メギド72『守りたいのは、その笑顔』について

 『守りたいのは、その笑顔』は、ネフィリムとニバスの戦いの物語だ。それは同時に、6章の「戦後」を描く物語でもある。
 2018年末の6章2節以降、メギドがイベントシナリオで繰り返してきたのは6章の主題の再奏だった。たとえば家族を2章の王都侵攻作戦で失い、その感情のやりどころを見つけられないまま凶行に走った『聖女と魔獅子と吸血鬼』のニコは第6章のハーフェン(葬送騎士団)の在り得た姿でもあるし、『その交渉は平和のために』から繰り返し登場しているフルカネリ商会も、ヴィータ自身の自主防衛の是非、メギドという異種族への嫌悪において、同様に葬送騎士団の変奏である。6章の物語で書き切れなかった部分を補筆したのが、6章と7章の幕間のイベントテキストであるともいえる。
 6章はヴァイガルドを護る戦いであり、同時にソロモン自身が「碑」に徹すること、自らを殺すことで自らを護るしかなかったという意味でも防衛戦だったと思う。その主題は『折れし刃と滅びの運命』から、更に7章の特にモラクス・ウェパルとの対話で繰り返し描かれている。すなわちソロモンの「戦後」の主題が描かれたのが『折れし刃と滅びの運命』であったのだが、その文脈で読むならば、『守りたいのはその笑顔』を中心とした物語群は、ヴァイガルドの「戦後」を描く物語でもあった。
 それを演ずる最高の適役が、道化師ニバスであり、そして「化粧」の練習を始めるネフィリムだったと思う。
 
 まずはイベント本編を見ていこう。
 そもそもの前提として、ニバスは戦争社会に生きるメギドとして極めて特異な性格をしている。2019年前半はヒュトギンやアルテ・アウローラを中心に、年末にかけてアガレス、ニスロクとメギドの異端児を主役に描き続けてきた傾向は、本イベントでも持続している。ニバスはまず何よりも「道化師」であり、その思想が語られる場面はこれまで二度あった。
 第一は無印のキャラエピだ。病気の少女を笑わせるために命がけの綱渡りを行う場面である。

ニバス
「道化師は人を笑わせるために
どんな無謀なことにも、
どんなバカげたことにも挑戦するの
人を笑わせることに
全力で命を懸ける…
それが道化師なんだよ」
(Rニバス・8話)

ニバス
(やった…ついにやったよ!
私の曲芸で皆を
笑顔にすることができた!
私はこのために
道化師になったんだ…
メギドの頃から落ちこぼれで、
何の取り柄もなかった私に
ただ1つできること…
私は笑わせることで、
人々を幸せにしたかったの!)
(Rニバス・11話) 

 実はニバスが「落ちこぼれ」なのは戦争社会に馴染めなかっただけに過ぎない、という後付けがあるのだが、いずれにせよ誰かを「笑顔」にすることがニバスの願いであり、個である。

 それが戦いの中で語られる場面がある。メインストーリー第6章で、マモランティスの構成員と対峙する場面だ。敵を挑発しながら逃げ惑うニバスは、「メギドの誇り」がないのかと問われ、「今は心の棚の上で埃被ってます」と答える。「下級メギド」と謗られても道化に徹し、逃げ続けるも、敵のメギド体に追い詰められる場面である。

ニバス
(私は…
…勝って相手を見下すような
笑いは「嫌」なんだ!
もっと幸せな…
私と、見てくれた人両方を
笑顔にする「戦い」こそ…
…「芸」だ
私は、それを極めるために…
そのために、この世界で…)
(本編第58話・4)

 自分と観客の双方が「笑顔」を得られる戦いこそ、ニバスの「芸」である。もちろんこの「笑顔にする戦い」は、直接的な武力の衝突ではない。でも、ニバスにとって「自分」と「観客」の両方を共に笑顔にすることは、本来のメギドにとっての戦争と同じぐらい真剣な「戦い」なのである(こういう価値判断の異端こそ、ニバスが「道化」たる所以かもしれないが)。それは観客に対する戦いであり、自分の限界に対する戦いでもあるだろう。『守りたいのは、その笑顔』でもっとも目を惹くのは、二つの「戦い」がパラレルに描かれる構成だ。具体的には、対コンチェイと、対キノミである。

ニバス
「あのさ…
私やっぱりこの街に残っても
いいかな?
(…)キノミちゃんのこと、
やっぱり心配でさ…
ネフィリムさんがいるうちは、
あの子が笑わなかったとしても
そのうち笑うかなって思えたけど…
ネフィリムさんがいないんじゃ
あの子、ずっと辛いまんまだよ」

ソロモン
「それはそうかもしれないけど、
でもずっとネフィリムに頼るって
わけにもいかないだろ?」

ニバス
「そう! だからこそだよ!
私は「今」あの子を笑わせたい!
今のあの子に必要なのは絶対に
「それ」なんだって!
どういう身の上かもわかんないし、
どんな辛い目に遭ったのかも私には
知りようがないけどさ…
それでも…ちょっとでも笑えれば…
その一瞬は辛いことも悲しいことも
忘れられるでしょ?
(…)私は昔から戦争なんてどーでもいい
ただ自分の芸で誰かを笑わせたい…
笑顔にしたいだけなんだ
そのためにヴァイガルドまで来て…
あんな「笑い」を必要としてる子を
放っとくわけにはいかないよ!」
むしろそれこそが…
みんなを芸で笑顔にするのが
私にとっての「戦い」だもん!」
(第04話・2) 

 ネフィリム不在の「今」だからこそ、深く依存するネフィリムから引き離された辛さ、悲しみを一瞬でも「忘れられる」ための笑いが必要である。そしてそれは幻獣に襲われた人々を助けるための「戦い」と同じぐらい真剣な「戦い」なのだ、というのがニバスの考えだ。

 ニバスは何故キノミを笑わせることが出来たのか。
 第一は、酒場の主人から譲り受けたストリートオルガンのおかげだ。旅芸人を名乗ったニバスとアスラフィルの芸を気に入った酒場の主人が、何かの役に立たないかと夜の宿にストリートオルガンを持ってくる。生物ではなく、物が自動で音を立てるのを見てキノミは喜ぶ。ここでキノミが喜ぶのは、後述するような「グルグル」と「パ」という緊張と弛緩の動きだ(たぶん「イナイイナイ」「バァ」に近いのだろう)。第二にはニバスが無意識に行っていた「緊張」と「ほぐれ」である。

ユフィール
「たしかにキノミちゃんはあの
オルゴールに夢中でしたけど~…
キノミちゃんが最初に笑ったのは
ニバスさんを見て、でしたよ?
(…)笑いって、緊張状態が緩和されると
生まれるそうなんです~
キノミちゃんはあのとき、とても
真剣にオルゴールを見つめていて…
それがいわば緊張状態ですね~
ところがニバスさんがそこで
転んでしまったことで緊張状態が
不意にほぐれて思わず笑いが…」
(第05話・END) 

 キノミは何故笑えなかったのか。それは芸に興味がないというよりは、ヴァイガルドに逃亡した直後であり、更にネフィリムと分離されることで常に緊張状態にあったからだろう。
 ストリートオルガンという別の対象に一旦注意が移動し、更にニバスの転倒で緊張が「不意にほぐれ」たことが笑いに繋がった、というのがニバスの戦いの論理だ。たとえばここで、ニバスの芸のひたむきさに心打たれて、というようなロジックを採用しないのがメギドらしい作り込みだと思う。この笑いは、むしろ芸の真摯さは関与しない達成である。

ニバス
(そっか…私は自分の芸を完璧に
こなして見せつけることしか
考えてなかったのかも…!
芸が高度になるにつれて、
「すごい」って感想になって
笑いが起こりにくくなって…
そして笑いがないから次第に
飽きられていく…!
大事なのはバランスだったんだ…
真剣さと緩さのバランス…!
音も芸もその手段のひとつ…!)
(第05話・END) 

 真剣な気付きであると同時に、ニバスがモグラを「師匠」と尊敬するのがまさに「真剣さと緩さのバランス」という感もあるが、そもそも「自分の芸を完璧にこなして見せつけること」は、何よりまず自分が緊張状態にあり、己の「笑い」からは程遠い。対マモランティス戦でニバスが先行して気づいていたように、本来ニバスの「芸」とは自分と観客の双方を笑顔にさせるための戦いだ。芸の達成だけに意識が集中してしまうと、まず自分が本心から笑えなくなる。緊張が客にも伝播して、「すごい」という感想は得られても、笑顔からはますます遠ざかる。これは作中には描いていないが、「緩さ」とは、ストリートオルガンを回しながら思わずずっこける自分を、他ならぬ自分が笑い飛ばす態度なのかもしれない。
 ニバスは既に「真剣さ」は十分過ぎるぐらいに得ている。リジェネレイトのきっかけになっているのは、「緩さ」すなわちコメディの会得である。
 物語の結末で、再びニバスとネフィリムが並び合う場面を読み返せば、その変化は明らかだ。まずは飽きられているときのニバスの演技を見てみよう。

ニバス
「さーて! お次は6本!
うまくいきましたら、どうぞ
拍手を…」

残酷な子供
「ねーねー、ニバスの姉ちゃん」

ニバス
「おっと…なにかな?
今、芸の途中だから話は後で…」
(プロローグ) 

 実はここまで読み返すと、ニバスにとって最大の問題は「飽き」ではないのである。

 仮にニバスが芸のレパートリーをいくら増やし、アスラフィルのように音楽を会得したところで、根本問題として「飽き」が来ることには変わりがない(アスラフィルはニバスのような「緩さ」のコメディは出来ないだろうが、楽器の音色や音圧を吹き変えることで「緊張」と「緩さ」を描き分けられるだろうし、何より音楽は直接情緒に働きかけ、人々に「笑顔」を与えることが出来る)。ここで重要な描写は、「芸の途中だから話は後で」と観客の言葉が入り込む余地を抑制してしまう態度だ。「見せつけること」が最前面なのである。
 それに対して、物語の最終場面でのニバスは、まず芸を始める前のBGMとして、キノミにストリートオルガンを回してくれるよう頼む。それを見た子供たちが自分も回したがったとき、ニバスは「はいはい、じゃあ順番にね…/っていうか芸を見て!/芸をっ!」とストリートオルガンに負ける芸人、というコメディを演じる。それを見たネフィリムが、「賑やかですね、ここ/キノミも楽しそうです」と(それまで散々加えていた説明を無しに)素直に感想を述べる場面こそが、ニバスの成長の証だろうと思う。このあと台詞は「良かったね、キノミ…!/あなたが笑っていられるように、/私もがんばりますから…!」と続く。ニバスのこの「緩さ」こそが、もう一度キノミを笑顔にさせているようだ。
 あらためて、ニバスは道化だ。ニバスの師匠はたとえば自分より遥かに年下の子供であり(ニバスRのキャラエピ)そしてトーポという珍妙な幻獣である。彼らを純粋に慕う姿はどこか滑稽ですらあるし、一方でそこには真剣な情熱がある。時に滑稽な愚か者になり、そして誰より人々を笑顔にさせることに真摯なのが、この物語のニバスだろうと思う。

 キノミのために戦ったのは、もちろんニバスだけではない。もうひとりの主役である、ネフィリムの戦いを見ていこう。
 『守りたいのは、その笑顔』では、ニバスとネフィリムは互いを補い合うような役割を果たしている。ニバスがキノミの心を守る戦いをしたのならば、幻獣という物理的な脅威を駆逐したネフィリムは、キノミの身を守るために戦っているのにも等しい。そしてニバスが確かな成長を遂げたように、ネフィリムもまた物語のなかで明らかな変化を果たしている。
 ネフィリムの発言でまず注意を引くのは、過去、コシチェイに戦争の不可解を語る場面だろう。

ネフィリム
「そもそも…なんでみんな戦争なんか
したがるんですかね…
小さくて弱いのに一生懸命戦って…
傷つけ合って死んでいって…
昔からずっと思ってましたけど、
この体になってより強く思います…
みんな弱いんだから無理して
戦うことなんかないのに、って…」
(第05話・3)

 これはネフィリムが巨大故に得られた発想かというと、けっこう難しいところだと思う。「そもそも…なんでみんな戦争なんかしたがるんですかね」という疑問は新世代のメギドが有しがちな疑問だし、別にネフィリムに限ったことではない。たとえば改稿版『悪夢を穿つ狩人の矢』でも、ネルガルは脆く壊れやすい、そして一度壊れたら取り返しの付かない身体での戦争の意義を理解出来ず、メギドの身体を機械に置き換える研究をしていた。別にネフィリムが巨大であろうがなかろうが、中央から離れた者にとって、意義のよく分からない戦争で落命する者は、「小さくて弱いのに一生懸命戦って」いる不可解な死者に変わりないはずだ。
 むしろ重要なのは、ネフィリムのこの言葉に哄笑を誘われたコシチェイに、次のように反論する場面である。

コシチェイ
「ハハハハハハハッ!
こいつはいい! さすがだね!
さすが味方のメギドを3人…
軍勢の幻獣を数百匹も「蹂躙」した
ヤツは言うことが違う!」

ネフィリム
「じゅ…蹂躙したんじゃないです…
ちょっと、その…撫でてあげたら、
みんな死んでしまって…」

コシフェイ
「素晴らしいじゃないか…!
撫でたつもりが殺してしまった…
まさに規格外の力…っ!
君は破壊の権化…!
戦争の申し子だ…っ!」

ネフィリム
「…………」
(第05話・3) 

 コシチェイにとっては「蹂躙」かもしれないが、あくまでネフィリムにとっては「撫でてあげた」に過ぎない。ネフィリムが自分の体躯を厭う理由はいくつかあるだろうが、目立ってコシチェイのような者の関心を呼んでしまう他に、無意識に「規格外の力」を振るい、よりにもよって自分が最も忌避する「戦争」の「申し子」になってしまう苦痛があるだろう(ここには、自分が好き好んで選んだわけではない外見や生まれつきの力で苦しむことになる『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のジズに似通ったものも感じる。コシチェイがジェノサイド・フォーにネフィリムのことを説明する場面で、言及されるのは「耳」である)。プーパに括りつけられた首輪の爆風を受け、ソロモンにその身を案じられたネフィリムがこう返す。

ネフィリム
(守る…私が…みんなを…
私の力で誰かを「守れる」…
傷つけるんじゃなくて…
「守れる」…!)

ネフィリム
「(…)とても、気持ちがいいです…
(…)誰かを守れるって…
守ってほしいって頼られるのって、
嬉しいことなんですね…
初めてです
こんな気持ち…」
(第05話・3) 

 あくまで守るだけならば、積極的に力を振るう必要はない。忌まわしい体躯を前に差し出しさえすれば可能なことであり、しかもそれは「守ってほしい」と「頼られ」さえする。呪いが祝福に転じる(これは『嵐の暴魔と囚われの騒魔』ではなかなか書き切れなかった、別の到達点でもあると思う)。そしてネフィリムが自分の体躯と力を肯定的に受け止め、初めての喜びを味わう第05話・3は、ニバスがキノミを初めて笑顔にさせるときでもある。

 ただし、ここで思い返さなくてはならないのは、そもそもネフィリムは冒頭でメギドの支配を逃れたプーパ達を実質的に守護していたことである。同じ守護であるにもかかわらず「嬉しい」が別格であるということには、ソロモンから願われる「守り」と、プーパ達から要請される「守り」に幾ばくかの違いがあることを意味するだろう。
 では、ネフィリムが教えられる「守り」とはどのようなものか。それを導くのがサレオスだ。
 ソロモン達と合流したネフィリムが、アスラフィルとニバス、ソロモンの掛け合いを見て感想を述べる場面がある。

サレオス
「…急に賑やかになったな」

ネフィリム
「そうですね…なんか、楽しそうです
私が知ってる小さい人たちって、
もっとギスギスしてましたけど…」

サレオス
「そりゃメギドラルの話だろ?
向こうじゃ戦争が中心だからな
ギスギスもするさ
…だけどこっちは違う
「こういうの」が当たり前なんだ
で、俺たちは「こういう」毎日を
守るために戦ってるのさ」

ネフィリム
「「守る」ために…「戦う」…」
(第03話・冒頭) 

 ネフィリムの台詞の重点は分かりにくい。ネフィリムはプーパを守るために力を振るってきたのだから、この感慨は奇妙だが、おそらくこれはネフィリムにとっては「守る」ではなく、単に力を振るうだけの行為なのである。冒頭の場面を読み返すと、プーパはネフィリムが断れないのをいいことに、無理に侵入者の排除を頼み込んでいる。ここにはネフィリムの意志は無い。単に言われるがまま、幻獣のように力を振るっているだけだ。勝手な読みだが、ネフィリムはプーパ達を進んで守りたくて戦っているというよりは、彼らの命令に反し、諍うことが嫌で力を振るっていたのではないか(幾ばくかの愛着はあっただろうが)。

 力を行使すること、戦うことは厭わしい。しかし、戦うことが守りたいものを守るためにあるのであれば、呪わしい力はむしろ祝福に等しいものになる。もっとも、ここには微妙な矛盾があるのは確かだ。力を振るうのは厭わしく、守ることは喜ばしい。だが守ることも力の行使である以上は、誰かを傷付けることにも等しい。
 そのジレンマに再び硬直してしまうネフィリムの背中を後押しするのが、サレオスの説得である。

サレオス
「おまえもおまえだ、ネフィリム
言われっぱなしで黙るな!
一緒に戦うようになってからも、
おまえはずっと誰かを守って
ばっかりだった…
それはそれで尊いことさ
実際、俺たちもそれに助けられた
だけどな、本当に嫌なことや
本当に譲れないことがあるなら…
守るだけじゃ駄目なときもある!
「戦う」ってのはそういうことだ!
俺たちだってだからこそ…
ときには誰かを傷つけてる!
それでも守りたいもんがあるんだ!」
(第05話・END)

 「守る」と「傷つける」は紙一重だ。しかし、何故ここでネフィリムに「傷つける」=時には他者に覚悟を以て、暴力を振るわねばならないことを説くのがサレオスなのか。たとえば無印のキャラエピで、サレオスは「人の生き方なんて人それぞれ/俺は否定も肯定も、する気はないぜ」(サレオスB・2話)と漏らす。
 あるいは、船に乗せた男が盗賊に身をやつした理由を聞いて、こう語る。

サレオス
「要はおまえさん、今まで流れに
逆らって生きてきたわけだ
(…)人の生き方には川と同じだ
流れってものがあるんだよ
どんな緩やかな川でも、
流れに逆らって進もうとすれば、
疲れるばかりで先に行けない
(…)自分の流れなんて、
自分にしかわからないものだ」
(サレオスB・4話) 

 この「流れ」は独特の語彙ではある。男が盗賊に身をやつしたのは、教育熱心な両親への反抗心からだった。束縛から逃れたいという想いだけでなく、親の願いに応えたい気持ちもあったかもしれない。いずれにせよ束縛から逃れるにも相応の方法があるが、男が選んだのは「流れ」に反した、強引な脱出でしかなかった。まさにサレオスが滝を越えていくように、状況に即して、柔軟に、しなやかな生き方を選んでいくのが「流れ」に従うことだろう。あるいは、己の心の流れから逆らうことも、またサレオスには避けるべき選択肢だろう。
 男の生き方は、流れに逆らうという抽象的な言い回しを書き直せば、生硬なのである。親から逃れたい一心で盗賊となり、他人から奪う生き方が、いかにも硬い。男は自分を盗賊と言い聞かせるからこそ、船頭であるサレオスを刃物で脅すが、サレオスが呆れる通り、単に船で王都の兵から逃れたいのであれば、ただ黙って船に乗り続ければいいだけだ。
 何故サレオスは人の生き方を「否定も肯定」もしないのか。
 それは、ある凝り固まった基準から他人の生き方を判定することは、ただただ硬直的だからだ。そこには「流れ」のような、思考のしなやかさはない。
 サレオスは渡し守、すなわち水の流れを読む人だ。流れを柔軟に、俯瞰して読む人として物語を読み返せば、サレオスの言動はすとんと腑に落ちる。たとえばペクスのことをソロモンに伝えないのは、「つまんない先入観」を「抜きにしてほしい」(第04話・冒頭)からだ。故郷への愛着はあるだろうが、それ以上に、ソロモンが最初から憎むべき勢力としてメギドラルを見ることは、サレオスの観点からすれば「流れに逆ら」うような見方も同然だろう。決定的なのは、その後に続く、何気なく読み飛ばしがちだが、実に特異な発言である。

サレオス
「それに…俺自身、ペクスのことを
詳しく知ってるわけじゃないんだ
ヴィータの観点ではあれはクソさ
だけど、よくわからないものを
感情的に否定するのは好きじゃない
…だから黙ってるしかなかったんだ
俺自身にペクスに対する明確な
「答え」がないからな」
(第04話・冒頭) 

 ヴィータを家畜として飼い、実験を重ね、時に食糧とするような制度は、現実的に「クソ」以外の何物でもあるはずがない。しかしそこで、明確な答えがない以上、俯瞰して判断を保留するのがサレオスの思考なのである。確かにサレオスの言葉はのらりくらりと捉えどころがない。線を引いた左右のどちらにも与しないところがあるだろうし、故に信頼し難い底知れなさがある。たとえばペクスをめぐって他のメギド達に意見を求められたとき、「クソ」と明言せず、「黙って」いることは、むしろ不信を招くだろう。
 だが、それでもその立場を選ぶのが、サレオスなのである。
 そして同時に、サレオスは決して「選ばない」人間ではない。がむしゃらに船を漕ぐわけにはいかないが、流れが読めたのであれば、いずれかの方向に進路は決めねばならないだろう。プーパにトドメを刺すべきか議論する場面で、議論の趨勢を見て黙したヒュトギンに対して、サレオスは真っ向からソロモンに反対する。
 その反対の理由自体はありふれているが、むしろここで注目したいのはヒュトギンが黙った理由である。

ヒュトギン
(「戦争嫌い」のオレの立場じゃ、
「四の五の言わずにブッ殺せ」とは
口が裂けても言えないもんな…)
(第03話・END) 

 ヒュトギンはあくまで自分の「立場」にこだわったうえで、ソロモンに反対することを諦めている。いかにもこれは「硬い」思考であって、本当に反対したいなら立場を越えてでも、「口が裂けても」発するべき言葉であったはずだ。読んでいて、私はサレオスがプーパにトドメを刺すようはっきり意見表明するのが意外だった。キャラエピもそうだが、もともとサレオスはニュートラルな立場にあることを好むだろうと思っていたし、それは今回のイベントでも然程変わらない。
 普段から飄々とした、俯瞰的な位置を好む人物ではあるが、それでも言葉を発するべき時は、明白に反対の立場を表明する。
 「流れ」を俯瞰して読み、他に決して意見を押し付けないながらも、自分の立場と意見をしっかりと表明することが出来る大人。それがサレオスだ。
 だからこそ、サレオスはネフィリムの「硬さ」を批判する。もっとも批判されるべきは、自己犠牲の安易さである。

サレオス
「自分勝手なのはおまえも一緒だ!
人のこと守るだけで満足して…
死ぬんじゃねえっ!
俺はな…他者を石ころみたいにしか
思ってないヤツは大ッ嫌いだが…
自分のことを石ころみたいにしか
思ってないヤツも嫌いなんだ!
ときには牙を剥けっ!
誰かを傷つけたとしても…!
自分も「守れ」よ!」
(第05話・END) 

 サレオスがこうネフィリムに檄を飛ばすのは、コシチェイがネフィリムに自己犠牲の論理を説いたからだ。他者を傷つけたくないのであれば「君が私と来ればいい」「そうすれば別に誰も傷つかない」「君さえ我慢すればすべてが/うまくいく」。だが、サレオスの立場からすれば、ネフィリムがこの論理を受容するのは「自分勝手」なのである。コシチェイはネフィリムを単なる「石ころ」としか見なしていないが、ネフィリム自身が、これまで己の力と体躯を厭い、「石ころ」のように自らを安んじていたのも確かだ。
 自分が犠牲になりさえすれば、これ以上誰も傷つかない。そういう安直な自己犠牲の論理こそ、サレオスには最も「硬い」論理なのである。
 自分が犠牲になる必要もなく、誰かを傷付けるにせよ最低限で済むような道を、しなやかに選び続けるのが、サレオスの理想のはずだ。
 ネフィリムはこの後、サレオスに潜在していた怒りを引き出され、コシチェイを己の力で撃退する。ここには二つの変遷がある。第一には、ネフィリムがコシチェイへの嫌悪、敵愾心を抱いていること自体を直視し、心の流れに逆らわないこと。第二には己の厭っていた「傷つける」という選択肢を、状況に応じて柔軟に、しなやかに選ぶことである。
 選ばないことと、選べないことは違う。サレオスが後押ししたのは、傷つけるという選択肢もまた選べるようにする、という手解きであったと思う。

 ネフィリムは己の基準に縛られた、「硬い」人物である。もうひとり「硬い」人物が居る。それがソロモンだ。『さらば哀しき獣たち』の経験から、ソロモンはプーパにトドメを刺すことに反対し、話し合うことを提案する。しかし、これはサレオスが劇中で指摘する通り、事態に即していない、先行事例から「硬く」判断した選択肢に過ぎない。
 こう読み返すと、ソロモンの未熟さとは、不殺の「甘さ」ではなく、判断の「硬さ」なのである。
 刻一刻と変化する状況に対応し続け、時には自分の判断を疑うこと。その手腕が問われたのがまさしく7章であり、自分の判断を疑えないのであれば、それは思考の生硬さに他ならない。それを指摘するのが7章のベルフェゴールだし、『守りたいのは、その笑顔』におけるソロモンは、プーパにトドメを刺さないのではなく、むしろ刺せないのである。他ならぬソロモンが、「自分でも思っている以上に/この前の件を引きずってたんだ」(第05話・冒頭)と、商人たちの死体を前に語っているのだから。
 何より重要なのは、6章の「碑」に体現されるソロモンの考えが、端的に自己犠牲の思想であることだ。ここにおいて、ネフィリムとソロモンの位置は重なり合う。
 そしてこの地点からこそ読み返さなくてはならないのが、ネフィリムとキノミの、自立をめぐる物語である。

 ネフィリムに護られていたプーパは、彼女に頼るばかりで自分で食料を入手しようとする気概もなく、食料の取り辛さからネフィリムが移動を提案しても聞き入れようとはしない。本人が嫌がる外敵の排除を無理に頼み込んでいるとはいえ、プーパもネフィリムの空腹を案じてはいるし、ある程度以上の感謝はあっただろう。
 ただ、それは断ることが苦手なネフィリムの性格につけこんでいるにも等しいし、ネフィリム自身が状況に問題を感じていたのは確かだ。

ネフィリム
(うーん…懐いてくれるのが
嫌なわけじゃないけど…)
(ずっと私と一緒じゃなきゃ
ダメだとしたら、この子…
駄目になっちゃいそうだな…
オーさんとサイさんみたいに…)
(第03話・END) 

 ネフィリムがキノミを突き放すことを選ぶのは、このプーパを自身に依存させてしまった経験が第一であり、第二に「私はメギドだし」と種族の違いを意識したからだ(第04話・1)。守るだけでは依存を生むばかりで、「駄目」にしてしまう。自分で現実に立ち向かっていく力を、むしろ自分が潰してしまう。ネフィリムがソロモンとパラレルな存在であるならば、ソロモンが守っていたのは誰か。それは6章、ヴァイガルド防衛戦におけるヴィータ達である。とりわけ王都の民は、ソロモンに守護されていたにもかかわらず、災厄の原因を求めるがあまり、ソロモンを外敵と見なしてしまう。そこには扇動者の存在や不安、不信、誤解もあったが、彼等との対立を決定的に解くのは、シバの女王の演説である。

シバの女王
「…おぬしたちもまた、守る者じゃ
ゆえに「王都の盾」の後ろで、
安全だけを願おうとするな
未来を生み出すための礎として、
みなが勇気を持って滅びの危機に
抗う者であってほしいのじゃ」
(第59話・冒頭) 

 ネフィリムとソロモンは共に自己犠牲の論理を生きようとしていた人々だが、同時に彼らの守護だけでは成し遂げられないものがある。それこそが、守られる側の自立であり、それぞれが「滅びの危機に抗」い、戦う意思である。それが無い限り、王都の民はただ守られるが故の鬱憤を蓄積するか、王都の盾たるシバに、あるいはソロモンという剣に依存していくだけだ。シバの女王の演説にはバルバトスの物語が続くが、ここに重要な描写がある。葬送騎士団の男は「リスク」を説く。その内実は説明されていないが、追放メギドはヴィータの肉体を有しているといえど、所詮は異種族に過ぎない。メギド同士の対立が火種となっているのだし、彼らがいつこちらに牙を剥くかも分からない。補って読むのであれば、リスクとはそういったものだろう。これに応える言葉が重要だ。

理解した群衆
「今、この世界のどこに
「リスクのない」場所がある!
敵はなんだってやるんだぞ!
(…)俺はシバの女王
おっしゃることを支持するよ
みんな戦ってるんだ」
(第60話・1)

 リスクのない場所などどこにもない。むしろ、己もまたヴァイガルドを守る一員として立ち上がるのならば、そのリスクは覚悟を以て引き受けるものだ。
 ここで大事なのは、彼等に自立の意志を植え付けたのは、ソロモンという直接の守護者ではなく、むしろシバの女王なのである。この構図は、ネフィリムがキノミを自立させるのではなく、児童福祉に造詣の深いマルコシアスとユフィール、そしてニバスが自立のきっかけを作り出したのと類似している。『守りたいのは、その笑顔』で描かれる防衛戦は、その意味で、6章・ヴァイガルド防衛戦の再演に等しい。物理的な脅威から自らの身を徹して守るのがソロモンとネフィリムであり、守る対象の心を立ち上がらせるのがシバの女王とニバスである。そしてこの二種の防衛戦は、ネフィリムとニバスの戦いが同列に描かれたように、同じぐらい重大なものだ。
 そして最後に、ニバスとネフィリムの物語は、ソロモンとシバが語れない或る余白を描いている。それこそがネフィリムのキャラエピで描かれる、「戦後」のささやかな物語である。
 ここにおいてこそ、『守りたいのは、その笑顔』は、本編のサイドストーリーとして完結している。

 ネフィリムのキャラエピで主要な舞台となるのは、王都で開催される「衣服の品評会」だ。それは「ヴァイガルド中の仕立て屋」がそれぞれの「作品」を持ち寄って集い、それぞれの「センスや技術」を問う会であり、第一にはそれぞれの「店の宣伝」と「被服産業全体の活性化」が目的である。しかし、より重要なのは、むしろこちらの目的である。

シバの女王
「王都襲撃などもあって、昨今は
暗い話が多かったからのう…
その雰囲気を打破する意図もある」
ネフィリム・2話) 

 ヴァイガルド防衛戦はソロモンとシバの勝利に終わり、物理的な脅威は去ったものの、いまだ戦後の「暗い」雰囲気は続いている。それを打破する催しである。そもそも、被服産業、つまりお洒落をすること自体が、日常の生存を越えた余剰ではある。まして服飾の「センス」を競い合うことは、余剰の極みだ。だがそれこそが、「戦後」の平穏を証立て、人々から「暗い」雰囲気を取り去ることが出来る。ここで開かれるのはつまりファッションショーだが、それに縁あってネフィリムが参加することになるのが話の大筋だ。
 仕立て屋がネフィリムをモデルに選ぶのはその「大きさ」故である。広大な会場で目立つには、その長身がまさにうってつけというわけだ。
 ネフィリムのコンプレックスを知っていたマルバスは、「大丈夫?」「嫌な気持ちになってない?」と案じる。ここでの応答が重要だ。

ネフィリム
「大丈夫です…むしろ、あの…
私で良ければやらせてもらおうかと
思ったくらいで…
(…)あなたの話はとても
わかりやすかったし…
ちょっと、うれしかったです…
大きい私が必要だって言ってくれて
これまでにも、そういう人が
いなかったわけじゃないですけど…
誰かを傷つけるためだとか、
そんな目的ばかりだったから…
そういうのは、嫌なんです
でも服を着るだけなら…
誰も傷つきませんもんね?」

ワース
「そう、ですね…
そうでなければいけません
最近は暗い話が多いですけど、
僕は自分の服を着ることで誰かが
幸せになってくれたらいいって…
そう思いながら仕事してますよ」

ネフィリム
「素敵だと思います、そういうの
私で良ければ…協力させてください」
ネフィリム・4話) 

 他人を傷付けるだけの忌まわしい力が、誰かを守るために恵まれた力に転じるのと似た構図にこそ近いが、その体躯は最早「戦い」とはまったく関係のない地点で求められる。ワースの服飾は「幸せ」のために、表題に結び付けて言い直すならば、誰かの「笑顔」のためにある。着飾ることは決して生存に不可欠ではないが、しかし「笑顔」を産むことが出来る余剰でもある。ネフィリム自身も、自らが着飾ることに、確かな満足感を覚える。

ネフィリム
「私も、かわいい服を着られるのは
嫌じゃないですし…
ほんの少しの時間でしたけど、
昨日もドレスを着ているときに
とても心が弾みましたから…」
ネフィリム・7話) 

 ネフィリムは火事に巻き込まれた子供を救うため、結局品評会には出場出来なかったものの、ドレスを纏って王都を走ったこと自体が服の宣伝になる。そして今後も服を着てほしい、と有償で依頼される。

ワース
「品評会なんかに頼るまでもなく、
ネフィリムさんが僕の服を着て歩く
だけで良い宣伝になったんですから
そんなことができる人は、
そうはいませんよ?
(…)というわけでネフィリムさん…
これからも定期的に僕の服を
着ていただけますか?
服のお代は要りません、いや…
むしろ払わせていただきますから!
(…)この調子でいけばネフィリムさんの
ような職に就く人が、たくさん
出てくる可能性もありますよ」

マルバス
「じゃあネフィリムにはがんばって
その仕事をやってもらわなきゃ!
私だって、その服を着る仕事
やってみたいもの!」
ネフィリム・7話) 

 ネフィリムが就くのは服飾のモデル業であり、そこで宣伝されるのは着る人の「幸せ」を願われたワースの製品である。その意味では、ネフィリムは笑顔のための余剰を人々に広める存在でもある(これを担うのが、巨大な体躯という余剰を持ち合わせたネフィリムなのが良い)。これは強引な読みだけれど、実はこのキャラエピで彼女の位置にいちばん近い存在こそ、私はニバスだと思う。ニバスBのキャラエピはごく気軽に読めるコメディだが、最後にニバスの重大な決意が、さりげなく描き込まれている。

ニバス
(私も、もっともっと芸を磨いて
もっともっとたくさんの人を笑顔に
できるようにならなくちゃ…!
(…)芸で戦争を失くして、世界を
平和にすることだって
できるかもしれないしね…!)
(ニバスB・6話) 

 同時に注目したいのは、芸の特訓のため足早に去っていったニバスを見送る、団長の言葉だ。

団長
「今では芸の腕もたしかだが、
もはやあの子の存在自体が
「芸」なのかもしれないな…
人を笑顔にし、勇気づけてくれる…
最高の「芸」だ」
(ニバスB・6話) 

 「芸」は決して戦時に生き延びるために必要な催しではない。それどころか、生存においては何ら必要のない余剰に過ぎない。だからそれに心血を注ぐニバスは、戦争社会では落ちこぼれの異端児でしかなかった。だが、6章以降の「戦後」では、まさにこうした「笑顔」を誘う余剰こそが、戦禍の「暗い雰囲気」を打ち払うのには必要なはずだ。それは人を「勇気づけ」あるいは「世界を平和にすること」だってできるかもしれない。何より、オクスのキノミが最初に緊張を解かれて笑顔となるきっかけこそ、ニバスの「芸」に他ならない。
 戦争の暗い影と、遷延する緊張とを解き、人々に笑顔を招くことも、また別の世界の守り方であるに違いない。ニバスの決意が物語るのはそういう思想だ。それもまた、サレオスがネフィリムに説いた、「楽し」く「賑やか」な毎日を守るための戦いのはずだ。故に『守りたいのは、その笑顔』とは、6章の再演であると同時に、そこでは描き切れなかった「戦後」の回復と、その「笑顔」を守る者たちの物語でもあったのである。