メギド72『そして灯火は静かに消える』について

 2021年の『そして灯火は静かに消える』までの四つの物語において、その基底音としてあった主題は「愛」だった。
 固執、という呼び方も出来る。たとえば将来の妻に向けて、ある男からこんな風に物語られた情念のことだ。

フォラス
「…俺の中には
もっと独善的な情念が
渦巻いてるんだ
好奇心を薪にして世界を燃やす
炎のような…
世界を切り刻んで分析しようとする
刃物のような…
誰かを傷つけることさえいとわない
純粋で、それだけに残酷な知識欲が
俺という個の奥底にあるんだ
(…)わからないことが許せない!
知らないことが我慢できない!
世界など知ったことか!
自分の好奇心を満たしたいから
研究するんだ!
世界のすべては俺の研究の
ためにある!
(…)それが俺の「個」なんだ」
(フォラスC・8話)

 セレナへのこの衝動的な語りは、メギドという種族の性質をも言い表している。
 メギドの「個」とは「独善的な情念」であり、その固執する対象が手中になければ「我慢できない」のであり、「世界のすべて」はさながら自らの情念のためにあるように振舞い、だからこそ時に「誰かを傷つけること」も、「世界を燃や」し、「世界を切り刻」むも同然のことも「いとわない」。この「誰か」や「世界」を自己に置き換えれば、それは激烈な自己犠牲になる。それほどまでに「純粋で、それだけに残酷な情念」がメギドにはある。
 
 たとえばヴェルドレは過去の友の記憶のため残虐な処刑を半ば受け容れ、マスティマは彼女を踊らせるため自らの身体を犠牲にしようとした。フルカスにとって拷問とは、相手の丸裸の「真実」を知ろうとする「残酷な知識欲」であり、同時に自ら痛みつけられることをも厭わない、奇妙な自己犠牲との混交物でもあった。ルキフゲスの「蒐集」は、自ら愛するもののためにはいかなる財物をも支払い続けていた。
 メギドの魂を持ち合わせることは、特有の「個」あるいは固執、愛を有することでもある。
 彼等はしばしば、その「個」に苛まれさえする。

 たとえばフォラスの告白を振り返るなら、なぜ「純粋な知識欲」を、わざわざ「純粋で、それだけに残酷な知識欲」と言い表さなければならなかったのか。もちろん、「残酷」な振舞いをしていたからだ。
 この告白は、セレナから本当に自分と結婚したいのか、と問われて衝動的に成されたものだった。
 当のフォラスは、セレナの純真無垢な善意を理解出来ないが故に、強く彼女に魅了されている。フォラスが本当に「残酷」ならば、ヴィータには理解し難い知識欲など黙っていれば良かったはずだ。
 それが出来るだけの「社会性」は手にしていたのだから。

フォラス
(やはり…嫌われた、か
メギドとしての俺の
価値観を曝け出せば…
変わり者の学者では済まない
理解されるはずもない
予測はしていたことだが…)
(フォラスC・8話)

 では、予測していても、なお告白せずにはいられなかったのは何故か。
 ところがこの劇的な場面において、その心の理由はまるで語られない。メギドが頻用する手法だ。いちばん肝心な心の動きは、あえて書かない。解釈の余地を作る。この場面に限れば、別の言い方も出来る。告白とはしばしば、理由が先立たない行為だ。自分でも言葉に出来ない理由で告白を果たしてから、あとからその断片に気付くこともある。
 ありふれているかもしれないが、ここはやはり、フォラスがセレナの善性に魅了されていたからではないかと思う。 「純粋」に善なる女に対して、自身の「残酷」な衝動を打ち明けざるを得なかった。
 フォラスは決して、自分の「独善」を告白してなお受け容れられるか、という「独善」の試し行為をしたのではない。
 真正の「善」をもって魅了された対象だからこそ、「社会性」の仮面を脱がざるを得なかったのではないか。

フォラス
「…そうだよな
研究のために結婚をするなんて
そんな考え方はあまりに身勝手だ
そして、こんなことを言えば
君に好かれなくなることも
なんとなくわかってた
いくらヴィータの心の機微に疎い
俺でもね
でも…君にはそれを
伝えておくべきだと思った
俺は、そういう男なんだと」
(フォラスC・8話)

 『そして灯火は静かに消える』におけるフォラスの苦悩は、この「身勝手」という一語に集約される。
 そもそも、彼が真にメギドらしい人物なら、研究のための結婚という「身勝手」など当たり前であって、そこに躓く必要などないはずだ。己の「身勝手」に悩むのは、倫理の問題であり、社会的なヴィータ的な感性だろう。
 フォラスは確かにメギドらしい人物ではあるが、同時に彼が思っているほどメギド的ではない、柔らかい部分がある。
 
 フォラスに限らず、追放メギドはこうした自己認識のギャップに直面することが多い。あるいは、最初にメギドとしての純粋な魂を持ち合わせていても、次第にヴィータの身体、社会生活によって変質させられていく精神がある。*1

 典型例が、たとえばデカラビアだ。
 彼はもともと、幼少期より自身がメギドであることを強く意識していた。だからこそ、ハルマゲドンによって「滅びの運命」を定められた自身の無力に苛まれた。それでも、薬師の父に愛され、同年代の理解者さえ有していた。
 自身の街が盗賊に滅ぼされたとき、デカラビアは自らの心情を語りはしない。しかし、彼が成したのは明らかに純然たる復讐行為だった。家族や故郷は、喪失によって激烈な怒りと悲しみを引き起こすだけの価値があった。

デカラビア
「…世話になった
ヴィータの魂は死んだら
大地の恵みになるというが…
…いつかおまえたちの魂を糧に
戦えることがあるかもしれんな
俺が…メギドの力を取り戻せば」
(デカラビアB・7話)

 盗賊団が街を襲ったのは、ハルマゲドンの前には無力だという深い諦念がヴィータの間に蔓延っていたからだ。デカラビアはそのような諦観に満ちた世界、ヴィータの無力を変革しようとして、果ては王宮への襲撃に至った。
 しかし何故、そこまでする必要があったのか。

デカラビア
(ハルマゲドンか…
俺が混乱を煽るまでもなく、
ヴィータどもは恐れ慄いている…)
(このままでは勝手に滅びるだろう
ハルマゲドンを待つまでもなくな)
(だが、気に入らん…
俺以外の要因でこの世界が
滅びることは…)
(デカラビアB・6話)

 デカラビア自身はこれを破滅を愛する「個」に帰着させているが、当然この変革への発想は、ヴィータへの愛着が無ければあり得ない。だからこそ、彼の理解者であったフルカネリは問う。

フルカネリ会長
「君がメギドラルにいたころから
ハルマゲドンを止めようと画策
していたことは聞いている
だからこそヴィータとなってからも
君はハルマゲドンを止めるべく
計画を練り続けていた…
だが、かつての君がハルマゲドンを
止めようとしていたのは…
メギドラルのためだったのだろう?
しかし君は…ヴィータとなって以降
ヴァイガルドのために奮闘していた
ように思うんだ
それは君がヴィータとして、
この世界を愛しているからなのか?」
(デカラビアB・5話)

 デカラビアは友の遺骸を前に盗賊を滅ぼすことを決意し、父母の遺体を前に感謝を述べる。
 追放メギドとしての無力を強く噛み締めながらも、現在の自分があるのは間違いなく彼らのおかげだった。
 とりわけ、自身の薬物への関心を否定せず、育ませた父親の貢献は大きく、それだけに愛着も深かっただろう。
 告白を聞き終えたフルカネリ会長は、何気ない言葉でデカラビアの核心を突いている。

フルカネリ会長
「ふふふ…楽しみだね
彼が今後、ソロモン君の軍団で
どんな活躍をしていくのか…
息子の活躍を願う父親のような
思いでその報を待つとしようか」
(デカラビアB・7話)

 『そして灯火は静かに消える』では、デカラビアからフォラスへの気配りが目を惹く。
 仲間への想いが決して強固でもなさそうな彼が、何故フォラスの身を案じ続けるのか。
 その理由は決して語られていないけれど、思い付く理由は二つある。
 ひとつは、デカラビア自身が「父親」への愛着を強く持つ人物であること(もっとも「父親」としてのフォラスは、実はCのキャラストの終盤にさらりと書かれただけなのだが)。もうひとつの理由は、フォラスがデカラビア同様、メギドである自身とヴィータである自身とのギャップに悩み、後者に起因する愛着を前者の性質に心中で帰したことだ。 

フォラス
(もし俺が死んだら…どうする?
メギドってことは隠しときたいし
ただ「死んだ」と伝えてもらうか)
(1話)

 何故フォラスは妻子に自分の正体を隠し続けているのか。
 実はこの肝心な部分からして、作中ではほとんど語られていない(語られていたら教えてください)。セレナは夫の強烈な「個」の告白を受けてなお許容し得る人物だ。それでもフォラスが、自身の本性を告白しないのは何故なのか。
 これも、いくつかの理由があるだろう。
 第一に、そもそも自分がメギドであると明かす理由がない。
 第二に、同時に軍団の最前線で戦っていることを告白せねばならない可能性が高く、家族の心配を招く。
 そして、ヴィータ同士であるかのように振舞い続けてきた以上、今更それが嘘であると明かすわけにはいかない。
 どの理由だろうが「独善」であり、「身勝手」ですらあるだろうが、後者のどちらであろうとフォラスの場合、それは愛情に起因している。家族に心配されたくない、嘘で嫌われたくない。『そして灯火は静かに消える』においてフォラスが生きる問いは、この「独善」を「愛」と呼び得るか、真に自分は彼らを愛しているか、というものだ。
 実際に語りを振り返ってみよう。ウコバクに、妻を愛していないのかと問われた場面だ。

フォラス
「…踏み込んでくるねえ
それを聞かれると弱いんだ、実は
(…)俺も自分自身で明確な
答えが出せてない問題なんでな
(…)メギドの俺にとっちゃヴィータ
感情ってのはまだまだ未知の
部分が多いもんだからな
普段は俺もヴィータみたいな顔を
してるが、ひと皮剥けば自分は
メギドだって実感することも多い
だから俺が嫁のことを「愛してる」
なんて思ってたとしても…
それが心の底からの感情なのか、
俺の表面だけの感情なのか…
自分でも判断がつかないのさ」
(第03話・3)

 単に研究対象としての興味でしかないのか、それとも真に「愛して」いるのか。
 カイムがソロモンに、ウコバクから兄への執着をどう思うのか問い尋ねる。

ソロモン
「お兄さんにあんなに会いたがって…
それはつまり「お兄さんだから」
大事だってことじゃないか」

カイム
「…そこなのですよ、我が君
問題はまさにそこなのです
彼女は兄君に異常とも言える
執着を有している…
それを単なる「家族愛」と見れば
これは安っぽくはあれど、美談と
言えなくもないでしょうな
しかし、彼女の執着が、
「人ならざる者」の感情から
来るものなのであれば——
これは途端におぞましき話に
変じてしまう可能性もあるのです」
(4話)

 このカイムの台詞は、短いが含みが多い。「安っぽ」い感性を揶揄されたソロモンも、意味を理解出来ていない。ヴィータの家族愛なら「美談」かもしれない。しかし、「人ならざる者」すなわちメギドの執着であれば、「家族愛」は「おぞましき話」に変じる。これは近親相姦を意味しているだろうが、むしろ重要なのはフォラスの奇妙な反応である。

フォラス
「そこに関しては耳が痛いよ
俺も無関係じゃないからな」

カイム
「ほう…?
実体験がおありだと?」

フォラス
「勘違いするなよ
ウコバクと「まったく同じ」って
話じゃない
だけどソロモンが言ったように
俺には嫁さんも子供もいる
その2人が俺の家族なわけだが…
俺の家族に対しての愛情は、
たぶんヴィータのいう愛情とは
違うもんだって気がしてるんでね
(…)根本的な話をすれば…
俺は生まれてすぐにメギドとしての
記憶を取り戻してるんだ
だから思考回路もメギド時代の
ものを引きずってる
俺にとって家族ってのは「研究」の
対象なんだよ、あくまでな
そういう意味で「大事」なんだ
もちろん、ヴィータとしての俺も
家族を大事に想ってる…つもりだ
そういう「俺」を演じてもいるしな」
(4話)

 このフォラスの発語は、カイムの言葉と全く噛み合っていない。

 カイムが意味する「おぞまし」さとは、ヴィータの倫理・感性=近親相姦への忌避を飛び越えた執着と読むべきだろう。だからフォラスが「無関係じゃない」といったとき、「実体験がおあり」かと問うている。この「実体験」とは、妻子との家庭生活ではないだろう。ところが、フォラスはその文脈を強引に「人ならざる者」の執着をめぐる語りに歪めてしまう。この場面でいちばん「勘違い」しているのはフォラスだ。読み過ぎだろうけれど、ウコバクのように燃え盛る愛に生きる者を目の当たりにして、会話の文脈を強引に捻じ曲げるほどの動揺と波紋が、ここにはあった。

フォラス
「俺はついついそうやって俯瞰で
物事を観察しちまうんだ
愛ってのはたぶん、もっと
身勝手で自己中心的な…
そういう感情だと思うんだよな」

(そして俺にはそういう感情は
一生、抱けそうにない…
そう、ウコバクみたいな
あんな情熱はな…)
(4話)

 ウコバクもフォラスも、共に「身勝手で自己中心的」な感情の持主には違いない。

 フォラスは研究への固執のためならば他を犠牲にし得るだろうし、ウコバクは己の愛のためソロモン一行を利用している。生まれながらにメギドの自我に目覚めたのも同じだ。
 しかし、彼らの決定的な違いは、「俯瞰」である。
 妻子を愛しているつもりでも、どこかでメギドとしての心性が自分を見下ろしている。「あくまで」「家族ってのは「研究」の対象なんだ」と語り掛けてくる。心中の声が、「愛」と「情熱」への没頭を阻む。

 ウコバクの希望は、モノバゾズの死をもって無残に打ち砕かれる。
 しかし、そもそも兄妹のメギドラルへの渡航自体、最初から破綻した計画ではある。自身に下された不当な裁定について異議申立てをすれば帰還できる、という発想はたとえばマルコシアスも持ち合わせていたが、フラウロスにはっきりと非現実的だと断言されている。追放者の言い分など今更聞く必要もなく、無力な追放メギドに出来ることなど何もない。聡明なモノバゾズがそれでもゲートの先に飛び込んだのは、ヴィータとの生活がそれ程までに耐え難かったのもあるのか。あるいは、辺境の果てという村の地理的条件もあったのかもしれない。
 妹と別れてからの数十年、モノバゾズは死ぬことすら能わず、ただ無力で呆けた存在として惨めにメギドラルで生き続けるしかなかった。ヴァイガルド以上に無残な生活を強いられた彼は、ウコバクの身体と力を奪わんと凶刃を向ける。
 ただひたすらに兄を愛していたウコバクは、動揺こそしていても、究極的には自己犠牲も厭わなかっただろうが、結局この対立はモノバゾズの死を以て終わる。生の希望を失ったウコバクは、死を願う。

ウコバク
「どうか…放っておいてください
私には、もう…なにもない…
せめて兄様と夢に見たこの世界で
…死なせてください」
(4話)

 ウコバクを説得しようとするソロモンを、シトリーとカイムが止める。
 生きる者には、死に場所を選ぶ権利がある。そこに介入する権利は、まして彼女の希望を奪った自分たちにはない。
 二人の意見はもっともだ。ソロモンがここで躍起になる理由は特段描かれていないが、自身が生死不明のエイルを追うためメギドラルへのゲートに飛び込んだ経験も、ある程度は影響しているのかもしれない。
 ところが、ここでフォラスが説得のために居残る。何故無関係な自分のため、危険な場所に残るのか、問われる。

フォラス
「たしかに…無関係と言えば
無関係かもしれないな
俺とおまえさんの間に血の繋がりが
あるわけでもないし、メギド時代の
縁があるわけでもない
だけどな、ここでおまえさんを残したまま俺たちだけで向こうに
戻ったとしたら…
俺は嫁さんにも娘にも顔向けが
できなくなっちまう
(…)俺はこの先…
「1人の女を見捨てたヤツ」として
2人と接していかなきゃいけねえ
嫁さんが作ったうまい料理を
食ってるときも、娘の成長を見て
ジーンとしてるときも…
どこかでおまえさんの顔がチラつき
心の底から笑えなくなっちまう
…そうなるのが嫌なのさ」
(5話)

 フォラスらしい「独善」もあるが、これはいかにも通りの良過ぎる理由付けだ。当然、ウコバクに問い返される。

ウコバク
「あなたの、その個人的な事情の
ために生きろというのですか?
縁もゆかりもない私に…」
(5話)

フォラス
「…………
たまにだけどな…
自分が死んだ後のことを考えるんだ
(…)ソロモンと一緒にメギドラルと
戦ってる身だからな
万が一ってこともある
そのとき、嫁さんと子供には
なんて伝えてもらうか…
こいつが悩みどころなのさ
「死んだ」と伝えてもらうか
どっかに「消えた」ことにでも
してもらうか…
(…)おまえさんは、兄貴と離れた直後に
兄貴が「死んでる」と聞かされたら
こうして生き続けたかい?
(…)うちの嫁さんがおまえさんほど
一途かどうかは知らないが…
やっぱ「消えた」ことにしたほうが
俺のことを覚えててくれるかな」
(5話)

 ウコバクの愛は、ジェヴォーダンが「考察」するように、愛する者による殺害をも受け容れる、自己犠牲の愛だ。

 一方でフォラスの「愛」は、どこまでもエゴイスティックだろう。そもそもフォラス自身、妻子に自身の正体どころか、最前線への従事すら明かしていないこと自体、彼らに心配をかけないためであろうとも極めて独善的な気遣いだ。「消えた」ことにしたほうが自分の記憶を強く刻み付けられる、忘れられずに済むのではないか、と想像の上でも考えてしまう。そのような固執と独善であり、確かな「愛」でもある。
 二人の愛は対岸同士にある。だからこそ、フォラスはウコバクに問う。

フォラス
「察するに、おまえさんの兄貴は
おまえさんを殺そうとしたんだな?
(…)そんなヤツのために、自分の命を
差し出すなんてくだらない…
とは思わないのか?
おまえさんは、兄貴に会って…
一緒に生きたかったんだろ?
(…)おまえさんもメギドなら…
「他」のために「己」を差し出す
ことに嫌悪感はないのか?
メギドってのは「個」の生き物だ
自分のためなら他者を犠牲にする…
そういう側面があるはずだ」
(5話)

 フォラスとウコバクは、生まれた直後からメギドの意識に目覚めながら、同時に長くヴィータの倫理規範に縛られ続けた者たちだ。だからこそ、彼女のこの告白は、フォラスの急所を突いたのではないか。

ウコバク
「私と兄様は…
…愛し合っていました
少なくとも私は、そう思っています
(…)それがヴィータの視点では非常に
奇異なことだというのはわかります
ですが…生と同時にメギドとしての
意識を持っていた私と兄様にとって
血縁など意味のないことでした…
(…)私たちはただ…
ヴァイガルドでただ1人の「仲間」
として、お互いを求めただけです
それは…おかしな感情でしょうか?
(…)あなたの言うとおり、
私が兄様のために「己」を差し出す
ことがメギドとして不自然なら…
私のこの感情は…兄様への想いは…
果たしてメギドとしてのものなのか
ヴィータとしてのものなのか…
メギドとしてのものならば、
私はなぜ己を差し出そうとまで
思ってしまうのでしょう…
ヴィータとしてのものならば、
なぜ私たちの関係は白い目で
見られてしまうのでしょう…」
(5話)

 ヴィータとしての規範に生きれば兄を愛することは忌避され、メギドとしての規範に生きれば兄のための犠牲は不自然となる。であれば、自分のこの衝動は果たして何なのか。
 単に追放者同士の仲間意識に過ぎなかったのか、それを超える執着があったのか。フォラスは、ウコバクを思うがまま「愛」を捧げられる人物だと推量していた。だからこそ、予想外の告白だったに違いない。
 フォラスもまた、ヴィータとして生きれば研究対象に過ぎないという内心の声が「愛」への没入を阻み、メギドとして生きれば彼らを研究対象として愛しているに過ぎないのかという倫理の声が心を乱す。
 彼らは対岸にありながら、同じ問題を抱えた仲間でさえあった。このことを鋭敏に見抜くのが、デカラビアだ。

デカラビア
「今はフォラスに任せておけ
アイツで説得できんのなら、
無理だと諦めろ
(…)愛だのなんだのの話は俺が苦手だ
俺たちの中でそういう感情に対して
探究心を持つのはヤツくらいだろう」
(5話)

 ウコバクとフォラスは、いずれも「愛」に生き、「愛」故の問題にこそ苛まれた人物だ。研究は問い=問題からしか起こり得ない。何故、フォラスはウコバクを助けに引き返したのか。愛する対象は違えども、彼らは追放メギドというメギドにもヴィータにもなり切れない生物として、他者を愛する仲間だった。
 だからこそ見捨てられなかったし、独善的ですらある態度で、その生を願った。

フォラス
「やっぱり、生きるべきだ…
おまえさんは…
(…)卑下するなよ…
おまえさんは…大したもんだ…
俺は、うらやましいよ…
(…)俺はな、駄目なんだ…
「愛する」ってことが…
どうにも…よくわからない…
家族は、大事だ…
嫁さんも、娘も…そりゃ大事だ…
でも、それが本当の「愛」なのか…
自分でも…わからねえ…
判断が…できねえんだ…
ウコバク…
おまえさんは言ったよな…
兄貴と愛し合ってたって…
迷うことなく…そう言えた…
おまえさんは…そりゃ立派だよ…
もっと誇っていいぜ…自分を…
誰に、なにを言われようと…
白い目で…見られようと…
おまえさんが…何者だとしても…
誰かを「愛せた」って事実が…
おまえさんには…あるんだ…」
(5話)

 このフォラスの語りは、ウコバクの問いとの相違点と一致点を、同時に示している。
 フォラスにとって問題は、自身の愛が単なる研究対象への冷徹な興味関心ではなく、「愛」と呼び得るのか否かである。しかし、ウコバクにとって「愛」はすでに真正に「愛」であり、問題はそれが何者にも認められず、また己のどの性質にも帰せられない点にある。そもそもこれは愛なのか、何人にも認め難いこの愛はどこから来るのか。
 このふたつは、明らかに問う位相が異なる。
 一方で、この問いの根源は、メギドとしての性質(=絶対的な個の孤独、他者の犠牲)とも、ヴィータとしての性質(=近親相姦の忌避)とも相容れない、自分たち追放メギドの「愛」とは何なのか、とも言い換えられる。
 単なる研究対象への情熱に過ぎないのか。メギド故の愛なのか、ヴィータ故の愛なのか、そのどちらでもないのか。

 ウコバクが最初に非難したように、フォラスが彼女に生きていてほしいと願うのは「個人的な事情」の独善に過ぎない。瀕死の語りには、ウコバクに自分の死をソロモンに伝えてほしいという依頼が続く。残された者の苦しみを知るウコバクにとって、これほど断り難い頼みはないだろう。そういう意味でも、フォラスはおそろしくずるい人物だ。
 彼は家族に対して自身の正体を明かすこともなければ、ウコバクにも常にエゴイスティックに接している。フォラスにおいてメギドらしさとは、「研究」をめぐる想いの吐露もそうだが、この「個」の強烈なずるさにあると思う。

 同時に重要なのは、これ程エゴイスティックでなければウコバクを救うことは出来なかったということだ。
 たとえばシトリーのように長年ヴァイガルドを旅し、酸いも甘いも噛み分けるような、あるいはカイムのように愛の対象を喪失した「大人」では、ウコバクの苦しみに介入することは出来なかった。
 淡い思慕の対象であったエイルを喪ったソロモンもまた、その説得は出来なかったのではないか。必要なのは悲しみへの共鳴ではなく、むしろ愛の尊重だったのだから。愛する対象の喪失をおそらくは知らないであろう(少なくとも描かれていない)フォラスだからこそ、悲しみに暮れるウコバクを救い出せたのではないか。
 己の愛と情念にただ振り回されるだけだったウコバクは、フォラスの強烈な独善の前に初めて自分の意志を告げる。

ウコバク
「フォラス様…ごめんなさい…
あなたの願いは…聞けません
私は…あなたを死なせない!
私なんかのために戻ってくれた…
あなたを死なせては…
あなたの家族が悲しむ…!
私のせいで「残される者」など…
生み出すわけには…」
(5話)

 フォラスのリジェネレイトは、自分の死後、妻子が別の男と結ばれる空想で成立する。学者として、ロマンチストでない部分も大いにあるだろう。夫に先立たれた妻は、早々に他の男と結ばれて何らおかしくない。
 その光景をありありと思い浮かべて、夫の座、父の座を決して誰にも譲り渡したくないという。

フォラス
「まったく…馬鹿げた話だぜ…
俯瞰だの観察だの…研究だの…
小難しい理屈ばっか並べといて…
いざ死の淵に立ってみりゃ…
身勝手な欲望ばかり…浮かびやがる…
あるいは、これが…
本当の俺なのかもわからねえが…
どうだっていいさ…
はっきりしたのは、ひとつだけ…
家族のこと…愛してるわ、俺
面白いもんだ…」
(5話)

 セレナに自身の欲望を吐露した時点で、フォラスは自分の「身勝手」に気付いていた。
 他ならぬ己の「身勝手」を、何故フォラスは「愛」として受け容れられたのか。
 第一は、「俯瞰」とかけ離れた生々しい欲望としてフォラスの内側に燃え広がったのがあるだろう。
 過ぎた空想をするなら、その激しい情念を自ら「愛」と呼んだウコバクに触発されたのではないか。一見通り良いが、内実「身勝手で自己中心的な」感情の持主である点は、フォラスもウコバクも変わらない。しかし、フォラスが常に護り続けてきた倫理的体裁、規範を飛び越えてしまってなお、ウコバクは自身の情念を「愛」と呼んだのである。
 ならば、フォラスもまた、己自身の固執を「愛」と名付けていいのではないか。

 フォラスは否定しているが、ジェヴォーダンもまた「愛」の研究者であった。

ジェヴォーダン
「僕はただ…興味があっただけだ
ヴィータどもが言うところの
「愛」という感情にな
(…)ヴィータは自分の気に入った
個体を「愛する」らしい
それは実に素晴らしいものだと
多くのヴィータが口にするが…
本当にそうなのか?
「真実の愛」とはなんなんだ?
他者のために自己を犠牲にするのが
「真実の愛」なのか?
自分を愛してくれる者のために
自分を投げ出す決意をしたとして…
誰かが愛してくれている自分を
蔑ろにすることは、相手の愛を
否定することになるんじゃないか?
…なあ?
お前たちはどう思う?」
(4話)

 ジェヴォーダンの問はシトリーに切り捨てられるが、非常に重要な示唆を含んでいる。
 己の「身勝手」から離れた「真実の愛」を思い描き、その空想に苦しんだのは他ならぬフォラスだからだ。
 では、何故「真実の愛」を問い求めるジェヴォーダンが、フォラスにおいては「話にならん」のか。

ジェヴォーダン
「手間をかけた割にはあまり
面白くない展開になったな
愛し合っていたはずの兄と
見苦しく殺し合うか…
さもなくば兄を殺したお前たちと
醜く殺し合うか…
どちらかを期待していたんだがな」

フォラス
「予想外の結末だったか?
だがな、そういうときこそ
「面白い」って感じるもんさ
おまえさんの探究心が本物ならな
「本物の愛」に興味があるとか
なんとか言ってたが…そもそも
探究心すら偽物じゃ、話にならんぜ」

ジェヴォーダン
「黙ってろ、そもそも
「愛」なんてくだらないものに
価値などないんだ
それがよくわかった…
それだけのことなのさ」
(5話)

 己の予想から外れたとき、その対象自体を「くだらない」と棄却する。それは「研究」の不徹底であり、フォラスには「話になら」ない態度だった。フォラスにとっての「予想外」とは、「俯瞰」している自分が片側に居つつも、同時に妻子を奪われたくないと必死になる自分を再発見したことだった。あるいは、己の身勝手と、独善と独占の欲望たる「愛」が相通ずるものだということだろう。妻子との日々において、「面白い」「予想外」も数多くあっただろう。

 いずれにせよ、フォラスにとって「愛」とその対象とは、「予想外」故にこそ「面白い」ものだった。

 深手を負ったジェヴォーダンの最期に、ウコバクが寄り添う。
 ウコバクには、最初からジェヴォーダンへの殺意も怨恨もなかった。

ウコバク
「…ありがとう
(…)それが、伝えたかったのです…
あなたが私の下に現れてくれて、
私はその間…孤独ではなかった
(…)理由なんて、どうでもいい
あなたは一緒にいてくれた…
そうでしょう?
ずっと、心が折れそうだった…
もう諦めて、死んでしまおうかと
何度も考えていた…
私は、兄様が生きているかどうかも
わからぬまま、ずっと孤独で灯台
火を灯し続けていたから…
でも、あなたが来てくれて…
兄様が生きていることを
教えてくれたから…
私は、生きてこれたんです
ここまで…どうにか
(…)今の私には…
あなたを癒やす力はない…
ですが、一緒にいることはできます
あなたが…孤独のまま死なぬよう…
それまでは、傍に…」
(5話)

 孤独の苦しみを知っているウコバクだからこそ、ジェヴォーダンの最期に寄り添うことを願った。
 理由はどうあれ、ジェヴォーダンは間違いなく孤独を癒してくれていた。それを彼がどう受け取ったかはわからない。「ただの自己満足」であり、「つまらない感情」には違いない。しかし、悪意の末に「つまらない」温かみを身を以て知ったのだとすれば、それはジェヴォーダンにとって最大の慰めであり、同時に最大の一撃だっただろう。
 こんな見方も出来るのではないか。ウコバクを長年傍らで眺め続けたジェヴォーダンの行為は、まさしく「研究」であり固執であった。その理由が「身勝手」で「つまらない」悪意だとしても、モノバゾズへの再会への段取りをつけたのは、もはや献身じみている。猫は飽き性なんだ、というだけで片付けられる行為ではないだろう。
 ジェヴォーダンからウコバクへの感情は、作中で明確に描かれることはない。
 あるいは彼自身、名前のつけられない感情だったのかもしれないが、その固執を独善的な「愛」と呼んだとして、それを否定する理由もさしてないのだろう。もっともウコバクの「愛」は、決してモノバゾズから移動しなかった。
 「つまらない」悪意で片付けてもいいが、残虐極まる行為に、多少の嫉妬があってもいいとは思う。
 ジェヴォーダンの破滅は、振り返ってみれば、ウコバクの「愛」に興味を惹かれたからではないか。
 その構図は、彼女が「愛」故に灯す炎へ、幻獣たちが次々と吞み込まれていく光景に酷似している。

若い男の声
「くそっ! くそっ!
俺はお前のこと…少し…くそっ!
それが、魔女だなんて!」

老婆の声
「お前のせいじゃっ!
去年の流行り病もお前のせいで…!
そのせいでうちの人が…!」

中年女の声
「うちの人もそうさ!
あの魔女の呪いのせいで、どこかに
消えちまったんだ!
返しとくれっ!
うちの旦那をっ!
この魔女めっ!」
(1話)

 ウコバクが火刑に処されるとき、ボダン村の人々は身勝手な「愛」を叫ぶ。異物を恐れる「全」の意識だけではなく、そこには身勝手な「愛」の暴走もあっただろう。ジェヴォーダンの言葉を借りれば、それは『行き場を失くした「愛」』(4話)だった。村人たちはウコバクの炎で焼け死ぬが、覚醒の直前、彼女は愛する者の無事を願っていた。

 ウコバクは「愛」に生き、その「愛」の激しさ故にこそ、期せずして周囲を焼き続ける「炎」のような存在だった。
 その炎は、なにより自身の「愛」を抑え切れぬウコバク自身を焼き焦がすように苦しめ続けた。
 さながら、フォラスが自身の研究をめぐる「独善的な情念」を、「世界を燃やす炎」に喩えたかのように。

 物語は、ウコバクが火を灯し、そして静かに消す場面で結ばれる。

ウコバク
「もう、なんの意味もないのに、
こうして灯台に火を灯してしまう…
仕方がないことですね…
何十年もそうしてきたのだもの…
(…)兄様…私はやっぱりあの場所で
死ぬべきだったでしょうか…
だけど、あのとき…
フォラス様に「自分を誇れ」と
言われたとき…
私は…嬉しかった…
誰からも白い目で見られてきた、
私たちの愛を…認めてもらえて…
メギドラルでさえ…
「愛」などという感情は決して
貴ばれるものではないでしょうに…
「この世界」に…いたのです
私たちを認めてくださる方が…
「この世界」は私たちが思っていた
ほどには無慈悲ではないのかも…
そう、思えたんです
だから、兄様…決めました
どうか怒らないでくださいね…
私、もう少しだけ…
生きてみようと思います」
(5話)

 ウコバクにとって「愛」は、自分を苦悶させる炎であると同時に、己とジェヴォーキンだけの世界で唯一頼りに出来る灯火でもあった。その孤独が、フォラスの言葉と共に溶けたとき、「この世界」の偶然の慈悲に触れたとき、彼女にはもう孤独な火を灯す必要はなかった。だから、決して自分を認めなかったように思えた「この世界」と和解するとき、ウコバクは生きることを願い、そして灯火は静かに消える。

*1:余談だが、この魂と肉体-感性の差異への苦しみの描写は、「多様性」の標語や追放メギドがヴァイガルドにおいては圧倒的に少数者であることを踏まえると、実はマイノリティの物語の語り口に似てくるように思える。