メギド72『心惑わす怪しき仮面』について

 『心惑わす怪しき仮面』はサタナキアがリジェネを果たす物語であり、そしてプルフラスが復讐を終える最初の一歩を歩むまでの物語でもある。先に結論から書くならば、自己の合理性を最優先としていたサタナキアが「マナー」に順応し、アシュレイという他者に依存していたプルフラスが「自立」を得るまでの成長物語である。

 それを読むためには、そもそも『プルフラス・復讐の白百合』で描かれた復讐とはどういったものだったかを読まねばならない。プルフラスの復讐は、殺人という終焉を回避こそしたが、監視という持続を選んでいる。実は『プルフラス・復讐の白百合』で難解なのは、自身の内面の変化に鈍感で、あまり心情を語らないサタナキアではなく、むしろ明晰に物語るプルフラスの論理である。そして、より厄介な問題に取り憑かれているのもまた復讐者の彼女である。
 まずは『プルフラス・復讐の白百合』を読まねばならない。
 
 まず重要なのは、序盤のプルフラスに、軍団長ストリガが投げかける確認の言葉である。

軍団長ストリガ
「…勘違いするな
俺は引き止めたくて
お前に会いに来たわけじゃない
…お前に
メギドラルへの未練がないか
確認しに来たまでだ
万が一、ヴァイガルドに行けて、
目的が達成できたとしても…
メギドラルにお前の居場所はない
(…)ハルマゲドンに興味がない
非戦思想を持つメギドが、
我が軍団に戻ってきても…
俺は決して
お前を受け入れるつもりはない
…いいな?」
(01話)

 私は再読するまで気付かなかったのだが、このやり取りは非常に重要な設定を説明している。ひとつは、プルフラスはアシュレイのように戦いを厭う反戦思想の持主であること。そして、ストリガの説得を以て尚ヴァイガルドに旅立つプルフラスには、サタナキアが軍団を離脱したように、もはや帰るべき場所がないことである。
 その復讐をめぐる心境が最初に描かれるのは、ソロモンとのやり取りである。プルフラスとアシュレイは、共にヴァイガルドへの渡航を夢見ていた。「仇を討つためだけに生き」(2話)強さを得たという彼女に、ソロモンが疑問を呈する。

ソロモン
「…なあ、プルフラス
オマエ、復讐だけが
生きる理由なのか?」

プルフラス
「ああ
この復讐の炎こそが
僕の原動力だ
サナタキアを憎むほど…
僕は弱い自分を捨て、
より強くなることができたから!」

ソロモン
「じゃあ、サタナキアを殺したら…
もうプルフラスは
強くなれないのか?
(…)大切な人を殺されて、
憎しみを抱くのは
すごく、自然なことだと思う…
でも、俺にはさ…
プルフラスは
仇討ちのためじゃなくて…
弱さを隠すために、
復讐を誓っているように見えるよ…
(…)プルフラスは、
サタナキアを殺した後
どうするんだ?」
(03話)

 では、このプルフラスの「弱さ」とは何なのか。
 ソロモンもプルフラスに負けず劣らず直感で(途中経過を飛ばして)相手の弱点を突くことが多い人物だが、リジェネの物語を読めばその意味は分かる。
 それは復讐以外に生きる意味がないという「脆さ」のことだ。
 彼女は戦争社会のメギドラルには本質的には順応し得ない「反戦思想」の持主であり、心を通わせ、人生の指標、生きる理由に等しかったアシュレイを失った時、サタナキアへの復讐以外に生の目標を見出せなかった。平凡なメギドであれば戦争こそが生の目標であり、戦いを厭うのであれば「カワイイ」を信仰するスコルベノトや、あるいは「芸術」を信じるアルテ・アウローラのような生き方があったのだろう。
 実は、この意味では先月の『カカオの森の黒い犬』のスコルベノトよりもプルフラスのほうが脆い。むしろ、ストリガのもとで不適応だった彼のほうが、力は無くとも強かに生き抜いている(このイベントの順序構成は、もしかすると意図的なものかもしれない)。
 プルフラスはアシュレイという指標を見失った「迷子」なのである。
 
 そもそも、何故サタナキアはアシュレイを殺したのか。

プルフラス
「サタナキアは
僕の知っているメギドの中でも
かなり手強いメギドだ…
いろんな軍団を渡り歩いて、
いつもその合理的な考え方を
評価されていたらしい…
…それなのに、
ヤツは自分の軍団を築こうとせず、
別の誰かに従い続けてきた
あいつは研究ができればいいんだ
だから軍団を持つことや戦果には
少しも興味がない…
そしてあいつは研究のためなら
たとえ同じ軍団の仲間だって
利用して、使い捨てる…
それがどんな相手でもあいつに
とっては研究のための材料でしか
ないんだよ…
…アシュレイ兄さんのようにね」
(04話)

 キャラエピ、あるいはプルフラスの語りからも分かる通り、本来サタナキアは冷徹なまでの合理主義者である。
 にもかかわらず、幻獣化研究をめぐるその行動においては、不合理が目立つのも確かだ。アナキスを自身に寄生させたサタナキアは、宿主を乗っ取ろうとする「個」の強さに驚嘆しつつ、心中で語る。

サタナキア
(それに最初から気づけていれば
もっと違う道もあったのかも
しれないが…
まぁ、今となっては
どうでもいいな…
俺は、この研究を完成させれば
どんな手順を辿ってもいい
ヴィータが大量に死のうが、
幻獣の屍が増えようが…
そして、俺が死のうが…
この研究さえ完成させれば――)
(04話)

 「もっと違う道」とは何か。アナキスの性質を理解していれば、アシュレイを死なせずに済んだかもしれない、という意味だろう。
 重要なのは、サタキナアにとっては自身の身よりも研究の完遂こそが重要だということである。
 これは不思議な発想だ。たとえば『心惑わす怪しき仮面』では、サタナキアは失敗した研究は平然と放棄する。そもそもアシュレイを被検体にして失敗したのであれば、その研究はそこで打ち止めにすべきだろう。にもかかわらず、サタキナアは同じ研究にこだわった。それは、何故なのか。

 そもそもハルマゲドンを見越したサタナキアの幻獣化計画は、メギドの知能と人格を幻獣の水準まで落とすことで、護界憲章に抵触しないようヴァイガルドでメギド体に変身出来るようにすることを目的としている。上位の指導者はメギド体に変身出来なくとも、大半が幻獣程度の知性であっても、前者が後者を導けばいいのである。
 これはサタナキアらしい、ひとまずは合理的な発想ではある。

アシュレイ
「寄生メギドの件なんだけど…
メギドを使った生体実験の結果は
まだ下りないのか…?」

サタナキア
「…まだ無理だ
生体実験を行えば、他の軍団から
目をつけられかねない
メギド体を使うにはもっと隠密に…
そして、正しい時期に行うべきだ
そう、上層部の連中から
何度も言われていただろう?」
(05話)

 これがメギドラル上層部から快く思われなかった可能性は決して低くないはずだ。端的に「個」の蹂躙だからである。プーパとメギドの線引きを考えれば、なおさら嫌厭される発想だろう。
 「目をつけられ」るのはその社会の規則からして当然だ。とはいえサタナキアも研究者らしく、「他のメギドがハルマゲドンを起こす別の方法を発見し、成し遂げてしまう」と焦っていたのも確かだった。
 正直に交渉したところで生体実験の承認が降りるはずもない。だからアシュレイが、軍団への加入を命じられ、戦死が目に見えているプルフラスを護るため、幻獣化した上でヴァイガルドへの逃亡を決意したとき、サタナキアはそれを利用することに決めたのである。
 サタナキアは、実験を利用したアシュレイの逃亡計画を上層部にあえて暴露し、彼とプルフラスに暗殺の危機が迫っていると伝えた。
 実験に成功し、アシュレイがヴァイガルドに渡航すれば、彼らを捕えることは難しいだろう。本来、近い位置にいるサタナキアも責任を問われるだろうが、それは上層部への密告で減じられるだろう。
 上層部の許可を得ないまま生体実験を行い、かつその責任を可能な限り負わないための合理的なリスクマネージメントこそ、サタナキアの計画だった。全てが上手く進めば、アシュレイは問題なくヴァイガルドに渡航し、サタナキアはその責任を出来るだけ負うことなく、生体実験の成功を収められるはずだった。
 
 サタナキアが「親友」をどれぐらい想っていたかは分からない。
 ただ、「俺たちは、アシュレイの信頼を裏切ったオマエとは違う!」(5話)というソロモンの啖呵は、的外れだろう。彼の計画は、たとえ二枚舌の卑劣さはあるにせよ、自身とアシュレイの利益と、かつ己の損失の軽減を合理的に目指したものには違いないからだ。

 ところが、肝心の生体実験が失敗する。秘匿していた幻獣化計画が明るみに出ることを怖れてか、アシュレイを殺しはしたものの、結局はプルトンなる人物に研究を全て潰されることになる。
 
 サタナキアは研究を進めるため、アナキスを自身に寄生させ、ヴァイガルドに渡った。これは、上層部に機械化による不死の発想を問題視され、研究を継続するためにヴァイガルドへ渡ったネルガルの経緯とも似ている。被検体となり得るメギドは、当然サタナキアしか居ない。だから彼は自身を被検体に選ぶ。

サタナキア
「この成果をメギドラルに持ち帰れば
ハルマゲドンに大きく貢献できる…
…よかったな、プルフラス
アシュレイの死も
無駄じゃなかったなぁ!!」
(05話)

 確かに、サタナキアが研究の成果をメギドラルに持ち帰れば、その有用性が認められて再び軍団に復帰することは可能かもしれない。
 しかし、戦果に興味のないサタナキアが、果たしてメギドラルからの称賛を期待するだろうか。そもそも、メギドの尊厳を根本から踏み躙り、制止されたにもかかわらず軍団を離反して進めた研究など、今後も抑圧されるのが目に見えているのである。
 それが分からないサタナキアではないだろう。故にこのサタナキアの言葉は、私は不自然だと取りたい。むしろ重要なのは、「アシュレイの死」が「無駄」にならないという後半の部分ではないか。

 サタナキアとの戦いは、「弱点を見抜く」プルフラスの「心眼」によって終止符を打たれる。プルフラスの以下の台詞は、まさしくサタナキアの「弱点」を射貫き、その指摘を認めさせている。

サタナキア
「さぁ、プルフラス
俺を殺せ…
それが望みだったんだろう?」

プルフラス
「…いや、僕はお前を殺さない
(…)お前とボクは似たもの同士だ
復讐しか、生きる意味がない僕と
研究が生きがいだったお前…
サタナキア…
お前、本当はハルマゲドンなんて
どうでもいいんだろう?
…お前のことだ、
何度も何度も
潰された実験を再開させ…
ただ、幻獣化計画を完成させれば
満足だったんだろう?
(…)僕はお前が死ぬほど憎い…
けど、その憎悪を理由に
僕は自分の弱さから逃げてきた
…僕は自分の弱さを克服したい
だから、お前を殺さない」

サタナキア
「…ハハ、自己満足だな」

プルフラス
「ああ、そうだ
お前と同じになりたくないという
ただの意地だよ
…サタナキア、お前は
アシュレイの死と罪を悔やみ、
苦しみながらこの先も生きろ
研究を失ったこの世界で、
もがきながら生きろ!!」

サタナキア
「ハ、ハハハ…
それが、お前の復讐か…
クク…
俺のことをよく、
わかって、いるじゃないか…」
(05話)

 まず重要なのは、サタナキアはアシュレイの死と、死に至らしめた「罪」を悔いているのである。計画自体は合理的だが、サタナキアは、失敗したときのリスクマネージメントを考慮していなかった(これは「焦り」だけでは説明が難しい箇所でもある)。しかし、事態を円滑化させるための嘘こそ口にはしているが、サタナキアが起こしたのは殺人ではなく、過失事故に近い。

プルフラス
「…軍団をやめるって本当!?
ならアシュレイ兄さんとの研究は
どうなるの…!?」

サタナキア
「…先日の「アシュレイの事故死」が
原因で研究は打ち切りになった
まぁ…俺は勝手に続けるけど
…で、なにしに来たんだ?
もう俺と話すこともないだろう?」

プルフラス
「(…)1つだけ聞かせて
兄さんを…
アシュレイを殺したのは
サタナキアだって…本当なの?
(…)…みんながそう言ってる
兄さんはサタナキアの研究のために
事故死に見せかけて殺されたって…
本当なの!? 嘘だよね!?」

サタナキア
「…もうそんな噂が広まってるのか
だったらシラを切る必要もないな
…お前の言うとおりだよ
アシュレイを殺したのは俺だ
(…)もう用事は終わりかい?
なら研究所に戻らせてもらうよ
これ以上は時間が惜しいからね
誰よりも早く研究成果を挙げる…
それが研究者にとっての戦争だ
だから他の連中よりも先に
「幻獣化計画」を完成させる
必要があるんだ」
(『心惑わす怪しき仮面』01話)

 このやり取りで大事なのは、サタナキアはそもそもアシュレイは「事故死」であると最初に述べ、続けて殺害の関与の有無を問われたとき、素直に「アシュレイを殺した」と答えていることだ。
 これはどちらも嘘ではない。事実に即している。
 プルフラスの結論も合っている。だが、「サタナキアの研究のために」と「サタナキアの研究のためであると同時に、結果的にはアシュレイとプルフラスの渡航のため」では、途中経過が違ってくる。
 過失を殺人と読むのは、罪と後悔の意識なくしてはあり得ないはずだ。アシュレイ殺しが事故だったと説き伏せる、あるいは嘘でその場をしのぐことは、サタナキアには実に容易だったろう。しかし、そうはしなかった。わざわざ自身が殺人者であると認めたのだ。

 何故サタナキアは、プルトンに中止された研究をあらゆる手段を用いて完成させようとしたのか。たとえハルマゲドンに興味がないとしても①科学者の「戦争」への意欲はあったとも読めるし、②既に費やしたアシュレイというコストを無駄にしたくないと合理的に判断した、③あるいは親友への情でその死を無駄にしたくなかったためとも読める。このどれかは確定しようがないし、その全てを併せ持っている可能性も十分にある。あるいは、②と③を区別する意味など大してない。『心惑わす怪しき仮面』におけるサタナキアの意志こそが、まさにそのように判断されているのだから。
  
 プルフラスの啖呵に戻ろう。
 自分とサタナキアは似たもの同士だとプルフラスは主張する。彼女には復讐しか、サタナキアには研究しかないのだから。一方で、サタナキアを殺すことで「お前と同じにはなりたくない」という。
 では何故、サタナキアを殺すことは他ならぬ彼と「同じ」なのか。
 あるいは、何故それは「弱さ」なのか。
 実はこれは『プルフラス・復讐の白百合』だけでは読み辛い。そこに引かれる補助線が、他ならぬアシュレイの言葉である。

アシュレイ
「…じゃあプルフラス
ひとつだけ僕からアドバイス
死ぬのは「弱い」からさ
でも君はこうして「生き残った」
だから君は決して弱くなんかないよ
(…)生きてるってのが大事なんだ
この世界ではね」
「(…)改めて言っておくけど、
君は決して弱くなんかないよ
…それだけは覚えておいてくれ
結局は最後まで楽しく生きた者が
強いし、勝ちなのさ」
(プルフラスB・9話)

 
 結果だけを見れば(すなわち、サタナキアの心情を無視して、事実だけほ鑑みれば)結局プルフラスとサタナキアは、いずれもアシュレイの喪に服することに人生を費やしてきたと言える。
 前者が復讐、後者が研究という姿を取っただけだ。
 アシュレイを喪失したとき、親友への情であれ、死を無駄にしたくないというコスト判断であれ、サタナキアはその犠牲を埋め合わせるために研究を続けるしかなかった。だが、研究が完成してもその死は変わらないし、先々の目標や見通しがあるとも言い難い。そもそも、自身が無事に回復出来るかも分からない、既に失敗した実験の被検体になること自体が、脆さを感じさせる選択だろう。プルフラスも同様に、ルクス・レギオという帰り得る場所を捨て、後先考えぬままに復讐へ走っていたのである。
 彼らの共通点は、どちらもアシュレイの死を自身のなかで処理出来ず、強引な行動化に走るしかなかったということだ。この点で、彼らはどちらも同じように「空っぽ」(プルフラスB・9話)なのである。そのためにサタナキアは、ほとんど自己破壊じみた、我が身を顧みぬ研究を継続していたし、あるいはプルフラスに復讐されるのも満更でなかった可能性さえあるかもしれない(これはさすがに勝手な読みが過ぎるが)。

 アシュレイの死に真正面から向き合えない限り、彼らはいずれも「空っぽ」で「楽しく生き」れないのであり、それが「弱さ」なのである。そして復讐を成し遂げることは、たとえ虚しさを理解していても研究を継続するしかないサタナキアと同じく、「弱さ」をただ回避し続けることだ、というのがこの場面の論理だろう。
 だから、サタナキア殺しは止める。
 しかしより陰湿に、研究を奪う復讐は持続するのである。
 一緒なのではないか。
 復讐を果たしたいのか、より持続的で効果的な復讐を続けたいのか。殺人より陰湿な復讐は、「弱い」復讐とどう違うのか。
 正直に書けば、ここはよく分からない。

 ここがこの物語でもっとも難解な場所だと思う。『プルフラス・復讐の白百合』で私がいちばん分からないのは、最初から謎めいた人物として描かれているサタナキアではなく、プルフラスである。
 私は基本的にメギドで整合性が取れない、理由のよく分からない部分を粗と取らない。「あえてそうしたのだ」とか、「この矛盾にこそ解釈の余地がある」という手続きで理由をつける(贔屓の引き倒しという気もする)。
 しかし、プルフラスのこの論理は、私には補いようがない。物語の勢いが強過ぎて、論理がねじ曲がっているのか。私が単にこね回し過ぎで、素朴に受け取ればいいものを変に力んで読んでいるだけかもしれない(まさにそんな文体だし)。でも、その論理の矛盾にこそ、こんなケアが用意されたのではないか、とも思う。

プルフラス
「ねえ、兄さん…
僕、気づいたんだ
僕はどうしてサタナキアを殺さなかったんだろうって、
ときどき考えてたんだけどさ…
きっと、サタナキアを殺したら、
兄さんと繋がっていた存在が
ひとつ消えてしまうから…
僕は、それが嫌だったんだなって…
おかしな…話だよね…
アイツが兄さんを…殺したのにさ…
それでも僕は…」
(プルフラスB・11話)

 プルフラスがサタナキアを殺さなかったのは、復讐の持続というよりは、単純に彼がアシュレイの親友だったからなのではないか。その論理は破綻しているが、そもそもそれは「サタナキアは殺したいほどに憎いが、兄の親友は殺したくはない」という感情の矛盾があったからなのではないか。

 『復讐の白百合・プルフラス』で救われているのは、プルフラスよりもサタナキアなのではないか。プルフラスが復讐を終えられなかったのとは対照的に、最も自己破壊的で空虚な幻獣化研究を他者に終了を強制されたことは、むしろ幸運に近いだろう。
 プルフラスは殺害によって復讐を終えたのではなく、監視によって復讐を延長した。それどころか、本来憎いサタナキアにはソロモンの手助けという別の目標を与え、どうあれ彼自身は参謀の自己認識を以て動き続けてきた。いずれ軍団が解散すればプルフラスの監視から逃れることも出来るだろうし、他の研究だって出来るはずだ。  
 「僕は自分の弱さを克服したい」とはどういうことか。
 アシュレイの言葉に従うなら、それは彼のいない世界で遅延させた復讐を終わらせ、「楽しく生きた者」になるということだ。それはやり場のない不在の悲しみを受け止め切ることでもある。
 プルフラスリジェネの物語は「自立」とはっきり名付けられている(リジェネ紹介文)。これは、裏返せばアシュレイを想い続けた復讐自体が「依存」という、非常にシビアな認識を物語っている。
 プルフラスは、なぜリジェネの奥義で涙を見せるのか。
 凛とした無印の奥義モーションに対して、今更の涙である。しかしこれは、無印が「泣かない」ではなく「泣けない」ということだったと思う。サタナキアへの復讐を本当に精神的に終え、あらためてアシュレイの死に涙し、それを己の手で拭い立ち上がる動作こそが、プルフラスの本当の門出なのではないか、と思う。

 プルフラスのリジェネの物語は単純だ。ある植物学者の男が、彼女に嘘の護衛任務を依頼し、妹の敵討ちをしようとする。
 自身の似姿といっていい彼の復讐を、プルフラスは止める。

プルフラス
「…話は聞いたよ
君が妹さんのために復讐を
しようとしてるって
(…)だけど、やめたほうがいい
復讐をして…どうするんだい?
君はその先のことを考えてる?
(…)考えてないだろ?
だって今の君にとっては復讐だけが
生き甲斐なんだからさ
だけど、復讐が終わったって
別にそれでなにもかもが終わる
わけじゃないんだ
…僕はそれをよく知ってる」

復讐者ユーリ
「だからなんだ…!
それがなんだってんだッ!
(…)俺は「その先」なんていらねぇ!
あいつを殺せばそれで満足だ!
それでいいんだよッ!」

プルフラス
「じゃあ、復讐が終わったら…
死ぬの?」

復讐者ユーリ
「ああ…!
それでも構わねえ…!」
(プルフラスB・10話)

 復讐の先に待ち受けるのは単なる空虚であり、故にこそプルフラスは復讐の終焉を先延ばしにしたのかもしれない。サタナキアにはそんな意図はなかっただろうが、彼が憎み監視すべき人物だったからこそ、プルフラスは空虚から逃れられたのである。
 プルフラスの「自立」は次の三段階で素描出来る。
 第一は、依存していたアシュレイの死に衝撃を受け、その復讐に執心する段階。第二は、復讐の終焉でなく持続を選び取り、サタナキアの監視に全てを費やす段階。彼の研究がソロモンに公的に認められ、もはや監視出来なくなった後の第三は、自身の似姿に等しい復讐者の姿に己を見つめ直し、真に依存から自立する段階である。

 

 ユーリはそのまま日本語の百合、その妹リーリエは独語の百合である。貴族の兄弟の名はフルーとルドリス、フルールドリスは仏語の百合だ。だから、名前からしてこの物語は『プルフラス・復讐の白百合』を意識している。

 妹の愛した者を殺そうとするのと、兄が信じた親友を殺そうとするのはパラレルだろう。では、ユーリに必要だったのは何か。
 物語は、彼と、その妹の愛したルドリスの対話で結ばれる(ルドリスは意図してユーリの妹のリーリエを死なせたわけではなく、不運の連鎖によって死なさせたわけだが、これはサタナキアのアシュレイ殺しと少なからず重なるものがあると思う)。
 何故彼女は死んだのか、そしてルドリスは彼女を本当に想っていたのか。復讐というこじれた表現形ではあるけれど、本当はそれこそ、ルドリスの知りたかった問いと答えだろう。
 物語はそこまでプルフラスとサタナキアを近付けはしない。またサタナキア自身が殺した以上、今更その経緯を明かす意味もない。
 だから、プルフラスには、ユーリとは別の解決が与えられる。

プルフラス
「僕にはたくさん時間があるんだ!
その中でいろんなものを見て、
いろんな経験をして仕事をして…
それがみんな繋がっていって
僕の「その先」になっていく!
たぶん、そういうことなんだ…!
そうやって生きていくのが、
きっと「楽しく生きる」って
ことなんだよね、兄さん!」
(プルフラスB・11話)

 「その先」を教えてくれる者など誰も居ない、それが答えなのである。プルフラスは兄の言葉を自分の自由に解釈しているだけだが、そうやって自分の意味で、足で、世界を読み歩いていくこと、ひとつずつ視野を広げて「いろんなもの」に触れていくことが、真にプルフラスにとっての復讐の「終わり」であり、兄と復讐からの「自立」なのだろう。

 ずいぶん長い前座になってしまったが、実は『心惑わす怪しき仮面』は、『復讐の白百合・プルフラス』の正統続編のようでありながら、実際にそれを語り継ぐのはプルフラスのリジェネの物語である。今回のイベントシナリオはここ数回でも屈指の面白さだが、それはたぶん、物語の主題が重過ぎないからではないかと思う。サタナキアのリジェネの物語でありながら、実は彼の変化は意外に大きなものではない。状況の変化より、自覚の変化が中心である。
 だからこそ、単純によく出来た怪盗の物語が書けたのではないか。
 とはいえ、これはサタナキアのリジェネを語る物語である。
 後半は、そのリジェネレイトまでの道筋を読んでいこう。

 物語は、一度は破産したはずの貴族・アルミンが、曰く付きの秘宝を手にしたと同時に再興したこと、そしてその領民が行方不明になっている噂を知ったソロモンが、何らかの遺物の関与を疑ってその晩餐会に忍び込んだところから動き出す。晩餐会の最中、「怪盗オレイコルトス」を名乗るメギドにその秘宝「プラチナ・マスク」を盗まれ、それを取り返したところで、偽物だと明らかになる。
 ここで同行していたサタナキアが、実はオレイとサタナキアは旧知の仲で、プルフラスの監視を逃れるためにオレイはサナタキアに返送し、見返りにオレイの怪盗業を研究で支援する協力関係にあり、「プラチナ・マスク」こそ実はサタナキアの研究の産物だと告白する。本来、「プラチナ・マスク」は、生物から安全にフォトンを取り出し、メギドラルとの交渉のために作られた装置だが、生物が硬化を来すため一時凍結された研究だった。しかし、それが軍団の損害を減じるほうに再利用出来るのではないかと研究を進めていた矢先に、ある商人に盗まれた、アルミンの手に渡り、領民をプラチナと化して財を得ていたのだった。アルミンは、あえて偽のマスクを盗ませることで、自身の悪行が世に知れぬよう計画したのだった。
 その実行犯たる執事クロムを追うものの、彼は幻獣の襲撃で瀕死となり、道連れにソロモンを石化させようとする。寸前でサタナキアが身代わりとなり、最期の言葉からプラチナ化したブラブナが石化を解く鍵と知ったソロモンは、ブラブナを大量捕獲するため、オレイの導きで彼の研究所に赴く。そこでプルフラスと、そもそもプラチナ・マスクの研究が、軍団員の損害を減じるためのものであったと知る。最終的にサタナキアの石化は解除され、アルミンは貴族院に捕縛される。今回の事件は元を辿ればサタナキアの研究が原因だが、ソロモンは彼の研究への熱意を理解していなかったことを理由に、その罪と責任を分かち合い、今後の研究を許可する。何故軍団員の損害を減じる研究をしたかについて、オレイは「仲間が取り代えの効かないものになったから」と推論するが、サタナキアは否定する。同時に彼はリジェネレイトを果たし、その後、プルフラスに「お前も自分も成長している」と言われ、わずかな和解を果たす。

 大事な描写は次の三点だ。

サタナキア
((…)俺は負けた…
だから従ったに過ぎない…
ただ「ハルマゲドンの阻止」という
難題にどんな解答が見出せるかに
興味があっただけで…
「ソロモン王」なんてそのための
材料のひとつに過ぎなかった…
それなのに俺はどうして…
どうして「ソロモン王」を
救うためにあんな…真似を…)
(04話)

 第一は、サタナキアが石化しかけたソロモンを庇ったことに、自ら困惑している描写だ。実際には彼は、序盤で幻獣に襲撃された女を助けて驚かれたように、ソロモンの軍団員として適切な行動を取り続けている(これはサタナキアのキャラエピを踏まえると大きな変化だろう)。プラチナ・マスクが途中から軍団員の損傷を減らす用途に転用出来ないか検討されていたのも、同様だろう。
 これらは、(意図的ではあるかは分からないが)ブラブナが環境に適応するように、サタナキアがメギド72という軍団に、あるいはソロモンの考え方に適応していることを意味している。
 しかも、サタナキア自身は自身の内面の変化には鈍感なのである。
 あるいは、アシュレイ殺しの後悔をプルフラスに指摘されてようやく認めるように、「合理的な判断をする自分」が先立って、それと内面の区別がついていないのかもしれない。
 たとえばサタナキアは、ソロモンを庇ったことに対し、「合理的に判断すれば、プラチナ化の糸口は掴めていたものの、それが実際に正しく作用するかは分からない。指輪の所有者である以上、彼の安全を優先するほうが軍団においては合理的だろう」と説明はつけられてしまうのだろう。
 

プルフラス
「僕だって成長するんだよ
お前が成長したみたいにさ」

サタナキア
「せ、成長…俺が…?」

プルフラス
「そうさ…たぶん
だから僕も少しだけ前に
進む気になれたよ
お前のことは完全に許した
わけじゃないけど、前よりは
「仲間」として接しようってね
今あげたチョコレートは
その「証」さ」
(05話)

 
 第二にサタナキアは、プルフラスに「成長」を指摘されている。この「成長」が何かは具体的に物語られないが、研究の性質を考えれば推測はつく。たとえアシュレイと自身の利益の両方を考慮したとしても、基本的にその事故死はサタナキアが安全を犠牲に、自身の研究を第一に考えたのが原因であり、無印のキャラエピでソロモンに対立するのも、自身の考える合理性を最優先とするからだ。
 「独りよがりの自称参謀」という言い回しが実装当時のガチャにあったが、サタナキアは自分のなかの「合理性」を最優先するという意味では、客観的かもしれないが自分勝手でもある(幻獣化研究が本質的に他のメギドの個を蹂躙したものなのもそうだろう)。そのサタナキアが、軍団の一員である以上損害を減らすのは当然だ、という他者を慮る研究をしたこと自体が、「成長」なのだろう。
 他者への思慮なのか、軍団員としての合理的な判断なのかは、厳密に区別することは出来ない。でも、別にそれは、どちらでもいいのだ。

ソロモン
「あのとき俺を助けてくれて
ありがとうな」

サタナキア
「気にしなくていいよ
自分自身よくわからないまま
行動しただけなんだ
なんでだろうね…俺にとっては
他人なんてみんな替えの利く
一要素に過ぎなかったはずなのに
(…)お前は分かるっていうのか」

オレイ
「わかるさ…
「仲間」だからだよ
もしや彼らは君にとって
替えの利く要素ではないのさ」

サタナキア
「(…)そう思うのは勝手だよ
だけど俺としてはそんな安っぽい
感情じゃないと主張したいね
(…)ひょっとしてリジェネレイトか
俺にそんなことがあるなんて
思ってもみなかったけど」

(…)

プルフラス 
「ひょっとしてソロモンを
「仲間」だと思ったから…?」

サタナキア
「だから違うって
強いて言うなら仲間ってものの
定義を再構築しただけさ
(…)あとは自分で考えなよ」
(05話)

 第三に重要なのは、オレイの素朴な指摘を素直に認めないサタナキアである。なぜ、仲間意識を「安っぽい感情」と退けるのか。
 それは、他者を取り代えのきかないものとして慮るようになった「成長」と、軍団の一員として他者に慮るべきだという理性的な「配慮」とは区別が付かないからではないか。オレイの指摘は確かに「安っぽ」くて、基本的に傍若無人なサタナキアが他者にそこまでの思い入れを得たかというと、正直判断が難しい(私は否に寄る)。
 しかし、だとしても、その「配慮」と「仲間想い」とに区別を付ける必要などない。芯から他人を思いやれなくても、それに配慮する身振りを出来ること自体が、大人になるということだからだ。
 それがこの物語の良さだ、と思う。
 サタナキアは「仲間想い」には一生なれないかもしれない(むしろ、仲間想いのサタナキアはちょっと怖い)。でも、軍団の内部で生き続けることで、結果的にヴィータを救い、仲間を慮る研究が出来たのなら、それはもう「仲間想い」と同じ地点に立っている。
 人は倫理の意義を理解していなくとも、他人の大多数がその倫理のもとに生きていることを想像し、それに倣うことは出来る。まさしくサタナキアが、ソロモンの倫理に沿ったように、である。
 それが「マナー」であり、環境への順応であり、大人になるということだろう。
 そう考えれば、何故ウァサゴとフリアエがこの物語の登場人物として選ばれたかも結び合わせたくなる。『心惑わす怪しき物語』は(アルミンに代表されるように)法と罪の物語なのであり、そこに法の番人たるフリアエが召喚されるのは自然な流れだろう。
 これは同時にサタナキアが軍団=社会における「マナー」と「法」を学ぶ、というよりは、既に学んでいたことを遅ればせながら自覚する物語でもある。だから、貴族の「マナー」を序盤に説くウァサゴなのだ、ではさすがに強引な読みが過ぎるが。
 ただ、ウァサゴが貴族院に捕縛されるアルミンを見送るとき、さりげなく「成人」の概念を持ち出しているのを思い起こしてしまう。
 彼は人生の最後まで、貴族のマナーに沿えなかったのである。

 

 最後にひとつ、大切な描写を付け加えておきたい。

 サタナキアの研究の産物で多数の人間が死んだ責任を、ソロモンは彼ひとりに負わせようとはしない。むしろ、その研究への熱意を理解していなかった自分にも問題があったと、軍団長ではなく「仲間」として、その責をプルフラスと共有する。これは、アシュレイの死を(どういう心情かは最後まで分からないが)結果的に単独で引き受け、研究を続けていた頃とは大きな違いだろう。

 サタナキアは領民の死を「終わったこと」として合理的に処理することは出来るに違いない。それでも、その罪を分かち合える者が居るかどうかは、やはり少なくない差異があると思う。

 

 サタナキアは言動が飄々としていて、さらに自身の内面に鈍感であるか、意図的に合理性を先立たせているために分かり辛いが、基本的には『心惑わす怪しき仮面』とその周囲の物語は、サタナキアとプルフラスの成長物語だろう。
 合理性のもとに他者を配慮してこなかったサタナキアが集団で生きる「マナー」を学び、アシュレイという他者に全依存してきたプルフラスが、復讐の終焉と共に、アイムやサタナキアという複数人からの世話を受ける、つまり軍団の一員として依存先を複数有することで「自立」を学ぶ。どのような理由であれ他者を慮る、少なくともそんな規則があると学んだサタナキアと、唯一の他者から離れることを学んだプルフラスとは、鏡合わせの位置にあるのだろう。