雑誌『精神療法』のマインドフルネス特集を読みました

 雑誌『精神療法』の特集「マインドフルネスを考える、実践する」が面白かったので特に興味深かったところだけ紹介。マインドフルネスを考える、つまり批判的吟味なのでわりと辛辣な記事が多い。記事の掲載順と紹介順は全然合ってません。

精神療法第42巻第4号―マインドフルネスを考える,実践する

精神療法第42巻第4号―マインドフルネスを考える,実践する

 

 

  1. 中村伸一「マインドフルネス雑感」

 「精神療法」の編集者(心理療法に関わっている精神科医の先生)の書いたエッセイのうちの1本。米国家族療法アカデミーの年次大会で著名なマインドフルネス治療者の講演を聞き、ワークショップに参加したが「素朴な感想は、……いわゆるカルチャーセンターにいって習得すれば済む話ではないか」というものであり、「スキルとして習得するだけの価値はある」としつつ、米国での人気は「オリエンタルな香りのする禅仏教へのあこがれと癒しや救い、さらには「悟り」をそこに求めようとする社会的(経済的)な背景」による所が大きく、最終的には「落ち着きを取り戻し、また「斬新」と勘違いされる「○○療法」が芽を出すだろう」と釘を刺す内容。マインドフルネスをすれば万事解決、というようなものとはかけ離れた、相当冷静な筆致の記事が多い特集だが、それを象徴するようなエッセイ。ただし本特集にも呼ばれた大谷彰『マインドフルネス入門講義』は「ちゃんと知っておくのによい本」「真摯にマインドフルネスについて著している信頼できるもの」であり、「早々に」使える技法もある、との評価。

マインドフルネス入門講義

マインドフルネス入門講義

 

 

  1. 藤田一照「マインドフルネスと無心」

 特集の最初の記事。筆者は曹洞衆国際センター(サンフランシスコ)に所属の僧侶の方。

 仏教における「心」とは「自他、有無、生死、善悪、得失、賢愚といった」観念を二分する「念想」であり、こうした二分法が人生の諸問題を引き起こすとする。西洋心理学では「私には心がある」と見なすが禅は「心が私を作り出す」とする。希望、悲喜、悲しみや怒りや失望といった心に去来するものは、実体のない単なる虚妄に過ぎない。そうして絶えず立ち現れる想念、思考、願望、といった一過的に過ぎない現象の連なりから、しかし逆にそれを経験する確かな主体があるように錯覚してしまう。その時に与えられる名こそが「私」である。つまり「私」とはどこまでいっても単に想起される心の経験に過ぎないのだが、あたかも「経験」と「経験とは別に(その結果として)存在している私」という区別があるよう錯覚する。そして「私」がより良い経験を得ようともがこうとするが、これは「夢の中でもっと良い夢を見ようとしてもがいているようなもので、けっきょくのところ堂々巡りの中で疲弊」する。こうした「有心」すなわち「私」のパラダイムの中で生きている以上は、自分の悩みや苦しみも「私」が解決すべき問題となり、人生は「私の維持、向上、発展、幸福」を図る、「私」をめぐる「緊張と戦い」が果てしなく続く場と化す。常に「私」という夢を見続けている私がどれだけ夢見る自己を実現したとしても、最終的には「それぐるみが夢であった」と「老病死の現実との直面」によって突きつけられる、というスゲー過激な文章。坊さんだからか。

 禅の目標における無心とmindfulnessは字面からして真逆である。臨床におけるマインドフルネス(あるいはclinical mindfulness)は最早仏教という出発点を離れ、世俗的治療技法、あるいは有用な注意のスキルとして自立しているが故に、仏教の教義にそぐわないという批判は不当である。とはいえ、仏教における「無心」がそうした「有心のパラダイムそのものがもつ問題性」への対処プラグラムとしてあるならば、「無心」を出発点としたマインドフルネスは本来苦しみをもたらす「有心のパラダイム」をむしろ強化・補強する(たとえばライフハック的な瞑想なんかは「自己実現」のためのテクニックだろう)ばかりであり、結局はその時々の対処療法にしかならないのではないか、という批判。最終的には入門勧誘に近い気もするし、思想自体に馴染みにくいところはあるけど、ともすれば単にライフハック化しかねない瞑想に対してどうなの、というお怒りの文章としては(一風変わった論理を辿ってはいるが)面白い。ちなみに後に紹介する大谷彰がdis目的で引用されていてちょっと笑う(大谷彰はたぶん書いている当時は藤田一照の文章を読んでなかったろうが、こうした仏教側からの批判をうまくまとめていて、それも楽しい)。

  1. 北西憲二『マインドフルネスとあるがまま』

 森田療法研究所所長。森田療法で有名な先生。本特集の企画者でもあり、本誌の編集者。

 森田療法では「あるがまま」あるいは理想とする「とらわれ」のない状態に至ってこそ「治療」が始まるが、この「あるがまま」を到達目標とするマインドフルネスでは、その後いったい何が起きるかの吟味検討が不足している。つまり、マインドフルネスに達した経験がどう行動に結びつくのか、それがどう治療として一貫しているのか、というところが見えてこない。

 慢性抑うつと対人恐怖に悩む青年患者が瞑想に取り組んだところ、落ち着いた環境下では身体感覚に集中が出来、マインドフルネスといえる状況に達したようだったが、自己嫌悪や対人不安に囚われている際にはどうしても瞑想に没入出来なかった。どのような状態に、いつマインドフルネスの技法を用いるかについても検討が必要だろう。

 「瞑想をして、あるがままに辿り着けば万事が解決する」というような風潮がある中で、更にそれを「治療」にまで結び付けていく具体的なイメージが見えてこない、という声は、批判というよりは正直な感想なのだろう。ただ実際には単に健康維持・増進のためにウケてる面もあるだろうから、治療者寄りの意見。

 

  1. 大谷彰『アメリカにおけるマインドフルネスの現状とその実践』

 『マインドフルネス入門講義』の著者。

 マインドフルネスはアメリカ総人口の8%にあたる約1800万人の成人が実行しており、慢性疼痛患者の17%がマインドフルネスによる治療経験ありと回答しているらしい。どんだけ流行ってるんだ。Mindfulnessという語自体はイギリス人の仏教学者TW Rhys Davidsがパーリ用語”sati”を訳したもの。

 藤田一照のように「私」への囚われ自体からの脱却を目指し、たとえば「現生利益」のための瞑想を批判した『仏教思想のゼロポイント』の魚川祐司のような立場はマインドフルネスでも仏教パラダイムによる「ピュア・マインドフルネス」とでも呼べるもので、臨床パラダイムによる「臨床マインドフルネス」とは区別する。臨床マインドフルネスとは治療、もしくは健康増進・維持を目的としたプログラムで、方法論の違いはあるが主な治療要因は脱中心化(decentering)であるという見解がコンセンサスとなっている。脱中心化とは「思考や感情を一時的な心的現象とみなし、それが必ずしも現実や真実、自己の存在価値などを反映したり、重要な意味を持っていたり、またそれに対して特別な処置をする必要もないととらえる能力」「不安や憂鬱な考えや感情は単にその場限りの一時的な現象に過ぎず、絶対的な事実ではないとみなす態度」である。こうした心理反応・身体感覚に対して距離を置くことが、マインドフルネスによる情動調整を可能にすると推察される(PTSDの治療手段としても利用される)。

 めちゃくちゃ面白いのはエビデンスの問題。臨床マインドフルネスのエビデンス検証の大半は何の介入も受けないグループとの比較であり、「これでは臨床マインドフルネスに軍配が上がるのは当然だと考えざるをえない」。

 特に凄まじいのは2014年JAMAのこのメタ解析。

Meditation for Psychological Stress and Well-being | Complementary and Alternative Medicine | JAMA Internal Medicine | The JAMA Network

 

 瞑想をキーワードにした論文18753件のうち、瞑想が治療の中心とされないものを除外して方法論的に信頼のおける研究の個数を調べたところ僅か43件、全体の0.2%に過ぎなかった。更にこの信頼のおける研究のみで不安・うつ・ストレス・疼痛に対する効果のメタ解析を行ったところ、認知行動療法など何らかの介入を行ったグループでは効果に差が無かった(figure A. が介入無しがコントロールの場合の比較、Bが介入ありの場合の比較)。

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 すなわち「現時点のデータを検証する限り、臨床マインドフルネスの効果寮は小から中規模を示し、治療効力は無治療や支持療法などよりは有効であるが、従来の認知療法より優れているとは言えない。これが行動科学の導く結論であり、マインドフルネスを取り巻く最近のイメージとは大きく異なる」「マインドフルネスのさらなる人気と大衆化に備え、臨床マインドフルネスに携わる者はこのエビデンスが示す現実を銘記すべきである」ってマインドフルネスの先生が言うんだから凄い。

 

 マインドフルネスの大衆化による影響が最も強く見られるのはビジネスの世界で、宗教学者のJeff Wilsonは”Marketing mindfulness”とまで呼んでいる。「アメリカではマインドフルネスと言えば「すべて素晴らしく、スピリチュアル、健全、リベラルなどの代名詞」とみなす風潮が蔓延しており」「結局のところ、普段ならまず買わないであろう商品を購入し、お金を使わせる手段にほかなら」ない(マインドフルネスをテーマとしたカーテン、ついたてなどの室内装飾品、関連教材、チャイム、線香、あるいは高級リゾート地でのバケーションを兼ねた研修など)。更には近年のアメリカでは「にわか仕込みの仏教「専門家」がメンタルヘルス分野に出現し、堂々とマインドフルネスを論じる」「日本ではまず考えられない光景」がしばしば見られている、とのこと。結論としては、先に米国が瞑想と臨床をマインドフルネスとして結びつけたうえで日本に逆輸入するというヘンテコな事態が起きているが、そもそも仏教諸国の心理学者や精神医学に携わる人間が瞑想を臨床手段として積極的に海外に発信しなかったのがマズかったのでは、とあるが、それはちょっと厳しくないかとも思う。ともあれマインドフルネスの紹介をしている先生がここまで苛烈に書いているのは楽しい。俄然著作を読みたくなった。

  1. 原田誠一『マインドフルネス・私観―文学~診療~日常生活のマインドフルな世界~』

 編集委員。マインドフルネスの心理内容はマインドフルネスが開発される以前に吉田健一が『時間』『変化』で書いてた!宗教の術語なしにこの時代にこんなことを書けた吉田健一は偉い!ついでに『不思議な文学史を生きる』で吉田健一を「昭和期の文芸批評の一番重要な人物」として激褒めした丸谷才一も超偉い!俺は診療場面では「今、ここの」「自らの体験に、リアルタイムで気づきを向け、受け止め、味わい、手放す」作業をやってるけどこれってマインドフルネスじゃん!あと毎日仕事場のクリニックまで歩いて通っているけど今はライラックの花が咲いててめっちゃ綺麗、この感動、マインドフルネスじゃん……という超脱力系エッセイ。いや嘘は書いてないつもりなので一度読んでほしいし、あとは吉田健一で誰がテンション上げるんだ!? まあその辺は「マインドフルネスに関して抱いている雑感を思いつくまま率直に記させていただいた。読者諸賢のご検討・ご批判をお願い申しあげる次第である」なので最初から織り込み済みなんだろう。「何でもマインドフルネスじゃねーか!!」って暗に嫌味を言っているかと思ったけど、たぶん違う気がする。

 

 途中で引かれている神田橋條治『精神科養生のコツ』は面白い。「養生のコツの中でいちばん大切な基本となる助言」は「気持ちがいい、という感じをつかんで、その感じですべてを判定すること」であり、「この気持ちの良さを、もっと良くするにはどうしたらいいだろう?」という問いかけが大事なんだって。超有名本だがうちの図書館にはありません。残念。

 

時間 (講談社文芸文庫)

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変化

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改訂 精神科養生のコツ

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仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

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不思議な文学史を生きる

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