メギド72『キミに捧げし大地のソナタ』について

 前回開催時にあまりちゃんと読めなかったイベントなのだが、今回ゆっくり目を通すと非常に面白かったので、感想を書いておきたい。
 『キミに捧げし大地のソナタ』におけるサタナイルとバルバトスの境遇は、作中で彼自身が感慨を覚えるように、ごく近しいものだ。彼等はいずれも音楽を知り、それを愛するが故にメギドラルの秩序から逸脱し、その果てに腹心の部下を殺めねばならなくなる。
 一方でバルバトスとサタナイルには演奏者と指揮者という差異がある。彼等は共に自身より優れた演奏技術を持つ者に触れるが、そこでサタナイルは、アスラフィルの才に圧倒されたと同時に、彼女に嫉妬することを恐れ、指揮者の道を選ぶ。
 この差異は、ごく大雑把には、バルバトスが己の愉しみを、サタナイルが他者を慮り優先する傾向にある、とも言い換えられる。二人は酷似した境遇にはあるが、この差異はサタナイルの問題をより複雑化している。
 第一に、バルバトスとサタナイルという、同じ異端者の類似点と対比点を追っていきたい。そのためには勿論、バルバトスが追放されるまでのリジェネの物語を読まなくてはならない。
 第二に、アリキノは何故凶行に走ったのか。表面の言葉だけを信じるならば、「用無し」になったからサタナイルを殺そうとするのだが、ここには少なからず疑問がある。なにか、他の理由があったのではないか。
 第三に、何故物語を結ぶのがクロケルなのか。
 それはバルバトスの物語において、ソロモンが「バルバトスはバルバトスだ」と言い切ったのに対応している、と考える。ではその言葉はどのような文脈で発せられ、そして何故バルバトスにはその答えが必要だったのか。
 いずれにせよ、まずバルバトスのリジェネの物語を読まなくてはならない。

 まず、音楽を知る前のバルバトスは、ごく普通のメギドと同じように「単純な暴力」(バルバトスR・3話)を楽しんでいた。

バルバトス
議席なんかには興味ないが、
メギドに生まれたからには
武勲こそが誉れだ
死して尚、語り継がれるような
なにかを残すのが俺の「個」…」
(バルバトスR・3話)

 彼は音楽を奏でる奇妙な女メギドと出会い、楽器を学ぶ。

女メギド
「楽器を学ぶには、文化を学ぶ
ヴィータになりきるところからよ」
(バルバトスR・4話) 

 メギドが度々描く「ヴィータ」らしさは、しばしば現実の生存における無駄=余剰を尊ぶ姿勢として描かれる。サタナイルがキャラエピでバールゼフォンに説かれた芸術の価値がまさにそうだし、次の引用部で描かれるような、本来は単なる栄養摂取でしかない「食」に、快楽を見出せる感性もそうだろう。

バルバトス
「「食べる」ってのも、
身体を維持するためだけじゃなく
楽しむことができるはずだ
この世界にある
およそすべてのものは、
楽しむことができるらしい
それを誰かに伝え、
心を共感させる…
その手段を模索する者、
表現者」か
(…)うん、この果実、なんか好きだ
「おいしい」ってヤツだな
この気持ちを、誰かと
共感できるといいんだが…」
(バルバトスR・4話)

 「表現者」としての生き方と芸術を知ったバルバトスは、束の間の幸福を味わう。ところがそれは「悪夢」によって終わる。音楽にかまけるあまり、数年間戦争を放棄していた議席を取り上げられる。その原因たる女メギドを殺そうとした腹心の副官と、対立を余儀なくされる。

軍団副官
「(…)そいつがいる限り、
あんたは先に進めない…
あんたのためなんだ、
バルバトス団長!!
そいつを…
…殺すっ!!」
(バルバトスR・6話) 

 重要なのは、副官は「あんたのため」と言い切り、バルバトスを思慕していたからこそ対立せざるを得なかったことだ。結局バルバトスは、腹心の部下を自ら殺めてしまう。音楽が自分の喜びのためというのなら、何故楽しかった戦争ではないのか。そう問われたバルバトスが、長い台詞で答える。

バルバトス
「俺は…気づいたからだ
世界は自分の外にこそあり、
「個」である自分を覆ってる
俺は世界のすべてを見たいんだ
それは美しい…
音も、光も、言葉も、戦いもだ
そのすべてを含むのが世界なんだ
俺たちはそれを構成する
部品でしかないんだ」
(バルバトスR・6話) 

 バルバトスは世界の「美しさ」に気付いた者である。音も、光も、言葉も、戦いも、果実の味わいも、そこにあるのはいずれも刹那の感覚的な喜びに過ぎない。そうした微細な快楽がひとつの「美しい」光にまで昇華するには、順序の逆はあるかもしれないが、世界に対して自分が「部品」のように小さくある認識がなくてはならない(あるいは、優れた芸術や、あるいは世界の美しさは、視る者に自身の存在を「小さく」感じさせるものだろう)。
 「世界のすべて」を観測することを夢見るバルバトスは、もはや戦いによって死と殺戮をまき散らすような、粗大な「個」にはなり得ない。この前半の芸術家としての台詞は、後半に転調する(だからこの長回しは、一続きの台詞ではなく、二つの調を異にした台詞として読むべきだろう)。

バルバトス
「戦争はただの器なんだ
その中で「個」を輝かせるのは、
小さな武勲なんかじゃない
わかるか? 武勲じゃないんだ
想像してみろよ、「物語」を
いつか誰かが語る話の中で、
俺の存在が描かれることを
勝ち負けじゃないんだ
それ以外になにが成せるのか、
なにを成してきたのか、なんだ
だから俺は―
―俺の物語を作りたくなったんだ
音楽と、言葉で、美しい話を
俺たちの生きた瞬間を、
永遠に残すためにだ!
その中には、オマエだって…
オマエだっていたのに
…どうして
…どうして
「戦争じゃなきゃダメ」なんだ!
殺すだけが物語じゃないだろう!
それは、あまりに…
あまりに美しくない」
(バルバトスR・6話) 

 世界を前に、芸術家という極小の「個」を手にしたバルバトスにとって、もはや一個人の「武勲」や「勝ち負け」や、あるいは「殺す」ことなど単なる出来事に過ぎない。それが何故「美しくない」のかは明白に物語られない。だからここは勝手な補いになるが、殺し殺される現在ばかりに執心し、「永遠」など夢見ようがない世界では、世界の美しさを観測することなど出来るはずもない。バルバトスの「芸術」とは、世界の一瞬の煌めきを①言葉にすることで永遠に留め置き、②さらにその感覚を誰かに伝える手段を意味する。
 殺すことは、本質的にその「永遠」に反しているのかもしれない。
 いずれにせよ重要なのは、数年戦争を放棄していたとはいえ、バルバトスが副官を大切に想い、「俺たちの生きた瞬間」の物語に、彼の存在も含まれていたことだ。その副官を殺めねばならなかったバルバトスの心は、当然のように苦い。

軍団副官
「軍団を捨てて、
俺を殺したあんたが憎い
武勲を否定して、
裏切った俺を殺したことさえ
誇れないあんたを軽蔑する
(…)俺も…嵐に飲み込まれて、
ただ消えることにするよ
さよなら、軍団長」
(バルバトスR・6話) 

 バルバトスのこの戦争放棄は、たとえ消極的であっても、戦争社会においては副官が指摘するがごとく「嵐」のように強烈なエゴの行為に他ならない。副官の凶行も、自身の理想をバルバトスに押し付けるという意味では、同じように強烈なエゴだろう。その意味でこれは、我欲と我欲の衝突である。だから「嵐に飲み込まれ」るという言葉が自然に浮かんできたのだろう。
 ここまでが回想だ。肝心のリジェネは、寿命を迎えたバルバトスが、小村の納屋に忍び込んで静かに死を待つところに、ソロモンが駆け付ける場面から始まる。無印のキャラエピで、かつてイニエに物語を語り続けたように、バルバトスもまたソロモンから扉越しに言葉を受け続ける。

ソロモン
「最後の瞬間を邪魔したい
わけじゃないんだ
ただ、せめてそのときは
小屋の外からでもいいんだ
見送りたいと思ってさ
俺が「勝手に、ここで
話してるだけ」だから
(…)直接触れ合えなくても
言葉を交わしてれば、
なんか繋がってる感じだろ
俺は、バルバトスに、
それを断ち切ったまま
世界から消えてほしくないんだ」
(バルバトスR・7話) 

 かつてバルバトスが出会った少女・イニエは、フォトンの貧しい土地で、大地の恵みを引き寄せ、周囲にそれを分け与える代償として、あまりに短い生涯を約束された存在だった。老い衰える彼女からの応答がないにもかかわらず、バルバトスが小屋の扉越しに物語を語り続けたのは、少しでもその最期の時間を彩らせるためだった。
 イニエはバルバトスに接吻を求める。詩歌に謡われる恋の経験を味わってみたい、そんな単純な好奇心も混合していただろうが、最後に彼女の詩が酒場で朗読される場面から察するに、それは恋慕に近いものだったのだろう。
 バルバトスはまさしく、「勝手に」話し続けることでイニエの死を見送る。
 それは応答や見返りを要求しない、ただ自分がそうしたいが故にそうしただけの、長い手向けの行為である。バルバトスは、いつかイニエの存在を誰もが忘却することに切なさを覚えながらも、その詩を物語ることで彼女が「永遠」に近付くときを夢見ている。そしてこれに応答するのが、ソロモンの次の台詞だ。

ソロモン
「「バルバトスの物語」を
俺が伝えちゃダメかな
(…)バルバトスがいなくなるのが
仕方ないことだとしても…
…結末のわからない
中途半端な物語みたいには
したくない
誰かが最後の瞬間まで付き合って、
バルバトスが最後まで生きたことを
伝えるべきだと思うんだ
(…)あの書置きの、
星空の話、よかったぜ
俺は表現者じゃないから、
あんな風に時間を越えて、
多くの人になにかを残せない
でも身近な人に
バルバトスがどんなヤツか、
話して聞かせることはできる
この世界を守るためとはいえ、
戦うことばかりが
俺たちの物語じゃないよ」
(バルバトスR・7話) 

 イニエがその感性と魂を詩に結晶させ、それをバルバトスが酒場で唄うのと、ソロモンがバルバトスの物語を語り継ぐことは似通っている。「戦うことばかりが俺たちの物語じゃない」というのは、まさにバルバトスが自分を理解しない副官に伝えたかった言葉だ。ここでソロモンが演じる身振りは、二重の意味で過去のバルバトスに近似している。
 では、何故バルバトスはこの説得でリジェネを果たせるのか。
 その論理を読むことは、この台詞のやり取りだけでは難しい(私には分からなかった)。ただ、イニエの死を聞かされたときのバルバトスの反応は重要だと思う。顔馴染みの男から、最後までバルバトスの物語を楽しんでいたと聞かされたときに漏らす、さりげない言葉だ。

バルバトス
「そんなこと、わからないよ
俺にできることはただ…
発するだけだ
彼女の「心の世界」に
それが届いたのかどうか、
知る術はもう…」
(バルバトス・14話) 

 実際には、イニエの「心の世界」をバルバトスは確かに満たしていた。それ故の返礼と、おそらくはささやかな恋文の意味合いも含めて詩が贈られたのだろう。それでも、バルバトスにとって本当にこの選択が正しかったかは、最後まで悩む問だったはずだ。若く美しいまま、イニエの自害を見送る結末は、いかにも美しい物語の結びだろう。バルバトスの接吻と延命は、まさにソロモンがそうしたように「勝手」なエゴであって、無意味な延命であったのかもしれない。それが正しいかは、どんなに純粋な詩でも正確には答えてくれないのである。
 では、そのイニエの立場に置かれたバルバトスは、どう感じていたのか。

バルバトス
「美しく完結するだけが、
物語の在り方ではない、か…
(…)それだけじゃ、物足りないのかも
無様だろうと、蛇足だろうと…
(…)一番の聞き手が、これだもんな」

(「長命者」としちゃ、もう
いつ死んでもおかしくない
終わった男だが…
表現者」としてなら、
まだやれることが
あるかもしれない)
(バルバトスR・7話) 

 ソロモンがバルバトスとの繋がりを断ち切ることなく、その死を見届けたうえで、最期を含めた物語を語り伝えていきたいという想いを受け、なぜ「やる気」になったのか。それを、この場面のみで読むことは、私には出来なかった。バルバトスに音楽を教えた女メギドが誰かといった「謎」も、この物語だけではどこまで真剣に追い求めるべき「謎」かはちょっとはっきりしない。

 しかし、この場面の論理は、イニエを下敷きにすれば別の読み方が出来る。
 イニエは「いつ死んでもおかしくない」「終わった」存在だった。それでも「表現者」として、最後には自分の時間を詩に結晶させて遺した。それは、美しいまま自ら命を絶つ女から、醜く生き延びる老婆に成り下がる「無様」で「蛇足」な在り方だったかもしれない。それでも、バルバトスにとってその「蛇足」は、何としても送らせてやりたい時間だった。本人がどんな詩を書こうが、そこに単なる自己満足の側面があることは否定できない。
 苦い罪悪感がなかったわけではないはずだ。同じように小屋の扉越しに語られて、イニエのことを回想しなかったわけがない、と思いたい。
 そして、いざ自分がイニエのように死に瀕したとき、ソロモンが関係の繋ぎ目を断ち切らぬよう、そして己の死を見届けるために自分を見つけ出してくれたことは、決してあからさまには物語られないが、バルバトスには一種の福音だったはずだ。自分が迷いながら果たした行為の本当の意味を、身をもって教えられたのである。イニエを延命させ、扉越しに彼女に語り続けたことは、果たして適切な行いだったのか。
 そうだったはずだ、というのがソロモンが知らずして提示した答えだった。
 「表現者としてなら、まだやれる」という決意は、かつてイニエが詩を遺したことに触れているのだと読みたい。自分もイニエのように、「表現者」としてまだ出来ることがあるかもしれない。それこそが、文面通りに、バルバトスの決意だったのだと思う。それは、たとえリジェネレイトを予想していなかったとしても、ソロモンに自分のこれまでを語り残す行為だったかもしれない(苦笑を連想させる「一番の聞き手が、これだもんな」という台詞は、意味の解釈が難しいが)。結果的にリジェネと延命に繋がったのは、ちょっとした物語の奇跡だろう。
 リジェネの直前に、こんな掛け合いがある。

バルバトス
「ただし、いいか
(…)俺はここでずっと、
「メギド時代のこと」を
思い出してた
(…)再召喚されると、嵐の時代の
俺が表に出てしまうかも
キミの知ってる、穏やかな俺じゃないかもしれないぞ」
(バルバトスR・7話) 

 バルバトスが副官と対立しなければならなかったのは、音楽への耽溺を、「もはやバルバトスではない」と判断されたからだ。これまでのリジェネレイトの傾向からして、性格や人格が大幅に変わることは無いはずだ。だからこの「キミの知ってる、穏やかな俺じゃないかもしれない」は、不思議な警告でもある。
 何故バルバトスは、このような言葉を発さなくてはならなかったのか。
 バルバトスは音楽を知ることで重大な変化を来し、故に副官を殺さねばならなかった。それは、生涯最後まで、バルバトスの心に傷と後悔として残り続けた。だからこそ、リジェネレイトという新たな変化を目前にして、たとえ不条理な問であったとしても、ソロモンにそう確認せずには居られなかったんじゃないか。
 答えは単純だ。

ソロモン
「バルバトスはバルバトスだろ」
(バルバトスR・7話) 

 この答えに対するバルバトスの反応は描かれない。でも、この何気ない念押しこそが、変化によって手痛い傷を受けたバルバトスには、必要な答えだったのかもしれない。
 イニエの延命と、身勝手な寄り添いは、果たして正しかったのか。
 自分が重大な変化を来したとして、ソロモンはそれを受け入れてくれるのか。
 バルバトスのリジェネレイトは、この二つの問いに、ソロモンが知らずして答えたことで成し遂げられたのではないかと思う(ただこれは読み過ぎだろう)。

 ではイベント本編、サタナイルの物語はどうか。
 野良の幻獣に襲われて気絶したバルバトスと、彼を助けたサタナイルは、互いに「ストラ」「ソナタ」と何も知らないヴィータを装い、偽名を名乗る。
 何故、サタナイルは見ず知らずのバルバトスを救ったのか。

黒髪の女
「私は…私の欲望に従って
行動してるだけだから
(…)私は…「死」が嫌いなの
だから「死」を見たくないのよ」
(第01話・1) 

 サタナイルはかつてのバルバトスのように、既に音楽を知り、メギドとしては引き返せない段階に来ている。「欲望に従って行動」しているのに過ぎないのも、創造とは対極の破壊や「死」を厭うようになるのも、似通っている。

 バルバトスはサタナイルを、あくまでソナタとストラという、ヴィータの男女として口説く(第01話・3)。互いにメギドであることを明かし、敵対したくないというバルバトスの意志を確認したサタナイルは、自分が何をしているのか確かめてほしいという。サタナイルの口調は、部下のアリキノに接するとき、もとはバールゼフォンから教えられた「女」の演技から切り替わる。

バルバトス
(この高圧的な感じ…
これが彼女の「素」なのか?
それとも…)

バルバトス
「…予想もしてなかった展開だね
俺を助けてくれた謎の美女の正体が
部下に恐れられる強面の隊長とは…」

サタナイル
「気弱な態度を取ると舐められるわ
だからどうしても気を張ってしまう
…それだけのことよ」
(第02話・3) 

 バルバトスとサタナイルの境遇は鏡の似姿のように近い。それを劇中で裏付ける台詞が、この場面のあとに続く。かつて苦い後悔を味わった自身の過去を思うからこそ、彼女のことが気にかかって仕方なかったのかもしれない。

バルバトス
(俺の演奏を聞いていたときの
彼女の嬉しそうな顔…あれは
どう見ても演技じゃなかった
俺も「そう」だからわかる…
彼女は音楽を愛してるんだ
だからなんだろうな…
出会ったときから彼女のことが
気にかかるのは
まるで…昔の俺みたいだから)
(第02話・3) 

 とはいえ、サタナイルにはバルバトスといくつかの重要な相違点がある。
 ただ戦争を放棄し、ひたすら自身の愛する音楽に耽り続けたバルバトスに対し、サタナイルはメギドラルの変革を願うからこそ、一兵卒が任じられるようなフォトン収奪の命令にあえて従っている。
 そして、自身より演奏技量の優れた女に一切の引け目を感じなかったバルバトスに対し、才能溢れるアスラフィルと自身の差異を痛感し、同志である彼女に嫉妬する不安を覚えたために楽器演奏から手を弾き、同志を支え導くために指揮者を選んだサタナイルでは、すべてが同じというわけにはいかない。さらに(後述するが)サタナイルはアリキノを想い、音楽と理想を捨てる可能性について考えたことがある、という示唆もある。
 自らの喜びに耽り、自由を謳歌していたバルバトスと、他者や外界を自己より優先しがちなサタナイルでは、当然その問題も変わってくる。むしろ彼女のほうが、当時のバルバトスより状況は更に厄介なものになっている。

 破壊を厭い、ハルマゲドンを快く思ず、創造を尊ぶサタナイルの在り方は、ソロモンとも分かり合える、手を取り合えるはずだというバルバトスの誘いを、サタナイルは拒む。それでも、メギドラルは自分を「生んでくれた」愛すべき世界なのであり、「功を挙げ、地位を得て」「あの世界を変えられるだけの存在に」なるほうに賭けたいという。

バルバトス
(メギドラルへの「愛」か…
彼女は気づいてないんだろうな…
メギドラルって場所はその愛さえも
否定する世界だってことに)

バルバトス
「俺は…
俺は、どうすればいいんだろうな…」
(第03話・1)  

 この苦い実感には、すこし推量が要ると思う。

 バルバトスは、決してメギドラルという世界自体への「愛」を持っていなかったわけではない。むしろ、謎の女にそう話していたように、彼にはヴァイガルドに渡ろうという意志など全くなく、自分が生きるメギドラルという世界の輝きに瞠目し、その美しさをただ愛し続けていた。そのような世界への愛、刹那の快楽に耽り、破壊と殺戮を厭うこと自体が、戦争社会では許されざる異端だった。
 結果としてバルバトスは副官を殺めざるを得なかったが、原因の根は戦争社会という体制だし、この意味ではバルバトスはメギドラルの社会体制そのものに己の「愛」を否定されたとも言える。サタナイルのような、自身を創造したことへの恩義ではなくとも、メギドラルへの愛であることには変わりないはずだ。だからこそ、自身がその愛したメギドラルに傷付けられた記憶を思い返し、サタナイルに何か出来ることがあるのではないかと迷ったのではないか。

 サタナイルは、バルバトスが音楽への愛故に、副官を殺すしかなかった過去を知らない。故に、こんな鋭い問を発している。

 

サタナイル
「(…)貴方もまた
「芸術」を理由に罰を受けた身
罰を受けるくらいなら芸術を…
音楽を捨てようとは思わなかった?」

バルバトス
「(…)俺は音楽を覚えて…
もうそれが「自分の一部」に
なってしまっていたからね」

サタナイル
「音楽を捨てなければ「殺す」と
言われても?」

バルバトス
「同じことさ
「自分の一部」を捨てることも、
殺されることも…大した違いはない」

サタナイル
「じゃあ…貴方の大切な人を
「殺す」と言われたら?
それでも音楽は捨てない?」

バルバトス
「…なんでそんなこと聞くんだい?」
(第03話・END) 

 音楽への愛故に大切な部下を死なせなくてはならなかった時、それでも音楽を捨てずに居られるのか。それまで問いに答え続けていたバルバトスが、一瞬黙って、問の理由を問い返すこと自体が、この質問の鋭さを物語っている。
 サタナイルが密かに持ち続けている音楽への愛も、フォトンを回収するうえでの手ぬるさも、上層部からは不服従、裏切りと見なされて不思議ではない。部下として彼女の行動指針を受け入れていたアリキノもまた、重罰は免れないだろう。
 この場面においても、サタナイルが考えてしまうのは自身の音楽への愛ではなく、むしろアリキノという他者の身の安全である(バルバトスは自分の行動が部下と軍団にどのような帰結を招くのか、副官に言われるまで考えもしなかったのだから、この差異はやはり大きい)。この意味でも、サタナイルは献身と優しさの人であって、本来ならバルバトスのような「嵐」の自我こそがメギドらしい在り方なのだろう(この差異は、あるいは旧世代と新世代の差として説明出来るのかもしれない)。
 サタナイルが実際に音楽と思想を捨てようとしていたかは作中では物語られていないが、そもそも人生相談じみた質問をしている様子からして、彼女に一切の迷いがなかったとは考えにくいだろう。

 会話はソロモンにヴィータ殺しを悟られ、戦いに破れたアリキノの足音で遮られる。アリキノの死を目にし、サタナイルは、ソロモンへの怒りと悲しみを露にする。死体を野晒しにするわけにはいかない、という彼女の気持ちを汲み、バルバトスは死体をフォトンの貯蔵庫へ運ぶことを手伝おうとする。

バルバトス
「こんなことになった以上…
キミと一緒にいることは難しく
なってしまったな
だから、せめて…
最後にそれぐらい手伝わせてくれ
いいだろう、「ソナタ」?」

サタナイル
「…………
ええ、お願いするわ…「ストラ」」
(第04話・冒頭) 

 何故ここでバルバトスが「ソナタ」と呼ぶのか理由は語られないが、メギドラルの異端者として、「同志」として通じ合えた関係は、最早アリキノの死を以て崩れ去ってしまった。だからこそ、最初から互いの素性など知らぬまま、音楽を楽しめた時間を懐かしむと同時に、出会ったときの「赤の他人」(第01話・1)同士に戻ろうというバルバトスなりの哀切な符号だったのかもしれない
 呼び名は、彼女がソロモン王への敵討ちを物語るとき、再び「バルバトス」(第04話・1)に戻る。それは、ソロモン王の配下、すなわち「敵」としてバルバトスを見るという意思表明でもある。
 志を同じくするサタナイルを、このまま死なせるわけにはいかない。考えた末に、バルバトスは、あえてサタナイルの敵討ちに協力する演技をして、互いに会話が始まる糸口を探ることになる。ソロモンとサタナイルが対話に至ることはないが、そこに予想外のアリキノの襲撃が起きる。アリキノを退け、その消滅を前にしたサタナイルは、バルバトスと共に「大地のソナタ」を奏でる。

サタナイル
「(…)この曲はせめてもの…
お前への手向けだ
至らぬ上官であった私を許してくれ
そして…これまでご苦労だった
さらばだ、アリキノ…」
(第05話・END)

 アリキノは何故凶行に走り、サタナイルは「至らぬ上官」として詫びるのか。
 これは非常に難しい。
 まずアリキノはサタナイルの指揮術を盗み取るため、上層部から送られた「犬」であり、「用済み」として彼女を殺めようとする。しかし、別にアリキノ自身がサタナイルを殺す必要などないのである。サタナイルの思想と行動を上層部に報告さえすれば、あとは勝手に処罰が進むはずだ。であれば、わざわざここでサタナイルを殺そうとするには、何らかの理由があるとしか考えられない。それも、サタナイルからの命令が重複したとき、わざわざ自分に従うよう幻獣たちを調教していたのだから、いずれこういった事態を迎えることは予想していたはずだ。
 アリキノは最初から、サタナイルへの暴力の意志があったはずなのである。
 では、その理由は何なのか。

アリキノ
((…)思ったぜ…
結局、力がなきゃクソだってな
ゴミみてェな理想だろうと…
それを叶えるためにゃ力がいる!)

アリキノ
「キレイゴトだけのてめえにゃ
わからねえだろうな…
サタナイルよぉ!」
(第05話・4)

 

 この「ゴミみてェな理想」が指すのは、サタナイルの創造を尊ぶ思想だろう。
 戦争と破壊が第一に尊ばれるメギドラルで、サタナイルの異端の理想を広げるには「力」が必要だ。そしてアリキノ自身が経験したように、たとえ美しい理想に生きていたとしても、力が無ければ圧倒的な暴力には呆気なく崩される。
 そのような現実から目を伏せ、自身が処罰される危険も考慮せずに小手先の「キレイゴト」に耽るように見えたサタナイルに、苛立ちは少なからずあったのだろう。

バルバトス
(蘇る力…
ひょっとするとそれが彼を
変えてしまったのか…?
力の弱いメギドが、
力を得た瞬間に豹変する…
そんなのはよくある話だしな
力がないときにはサタナイルの
理想に共感できていても…
力があればそれは戯言ってわけだ)
(第05話・3)

 バルバトスは、アリキノはサタナイルの理想自体には共感していた、と読む。破壊と戦争を厭うサタナイルの思想は、(たとえばスコルベノトのように)弱者のメギドには都合が良いものだ。そもそも「犬」として上層部の命令に従っていたアリキノだが、サタナイルの言動に接するうちに敬慕の念を募らせ、その思想を受け入れたのだろう。彼が鈴を得物に選んだのは、自身の適性が第一であるが、サタナイルのためでもあった。

アリキノ
「それに…(…)
「楽器」を指揮に用いることで、
上層部も「音楽」の重要性を
理解してくれるんじゃないかと…
(…)メギドとしては無力な私に、
いつもあれこれ手を焼いていただき
…感謝しています
だから私も…
サタナイル様の理想を実現する
力になれればと思うのです」

(…)

サタナイル
「アリキノなりに…
音楽や芸術に希望の「光」を
見出したのかもしれないわ
アリキノは…メギドとしては
戦う力に欠けていたから」
(第04話・1) 

 
 実際には戦う力を有することと、音楽や芸術への愛は(アルテ・アウローラでもっとも保守的なべバルとアバラムがそうであるように)矛盾しない。だが、いずれにせよアリキノが音楽をサタナイルに寄り添って解していたことは、クロケルのベルの音に「情緒」の欠如を見る様からも伺われる(第05話・3)。
 アリキノはサタナイルに隠れ、密かにヴィータを殺し続けていた。

アリキノ
「指揮術のおかげでギリギリ首が
繋がってるくせに、俺にペラペラと
音楽の話をしやがって…
しかも「誰も殺したくねえ」だ…?
そんなことが上層部にバレたら、
どうなるかわかってンのかよ?
(…)だ、け、ど…安心しない
デキる部下の俺が…ばーっちり、
カス上官のケツを拭いておいたぜ
お前が逃がした貴重な貴重な
フォトン袋…ヴィータどもをっ!
ちゃーんと回収してなぁ!」
(第05話・1)

 劇中で説明されたように、サタナイルのフォトンの回収法は非効率的で、上層部にそのささやかな反逆が露呈する可能性は決して低くなかったはずだ。
 上司の命令に反してヴィータからフォトンを回収していれば、たとえサタナイルが罰されるとしても、アリキノ自身の保身は達成されるだろう。しかし、結果から見れば、アリキノが「上官のケツを拭いて」いたおかげで、サタナイルは上層部からの刑罰を免れていたのである。

 アリキノの精神は非常に悩ましい状態にあったのではないか。
 それこそ、サタナイルがアリキノが処罰される可能性を考え、ともすれば音楽と理想を捨てるべきか悩んだのと同時に、アリキノ自身もまた苦しめられていたのではないか、というのが個人的な読みである。

 アリキノの行いは奇異で、指揮術をある程度以上習得出来たのであれば、あとはサタナイルの行動を上層部に報告してしまうだけで良かったはずだ。にもかかわらず、彼女の行動が上層部に露見しないよう、ヴィータ殺しという不合理な手間を取った。であれば、その手間に理由があったと見るのが自然だろう。
 もしそれが、敬愛するサタナイルを護るためだとしたら、残酷である。
 アリキノはサタナイルを護ろうとするが故に、その理想から反し続けることしか出来なくなるからだ。サタナイルは、その指揮術のオリジナリティ故に、辛うじて生存を許されている。言い換えれば、アリキノが指揮術を十分に修得すれば、異端の思想をまき散らすサタナイルは、「用無し」としていつ処刑されてもおかしくない。
 ここでもアリキノは二重の苦しみに苛まれている。
 サタナイルのもとで指揮術を学ぶことは幸福な体験だろうが、自身がそれを習得し切り、彼女を凌駕してしまえば、いずれサタナイルは処刑される可能性が高い。にもかかわらず、サタナイルはアリキノに指揮術を熱心に指導し続け、また露呈する可能性が決して低くない回収作戦を続けていた。
 アリキノが真にサタナイルを敬慕していたのであれば、破滅に直進するようなその振舞いは、見ていて相当に苦しかったはずだ。

 アリキノはサタナイルの理想自体には共感していた。ただし、それには手を汚し、現実の「力」を得る必要があると考えていた。ただ、アリキノがわざわざヴィータを殺し続けたことは、サタナイルを延命させたかったと見る他ない。

 であれば、アリキノはあえてサタナイルに敵対し、自身の力で屈服させ、支配下に置くことで、彼女を延命させたかったのではないか。「思想的には問題はあるが、現在は自分が律しており、指揮術の腕前自体はやはり貴重である」などと理由をつけて。アリキノがケジメとしてサタナイルを屈服させれば、上層部を説得する材料になるだろう。そのようにアリキノは計画していたのではないか。

 アリキノの最大目標は「サタナイルを存命させること」だった。
 彼は既にヴィータを殺害したことをソロモン王に知られている。思想的に近いサタナイルがソロモン王の配下に就く可能性は十二分にあり得るが、ソロモンが自身を受け入れる可能性は高くない。むしろ、ソロモンからサタナイルに事実が伝われば、清廉な彼女がアリキノを許さず、拒絶する可能性も十分にある(なにせ、アリキノは「女」としてのサタナイルの言動には触れず、もっぱら「舐められない」ための高圧的な口調ばかり聞かされてきたのだから)。

 既に一度破れたソロモン王相手に、無策で再戦を挑むことは無謀である。であれば、何故アリキノは密かに逃げることなく、わざわざサタナイルとソロモンに戦いを挑むのか。
 サタナイルがアリキノを大切に想ってくれていることは、彼自身も理解していた。であれば、他ならぬ自身の存在がサタナイルをメギドラルに繋ぎ止める枷のひとつとなっており、また音楽と理想を捨てさせかねない原因となっていることも、思い及んでいたのだろう。
 
 アリキノの凶行の理由を、厳密に確定することは難しい。ただ状況から推察して素描するならば、個人的な読みは次のようになる。
 
 アリキノはサタナイルの理想に共感しながらも、彼女の思想と行動が上層部に露見し、死刑になることを恐れていた。おそらくは蘇生の力を得たのと同時期から、サタナイルの行動が露見しないよう、密かにヴィータを殺してフォトンを回収していたが、彼女はそのような事実にはまったく気付く様子を見せず、無警戒に指揮術を教え続けた。自身が指揮術を習得すること自体がサタナイルの処刑を早め、さらに彼女の理想を護るため、その理想に反してヴィータを殺し続けなければならないジレンマは、アリキノの精神を確実に追い詰めていた。
 そんな中、ソロモン王にヴィータ殺しが露見し、アリキノは死を迎えてしまう。貯蔵庫に置かれた状況から、サタナイルに死なれたと思われているのは明らかである。自分が蘇生の力を持ち、ヴィータ殺しの事実を明かさない限りサタナイルへの再会は叶わないが、それを知った彼女は、アリキノを拒絶するだろう。
 残された選択肢として、アリキノはサタナイルとソロモン王に戦いを挑むことしか出来なかった。いずれにせよ、いつかサタナイルと対立することは予想の範疇で、故に幻獣の調教も前もって施していた。戦いに勝利し、傷付いたサタナイルをメギドラルへ連行すれば、自身が監視し、今後もメギドラル上層部に造反するならこのように処罰を加えるという名目で、サタナイルを存命させられるかもしれない。戦いに敗北したとすれば、サタナイルは自身との繋がりを断ち、後腐れなくソロモン王の軍団に加わることが出来るだろう。勝敗のどちらであろうが、最終的にはサタナイルが存命する結果に違いはない。
 
 この読み方を採用するのならば、『キミに捧げし大地のソナタ』のアリキノの豹変は、彼とサタナイルが共に互いを想いながらも、その心情を言葉にして語ることがなかったが故の悲劇でもある。たとえばサタナイルが、アリキノのために音楽と理想を捨てるべきか迷ったことを明かしていれば。あるいはアリキノが、サタナイルを存命させるため、理想に反してヴィータを殺していることを告白していれば、おそらくこの二人には別の結末が待っていたと思う。
 ただし、アリキノの凶行の理由は、作中では明白に物語られてはいないし、「用無し」として殺すのは、別にこのタイミングである必要はないというだけだ。その行動の不自然さを踏まえ、こう仮の説明は出来る、という程度に過ぎない。

 話を本筋に戻そう。アリキノの死を見届けたサタナイルは、メギドラルに帰還しようとしてバルバトスに引き止められる。ここの口調の変化が、細やかでいい。

バルバトス
「正気か、サタナイル…?
アリキノの言葉がどこまで
本当かはわからないけど…
キミの「思想」が上層部に
漏れていた可能性もある…
だとしたら確実に罰されるぞ」

サタナイル
「承知の上だ
それでも私は…メギドラルを
捨てることはできない」

バルバトス
「今のメギドラルは…
キミを必要としていないのに?
(…)酷な言い方だけど…
それが真実だろう?
キミがメギドラルを救いたいと
願うその気持ちは立派だよ
だけど相手にそれを受け止める
用意がなければ…そんな気持ちも
無駄になるだけだ」

サタナイル
「だったら…どうしろと言うの…」
(第05話・END) 

 メギドラルへの愛と、処罰の可能性を十分に理解し、メギドラルとは敵対する他ないのではないかという気持ちとに、サタナイルは引き裂かれている。バルバトスの説得は、愛するからこそ内部ではなく外部から変えればいい、という引き裂かれた選択肢の統合だ。そうすれば、メギドラルの「敵」にならず、愛するが故に戦うことが出来る。
 サタナイルは、クロケルの無邪気な言動に笑いを漏らす。

サタナイル
「…ふふっ
貴方たちは本当に…
「変わり者」ばかりなのね」

バルバトス
「やっと笑ったね…「ソナタ」」

サタナイル
「…二度とその名前で呼ばないで
そう言ったはずよ」

バルバトス
「最後にそう呼びたかったのさ
これから先は…お互いメギドとして
接することになるだろうからね」

(…)

サタナイル
(ありがとう…「ストラ」
貴方に会えて良かったわ)
(第05話・END) 

 サタナイルは結局、弟同様に大切にしていたアリキノを自ら殺めねばならなかった。その後悔はバルバトス同様、永く残り続けることだろう。
 それでも、束の間、何も知らない、ただ音楽を愛する男と女同士で居られた時間を懐かしむように、バルバトスは「ソナタ」と呼ぶ。それは単なる幻への郷愁に過ぎないけれど、サタナイルもまた、その時間を幸福だったと思わないわけにはいかない。そこには、アリキノの存在もまた織り込まれているのかもしれない。
 短いけれど、とても切ない応答だと思う。
 
 この引き裂かれたものの統合こそが、『キミに捧げし大地のソナタ』で繰り返される動きなのだろう。バルバトスがソロモンに嵐の時代の自分も受け容れられるか問うのもそうだし、凶行に走ったアリキノが、最後に敬慕の声を漏らすのもそうだ。サタナイルのジレンマが「愛するが故に外側から変える」というバルバトスの説得で統合されるのも、「少し前まで敵同士だったのに、たった1曲でわかりあえ」る、と楽譜を書くことを約束して喜ぶクロケルに、サタナイルが心動かされるのもそうだ。そして何より、最後のこの会話である。

クロケル
「ところでサタナイルさんは…
どっちが本当のサタナイルさん
なのですか?
(…)まあ、どっちでもいいです
あんな美しい指揮をできる人が
悪い人なわけないですし」

サタナイル
「ふふ…ありがとう」
(第05話・END) 

 何故この言葉を発するのがクロケルなのか。その答えはクロケルリジェネのキャラエピにあると思う。最後に彼女に触れて、この感想を終わりにしよう。

 クロケルリジェネのキャラエピは、物語というよりは、性格の描写に近い。彼女がそもそも奇跡の子を名乗るのは、年老いた両親に十歳から歳を取らぬ理由をそう説明されたに過ぎない。奇跡の子には世界を平和にするという使命があり、だからこそ人助けの旅に出なければならないという両親の言葉を、クロケルは信じた振りをする。
 実際には、その根拠などどこにもなく、クロケルがその不老故に迫害されることを避け、自分以外のヴィータに出会えるように旅立たせねばという、両親の切ない「方便」(クロケルR・1話)であり、「奇跡の子」は単なる演技に過ぎない。
 話の本筋は、街の少女が盗賊に誘拐された事件を中核に進む。
 少女を救うため、殺されかけたクロケルは、両親に不孝を詫びる。

クロケル
(お父さん…お母さん…
ごめんなさいなのです…
だけど私は奇跡の子だから…
自分の幸せよりも…他の誰かを
幸せにするのが使命ですから…)
(クロケルR・9話)

 そもそもクロケルが「奇跡の子」という嘘を信じた振りをして早々に旅立ったのは、両親が自分を案じているのを理解していたからだ。けっこう押しの強い性格ではあるが、本質的には「自分の幸せ」よりも「他の誰か」を優先する人物なのである。大事な描写が、リジェネのあとに挿入される。
 誘拐された少女が、クロケルを「天使」と勘違いする場面だ。

パパ
「そう言えば、吟遊詩人の物語で
聞いたことがあるな…
世界を旅する天使の話なんだけど…
その天使が持ってるベルを鳴らすと
人々に奇跡が起こるんだ、って」

エリス
「えっ!?
じゃあクロケルちゃんは…
天使だったってこと?」

ママ
「そうだったのかもしれないわね…
お礼を言おうとしたけれど、
もういなくなってたし…」

パパ
「物語の天使もね、人々を幸せにして
すぐに姿を消してしまうんだ
そうやって…世界中の人々を
幸せにしてるんだよ
(…)なんだか僕も…
本当にその子が天使なんじゃないか
って思えてきたよ」
(クロケルR・10話)

 両親の方便に過ぎない「奇跡の子」を演じ続けるうちに、いつのまにかクロケルは「世界中の人々を幸せ」にする「天使」ではないか、と称される。繰り返す演技は、自然にその人の本態に染み付いていくものだろう。あるいは、演技と、演技する本態とに、厳密な区別などあり得ないのだろう。そのどちらもが、その人の在り方そのものであると言える(故にアリキノの「二枚舌」は切ないのだが)。
 だからこそ、強面の武人と柔和な女を演じるサタナイルは、どちらだってサタナイルには違いない、とはっきり肯定して物語を結ぶのは、まさしく本物の「奇跡の子」となったクロケル以外にあり得なかったのだろう。【了】