メギド72『悪夢を穿つ狩人の矢』(復刻改稿版)について

 2018年12月は、ベヒモス前後編・保健室イベント・6章2節と質・量いずれも相当のテキストが連続した時期だった。たしかにこれまで月初にイベントを開催し続けているとはいえ、まさか1月の第1週目もその規則を守るとは思わなかった。初回『悪夢を穿つ狩人の矢』だ。後出しに近いが、たとえば月の前後半で復刻と新規イベントを入れ替えたり、あるいは1度休みを取ってもよかったのでは、とは正直感じた。

 ただ結局先延ばししたところで2月3月分の製作に皺寄せを来すだけだし、メギドの日やリリース記念日が固定されている以上、安易にスケジュールを動かすことは出来ないのだろう。メインシナリオの更新速度が気にされていた時期でもあっただろうし、製作体制の破綻もやむを得なかったのかもしれない。これは私の勝手な推測に近いけれど、テキストを見る限り、ベヒモスイベント以前は相当な少人数でイベントシナリオを担当していたのではないか、という気もする。

 しかし、思い返すと初回版『悪夢を穿つ狩人の矢』の「問題」は、意外とその所在を明確に言い表しづらい気もする。メギドはバトルシステムが充実している一方で、キャラクターにも重きを置いたゲーム展開をしてきたはずで、この場合最たる問題となるのはキャラクターの記述の矛盾だろう。

 リジェネレイトは、直近の例ではグシオンやイポスの新規描写がそうであったように、メギドの新たな側面を提示する機会でもある。新しさは、既存の記述からの発展であろうとも、飛躍や非連続を必ず伴う。流石に高笑いを繰り返すアンドラスは普段の言動との非連続が強いとは感じやすいが、「反している」かというと、言い切ることは難しい。レラジェの「自らの力そのものを恐れていた」という新規設定についても、導入の巧拙を問うことは可能だが、ゲーム内の既存の記述に反するかというと、否ではあるのだろう。矛盾と非連続は違うもので、前者は難しくても、後者はいくらか理由のつけようはある(それこそ高笑いは徹夜明けだったのかとか、苦しいものであっても)。とはいえ、もちろんテキストの展開が一本調子であったり、設定の導入・描写といった質において、それまでの平均水準を逸脱していた、と取る人があっても、仕方ないテキストではあったかな、とは思う。

 「山」は難しい。

 道行く人々とも出会い辛いだろうし、せめて小屋がなければ、あるいは頂上・山腹・裾野を明確に書き分けるのでなければ、どこまでいっても漫然と険しい斜面が続くだけだ。そうなると場面が切りづらい。物語が展開しにくい。傑作『死を招く邪本・ギギガガス』ですら、最初は古書街に始まり、フルーレティの計画が明かされるのは高級レストランで、アリトンが客に勝手に紅茶を注いでいたはずだ(記憶違いでなければ)。こういうちょっとした人の動きを書いて、時間を前に進めるのが、山は非常に難しい。一般に人がいない場所での物語は、展開に難儀しがちだ。自分ひとりの部屋だけで物語を進められるのは、よほど文章がうまい人だけだ。

 メギドはテキストを大幅に改稿する際もステージ構成を変えないので(ライターがすごいのである)このあたりの処理をどうするのかは気になったが、改稿版ではレラジェの狩人としての知識を描く機会として活用したり、あるいは地滑りで物語に起伏をつけたりして、かなり巧みに処理されていた。

 今後こういう大幅な改稿がありうるかというと、私は可能性のうえではあり得ると思う。

 製作体制が破綻し、かつ運営が一定水準以上の質をシナリオに求め続ける限りは、可能性としては絶対にない、とは言い切れない。これは勝手な妄想だけど、比較的一本調子な展開に、時折味付けの濃いフレーズや描写をアクセントに挿入する手つきは、どことなく初稿版の『ソロモン誘拐事件・逃走編』や『上書きされた忠義』を思い起こさせる(たとえば初稿版なら手首を切るアンドラス)。

 どのイベントをどのライターが担当したかは妄想の域を絶対に出ないが、メギドのイベントシナリオの質が急激に上昇したのは(あくまで私見だが)『二つの魂を宿した少年』からであり、それ以前のシナリオについては『背中合わせの正義』を除いていずれも改稿されている事実からも、メギドの運営がシナリオの或る水準への到達、あるいは方向性の一貫にこだわりつづけていることが伺える。とはいえ、2019年1月のプロデューサーレターで製作体制のアップデートについて言及されており、また以降のテキストを読む限り、少なくともベヒモスイベント以前ほどの少人数でイベントシナリオを製作しているわけではないようには感じる。

 大幅な改稿が起こる可能性は、そう高くないのではないか。

 前口上が長くなったが、非常に面白く読んだシナリオだった。改稿版『悪夢を穿つ狩人の矢』の主題は「生命」と「継承」だと取ったけれど、これらはいずれもレラジェがネルガルを説得する場面から息吹き始める。実はこのネルガルの思想が、さらりと書かれているようで案外把握しづらい。

 まず最初にネルガルが語るのは、寿命の問題である。

ネルガル

「……ワタシが最終的に

実現しようとしているのは、

「死の克服」だ

(……)ワタシたちメギドは、生物として

単に長命で強靭なだけに過ぎない

死を迎える点では他と大差ない

だが寿命の格差が、世界全体を

不安定にさせている…というのがワタシの見解だ」

(第03話・4)

 寿命の格差、個を損耗するまでの時間の差異こそが執着を産み、「世界」を不安定にさせている、というのがネルガルの発言だ。ただし、これはあくまでメギドラルの状況であって、そもそもネルガルがヴァイガルドの生態系を機械化する、という結論にはこの筋道だけでは至らない。ましてネルガルは人里離れて暮らしていたのであり、動物同士の争いからヴァイガルドの生態系に「不安定」を見出すのも、この時点ではあまり自然に感じられない。

 ひとまず、ガープがメギドラルの戦争と退廃を繰り返す「停滞」を指摘し、ネルガルが「ハルマゲドン」と自身の計画を同列に語るときに「救済」という語を口にしていること、ネルガルの計画が停滞からの離脱を目指していたのは確かだろう。

 二度目の戦いに敗れたネルガルは、再びその心情を語る。

 「かつてメギドラルにいたころ」の心境だ。

 

ネルガル

「(……)ワタシはメギドという存在が

ヴィータを模倣する社会に…

…脆弱な身体のままで

ひたすら戦争を続ける社会に

強い矛盾を感じていた

本来であれば、

「個」の実像、実態である

メギド体にフォトンは不可欠だ…

…にも拘わらず、フォトン不要の

ヴィータ体のまま戦争を繰り返し、

戦果を挙げようとする

(……)持って生まれた力を発揮できぬまま

メギドたちが戦場で失われていく

世界を見て、ワタシは絶望した

…と同時に、閃いたのだ

メギド体とヴィータ体の

共通点とはなんだろう、と

それは「魂」だ、それが個の核だ

…ならば、それを覆う

「別のもの」があれば

よいではないか

(……)その発明こそが、

この「機械の身体」に他ならない

血肉を捨てた、魂を納める器

生存にはフォトンを必要とせず、

戦うためにはフォトンを利用できる

そして破壊されても再生できる

(……)」

レラジェ

「…だけどそれは、メギドラルでは

否定されたんだな」

ネルガル

「…そうだ

メギドの「理念」に反するのだと

ワタシには理解できなかった

(……)ワタシの偉大な研究を否定しながら

メギドとしての力も発揮できず

戦争で死んでいくメギドたちを…

…いつしかワタシは

冷めた目で見るようになった

「クダラナイ」

「戦争などなんの意味もない」

だからワタシは、メギドラルを

見限ることにしたのだ」

(第03話・END)

 ヴィータ体で深刻なダメージを負えば命を失うのは『さらば哀しき獣たち』のチリアットの結末が示したところだが、本来のメギド体ではない、いわば偽りや仮初のヴィータ体は、ネルガルにとっては「持って生まれた」自然な在り方からはかけ離れたものだろう。「肉体と魂」を切り離し、別人のメギド体に魂を移植する実験は作中ですでに何度か語られているし、メギド体が(ソロモンが繰り返し行っているように)フォトンで再構成可能なものならば、いつでも組み直し可能な機械の身体も、そうかけ離れたものではない、というネルガルの論理は、意外と筋が通っている。まして、ネルガルのような優れた技術者が必要とはいえ、そこに自分なりのオーダーやカスタマイズが通るならば、それは「個」の直接的な反映にすら近い。

 ただし、ここでネルガルは、メギド体への誇りを見落としている。感情問題への視点が抜け落ちている。メギドが自身のメギド体に愛着と誇りを抱く設定はすでに語られていて、ネルガルの思想は論理的には筋が通っていても、メギドの心情的には受け入れ難いものだろう。

 だからこの「理念」とは、言葉通りの理念ではなく、むしろ感情的な躊躇い、抵抗感をうまく言葉にできないまま、その提案を退けるときの名目的な「理念」なのではないかと思う(この「理念」がどういうものかは明白に語られてはいないので、これはあくまで勝手な読みだけど)。

レラジェ

「…オマエが「イチゴウ」のために

世界のすべてを変えようと

したのはわかった

せっかくメギドラルで

機械の身体を生みだしたのに、

目的ごと否定されて…

…オマエはこっちの世界に来た」

(同上)

 レラジェの発言から察するに、ネルガルがメギドラルではなく、ヴァイガルドの生態系を機械化しようとしたのは本気だ。時系列を整理するなら、①メギドの機械化を提唱するも周囲に拒否されてヴァイガルドに渡航し、②漫然と研究を継続する過程でイチゴウの死を体験し、③イチゴウの蘇生とヴァイガルドの生態系の機械化を目論む、という流れになる。

 この③が何度読み返しても私には理路を追えなかった。しかし、そもそもモーゼスのような猫たちが「幻獣に襲われたりして身体を欠損させた動物」(第03話・4)なのを踏まえれば、仮に幻獣でなくとも山の獣に襲われて落命することはあり得るだろう。また、義足のような機械の身体は、たとえ破壊されても取り換えれば修復は出来る。そう補って読んだ。

 ただ、このネルガルの思路には、やはり引っかかるものがある。これは本文のどこにも書かれていないけれど、私はネルガルが最初からイチゴウの喪失を無意識に理解していたのではないか、と取りたい(これは何故出会ったばかりのレラジェがネルガルを説得出来たか、という問題にも関わるが)。イチゴウの行動範囲はたとえ蘇生したとしても限られているだろうし、屋敷近辺の生態系だけを機械化してしまえばいい話なのでは、と最初に読んだときは正直思った。山の生態系を機械化出来るのであれば論理的にはヴァイガルドの生態系すべてを機械化できるのかもしれないが、五年という時間を費やしてネルガルが機械化出来たのは精々六十数体に過ぎないし、合理的ではない。

 バフォメットやアンドラスも、この計画に即座に否を唱える。合理的に、である。

アンドラ

「仮にヴィータが全員、

機械の身体なんかになったら…

…護界憲章はヴィータ

全滅したと判断するだろう

だから、そうなる前に

護界憲章の強制力がなんらかの

影響を及ぼしてくるはずだ」

ネルガル

「それは推測に過ぎないだろう

実際の影響が不確定である以上、

実現不可能という結論に

結びつけることはできない」

バフォメット

「実現不可能と判断する理由は、

他にもあるぞ!

貴様、この世界のヴィータ

生物を機械の身体にするのに、

どれだけ時間をかけるつもりなのだ

あの山1つを改造幻獣で

埋め尽くすのにだって、

数年もかかっているのではないか!

ヴィータだけで、この世界に

何百万人いると思っているのだ」

(……)

ネルガル

「…数がどれだけいようと、

問題にはならないはずだ

なぜなら死を根絶した者にとって、

時間は脅威ではないからな」

(第03話・4)

 このネルガルの反論は、論理的には正しいかもしれないが、現実に即しているもの、あるいは理に敵ったものではない。論理的な帰結と、合理的な判断と、感情的な結論とはいずれも違うもので、ネルガルは聡明な発明家だろうから尚更思うが、この場面のネルガルは、イチゴウの喪失で壊滅的に混乱していたのではないかと思う。つまり反論ではなく、強弁、意地、強がりに近いのではないか。

 ものすごくベタだけど、イチゴウとの触れ合いとその喪失は、ネルガルに感情を教えたのだろう。誇りと愛着は同じぐらい不合理で説明の難しい感情だけど、メギド体にこだわるメギドと、愛着を抱いていたイチゴウの喪失で精神をかき乱されるネルガルとは、いずれも同じ感情の地平に居る。

 ただしネルガルは、ここでも猫の身体を機械に置換しようと試みている。

 とはいえ果たしてそれが本気かというと、私は生態系の機械化以上に留保がつくのではないかと思う。そもそも、ネルガルは、果たして真に「蘇生」を成し遂げていたのか。

アンドラ

「何匹も解剖を続けて確信できたのは

こいつらは最初から「死んでる」…

ってことだ

キミたちが殺したからじゃない

別の原因で傷つき、死んだ幻獣を

誰かが動くように「直した」んだよ」

(第02話・3)

 アンドラスが改造幻獣を解剖する場面の、この「直した」という言葉遣いは何気ないけれど、非常に重要だと思う。たしかに改造幻獣たちは、野生の獣の在り方を模し、自律的に動いているようにも見える。しかし、果たしてそれは「蘇生」だったのか。そもそも幻獣は獣の在り方を模する必要などないはずであって、この時点で改造幻獣は生前とは在り方を異とする。ネルガルは人工の「目」を埋め込み、この感覚器こそが改造幻獣の行動を規定し、山での生存に最も適した在り方へ到達させたわけだ。ちょっとしたCPUのようなものか。

 

 そもそも、メギドラルでメギドの終焉を見ていたネルガルが、「死」をまったく、完全に、理解していなかったとは考えにくい。にもかかわらず改造幻獣の実験を蘇生成功と解釈したのは、死体の修復というよりは、おそらくは「目」によるプログラム的な環境適応を、誤認したのではないか。

 プーパでもない、道具でしかない幻獣にネルガルが然程の注意を払っていたとは思えない。あるいは、幻獣がひとまず修復されたように見えるのであれば、イチゴウも似たような修復を行うことは可能だと、淡い希望に賭けたのかもしれない。

 いずれにせよ、ネルガルの計画は理路に乏しいものであり、かつヴァイガルド渡航前後の思想を一挙に語っているために、ゆっくり読むとつまずく場面ではある。

 ただ、私はこの部分についてはネルガルの混乱を反映したものだと取りたくなるし、それだけの豊かさは担保出来ているテキストだと思う。

 であれば、レラジェの説得はどのように取れるのか。

 ネルガルの提案を、レラジェが再度拒む場面を見返してみる。

ネルガル

「なぜだっ!!

科学の前に不可能はないっ!!」

レラジェ

「オマエは理解してないんだ、

「死」を!」

(第03話・END)

 五年、メギドラル時代を勘定に入れれば更に長大な年月を費やした実験と思想が、レラジェの一喝で容易く修正されるのはぴんと来ない、という意見を読んで、私も正直、なるほどそうかもしれないな、と思った。また、ここまで引用して追跡したように、そもそもネルガルの心情自体が直接的に語られていない場面が多く、把握しづらいのもある。

 ただ、ここまで読み返せばわかるように、そもそもネルガルの計画はもはや論理や合理性で駆動しているのではなく、感情の範疇に近い。五年間、他者と交流していなかったのもあるだろうが、レラジェの一喝はアンドラスやバフォメットが口にしたような論理的・合理的な視点からの欠陥の指摘ではなく、「魂」という曖昧な語を以てしての感情的な一喝であり(そもそもネルガルが、引用部である通り、珍しく感情的に激昂している)その後に続くのも、論理による説得ではなく、事実の確認に過ぎない。

 でも、共に死を確認してくれる他者こそが、彼女には必要だった。死を分かち合う、とも言える。

 このあとのネルガルとレラジェの問答に、実に細やかな台詞がひとつある。

ネルガル

「……「死」とは」

レラジェ

「…「魂」の喪失」

ネルガル

「…「イチゴウ」の魂は」

レラジェ

「…ここにはもうないと思う」

ネルガル

「…………」

レラジェ

「仮にその手術台の上にある

「イチゴウ」の死体を、

機械の身体で再生しても…

…それはもう、

オマエの飼っていた猫では

ないんじゃないかな」

ネルガル

「…なぜだ」

レラジェ

「重要なのは、

そこに魂が宿るか否か…

だからさ」

ネルガル

「…………」

レラジェ

「「魂を納める器」が

どんなによくできてたって、

空っぽじゃ意味がない

泣いたり、笑ったり、

一生懸命機械の振りをしたり…

そういう中身が必要なんだよ」

ネルガル

「…理解した

…………

…と、思う」

レラジェ

「…ん」

(第03話・END)

 アンドラスの提示した護界憲章の問題に、「必ずしもそうなるとは限らない」と反論したように、実際にイチゴウを機械の身体に置換したとき、「必ずしも」もとの在り方を取り戻さない、とは限らない。それが論理の世界の発想、あるいは「機械」の思考だろう。最後のこのネルガルの「思う」が、とても大切な動詞だと思う。魂の消滅、蘇生の困難は、ネルガルからすれば、あくまで「思う」・信じる、すなわち信用の問題であり、感情としてそれを容認出来るか、という問題に属する。

 ごく短い部分だが、この最後のネルガルの「思う」こそ、見事な台詞だ。レラジェの「…ん」という静かな応答もまた、その容認にひっそりと寄り添う描写として読みたくなる。そもそも、野ざらしにすればいつかは自然に分解される遺骸を、わざわざ埋葬するのは、衛生的な問題もあるだろうが、「さよなら」の感情を重視した儀礼でもある。続くイチゴウの埋葬の場面で、手向けの花が用意されるのも、心情の文脈に位置付けられている。

 ネルガルとレラジェの説得の場面について長々と書いてしまったが、もうひとつ重要な主題は「継承」だ。もちろんそれを最初に提示するのは、ガープの「子供」をめぐる発言である。

ガープ

「子供とは未知なるもの

不完全だが未来あるもの

環境に変化をもたらすもの

(……)わからんか

それがある限り、世界に

「死」などないということが

貴様は未知のものを

生みだそうとはしていないのだ

この世界を不死で統一して、

停滞させた先になんの意味がある

そこには…

…「魂」などあるまい」

(第03話・4)

 生殖による再生産があり、そこに継承がある限り、「死」などない。

 裏返せば、たとえ肉体的な死があろうとも、子供を通じた「魂」あるいはあり方、気風、技術、思想の継承は可能ということだろう。これが生殖、すなわち血縁による継承に限らないのは、ナスノとレラジェの関係性が示している。ナスノのシルエットはリジェネレイトしたレラジェの姿に他ならず、時間の前後はあるが、意味するところは、レラジェがナスノの「魂」や在り方を継承したという、かなり直截的な表現だ(でも、媒体の特性を活かした、優れたゲーム表現でもある)。

 ナスノはレラジェが自分を母と呼んだとき、強烈な暴力を振るう。この心情はいかようにも解釈可能なだろうが、「母娘」という関係は自分たちにそぐわない、と本気で感じていた可能性もあると思う。重要なのはその心理というより、むしろ強固な絆で結ばれた師弟と、(疑似親子とするのか、単にどういう言葉で呼ぶのか、という問題に過ぎないかもしれないが)親子のあいだには、明確な区別はつかない、ということではないか。

 少なくとも、そこに継承、あるいは「魂」の不滅の在り方の差異はない。ガープが生殖による継承を代表するならば、ナスノとレラジェは生殖に依らない継承を体現している。

 

 継承とは、親子や師弟のような、強い絆のもとでのみ成し遂げられるものなのか。ここで活きるのがバフォメットの発言だろう(そもそも彼女は、この目的のために同行したようなものだが)。

バフォメット

「ネルガルの技術で生まれたモノが

抑制されつつ流通するよう…

…我がその管理・監視役に

名乗り出ようと思う」

(……)

ソロモン

「だけどもしヴィータが、

ネルガルの作ったモノを模倣して

たくさん作り始めたら?」

バフォメット

「それはこの世界にとっては

発展だし、構わぬだろう

ネルガルとして技術を

独占したいわけではあるまい?」

ネルガル

「積極的ニ肯定

ワタシハワタシノ発明品ガ、広ク

有効利用サレルコトヲ望ム」

(第05話・END)

 バフォメットが体現するのは、流通を介した技術の伝播と継承だ。ネルガルと職人たちの間にバフォメットが介在する以上、そこに絆のような硬固な関係はないが、それでもネルガルの製品は彼らに新たな技術を継承・開発させるかもしれないし、その技術こそまさにガープの語る「環境に変化をもたらすもの」に相当するだろう。そもそも「模倣」とは、レラジェがナスノに対して行ったことだ。

 このバフォメットの提案こそが、「継承」という主題を、単なるヴィータ同士の関係性に依らない、大きく広がりのあるものに拡張している。

 であれば、バフォメット同様、改稿版で新規に登場したコルソンにも注目しなくてはならない。

 ネルガルは生きていた猫への愛着と喪失に動揺させられましたが、果たしてこの愛着は生物にだけ向けられるものなのか。

 ネルガルがイチゴウの喪失を語り涙する場面の直後に、コルソンがとらまるの凹みを心配してすすり泣く場面が挿入される。とらまるは無機物、非生命の物質に他ならないが、それでも彼を含めたぬいぐるみはまず「おともだち」なのであり、顔の凹みにはまさに友人が傷つけられたように動揺して涙する。ここにも、繊細な動詞の選定がある。

アンドラ

「さすがにぬいぐるみは専門外でさ

役に立てなくてすまないけど、

アジトで誰かに直してもらうしか…」

コルソン

「ねえ、ソーくん…

誰にお願いしたらとらまる治して

もらえる…?」

(第03話・END)

 「直す」と「治す」の一字の違いに過ぎないが、二人が選ぶ同音の語は、もちろん前者が無機物の修復であり、後者が「おともだち」の治療という意味で大きく異なる(こういう何気ない細部への気の使い方が、本当に好きだ)。ゲームシステム上あり得ないだろうが、仮にとらまるが修復不可能なまでに破壊されたとすれば、コルソンはイチゴウを失ったネルガルのように深い喪失感情を味わうだろう。子供の見方といえばそれで終わりかもしれないが、ここに滲むのは、生命と非生命への愛着にもまた、境界を定めないという感覚だ。そうした柔らかな境目への容認であり、コルソンもまた、物語の幅を大きく広げることに寄与している。

 私はメギドのシナリオにおける「多様性」というのが今まで正直よくわからずにいたのだけれど、今回のシナリオは、まさしくそれを体現するものだったのではないかと思う。

 愛着については生命をネルガルが、非生命をコルソンが、継承については血縁と生殖をガープが、血縁に依存しない師弟関係をナスノとレラジェが、人と人との関係に依存しない技術の継承をバフォメットとネルガルが担っている。

 最初は何故バフォメットとコルソンが追加されたのか理由が掴めなかったのですが、物語の主題に沿った、実に見事な加筆だった。2019年の優れたシナリオ群でも上位に属するのではないか。

 書いておきたいことは書き終えたので、最後にひとつだけ。

 実験の目的を失いながら、それでも研究を停止出来ずに人里離れた館で漫然と継続し、一見理路が通っているようで、愛着対象の喪失による激しい感情に突き動かされる研究者ネルガルは、2018年の『プルフラス・復讐の白百合』におけるサタナキアの姿を彷彿とさせる。その感情を心の「眼」で読んだプルフラスが急所を突く場面も重なるし、レラジェには偶然の成り行きもあるが、いずれも慕っていた相手の敵討ち、という点では目的を同じにする。存在自体が不条理に近い、という点でグリマルキンとサラを重ね合わせることも出来るだろう。そもそもレラジェRとプルフラスはゲーム性能上でも同じ点穴のアタッカーだし。

 『プルフラス・復讐の白百合』は、メギドのイベントにおいて、初めてサタナキアすなわち「敵」の心情が密に描かれ、物語にぐっと厚みが出るようになった、記念すべきシナリオでもあった。そういう意味で、非常に懐かしい気持ちになった、ということを最後に書き添えて、今イベントの感想を終わりとします。