メギド72『美味礼賛ノ魔宴』について

 『美味礼賛ノ魔宴』は、まずは2018年クリスマスの『BEHEMOTH』との対比を誘う。
 ラウムとアモンは、共に過去、①父親の過失により、②家計が傾いた時代を経験しており、③現在の父親は成功した人物になっている(ライオは王宮付きのキャラバンの長に、ステファーノは貴族となる)。二人は共にヴィータの名、メギドの名を意識することを迫られる。彼らの名への向き合い方は、大きく位相が異なる。アモンはライオへの葛藤を断ち切ったように見えるが、虐待による怒りと傷が消えるのは、あの年齢ではあり得ない。それを断ち切るには、ヴィータとしてのリュカを捨て、自分はメギドのアモンと言い聞かせることでしかあり得ないはずだ(実際、リュカはアモンなのだから)。だから、その意味では傷付く自分自身を名ごと抹消、切断、殺害する物語だ。
 アモンのPUガチャタイトルは「憎悪の向かうその先に」だし、最後に贈る武器は「過去を断ち切る刃」だ。それは心のなかでのリュカ、ヴィータの自分との決別でもある。もちろんそれを突き動かすのは怒りであり、憎悪である。対称的に、ラウム=アルフォンソが苦しめられる問題は、親への憎悪ではなく、親への親愛に起因する。
 ラウム自身が詳細に心情を語る場面は少ないが、重要なのは次の謝罪だ。

ラウム
「すまねえ…!
オレはずっと…アンタらに嘘を…
嘘をついてた…!
(…)アンタらの息子アルフォンソの
魂を…オレが取り込んじまって…
だから…すまねえ…
殺されたって文句は言えねえ…
親子の縁を切るってんなら、
それも構わねえ…
なんでも…言ってくれ…
オレはどんな罰でも…」
(第10話・END)

 ラウムが父・ステファーノに謝罪するのは「魂」を「取り込」んだことであり、「殺されたって文句は言え」ない罪だ。
 つまりラウムは自分がヴィータ=アルフォンソの「魂」を殺したという罪悪感がある(だから「罰」を受けるのも辞さない)。殺されても文句は言えないし、「親子の縁を」切られても仕方ない。ステファーノ夫妻がメギドの話を食卓でしたのは6章の後だろうから、この「嘘」とは、その会話より以前に、「息子」の「魂」を取り込んだ偽物同然の存在であると明かせず、あたかも息子であるかのような「嘘」を付き続けたのも含んでいるだろう。この罪悪感は、両親への敬愛が無ければあり得ない。
 親を愛するからこそ、自分がメギドだと明かせず、嘘を付き続けるしかなかった(グレモリーは第08話・ENDで、両親を「戦争」に巻き込みたくなかったラウムの気遣いを指摘しているが、これも親愛に起因するだろう)。これは見た目の強面とは大きく異なる、繊細な優しさであって、ラウムの物語は、その嘘で隠していた真実が明らかになったとき、しかし親が自身を「息子」として再度受け容れてくれる、アルフォンソではなくラウムであっても、家族として共にやり直せることの確認である。
 ここにおいてアモンとラウムの対比は際立つ。自身のメギドの名の提示でアモンは家族の縁を切り、ラウムは再び家族の縁を結び直す。アモンが過去を断ち切るためリュカを殺さざるを得なかったのとは対照的に、既にラウムはアルフォンソを(心理的には)殺していたのであり、だからステファーノが未来において呼ぶ名は「ラウム」でしかあり得なかったのかもしれない。
 何故最後にステファーノ夫妻がラウムを受け容れられたのか。それを読むには、まずグレモリーによるステファーノ夫妻の説得を読まねばならない。

グレモリー
「我らは魂のみでこの地に追放され、
そしてこれから生まれるヴィータ
魂と結びつき転生を果たした…
本来ならば、ただのヴィータとして
生まれる者の魂を糧に…
我らは二度目の生を受けたのだ」

ジュリアナ
「うう…ああああああっ!
やめてくれよ!
もう…やめておくれよ!
嘘だろ、そんな…!
じゃあアルフォンソは…!?
アタシたちのアルフォンソは…」
(第08話・3)

 ここでジュリアナが「やめてくれ」と懇願するのは、まさにラウムがアルフォンソを殺し、その殺害者である「化け物」のラウムをアルフォンソとして育ててしまったという可能性に直面させられたからだ。「じゃあアルフォンソは」に続く言葉は、夫の言葉通りに「じゃあ(私たちの育てた)アルフォンソは(化け物であるラウムであり、本来生まれるべきアルフォンソではないのか)」という意味に読まなくてはならない。

 これに続くグレモリーの応答は、あくまで事実を伝える。

グレモリー
「それは極めて難しい質問だ
私はかつてイゾルデという名を
与えられたヴィータだったが…
あるとき自分がグレモリーという
メギドであったことを思い出し…
そこから己がメギドだと自覚した
以来、私は名を変えてグレモリー
として生きているが…
ゾルデとして生きていたころの
記憶や経験がそれで無為になったか
と言われれば、そうではない
そういう意味では、私はグレモリー
でありイゾルデでもあると言える」
(第08話・3)

 ラウムはアルフォンソではないのか。これは「極めて難しい質問」であって、追放メギドのラウムはメギドのラウムヴィータのアルフォンソの融合体である。
 でも、両親の心を救えるのはそんな事実ではないだろう。ラウムがいつメギドに覚醒したかは物語中で語られていないから、どこで接ぎ木されたかは分からないが、彼らが育てた子が、まさしく自分たちの子に他ならないという証拠こそが、彼らのいちばん求めるもののはずだ。
 グレモリーの説得は二度に分かれる。より重要なのは、彼女が夫妻に茶を煎れたあとの、二度目の説得である。

グレモリー
「ステファーノ…
私は貴様を高く買っているつもりだ
「大地の恵み」が視えることを
いいことに私利私欲に走らんと
する者は少なくない…
だが貴様はその「力」を恵まれぬ
者たちのために使い続けた…
(…)その口の悪さゆえ、なにかと
いらぬ誤解を受けやすいが…
貴様はそんな偏見や誤解をものとも
せずにひた走ってきた…
大した度量と根性だ
(…)だからこそ貴様自身は人の見た目や
身分、肩書きなどにも左右されず、
つまらぬ偏見にも流されない…
…そういう男だと思っていたがな
(…)貴様の息子もそうだ
そんな貴様らに育てられたか、
いつでも人の心配ばかりしている
貴様に似て強面で口が悪いせいで
最初のうちはヤツを怖がる者も
少なくなかったが…
今では仲間たちの誰よりも
信頼されている男だと
言ってもいいぐらいだ
2人とも、胸を張れ!
化け物だからどうした!
貴様らの息子は…
誰よりも…どんなヴィータよりも…
真っ当に、真っすぐに育っている!」
(第08話・END)

 この説得は長い。「人の見た目や身分、肩書」や「つまらぬ偏見」にも流されない、というステファーノへの激励や、「真っ当に、真っすぐに育っている」という部分に着目すると、むしろグレモリーが何を言いたいのか読み辛くなってくる(もしかすると、こういう部分からマイノリティへの意識も読み得るかもしれない)。
 ここでもっとも必要なのはラウムラウムであると同時にアルフォンソである証明であり、故に着目すべきなのは、「貴様の息子もそうだ」という下りだと思う。貴様すなわちステファーノに「似ている」点の列挙こそが重要なのである。二人はいずれも口が悪く、「いらぬ誤解」を受けてきた。だが「いつでも人の心配ばかり」していて、今では「誰よりも信頼されている男」だ(これはこじつけだが、ラウムは『ソロモン王と悪魔の鏡』やキャラエピで、善行を成そうとするときに度々「ひた走」っている)。
 ステファーノはこのとき、ラウムを「息子」として認め、セリエの取引を断る。
 だが、それだけでは弱い。ステファーノとラウムの父子の繋がりをグレモリーが証明しただけでは片手落ちなのだ(もちろんジュリアナはこの時点で納得はしているのだが)。
 もうひとつ大事なのは、ジュリアナとラウムの親子証明だ。ここで、重要な意味を持つのが、家族の記憶である。

 前編と後編でいずれも物語で大きな意味を持つのは、ニスロクの料理である。ところがこの二つの在り方は大きく違う。オリアスをリジェネレイトさせる料理はクリス・マウスを材料にしており、故に過去の能力を取り戻させるだけのフォトンを含むが、ラウムに記憶を取り戻させる料理に特殊な「力」などない。これらは共に過去を甦らせるための料理でありながら、後者は何の変わり映えもしない、ごく普通のドーナツでしかない。ここで意味を持つのは料理ではなく、料理をめぐる記憶である。

ジュリアナ
「…本当にそんなのであのコを
元に戻せるのかい?」
ニスロク
「…この料理自体にそんな力はない
(…)必要なのは「心」を動かすことだ
ヤツのヴィータとしての心を
(…)貴様が持っていけ
(…)料理というものには…
それぞれに相応しい供し方
というものがある
そして、この料理は貴様が
出さねば意味がない
「メギド自体の味の記憶」が
ヤツのメギドとしての魂を
揺り動かしたのだとしたら…
ヤツのヴィータとしての心…
魂を揺り動かせるのは、
ヴィータとしての味の記憶」だ
貴様が供することも含めて、
ヤツにとっての「記憶」だろう」
(第10話・3)

 このドーナツで記憶が戻るかどうかの賭けこそ、ジュリアナにとってラウムはメギド=怪物なのか、それとも息子のアルフォンソなのか、という試問に等しい。
 追放メギドは人外の怪物性と人間性とを併せ持った存在であり、たとえばイポスCの悪魔的な享楽の思想や、グシオンBのアルバートへの思慕のように、それは2019年のメギドが繰り返し描き続けてきた事実だ。あるいは純正メギドの数が増えたからこそ、追放メギドのこの混合性を、差異としてあらためて描き直す必要が生じたのかもしれない。
 この怪物性、人外性を無視して親子として受け入れるのは都合のいい話であって、「聖人」のラウムだからこそ、最も獰猛で野蛮な怪物の面を親に提示し、そして受け入れられなくてはならない。追放メギドは亡命メギドのような純正のメギドでもなく、ただのヴィータでもない。それをニスロクの言葉は端的に物語っている。だから、ジュリアナがどこまで受け容れたように見えても、グレモリーの説得だけではまだ足りないのである。片側は確かにヴィータでも、もう片側は怪物であり、それを受け容れなければ「家族」としての関係は組み直せない。ドーナツの記憶は、母・ジュリアナが隣人からおすそ分けされたドーナツを、息子に与えた記憶であり、それを息子が家族三人で分かち合おうと提案した記憶でもある。

アルフォンソ
「オレだけが食うなんて…
そんなの嫌だぞコラァ!
食べるなら父ちゃんと母ちゃんと
三人で分けるんだコラァ!
(…)オレは知ってんだからな!
オレのために2人がちゃんと飯を
食ってねえの!
(…)オレも家族だろコラァ!
助け合って生きていくのが
当たり前じゃねーかっ!」

ステファーノ
「テメェ、この野郎…!
いつの間にそんな…
あちこちで暴れちゃ人様に
ケガさせてばっかいたテメェが…
立派になりやがって…オラァ!」

ジュリアナ
「うう、う…
やっぱアンタの…子供だね…!
人のことばっか気遣って…」
(第10話・END) 

 それは家族の絆を物語る記憶でもあり、アルフォンソがステファーノの息子であると母親が実感する記憶でもある。

 ニスロクに語りながら、ラウムにドーナツを与えながら、ジュリアナ自身がこの記憶を同時に強く思い出していたんじゃないか。ラウムがこのドーナツを口にするのは、ステファーノが過去を語り出し、回想へ続く場面の後なのだし。ステファーノがラウム=アルフォンソを自分の息子だとグレモリーに再確認させられたように、ジュリアナも夫の語りを聞きながら、共に家族の記憶を呼び起こされたのではないか。そしてこの父の語りと、母の手から与えられた菓子とが記憶を呼び起こしたとき、確かに母にとって目の前の怪物は人外のラウムではなく、他ならぬアルフォンソとして証明されるのだと思う(そしてもちろん、これは富の独占を図って破滅に落ち込んだライオと、ドーナツを分かち合い、富と繁栄もまた分かち合っていったステファーノとを対比的に読んでいい)。アルフォンソでもあることを証明されたラウムは、再び夫婦と家族としての関係を結び直す。これがラウムの物語だ。

 ここまで読み返したように、『美味礼賛ノ魔宴』で重要なのは家族の主題だ。それは2018年の『BEHEMOTH』後編が同様にアモンとライオの関係を主題にしていたのとパラレルに読むべきだが、もうひとつ大切なテーマがある。それは贈与と返礼、贈り物と恩返しだ。そう意識して読み返したとき、やっと私は『美味礼賛ノ魔宴』が降魔祭=クリスマスの物語だと納得がいった。そして、その地点から見返したときに、何故オリアスの物語とラウムの物語が同時に語らねばならなかったのが腑に落ちた。
 それを読むためには、まず物語の後日談から振り返らなくてはならない。
 ラウムリジェネの物語は、『ソロモン王と悪魔の鏡』で盗賊の老婆の処遇をめぐってフラウロスとラウムが対立したエピソードを下敷きに書かれている。あの場面でのラウムの考え方はちょっと掴み辛かった記憶があるが、キャラエピでは明瞭に、老婆を「改心させてやって、真っ当な人生を送らせ」てやる機会を失ってしまった後悔として描かれている。
 その再話として描かれる盗賊の母子の物語は、まさに「改心」と「真っ当な人生」の機会をラウム父子が贈る物語である。使用人として召し抱えた母子の盗みに気付いたとき、ラウムは彼らを捕えて牢に入れるのではなく、再び屋敷で働かせる。その罪を他の使用人に漏らしもない。挙句の果てにラウムは、息子の起業金の足しにするよう、バールゼフォンの新作の絵を彼らに贈り、その門出を見送る。大事なのは、ここで息子から「この恩返しはいつか必ず」と礼を言われて、ラウムが断る場面である。

ラウム
「…いらねぇよ、そんなもん
(…)勘違いすんなよ、ババァ
これはテメェらのためじゃねえんだ
オレたちに恩を返されたところで、
ただ金だの気持ちだのがお互いの
間を行き来するだけだろうがコラ
だからテメェらは、余裕ができたら
今のテメェらみたいな境遇の
ヤツらを助けてやれ
それがテメェらの「償い」だぜ
永遠に終わることのねぇ、
「送り」地獄だコラ
(…)大事なのはよ…
恩を「返す」ことじゃねえんだよ
次に「送る」ことなんだ
受けた「恩」を「優しさ」に変えて
見ず知らずの他人に送っていけば、
いつか世界全部が優しくなんだろ」
ラウムC・10話)

 これは「オヤジの受け売り」であり、まさにこの慈愛の思想をラウムが語ること自体がステファーノの息子である証明だ。ステファーノはその慈善故にイベントシナリオで「聖人」(第08話・冒頭)と評されているし、ラウムも召喚時の紹介文に「聖人」と書かれている。そしてアルフォンソ、ステファーノ、ジュリアナはキリスト教の聖人の名とも一致するわけで、ラウムがクリスマスイベントに選ばれた理由のはまさに聖人だからなんじゃないか(本当のところはもちろん分からないが)。
 いずれにせよ、このラウム/ステファーノの見返りを求めない贈り物とは、究極の善意であり、ある種の愛情、慈悲だろう。
 贈り物と恩返しというモチーフは、『美味礼賛ノ魔宴』において頻出する。たとえばバールゼフォンがそもそもラウムに絵を贈ったのは、ステファーノに行き倒れているところを救われた恩があるからである。スケールはずっと小さいが、もうひとり見返りを求めない贈り物をする「父親」が居る。フォラスだ。クノスペで娘の降魔祭の衣装を探し求めるフォラスは、当たり前だが、別に娘に恩を返してほしくて贈るわけではない。ただ相手の喜ぶ姿を見たいのであって、それを愛情と呼んでも差し支えないはずだろう。
 ラウム=ステファーノが悪人を真っ当な善人にしようとするのも、ただそうした機会を与えたいのに過ぎない。世界全部が優しくなる未来はあくまで個人の理想のビジョンであり、その熱意はどこか人類への愛にも近い。マルコシアスが孤児院に贈り物をしようとするのも、やはり見返りが欲しいわけではない(……2018年のライオが、最早罪を償う相手が不在のなかで、孤児院に贈り物をする場面を思い出して塩辛い気持ちにはなる)。だから、マルコシアスに頼まれてフォラスがサンタの衣装を身に纏うのは、理に適った流れだ。そもそも「サンタ」の起源であるシトリーは、直接的な見返りを求めることなく戦う英雄であり、彼女こそ、「恩を」「送る」人なのだから。

シトリー
「私は、あなたたちを「守りたい」の
(…)理不尽に突き付けられる
滅びの危機から
このヴァイガルドという世界を
私という存在を、
この世界に「生み出して」
受け入れてくれたヴィータたちを
ヴィータたちの、楽しい文化や…
…あなたの作る「おいしいもの」を
マリアナ、友人のあなたを
…守らせて、私に」
(シトリーR・8話) 

 そもそもシトリーが食を愛するようになったきっかけは、ある村で催された食事会である。結果的には村のために戦ってくれた彼女への、感謝の返礼としての食事会だ。

シトリー
(…戦場の高揚とはまるで違う、
穏やかでたしかな充実感
――「楽しい」んだ
今日1日だけで、様々なものを
得た気がする
正しい…、おいしい…、
楽しい…
…なにも得られない
無為の日々だけじゃなかった
正しい行いは、「実」のあること
として自分に返ってくるのね…
「ここでは」そうなんだ
それは旅路に意味を持たせる
私はもっと「正しい行い」を、
積極的にすべきなんだわ)
(シトリーR・3話) 

 吟遊詩人に謡われるような英雄と褒め称えられたことが嬉しいのではない。村人と食卓を囲み、温まる料理を口にし、共に笑い合う「穏やかでたしかな充実感」が嬉しいのであり、自分の旅路を意義あるものと信じられるのが嬉しいのだ。このあと、シトリーの戦いを描く場面で、村人たちが彼女に恩を返そうと立ち上がる場面が挟まれているのも重要だろう(これは無印のキャラエピでも語られる)。シトリーは、まさに自分という個を「産み出して」くれたヴィータ(たとえばマリアナ、たとえば出会った人々)に恩義を感じ、それ故に「見ず知らずの他人」のヴィータを守り続ける。ここには「恩を」「送る」動作がある。そもそも現実のサンタが何故贈り物を始めたか、どういう理想像があるのか私は知らないけれど、ともかく見返りを受け取ることなく贈り物を与えられる者には違いないはずだ(シトリーCのキャラエピでも、彼女は村の少女に「お礼なんて気にしないで/私は自分のすべきことをしているだけだから」と語っていて、お礼としての伝統料理を提案するのは少女のほうからである)。その資質こそ、聖人の資格のひとつなのかもしれない。
 だから、『美味礼賛ノ魔宴』には、何人もの聖人サンタが居る。
 それは他ならぬ英雄のシトリーであり、ラウム=ステファーノであり、そして規模がずっと小さくても、フォラスとマルコシアスもまた愛する子らには「サンタ」なのである。あるいは、炊き出しという無償の善意を贈るアミーもまた、その列に並んでもいいのかもしれない。まして、ニスロクに頼んで再利用させてもらった高級肉を、多少はつまんだのかもしれないが、炊き出しのシチューに惜しみなく使える人なのだから。

 そういう「聖人」の地平が片側にあれば、もうひとつは「俗人」の地平があるかもしれない。
 たとえばオリアスだ。オリアスはアジトの仕事は億劫で避けてきたし、見栄っ張りで、あの歳まで生き延びているのに何故か泣き虫であったりする。それを俗人と呼ぶのはこじつけだが、たとえばサン&ムーンを無償で使役しているのは、オリアス自身の一部だから当然なのかもしれないが、ラウムの自分で出来ることは自分でやる、という信条とは対照的だ。
 リジェネレイト後のオリアスにはさりげない、けれど大きな変化がある。それを物語るのがキャラエピの、シチュー作りのエピソードだ。
 シチュー作りに無事成功し、アジトの面々でそれを食したとき、それはアンドロマリウスの言葉を借りれば「みんな笑顔になれる」「平和」で幸福な時間だった。共に作り、共に食するのは楽しい。サンとムーンに楽しさを指摘されたとき、オリアスは「間違ってはない」と漏らす。このあと料理の才能があるんじゃないかと勘違いするのがオリアスらしくて微笑ましいけれど、同じ追放メギドとも距離を置いていたオリアスがその楽しさを実感したのは、たぶん本人が思っている以上にずっと大きな一歩だろう。面倒だった収穫祭にも「おいしいシチュー」を「つくって」「ヴィータにほめられたい」理由で出ようとする。これは見栄には違いないだろうけど、けっこうちゃんとした社交性に数えられるべきじゃないか。こういうトーンのほんわかしたリジェネレイトはメギドでは非常に珍しいので、私はとても好きだった。だって、あのオリアスが予行練習までしようとするのだし(失敗するが)。
 オリアスを収穫祭に誘う村長の言葉は、物語の主題に正確に沿って書かれている。「できる返礼は限られていますが」「なにかしらの形で恩返しをと」(オリアスC・第06話)とあるように、『美味礼賛ノ魔宴』を中心とした物語群は、贈与と返礼(恩返し)を繰り返しモチーフにしている。この村長の手短な言葉から分かるのは、オリアスは村人に自分が意識している以上の贈答をしていることだ(当たり前に使える能力を使っているだけだから、当然といえばそうなのだが)。だから村の生活を保障してくれるだけで恩返しじゃないかと(面倒な気持ちも最初はあっただろうが)意外に控えめに答えているんじゃないか。贈り物の価値は、当たり前だけど、自分の予想では絶対に測れない。良かれと思ったものが裏目に出たこともある。普段何気なく貸している力が意外に誰かの支えになっていたこともある。オリアスも知らず知らずして、そういう互助の世界に生きている。

 『美味礼賛ノ魔宴』の結末は、オリアスが雪を振らせる場面で結ばれる。
 オリアスにとってそれは「気配り」であり、誰が雪を降らせたかなんてヴィータが知るわけはないのだから、これも見返りを求めない善意である(よりにもよって復興工事中の街に雪を降らせてしまうのも、オリアスらしくてすごく好きだ)。オリアスがアジトへ向かう理由は明示されていないけれど、ジズもアジトを飾り付けているし、たぶん去年のようにアジトで降魔祭の集いを催すのだろう。時間の前後はあるが、『美味礼賛ノ魔宴』を彼女の物語として整理するならば、①普段出向かないアジトの集いや村の収穫祭へ参加する社交性、②共に集い、共に同じものを飲み食いする楽しさの学習、③「きっちりする」すなわち自力で生活を整えようとする意思の芽生え、そして④ヴィータのために無償で雪を降らせる善意の四点でリジェネレイトを描かれているわけだけれど、最後のこの雪の贈り物こそがオリアスにとって最大の歩みだと思う。
 強引だけど、最後にサンタとトナカイの格好をしたサン&ムーンと共に空を飛ぶオリアスも、サンタたちの列には並んでいるんじゃないか。

 ニスロクとは何者だったのか。
 彼は料理に飽くなき探求心を燃やす人だけれど、贈与と返礼というモチーフから読み返せれば、必ず恩を返す人でもある。たとえばニスロクがオリアスに特別な料理を振舞うのは幻獣討伐で大いに助けられたからでもあり、その義理堅さを驚かれているぐらいだ。肉屋の臓物、あるいはバフォメットの塩に本来の値段以上の価値を見出し、相応しいと考えた返礼を支払う。贈与と返礼、責任と応答は表裏一体だろう。もちろん料理人の矜持はあるだろうが、ラウムの暴走を知らされたとき、「私の料理が原因となれば」「責任を取らねば」とはっきり語る(第08話・冒頭)。その思想を物語る大事な場面が二つある。ひとつはフルカネリの別荘で、ソロモンたちに肉を台無しにされて激怒する場面だ。

ニスロク
「「食う」ことは「生きる」ことだ…
すなわち食事を蔑ろにすることは
生への冒涜以外の何者でもない
貴様らに生きる資格はない
料理人の矜持として…
このニスロクが貴様らを捌いてやる」
(第02話・4)

 もうひとつは、ソロモンが引き止めるのも聞かず、クリス・マウスを内側から解体するのにこだわる場面だ。

ニスロク
「…これは私の料理人としての矜持だ
味を落してまで狩りを行うのは
食材への敬意に欠ける
狩る以上は、食材を最善の状態で
確保せねば…料理人の名折れだ」
(…)「食う」ことは「生きる」こと…
食材を狩るのに命ひとつ賭けられん
ようでは命を喰らう資格などない!」
(第04話・END)

 ニスロクが食材への敬意にこだわるのは、食うことが「命を喰らう」ことだからだ。食われる側の命を奪う以上は、最大限にその命の価値を活かす殺し方でなくてはならない。
 だから食材は最善の状態で確保せねばならないし、狩ることが相手の命を奪う以上、自身の命も同様に賭けなければならない。こういう意識は、「聖人」ではないが、宗教家には近いと思う(上記の「捌く」が「裁く」とのダブルミーニングなのも、そう想わせる)。たとえばアガレスCのキャラエピには、遺跡で幻獣に殺された男をめぐる台詞のやり取りがある。
 アガレスの罠猟の発想を聞き、お前を連れてきてよかった、というニスロクの言葉に続く対話である。

アガレス
「別に私の手柄ではない
ここで死んだ1人の男の運命が…
私たちを導いたのだ」

ニスロク
「貴様の言葉はよくわからんが…
まあ、感謝はしておこう
もしその男が「遺跡の主」とやらに
食われたのであれば…私たちはその
男の命も「いただく」わけだしな」
(アガレスC・5話)

 喰うことは、食材が過去に喰ってきた命の連なりを喰うことに等しい。だから遺跡の主たる幻獣を喰らうのは、同時に幻獣に喰われた男の命を「いただく」ことであり、「感謝」が必要なのである。勝手な補いだが、「いただきます」という感謝の礼にニスロクがこだわるのは、料理人への感謝ではなく、喰らう食材、命への感謝だろう。

 これはメギドとしては極めて特異な意識のはずだ。『滅びの運命と折れし刃』で描かれたのは、アガレスの宗教家としての像だった。逝く人の魂と、遺された生者の魂に寄り添い、時に死者の魂を背負い、死者の全力の奮闘の結果としての「運命」を称え、この先に続く人生を全力で生きるよう生者を静かに励ます、そんな在り方である。
 アガレスとニスロクは互いの思想に踏み込む会話こそ交わさなかったが、彼等の出会いには、ある種の必然性があったと思う。
 喰うことが他者の生命の収奪である以上、そこには絶対的な恩義がある。命を「いただく」ことは、究極の収奪であり、究極の贈与でもある。
 
 だから、『美味礼賛ノ魔宴』は贈与と返礼とを軸にして、次のように整理出来る。
 「聖人」のラウムが最大限の善意を贈り続ける者ならば、「料理人」のニスロクは贈られた生命に対し、選んだ客と最高の料理を以て、最大限の返礼を行う者である。
 きっと「聖人」ではないオリアスが、共に作り、共に食する楽しみを知り、まるで「サンタ」のような善意を以て、魔術の雪を贈るまでの物語だ。

 あらためて、『美味礼賛ノ魔宴』はすごく地味な話である。2019年の物語群のなかでも、長さのわりに飛び切り地味だ。ヴィータが死ぬわけでもないし、凄惨な事件や過去が語られるわけでもない。さらりと軽く読める、あくまでクリスマスらしい、「ありふれた良い話」でしかないかもしれない。
 しかし、ごく何気なくだが、『美味礼賛ノ魔宴』にはオリアス・ニスロク・ラウムという三人の主役に最大限の活躍が割り当てられている美点があるし、テキストの細部を読めば、そこには贈り物と恩返しという物語の主題が、ちゃんと生きているように息づいている。
 構築的といってしまえばそれだけだが、私はなんだかそういう物語を読んでいると「生き生きしているなあ」という気持ちになる。

 これは決して意図したものではないだろうけど、ありふれた良い話をちゃんと書く、という試みがあったと思う。
 オリアスのリジェネレイトだって、(長命の予言者としてはあまりにも呑気という本人の特異さはあるが)シリアスな深い話でも何でもない。ごく小さな一歩の物語に過ぎない。
 でも、それを丁寧に書くという意識が、私はすごく好きだ。そういう物語の幅を持ち合わせているメギド72という物語の群が好きだし、クリスマスの物語なら、こういう話こそが似合うのかもしれない。贈り物の日なのだし。三人の主役は全然ありふれた登場人物ではないけれど、クリスマスという催しは、誰もが楽しむありふれた祭りであり、それ故に魅力的な日のはずだ。
 そのありふれた物語を、あくまで凡庸なままに、最後まで一貫した主題のもと、丁寧に書き続けること。
 けれど、たとえばシトリーやアガレスといった、別の物語の登場人物ともゆるやかに接点を繋ぎ、物語を広く紡いでいくこと。
 『美味礼賛ノ魔宴』は、物語のスケールが段々大きくなっていったメギドの2019年を締めるのに、意外に相応しい物語だったのかもしれない。