メギド72『フルカネリ、最後の計画』について

※メインストーリー8章2節までの重大なネタバレがあります。

 支配と自立

 『フルカネリ、最後の計画』は、もちろん前後編にまたがって続く物語の前半に過ぎない。デカラビアの真意は明かされないし、ひとつの物語としてある程度完結していた2018年、2019年の前編と比較しても、まだ何の物語も終わっていない。
 メギドはプレイヤーの予想を裏切るのが大好きだし、ここで予想をしたところで大した意味はないけれど、でも『フルカネリ、最後の計画』は物語後半まで続くだろうひとつのテーマを擁している。支配と自立だ。
 そしてそれは、「多様性」というメギド72の主題に大きく関連するはずだ。「多様性」は、強力な支配下において花開くものではない。それぞれが多様性を発揮するには、それぞれの自立が確約されていなければならない。たとえば「多様性」の果ての「混沌」を象徴するアスモデウスが、誰よりも強烈な我を発揮しているように。あるいは軍団で最も戦闘を忌避するスコルベノトが、その忌避自体は許されているように。

 『フルカネリ、最後の計画』は「洗脳」と「強制力」という支配を行使するデカラビアとフルカネリに対峙する物語だ。
 そうはいっても、デカラビアの立ち位置はどうも複雑なようだ。たとえば、ヴェステン公国である。暗君に統治されていた公国を、デカラビアは「洗脳」という別の支配の果てに救った。それでも彼は悪人か、とフルカネリは問い、ソロモンも一瞬『「だったらいいか?」みたいな顔』(1話)をしてしまう。
 そのヴェステン公国は、エルプシャフト文明圏——というけれど、実際にはハルマの間接統治下にあるものと見ていい。
 

カマエル
「こっちも陛下を通じて何度も
統治を改める通告を出してたんだ!
それが最後通牒の手前で、
悔い改めたと書面をよこして
きやがったんだぞ!
誰だって「脅し」が効いたと
思うだろうがよ!」
(2話)

 カマエルのこの反応は、「陛下」とフラム王の立場を立ててはいるが、実質的な統治者の反応だろう。歴代のエルプシャフト王族がハルマの助言や命令に従わなかったとは思えないし、その意味ではある程度の自立が許されているとはいえ、文明圏とはハルマの支配領域の意に近い。

デカラビア
「まったく気に入らんな
ヴィータの世界の出来事に
ハルマどもが干渉する…
それはこの上ない「歪み」だ
そんな世界は滅びたほうがいい
…そうは思わんか?」
(5話) 

 デカラビアの言葉を借りれば、その支配は「歪み」である。たまたまその支配者がハルマというだけで、ヴィータを卓越した能力を持ち合わせているのであれば、それがメギドであった可能性もあり得ないわけではない。だが、いずれにせよ、それらはヴィータの世界においては「よそ者」からの内政干渉、すなわち「歪み」なのである。
 フルカネリ商会が最初に登場したのは、同じくヒュトギンが初登場した『その交渉は平和のために』だが、舞台となるトーア公国もまた、ヴェステン公国と並んで「国」を名乗ることが許されただけの支配領域だった。トーア公は背後のハルマにまで意識が向いていなかったかもしれないが、いずれにせよ彼の反乱計画はエルプシャフトという統治権力への対抗だったし、それを「愛と正義」のフルカネリ商会が利用したのだった。

 『メギド72』という物語が(このあたりはサービスの継続時期によるから一概には言えないけれど)最終的にハルマとの物語も書き綴るならば、彼らがヴァイガルドにおける実質的な支配層という設定は当然見逃せない。
 たとえばこんなやり取りはどうだろうか。

ガリアレプト
「でも大砲は、幻獣に限れば
かなり有効な手段と
言えるんじゃないかしら」

ガブリエル
「…かもしれませんね
ヴィータ自身が戦う気ならば」

ガリアレプト
「あ、そういうことなのね
三つ巴のハルマゲドンなんて
ごめんだわ、不毛な議論だったわね」
(『ソロモン王と悪魔の鏡』)

 ここでアガリアレプトが話を切り上げるのは、「三つ巴」すなわちメギドとハルマに限らず、ヴィータが「大砲」すなわち武力を持つことの面倒さに気付いたからだ。それは、ハルマによる安定した統治体制を乱しかねない。事実、ヒュトギンがフルカネリ商会を強く敵視するのは、彼らによるマキーネの普及が戦禍を呼び起こしかねないからだ(1話)。

 実のところ、ヴィータが自己の防衛戦力を有するべきだという発想は、何ひとつ間違っていない。『フルカネリ、最後の計画』の冒頭ではマキーネの登場を喜ぶ学者が登場するし、レラジェが語るようにそれは「自衛するための力」としては「下手な傭兵よりもずっと強」く、「たぶん経済的」だ(この「経済的」のニュアンスは難しいけれど、ヴィータの命と比べれば、どんなマキーネも「経済的」だろう)。

 あくまでエルプシャフト文明圏はハルマに守護された(世界全体からすると、おそらく)極手狭な領域に過ぎず、たとえば幻獣相手に王都の騎士団が防衛戦力として役割を果たせているかは疑問だし、そこから外れた辺境となると貧相な「自警団」を作り上げて対抗するしかない。そもそもマキーネという幻獣にも対抗し得る新技術があるならば、まずは王都の防衛戦力として活用してもいいはずだ。ハルマがそれをしないということは、相応の思惑があると取っていいのだろう。

 つまりマキーネは、ヴィータが自立するための基盤となり得る力だった。デカラビアの真意や計画、その生涯、在り方については未だ書かれていないが、おそらくはメギドであるからこそ、実質的なハルマの支配下にある現在のヴァイガルドの歪さを理解出来たのではないか。

 その力をヴィータが手にするきっかけとなったのが、タムスとデカラビアの偶然の出会いだった。タムスはその「個」に則り、ただマキーネを愛し続け、そしてその技術をヴィータへと伝播させることになる。
 たとえば『悪夢を穿つ狩人の矢』のネルガルも、同様にヴァイガルドの水準を遥かに超越した技術を伝え広げることになるが、そこにはバフォメットという調整弁があった。タムスにはそれがなかった。

 だが、いずれにせよ「大砲」が開発される日は遠くなかったのではないか。
 メギド72が描くヴァイガルドはあくまで世界の一部に過ぎないだろうが、ヴィータはその個体数の多さからか、卓越した技術を有する存在が少なからず居る。たとえばセーレの義父・ダディオはその好例だろうし、飛行機(ベリトBのキャラエピ)の開発に成功したヴィータすら居る。
 幻獣がヴァイガルドに与えた影響は甚大だった。
 それはキャラバンの交易を苛酷なものとし、技術の交通を困難にしただろう。裏返せば、ソロモンとシバの女王がヴァイガルドに平和を取り戻すことで、交通は再び可能となり、それまで抑圧されていた文化が新たに花開くことになる。たとえば、『カカオの森の黒い犬』では、贅沢品であるチョコレートをめぐる商習慣が成立したのは、ソロモンの尽力の結果なのだと説明されていた。そもそも、原料であるカカオマスからして、遠方のクリオロ村との交通無しでは入手出来ない。
 故に、仮にハルマが抑圧しようとしても、たとえば技術者が互いの知識を交換し交通させたとき、「大砲」の開発は決して遠い未来ではないはずだ。

ソロモンとタムス

 タムスはソロモン達の仲間となり、フルカネリ商会と激しく対立する。その対立の理由は明快だ。

タムス
「戦って壊されんのは腹立つが
仕方のねェことではあるからな
(…)自爆そのものだって…
最後の最後の手段で使う分には
悲しいけど受け入れてんだ…
だけど…さっきのは別だぜ
いきなり自爆なんて…
あれじゃ「道具」じゃねェか!
オレがアイツらの「個性」を
引き出すためにあれこれ考えながら
直してやったのに…
あんな使い方じゃ意味がねェ!
オレの「仕事」を…!
アイツらは台なしにしやがったッ!」
(4話) 

 一見同じ外観のマキーネを識別番号で細かく判別したように、タムスにとってマキーネは単なる道具ではなく、「個」を有した存在なのである。フルカネリ商会がどのような野望を有しているのかタムスの知るところではないが、少なくとも自身の愛する機械を使い捨ての「道具」として見なす態度において、彼らとタムスが相容れることは絶対にない。
 タムスの機械への偏愛は、標準的な道理を超えている。
 カンセに使役された彼らの自爆をその身で受け続けるのもそうだし、戦いのための駒としての側面は認識しながら、そこに多様な「個」を見出している。単なる「道具」への情念では説明がつかないし、マキーネを商売道具や自衛力と見なすこともない。
 似た思想の持主がひとり居る。ソロモンだ。

???
「…お前はなにができる?
(…)暴力は好きか?
蹂躙は好きか?
メギドの長になって
他者を使役し、他者を踏みにじる
他人任せの暴力は好きか?」
(『折れし刃と滅びの運命』) 

 『折れし刃と滅びの運命』でソロモンが幻聴の声に苛まれるのは、そのものずばりソロモン自身の密かな自己認識を言い当てているものだと見なしていいだろう。裏返せば、どれだけソロモン自身が身体を張り、仲間たちとの関係が良好であろうが、指輪による支配は(デカラビアがベリアルに対してそうしたように)「道具」としての側面を併せ持つ。
 集団の長とは、他者を駒として使役する支配者でもある。
 支配の極北とは処罰である。支配者が他者の裏切りを処罰出来るのは、その人自身が法であるときである。メギド72という軍団は、実のところソロモン自身がメギドたちの拘束を厭うことで、厳格な規則を設けることはほとんど無い)。その場その場でヒュトギンとバラムがソロモンを交えて議論したように「一線」を定め、日常生活においてはフォカロルやウォレファルのような個々人の「説教」が最低限の秩序を形作っている。

 『美味礼賛ノ魔宴』から『フルカネリ、最後の計画』に至るまで、バラムがソロモンを見定めようとしているのはこの「処罰」が可能な器かどうか、ということだ。どれだけ仲間に情があろうが、その相手が過ちを犯した時に罰することが出来るか。故障品に対してそうするように、「道具」として廃棄出来るか。
 それだけの冷徹さを、軍団の王として有することが出来るか。

バラム
「だけど、目を逸らすわけには
いかねえ話だろ?
「軍団に裏切り者がいた」のなら、
その処断は軍団長の責務だからな」
(1話) 

 それは若干18歳のソロモンには苛酷な課題だろうが、けれどメギド72という集団としてメギドラルと対峙しようとする以上、必然的に求められる能力でもある。
 事実、それが問われていたのが8章のフォルネウスであった。一方で、そこではフォルネウスはソロモンに処刑されることを選ばず、自身の身を投げ打って世界を護ることを選んだ。
 つまり自分から進んで自死に至ったわけだし、その厳格さはフェニックスが部分的に引き受けてしまった。デカラビアの物語はその再話のようだが、8章で語り切れなかったものの語り直しになるんじゃないかなと、個人的には思う。

 とはいえ、ソロモンがメギド達を単なる駒として扱っているはずがない。彼らは大事な仲間であり、死した時には当然涙する存在だ。ウェパル、フェニックス、フォルネウスの三者三様の死において、ソロモンはいずれも打ちひしがれ、最も長く旅したウェパルとの別離においては、その意志を挫かれさえした。
 それは、マキーネの破壊を嘆くタムスの姿に似ている。

 「指輪」は本質的には「支配」の道具である。
 フルカネリ・デカラビア・ソロモンというアルスノヴァ形質を持ち合わせた三者において、彼らが共に他者を「支配」する人物なのには変わりない。ただ、ソロモンにおいては(タムスがマキーネに対してそうであるように)没個性な「道具」ではなく相手の「個性」すなわち自立した人格を見なす感性があり、可能なはずの「強制」を避けることになる。
 処罰すべき人物に相対したとしても、彼はフォルネウスに対してそうしたように、まずは一個人としての対話を選ぶ。そんなソロモンだからこそ、ベリアルはその「魂」に触れられる感触を、不快なものとして退けなかったのだろう。

 裏切りと秘密は、関係の故障だといっていい。ソロモンはそこで、関係の放棄ではなく「修理」を選ぼうとする。
 たとえば『心惑わす怪しき仮面』でサタナキアが極秘の実験を続けていたことに、ソロモンは彼の研究への熱意を理解しなかったこと、その事情を打ち明けられなかった責任を同じ目線で担保しようとした。タムスはマキーネが自爆しようとしたとき、それを自身の身を以て止めようとした。
 力の封じられた追放メギドに力を取り戻させるソロモンと、壊れたマキーネを発掘して再起動させるタムスの立場は、そもそも似通っている。もっともタムスの機械への愛と、ソロモンの味方への仲間意識とをまったく同じ盤面で語ることは出来ないだろうが、『折れし刃と滅びの運命』で共に故郷の「滅びの運命」を体験したアガレスと、あるいは8章3説で故郷喪失者としてのフォルネウスとソロモンの在り方が重なったように、ここでタムスはソロモンの「王」としての在り方を反映している。

 もちろん『フルカネリ、最後の計画』から続く物語においてもっとも重要な登場人物は、当然デカラビアだろう。
 同じ指輪の行使者とはいえ、デカラビアとフルカネリにおいて思想の差異があれば、それが物語の駆動力になるかもしれない。ただ、デカラビアがリジェネレイトする物語において、「修理屋」すなわち壊れたものの再生(=regenerate)を担うタムスの存在が、ちょっとでも面白い方向に作用してくれれば、これ以上嬉しいことはない。