するのが「道理」や「正義」です。この二つを対比するとき、前者こそウァプラにとって「悪」に近いものなのでしょう(原文の言い回しは「意思」を示したソロモンこそ「悪くなかった」ですが)。
 なぜならばそれは、「生きる喜び」を日々積み重ねる、アンチャーターの「命の在り方」をこそ否定するものだからです。その「命の在り方」を認識したうえで、「ごめん」と、その命を終わらせる責任を引き受けること。それがソロモンの「意思」であり、倫理であり、「敬意」です。「あらゆるものに敬意を払え」というウァプラの言葉は案外意味がつかみにくいのですが、ソロモンのここでの態度を読む限りでは、あらゆる生物の「命の在り方」を尊重し、(ここまでは書いていませんが、たとえば食肉のように)仮にその命を終わらせるのであれば、相応の責任を引き受けること、を意味します。

 畜産がウァプラにとって悪というとき、「自然にあるべき動物を捕らえ、自分たちに都合のいいように囲う」「ヴィータのエゴ」こそが悪なのです。なぜならそれは、動物の「自然にあるべき」在り方を歪めているからです。「敬意」とは生き物を殺すか殺さないかといったことではありません(それは狩りを容認する点からも明らかです)。あるいは「誰も傷つけることなく」とアンチャーターが語るとき、それもまた生き物を殺すか否か、の意味ではありません。なぜならこの発言は「ヴィータ」の「中に紛れ」たときの意味だからです。「ただ、そうできるから、する」命の在り方=すなわち「自然にあるべき」在り方を尊重することが「敬意」であり、だから、このときのウァプラにおいては、畜産とは「あらゆるものに敬意を払え」という倫理から逸脱した「悪」なのです。

 

 『見習い女王と筋肉の悪魔』のウァプラに「自然保護精神」を見出そうとしたとき、実はイベントのテキストには明確にその「自然保護精神」は書かれていません。ここに書かれているのは「ウァプラにとって何が許容し難い悪なのか」であり、それが「家畜」であるということです。
 ウァプラの「自然保護精神」が理由を以て語られているのは6章2節のこの場面かと思いますが、私にはイベントのバルバトスとウァプラの問答は、「ただ、そうできるから、する」すなわち、自然な命の在り方を重視する6章2節のウァプラの論理を、そのまま引き継いでいるものと思われます。
 なぜ「狩り」は「正当」なのか。6章2節の議論を敷衍するならば、獲物の命に「敬意」を払い、命を終わらせるに際して、相応の責任を引き受けているから、と読むことは可能です。「生態系」からいって上位のものが下位のものを捕食する、という推察も可能ですが、それについてはイベントシナリオおよび6章2節に相当する記述は見当たりません。ただし、畜産は明瞭に悪と断じられていますが、「正当な手段で正当な獲物を得ている」「狩り」が「悪」でない理由は本文内では記載が希薄であるのも確かです。これについては、家畜が主題故に詳説する必要がなかった、と判断は可能です。

 

 まとめます。 
 
1.ウァプラが食肉を許容し、酪農を許容しない理由は、イベントシナリオでは前者が「正当な手段で正当な獲物を得ている」後者が「自然にあるべき動物を捕らえ自分たちに都合のいいように囲う」ものであるからとして、バルバトスの問答で語られている。
2.その「正当」か否かを判断する評価基準については、イベントシナリオ内に読むことは出来ない。ウァプラにとって何が「悪」か否かの判断基準は、6章2節で記述されている。それは自然な「命の在り方」を尊重せず、「都合のいいように」歪めるものであり、畜産はこれに該当する。
3.食肉すなわち「狩り」が「正当」である理由は、6章2節の議論を引き継ぐのであれば「敬意」や「責任」を伴う行為として許容されていることが推察されるが、実際に「狩り」に対するウァプラの態度を描いた箇所はイベントシナリオ内になく、その許容理由については推測の域は出ない。

2.ウァプラの牛は「野に返せばいい」について

 ウァプラがマルチネの牛を「野に返せばいい」と発言したことについては多くの議論を呼んだようです(たとえばメギドポータルのこの議論が参考になります)。感想のなかには「冗談」とするものもあれば、もっと過激なものだと、無条件に家畜動物を「野に返」そうとした、と取るものもありました。
 確かにウァプラは「野に返せばいい」と原作内で発言しています。では、実際にウァプラがマルチネの牛を「野に返」そうとしたのはどういう場面であり、本当に牛を野に返すことを検討していたのか確認します。結論から言うならばウァプラはマルチネの牛を「野に返」すことを検討していますが、ただしそれはある条件下において、です。無条件に野に放とう、というものではありません。

 まず、ウァプラがマルチネの牛を「野に帰」そうとする場面は二回あります。

 先に「野に返せばいい」と発言したほうから読み返します。マルチネが王都の密偵に誘拐されたことが判明し、王都に救出に向かおうと話し合う場面です。同行しようとするソロモンに、ウァプラは森の動物を数多く殺している「獣殺し」を看過出来ない以上、ソロモンは自分と再び森を捜索すべきだ、と主張します。それに対するザガンの反論はこうです。

ザガン
「ちょっと待ってよ、ウァプラ…
マルチネが戻らなかったら、
この牧場の牛くんはどうなるのさ?」

ウァプラ
「野に返せばいい」

ザガン
「本気で言ってるの?
一度、人と共生した牛たちが、
すんなり自然で暮らせると思う?」

ウァプラ
「…………」

ザガン
「キミが家畜を認めないのは自由さ
でも、必ずしも自然で暮らすことが
動物たちの幸せとは限らないよ?」

ウァプラ
「じゃあ森の動物だったら無残に殺されてもいいってのか?」

ザガン
「そ、そういうわけじゃないけど…」

 議論の流れは、最終的にバルバトス単独で王都に向かい、残りの面子で森の再捜索へ向かう結論に至ります。この後、バルバトスが王都までの道のりで獣殺しに殺害された幻獣の死骸を発見したため、獣殺しが森を出た可能性があるものとして、引き返してソロモンに報告します。
 一旦別れたパーティは、王都に獣殺しが向かっているものと推察し、合流して王都に向かうこととなります。

 

 ここで確かにウァプラは「野に返せばいい」と答えています。それに対するザガンの返答に沈黙しつつ、「じゃあ森の動物だったら無残に殺されてもいいってのか?」と問い返し、ザガンの言葉を詰まらせます。ここで問われているのは、「マルチネを救い(=牧場の牛を家畜として生かす)森の動物が無残に殺されるのを見過ごすのか」「マルチネを見捨てて(=牛を野に放ち)獣殺しを倒すことで森の動物の生命を守るべきか」という二項対立です。
 ただし、この二項対立はかなりわかりにくいものです。また、この場面の議論は、そもそもザガンの発言が不自然です。
 どう考えてもマルチネを見捨てることは出来ないし、動物でなくともヴィータに危害を加える可能性も大いにあるわけですから、いずれにせよ獣殺しを看過することもできません。であれば、自然とマルチネ救出と獣殺し捜索にチームが分かれるはずで、なぜザガンがウァプラが「ソロモンは森の捜索に向かうべきだ」と発言したとき、即座に「それでマルチネが戻らなかったら」と仮定の話したのかはよくわかりません。人さらいがヴィータで、獣殺しが幻獣なら、ソロモンが同行すべきは当然後者のはずです。だからバルバトス単独で王都へ救出に向かおうとするわけです。
 だから、そもそもこの議論自体が巻き起こること、すなわち二項対立自体が奇妙です。どちらも見捨てるわけにはいきません。
 加えて、この場面の条件節は、繰り返しますが非常に複雑な書かれ方をしています。 

 

・マルチネを救う→森の動物を見捨てる+牛を家畜のままに留め置く
・マルチネを救わない→森の動物を救う+牛を野に放つ(→「人と共生した牛たちが、すんなり自然で暮らせ」ることはない→死ぬ可能性が高い)

 

 ただし、「野に返せばいい」は「動物にも権利がある、だから無条件で野に返すべきだ」ということを頑なに主張しているわけではありません。
 むしろ実質的にここで問われているのは、「マルチネを救うことで、牛を生かし、森の動物を見捨てるのか」「森の動物を救うことで、牛を殺し、マルチネを見捨てるのか」という対立です。ここは非常に誤解を招きやすい場面です。そもそも二項対立とすべきかは微妙ですし、ウァプラが畜産にそもそも反感がある、という描写がさらに場面を読み取りづらくしています。

 

 ウァプラが牛を野に放とうと検討するのはこれが二回目です。ウァプラが「野に返」す考えについてこれと別の形式で語っているのは、マルチネの牧場を最初に訪れる、一番目の場面です。第一話で一行がマルチネの牛を幻獣から救った後、ウァプラがマルチネを自分でワッカ村に送り出すと言い出します。ブネとバルバトスが「まさかアイツ…村まで言って牧場の牛を全部逃がす気じゃねえだろうな…」「やりかねないかもね…家畜という概念を嫌ってるみたいだから…」と懸念を示します。ウァプラとザガンが、マルチネをムッカ村に送ったその次の場面です。

ウァプラ
「おい…戻るぞ」

ザガン
「ウァプラ…キミ、なにしに来たの?
マルチネと話をするわけでもなく、勝手にどっかに行っちゃうしさ…」

ウァプラ
「…牧場を見て回ってた」

ザガン
「牧場を? なんで?」

ウァプラ
「この牧場の環境が許しがたいほど劣悪だったら…
牛たちを逃がしてやろうと思ってな」

ザガン
「やっぱりそんなこと考えてたのか…
でも、それをしなかったってことは
問題はなかった、ってことだね?」 

 この場面は何気なく書かれていますが、複雑な記述です。
 第一にウァプラは間違いなく「牛たちを逃がしてやろう」と考えていた。ただしそれは「この牧場の環境が許しがたいほど劣悪だったら」という条件付であり、無条件に牛を放つようなものではありませんでした。
 この条件の有無は微妙なようで、とても大きなものだと思います。
 そもそもウァプラはムッカ村の領主なのですから、統治力がどの程度あるにせよ、家畜をいかなる条件下でも許容出来ないのであれば、そもそも畜産を禁ずるぐらいは出来たでしょう。最初に引用したバルバトスとの対話で語ったように、「本来、自然にあるべき動物を捕らえ自分たちに都合のいいように囲う」「ヴィータのエゴの象徴」として家畜を見なしているけれども、ただしマルチネの牧場は「劣悪」ではなかった。両親に先立たれ、人手不足はあるけれども、そのなかで十分に管理をしていた。故に「嫌悪」は残るが、それを「許容」することは出来る、ということです。

 ただし、ここでは牛を野に放つことで果たして野生環境で生きていられるのか、という議論はされませんし、そもそもウァプラが家畜動物を野に放って問題ないのか把握しているかどうかは本文中からは読み取れません(もっとも知らないわけがない、と個人的には思うのですが)。


 「劣悪な環境で虐げられているよりは、たとえ死の可能性が低くないにしても別の環境に生きる選択肢を与えたほうがマシだ」ぐらいの発想はあるかもしれません。また、仮に牧場で牛が虐げられていたとすれば、ウァプラが何の行動も起こさないとは考えられません。ウァプラの使用人はディオひとりであり、慢性的な人手不足なのですから牧場を自身で管理することは現実的ではありませんが、他の選択肢のひとつに「野に放」つことは含まれるでしょうし、あるいは牧場主の処罰や、管理者の強制変更を検討するかもしれません。ただ、いずれも推測の領域を越えません。
 
 メギド72のテキスト全般に言えることですが、こうした複雑な情報を非常に少ない語数で書くところがあります(しかも、きわめて平易な言葉で)。ソシャゲのテキストなので当然読み易い。それはUI上語数が絞られていることとも無関係ではないのだけれど、故にちょっと立ち止まって読まないと、読み逃す情報というのはあるのだろうと思います。いずれにせよ、この二つの場面のウァプラは、無条件に(言い換えれば、考え無しに、いかなる条件も考慮せず)牛を野に放とうとした、というわけではありません。一方で「冗談」でそのように発言したわけでもありません。

 

 何故ウァプラが無条件に牛を逃そうとしたのではないかと誤解が起きたのか。それはブネとバルバトスが「まさかアイツ…村まで言って牧場の牛を全部逃がす気じゃねえだろうな…」「やりかねないかもね…家畜という概念を嫌ってるみたいだから…」と懸念を表明しているからです。ここがミスリードというか、「牧場の牛を全部逃がす」かと思いきや、という話運びになっている。ただ、テキストをさらりと読み飛ばすと、おそらく「この牧場の環境が許しがたいほど劣悪だったら」という条件の記述よりも、ブネとバルバトスが懸念を示していたシーンのほうに意識が強く残るのだろうと思います。
 
 二つの場面に共通するのは、「牛を野に放つ」というとき、いずれも条件節が設定されているということです。
 牧場の場面では、「マルチネの牧場が十分に牛を管理できていなければ、牛を野に放つ」。
 マルチネ誘拐後の場面では、「それで森の生物が助かるのであれば、(マルチネを見捨てて)牛を野に放つ」。
 
 いずれにせよ、ウァプラが留保なしに牛を野に放とうとした迷惑な自然保護キャラというのは、事実誤認に近いと思います。第二の場面でウァプラはここでザガンに論の弱点を指摘されていますが、一方でザガンもまた持論に森の動物への視点が抜けていることを指摘されているのは、しばしば見落とされています(ウァプラがザガンに自論の誤りを一方的に指摘され、論破される、というような議論の流れではありません)。

 非常に煩雑になりましたので、まとめます。

1.ウァプラは牛を「野に返せばいい」という発言をしており、実際に牛にその検討をする場面は本文中に二度ある。最初の場面では「牧場の環境が劣悪であれば牛を野に返すべきだ」二番目の場面では「森の動物を見捨てるぐらいなら、誘拐されたマルチネを見捨て、牛を野に放つべきだ」という主張であり、いずれにおいても「野に返す」うえでは条件留保がある。無条件に野に返すことを主張したわけではない。
2.二番目のザガンとの対話では、ウァプラとザガンはいずれも相互に論の弱点を指摘しており、ここに正否の差はない。
 たとえばウァプラが間違っており、ザガンが正しいというような読みを導くことは出来ない。

3.物語を結ぶ「牛乳」と、ウァプラのリジェネレイトについて

 かなり長々文字数を割いたわりに、ここまでの文章は描写の再確認しかしていません。
 単なる再確認だけでこれだけの文字数を要してしまうのは私の愚鈍さの故ではありますが、一方でこの二つの場面について、事実の把握がずれているのではないか、と感じてしまう感想はいくつか見受けられました。今回の文章では、リジェネのアジト台詞で「菜食主義」に言及することがどうなのか、といったことについても基本的には触れませんし(どう感じようが個人の自由でしよう)リジェネのキャラ像がどの程度これまでのウァプラのキャラ像から変化しているか、その変化は既存の描写と大幅な乖離を来しているか、についてもここまでには書いていません。
 ですから、「リジェネのキャラ像に違和感があった」という感想に対しては、私はこの文章では言及しませんし、たとえば「リジェネのキャラ像は違和感があったとしても受け入れるべきだ」というような主張はしません。それらは事実の認識ではなく、個人が自由に成すべき「解釈」の問題だからです。「誰が、どういう状況で、どういった発言をしたのか」という問いには確かな答えがありますが、「その発言から、読み手としてはどう感じたのか」は感想であり、感情の問題であり、個々人の自由の領分です。

 

 そもそも何が書かれているのか正確に把握しなければ、感想の持ちようがない、というのは個人的な心情としてはあります。早合点ということです。ただそれはあくまで私個人の考えであり、事実の曲解や誤解で好きなものを嫌いになるというのは、ありふれた話です。そのときの嫌悪や悲しみや怒りは間違いなく真摯であり、またその感情を言葉にしてインターネットで発表したいというのも、理解可能な感情です。

 

 また、慎重に読むことは、相応の負荷のかかる作業ではあると思います。だから、ある感想に原作との事実把握のずれがあったとしても、それは正直に言って仕方ない気がします。そもそもメギドのテキストUIは現時点でも発展途上のものであり、またゲーム内での再読が困難なことも、とりわけイベント終了後に事実誤認を引き起こしやすいのは致し方ないだろうと考えます(記憶は容易に事実を歪曲するからです)。
 
 とはいえ、このままでは無味乾燥な事実確認だけに終わってしまいます。ひとまず議論が見られた二箇所についての確認は終えることにして、最後になぜこの物語のエンドは牛乳で結ばれるのか、についての個人的な解釈を書いておきます。

 

 結論から言えば、この物語はザガンとマルチネという、二人の飼われた「牛」と関わり生きる他者の姿に、「家畜を飼うヤツはおしなべてクソだ」(バルバトスとの対話)という認識をやや緩める、というだけの話です。

 

 ですから、ウァプラが果たして家畜を全て肯定しているのか、ザガンやマルチネ以外の「牛」と関わるヴィータをどう思うかについては、この物語だけではわかりません。それについて考えるうえでは、まずはザガンとウァプラの、闘牛をめぐるやり取りを確認する必要があります。領地での動物殺しが相次ぎ、ウァプラがアジトの面々に協力を依頼する冒頭の場面です。通りがかったザガンへの協力要請を、ウァプラが忌避するところから会話は始まります。

ウァプラ
「ソイツは闘牛士だぞ…
罪もない牛に刃を突き立てる畜生だ
そんなヤツの助けなどいらん」

ザガン
「ちょっと!
そんな言い方はないんじゃないの!」

ウァプラ
「…俺は事実を口にしただけだ
動物殺しを見世物にしやがって」

ザガン
「…たしかにそういう側面があるのは否定しないよ
だけどウァプラ…キミはちゃんと闘牛を見たことはないだろう?」

ウァプラ
「見る必要があるか!
あんな悪趣味なもの…!」

ザガン
「そう言うと思った
でもね、見てみればわかるよ
私たちは一方的に牛を殺してるわけじゃない
…逆に牛に殺されることだってあるんだ
つまり私たちと牛の命がけの勝負さ
それを見もしないで否定するのは、
乱暴だと思わない?」

ウァプラ
「…………」

 結局ザガンはソロモンの取り成しでパーティに参加します。問題は、なぜウァプラはザガンの言葉に沈黙するか、です。
 それは「命がけ」だからなのだ、と思います。ウァプラは確かに「ちゃんと闘牛を見たことはない」のです。何故ならそれは「悪趣味」であり、それが意味するのは、本来は平穏に生きられるはずの牛を、無理に戦わせて生命の在り方を歪ませる、「敬意」を大いに踏みにじった形式での隷属にしか思えないからです。だからウァプラは乳牛は許容できても、肉牛は強く否定するはずです。
 ザガンはそれがなぜウァプラにとって「悪趣味」なのか理解しています(これは個人的にちょっとびっくりで、このイベントでザガンはウァプラの内面にとても強く踏み込んでいます)。だから「一方的に殺してるわけじゃない」という反論が反論たり得るのです。
 「一方的に殺してる」のであればウァプラは絶対に容認しないでしょう。そう思い込んでいたからウァプラは闘牛を見なかった。
 ただし「私たちと牛の命がけの勝負」であれば話が違う。確かに闘牛は遊興のために飼われた家畜ですが、闘牛は闘牛士を殺し得る。そこでは「勝負」を「自然な在り方」としている生き物が二種いて、むしろ闘牛で殺し合うこと自体が自然なのです。だからウァプラは沈黙するのです。

 

 このザガンの反論は、実に見事にウァプラの急所を突いています(何故ザガンがこれほど明晰にウァプラの考えを把握しているのかは、本文には書かれていないのでわかりませんが)。闘牛も酪農も、いわば野生の「牛」としての在り方を歪めている点については変わりません。しかしザガンは闘牛場で闘牛の闘牛としての在り方を尊重し、6章2節の言葉を借りるならば「敬意」をもって向き合っている。だからウァプラは沈黙せざるを得ないのです。

 

 ウァプラが食肉を許容出来て、酪農が許容出来ない理由は既にバルバトスの対話で明確に書かれている、と確認しました。「だけどキミだって肉は食うだろ? 家畜はダメで、それはいいのかい?」というバルバトスの問いかけに、「それは生物として正当な手段で正当な獲物を得てるだけだ。家畜を食い物にするのとは違う」と答えるところからすると、「正当な手段」とは狩りを意味するのだろう、と。この「正当」を恣意的に解釈するならば、食肉は、いわば捕食者たる人間が獣を狩るという点からは「正当」なのです(そんなことはイベントシナリオには書いていないので、恣意の解釈です)。
 それは生態系として「自然な在り方」だから。一方で「家畜を食い物にする」のは在り方を歪めるから許されない。
 この「食い物にする」というウァプラの言葉は示唆に富んでいます。「飼い殺し」は単なる捕食よりもウァプラにおいては非道なのです。
 あるいは「毛皮」はどうなのか。ウァプラが毛皮について言及するのは、次のアジト内での台詞のみです。

ウァプラ
「…この毛皮は肉の副産物だ
俺が毛皮のために獣を殺すわけがねえだろ」

 つまりウァプラは「肉」のための狩りは許容するけれど、「毛皮」のための狩りは許容出来ない。何故なら後者は「強者が弱者を食らう」という自然な在り方から逸脱した「殺し」だからです。ほかのアジト内台詞についてはどうでしょうか。

ウァプラ
「俺も狩りくらいはする…
だがそれは食うためだ 娯楽でやってるヤツは死ね」 

 これも同様に、食うための自然な在り方としての「狩り」は許容され、娯楽のための「殺し」は許容されないという、明確な論理を示しています。いずれにせよ、6章2節から引き続くウァプラの物語として、このアジト内台詞も同じ価値判断を貫いています。あるいは、ウァプラの無印のキャラエピで撃退される「密猟団」は、「珍しい動物ってのは、それだけで高値を付けてくれる金持ちが多い」と語る通り、金銭のための狩りを行う故に悪なのです。ここにあるのは、生き物の自然な在り方を歪めることは、ウァプラにとっては悪だ、という明快な論理です。
 

 ウァプラがウァプラがマルチネの牛をなぜ容認するのか、そのきっかけとなると思われる場面を確認しておきます。ソロモンと召喚したハックがマルチネを救出し、二人を見送った後の、ごく短い場面です。

ザガン
「ふふ…でも、牛くんは嬉しそうだね
これから賑やかになるからかな?」

ウァプラ
「…………」

 牛がなぜ「嬉しそう」なのか。ザガンの解釈は「これから賑やかになる」つまり、マルチネと共にハックが牧場の生活に加わることが嬉しいのだろう、という意味合いです。それに対してウァプラが沈黙するのは何故なのか。
 ごく単純な場面ですが、私の解釈としては、ウァプラはそもそもマルチネの帰還を牛が「嬉しそう」にしていると捉えたのだと思っています。実際には牛の感情はわかりませんので、これは推測の域を出ませんが、いきなり無関係な他人が出現したところで、牛が「嬉しそう」にするとは思えません。
 牛が喜ぶのは、マルチネを救ったハックが牧場に来るからです。だから、その喜びは、そもそもマルチネが帰還したことが前提にあります。
 マルチネが牧場の牛たちを愛情深く世話していることは、繰り返し作中で強調されています(エルプシャフトの密偵が牛の世話に難渋する場面もそうでしょう)。家畜が飼い主の帰還を喜ぶならば、それは自身の信条とは別として、その「嬉しそう」を尊重しなければならない。
 だからウァプラはこのとき「…………」と沈黙します。

 

 ライターの沈黙の表現が少ないといえばそうなのかもしれませんが(だからまさしくここは「解釈」です。とはいえ沈黙の表現なんてこれ以外にあまりないとは思いますが)ザガンとの闘牛をめぐる対話、そしてマルチネの牛が「嬉しそう」にしているのを見たとき、いずれもウァプラは同じように沈黙しています。そして振り返れば、この物語は獣殺しに対峙するとき、ウァプラが相容れないはずのザガンと互いに協力して戦える、という変化の物語でもあります。「家畜を飼うやつはおしなべてクソだ」という考え自体は然程の変わりはないかもしれませんが、いずれにせよザガンとマルチネは例外なのでしょう(ザガンについては、表面的には「精々好きにしてろ」ぐらいの距離感かもしれませんが)。

 

 だからウァプラはマルチネの牧場修理に支援金を出します(もちろんそのままであれば被害を被るのは牛だから、もあるのでしょう)。そして「嬉しそう」にマルチネに飼われる牛の乳を受け容れるのです。これは、たとえばペットや家畜は無条件に開放されなくてはならない、というような発想とはむしろ真逆です。ペットや家畜が飼い主と共にあることで「嬉しそう」なのであれば、その意思を尊重するべきだ、という考え方だろうと思います。

 

 ちなみに、このウァプラの物語が「見習い女王」の物語と並列的に書かれていることは実に興味深いものです。
 シバは女王候補を探そうとするガブリエルに、「己の人生を捨てさせる」ことへの「心苦し」さを語っています。「自分が王族という意識すらない者」にまで「己を捨てて働けと言わねばならぬのか」とカマエルに問うとき、シバが語る「己を捨て」るとは、おそらくはウァプラの「在り方」を歪める、と同義だろうと思います。まさしく、「ヴァイガルドを守る」という「正義」や「道理」をもって、その者の人生を捨てさせることは、ウァプラの言葉を借りれば「敬意」の喪失なのでしょう。そして理術研究院の「魂」が生み出す自然な「メギド体」を、その持ち主から引き剥がし、別の魂を注ぐことで「兵士」を作り出そうとする研究もまた、言うまでもなく「命の在り方」を大いに歪めるものです。
 余談ですが、ハックのヴァイクラチオンとは「ヴィータが己の肉体だけで戦うために編み出された」技と鍛錬の術です。すなわちそれは武器を使わず己の肉体のみで戦う戦闘技術でもありますが、ハックのキャラエピで「歩く」がひとつの目標となるように、それは自身の「自然」にある可能性を最大限まで引き出す術でもある、と私は読みます。これは完全に妄想ですが、ウァプラは自分の可能性を最大限まで追い求める「在り方」自体を、(ハック自身の性格とは相性が悪そうではありますが)嫌悪することはまずないのではないかと思います。

 

 いずれにせよ、『見習い女王と筋肉の悪魔』はハックとマルチネが再会し救われ合う物語であると同時に、シバの女王候補探しや理術研究院の陰謀という「命の在り方」を歪めるものの終焉、そして「家畜を飼うヤツはおしなべてクソだ」と断じていたウァプラが、ザガンとマルチネという二人の飼われた牛に関わる他者を認めるまでの物語です。

 なお、ウァプラがリジェネレイトの片鱗を示すのは、第一にイベントでザガンと協力して獣殺しと戦うときです(なおこのときウァプラが「牛刺し女」ではなく、「ザガン」と呼んでいることは注目に値します)。
 二度目の場面は、ディオの協力を得て、自身が領主になるまでの経緯を思い返したときです。 

ウァプラ
(今まで考えたこともなかったが
俺はヴィータどもに助けられて
ここにいると言えなくもねえ…
ヴィータなんぞ自然に害をなす余計な生き物だと思ってたが…
いや、今でも思ってはいるが…
「守ってやる」程度にはマシな連中もいるってのは
認めてやるべきなのか…)

 この二番目のリジェネレイトの片鱗について、ウァプラは「ソロモン」あるいは「他の追放の連中が俺を」「俺の「なにか」を変えやがった」と語ります。このとき回想されるザガン(それも「牛刺し」ではなく「ザガン」と呼ぶ場面です)は、その変えた「追放の連中」の代表例なのかもしれません。
 いずれにせよこの「マシな連中もいる」という考え方は、ザガンとマルチネを容認する姿勢とかなり似通ったものです。
 ただし、ウァプラがヴィータの存在を完全に容認しているわけではないことは、ヒッポの凶刃を受けた際の、次の語りからも明らかです。

ウァプラ
「やはりヴィータってのはあのくらいクソなほうが落ち着くぜ…
俺としたことがヴィータにもマシなヤツがいるなんて甘ったるい考えを持ちそうになるところだった…
そうだ、俺は「このままで」いい
他の連中がどうかは知らんが、俺は俺だ…」

 ウァプラがリジェネレイトするきっかけは、二度の場面を総合して考えれば「おしなべてクソ」な連中のうちに、「マシな連中もいる」ということに気付く、という動作に端を発します(家畜と生きる者のうちのザガン、ヴィータのうちのディオ)。一方で、それはあくまで「マシな連中もいる」というだけで、完全な容認ではありません。おそらくはウァプラが、全ての家畜業者を容認することはないように。
 個人的には、このリジェネレイトの動機は、比較的慎重に練られたものだと思います。長くなりましたが、とても楽しめたイベントでした、というところで、このイベントについての感想は終わります。

序盤のメギドと、これからのメギドについての妄想

 

 メギドの面白さは遅効性だと思う。

 5人パーティだからこそ、手持ちの仲間とオーブが増えて、「この組み合わせは強いんだ」という気付きが増えることで面白さが担保される。
 序盤を簡単にすればやり応えがないし、一方である程度進まなければ面白くならない、というバランス取りの難しさもある。
 自分のことを振り返ってみると、私は1章から3章ぐらいまで、あまり面白いゲームとは感じられなかった。オーブのシステムをほぼ理解していなかったのが大きいが、4章までは石コンテの連続だった。バトルシステムを面白いと感じたのは、2章のミドガルズオルム戦でフォラスの帯電獣(修正前)→アスタロトのスキル→フラウロスの覚醒スキル、というコンボが決まったときが最初だった。
 ガープとマルコシアスは、当時はあまり興味のないメギドだったので全く採用していなかった。当然、無駄に苦戦した。

 

 メインシナリオに最初からハマらせるのは、簡単ではないと思う。物語にのめり込ませること自体、そもそも難しい。
 私がメギドのシナリオを面白いと思ったのは『二つの魂を宿した少年』からだった。重厚で伏線に満ちたメインシナリオに対して、サブシナリオは新規キャラクターと共に、大まかな世界観と、メインキャラクターの性格を掴んでもらう入り口になる。これは意図したデザインかはわからないが、サブシナリオに登場するメインキャラクター達がしばしばマルコシアスまでに制限されているのも、メインシナリオより入りやすいゲームの入り口として成立している。メインシナリオが、とくに序盤でシビアなのもある。シナリオがストレスだとか完成度が低いとか初心者向きでないというのではなくて、ゲームを始めるに当たっては、メインシナリオよりもサブシナリオのほうが読み易いのはよくある話だと思う(理解できるかは別として)。

 

 イベントの常設化はどうだろうか。
 PvEでもアンドレアルフス、アガリアレプト、ブニ、シャミハザあたりは活躍の機会が多いだろうし、特に序盤、手持ちが少なくてパーティの対応出来る範囲が狭く、オーブの手持ちも乏しく進むモチベーションの持ちようがない、という事態を避けることが出来る。序盤加入のメギドではMEの理解は難しいが、アガリアレプトの初期覚醒+2は効果が非常にわかりやすい(次に分かりやすいのがバルバトスの覚醒ゲージ-1)。
 序盤のバーストメギドの少なさは、最初から全員がアガリアレプトを仲間にするつもりで作ったデザインという気さえする。

 

 デメリットとしては、テキストの更新が難しくなるということだ。最初から完璧に書き上げられるシナリオはおそらくないはずで、追加した設定に帳尻を合わせるように、初期のテキストを書き換えるというのは本来は自然なことだ。矛盾点が放置されている場合も少なくないだろう。
 メギドは常設化を避けることで、常にテキストに更新の余地を残している。復刻版で演出を更新すれば、少しなりとも既存ユーザーに新鮮味を感じさせることが出来るし、テキストを改訂するうえでの優れた理由付けでもある。またメギドの製作クオリティを考えると、復刻で開発期間の間を持たせるのは、ほとんど必須だろう。
 結局メギドは常に新規イベントか復刻イベントのどちらかをやっているので、ゲームの入り口たり得るサブシナリオはいつでも読めるのに等しい。
 

 過去の配布メギドに関しては、今後ソピア交換などを利用した入手形式になるんじゃないかと予想している。たとえば配布メギド交換チケット、というような。オーブについてもソピア交換の活かし所だ。イベントそのものは、テキストの更新・改訂の余地を残すため、開発期間の間を持たせるため、実際には常設化は難しいのではないかと思う。「復刻版で演出を一部更新します」と「常設イベントの演出を一部変更します」では受け取られ方が大きく変わる。月1という驚異的な速度であのクオリティのイベントを開催出来るのが普通ではないのだが、常設化出来る範囲はある程度狭い気がする。

 

 今のメギドにこれから改善できそうな箇所を挙げるなら、新規プレイヤーの引き留めにくさと、長期プレイヤーの遊べる要素の少なさになるのかもしれない。
 後者について書くことは「ぼくのかんがえた最強のメギド」の範囲を超えてこない。ただし前者はいくらか思いつく。

 

 メギドの序盤は過酷だ。プレイヤーは突然村を焼かれたソロモンのように、各メギドの性能やオーブなど、尋常でない情報の洪水に襲われる。
 序盤はとにかくまず時間を消費させるため、難易度を極端に下げてさくさく進ませるようなゲームデザインとは、真逆である。
 テキストで冒頭からのめりこませるのは簡単ではない。これは物語の情報量からして仕方がない。
 グラフィック、音楽が優れているのは誰にでもわかるから、あと一押しはバトルだと思う。

 

 あらためて、メギドのバトルシステムの面白さは、パーティのシナジーを多彩に作り出せることにある。私がメギドのバトルの面白さを二回目に感じたのは、アガリアレプトにアスタロトで固定ダメージ付与をつけてベレトを完封したときだ。パーティのシナジーは、もちろんメギドの組み合わせ、そしてオーブの組み合わせである。メギドのバトルは、序盤からこのシナジーを十分に考えることに焦点が置かれている。あるいは、シナジーを考え出さなくては勝てない。
 しかし実際には、序盤からこのシナジーを考えさせるには、ふたつの障害がある。メギドクエストの曜日制限とオーブ入手のランダム性だ。
 前者の☆2.5→☆3への到達の遅さは、覚醒スキルを以て十全に引き出されるキャラのポテンシャルにたどり着きにくくしている。序盤のブネの役割は列攻撃でなくて覚醒下げだろうが、これはブネが覚醒スキルを使えならなくては理解ができない。たしかに現在はミッションという形式でブネの育成を誘導してはいるが、★2.5→★3の曜日で入手機会が制限されるアイテムが要求されることは、キャラの性能を十分に引き出し、シナジーを考えるうえで障壁になっている印象がある。もっともこの覚醒スキルが最初から解放されていない仕様は、「このキャラはこういう性能だと思っていたが実はこうなんだ」という気付きの楽しさにも繋がってはいるけれども。
 後者について。メギドのバトルシステムが面白いのは、不在ユニットの性能のいくらかは、オーブで誰にでも代替できるところだ。たとえばフォラス、リリムRのアタック強化ならエクスプローラーである程度代替出来るように。序盤は初期配布ユニットのみで攻略出来るよう調整されているはずなので、メギドの手持ちのばらつきは意外と問題にならない。
 むしろ影響が大きいのはオーブ入手のランダム性だ。たとえばケイブキーパーやホーリーフェイクを入手して使ったか否かは、「このゲームは案外簡単に無敵が貼れる」→「ガープのような高防御のキャラがダメージを耐える以外の耐え方もあるんだ」という気付きの有無に繋がる。オーブ入手がランダムであることは、汎用性の高いオーブの性能を見逃すこと、オーブのチュートリアルの難しさにも繋がっている。結果として、「レアリティの高いオーブが有用で、Rオーブには使い道がない」という勘違いを生みやすい。
 メギドはメギドとオーブの両方を適切に組み合わせなくては勝てないバトルが多いので、これも序盤の敗戦に繋がりやすい一因だと思う。

 

 これらの解決はさほど難しくない気がする。
 前者は現在のイベントのアイテム交換のように、☆2.5→☆3あるいは☆4程度までのメギドクエストを要するアイテムについては、ミッション形式を利用して配布してみるのはどうだろうか。呼び鈴システムはまず回数が少ないし、戦闘に有用なメギドより、顔が好きなメギドの育成に使う人は少なくないと思う(というか優れたキャラゲーであるメギドはそういう層こそ狙い目だ)。たとえば覚醒スキルで自己強化が出来るウェパルとモラクスの性能は、序盤ではかなり優秀だ。でもそれは☆3まで育てないと気付けない。☆2.5で放置してしまうと、曜日制もあって、いつまでも育成しないことになってしまう。であれば、別に顔が好きでないとしても、育成アイテムがあるから育てておくか、ぐらいの導線は作ってもいいんじゃないか。

 ②については、「初心者応援オーブセット」という具合に、汎用性の高いオーブは配布してもいいんじゃないか。たとえばこんなオーブである。

1.火力強化
 エクスプローラー、マジックラット。強化したアタックも十分な火力を持つことは、早めに理解してもらうほうがいい。
2.強化解除
 イービルアイ。強化解除が簡単に出来る、という自体を教えたほうがいい。
3.無敵付与
 ホーリーフェイク、ケイブキーパー。無敵は簡単に付与できる、高防御高HPで耐える以外の耐え方もある、という学習に繋がる。
4.HP回復
 アビニシアン、リリィキャット、キャスパリーグの列回復猫オーブ3種。列ヒーラーを召喚出来なければ、序盤は単体回復しかできないように思われてしまう。また、猫オーブが3種あれば、たとえば火力役がモラクスからマルコシアスに交代したときに、モラクスは素早さを活かして回復役が務められる、という気付きに繋がる。メギドの面白さは、オーブであらゆるキャラがある程度の補助もできるという、その柔軟性にもある。
5.状態異常回復
 シルバートーム。状態異常は簡単に回復できる、ということの理解。
6.蘇生
 メイジマーマン。蘇生が出来ないという思い込みは、全員生存への心理的ハードルを引き上げる。プレイヤーは序盤で全員生存→チケット周回という簡便さを知っているだけに、全員生存が困難なバトルには不満が残る。ひとり倒れたらもう意味がない、という思い込みはゲームのモチベーションを下げる。立て直すのは簡単ではないが、蘇生もバーストなら誰にでも担当出来る、ということ自体を学習してもらうべきだ。
7.状態異常付与
 めまい、睡眠、凍結といった行動阻害に繋がるオーブは配布していい気がする。具体的には、霊魂ムースなどの状態異常オーブ。序盤のバトルは、とくに防御と行動阻害が重要になる。これがメギドのゲームデザインの不思議なところで、初心者には護るより攻める楽しさを覚えさせるのが自然じゃないかと思うのだが、グナーデ水源を筆頭に、序盤のメギドが問うのは「いかに相手に有利な行動をさせないか」である。

 

 SRは含むが、この程度なら既存プレイヤーに異常な優遇、という印象を与えることはないと思う(後から始めたプレイヤーにはある程度の優遇措置がないと、いつまでも参入しづらい)。私は4章をクリアするまでオーブを育成する意義がまったくわからなかった。未だに禁断の書はLv.1のままだ。回復猫オーブやホーリーフェイクなら、効果の実感が持てるかはともかく、「少しでも強化出来るならそうしよう」とポジティブに育成へと繋げやすい。

 

 メギドのバトルシステムの入り込みづらさは、オーブの理解のしにくさにもある。
 入り込みづらいとは、要は勝ちづらいということだ。
 オーブ召喚は、アタッカーが初期ガチャの優先排出枠に選ばれているメギド以上にランダム性が強い。どれが今の自分のパーティに有用なオーブか、10~20個のオーブの情報を全て調べて的確に見抜くのは、かなり難しい。性能の理解が出来なければ、その強さを実感することも難しい。
 オーブを統一して初心者に配布すれば、たとえば上記のような汎用性の高いオーブのチュートリアルも作りやすくなるかもしれない。

 

 長期プレイヤーのやることがない問題については、結局、ぼくのかんがえた最強のメギド、という妄想の域を超えない。
 ゲーム制作は集団製作だ。その時点で、どう考えても個人のプレイヤーが考えられるアイデアは超えている。
 ただ、ちょっとだけチラ裏で、こんなのあったらいいな、という機能を2つ書いてみる。工数を鑑みると、やはり難しい願いではあるけども。

1.レベルダウンシステムの実装
2.手持ちメギドのランダム選出ステージ

 長期プレイヤーのやることがない問題は、PvEの意外な薄さにも起因している。
 これは構造的に不可避だが、PvEのチャレンジ要素はメインストーリーVHと討伐しかない。討伐を効率化する楽しさはあるが、それもある地点から作業と化してしまう。効率化が進めば、むしろフォトン運に左右されて円滑に倒せないのはフラストレーションになる。PvEからPvPに踏み出せば、楽しめるコンテンツの量は一気に上がるけれど、参入に抵抗感がある人は少なくないだろう。育成状況が反映されないのも、多少はさみしい。

 

 ただ、メギドはPvEを拡充するとして、報酬アイテムの層が非常に薄い。
 精々がエンブリオ、EXオーブで、報酬アイテムの種類が少ない以上はやり込み要素を作るのは難しい。イベント周回チケットや討伐チケットは、ダブリ救済の意味合いも部分的にはあっただろうけれど、報酬アイテムのバリエーションを増やす目的もあったと思う(現実には、イベント周回チケットの入手機会が非常に少ないのと、周回の難易度は基本的に高くない以上、使う機会は失われているが)。新しく何かを追加できるかというと、難しい。
 キャラゲーとして秀逸なので、称号はひとつの魅力にはなる。PvPではBGM解放が別の報酬として与えられている。
 
1.レベルダウンシステム
 好きなキャラを活躍させたい、という願望に焦点を当てるなら、手持ちのメギドをレベルダウンさせられるシステムがあったら嬉しい。
 ある程度育成してしまうと、比較的多くのステージはステータスのゴリ押しで突破できてしまう。推しを低レベルに保つのは無理難題だ。だから、あえてレベルをダウンさせられる機能が欲しい。
 単純な欲望以外にも、初心者にアドバイスをするとき、どうしてもLv.70でエリミネーターと戦うのと、Lv.25で戦うのでは話が大きく変わる。
 新しいPvEコンテンツは明らかに製作コストが高いので、ステージの遊び方を変える仕掛けがあれば面白いかな、と思う。
 PvPで☆3Lv.30のステータスに調整できるなら、同じように☆1~☆5.5までのステータスで調整出来ないかなとか。レベルダウンした分、ボスオーブやレア素材のドロップ率、ゴルドや経験値を上げてみるのもいいかもしれない。
 たとえばLv.30に揃えて戦えれば、ステージ次第でPvPフリーバトルのパーティを試す機会にもなる。

2.手持ちメギドのランダム選出ステージ
 手持ちメギドからランダムに5人が選ばれ、即席で組んだパーティでボスを倒す、というコンテンツ。
 レベルはステージごとに固定して(たとえばLv30)オーブは所持する全てから選べる仕組みにする。メインストーリーのボスオーブをドロップしてもいいかもしれないし、メギドの塔にくっつけられるかもしれない。1Fヘルハウンド→2Fソルジャーバグ、とメインストーリーのボスラッシュとか、イベントのボスを再登場させても面白いかなと思う。

 

 PvPはメギドの意外な組み合わせや性能の強さに気づかせてくれる。私は最近までブニが極めて強力なアタッカーたり得ることに気づかなかった(PvP限定かもしれないが、フリアエLで覚醒特攻の列奥義がわずかゲージ2で打てるのはとても魅力的だ)。
 メギドの塔自体が全体を満遍なく育成することへの導線となってはいるが、個々のレベルは上げたとしても、組み合わせたときのシナジーはやはり実戦でなくてはわからない。ある一点に特化し過ぎているように見えるメギドも、実際にはMEやバフ、オーブの組み合わせで別方面の意外な才能を見せることはままあるし、それがメギドのキャラメイクだと思う。だから、「こいつ使ってみたら意外と強いじゃん」「この組み合わせ良いじゃん」という気付きの実感を、PvEでも気付く機会が欲しい。メギドの面白さはキャラ同士、そしてキャラとオーブのシナジーに気づく楽しさだ。そういう意外な気付きの機会が、もっとPvEにもあれば面白いと思う。個々のメギドを丁寧に作ってくれているだけに、やっぱりそういう機会が欲しい。

 

 育成反映PvPはいずれ解禁するとは思う。私はオーブ育成がけっこう好きだけど、たとえばベインチェイサーの育成度で勝負が決まってしまう、ベインチェイサー120周がマストに近くなる、という状況を生み出す可能性は、否定自体はできない。
 ただ、ランキング制度を廃止するなら、育成反映フリーバトルは別にあってもいいんじゃないか。ランキング上位のユーザーが名前を隠しにくい問題もあるし、(私はPvPは好きだけど)メギドは基本的にひとりでまったり出来るRPGという印象も強い。
 ゲーム内のソーシャル要素が非常に乏しいことを踏まえれば、ランキング形式で勝負を促すのは、あまりゲームの空気と合っていない気もする。

 

 妄想ばかり書いたが、ソシャゲの更新は早すぎても疲弊と間を持たせるものがなくなってドン詰まりである。工数もあるし、要素を小出しにしてユーザーの満足度を適度に維持することも大切だろう。早すぎる更新は、緩すぎるガチャがしばしばサービス終了の伏線になるように、むしろ要警戒だと思う。個人的にはこの更新度ぐらいが丁度良かったりもするのだが、しかし「やることが足りないかも」という気持ちは理解出来る。基本がRPGなのでシステムの拡張自体が難しくはあるが、レイド以外にもまだまだ拡張できる要素はあるかもしれないな、と思う。
 とはいえ、プレイヤーとしては『夢見の少女が見る夢』や、『悪魔の勝負師と幻の酒』のような、シナリオ、キャラクター、音楽のいずれもが高次元なイベントを月1で開催したり、そして『悪魔の勝負師と幻の酒』のキャラクターソングや復刻前ソロモン誘拐事件・悪夢編のセルフパロディといったサプライズ要素を詰め込んでくるあたり、やっぱりメギド72は今でもいちばん好きなゲームである。本当に良いゲームなのだ。
 まだまだ運営体制の拡充に向けて大変なこともたくさんあるだろうけれど、引き続きメギドが発展していってくれたら嬉しいです。

10月度のメギドについて(イベント・リアイベ感想)

 十月メギドの感想です。今月の更新量は壮絶に多かった……楽しかったです。ネタバレ配慮は無し。

 

①10月度イベント『ハルマを夢見た少女』(リジェネレイトの物語と、「通りすがり」と関係する難しさについて)

 

1.リジェネレイトイベント2回目。衣装追加される以上は人気キャラであろうマルバスの無料配布は、ソシャゲの常道からは相変わらず外れているけれど(衣装を買わせやすくする、という意味ではアリ)メギドは「こんなメギドが居て、こんな風にチームが組めて、きっとこんな風景が展開されるに違いない」という体感が意外に重要なゲームだと思うので、リジェネレイトという形式で(つまり、ガチャで引いた人間も得するような形式で)配布したのは良い感じ。モーションは相変わらず全新規だが、キャラデザ…………というか顏や身体のモデル自体は流用出来るので、製作コスト自体はまだ……まだ低いんだろう。
 それでもこのペースで新規キャラを追加出来る開発力は凄まじい(理解が出来ない)。

2.イベントシナリオはマルバスの成長を描いたもの。リジェネレイトは必ず「時間の変化」を書かなくてはならなくて、キャラクターの時間経過を、物語として納得いく形式で書くのはそんなに簡単ではない。リジェネレイトの形式はまず大きく「包丁式」「決意式」の2つに分かれるのではないかと思う。

a.包丁式リジェネレイト(肉体式)。代表例がゼパルの包丁にぶっ刺されたフラウロスで、要するに刺されたりして死にかけたから再召喚でリジェネレイトする、という形式を辿るもの。フラウロスはクズだが結構うまいこと生きているクズであり、本人的にはある意味問題がないので(あのクズぶりを問題として「解消」してしまうのでは根本的なキャラクター性が崩れる)心の問題を解決して「決意」のリジェネレイトに至る、という形は描けない。
 つまりある程度落ち着いててしまっているメギドは、概ねここに分類されるんじゃないかと予測される(他に個人的に予想しているのは「新しい道具を手にしてリジェネレイトする」という形式で、というのはシトリーさんとか刺されたりして死にかける情景がいまいち想像できない)。

b.決意式リジェネレイト(精神式)。代表例が今回のマルバスで、本人の中の心的な問題、わだかまりが解決されることでリジェネレイトするというもの。
 過去の因縁の解消、とかもこのあたりに分類されるだろうから、モラクスやガミジンのように過去が重いメギドもこちらになるはず。私は引けていないので分からないがヴィネのキャラエピも同様らしい。つまり「身体状況の動きと時間の動きが一致する」「心的な動きと…」という分かれ方がまずある。

c.ゼパルはリジェネレイトの経緯自体が今一つ描かれていないので何とも言えない。心的な問題があまり書かれてこなかったメギドなので消去法的には前者で、洗脳=身体状況の変化だとざっくばらんに考えてもいいかもしれない。そもそもフラウロスの物語があるのと、本人があっけらかんとしているので、ゼパルのリジェネレイト物語を書くのは別枠でもかなり難しそうではある。

 リジェネレイトを物語る難しさは、
 「キャラクターの根本的な性質はある程度保ちながら」
 「しかも何らかの形で時間経過=変化を描かねばならない」
 という点にある。メギドは声優をかなり豪華に使っているので、その都度大量に新規の台詞を喋らせることは出来ない。つまり、そこが「根本的な性質をある程度保つ」ための置石となっている。マルバスのように心的な陰が(キャラエピ)示唆されているメギドは時間経過=変化としての物語が書きやすいけれども、たとえばフォカロルのようにキャラエピソードで具体的に「成長」が書かれてしまったメギドだと難易度は跳ね上がる。必然的にリジェネレイト包丁とか幻獣とかに殺される形式を取らざるを得ないんじゃないかと思う(たぶん教官が死にかけたら興奮するけど……)。

 リジェネレイトの物語はどこかで確実にパターンが出尽くすわけで、これはシナリオライター側も把握している問題のはず。普通なら包丁で刺されまくったり安易なトラウマを導入してきそうだけど、ウェパルのリジェネレイトはとんでもなく変則的で、リジェネレイト物語七番勝負で行くと六番目ぐらいの奥の手を早くもぶっ放してきた。凄い。
 昔読んだある小説家が「とっておきのネタは後に取っておくのではなくさっさと使う、そうすればもっと良いネタが思い付くはずだから」と書いていたのを思い出す。

3.マルバスのキャラ描写は、私はキャラエピソードを後で読んで「なるほどなあ」と納得がいった。
 スタートアップ時点のキャラエピのライターと、今回のイベントシナリオのライターが同じ可能性は高くないけれど、前者の「醜いアヒルの子」や「夢を見るのは自由」という伏線(としてとりあえずばらまかれた要素)を上手く回収・発展させたシナリオだと思う。逆にキャラエピソードを読んでいなくて、「純粋に、何の不安や憂慮も根拠もなく、完全に狂的にハルマになれると信じている少女」というキャラ像があるのだとしたら、距離感に戸惑うのかもしれない。
 これは「マルバスを引いてキャラエピを読んだ者しか理解出来ないシナリオを書いている」「マルバス未所持者への壁が高すぎる」とは私は取りたくない。
 そもそもマルバスというキャラの描写が「声優の録音した台詞」と「キャラエピ」しかないので、後者に基づく以外の描写は絶対的に難しい。「引いてない」OR「キャラエピを読んでいない」のに「自分の想定していたマルバス像と違って困惑する」という事態は普通は起こり得ない(引いていなかったら違っていて当たり前のはずだから)。
 裏返せば、たとえばインターネットに流布するイメージから適当に作り上げたのではなく、(当たり前といえばそうなんだけれども)原作に既に書かれたテキストから正確に組み上げたキャラクター像だろうと思う。「成長」を書くには弱みとしての課題が必要になりがちだし、こういう書き方以外の正解は私には思い付かない。
 「成長」は単体では難しい。きっかけとなる出来事……もっと具体的には、他人との交流が必要になる場合が大半であって、マルバスとのやり取りは微笑ましくて大変良かったし、関係性を密に編んでいくのはキャラクターの世界を広げていくうえで大事な要素だろう。一つのシナリオで二つの成長の物語を書くのは無理難題だから(というかそれだとなんでヴィネリジェネレイトが配布じゃないんだ、という話になってしまうので)マルバスのみに絞って、ヴィネの心的な変化の物語はキャラエピに回す、という判断で間違いないと思う。

4.ダゴンについて。通りすがりのヤンデレならぬ「通りすがりのクレーマー」で、今回シナリオであらためて感じたのは、既にリジェネレイトの物語として設定されているイベントで新キャラを書く難しさ。DeNA側から「マルバスのリジェネレイト物語に次にリジェネレイトされるヴィネを絡めて、更にダゴンという新キャラを関係させてください」というオーダーが来ているのなら、これは相当に難しい。
 既知のキャラ同士に新しい関係性を作るのと、新しいキャラと新しい関係性を作るのとでは、前者のほうが難易度が低い。
 ライターが前者の扱いに慣れているというのではなくて、逆に今回の物語が「マルバスとヴィネが仲良し」ではなく「マルバスとダゴンが仲良し」=ダゴンがより重要人物であるかのように書こうとすると、その難しさは際立つ。「通りすがり」と関係することは難しい。どうしても、「物語にインパクトを与えるコメディリリーフ」というぐらいの立ち位置になるしかない。つまり、ダゴンにこれ以上の役目を持たせることは構造的に困難ではないかと思う。
 もっとも「食」を絡めてフルフルと関係性を持たせたキャラエピソードは安定していて非常に面白かった。「食」というテーマが共通していればあるいはマルバスやヴィネとも関係性を持たせやすかったかもしれないが、既出のテキストで二人にそのテーマを見出すのは簡単ではない(ヴィネのキャラエピソードに草を食う話はあったが)。このあたりはライターが調理出来ていないというより、構造的な必然と感じる。
 逆に白百合やジズイベは全員平等に新キャラなので比較的どんな風にも調理出来ると言える。ただ新規キャラを三人も作るコストは尋常ならざる重さだろう。

5.最後になってしまったけど、SRパトロンデビルは特性が非常に面白い確率スキル追加オーブで、マルバスRへの装備を想定しているんだろうけれど、たとえばナベリウスやベリアルのスキル追加MEと組み合わせればオート周回にも便利。ドロップ率はわずかにキツくはあったけど、最終的には☆3が3個揃ったので満足。オーブ周回は多少大変だけどやっぱり私は楽しいので、今回のように(以前からもそうだが)ショップ交換で☆3は1個作れる+追加分は任意、というデザインは大変嬉しい。

 

②6章1節について(アスモデウスのためのバラムのためのベリアル、について)

1.シナリオのクオリティが高過ぎる。この質のテキストを月単位で実装するのは絶対的に不可能である(6章2節が11月に実装されないのが確定したのは正直安心したぐらい)。これはイベントについても同様で、本編・イベントシナリオどちらもチーム製作であって欲しいんだけれども、テキストのレベルが統一して高いので、個人ライターへの負荷が相当なものになっているんじゃないか。Pレターにも「実はここ最近、シナリオライターがかなり多忙な状況です」とあるし。
 とにかく、いずれにせよライターの個々の能力が非常に高く、また負荷が大変大きいであろう、ということは強調しておきたい。

2.シャックスのキャラ描写は難しくて、どうしてもトラブルメーカーか、誰にも出来ないジョーカー的な思考をする、という描写を繰り返してしまう、という問題点を見事に解消していたのには唸るしかなかった。素晴らしいとしか言いようがない。読んでほしいので詳細については書かないけれども、シャックス-マルファスという既存の関係性に更にラウムを組み合わせて関係性を密にしていくのも手堅いし、バトルシステム(覚醒ゲージ)とシナリオが高度に絡ませてある点も見事、本当に傑作です。

3.登場するキャラの増減については、思い切った判断だけれども、適切だと思う。アスモデウスが同行しないのは、あんなに頭が回って情報を知り尽くしているメギドが出てきたら話の展開が異常に難しくなるから納得もいったが、ガープが同行しないのはちょっとびっくりだった(とはいえ、だからこそイベストでガープ含めたお馴染みのソロモン一行が登場し続けることに、別の意義が出てきたように思う)。ガチャキャラ追加は、まずはこれぐらいの販促は絶対したほうがいいし、マルコシアスまでのソロモン構文で書ける内容も非常に多いけれど、どこかでキャラクターに新しい関係性の網を作らなければ書くことには限界が発生する。
 私は最初にアモンくんの名前が出てきたときに震えたし、フォカロルが出てきたときには絶叫してた。

4.よく言われる「ウェパルBを育てるためのアスモデウスを育てるためのバラムを育てるためのベリアルのバエルorシトリー……」という大幻獣問題は、裏返せば大幻獣の最適解が無料配布であるメインストーリーのキャラなわけで、正直とんでもないと思う。逆にウェパルBを育てるための「アイムorアモン」「カスピエルorアマイモン」「サラorサタナキアorプルフラス」という取り合わせだったら当然未所持ユーザーとの格差が生じてしまうわけだが、それぐらいの販促はしていいんじゃないかと正直思うぐらい。
 大幻獣を倒し続ける大変さは否定できないので忘れられがちだけれど、これは課金額やガチャの引きに依らず、全ユーザーが大幻獣を倒せるよう慎重に練られたデザインだと思う。もちろんアシュトレトは配布キャラのみでは難しいが、対応するようにフラカンが用意されたのも見事で、PvEではアシュトレトオーブが活躍する場面は然程多くない(し、あれが活躍する次元に辿り着いた人は、アシュトレトは面倒でもさして苦戦はしないだろう)。
 ケラヴノスは、私はモラクス+スキルフォトンに依存しないバーストアタッカー(確かアシュトレトと同じくハルファス)で切り抜けたが、これについてもサバトで引きやすいインプを用意したのではないか、と推測している。インプについてはまた来月書きたいが、最初の印象としてはジニマルがベレト戦という壁に向けて用意されたように見えるのと同じく、ルゥルゥ-ケラヴノスという同様に壁になりがちなポイントのための性能ではないかなあと。

5.ちなみに「メギド72」という軍団が最終的に結成されるのが、「多様性」の極みである「混沌」を司るアスモデウスを仲間にした地点、というのは構造として美しい。

 

③復刻版『上書きされた忠義』について(何故復刻の度に改訂するのか、何故シナリオ読み返し機能は実装出来ないのか)

1.まず目が行くのは「改訂」で、復刻の度に改訂するのは何故か、という問いは出てきておかしくない。
 前者については、プロデューサーレターには「リリース直後に出したイベントでは、世界観が固まりきっていなかったことや、担当ライターさんにお伝えしきれてなかったこと、私や宍倉さんなどもチェックをする余裕がない中、お任せでリリースしていた部分がありました」とある。つまりP含めた社内の製作サイドが本来であればシナリオをチェックしているんだけれど(つまり外注)ソロモン誘拐事件前後はそれが出来なかった、ということ。

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 世界観が固まりきっていないというのは、これは書いていくうちに追加すべき要素は新規に出てくるので、製作陣やライターの手落ちでは絶対にないし、そもそもスタートアップ段階から(それも管理上の問題に悩まされたメギドにとっては)シナリオ管理にまで工数を割くというのは絶対的に困難である。絶対に無理。もう、これは断言するけれども、今の制作状況であってもこの頻度で質の高いテキストが連発されているのは「かなり作業負荷が高い状況」だろうと思う。
 なので、①あらためてPサイドでチェックして(新規要素も追加して)②これまでのシナリオと統合性を持たせた加筆修正をする、というのは自然。
 
 それとは別に、これはあくまで推測の範囲を出ないんだけれども、担当シナリオライターが変更されている可能性があると思う。

A.アンドレアルフスイベントまでの、わりと控えめで世界観や物語や関係性には深入りしない、「敵を倒す」のが主軸のイベント
B.サキュバスの「100年」の心情に焦点を置いたソロモン誘拐事件・悪夢編
C.スラップスティックなコメディとしての色彩が強いソロモン誘拐事件・逃走編~上書きされた忠義
D.シャミハザイベント以降

 ぐらいの断層が私にはあるような気がして、A/Bのライターはちょっと判断がつかないが、C/Dのライターは確実に違うんじゃないかと勝手に思っている。
 ちなみにCのライターは、(是非がどうとかいう話では断じてなくて)女性キャラに集中的にコメディリリーフの役目をさせる傾向にある気がする。
 あくまで「担当者が違う」と確信出来るのは2シナリオに限ったものだし、これは「気がする」という域を絶対に出ない。妄想の類である。
 
 これはあくまでPレターだから簡潔に書いた可能性が高いが、宮前Pからジズイベへの要望が「シリアスでずっしりくる重い話」「プロメテウスが歌うシーンが印象的であること」「最後はハートフルに終わる」なのは、仮にこれだけならシンプルなオーダーである。キャラの要件さえ満たせば、ライターの裁量はかなり大きい現場かもしれない(というか細部まで管理していたら、ただでさえ多忙な制作現場で外注する意味があまりない)。だから、たとえば「あらためて復刻するので、こんな新要素を付け加えて、ライターDさんが気になるところを書き換えたりしてみてくれませんか」というオーダーが来たときに、ほぼ全文書き換えになるのは不自然ではない。

 C/Dのライターがおそらく違うという妄想を前提したうえで書いておきたいのは、Cのシナリオには物語上の問題点は散見されてしまう。カスピエルが仲間になるプロセスとか、ユフィールが突然登場してくるとか、そういう物語的な滑らかさ、本来書くべき要素が抜け落ちているという点が目立つ。
 そこを加筆していこうとして、最終的に全文書き換えになるのは、私はこれは当然だと思う。
 これはCのライターに問題があるというよりは、制作納期が恐ろしく厳しかったのではないか。そういうヤケクソの勢いでなければクソロモンとか書けない気がする(あとどちらかといえばシリアスな物語よりコメディ寄りのほうが得意なのではないか)
 ちなみに今の段階においても納期は壮絶に厳しいのではないか。Dのクオリティが異様に高いので、なかなかそう思わなかったりするのだけれども。

 「復刻前のシナリオはもう読ませられない」というのは自然な事態だし(なにせ制作体制がおぞましいことになっていただろうから)むしろあれが公開されるのは、「製作陣としてはこのシナリオはOKの水準と判断しているらしい」と取られかねない。多少グレー、というか黒寄りなのかもしれないが、復刻前のシナリオ自体は読もうとすれば読む手段はあるので、運営側からわざわざ提示する必要があるかというと、たぶんない。
 ここまでは全て根拠のない推測である。
 「DeNAが無茶なオーダーをライターに強いている」と言いたいわけでは断じて無いし(嫌だったらDがあのクオリティのシナリオを毎回納品出来るのはあり得ない)ライターへの負荷が極めつけに高くなっているのはPサイドもレターに書いて認識している通り。まだまだ新規ユーザーが欲しい段階で、イベントの間隔を伸ばしていくのも抵抗があるはず(この「虚無期間」については後述する)。ただ、なんとかライターの負荷が減らないかなあ……というのは正直思わなくもない(訳が分からない感想だが)。

2.今更だけれど、その負荷を(精神的にも)跳ね上げるのは発表後の修正だろうから(これはやっぱり細部の論理的なミスだと思うので修正は自然だと思うが)ジズイベはかなり後悔している。あんな風に騒ぎ立てることは絶対になくて、プロデューサーレターに「騒がれ方が大きくなっており」とあるのは、本当に申し訳ないなと思っている。

 こんな個人の一ブログが制作に影響するとは絶対的に思えないんだけど、騒ぎに加担したのは間違いないし、書くとしてもサラっと書けば良かったはず。なので、今後Dから別のライターに担当が変更して――というのはあまりに負荷が大き過ぎるのであり得ると思っている――必然的にミスが生じるとしても、ああいう書き方はしたくない。
 「指摘」と「騒ぐ」はメッセージは同一でも様式が違う。何かを主張するときに、「メッセージはわかるけれども主張の仕方がまずい」というのは現実場面には数限りなく多くあるし(しかしこう言われた側は「でもメッセージは間違っていないじゃないか」と反射的に思いがちである)メッセージの是非はともかくとして、私のあの文章はどう考えても主張の様式(文体と言い換えてもいい)がまずい。イベントシナリオでは間違いなく最高傑作のジズイベに、こんな些細なミスでケチを付けられたくないから(正直こんな些末な部分にケチが付けられているのが本当に許せなかったし、ただし、加筆か削除のどちらかは必要な部分だというのは、私にはちょっと否定が出来なかった)早急に修正した方が良いんじゃないか、と書いたんだけれども、「騒ぎ」に加担した、という水準では同一である。

3.シャミハザイベントについては、私は上記のように考えているから、さほど大幅な加筆はないんじゃないかと予想している。もちろん他のシナリオとの兼ね合わせで修正加筆される箇所はあるだろうけれど、『ソロモン誘拐事件・逃走編』や『上書きされた忠義』のような、明らかな物語上の抜け落ちというのは記憶の限りではない。

4.「参加したシナリオを読み返す機能が欲しい」という点は運営側は間違いなく把握しているけれども、これについてはPレター等々で一切言及されていない(はず)。把握していても出来ない理由があると考えるのが自然なわけで、というのは今後また制作状況が大変なことになってシナリオ管理に目が行き届かなかったとき(たまたま今はライターDのような極めて優秀な書き手が参加していたりするけれども、更に書き手の交代が積み重なったときとか)読み返せるシナリオ=「最終版」として提示するしか選択肢がなくなっている、というのは壮絶にリスキー。普通のソシャゲであればこれは当たり前の機能に近いのだが、でもこれをしないのは、私は慎重な思考だと思う。

 ジズイベで「次回の復刻版で直すという考え」が宮前Pに出ているのは、つまり「復刻版」とは「修正のチャンス」だと捉えているということで、それが出来るのは「最終版」としてシナリオを読み返させない限りにおいてである。どれだけシナリオの精度を高めようが、ミスは必然的に生じ得る(あれだけ高い能力を持っているライターDですら「勢いで書き上げ、このタイミングでいざ見直していたら」おかしいな、と思うところが生じる)。
 まして今後も新たなシナリオテキストを追加していくのであれば、修正すべき矛盾点が発生する確率は絶対に低くない。低くしようがない(不可能である)。なので、「読み返し機能がない」とは、「今後シナリオでミスが生じても、それを正しく修正出来るよう仕様上最終版を提示出来ない」ということの裏返しでもある、と現時点で考える。
 これについては、むしろそれだけ制作陣がシナリオを大事なものとして意識してくれている証左である、と読みたい。
 
④リアイベと被り救済について

1.総じて、本当に参加出来て良かったなあ……というイベントでした。楽しかった。PvP大会と合わせて参加出来ました。
 まず会場入り口にすぐ宮前Pがいらっしゃって、「頑張ってください~」って言ったら頑張ります!ってニコニコしてくれたのでうわっファンサやん…って思った(オッサンにファンサなんかあるのかよと思われるかもしれないが、あるんだよ)。私は仕事上引越が多いので物販は見送ったんだけれど、物販の列は長蛇で、在庫は当然すぐに無くなる。これはもうリアルイベントでは確実に起きることだし、別形式での販売(たぶん通販かなあ)を最初から告知していたので私は特には気にならなかった。
 腐ったフォトン袋ことシンプルで可愛いトートがすぐ売り切れたのが意外で、物販面でも勝算はある程度あるかも(とはいえ開発は大変だろう)。

2.楽しかったのは事前告知無しのメギドカフェ。ガープの腹筋サンドイッチで笑ってしまったけど、ここは告知無しのサプライズで良かったなあと。デカスマホ体験やVRアジトはPvP大会で疲れ切っていたので参加出来なかった。というか時間が本当に短い! 最初に予定時刻見たときはこんなに長時間何するんだって正直思ったが、トークショーPvPをこなしていると時間が凄まじい勢いで過ぎて、会場右奥の設定絵なんか最後5分ぐらいで大急ぎで見た。とにかく盛沢山で、回り切れないぐらいであった。良かった。
 BGM生演奏は大興奮したし、声優さんのトークショーは2役持ちは自己紹介の時点で2役演じ分けてくれるサービス振りで凄く嬉しかった(なかなか声優さんの数を揃える自体が大変なのもあると思うんだけど、ここは1人2役の思わぬメリットだった)。特に津田さんのガープ&バラムは会場大絶叫…! 個人的にはアイム&シトリー役の関根さんの地声が本当にアイムなのと、マルバス&アスモデウス役の生田さんが好きなキャラを尋ねられて「普通こういうのって自分が演じるキャラクターは好きだけど一旦置いておいてってなるんですけど、私は本当にマルバスが好きなんです」って言い切ったのが最高だった。ハルマイベのヴィネとの関係性を物凄く嬉しそうに語っていたのが超良かった…。素晴らしい声優さんに恵まれたんだなあと感動していました。

3.PvP大会は2回戦でがんばります!さん(善さん)と勝負。強かった。互いにそこそこの回数フリバしてる友達なので手の内が分かっている状況だけど、普通に負けた。
 ちなみに私のブロックは700勝以上しているフォロワーが多くて、ある程度勝利数でブロック分けしていたのかもと思う(絶対その方が最終試合は盛り上がるので、だとしたら良い判断)。最終的なブロック優勝メンバーが女性1名男性2名というのは、男女両方楽しめるメギドらしい配分で、最終的に勝ち進んでくれて良かったなあという気持ちになりました(男に勝ってほしくなかったという意味では断じてない。あとは、私の1回戦の相手をしてくださった鴇田さんも700勝以上されてて、私も結構な回数負けてる女性の方です)。どうしても対戦ゲームって男性が多いイメージが勝手にあるだけに、猶更。
 参加者も老若男女幅広い印象があり、個人的にはこの層の厚さは、ターゲティングの難しさをも意味するだろうけど、かなり勝算を感じた。それだけ広い射程に訴えかけられるゲーム世界を作り上げてくれているんだなあと。
 善さんと対戦されていたイラストレーターの米倉さんのパーティはフリバで何度かお見かけしていて(スタンダードなパイモンラッシュだけど妨害目的にアンドレアルフスを入れるのが印象的)で「うわっこれ米倉さんか!」と驚きまくりだった(チーム宮前も女性1名男性2名で良い感じ)。いちばん興奮したのは二回戦のヒレツカツさんで、ベレトのアシュトレトでフリアエのバリアを外しつつ、パーサーク+列攻撃/全体攻撃で一気に決める。パーサークはPvP/PvEいずれも非常に楽しく活躍出来るタクティカルソートなので、これが会場で使われたのは感動した。いずれハイドロボムで勝つ人が出たら楽しい(フラウロスリジェネレイトはかなり強い性能をしている)。

 最初は閑散としていたフリーバトルコーナーが、PvP大会終了後はほぼ満席になり「今二席空きましたー」とスタッフさんが誘導していた光景は感動的だった。
 PvP自体かなり深い面白さのあるコンテンツなので、その後の反響を見ても非常に意義のある大会だったし、素晴らしい企画でした。ちなみに1回戦が終わったあとのスタッフさんが「まだ戦い足りないという方はフリーバトルコーナーもありますので是非ご利用ください」って参加者に呼び掛けてたの、修羅過ぎて笑ってしまった。

4.宮前P含めてスタッフとの距離感が恐ろしく近い…!! 「えっあれ(イラストディレクターの)中山さんじゃん…!? っていうか普通に米倉さんおるじゃん!?」って驚き通しで、普通に米倉さんが来場者に話しかけられていたので私も「ハロウィン衣装男女共に最高でした、ありがとうございます」と言ってしまった…(フリバのネームお尋ねしたら当然のごとくマッチングしてた)。私は記憶違いが多いので話半分に聞いてほしいけれど、「最初は私と中山さんの二枚しかなかったのに、イベントが増えるにつれて絵が増えてすごく嬉しい」と語ってらっしゃったのが印象的で、私もあれはフリバスペースの盛況振りと併せてグッと来た。
 あとで声優さんも普通にイベント回っていたと聞いていやなんだそれスゲーって震えた。

5.クロージングでの宮前Pからの発表内容事態は既にPレターに書かれているので割愛するとして、印象的だったのは被り救済。

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 まずは交換レートにもよるけどイベント&大幻獣チケットは魅力的で、メギドは基本的にオート周回でイベントをこなせるように設計しているとはいえ、サタニック刑務所を通ってしまうと周回チケットは普通に欲しい……。勿論大幻獣も高難度ステージも「どうすれば手持ちで効率的に周回出来るか」を考えるのが楽しいので、とはいえどうしても忙しくて無理な時はあるよね、ということで選択肢が増えるのは本当に嬉しい。もちろん交換レートにもよるけれど、ここは本当に期待したい。
 私が予想していたのはエンブリオor指名交換チケット(天井)だったんだけれど、思いの他とにかくエンブリオが欲しい中級者~それ以上に幅広く射程を予想した救済措置になってるんじゃないかと思う。個人的にはストーリーボスオーブを周回で取るのが結構面倒なので、あれが交換リストに並んでいたのは嬉しかった。

 直前にエンブリオガチャがあったのでもしかすると実質天井=メギド指名召喚チケが設定されるかも?と思ったけれど、今回はなし。
 当然運営内で天井チケットが必要では、という意見は出ていて、ただ経営的にはそこまでは難しいですね、というデータ基準での判断になったのではないかと思う。
 もちろん私個人としては天井チケットは欲しいんだけれども、まだ1年足らずの、それも完全オリジナルの新規タイトルでは簡単ではないだろうし、被り救済を実装前の被りからカウントするとなると三~五回は天井に達する人がけっこう居るんじゃないか(私は基本サバトしか回さないし正確には数えていないけど、30体ぐらいを天井にしてもそれぐらいはカウント出来てしまう気がする)。なので、天井チケットが欲しい→メギドにもっと売り上げが出て経営が安定してほしい→メギドに新規ユーザーが増えてほしい→メギドが物凄く面白くて、かなり考えて運営もされている、ということを繰り返し書きたいなあ……と改めて思っていました。そんな影響力は特にないが。
 
6.ベヒモスアスタロトリジェネレイトと登場キャラクターが異例の前倒しで発表。今回からの新規方式だけれど、メギドがあれだけ頻繁に更新しているにもかかわらず人によっては「虚無期間」と捉える期間が出現してしまうのは、(個々人の感性の問題とは思わない)第一にサブゲーとしてストレスなくプレイ出来る位置に滑り込めるようゲーム内容量を意図して調整している(たぶん)のもあるだろうが、第二には「期待」の持たせにくさにある。サプライズと期待のバランス取りの難しさ、とも言える。

 私はベヒモスが脳天に突き刺さったので十二月までずっとベヒモスのことを考えていると思うが、「こういうキャラをそのうち実装します」とビジュアルや大雑把な性能を予告するだけでも「どんなキャラなんだろう」と期待が出現して良いんじゃないか。繰り返すけれどそもそもメギドはFGOとかグラブルのような大量のコンテンツをゲーム内に持たせるのはおそらく意図して避けていて、完全新規タイトルがそうした既存ソシャゲのユーザーに食い込むならそれが正しい戦略だろうと思う。同量のコンテンツを用意するのはそもそも困難だが、仮にしたとしても、プレイし慣れてきたFGOグラブルのイベント周回を妨げるようでは、最終的に削除される結末が目に見えている。
 もちろん「どんなキャラなんだろう」「レイドイベントってどうなるんだろう」「今後のPvPは」という妄想だけでは、更新出来ない期間=開発期間の息を持たせることは不可能だけれども、キャラクターのビジュアルはいちばん視覚的に訴えるものがある。私がキャラゲー寄りのライトユーザーだからなのもあるかもしれないが。そういう意味で、キャラクターのデザインを最初に提示させて「期待」を持たせるのは、今後も検討していい選択肢かもしれないなあと。ただ、当然、簡単に出来ることではない。

 ちなみにメギドの更新頻度はかなり早いと感じている。少なくとも、あのクオリティでのイベントやテキストをこの頻度で連発するのは壮絶に早い。というか、開発期間があまりに短いのでもう少し間を持たせていいんじゃないかと思うのだが、新規ユーザーをどんどん呼び込んでいきたい、という時期なんだろう。うまくいってほしい。

7.あとベヒモスで普通に頭が壊れた。

⑤まとめ
 そんなわけで今月はおそろしく濃度の濃い更新が繰り返されていたと思う。イベント2つやって本編更新してリアイベもやるって尋常ではなく、ライター含めて開発スタッフの体力が大丈夫かという気持ちが最初に来る。宮前さんもクロージングで「寝てるんですか?」とタダツグさんに訊かれて「いやー」と苦笑されていたけれど、組織の最上位がそれだと下は推して知るべしである。そもそも休日がない可能性があるが、リアイベもあれトップからチーム含めて休日返上だよね……。とにかく素晴らしいゲームなのは変わらないので、引き続き楽しくプレイしていきたいが、製作陣はどうか無理だけはしないでほしい(最後の感想が毎回これになるのも意味がわからないが……)。

メギド9月度感想『傀儡の王と操られた花嫁』と復刻逃走編

 9月メギドのイベント諸々の感想です。今月も楽しかったです。

①9月度前半「傀儡の王と操られた花嫁」
1.ついに出現した新概念「リジェネレイト」。
・キャラの新しい一面を知りたい(ただし既存のキャラクター像から大幅に外れていてはほしくない)
・新しいキャラエピが読みたい
・メギド同士の交流・関係性を読みたい
・新しい衣装が欲しい
・新しいモーションが見たい
・ガチャメギドのイベントストーリーを読みたい
・アイテムを捧げ終えたらもう貢げないのが寂しい
 ……という、止まらないヴィータの欲望を解決するコンセプトで、見事だと思う。ゼパルリジェネレイトのキャラエピがフラウロスリジェネレイトとの別視点なのは、まったく違う話を展開させてしまうと非所持者と所持者で物語の情報量の差が大きく出てしまう、という気遣いか。

2.シャルルはたぶん初の固有グラ持ちの使い捨て敵モブ。
 メギドのキャラエピは基本的にキャラに焦点を当てるため、別のメギドをあまり登場させないようにしてきたと思うのだが(その全く逆がブニのエピソードや、その発展形であるメギドの日に結実した)結果として物語を彩るモブの魅力が強くなる、という不思議な結果を引き起こしている。マルファスに対するサムとか、パイモンに対するダムロックとか、フルカスに対するレオとか、フェニックスに対する死刑囚とか、ガープとか。これは非常に大事なことで、あるキャラの魅力を描きたいのであればそれ相応の物語が必要で、優れた物語には優れて魅力的な登場人物との関係性が必要なんだろう。メギドのキャラ描写が魅力的な一因はモブの魅力にもあるわけで、敵対キャラに固有グラを持ってくるのは、しっくりくるものがある。火傷を負って人前に出られないシャルルだからこそ、傷があろうが人怖じせず前に出ていく天真爛漫なゼパルに惹かれたのだろうとか、EX3のドロップが花束とか、大きく語りはしないけれど何気に情念をほのめかす描写は、白百合イベントのサタナキアを彷彿とさせる。
 メギド72の傑作イベントを三本挙げるなら白百合、嵐の暴魔、そしてこの傀儡の王を選びたいが、いずれも共通するのは敵の描き方が優れているということ。白百合と傀儡の王は敵の「情念」に焦点を当てて、嵐の暴魔は敵の「脅威」に焦点を当てている。あまりに残虐なキャラ設定は味方にさせる=ガチャを引かせるのがちょっと難しくなるから、自然とモブが脅威を引き受ける方向性になる。普通なら固有グラを差し挟むところだが、それのないモブであんなに怖いメギドラルを描けたジズイベはやっぱりすごい。
 逆に穏健なのがなんだかんだでアラストールが良い姉御肌の二つの魂を持った少年とか、ほとんど自然現象に近いものが最終的な敵となる四冥王(この二つは敵との対立にドラマがあるというよりは、シャミハザとジル、あるいは四冥王の友情にこそそれがあるから、それが正しい)。
 話は逸れたが、敵に固有キャラグラを与えるというのは、工数の余裕が出来たのもあるのかもしれないが(個人的にはメギドのこれまでを考えると衝撃だった)これからもシャルルのような、味方には当然なり得ないけれど厚みのある敵の描写をしていく、という方針なんじゃないか。イベントのたびに中身スカスカのアホドラルじゃん、という問題に引き続き注目しているようにも見える。それは詰まるところ物語がもっと面白く成り得る、ということでもあるので、すごく期待が持てる。

3.オーブはドロップ無しの完全交換オンリー形式。シアンカラット、青龍号に続く3体目か。私は複数のオーブを掘っていく(いちばん良かったのだと)白百合形式が好きだけど、周回のコストを考えれば最終的にこの形式になるのは自然だと思う。サタニックリブラと比較すると、なおさら。「★3にしたいのはしたい人だけでいい」というつもりで用意していても、プレイする側にはなんとなく義務のように感じられてしまって、もちろんそれは勝手な義務感に過ぎないのだが、いつでも辞めれていつでも再開できる、というメギドの利点を潰しかねない。私は実感として認識は出来てないけど、オーブのためにイベント周回出来るユーザーは相当に多く見積もって2-3割じゃないか。その少数派のために7割を切るというのは不自然だし、その2割だっていつ周回出来なくなるかは分からない。なので、最終的に完全報酬形式に落ち着くのは、自然だと思う。
 ただしそれだけでは遣り甲斐がない、ということで青真珠をEX3の報酬にしたのは「嵐の暴魔」の優れたイベントデザインを踏襲してあるんだろう。
 そしてさらに見事だったのは味方弱体化+報酬ドロップ上昇。これは上級者にもやり甲斐のある調整で、最大まで弱体化してチャレンジ感覚でシャルルに挑んでもいいし、報酬アイテムを増やした状態で難易度の低いステージを回り、ショップアイテムを全て交換してから青真珠掘りのためにリセットして楽々周回するのでもいい。
 初心者は報酬といっても精々エンブリオ若~取ってクランプス、というぐらいなので、弱体化にこだわる必要はない。
 これ、本当に素敵なデザインなので、引き続き試みてほしい。レアドロップ率上昇、とかやっても面白そうだ(サタニック刑に処されていると強く思う)。

 全体的に周回コストを減らす方向に動いている。周回したくない人はいつでもやめられるように、というユーザーフレンドリーなデザインと、周回したい人にはそれなりの報酬を、というチャレンジ可能なデザインの同居は至難の業だろうけれど、そこをなんとかうまく出来ないか、という調整を常に感じていて、強く好感が持てる。
 私はメギド72のユーザーにはやっぱり増えてほしいので、前者よりの現状は、正しい判断だと感じている。私は基本的にメギドを人に勧めるときは「イベント周回も必須じゃないしFGOのサブゲーでも充分楽しめるよ」ぐらいにしたくて、FGOとかに限らず、それまでやっていたソシャゲの邪魔になるような新しいソシャゲは、基本的に遊ばれなくなってくるものだろう。無理なくサブゲーとして楽しめている人が、ある日うっかり課金したり、周回を重ね始めたりするようなのを気軽に待つぐらいで良いんじゃないか。

 ただまあオーブ周回があると私は非常に嬉しいので、いつかまたしてくれるといいなあ。オーブ育成のための周回とはフルオートなのが基本なので(私はほとんどリタマラをやらない)ポンコツ気味なフルオートでも勝てる構成を考える、というのは結構楽しい。そうなると自動チャージ追加が出来るピローヌとか、MEでフォトン追加が勝手に出来るベレトやストラスは有用だったりする。開幕にそこそこ強力な一撃を放てる(CPUは優先して奥義を打つため)ウァサゴもそうだろう。逆にパイモンは覚醒スキルを連発してしまって案外ダメとか、そういうところでキャラクターの不思議な性能の違いが出てきて面白かったりするんだけど、だからそんなわけでいつかまたオーブ周回を復活させてほしくは、ある。ただまあ今じゃないかな。あと、オーブの種類をいくつも捻り出すのは、どう考えたって大変だろう。
 SR「クランプス」はノックバック+攻撃力低下+ダメージ軽減で完全にコボルトドルイドを虚無にする性能。フラウロスに持たせて3ターン目に覚醒スキルと合わせて使う、あるいはフォラスに持たせて2ターン目にノックバック、からのトルーパー列攻撃(代表例はウァプラ)というコボルトドルイドと同じ使い方でも勿論問題なし。引けなかったがガチャSSR「クルル」は連撃ダメージUP+回復+バーサークによるターン回復を打ち消すターン回復ということで、ティアマトとのセット運用が想定されているんだろう。

4.もうひとつリジェネレイトで重要なのはキャラクターの変化=物語が書けるということ。フラウロスはなんだかんだでソロモンに協力するしかない、というのを再認識させられ(ここちょっと可哀想だった)指輪の怖さもそれとなく書く。リジェネレイトの条件は深い自己認識ということだから、必然的にドラマが生まれる(ゼパルは書き切れなかった感があるのでバーストゼパルに期待、というところか。……これも良く出来ていて、一個のバトルスタイルでちゃんと物語が書けなくても次のチャンスがある構造なのは見事)。ここの指輪の怖さの描写はさりげない(フラウロスが包丁で刺されるシーンは笑うが)けど、描き方としてシャルルの情念をそれとなく書くやり方に似たものを感じる。
 これまでキャラクターの変化=物語を書けるのはもっぱらメインに登場するキャラクターに限られていて(当然である)ガチャのメギドにも時々同じぐらいの物語が欲しいな、という欲求を、きっちり満たしてくる。ソシャゲである以上、普通なら単なる脇役に留まりかねないガチャメギドに、ちゃんと変化=物語の機会を与えるというのはけっこう思い切りが要るだろう。このあたり、それぞれのメギドにそれぞれのファンがいる、というコンセプトで運用してくれてるんじゃないか。
 成長・変化・物語を書くのはもちろん欠点とかクセのあるキャラのほうがやり易い。その点ではフラウロスに物語が用意されるのは自然で、ただし本質的なクズ性は消すことなくソロモンへの協力意志がちょっと強くなる、見事な塩梅。ボイスの新録が少ないのは、もちろん声優さんとのスケジュールの都合や台詞を考えるコストの大きさもあるだろうが、本質的なキャラクター性は変えない、という証左でもある。ゼパルは良い子なので、単独でこれ以上の変化=物語を書くのは難しい気はした。バーストゼパルに物語を用意するなら、たぶんゼパルとあと一人誰かとの関係性で書くんじゃないか。フラウロスは今後新規衣装が実装される関係で配布にもなったんだろうけれども、メギドの「普通味方にならないキャラクターが味方になる」という面白さを代表する一人ではあるので(それでいてどこか好感を持てる)初心者にも広く仲間にされてほしい。リジェネレイトが配布されたら当然オリジナルのバージョンも欲しくなるわけだし、商売としてはけっこう戦略的な判断だと思う。

5.総じてかなり優れたシナリオ。敵=シャルルの情念をほのめかすことで厚みのある敵造形を作り、新規メギドに過激な要素を引き受けさせ(後述します)メギド同士の関係性を追加することで既知のキャラ像を崩さないように新たな一面を引き出し、リジェネレイトでメインに限らないガチャキャラの変化=物語も書いていこうとする。キャラゲーとしてはかなり模範的で、非常に細やかに作り上げられたシナリオだと思う。決して派手ではないけど、白百合、嵐の暴魔に匹敵する傑作じゃないか。

②9月度後半「ソロモン誘拐事件・逃走編(復刻)」
1.新規シナリオ加筆は素晴らしい。三馬鹿は三馬鹿じゃないけどやっぱり三馬鹿、というバカのフレーバーを残しつつ、カスピエルがソロモンに好意を寄せる理由や勝利ポーズで鎖鎌を投げる理由をシナリオに盛り込む。アガリアレプトやリリムなど、前回の登場メギド達が再登場してシナリオを盛り上げるのも、やはり既存メギドの活躍や台詞を読みたい身としてはかなり良かった。インキュバスが女性を年齢にかかわらず平等に扱うというのは、ジズイベントの影響を強く感じさせる(ルッキズム、エイジズム)が、ただ女を手駒にするだけでない、インキュバスの魅力を増す優れた描写だった。思慮深い加筆で、正直思ったよりもかなりクオリティの高い調整(どうするんだろうとどきどきしていた)。あと、メフィストインキュバスがサタンの諜報をしていたのは笑える設定で、知能が上がったメギドラルなのには違いないんだけど、微妙に笑いどころが残っている。
 賢く加筆されてはいるんだけど、最大限トンチキ風味を残そう、というコンセプトも感じる。

2.サタニックリブラ刑務所は今のメギドを考えるとちょっとびっくりする周回ステージで、辞め時が難しい。この後デュークでレアドロップ周回は最高難易度に至り、そこから急速に簡易化する。イベントを長く楽しんでもらうようエンドコンテンツを設定したときに、あまりにレアな報酬を用意すると義務感が生じてしまう、そんな難しさがある。
 今後復刻するなら、オーブ取得の難易度は下げても大して怒られない気がする(それで激怒する人ってそもそもオーブ周回に耐えられなくないか)。少なくとも私はデュークの取得難易度が落ちても気にならない(微妙な空気になるよりはずっと良い)。「苦労した人間にはそれ相応の報酬を」は優しい思想だろうが「みんなが苦労しなくてはならない」という意味ではもちろんないし(それはメギド運営も理解しているはず)ユーザー層のなかでサタニックリブラやデュークを追及出来る数もそう多いとは思わない。
 このあたりは、エンドコンテンツの設定自体がかなり難しい。実際にユーザー層の割合からするとエンドコンテンツが必要となるプレイヤーはごく僅かで、現実的な運営をするならこの辺りは考えなくてもいい。にもかかわらずそれを考案するというのは、私はメギド運営の思いやりだろうと思う。私だったら、たぶん出来ない。
 そういう意味で、プレイヤーを大切にしてくれているんじゃないか。PvPにも力を入れておきますよ、と言ってくれるのもそうだろう。

 メギドのいいところは「気軽にやめて気軽に再開出来る」ところだと思っている。常にメギド72を起動しなきゃいけない、という圧があると疲れるし、たぶんそれを認識しているからこそデイリーミッションとかもないんだろう(本当にソシャゲらしからぬユーザーへの接し方である)。今ぐらいの分量で良いかなと思わなくもないが、でも勿論、エンドコンテンツを用意してもらえると、やっぱりそれは嬉しい。嬉しいけど、難しいのは確かなので、どうか無理せずに、というところ。
 とはいえ有用なオーブを集めるのは大変楽しい。サタニックリブラも、普通に使うのであれば★1が2体もしくは★2が1体で十分だろうから、掘るのはユーザー自身の意思でもある。でも、やっぱり★3にしたくなっちゃう。それはどうしようもない。ピローヌとか、自分はすごくよく使うので、この機会に揃えられて良かった。

3.今後も復刻のたびに加筆修正するなら過去イベントのシナリオをどうするか、は難しいところ。物語や世界が展開するうえで矛盾が出現するのは当たり前で、最新版を読んでほしい、という気持ちになるのも当たり前。ただそのままなら「じゃあ最初からそうしとけよ」とか思う人が(さすがに面倒な気もするが)出てくる可能性はあるので、そのあたりを既存メギドとの会話とか、展開自体の捻りとかで、純粋にクオリティアップして迎え撃ってるような感じに見える。

4.もうひとつ。ジズイベのモラクスとマルコシアスが人によっては微妙な気がしたのは(私も正直した)長い期間一緒にいるメギドに愛着が湧いて頭のなかで勝手に上方修正されてしまうのがある。シャックスはともかくモラクスもメインストーリーでメギドらしい過激な発言はしているが、それがキャラ設定の根幹でないと案外忘れがちである。
 この上方修正はもちろん「このキャラはこういう発言をする/しない」という思い込みのフレームでしかないのだが、別の言い方をすれば「ある程度安定しているキャラクター像が乱されると不安に思う」ということでもある。そうなると挑戦的な(インパクトがある)キャラクター性を書き込むのは、新規キャラクターのほうが無難だろう。
 『傀儡の王と操られた花嫁』のティアマトはシナリオの計算的にはまさにそういう役回りを引き受けているし(通りすがりの知らない人だからヤンデレに出来るのであって今まで仲間だったキャラがいきなりヤンデレになったら腰が抜ける)フラウロスとゼパルは「キャラクターの性格はそのままにしつつ」「キャラクター同士の交流で新たな面を出していく」という部分を引き受けている。メギド製作チームがどれぐらいシナリオについて考えているのは実際にはわからないが、『操られた花嫁の傀儡の王』のキャラ描写はかなり考え抜かれている。

5.サタニックリブラ周回について考えると、今のメギドは初心者=ユーザーの大半を意識したソフトなデザインを基調としつつ、最大限中級者以上も楽しめる構造を心がけている、とあらためて思う。また、そうしたユーザーでもイベントを楽しめるように、復刻シナリオの加筆修正があるとも言える。

③その他・今後もしこんなのがあったらいいな
1.『操られた花嫁と傀儡の王』では最大限まで弱体化した後に「やっぱこれ無理じゃん」とリセットして、そこからまたフォトンを振り直すのが面倒ではあった。微妙なところで、強化の程度を1回ごと実感出来るメリットもあれば(特に初心者にはモチベになる……かもしれない)繰り返していくうちにもう面倒くさいからまとめて強化してくれ、という気にもなる。つまり、あの攻撃力5%上昇!というアナウンス、どこまで必要かな、というところ。特に必要数の少ない序盤はもう一気にレベルを上げてしまいたい。フォトンによる性能強化のUIはこれまでにもちょっとずつ改善が加えられてきた部分なので、もし余裕があれば、引き続き改善出来る余地があるか再検討してほしくはある。

2.クズ27歳CMは賢いなあと思った。ああいうオタクのノリはやっぱり公式にはそこまでしてほしくない……という感情はあって当たり前で(私は面白がってたけど、抵抗感がある人の気持ちはわかる)ただCMってまず身内で話題にならないと外に出ようがないんだなあと。本当かどうか知らないが20世紀小説の傑作ってまず身内で話題になって、その声の大きさに外が読んで有名になる、という形式が多かったらしい(耳学問)。ソシャゲと小説を同列に語っていいのかどうかは分からないが、なるほどとは思う。
 賛否両論なCMを打ち出せる状況は、無難で話題にならないCMを打ち続ける状況と比べれば歴然たる差がある。メギドが商売下手かというと私はあまり同意しないけど、「ユーザーにひたすらフレンドリーであることで自然と評判を伸ばしていく」のは商売の愚直な正道だろうから、絶対成功してほしい。

3.育成面で最近気になってるのは、アイテムAを作るのにB+C+Dで、Bを作るにはE+F+Gで……と果てしなくボタンを押し続けるのがちょっと面倒なので、「一気に全部合成する」コマンドがあればいいかなと思う。途中過程でどんなアイテムが産まれるのかを見るのは面白くはあるし、そこまで手間節約させて何になるんだ、といわれればそうなんだけど、合成途中でけっこう画面を間違って閉じてしまったりするので、欲しいか欲しくないでいうと、正直欲しい。

4.凄まじく贅沢な要求だが「同じユニットでもう一度クエストを繰り返す」コマンドがあればいいな、とサタニックリブラ周回で感じた。イベント周回でチケが使えないのはそれは当然だろうと思うので、であれば、リザルト画面→マップ画面→周回用の同じチームをわざわざ選択する(ユニットの位置を現在は動かせないので一度面倒なところに作ってしまうと案外面倒さが跳ね上がる)→ステージボタンを押す、という余計な手間が省略出来て、シームレスに同じユニットで同じクエストに突入出来たらいいなと。これは私がリタマラをほぼしなくてオーブ周回が好きだからかもしれないが、下手に辞め時を作るよりスタミナも消費させやすくて石を削らせやすいんじゃないか、とちょっと思った。上記のこの余計な手間、案外オーブ周回の面倒さを上げているような気がする。裏返せば、これが無かったら(今回で言えばキラーレディ、ソルシエールといった)簡単なオーブ周回は初心者でも多少やりやすくなるんじゃないか。72年後とかに実装してほしい。

5.ハロウィンコスチュームにフラウロス、ゼパル、マルバスと男女両方選んでくれることは嬉しい。メギドの利点は男女両方のユーザーが楽しめることだと思うので、引き続き男女両方に目を当ててくれると嬉しい。米倉さんの揺れ物が多い衣装、とんでもなく可愛いし(単独ではなくてチーム製作だろうと思うが)それをあんな見事な3Dモデルにする技術力もすごいと思う。私はゲーム制作に関わることはないだろうから、どれぐらい凄いかはよくわからないが。

6.協力型コンテンツは、たとえ協力というコンセプトでもけっこうプレイヤー同士に圧を生じさせかねないことを考えると、なかなか簡単でない気もする。ギルド制、フレンド制がないのはメギドの大きな魅力だし、そのあたりをどうするか考案中なんだろう。引き続きじっくりと練ってほしい。ランキング制度と報酬コインのない、称号制度とBGMが入手できて、現行のフリバ形式+レベル調整なしガチマッチの二重システムぐらいが無難かな、というのは素人の発想であるけれど、PvPをどう持っていってくれるかは結構ドキドキしている。あと、毎月イベントやって、新章も出して、生放送もやって、キャラ解説も書いて(これ間を持たせるためのサービスなんだろうけど本当によく頑張ってくれている)、新しいスキンもキャラも作って、ってやること多過ぎんか。どうか無理されないように(母親か?)。

7.総じてかなり楽しい1月でした。相変わらずメギドのことは好きだなと思った。

メギド72『嵐の暴魔と囚われの騒魔』について(Ⅱ)

 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想について、続編です(前回は下記)。

 

A.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』について私が読み落としていた部分についてまずは書きます。それは(明瞭そのものだろうけれども)これが「差別」の物語である、ということです。
 作中を貫く「外見」(ジズ)と「声」(プロメテウス)の対比について、プロメテウスがアイドル、正確には歌手の設定が物語上何を意味しているか、メギドとして差別を受けた経験のあるモラクスと、「正義」を理想とするマルコシアスこそが、エイジズムの表れと取れる発言をする意味について言及します。

 

B.続けて、私が書いた感想の何が問題であったかについて書きます。テキストを批判するときは、当たり前だけれども、そのテキストの可能性を最大限まで読んだうえで行うべきだ、ということです。
 また「私はこれは差別表現だとは取らないが、これを差別だと思う人も居るハイリスクな表現であるからやめたほうがいい」という批判が今回どうなのか、について書きます。
 なお、以前の感想については、無修正で公開とします。

roughpaper.hatenablog.jp

 

 本稿は私が『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の何を読み落としていたか、に関しての文章であり、他人を批判する意図はありません(というか他人の読みについて、それに対して疑問を抱くならともかく、その存在を否定するような筋合いは、別にこの文章に限らずどこにもありません)。また、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の修正を歓迎する方への批判の意図、および修正を批判する人への批判の意図も、断じてありません。

 

①『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は差別の物語である――救いとしての眼と声

 

 大変今更ですが、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は差別について書かれた物語です。
 差別される対象とは第一にジズであり、第二に「悪魔」として幽閉されるプロメテウスです。まずは、ジズの差別のプロセスを読んでいきます。

 

 プロローグです。
 何故ジズが村から追放されるに至ったかは微妙に難しいところですが、次の二点の台詞に注目します。

 ジズ:
 ジズ、ちゃんとやるから
 「力」を…
 …こんとろーるできたら、
 帰ってきていいんだよね…?

 ジズが追放された理由は第一にメギドとしての「力」です。それを裏付けるように、

 厳しい顔をした村人:
 …体のいい追放じゃよ
 でも、やっと村も安全になる…

 と続きます。作中でははっきりとは描写されないのだけれども、ジズは故郷の村でも力をコントロール出来ずにトラブルを起こすことがあったのでしょう。

 このことは第02話・1でも、 

 

 ブネ:
 バフォメット、
 迫害の理由はなんなんだ?

 バフォメット:
 「力」である

 

 と裏付けられます。一方で、ジズの差別はそれだけによりません。同じくプロローグでは、

 陰口を言う村人:
 …悪魔の子
 なによあの耳、気持ち悪い…

 と、ジズの耳が忌避されていることが書かれます。
 つまり、ジズが差別を受けるのは「力」と「外見」の二重の条件によるものです。バフォメットが語る迫害の理由は「力」ですが、第2話で語られるジズの迫害は、「力」よりもむしろ「外見」によるものが先行しています。ジズが「力」のコントロールが付かなくなるのは、そもそも「外見」によって差別され悲しみに暮れたときなので、この順番は自然です。たとえば、第02話・2の、ジズが街にたどり着く場面です。

 ジズ:
 ま、まって…
 どうして、ジズに冷たいの
 ジズはみんなと仲良くしたいの

 街の悪ガキ:
 だってオマエ、変じゃんっ!
 なんだよ、その耳っ!
 しっぽとかキメーんだよっ!

 ジズ:
 こ、これは生まれつきなの…
 ジズがわるいわけじゃ…

 街の悪ガキ: 
 でも変じゃんっ!
 こっち来るな、あっち行けよ!

 このあとジズは彼らに金を奪われ、風の力が暴発しそうになります。その際に、

 ジズ:
 ううう…
 おとうたん…ひぐっ!
 そうだ、ジズ、笛持ってる…

 

 プロローグ、村を出るとき父親が笛を渡した場面を読み返すと、

 父親:
 違う、笛が「力」を
 起こしてるわけじゃない!
 むしろ「音楽」は
 心を落ち着けるんだ
 この子にはそれが必要なんだ
 

 とあります。つまり、ジズはこれまでも風の力を抑えられなくなったとき、笛を吹くことで感情を抑えて乗り切ってきた経験があるわけです(これはバフォメットによっても説明されます)。
 ところがその順番を入れ替えて、笛が力のキーだと考えた村長は笛を持たせないようにしています。
 この「順番を入れ替えて」というのは、さりげないですが、本イベント全編で繰り返される構造です。第一にそれはジズの過去が錯時的に語られる構造であり、第二に本来プレイヤーが出会っていないバフォメットがあたかも既に登場したかのように語られる構造です(これがどこまで意図されたものかは分かりませんが)。

 このあと実際にジズは笛を吹き、なんとか落ち着きを取り戻してロールケーキを買いに行きます。ところがロールケーキでは自分の力をコントロール出来ない事実にショックを受けます。ここで猫耳、という「外見」について店員と客の間で言及があります。
 第2話・03でもジズの放浪が描かれます。新たな街に訪れた村人の会話です。

 暇そうな人:
 …なんだい、あんた
 見慣れない子だねぇ

 迷惑そうな人:
 な、なんだか薄汚れた子だな
 親はどうしたんだ

 (……)

 警戒してる人:
 …おい、これ…
 変だぞ、なんだこの耳…
 

 

 既に複数の指摘があるように、ここで言及されるのは「見慣れない」「薄汚れた」「耳」と、徹頭徹尾「外見」についてです。
 それに対して、ジズは「声」を上げます。

 ジズ:
 そ、そんなこといわないで…
 た、「たすけて」…

 助けを拒絶され、悲嘆に暮れたジズは「力」をコントロール出来ず、街を破壊します。次の街では、


 街の人々:
 …おい、あれ…
 …悪魔の力の…
 …どこかの街を壊滅させた…
 …なんてひどいことを…

 
 ジズが差別を受ける所以はもはや「外見」ではなく「力」からに順番が変わります。故郷の村の村長が本来力をコントロールするものを順番を入れ替えて力のキーにしたように、ここでは差別の順番が入れ替っています。

 ジズはこのあと助けを求めるのが「やさしそうな女性」です。
 

 ジズ: 
 あの…
 
 やさしそうな女性:
 は!?
 え、なんで私!?
 なにか用なのっ!?

 ジズ:
 や、やさしそうだったから…

 やさしそうな女性:
 勝手なこと言わないでっ!
 迷惑だわっ!

 

 ジズは「外見」で話しかける相手を選んだ。もちろんこれは外見による差別ではないけれども、外見が最初の判断になる、というものの見方はこれまでジズが受けてきた差別の裏返しです。さて、ジズが「外見」による差別を受けるのであれば、「種族」で差別を受けているのがプロメテウスです。

 

 警備兵:
 …あんたたちは、信用できん
 …悪魔だからな

 
 もっともプロメテウスの場合は、悪魔として警戒されていても歌=「声」で好感を得ています。警備兵がプロメテウスへの差別を解消するのも、最初のきっかけは歌=「声」です。ジズが助けを求める「声」を黙殺されたのは対照的に、です。

 さっきの警備兵:
 好意は不信を塗り替える
 だからあんたたちの歌は、
 嫌いじゃない

 …聞くたびに、不信が薄まるからな
 街の人たちの反応を見てもわかる

 

 第4話の2・3でも繰り返されるのも外見への言及です。ジズがブネと接触しないのはその外見故であり、またマルコシアスが語るのは「一度見た相手であれば警戒心を解く」という悪魔狩りの経験です。何気ない場面ですが、外見と警戒心が密に結びつけられています。
 それは、ジズがまず外見から警戒されてきた流れの反復でもあります。

*1
 「外見」と「声」が、決定的に対比されるのは第5話・01のプロデューサーとプロメテウスの場面です。ソロモンがブネの叱責、あるいは激励を、目を閉じて黙って聞いていた後の場面です。

 プロデューサー:
 見た目はチャラいけど、
 結構クッソ真面目で
 精神的にもタフなやつだったな

 プロメテウス:
 ううん、泣いてた

 プロデューサー:
 ? 

 プロメテウス:
 あの人の気持ち、
 アタシには「聞こえた」から
 …泣いてたよ
 …どうしようもない悲しみで、
 押しつぶされそうな「音色」
 真っ暗闇の中で、
 叩きつけるような暴風に
 晒されてるような孤独を感じた…
 …泣いても泣いても、
 涙が風で飛ばされて乾いてく
 あれはそういう感情の音色だよ

 

 こうして引用してみると、ソロモンの心情を述べるこの部分は、ジズの心情を連想させるようなものです。 バルバトスは2話でこう語っています。

 バルバトス:
 ジズは、たった1人で
 生き抜こうと戦ってるんだ
 「この世界」を相手にね…
 俺は、俺に可能な限り
 そういうヤツに味方したい
 行こう、ソロモン

 こう語るバルバトスが、ブネと共にソロモンの「善性」を護ろう、というのはぐっとくるものがあります。もちろんソロモンは仲間こそ居ますが故郷は一度滅んでいます。世界を救うことは孤独です。「暴風」に等しいような敵も居る。あるいは救うべきヴィータの悪意に晒されることもあるでしょう。ソロモンの戦いの相手は現実的にはメギドラルですが、それは同時にハルマゲドンを巻き起こそうとする「世界」の仕組みでもあります。メインストーリー46話で言及されているように、最終的な戦いの相手は「母なる白き妖蛆」という、メギド達が知覚出来ないシステムです。 
 プロメテウスはソロモン達と一旦は別れますが、「希望」の音色を聴取し、街に戻ります。

 プロメテウス:
 増えてる!
 増えてるよ!
 人を思いやる気持ちが…!
 これを束ねれば、「希望」になる!
 アタシの歌で、それができる!
 (……)アタシわかったの!
 いい歌を歌えばそれでいいって
 ものじゃないって
 心に何かが届くときは、
 受け取る側にも準備がいる…
 それに相応しい「状態」があるの
 きっと、その「状態」を
 いっぱい生み出せることが、
 この世界の懐の広さなんだ!
 今、ヴィータたちの気持ちが
 素敵な音色を響かせてるのが、
 アタシには聞こえるの!
 ドン底の最低にあっても、
 それでもあきらめない心が…
 人を想う気持ちが…
 その「音色」を歌に乗せて、
 みんなの気持ちを繋いで、 
 ジズに届けたいの!

 歌をジズに届けるには街が騒がし過ぎる。状況の打開策を提案するのはプロデューサーです。

 プロデューサー:
 ふぅ、仕方ねぇな…
 あっちを見な、見張り台があるだろ
 あそこからなら街中に響くぜ!

 (……)

 プロメテウス:
 …………
 (さっすが視点が高い鳥だって
 言わなくてよかったかも)

 

 ジズが召喚される場面で鍵となるのは「声」です。それは第一に「みんなの気持ち」を繋いだプロメテウスの「歌」であり、暗闇から聞こえてくるソロモンの「声」です。「外見」による差別の過去に苦しみ、ヴィータ不信に陥ったジズの心を救い上げるのは「声」です。しかしプロメテウスの声が届くのはそもそもプロデューサーの「眼」があったからです。ジズを差別した「眼」がジズの救いに繋がる。あるいはジズを苦しめた非難の「声」が、プロメテウスとソロモンの呼びかけという救いの「声」に転じる。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は、災いを与える目と声が、救いへと転じる物語です。

 

②「年を取ったらキツイ」は何故モラクスの言葉なのか

 今回修正された表現について再確認します。

 

ジズ:
 こんとろーる…!
 ジズは…
 もうだいじょうぶ…なの?

 シャックス:
 でもでもー
 耳とかしっぽは
 そのままなんだねー?

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 マルコシアス
 大丈夫ですよ、
 すごく可愛いですから!

 モラクス:
 でも年取ったら、ヤバくね?

 マルコシアス
 そ…そのときはそのときです
 周りがキツくなってから、
 対策を考えましょう

 

 前回の記事で私はこの部分は先天的なジズの特徴が、後天的なアクセサリーとして変換された上で周りが「キツく」なると、エイジズムを彷彿とさせる表現をしていてハイリスクである、と書きました。マルコシアスの「周りがキツく」に対するジズのリアクションは書かれていません(もう修正されて読めないですがまず書かれていないはずで、この流れでジズが落ち込んだりしたら後味がいくらなんでも悪いです)。

 最初にこの部分を読んだときに感じたのは、同じくメギドとして村で差別を受けていて、故にジズの境遇に憤慨したモラクスがする発言としてはあまりに不用意なんじゃないか、そしてそれに同調するのがマルコシアスなのも違和感がありました。マルコシアスについては、「マルコシアスの章で行き遅れとして描かれているので、外見と年齢が結び付くのは理解出来る」という意見もあり、筋は通っているのかもしれないとは思いましたが、個人的にはちょっとしっくりこないものがあります(メインストーリーでバラムがマルコシアスの婚期についてからかっているのは確かで、ただ普段から本人や周囲がそういう言動を繰り返しているわけでもないしなあ……というところです。私がマルコシアスを推しているわけじゃないのもあるだろうけれど、それを言われて初めて「そういえばそんな描写もあったなあ」と思い出す程度ではありました)。

 この部分でまず私が最初に疑問に感じたのは、
①モラクスとマルコシアスがこの発言をするのは不自然では?
②どういう意図でこの会話をわざわざ挿入したのか?
 の二点です。

 しかし、差別というテーマに視点を絞れば、この被差別者のモラクスと「正義」のマルコシアスの発言は実にありふれたことです。差別を受け、同じ差別自体に激昂することが出来る人が、エイジズムのような別の抑圧には不用意に加担してしまう。たとえば自身が「男らしくない」と性別による抑圧を受け、他人の女性差別に憤慨したとしても、「年を取れば自然に~するものじゃないか」とか無意識に思ったりするようなことは、これは単純に責められるべきこととも言い切れず、あり得ておかしくない現象です。 
 実際「正義」のマルコシアスですら、「周りがキツく」なる、という表現をごく自然に使ってしまう。マルコシアスは自分を「正義」だと思っているだろうけれど、モラクスは自分が被差別者という認識がどこまであるかは難しい(でもマリーとの一件は確実に心の傷になっているでしょう)。とはいえ、被差別者が別の抑圧を意図せずしてしまうのは別にヴァイガルドに限らず現実にもよくあることでしょう。
 嫌な話です。でも、この嫌な重さは、ジズによる死人の存在を明確に描き出したことを考えれば、ライターが表現したい内容としてあり得たと思います。そしてもうひとつ大事なのは、この発言に対してジズのリアクションは書かれていない。ジズにとっては今現在のことが全てで、未来においてどうするかなんて考えようがない。
 ただ、この発言を聞いて(この時点で言語化出来なくても)ジズが感じるのは「私は一生この猫耳と付き合わなくてはいけないのか」という重さではないか、と思います。そしてその重い条件を実際に(まあハルマゲドンでヴァイガルドが吹っ飛べばそんな問題もないのですが)ジズは引き受けなくてはならないのです。やはりこれも、ジズによる死人の存在を描き出したのと同水準の重さでしょう。
 
 もうひとつ。モラクスの疑問自体は、ヴァイガルドというお先真っ暗な土地であれば本来は現実問題として目を外すわけにはいきません。一般に状況の悪い場ではとんでもない抑圧が平気で起こりますし、正当化されます(東京医大の一件のように)。ヴィータに対して友好的なアイムですら、「見た目が変わらない」とたったそれだけの、しかし暗い状況下では恐怖に繋がりかねない理由で迫害を受け、住まいを追い出されています。

 したがって、「年取ったら、ヤバくね?」というモラクスの問は、ヴァイガルドに生きる者として自然です。テーマとは別に、被差別者であったからこそ現実を考えずに居られないモラクスの視点のはありえるわけです(というかメインストーリーでのモラクスも現実をシビアに考えがちです)。いくら差別に憤慨していても現実の差別について意識が向く描写は、「ヤバい」という言葉選びを当のジズの前でするのは配慮には欠けるかもしれませんが、キャラクター性として不自然なものではない、と今は思います。

 したがって、何故「年取ったら、ヤバくね?」がモラクスの発言かについては、
①差別というテーマに絞って見れば、被差別者であっても無意識に別の抑圧には加担する
②キャラクター性に絞って見れば、被差別者として暗い現実を突きつけられたモラクスであるからこそ、あの明るい場面でも現実を見据えた冷めた問が湧き上がってくる
 の二点を考えます。マルコシアスが「周囲がキツく」なると発言する理由については、私は①でのみ考えます。行き遅れの設定だから年齢と外見が結びつく、という考えについては、筋は通っているかとも思いますが、感情的に同意はしにくいです(でも、それはあくまで感情です)。

 さて、修正後のシナリオを見てみます。

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 シャックス:
 そうなの?
 ジズジズが嫌なわけじゃないなら、
 よかったよかった!

 マルコシアス
 そうですね
 心配いりませんよ、ジズ
 なにもおかしくありませんから!

 モラクス:
 文句言うヤツがいたら
 俺がぶちのめしてやるってっ!

 

 シャックス、マルコシアス、モラクスと今回のイベントで問題になった(シャックスの台詞が問題になるのは私は正直よくわからなくはありますが)三人による肯定が続きます。しかし重要なのは、ここでもジズのリアクションは書かれていないことです。
 実際にはシャックスが言う通り「ジズジズが嫌なわけじゃない」かどうかはよくわかりません。というか、「年取ったら、ヤバくね?」とモラクスの現実的な問があることを踏まえると、少なくとも肯定は難しいだろうし(……なので、修正されたことでシャックスの個性が消されてるんじゃないか、という問題は実にトリッキーな形で解決されていると考えます)マルコシアスが「なにもおかしくありません」と言うのは、もちろん「おかしい」と抑圧するヴァイガルドの人々が前提にあります。
 でも現実を離れた「気遣い」としてはこれが適切です。
 モラクスの「年取ったら、ヤバくね?」は今は言わなくていい。「そのときはそのとき」なのです。このタイミングでは「なにもおかしく」ないし、「文句言うヤツ」からは守ってやる、と保護のスタンスが出て自然でしょう。ただそこには「おかしい」と思う風潮は示唆されているし、「文句言うヤツ」も想定されている、というところで、本来のシナリオの苦味を維持していると考えます。
 
③私の『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想のなにが問題なのか

 既に書いた『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想の問題点について取り上げます。
 私が「年取ったら、ヤバくね?」は削除修正すべきだ、と書いたのは、あの箇所が差別表現として読めたからではなくて(ある表現が現に差別的かどうかに対しては私は興味はないので)「差別表現として読み取って攻撃する人がいるだろうし、ハイリスクではないか」と感じたからです。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』はこれまででも最高傑作に近いシナリオであり(その理由についてはひとえに「敵」の表現によるとは書いた通りです)だからこそこんな些末な部分で批判されるぐらいであれば、もうとっとと消してしまったほうがいい、という意見でした。

 

 これは、事なかれ主義でもありますが、責任逃れでもあります。
 「私は悪く思わないけれど、悪く思うような人もいるから、そんなラディカルな表現はしないほうがいいよ。それに、別にこの部分が無くたって大して話の内容は変わらないし」という意見に過ぎません。
 何の責任かと言えば、表現の修正を推す責任です。私のこんな小さなブログに影響力があるかというと私自身は疑わしいし、また公式へ直接的に意見を述べたこともないのですが、しかし、表現が実際に修正された以上、その責任がまったくもってないかというと、断じてそんなことは言えない。
 表現の修正を推すには、相応の責任があります。

 私は小説を書いたり読んだりして、人の作品に意見したりもするのですが、基本的にテキストに対して修正変更を提案するときには、その可能性を最大限に引き出した上ですべきだと思っています。ひとつは「変えたほうがいいって、お前が読めてないだけやんけ」と思うのが普通だし、何よりテキストを書く行為自体が大変だからです。
 作品の最大限の可能性を引き出してもいないのに雑に「こんな部分はまずい」と言ってそのまま進むのは、相手が納得しているのではなくて、単に立場による抑圧である場合が少なくないはずです。テキストの最大限の可能性を吟味したうえで、それでも修正したほうがいい、というのは、これは批判をするうえで必要な礼儀ではないかと思います(もちろん他人にそれを押し付けるつもりはありません)。
 
 では、そもそも私がこの部分の意味を最大限に読めていたかというと、否です。
 具体的には、これが「差別」の物語である、という素朴な事実を見落としています。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は議論を呼んだテキストでした。私もものを読むのは得意なほうではありませんが、あの部分について議論が巻き起こること自体、複数の意味を持ち得る証左として読んで差し支えないと思います(いや、そんなもの、こういう意味に決まっているだろう、お前が読めていない、と言われれば他に何も言いようはありませんが)。この場面の解釈について書かれた文章を複数読みましたが、どれもある程度以上の筋は通っている、という印象は正直受けます。
 
 テキストは複数の解釈を生みます。でもその広がりがまずい、今回のようにハイリスクなのであれば相応の注意は必要なはずで、たとえばバルバトスに「たとえ迫害された者であっても同じように迫害することはありうる」ぐらいの注釈は入れて良かっただろう、と思います。
 つまり、削除ではなく、追記であの部分の可能性を救う選択肢はあった。
 もし小説であれば、私はたぶんそう言っていたとも思います。よく実際に口にする言い回しであれば「この部分はテーマは分かるけれど、これだけだと意味が広がり過ぎるし、人によっては差別の現れだと受け取りかねないから、言い訳じゃないけどちょっと注釈を入れたほうがいい」というところです(文面で書くと実にアホですが)。

 また、私が「被差別者もまた差別をし得る」というテーマの表れだ、と読んでいるのも実のところこのシナリオに直接書かれていないテーマに過ぎません。それは擁護であっても「差別表現はいかなるものであっても作中の主人公寄りのキャラクターにはさせるべきではない」というぐらい、テキストの中身と本来無関係な発想と個人的には思います。なので、本来は削除よりも注釈、のほうが望ましかったような気はします。
 ただし、それは今だから言えることで、そもそも差別と被差別の物語である、という事実を読み落としている時点で、確かにハイリスクな表現ではあるにしても、あまりに性急でした。
 
 もうひとつの問題点は、「ハイリスクだから止めたほうがいい」に底流する萎縮の論理です。
 これは「無難なことだけ言っておいたほうがいい、というのでは書けるべき内容が狭まるのでは」という問に関するものです。リスキーな表現でしか書けない場面自体そんなに多いとも思わないのですが、もし読み手に違和感を感じさせる(さらに外傷経験があるような人にかなりのダメージを与える)リスクを承知でするのであれば、話はまったく変わってきます。「リスクを承知でやっています」に対して「ハイリスクだからやめたほうがいい」というのは、単純に萎縮を強いる論理でしかありません。
 
 大多数の人とは無関係な、まったくもって個人的な感情ですが、これだけの傑作シナリオを書いたライターさんが、単なる不注意であんな場面を入れたわけではなかった、と一歩踏み止まれれば良かったなあとすごく後悔しています。これだけの作品を書いている以上、やはり何らかの意味はあるはずだという眼で見ていれば、拾い上げられた可能性があった(もちろん注釈無しの現状では妄想に等しい読みですが)。だって、もしこれで今後ライターさんが萎縮することがあれば、その責任の一端がないとは断じて言えない。
 言えない、どころではない。ある。
 あると見なせないのなら、そもそもそんな文章を長々書くべきじゃない。
 そこで「結局修正したほうがいいと判断したのは公式だったんでしょ?」と私が言うのは、それは単なる後付けの正当化です(他人が同じことを言うのはどうでもいいです)。表現の修正を推す側として意見することには相応の責任があって、たとえば作品を酷評した相手が小説を書けなくなるとか(私も忘れているだけでそういう最悪なことに加担していたに違いありません)書いた側の心を破壊するぐらいのリスクはある。

 私自身、作品を否定される側に回って渋い思いをしたことは何度かあります。そういう否定をされて苦い思いをした自分が、別の作品に対して同じような否定を繰り返す。それは差別ではなくて単なる否定だけれど、その反復について考えたとき、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のあの場面は、かなり重い気持ちで読み返さずにはいられません。長くなった上に余計なところが多い文章になってしまいましたが、以上です。(了)

 

note.mu

 なお、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』が差別の物語である、という事実を気付かさせてくれた文章は上記リンクです。紹介を許可してくださったモ。さんに深く御礼申し上げます。

*1: なお、シャックスの台詞修正を受けてバルバトスが「裏表がない」というのは、「外見」ではない部分についての言及であって、この場面は単に差し替えという以上に、流れに沿った優れた台詞です(私はシャックスの台詞は修正不要と感じていましたが、それとは別に、このバルバトスの台詞は物語に沿った形と考えます)。吟遊詩人、「声」の人であるバルバトスが、「外見」による差別を織り込んだジズを巡る計画を見抜くのもよく出来た流れだと思います。

メギド72『嵐の暴魔と囚われの騒魔』秀逸なシナリオと一個のミス

 今回はメギドのシナリオ『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想、および表現面での指摘です。

A.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』が優れたシナリオである、ということを説明します。
B.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』において問題とされ得る、二点の表現の吟味を行います。

①『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は第一に優れたシナリオである――特に「敵」の表現において

 まず初めに、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』はこれまでのメギド72のイベントシナリオで最も秀逸なもののひとつであった、と主張します。特に素晴らしかったのが敵の表現です。これまでメギド72は複数のイベントを開催してきましたが、いずれも「メギドラル本編に比べてアホ過ぎない」と突っ込みたくなるほど、敵の表現については本編ほどの精彩には乏しかった印象があります。

 それはおそらく、メギド72のコストカットに由来します。メギドは基本的に敵として登場したモデルは味方キャラか(最近は少なくなってきましたが)オーブとして再利用していて、モデルの製作コストを考えれば当然のことです。
 そしてそれ故に、「今後仲間になるメギドがあまりに悪辣なことをしにくい」という制約があります。
 メギドの常套句(嘘です)のひとつに「どのツラ下げて仲間になったんだ」がありますが、たとえばデカラビアとフォルネウスはその代表例で、もし仮に彼らがイベントで登場して村人を虐殺したうえで仲間になったとしたら、プレイヤーとしてはかなり微妙な気分になったと思います。。
 『鎮魂の白百合・プルフラス』(これも傑作)におけるサタナキアは、アシュレイをめぐる情念の書き込みを以て「アシュレイを殺害しているが仕方なかった」と思わせる、巧みな描写をしています。
 四冥王はそもそもガープの仲間だし、アラストールは作中でモブに慕われてすらいます。
 カスピエル、インキュバスメフィストの三馬鹿については後述します。
 
 特に興味深いのが今後仲間になるであろうガギゾンで、イベント自体のトリックスターとして用意されたキャラクターでもありますが、実際にやっていることはメギドの範疇では案外無難で、物語の結末で罪深さが軽減されています。『上書きされた忠義』のブニが洗脳を解かれずに人格崩壊していたり、『二つの魂を宿した少年』のシャミハザがジルの魂を殺した、なんて流れがあればガギゾンはまさに「どの面下げて仲間になったんだ」で、実際にはブニは問題なく洗脳を解かれた上にブネの格好良い見せ場を作っていますし、ジルとシャミハザは大変な仲良しです。
 これは今後仲間になるうえであまりに酷い振舞いをさせるわけにはいかない、というユーザーの感情に配慮したシナリオ構成であり、それ故に今後もガギゾンの行動は基本的にヌルいことが予想されます。

 したがって、メギド72のイベントシナリオにおいては、「敵」はしばしばキャラクター性の乏しい幻獣(ドネルケバブ、古き災厄の魔女)か、やむを得ない事情で「暴走」したメギド達(アラストール、ジニマル、ブニ)に設定されている場合が大半です。最後まで正気を保って対立したのはサタナキアのみで、それも作中で殺されたかった、と心情説明が明確にされています。
 基本的にメギドの「敵」には仲間に出来るだけの「ヌルさ」が必要なのです。
 ヌルくないことが発覚しても、それは仲間になった後でなくてはならない、という原則があります。そうでなければ、仲間にする=ガチャを回させる意欲が普通は無くなってしまうわけで、それは商売の観点からよろしくない。
 そしてその制約故に、メギドのイベントは「敵」の描写に苦労させられてきました。本編のメギドラルがかなり強烈な悪意をもって行動してくるのに対して、イベントシナリオのメギドラルはどれもポンコツにせざるをえなかったのが実情だと思います。
 
 「敵」がポンコツの上で盛り上げる物語は非常に難しいです。張り合いがないから。それ故に、メギドのイベントシナリオは、しばしば「敵」の脅威に打ち勝つソロモン、というクライシスとは別の形で盛り上がりを描こうとしてきました。そして、その面倒な条件にもかかわらず、概ねメギドのシナリオは面白く書かれています(すごいです)。たとえばその代表格は物語としては誤解の解消と和解がすべての『死者の国の四冥王』で、メギドのイベントシナリオらしい、非常に穏健な出来栄えです。一方で、敵の意思が明確な『復讐の白百合』は、面白さのベクトルが(同じ感動ものでも)違ってきます。
 
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は、この「敵」の表現で極めて優れていました。ジズがヴァイガルドに追放された理由は実に陰険で、作中で描かれる悲惨な放浪の細やかな描写もあって、ぞっとするぐらい怖いメギドラルです。
 また、ソロモンでは救えない、最後の最後まで勝算が無いんじゃないか、そんな状況のスリリングさも凄まじかった(状況の危うさに匹敵するのはジニマルですが、ジニマルは「敵」が曖昧な自然現象のような幻獣であっただけに、その脅威はより強いです)。なにせソロモンが本当に「殺すしかないかもしれない」と思うところまで来ていて、それだけ「敵」の悪意が凄い。そこを成功に着地させるのがヴァイガルドの人のささやかな善意とプロメテウスの歌なのも、散々ヴィータの悪意を描いただけにグッと来ます。
 キャラクター描写のうえでも、化け物として村で虐げられていたモラクスがジズの境遇に激昂する、戦争の現実を突きつけつつ汚れ役を自ら引き受けようとするブネ、そしてバルバトス、と秀逸な要素が多かったと思います。
 ソロモン一行では打開出来ない状況(プロメテウスの幽閉)を、バフォメットという「悪」を連想させるキャラクターに解決させたのも上手い展開だし、胸糞の悪い描写をジズの放浪を通して描きながら、最後に親子再会を示唆するハッピーエンドに導きつつ、それとなくバフォメットが死者の存在をソロモンに耳打ちする、実に引き締まった終わり方です。敵の悪意の凄まじさ、そして単なるハッピーエンドではない、苦味をわずかに漂わせた終わり、この二点において、今回のイベントはメインストーリーに似たベクトルでの秀逸さがあったように思います(そしてそれ故に、化身舞踏のアレンジBGMを初めて聞いたときは難易度にかかわらずものすごく興奮しました)。
 私は傑作だと感じています。
 
②『嵐の暴魔と囚われの騒魔』と『ソロモン誘拐事件・逃亡編』について

 しかし一方で、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』においては、ハイリスクな表現があるのは確かです。
 少なくとも一個の部分においては問題だと感じます。
 
 まず私はライターの倫理観に基本的に興味がなくて、たとえばキャラクターが倫理的に問題のある発言をしたからといって、ライターの倫理観に問題がある、という思考の型については同意しません。
 そもそもメギド72は「クズ」も容認する「多様性」をテーマに組み込んでいるので、実は「全てのキャラクターは正しく倫理的な言動をすべきだ」という前提が強い場合は、メギド72のシナリオはかなり受け入れ難いものになり得そうなものです。しかし実際にはそうではなくて、そういうタイプの批判をする人でもメギドはある程度楽しくプレイ出来るようなシナリオになっています(多様性か)。

 実はそれもそのはずで、メギドのメインキャラ、つまりユーザー全員が読まずには居られない部分のキャラの発言においては、基本的に無難な発言しかしていません。口の悪いバエルも実際大したことは言っていないし、シャックスも味方やプレイヤーの感情を強烈に踏みにじるような発言は基本的にしていなかったはずです(このあたり私はシャックスの言動に強く注意するほうではないので、もし違っていたら教えてもらえると大変ありがたいです)。
 メインシナリオに登場しないデカラビアやフォルネウスといったキャラクターも、基本的にソロモンに対しては(過剰なぐらい)友好的ですし、フラウロスについても同様です。
 このあたり、実はメギド72には、

①倫理的に問題ある発言(現実のプレイヤーを含めて他人を傷つけるような言動)はしない
ヴィータ=プレイヤーの倫理的感性とは異なるが、それが自然と思わせるようなキャラ描写・説明がある
③対外的にはかなり問題があるが、少なくともこちらに向ける言動ではヴィータ=プレイヤーの神経を逆撫でしない

 という三パターンに分かれた発言の型があります。フォルネウスがキャラストで邪悪なシムシティのついでにソシャカスを揶揄するような邪悪な集金システムとか始めたら最悪です(メギドのガチャは無難な範囲ですが)。
 また、破滅的な状況に陥っているヴァイガルドでは、本シナリオのような陰惨で非倫理的な事態が起きるのはごく自然なことです。メギド達が同じように非倫理的な言動を繰り返すのでは救いがなくて、むしろそのような環境であるからこそ、彼らが倫理的に問題ない、人を傷つけない言動を遵守することは、一定層のプレイヤーにとっては重要なのだろうと思います。だからこそメギドがいちばん注意深く取り扱っているのは「クズ」です。彼らは多様性を担うキャラクターとして当然非倫理的な言動をしなければならない。けれどもそれが現実のプレイヤーに不快感を抱かせることは避けたい。
 この微妙に難しいラインを、メギドのクズは強いられています。

 それがもっとも難しかったのが、おそらく三馬鹿だったと思います。フォルネウスがヴィータの救済は死しかない、と言ってもそれは所詮他の村のモブの悲惨な事件であって、プレイヤーを直接傷つけるような言動はありません。それに対して三馬鹿は物凄く取扱いが難しいキャラクターで、「女性を利用する対象としか見ていない」なんて強烈な設定を与えられているからです。性的搾取を常態にしてるWD配布キャラっていくら多様性でもチャレンジがハイリスク過ぎるだろ。しかし実際にはこの設定は、

①カスピエルは仲間になった瞬間にソロモンに異常に執着し、過去のアーバインへの思慕を見せる
インキュバスには小学生のようなアホな言動を繰り返させる
メフィストはキャラストでハーゲンティとシャックスと仲良くする
 
 この三点で毒抜きが試みられています。この三人のなかで一番性的搾取を露骨にしているのは手段が見えないカスピエルではなくインキュバスだと思うのですが、個人的にはカスピエルのほうがその印象は強いです。カスピエルの変わり身はあまりにメチャクチャですが、実際にソロモンへの執着無しで「もっと女がひっかけやすくなった」とか「どの女を使おうかな」といった言動を繰り返しているとなると、使うのに抵抗の強いプレイヤーは居て自然だと思います。言動ではカスピエルのほうが強烈だけれども、手段としてはインキュバスのほうが露骨である。仮に嫌われるとしても一人にヘイトが集中しないような仕組みにもなっているんじゃないかと思います。

 毒抜きがうまく出来ているかどうかはともかく、少なくともそうした試みがありそうだ、ということです。その毒抜きがされていない、ファーストコンタクトとしてのイベントストーリー『ソロモン誘拐事件・逃走編』に一部から賛否両論があったのは確かですし、女性を操って盾にする展開に一部のプレイヤーが傷つくリスクがあるのは否定出来ません。何故ならそこに描かれているのは、どうしようもなく単純な性的搾取だからです。更に言えば、インキュバスに対応するサキュバスが男性を搾取するような描写が無かったのもあるかもしれません(じゃああったら良かったかと言うと私は嫌です)。

 非常に長い前置きになりましたが、では『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のハイリスクな表現を確認します。
 リスクとは、人を傷つけ得るリスクです。
 
③『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のハイリスクな表現――しかしそれがすべてではない
 
 批判を受けていた描写は、見た限り2点です。
 うち1点は訂正したほうがいいだろう、と思います。そちらを先に挙げます。

 A.

 ジズを召喚した直後の会話です。

 シャックス: 
 でもでもー
 耳とかしっぽは
 そのままなんだよねー?

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 マルコシアス
 大丈夫ですよ、
 すごく可愛いですから!

 モラクス:
 でも年取ったら、ヤバくね?

 マルコシアス
 そ…そのときはそのときです
 周りがキツくなってから、
 対策を考えましょう。 

 これは確実にハイリスクだと思います。猫耳は先天的だ、とジズが説明しているにもかかわらず、モラクスの「年取ったらヤバくね?」を受けてマルコシアスが「周りがキツくなる」と表現する。要するにマルコシアスの発言は後天的につけるアクセサリーとしてわざわざ変換しているうえで、そのうえで加齢と「キツイ」を組み合わせ、しかも人によってはギャグと取りかねない小休止でやっているので、エイジズムと読まれても言い訳が出来ない。
 つまり「年甲斐もなくそんな恰好をして」という抑圧を連想させるわけです。
 モラクスが「周りがキツくなる」と考え無しに言うならまだしも(脳筋の範疇として無理に考えられなくもないので、ただモラクスは無思慮ではないと思うのですが)マルコシアスにこれをやらせるのは猶更わからない。
 そして別にここの発言はさして会話において重要な部分でもないわけで、「あってもなくてもどっちでもいい部分」で「ハイリスクな言動をさせる」のはやはりリスキーです。
 裏返せば、この部分は消したところでさして会話に影響がないので、消したほうが無難だと思います。

 それによってキャラクターの描写が色褪せるとか、そういうデメリットも感じられません。
 
 次を批判を目にしたものの、これに関しては問題としてのリスクは感じなかった、という描写です。
 ただし別の問題は感じます。具体的には、シャックスの取り扱いの難しさです。

 B.
 4章3節ジズが荒野にてソロモン王と対話するのを、仲間たちが見守る場面です。

 マルコシアス
 うまくいきそうですね! 
 ソロモン王1人で
 接触させる作戦は成功です!

 シャックス:
 さすがモンモン、
 やるもんですなー!
 子供をさらうプロになれるネ!
 
 バルバトス:
 なんて人聞きの悪いことを
 言うんだキミは…

 この「子供をさらうプロ」はシャックスの非倫理的言動です。もっともこのあと、マルコシアスの「初対面の人よりも、見たことある人のほうがいくらか警戒心は和らぐはずです」という「悪魔狩り」の経験で得た発言について、バルバトスが「その発言、よく考えると逆に怖いんだけど……」とコメントしています。
 マルコシアスが意味する悪魔狩りとは、追放メギド、つまり同胞を狩っていた経験であり、そのときに「見たことある人」としてある意味騙し討ちに近いことをした。だからこそバルバトスは「怖い」発言だと認識しているし、「子供をさらうプロ」は勿論「人聞きの悪いこと」であり、このマルコシアスの騙し討ち共々「怖い」ニュアンスのうちに含まれる、と読みます。
 シャックスの非倫理的な言動は、作中において非倫理的であると、はっきり説明されています。
 そもそもシャックスは元々爆弾発言をするキャラクターだし、唐突なものとも感じません。
 この「子供をさらうプロ」はエンディングで反復されます。

 シャックス:
 さっすがモンモン、
 やるもんですなー!
 子供をさらへぶぅっ!?
 
 バルバトス:
 …キミ、少し空気を読みなさい

 ここでもバルバトスは倫理的にシャックスを戒めているわけで、「非倫理的な軽口を放つシャックス」「倫理的に諫めるバルバトス」というごく自然な描写をされていると思います。この場面でのシャックスにこう言わせることに、少なくとも消したほうがいいメリットは私は感じません。子ざらいという人権を蹂躙するような行為を軽口で放っているのは問題だと指摘は出来るかもしれないけれども、腐ったフォトン袋の時点で十分非倫理的では。
 
 実はこの描写が問題視されるのは、そもそもシャックス自体の扱いが非常に難しいことにあるんじゃないかと思います。トラブルメーカーの鳥頭設定がある以上、シャックスがプレイヤーに向けて活躍出来るのは「予想外の、だれにも出来ない発想」をする場面が第一なのですが、このパターンは書き方が硬直しがちなので繰り返し使いにくい。
 もっともジズは人によっては扇情的なキャラクター造形には見てもおかしくはないので(あんな悲惨な境遇を見て扇情もへったくれもあるかとは思いますが)そこと「人さらい」は厳しいマッチングではあるかもしれません。
 そこに性的搾取、のようなものを読むことは可能、なのかもしれない。でも一般的ではないんじゃないかな。

 基本的にメインシナリオはずっと状況が緊迫しがちなので、シャックスが間を抜けたことを言った程度では空気が緩んだりもしない。鳥頭! って連呼される描写が続くのは多少は仕方ない気もします。モラックスだー!! なんて秀逸な描写はあるけども、「実は学生で頭がキレる」という設定と鳥頭設定の食い合わせがかなり悪い。不憫です。
 なんか、普通にシャックスが誰かを思いやるような話とかメインストーリーとかでもっとないかなあ。出来なくない気がするんだけども。今のままだと、非倫理的な言動だけが持ち味になっている、と受け取る人はいそう。
 私はシャックスが推しではないけれど、人によってはつらくなっても仕方ないかなあ、と思います。
 
 私が確認する限りでは『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のシナリオを批判可能な点はこの2点に限られると感じます。
 Aは確実にまずい。でもBはシナリオではなくてキャラクターの活用法がまだ模索され尽くしていない、という印象を受ける。したがって、後者についてはこのシナリオに限ったことではなくて、このシナリオ単体だけでは修正が困難な問題です。一方前者は修正(削除)したほうが確実にメリットがある。

 なぜこんなオタクの「お気持ち」を連想させるような七面倒くさい文章を書くかというと、まず何より『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は優れたシナリオだからです。私はこれまでで一番の傑作だと思っています。それを、こんな簡単に削除出来るようなミスひとつで「シナリオに問題がある」などと言われるのは、正直かなり残念です。
 勿体無さすぎる。そんな批判で簡単に崩れるようなシナリオであるはずがありません。あっていいわけがない。

 本当のところを言えば、部分ひとつの間違いで全体全てを批判するのは、物事の吟味としては問題があると感じます。一方で、大まかには問題がないからといって、細部の問題に目を閉じるのもそれは違う。
 Aの描写は迂闊です。非倫理的な言動をするときは必ず注意を集中させているメギド、らしからぬミスだと言ってもいい。でもそれがすべてではない。Aの描写は、シナリオ全体を称賛するにしても、私は削除すべきだと思います。
 でもそれがすべてではない。そのごく僅かな部分を削除したところで全体が台無しになるわけではない。そこさえ無ければシナリオとしては本当によく出来ているのだから、さっさと消してしまったほうがいい、と感じます。
 
④リスクの意識は本筋よりもむしろ細部において重要なのかもしれない

 ここまでがあまりに長過ぎたので、最後は軽く終わらせます。
 今回『嵐の暴魔と囚われの騒魔』で問題になったのは「年甲斐もなくそんな格好をするのはおかしい」とよくある抑圧で、場合にもよるだろうけれど、人を傷つけ得る言動として取り上げられても不自然ではないと思います。
 私はそういう言動で傷ついた記憶はないけれども、それで傷ついた人がいるのは想像出来る。
 人が問題視する言動のひとつは過去の傷を再現し得るものです。もちろんそれ以外に、「理不尽な抑圧」を共通項として括って反応する場合もあるだろうけれども、そうしたハイリスクな表現が、本筋ではなくて細部でされる場のダメージは一般に大きいような気はします。
 女性の性的搾取をメインに露骨に打ち出したコンテンツは、そういうのが無理な人は受け取らないほうが自然でしょう(もっとも広告の問題はあります)。そういう見た目をしていなくて、唐突にそれが飛び出してきたとき、傷の再現は起こりやすくなる。それが本筋であれば、人は完全に拒絶することが出来る。また本筋ならそれなりの救済が来る場合も少なくありません。今回のシナリオで虐待のトラウマが惹起された人はいるかもしれないけれど、それはある程度物語の結末で救われるんじゃないか、ではもちろん、あまりに甘くて無神経だとは思うのですが。
 でも不用意な細部ではそれは難しい。だから、細部に傷が呼び起こされたとき、人はそれを救い得ない全体を急激に否定するのかもしれない。なら、それを「読解力がない」とか「問題の一部でしかない」とかいう気にはなれない。

 ともかく不用意な細部はハイリスクだと感じます。昔読んだ文芸の小説で、義理の兄に性的虐待を受けて妊娠した女性が、そのレイプに快感を覚えていた、と手記に記述している場面があり、これはちょっとどうなんだ、と感じたことがあります。オタクコンテンツに限らず、傷の惹起が生じやすく、また注意を払うべきは、本筋ではなくて細部なのかもしれません。
 長くなりましたが、以上です。

東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』読売文学賞を受賞した最高に切ないBL

 東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』は2018年の読売文学賞受賞作で、しっかりした文学賞なのですが、選考委員に腐女子でもいたのか? ってぐらいオタクのツボを完璧に突いた超良質の泣けるメリバBLなので紹介します。
 とにかく49歳直木賞作家おじさんの腐女子の才能がすごい。
 文章はかなり読み易いので、300ページ以上はありますが1-2日で読めると思います。
 被虐待ショタ、義兄弟、同性間の重い情念が好きなオタクにもオススメ。
 ただし本作はミステリ的要素を少量ですが含んでおり、中盤でのあるどんでん返しが小説の勘所のひとつだったりするので、そういうのが気になる人は全部は読まないほうがいいです。

僕が殺した人と僕を殺した人

僕が殺した人と僕を殺した人

 物語が始まるのは2018年のアメリカ、デトロイト。少年を7人殺したアジア系アメリカ人の連続殺人犯「サックマン」が逮捕され、極刑はまず免れない中、同じく東洋系の国際弁護士「わたし」が弁護に向かいます。
 「わたし」は敏腕弁護士なのですが、なぜ彼が絶望的な裁判を引き受けたのか、というのは後で明かされます。
 同時に進行するのは1984年、台北の十三歳の少年、漫画の大好きな優等生「ぼく」ことユンの語りです。「ぼく」の兄は若くして事故で死亡し、弁護士である父は鬱病になった母を静養目的でアメリカへ連れていきます。「ぼく」は幼馴染の「アガン」の両親に預けられ、父母の帰りを待ちます。アガンには暴力をためらわない不良の兄弟分「ジェイ」と、弟の「ダーダー」がいます。
 デトロイトの物語は、「わたし」とサックマンの二人。台北の物語は、ユンとアガン、ジェイ、ダーダーの四人の物語です。このうちの誰かがサックマンと「わたし」だというわけです。
 
 アガンの母は父から別の男に乗り換えつつあり、ジェイは義父から虐待を受けています。そんなわけで家庭環境のよろしくない少年たちが暗い時間のなかでワイワイするのが前半部です。ジェイとアガンは優等生である「ぼく」が気にくわずにボコボコにしたりするのですが、互いの傷を感じ取ってか、わりとあっさり仲良くなります。

 ぼくはアガンとジェイと四六時中つるむようになった。ぼくとジェイは仲直りしていた。あれくらいの喧嘩ならジェイにとってはちょっと肩と肩が触れたようなもので、悪かったな、いいさ、で済む話だった。というか、それで済ましてやろうという気にさせられる屈託のなさが、ジェイにはあった。
 ……ジェイといると、兄の言っていたことがすこしわかるような気がした。細かいことを言ってちゃだめだ、それが男同士の付き合いってやつさ。いったん打ち解けてしまえば、ジェイは遺憾なく大陸の血を発揮した。すなわち仲間の仲間は全員仲間、仲間の敵は全員の敵、というのがぼくたちの掟だった。(p.50)


 義兄弟好きにはたまらないですね。
 ジェイは一度暴力に走ると止まらなくなるヤバい不良ショタですが義に厚く、アホンの母親が水商売務めだったことを馬鹿にした大の男をやりこめたりします。妹が四人の不良に囲まれたときは単身で挑みかかります。

 ぼくたちの声援がとどいたかどうかは知らないが、ジェイは臆することなく戦った。いくら喧嘩が強いといっても、相手が四人もいたんじゃ勝ち目はない。ぶちのめされ、蹴飛ばされ、踏みつけられても、あいつは不倒翁(おきあがりこぼし)みたいに立ち上がった。ついに先生たちが駆けつけ、不良たちが捨て台詞を残して逃げ去ると、妹たちが泣きじゃくなりながらジェイにすがりついた。あいつは顏を腫らし、傍目にも立っているのがやっとのくせに、妹たちの頭や背中を撫でてやった。もしも人生で学ばなければならないものが勇気だとしたら、ジェイは小学校四年生のときにはすでに免許皆伝の域だった。(p.71)


 イケショタです。アニメ化したらたぶん細谷佳正田村睦心が声当てると思います。
 あるいは「ぼく」は、人形師であるジェイの祖父が神に奉納する人形劇をする直前で熱射病で倒れたとき、咄嗟に自分がやると言い出したりします。

 アガンがぼくを脇にひっぱっていった。「なんだよ『冷星風雲』って? おれらにできるわけねえだろ!」
「いや、やるんだ」
「布袋劇のことなんか、なんにも知らねえだろうかず」
「それでもやるんだ」
「おまえなあ……」
「ジェイのうちはこれだけで食ってるんだろ?」
「そりゃそうだけど!」
「ぼくたちがやらなきゃ、あいつはまた親父に殴られるかもしれない」
(p.58)


 義兄弟は最高ですね。この「冷星風雲」というのは中学生で『AKIRA』が大好きな「ぼく」の創作ファンタジーで、兄をヴィランに殺された少年が敵討ちに挑む、という話です。ちなみにジェイは『AKIRA』では鉄雄に例えられます。救急車に祖父と乗り込んだジェイをよそに、ぼくとアガンは無事場をしのぎ切ることに成功します。

 数日後、ジェイに誘われて龍山寺に参った。
 ぼくたちは關帝炉に香を立てて合掌した。ぼくとジェイとアガンはそれぞれ劉備関羽張飛になったつもりで『三国志』の桃園結義の真似事をした。「我ら三人、同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せんことを願わん」という例のあれだ。
 義が結ばれると、ぼくたちは顏を見あわせてにやにや笑った。(p.62)


 義兄弟は最高ですね。ぼく、ジェイ、アガン兄弟の四人は台北で流行していたブレイクダンス(映画の「ブレイクダンス」によるブームでした)にはまったり、そのために一緒にナイキのスパイクを盗んだりして友情を深めます。
 あとブレイクダンスを人前で踊ったらレイプされかけたりします。

 新公園と紅樓のあたりが同性愛者のたまり場だということは知っていたけれど、同性愛がなんなのかはよく知らなかった。大人たちからはとにかく紅樓に近づくなと言われていたので、ぼくたちはいっぱしの大人になったつもりで敢えてそこを晴れ舞台に決めたのだった。
 ……ぎくしゃくとロボットになりきっていたぼくは、見物人の輪がだんだん狭まってくることに気づかなかった。で、気がついたときにはもうダーダーが敵の手に落ちていた。
 赤煉瓦の壁に押しつけられたダーダーは、棒みたいに身を固くして男たちにあちこち撫でられていた。あまりにも信じ難いその光景に、ぼくはガソリンが切れたロボットみたいに動きを止めてしまった。目はダーダーのベルトをはずそうとする男たちに釘付けだったが、それはアガンとジェイもおなじだった。ぼくたちは指をくわえてダーダーを見殺しにしていた。
 お尻をむんずと摑まれて、ぼくはぴょんっと跳び上がってしまった。ふりむくと、鳥打帽をかぶった男が金歯を見せてにやりと笑った。台湾語でなにか言われ、まったく聞き取れなかったけれど、全身に鳥肌が立った。
「幹(くそ)!」ジェイがべつの男を蹴りのけていた。「なんだ、こいつら!?」
「林立建!」アガンが弟の名を叫んだ。「こっちに来い!」
(……)
「くそったれ!」四方八方からのびてくる手をジェイが払いのける。「おれに触るんじゃねえ!」
(p.81)


 いくら1984年のスラムでも本当にこんなところあるのかよって感じですが、商業BLだったらありそうな展開なので、たぶんそういうことなんだと思います。ダーダー含めてみんな無事に逃げ延びます。
 義兄弟が最高なのですが兄弟も最高で、アガンはダーダーのことをウザがってはいますがクソ好きだったりします。ダーダーが見慣れぬ時計(母の浮気相手で、後に兄弟の義父になる男からの贈り物です)をつけているのを見たアガンは、彼が盗みをしたと勘違いしてブチ切れます。

「盗んだんだな、この野郎!」アガンはぼくを撥ねのけてダーダーに掴みかかった。「いいか、おれが悪いことをするのはおれが馬鹿だからだ」
 ダーダーは体をよじって逃れようとしたけど、アガンの力は強かった。
「だけど、おまえはちがう」
「は、放せよ――」
「おまえは頭がいい」
 ダーダーの目に涙がふくらんでいく。
「おれの真似なんかすんな」弟を突き放すまえにアガンはそう言った。「今度ものを盗んだらぶっ殺すからな、わかったか」
(p.89)

 兄弟も最高ですね。
 さてそんな仲良し義兄弟三人の関係が変わるときが来ます。ブレイクダンスで盛り上がりまくった夏休みの終わりにアガンの母親が蒸発した日に、ぼくは国際電話で両親が帰国してくることを知ります。ぼくは父に頼まれて、ジェイと共に空気の入れ替えのため実家に帰り、マイケル・ジャクソンのPVを見ながらダンスの練習をします。
 ぼくとジェイの関係が決定的に変わるのはその場面です。

 ビデオを何度も巻き戻してマイケルの動きを研究し、自分たちなりに改良を加え、ゾンビのように右肩だけをひょうひょい持ち上げながらポジションを入れかえる練習をした。一時間ほど汗まみれで踊ったあと、ジェイがぼそりと漏らした。
「ふたりだけで練習してても意味ねえよ」
「そうだな」
「アガンとダーダーもいっしょにあわせなきゃ街では踊れねえだろ」
 虚無感に襲われたぼくたちはソファに身を投げ出し、流しっぱなしのビデオをぼんやり眺めた。
 ぼくはアガンの母親とあの男がいっしょにいるところを想像しようとしたけれど、大人の男と女がいったいなにを遊ぶのかは想像もつかなかった。マイケル・ジャクソンのMVが終わり、『閃光』(フラッシュダンス)のMVにかわっていた。黒いレッグウォーマーをつけた女性が、ダンススタジオのなかを自由な小鳥みたいに跳びまわる。何度も見たビデオなのに、いつ見ても彼女のレオタード姿に見とれてしまうのだった。青いスポットライトを浴びたシルエットが背中を反らせ、その素晴らしい肉体に水が勢いよくかかる。それはあのころのぼくが知るもっともエロチックな場面だった。
 と、ジェイの顔が視界をふさぎ、彼の唇がぼくの唇にちょこんと触れた。
 ほんの一瞬だった。
 ジェイはソファに背を戻し、ぼくたちは何事もなかったかのようにテレビを見つづけた。ダンサーの女性がダイヴしてバックスピンに入る。軽快に足踏みをする彼女のお尻が画面いっぱいに躍動していた。
「あっちの女って」粘つく口をどうにか開いた。「尻を出すことに抵抗がないみたいだね」
 ジェイは黙りこくっていた。
 だからぼくも口を閉じて、片脚でくるくるまわる裸同然の女をにらみつけた。女性の自由と露出度は比例しているんだ、と言われているみたいだった。
「なに、いまの?」
 やはり返事はない。
「もう二度とするなよ」
 腹の底からわけのわからない怒りがこみ上げてくる。両親がアメリカから帰ってきて、これからなにもかも上手くいくはずの人生にケチがついたような気がした。
「いいか、二度とだぞ」
 ぼくたちは断固としてテレビに顏をむけていた。
(……)やがてジェイが立ちあがり、ひっそりと帰っていったあとも、ぼくはテレビのまえから動けなかった。
(p.115-117)

 商業BLの1話かよ。ここで「人生にケチがついたような気」がするのは同性愛自体への抵抗感もあったでしょうが、レイプされかけたのを思い出したんでしょう(なのであれは商業BLだからではなくて実に巧みな伏線です)。ぼくはジェイを「なにも言わないのは不公平」「敢えて弁解しないのはこっちを軽く見ているからだ」「ああいうことがあったら非のあるほうが歩み寄るべき」だと憎み、暴行を加えます。商業BLだったらソロで喧嘩して最終的には絆されるところですが、ぼくはアガンと共に暴力を振るいます。初恋の相手に「おまえ、ちんこが吸いたいんだろ!」などと散々に罵られ、わざと喧嘩に負けて号泣するジェイの描写は本書で二番目に泣ける場面です(ここは実際に読んでほしいので引きません)。もっともぼくとジェイは、だからといって友達の関係を解消したりはしません。「このまえはおまえとアガンにやられたからな。これで恨みっこなしだ」と「共謀して喧嘩の理由をすりかえる」ことで、互いに嘘の笑いを交わします。
 商業BLの2話かよ。

 1948年の冬、ジェイが義父の暴行で入院します。普段から虐待を受けていたジェイが入院するほどの暴力を被ったのは、ゲイの大学生と関係していることを父に知られたからでした。
 

「おれたちはガキで、世界はガキの思いどおりになんかならねえんだ」
 かえす言葉がなかった。
 ジェイの存在がひどく遠かった。遠すぎて、いままで一度だって近づいたことなんかないみたいだった。手をのばせば触れることができるほど近いのに、それはなにものも寄せつけない遠さだった。もしかすると、と思った。ジェイが継父に殴られるのは、この遠さのせいなのかもしれない。
 あの夜のことが頭をよぎる。ぼくにキスをしたとき、あのときだけジェイはとても近かった。近すぎて、腹だたしいほどだった。ジェイはぼくに近づこうとした。とんでもなく不器用なやり方で。ぼくになにができただろう? こいつを受容も拒絶もしないやり方が、正しい答えがどこかにあったのだろうか?
(……)アメリカンポップスは終わり、ベッドの上からジェイがおだやかな笑顔をふりむけてきた。
「バレたんだ」
 ぼくとアガンは顏を見あわせた。
「バレた」その声は耳をふさぎたくなるほど静かだった。「あいつにバレちまったんだ」
 なぜだかわからないけれど、大声で泣き叫びたい気持ちになった。自分とあのろくでなしの継父はおなじ穴の貉なのだという気がした。
 そして、唐突に悟った。ジェイはいままた、おっかなびっくりぼくに近づこうとしている。痛めつけられた野良犬のように鼻をひくつかせ、軽蔑や拒絶のにおいを嗅ぎ分けようとしている。ぼくは大人ぶって常識という名のあきらめを説くこともできたし、すべてを時間に委ねてもよかったし、天真爛漫を装ってジェイの相手を根掘り葉掘り尋ねることだってできた。
 だけどそんなことをすれば、ジェイに二度と近づけないのはわかりきっていた。だったら、おれが何度でも悪を斬る。ジェイのおじいさんが日射病でぶっ倒れたとき、布袋劇の人形を無我夢中で操りながら、ぼくの冷星ははっきりとそう言った。おれが斃れても、おれの意志を継ぐ者はかならずあらわれるさ。
 記憶の断片がひとつにつながり、またたく間にストーリーができあがった。冷星のつぎなる敵の武器は固い竹でつくった簫だ。ハーメルンの笛吹きみたいに簫の音色で子供たちをかどわかし、その簫で子供たちを撲殺するから……そうだ、黒簫(ヘイシャオ)と名付けよう!
(p.161-163)


 「もしあの義父をぶっ殺すんなら手を貸すぜ、なあ、アガン」と最初は冗談で言っていたぼくですが、この黒簫の空想を契機に「ほんとに殺すか」と言い出します。アガンは止めに入ります。

「なにか……なにか考えがあるのか、ユン?」
「おい! 本気にするな、ジェイ。ユンは冗談を言っているだけさ」
「そうなのか、ユン……冗談なのか?」
「本気だよ」ぼくは言った。「おまえがその気なら絶対にバレない方法がある」
 彼の目が期待に染まってゆく。
(p.165)

 重要なのはユンが「自分とあのろくでなしの継父はおなじ穴の貉なのだ」と罪悪感を抱いていることです。義理の息子の同性愛を知って暴力を加えたジェイの義父も、抵抗感から暴力を振るった自分も何も変わらない。もうひとつ大切なのは、「だけどそんなことをすれば、ジェイに二度と近づけないのはわかりきっていた」と接近の意思がユンにあることです。もともと弁護士の息子であるユンは、喧嘩の強い不良のジェイに憧れを抱き、「ジェイになりた」(p.265)いほどでした。ユンからジェイへの感情というのは、この他は非常に読み取りづらく書かれているものの、物語の最終盤に、あることをきっかけにアガンがユンをこう責め立てます。

「おまえはジェイに気に入られたかっただけだろ! 気がつかねえとでも思ってたのか? おまえは小学校のころからジェイに憧れてた。言っちまえよ、ジェイにキスされたときもほんとうはまんざらでもなかったんじゃねえのか? おまえは、おまえは――」(P.282)

 三人は占いで殺人計画を実施すべきか試します。
 占いは偶然にも三人揃えて実施すべきという結果を弾き出し、計画が動き出します。


※ここから中盤のどんでん返し、「わたし」と「サックマン」の正体についてのネタバレがあります。


 ここまで読んできた人間なら、まず「わたし」はユン、ジェイが「サックマン」であると自然に考えるところです。ユンは弁護士の息子であり、母には周囲でいちばんの私立高校に行くよう言われている。「サックマン」は少年売春に手を出した過去があると書かれており、同性愛傾向があるのは間違いない。あるいは『AKIRA』になぞらえたとき、ジェイは鉄雄と重ねられているし、暴力の歯止めが利かないところが描写されてもいる。

 実際には「わたし」がジェイで、サックマンがユンに相当します。これが中盤のどんでん返しで、このユンとジェイが入れ替わっているように見える、ということ自体が小説の種であり、哀切さの核であり、極めて良質なBLたらしめている仕掛けです。

 結論から言うと殺人計画は失敗します。毒蛇にジェイの義父を噛ませようという計画を立て、実際に蛇を入手し、廃業状態のアガンの店に隠します。アガン兄弟は母と義父のもとに、父は妻に逃げられた失意から、遠くの友人宅に身を寄せています。計画が頓挫したのは、蛇を隠している間に偶然にも実父が帰宅し、毒蛇に噛まれて死亡しているところをほかならぬアガンとジェイが発見したことでした。動揺し自首しようとするアガンをジェイがひとまず説得し、彼が帰宅します。続けて罪悪感に苦しむジェイに、駆け付けたユンが「計画を立てただけでは罪にならない」「アホンさんの死に責任がないとは言わないけど、刑務所に入るほど重くはない」と説きます。ジェイに語りかけながら、ユンは世話になった「アホンさんの死を他人事のように醒めた目で眺めている自分」を感じます。そしてアガンに連絡を試みますが、電話が通じない中、アガンやジェイとつむることをよく思わない母の愚痴を聞かされたユンは、殺意を抱きます。

果てしなくつづく空っぽの呼出音だけでも充分苛立たしいのに、そこへ母の愚痴が加わると、手あたりしだいにだれかを殺したい気分になった。
 もしかすると、冷星のお兄さんを殺したのはぼくのような人間なのかもしれない。ぼくは邪悪な蛇遣いで、名前は、そうだな、酔蛇(ズイシャア)にしよう。酔蛇がこの世でもっとも憎むもの、それはいつまでも自分を子供扱いする母親だ。(……)受話器を電話にたたきつけると、幸いにして母がぴたりと口を閉じてくれた。そうじゃなければ、受話器を母の顔面にたたきつけていたかもしれない。
 (……)蛍光灯の下に立ち、ぼくが考え出した悪役たちのひとりひとりになりきって、世界中の人間を皆殺しにする方法を考えた。虎眼、流刀、蚕娘娘、黒簫、酔蛇――冷星の敵は六人という設定だから、あとひとりで全員が出そろう。そう思ったら、すこしだけ気分がよくなった。最後のひとりはとびきり強靭で、とびきり残忍で、とびきり賢くしよう。こいつがほかの全員を束ねて、悪の帝国をつくるのだ。
(P.268)


 アガンへの電話が二日通じなかったユンは、「恐怖と不安」から直接彼のマンションを訪ねます。「兄が死んだ翌年に弟まで刑務所に行く破目になったら、母は完全に壊れてしまう」とユンは「神経に障る」「母の金切り声」に感じています。屋上のアガンに自首を控えるよう説得はしますが、ユンは既に失敗を予想していました。「アガンを思いとどまらせること、母を救うこと、自分を護ることがぼくのなかでせめぎあい、殺意によく似たものに練りあげられて」いくのを自覚しながら、ユンはアガンを殺そうと煉瓦で顔面を打ちます。

素早く足を踏み出し、やつの頭を打った。がっくりと片膝をついたアガンの目が恐怖に見開かれる。(……)その太った体は豚のように無様だったけれど、目だけはまだ生きていた。こういう目をしているかぎり、人はたとえ殺されてもけっして負けはしない。
 落ちていたセメント袋をやつの頭にかぶせ、その上から何度も殴りつけると、煉瓦が粉々になった。(……)問題は目だな。素手でアガンを殴りつけながら、そう思った。目さえ見なければ、親友を殴り殺すことだってできるんだ。
(p.286)


 気絶したアガンを屋上から突き落とすはずだったユンは、それを見ていたある人物に突き落とされます。ユンは辛うじて生き残りますが、頭を強打し、二年間の昏睡状態の後、「外傷性脳損傷」から性格の変化を来します。「両親に対して暴力をふるうようになり、母親は鼻を折られた」。両親はユンをひとりアメリカに送り出し、母は空港に駆け付けたアガンとジェイを「ユンはもうもとには戻らない、あんたたちがユンを殺したのよ」と罵ります。
 
 三十年後、アガン兄弟は亡父と同じ牛肉麺店で大成功を収め、ジェイは兵役を終わらせたのち、法律家の道に進み、現在は国際弁護士となり、同性のパートナーを得ています。一方ユンは母親が2008年に病死し、自分の買った男娼の少年に財布を盗まれかけた際に半殺しにし、アメリカの刑務所に収監され、アジア系ギャングの男娼となることで刑務所生活を生き延びます。出所したユンは2011年に衝動的に少年誘拐殺人を犯し、ブレイクダンスの達人」や「台湾の人形師」を装って少年を引き付ける手口で、2015年までに計7人の少年を殺害します。
 遺体はいずれも袋に入れられていました。
 性的暴行があったか、どういったプロセスで殺したか、については記述がありません。
 サックマンの逮捕、そしてその正体がユンであることを知ったアガンは、ジェイに弁護を依頼します。

「ユンのニュースをテレビで観たとき、おれが真っ先になにを思ったかわかるか? ああ、ユンがこんなふうになっちまったのはおれのせいだ、おれのせいでユンがぶっ壊れて、そのせいで罪のないガキどもが殺されちまった。(……)ユンはなりふりかまわずおれを説得しようとしてた。なのに、おれは……(……)ジェイ、おれがユンを殺したのか? おれのせいでユンはああなっちまったのか?
(……)それはわたし自身が何度も自分にぶつけてきた質問だった。
(p.301)


 面会室でユンは弁護士がジェイであることに気付かず、過去の殺人について尋ねられるとこう語ります。

「彼(ジェイ)はどんな子だったんですか?」
「沈杰森のこと? いいやつだったよ。ぼくは彼に憧れていた。ぼくは退屈な優等生だったから、彼みたいな不良少年と友達になれたのが誇らしかった。そういう気持ち、わかるだろ?」
「それで彼の父親を殺してやろうと?」
「自分が彼にふさわしい人間だと証明したかったのかもしれないね」
(p.227)


 ユンはアガンの写真を見せられると共に豹変し、「おまえがヘイシャオ(黒簫)だ」とジェイの首を絞めます。ユンが留置所で書いた漫画には、ジェイと思しき小さな子供の死体と、彼を殴り殺した黒簫が描かれていました。
 ユンは未だにジェイの義父の殺人計画に囚われているわけです。つらい。
 ユンは「虎眼、流刀、蚕娘娘、黒簫、酔蛇」を含めた六人の敵によって兄が殺された、とジェイに語ります。

「それはあなたが殺した少年たちと関係あるんですか?」
「でも、最後のひとりがずっと見つからなかった」
「(……)いまは見つかったということですか?」
「サックマン」
「それはあなたです。あなた自身があなたの六人目の敵なんですか? つまり、あなたのなかにもうひとり別人格がいて、それがあなたの六番目の敵だという解釈ですか?」
「きみはどう思う?」
(……)「そういうこともありえると思います」おまえがTBI(外傷性脳損傷)だということを考えれば、というひと言は呑みこんだ。「わたしを襲ったとき、あなたは『黒簫』と口走っていました」
(……)「意味のないうわ言だよ」
「連続殺人鬼は意味のないうわ言なんて言いませんよ」
(p.254)


 彼は笑います。
「理由があって人を殺すのと、理由がないのに人を殺すのと、なにが違うのかな」
 あなたは理由もなく殺人を犯すような人ではない、とジェイは答えます。
「ぼくのほうに理由があったら、殺された子たちは納得してくれるのかい?」
 答えに窮したジェイに、ユンは耳を近付けてくれ、と言います。監視カメラの向こうの警察官に聞かれないように。首筋を噛まれるのではないかと躊躇しながら、ジェイは耳をユンの口元に近づけます。

 予期していたことが、まったく予期せぬ形で起こった。反応も対処もできなかった。
(……)わたしが身を仰け反らせたのは、彼の唇がわたしの唇に触れたためだった。
(……)口で手をおおったわたしを、彼は車椅子の上で笑いながら見上げていた。
(……)「殺人なんてこの程度のことだよ。きみたちが思うような入り組んだ理由なんてなにもない」
(……)頭に血がのぼって、言葉がもつれた。仕返しのつもりか? そう言いかけて、言葉を呑んだ。そんなはずはない。だとしたら――
(……)「理由なんてないよ。きみを安心させられる理由なんて」
(……)「聞いてくれ、ユン、おれは――」
「でも、もうそんなふうに呼ばないでほしい」彼は言った。「どうか、お願いだから」
(p.256-257)


 30年前のキスと殺人計画を未だに引きずってるジェイくんにこの仕打ちである。 
 警察署を出たジェイは、自分はユンに赦してもらいたがっているのだと考え、罪悪感に打ちひしがれます。どう考えてもユンが相当悪いと思うのですがジェイくんは商業BLの登場人物なので罪悪感に飲み込まれまくりだし、行きずりの男にレイプされようとしたりします。
 商業BLの6話かよ。
 その後ユンに連続殺人の理由を推論して聞かせますが、ユンは「こんなこじつけは聞いたことがない」と答えるのみです。私もこれは読んでいてこじつけだと思ったので、ここには書きません。
 ジェイが、勝ちようのない裁判の弁護を引き受けた理由が、最終盤になってようやく明かされます。

「おれはおまえがあの出来事を思い出す手伝いがしたい。いや、おまえは思い出さなければならない。(……)ひとりぼっちで死ぬな、ユン。(……)おれもアガンもおまえのそばにいてやれない。(……)おまえがおれたちを思い出さないかぎり、おれたちはおまえといっしょにいられないんだ」
(……)わたしたちの無謀な計画のせいでアホンさんは死に、彼はサックマンになった。
(……)「思い出せ、ユン」わたしはほとんど命令していた。「せめて思い出のなかだけでも、おまえと最後まで一緒にいさせてくれ」
(p.306)


 ユンはジェイを思い出した、と最後には言います。
 それが本当かどうかは、文中だけではわかりません。
 ジェイは、「全身全霊で記憶が戻ったふり」だと考えます。

「覚えてるか、ジェイ?」
「なにをだ、ユン?」
「ぼくたちがはじめて会ったときのことさ」
「そんなの、憶えてないよ」
「そうだな、ずいぶんむかしのことだもんな」
 ユンはうなずき、やさしく目を細めた。そして、懐かしい声がわたしの耳にとどく。
「でも、ぼくはよく覚えているよ」
 これから彼といっしょに、長い長い螺旋階段を降りていくことになる。楽園にたどり着けるとは思わない。ただ、いっしょに歩いていく。やがて彼がこの世界から欠けてしまうところまで。
(p.311)

 メリバBLの文体を完璧にトレースする東山彰良さんの腐女子力がすごい。マジで泣けます。
 ユンはそれから少年時代の記憶について語り、ジェイはそれをノートに書き留めていきます。
 2019年にユンは処刑され、ジェイはパートナーからユンが初恋の相手だったんだ、と指摘されます。彼は否定しますが、「もしサックマンがユンくんじゃなくてあの太った子(アガン)だとしても、きみはやっぱり書いたかい?」と問われ、黙ります。小説は、ほぼそこで終わりです。

 この小説の重要な点は、ユンはジェイのことをまんざらでもなく思っていた、という点です。ユンが買っていた男娼は十二歳の少年で、台北時代の年回りとほぼ変わらないのも辛い。もっとも、ジェイはユンがアガンを殺そうとしたのは母親を守るためだったと考えていて、ユンが当時のことを思い出し語りする際もやはり出てくるのは母親です。ただ、これは頭部外傷で記憶が不完全なユンの語りであって、実際どうなのかはわかりません。
 そしてなぜユンが少年たちを殺したのか、はっきりとした理由は作中では分からずじまいです。わかることはユンが殺人計画、あるいはジェイの残像に三十年後も囚われていたこと、それだけです。理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。あるいはこんな状況になったうえで、ジェイへの怒りが幾分かあったのかもしれない。
 しかし、仮に殺人計画が成功していたのであれば、三人はジェイの義父を殺していました。あくまで計画が失敗したのは偶然の故であり、更にユンが転落したのも、もっといえば計画に踏み出したのも三回の占いがたまたまそういう結果になった、というだけです。

 『僕が殺した人と僕を殺した人』という題名はまぎらわしいです(これを書きながらどっちがどっちかよくわからなくなったことが何回かありました)。しかしそう考えると、この題名のまぎらわしさがこの小説の鍵なのです。僕が殺した人と僕を殺した人はまぎらわしく、どちらがどちらであってもおかしくない。「僕」は僕であって「ぼく」と必ずしも同じではない、けれどもまったく違うとはいえない。
 普通に読めば「僕」はユンであり、「僕を殺した人」はアガンとジェイ(と、少なくとも当人たちは思っています)であり、「僕が殺した人」は少年たちでありアガンの父です。
 でも、偶然が掛け違えば、「僕が殺した人」も、「僕を殺した人」も、だれになっていたかはわからない。
 「僕」が「ぼく」=ユンであったか、「わたし」=ジェイであったかも、ひょっとするとわからない。この物語のどんでん返しはジェイではなくユンがサックマンだというミスリードを誘発する仕掛けによって成立していますが、もし偶然がほんの少しでも違えば、サックマンとなっていたのはジェイで、弁護士になっていたのはユンだったかもしれない。というか、弁護士の息子であり、母親がより高い教育を受けさせたがっているユンのほうが、スラムで虐待されているジェイより遥かにその確率は高かったはずです。
 でも、そうはならなかった。
 たまたま偶然こういう物語になっただけで、もしかするとジェイの初恋は叶っていたかもしれない。
 だけどそうはならなかった。単にエンタメとしてどんでん返しがあるだけではなくて、偶然の哀切さを裏付ける仕組みとして、このミスリードは用意されています。この哀しさは、実際に読んでぜひ体験してほしいと思います。

 最後に、サックマンという名前について。少年たちの遺体がsac=袋を被せられた状態で放置されていたのは、袋を被せ、目を見ないようにしてアガンを殴りつけた、という台北でのエピソードに通じます(またその「袋」は作中では蚕の繭とも関連があるのですが、ここでは触れません)。そしてもうひとつ大事なのは、suck=吸う、という意味があることです。そもそもユンが殺人計画を立案したのは、つまりユンが「殺され」サックマンになるきっかけとなったそもそもの始まりは、「おまえ、ちんこが吸いたいんだろ!」とジェイを罵倒した、その罪悪感からでした。

 そんなわけで、東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』は、2018年メリバBLの最高傑作のひとつです。
 アニメ化か映画化でオタクを皆殺しにしてほしいのですが、まずは皆さん小説で殺されてほしい。オススメです。