寒川倫さん(正しい倫理子さん)の「差別する身体」に対する疑問と、ある表現の残忍さ

 12月17日22時、ご意見を受けて追記しました。

 

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 話題の文章として回ってきた文章です。読んでいてとても興味深かったので、気になるところをいくつか挙げようと思います。

 

 まず書き手の寒川さんは「ユーリ!!! on Ice」によって「BL消費者の思考回路」が「暴かれた」といいます。特に寒川さんが気にされたのは「男性同士の恋愛を愛してやまないはずの腐女子からの一部から、極めてホモフォビックな言葉が出てきた」ことです。寒川さんが「ホモフォビックな言葉が出てきた」と感じられた例は、どういった場面だったのでしょうか。

 

 

あえて差別用語を原文そのままに使って書くと、「これは"単なるホモアニメじゃない"」といった同性愛嫌悪が「ほめ言葉」として使われていたり、「これはホモよりもっとすばらしいものだ」といったバカバカしい愛のランク付けが、平然と行われているところを何度も見た。

 

 

①「これは単なるホモアニメじゃない」は同性愛嫌悪である。

②「これはホモよりもっとすばらしいものだ」は愛のランク付けである。

 という二点に、うーん、そうかな、とちょっと思ってしまいました。

 まず①に関して。寒川さんは「単なるホモアニメじゃない」を「同性愛嫌悪」とした理由は、おそらくは「BL」ではなく「ホモ」という差別語を使われたからなのかな、と思います。でも、仮に「単なるBLアニメじゃない」であれば、それは「並のBLアニメじゃない」という感嘆表現(……ただまあ「じゃあ私が見てるBLアニメはダメなのかよ」と思わせる意味では危険かもしれません)でしかない気もします。

 「単なる萌えアニメじゃない」は「萌えアニメとして見るだけには勿体ない、そういった狭苦しいジャンルを超えた力のあるアニメだ」というぐらいの感嘆の意味で使うのではないでしょうか。②に関しても同様で、もっと言えば「愛のランク付け」とは「BL」とたとえばヘテロの恋愛を比較したときに起きることであって、寒川さんの書き方ではユーリはBLとして読まれているようなので、であれば「BL内で比較してより優れた作品である」と読まれそうなものですが、このあたりをあえて「同性愛嫌悪」とされたことに特別な理由があるのかな、と感じました。

 さて、寒川さんの再構成版では、原文に加えてさらに次の一文が追加されています。

 

これには既視感があった。自分自身がかつて「腐は隠れるべきだ」と考えていたことだ。

 

 そもそも「同性愛嫌悪」かちょっとよくわからない事象なのですが、同性愛嫌悪をちらつかせる腐女子に対して、寒川さんご自身が「かつて「腐は隠れるべきだ」と考えていたことだ」に重なるものがあるようです。どのような重なりがあるのかは後に書かれるのでしょう。

 

 同性愛と異性愛の非対称性が差別であるとき、フィクションの同性愛とフィクションの異性愛の非対称性もまた差別的である。

 この文章についてはちょっと書いてあることがよくわからないのですが)、ともかく寒川さんは「なぜ、腐だけについて私は「隠れるべきだ」と考えていたのだろうか?」と自問されています。

 話はやや飛んで、寒川さんは「なぜ「男性同士の恋愛描写を公式で行うことが男性同士の恋愛描写を好むはずのクラスタから嫌悪される」という現象が発生するのか?という問題について」以前考えたことを書かれています。

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この記事の中で、BLが自身の性欲のありかを撹乱したい女性にとって救いになりうる、という話に触れた。

 この「性欲のありかを攪乱」するとは、どういう事態を指すのか。

BLはBL消費者の性欲がどこにあるのかを見えなくさせる。これは外から見て隠れる、という意味もあるが、より重大なのは「自分自身が自分の性欲や、自分自身が受けているジェンダーの抑圧と向き合うことを避ける」ことができる点である。私は「男と女」の恋愛漫画を読んでいると、「女側に自己投影しろ」という強制力のようなものを感じてしまう。また、エロシーンが含まれたものだと「女性側に自己投影する自分」の存在が気持ち悪くなってしまって、どうにもつらくなることがある。

そういうときに、男性同士の恋愛は「安心して」読むことができるのだ。どこに自分を置いて読むかという問題について自由になれるからである。

 

 「自分の性欲と向き合う」「自分自身が受けているジェンダーの抑圧と向き合うことを避ける」とはどういう事態なのか。それを寒川さんは、ヘテロ恋愛漫画とBL漫画を読んでいるときのご自身の体験を比較して語っています。ヘテロ恋愛漫画に寒川さんが感じる「女側に自己投影しろ」という強制力は「ジェンダーの抑圧」に、エロシーンに対して「女性側に自己投影する自分」は「自分の性欲」に相当するのだと思います。後者は別に良くないかと思うのですが、私は当事者ではないので寒川さんの自己への嫌悪についてコメントすべきではありません。

 

 このあたり、寒川さんが強制的に「女」として「自己投影」しろ、と命じられているのか、それともヘテロの恋愛に無意識に「自己投影」してしまうかは判然としません。これは論理の乱れというよりは、ひとつの正確な描写なのでしょう。面白いです。「お前は女だから当然女として自己投影すべきだ」という「ジェンダーの抑圧」は、ちなみに私は(特にユーザーを舐めた乙女ゲーとかに)あると感じます。そうした主客のはっきりしない、曖昧な苦しみに対置されるのがBLです。

 

そういうときに、男性同士の恋愛は「安心して」読むことができるのだ。どこに自分を置いて読むかという問題について自由になれるからである。

 

  これはちょっと面白い考え方です。原文を参照すればわかるのですが、つまり(女子BLのような例外はもちろんあるけど)腐女子はBLにおいて自己投影する対象先がない、完璧な他人の恋愛事として読むことが出来る……わ、なるほど、と思いました。私に当てはまるかはちょっと「?」でしたが、寒川さんご自身の自己分析としては興味深いです。

 で、「なぜ性欲を隠さねばならないのか?」

 私の経験について言うと、考えられる一番大きな理由は、「自己嫌悪」だ。それは「自分の性への嫌悪」であり、もっというと、「自分の性欲への嫌悪」、「性欲を持つ自分への嫌悪」である。

 寒川さんは自己嫌悪、とりわけ「自己の性への嫌悪」がある。「自分の性欲への嫌悪」「性欲を持つ自分への権利」があられて、「性欲を隠さねばならない」と思われるようになった。なぜ自分がそう思ったかについては、

この自己嫌悪は、社会的に生み出されてしまったものなのだと思う。

 どういうことか。

 男性に比べて女性は圧倒的に「エロ」を語ることを社会的に許されていないし、なんとなく自分がそういう気分を(どういう形であれ)持っていることについて、罪悪感や「不適切」なような気持ちを感じるのだ。

 後者に関しては寒川さんがそう感じられたのだから自由です。前者に関しても少なくとも寒川さんが生きてこられた「社会」では「エロ」を語ることを許されなかった、のでしょう。このあたりも、「女性はエロを語ってはいけない」と社会、というと大きいので、他人に許されなかったのか、自分自身が「エロを語る」ことを許せなかったのか、判然とはしませんが、やはり正確な描写なのでしょう。

 ただ一方で不思議なこともあります。「エロを語る」ことと「性欲を抱く(が秘める)」こと自体は(結果と原因の関係にはあっても)別で、それはたとえば「差別感情を口にする」ことと「差別感情を抱く(が秘める)」のと同じぐらい別なようにも感じたのですが、寒川さんのなかではこの二つは直結しているようです。

 ここから寒川さんのまとめです。

つまり、以下のようなプロセスが考えられる。

(1)自身の性欲への嫌悪からBLを消費する。

(2)しかし昇華の過程が複雑になっただけで性欲をBLに向けていることに変わりはないので、さらに性欲を隠し嫌悪する方向へ向かう。

(3)自分の性欲は隠さねばならない/不適切である/普通ではない、という思考が、自分が性欲を向けているBLは隠さねばならない/不適切である/普通でない、へすり変わる。

 寒川さんは(ほかにも理由はあるとは思うのですが)もっぱら自身の性欲への嫌悪から「BL」を読まれていたようです。「昇華」の過程が複雑になった、ということは寒川さんはBLを読む以前には別の「昇華」の過程を取られていたうえで比較されたのでしょうが、これに関しては本文中に記述がないのでわかりません。「昇華」という用語の使い方には疑問が残って、そもそも「さらに性欲を隠し嫌悪する方向に向かう」のって「昇華」出来てなくないか、とは思ったりはします。

 「性欲をBLに向けている」という事態は、ここまで書かれた文章との整合性が取れません。「自己投影する必要がない、気楽な空間だからBLを読む」という話をされていたはずで、ここまでだとそれは「逃避」なんじゃないかなあ。

 寒川さんは一体どっちなのでしょうか。「逃避」として読まれていたのか、実はここに書かれていなかっただけで「昇華」として読まれていたのか。ともかく寒川さんは、「自分の性欲は不適切である、隠さねばならない」と考えた末に、「自分が性欲を向けているBLは隠さねばならない」と考えます。それが「自分自身がかつて「腐は隠れるべきだ」と考えていた理由」です。

 さて、寒川さんは問題を提起します。

ここで問題になるのが、腐女子は男性同性愛を消費する存在でありながら、(ごくわずかな例外を除いて)男性同性愛の当事者ではないということだ。

 それはそうでしょう。だからこそ寒川さんはBLを楽しく読めたのだし。ここでの「消費」は、ご自分が安らぎを見出されていたものに対してはちょっと塩辛い言葉だとは思いますが。ここからが寒川さんの「差別」論です。

上記のプロセスは、人間の肉体と性が直結している以上、思考回路としてある意味当然の流れかもしれない。本人にとってはBLが自分の領域であり、どう扱ったとしても同じ趣味の身内の問題でしかないと信じているためだ。しかし、これを客観的に見れば、同性愛差別にしかならない。BLは私たちのものであり、同時に全く私たちのものではない。

  つまり寒川さんにおいては、BLを「不適切」「普通ではない」と見なすことは現実の「同性愛」を「不適切」「普通ではない」と見なすことと同義だそうです。ということは、寒川さんご自身も現実の同性愛に対してそのような認識を過去されたのかと推測されますが、そういう記述は本文にはありません。寒川さんのこの部分で差別されているのが誰なのかは、腐女子なのか現実の男性同性愛者かはわかりません。

 寒川さんは過去の自分を悔やみます。

私は自分の中に<差別>の枠組みがあることに、「腐は隠れろ」論者であった当初は気付けなかった。時間をかけて、最近になって初めて、自分自身もまた知らない間に差別をし、自己と他者の区別がつけられずに過ごしていたのだと認識するに至った。

 つまりここでの差別は腐女子差別です。寒川さんは①自身の性欲を認められないが故にBLに逃避し安らぎを見出していた、②ところが逃避しただけでは結局性欲は更に募るばかりで、BLは寒川さんの性欲の問題に関しては悪循環を引き起こしていた(……ってなんだか嫌な書きだし、さすがに誤読している気がしますが)③したがって寒川さんはBLに対して「隠さなければならない」「不適切である」という思いを抱くようになった、ということです。ところが、

人間である以上、どうしても自分と違う相手に怯えたり身構えたりする気持ちが無意識に発生してしまう。ならば、自分の中の差別心に気づかねばなるまい。

 「自分と違う相手に怯えたり身構えたりする気持ち」から想像される相手は腐女子ではありません。だって寒川さんはBLを読まれて安らぎを見出す腐女子だったのですから。ということは、寒川さんがここで差別しているのは男性同性愛者、という風に(二択で考えると)至ってしまいますが、そんな話はしていなかったような。

 もちろんこのふたつに繋がりがあれば推測可能なんでしょうが、そこの関係性は特に提示されていません。

  更に「自分と違う相手に怯えたり身構えたりする気持ち」はそれは当然発生するとして、そこから「自分の中の差別心に気づかねばなるまい」理由は、ここには書かれていないので文中だけではちょっとよく解りません。寒川さんの中には何らかの理由があるのだろうと思います。

自分がなぜ差別を内包するのか、ゆっくり目をそらさずに考えていくべきだろうと、自分自身へ言い聞かせる意味も込めて、この記事をまとめるに至った。

 とあるのですが、結局寒川さんの話したかった差別は同性愛者差別だったのか、腐女子差別だったのか、どっちかなのかちょっとわからないので、「自分がなぜ差別を内包するのか、ゆっくり目をそらさずに考えていくべきだろう」という説得・提示のプロセスとしては疑問点がつく、と言わざるを得ません。

 ともあれ、寒川さんは何度もこの文章の改訂を繰り返されているので、今後更に納得いく説得・提示のプロセスが行われるのだろうと思います。私がこの再構成版についての感想を書いたのは14時時点で(さらにそれまで書いていたのは前夜時点の原文でした――そこで気になる個所のいくつかは再構成版においては削除されていたので、ここでは書きません)実際の寒川さんの文章とはラグがあるかもしれませんが。

 補論に関しては機会があれば。

 

 ここから追記です(補論についても含みます)。

 

 追記します。

 寒川倫さんの文章の問題点はいくつかあるとは思うのですが、特に再構成版において強く出ているのは腐女子差別」と「同性愛者差別」をパラレルに語っているところです。端的にまとめると、寒川倫さんの『差別する身体』のメッセージは「一部の腐女子は同性愛者差別をしている、ところで私も腐女子差別をしていたが自分に向き合うことでそこから脱することが出来た、だからあなたも自分の内なる同性愛者差別に向き合ってほしい」というものです。論理的にはこう読むしかないと思います。
 そしてこれは、私は残念ながらかなり受け入れるのは厳しいメッセージだと思います。
 
 何故こう読めてしまうのか。
 寒川さんの再構成版は、決して実際に同性愛者が差別されたシーンについて語られているわけではないからです。「ホモ」が「差別語」であることはそうだとして、一方で「ホモ」に「差別」の感情があったかどうかは個々の腐女子に訊かねばわかりません。ただ、私は正直、ないほうが多いと思いますが――後述しますが、仮に「BLは普通でない」というフィクションに対する嫌悪と、「現実の同性愛は普通でない」という現実の出来事に対する嫌悪をイコールで結ぶなら、なおさら「ユーリ」を褒める文脈で「差別」の感情は考えづらいです。
 差別語の使用はポリコレ、というよりは社会的なマナーとして控えた方が無難とは思います。
 
 「内なる差別に目を向けて」というメッセージは別に間違ってはいないわけです。ところが、その論理立てがどう考えてもおかしい。仮に邪推をするなら(邪推なので間違っているでしょう)「ユーリ!on ICE」を視聴する腐女子が嫌いだから、「ホモ」という言葉を使った、彼らは男性同性愛者を差別している、とわざとバッシングをした、とすら言えてしまう。更に寒川倫さんがそもそも腐女子に対して差別的な感情を持っていた、ということがその証拠にすらなりえてしまう。
 
腐女子の言動に非論理的な言いがかりをつけた。寒川倫さんは腐女子に差別的な感情を過去持っていたことがある。もしかすると、寒川倫さんは同性愛差別に対してメッセージを送りたいというのではなくて、ただ言いがかりをつけたかっただけなのかもしれない。」

 これは邪推であり、間違いでしょう。しかし、非論理的な指摘を(……まああまり言いたくはないのですが、いささか高圧的な文体で)されている以上は、そう推測してしまうことも可能ではあります。私はそうは思いたくはありませんが。
 
 また、他人の不注意を注意する際に非論理的な言動で迫るというのは、私は賛同出来ません(たとえば「殺人をしては何故いけないのか」は論理的に考えられるのか、という話はありますが、これはどう考えても「ホモは差別語として捉えられるからやめたほうがいいですよ」という注意勧告だけで終えられた話です)。

 
 寒川倫さんのなかでは「腐女子差別」と「同性愛者差別」に繋がりがあるのではないか、という意見もいただきました。

 つまり、「BLは普通じゃない」と考え、「BLは普通じゃない」と発言した場合、そこには「ゲイはキモい」というメッセージも含まれるだろう、ということです。これは私は大いにあり得ることだと思います。

 しかし、であれば猶更、「これは普通のホモじゃない」と、「ホモは普通じゃない」は、近い文章のようでまったく別の意味になるはずです。結局、寒川倫さんが具体的な同性愛者差別について触れていない以上、あの文章だけで「(一部の)腐女子は男性同性愛者を差別している」という結論に至ることは難しい。言葉のチョイスがおかしいならそれを指摘すれば良かっただけではないでしょうか。

 
 ちなみに、この記事の後に書かれた寒川倫さんの追記は不可解です。

 

そもそも私が違和感を持ったのがこの部分である。

(1)ユーリオンアイスが、男性同士の間に結ばれる深い愛情を、BL作品と銘打たれていない作品の中で描いた作品であること

(2)(1)について、一部の人が、普段自分たちが消費しているBLなどと比較し、それらより素晴らしいものだと表現したコメントがあったこと

→つまり、

BL文脈にない作品の中の男性同士の深い愛情>BLと銘打ってある作品

という図式ができているような印象を抱いた、ということだ。

これはすなわち「BL」というジャンルの卑下になる。男性同性愛をコンテンツにしたBLというジャンル自体が、どうして卑下されないといけないのだろうか、という疑問だった。私は、BL消費者自身によって、BLが「不適切な欲望」と認識されているのではないか、という仮説を立てたのである。

実際にはそんなことを考えなくていいはずだし、異性愛の恋愛ものと同性愛の恋愛もので扱いが違うのは差別的な姿勢だと感じられた。私自身無意識に差別をしてきた。

 

 

①「ユーリ!on ICE」はBL作品としてラベリングされずに男性同性愛が描かれた
②しかも一部の腐女子は「普通のBLではない」という感嘆表現をした

 以上の二点から、後者の腐女子が「まるでBL作品としてラベリングされていないもので描かれた男性同士の深い愛情は、BL作品よりも素晴らしい」と思い込んでいるように見えた、というわけです。


 つまり、BL消費者は一般のジャンルに対してBLを下に置いた、BLに対して内心「不適切」だという思いがあるのではないか、と考えられたそうですが、であればそれは単に寒川さんの誤読です。ご自分の経験に引きずられてファンの心理を読んだわけで、誤読としても典型的でしょう。


 もちろん「ホモ」という言葉使いは危ういです。しかし、この最初の例示が「同性愛者の差別シーン」として適切かいささか言い切りにくい以上、寒川倫さんの文章についてはやはり意味を成していないのではないか、と言わざるをえません。
 
 かなり意地悪く言うなら、最初から勝手に「これは普通のホモアニメじゃない!」と盛り上がっている様から「BLを下に見ている」と勘違いして、更にそこから「差別だ!」と爆走して、勝手に「差別はやめたほうがいい」と注意されている、という状況に近いです。ちなみに「自分が主張したことについては後悔はない」とありますが、それは別に文章全体が非論理的であること、この文章が批判を受けたことと関係あるようには思えません。そうですか、というだけです。

 
 「ホモ」という言葉は使わないほうが無難だよ、という意見は正しいでしょう。でも文章は、とりわけそれがメッセージとして発信されるなら、伝達内容が正しくとも伝達形式に問題がある、ということが生じます。そもそも注意する対象に「差別」感情があったのか疑問です。そして言葉遣いとしての「ホモ」が「意図せざる差別加担」であれば、それに応じた書き方があったでしょう。もっともそこに焦点を当てるなら、「ホモ」という何気ない言葉遣いがどう「差別」に加担し、それを加速させるのかについても、具体的な何らかの例示があって良かったのかもしれませんね。

 もっとも、差別を是正するうえで必要なのは言葉どうこうより具体的な制度整備ではないか、とも思うのですが、それはあくまで感想です。

 
 また、寒川倫さんが「自分はセクシュアリティで差別されたことがない」が故に「性的マイノリティ」に対して「罪悪感」つまり「申し訳ない」と思うのは寒川さんの感情なので自由なのですが、それをわざわざ表出されるというのは、いささか残忍なことをされているのではないかな、と私は思います。以上です。