書くことを作業にするために

 絵を描く人はよく作業という。言葉を書く人は、あまり使わない言葉だ。たまたま共通する言葉に、原稿がある。これは、もうすこし作業の色合いを帯びた語かもしれない。とはいえ、絵や漫画を描くことは工芸的な作業として見なされがちだが、言葉を書くことは頭を使う、考える仕事のように思われがちだろう。
 人は考えながら書く。あるいは、言葉は考えることを強いているともいえる。人は考えるときに言葉を用い、言葉を用いない思考を直感と呼ぶだろう。私は絵を描いた経験はそうないが、線を引きながら考えることはあまりない気がする。
 考えながら書くのは大変だ。私が言いたいのはただそれだけのことだろう。
 言葉には文法がある。日本人の大半は日本語文法に何年も漬かってきているから、このルールに則って書き続けることは難しいことではない。しかし、文法という思考と、内容をめぐる思考を同時に並列するのは、あまり気付かれないが、大変なことなんじゃないか。
 考えることと書くことは、別の作業であったほうがいい。考えながら書くことは、単純に二倍の労力がかかる。なにより、書けなくなったとき、人は暗い画面の前で、ぼんやりと時間を潰さなくてはならない。
 これは相当な苦痛で、その記憶自体が書くことを嫌にさせる。
 書くことはひとつの感情の持続だろう。三島由紀夫が小説家の仕事を銀行員にたとえたのは有名な話だし、ジャック・ロンドンは毎日書くことを推奨している。たしかフォークナーが、私はインスピレーションに基づいて書いていて、それは毎朝同じ時間に来る、と洒落たことを書いていたのを引用で読んだ気がする。
 英語には、writer's blockという便利な表現がある。どうにも書けない状態のことだ。あらゆる書き手はその壁に閉じ込められることを経験するだろう。毎日書いているほうがその期間を脱する速度はより速い、という研究をこの前見つけた。
 しかし、人は生活する。
 書いて日銭を稼げる人は稀だろう。ますます稀になるかもしれない。人は安定した生活に誘惑される。私はそうだ。仕事は感情を動揺させる。大学時代や、実家にいるときは気軽に書けても、ひとりで生計を立てるとそうはいかない。毎朝同じ時間に書けといっても、毎朝同じ気分でいることは難しい。
 私は朝の寝覚めが悪い。
 最初、書くことは、悪い現実から少しでも目を逸らすための、鎮痛的な気晴らしとしてあったのかもしれない。しかし、暗い画面を繰り返し凝視しているうちに、それは現実よりもずっと悪いものになる。仕事は業務をこなしさえすれば終わる。明確な目標を達成するために、時間を投入することには心地よさがある。書くことと、仕事の価値は逆転する。こうして人は書かなくなる。
 そんな状態で書く意義なんて、どこにあるのだうろか。
 しかし、人は書こうとする。
 惰性なのか、幼少期の成功体験を引きずり続けているのか。源流を回顧するのはそれぞれの勝手だが、書かなくては気持ちが悪いから書こうとする。
 実際には、人は現実の仕事に専心していたほうがよっぽど幸福だろう。私は仕事の能力が高い人間ではないし、まだまだ駆け出しだが、今の自職業はそんなに嫌いではない。少なくとも、他の仕事をやれ、と命じられたら首を横に振ることになる。世間体としても良い仕事に属するだろう。
 でも、やっぱり日曜日には書こうとする。困った話だ。
 であれば、より良い書き方を求めるのは自然なことだろう。

 文章には、内容と文体がある。
 文体という言い方が格好をつけすぎならば、雰囲気でもいい。
 内容と文体は相互に規定し合っている。悲惨な物語は相応の文体で語られるだろうし、幸福な結末を欝々と語るのも変な話だ。上機嫌な口振りで、陰鬱な現実の話ばかり並べるのもおかしい。というか、意識的な倒錯がなければ、難しい。
 人が考えながら書こうとするとき、それは文体から書こうということなんじゃないか。絵を描く人は、手癖で描いた、というかもしれない。文章は、そうはうまくいかない。絵はある一瞬間の描写に労力を費やし続けることが出来る。文章は、そうはいかない。内容が要求される。漫画を手癖で描き続けるのは難しいんじゃないか。ネームという言葉もあるし。
 
 なぜ手癖で書こうとするのか。
 それは、書きながら考えることの成功体験があるからだ。言葉は時に、筆を滑らせて自走する。自分が思いがけないことを、書きながら発見することは多い。物語であれば、なんとなくの粗筋を用意はしているけれど、自分でも思ってみなかった、しかしより正解だと思えるような素晴らしい道筋に行き着く経験は、執筆過程における最良の愉しみだろう。自分の予想を超えるとは、自分を越えたものに触れるということであって、素直に喜ぶべきだ。
 人は苦痛より、快楽の体験に記憶を割く。
 実際にはこれは、書く喜びというより、考える喜びだろう。しかし、書くことと考えることは、そもそも文法のうえで考え続けている以上、微妙に分かち難い作業内容でもある。だから、書く喜びと考える喜びは、しばしば混同されてしまう。考えることは、書くことの後回しにされてしまう。考えてから書くことは、むしろつまらない気さえする。人は、常に自身の成功体験から最善を選び続ける。
 こうして、書きながら考えようとする仕事のスタイルが生まれ落ちる。
 しかし、書く対象=文体と、考える対象=内容は、いずれも気分に左右される。とりわけ文体はそうだ。人は日常のなかで同じ気分で居続けることは出来ない。たとえば知人友人の自殺に直面して、昨日と同じ文体で書き続けることは難しい。
 書くことは時間がかかるが、内容を考えるのは一晩で済む。
 一夜で固定できるとも言える。眠れない夜を潰すために、内容をメモしておくようになった。それを文章に、一個の文体として書くのは別の作業だが、製作図を眺めて、実際に出来上がるものを期待するのは、そんなに悪い気がしない。
 文体と内容が相互規定するのであれば、より早く終わり、中身を固めやすいほうから着手するほうがいい。だから、人は考えてから書いたほうがいい。
 繰り返すが、書きながら考えるのは、労力が二倍である。
 
 私が憧れる作業のスタイルは、好きな音楽を聴いたり、ラジオを聞きながら作業を書くことだ。ソシャゲの周回でもいい。絵を描く人が、アニメを流しながら線を描き続けているのを聞くと、正直羨ましくなったりする。
 書くことを聖なる儀式にしないほうがいい。たしか太宰治の『お伽草紙』に、小説を書く前にピアノを引き鳴らし、風呂で足を洗う女の子の話があった、あれは家で飯を食わせてもらっているから出来ることのはずだ。儀式は、社会人の平日には難しい。というところで文章を終えるつもりだったけど、確認したら『ろまん灯篭』で、女の子は二十一歳だったから、記憶はつくづくあてにならない。