雑記

おもに調べ物のまとめです。

メギド72『折れし刃と滅びの運命』について

 複雑な物語だ。

 話はフォカロルの武器が破壊され、修理のためにデオブ村へ向かうという導入から始まり、最後にはソロモン・アガレス・村人たちの三者三様の物語が展開される。この三つの物語が同時進行するだけに情報量は当然多いし、更にアガレスの言動や心情が、丁寧に追わなければ掴み辛いのもある。
 直近のメギドのイベントシナリオ、特に『死を招く邪本・ギギガガス』や『さらば哀しき獣たち』においては、複雑化してきた群像劇を、シンプルにまとめ直すという傾向にあったと思う。フルーレティの亡命が成功した、という物理的な動きに比べて、ベリトがジルに会うことを決意した、という心理的な動きは、より情報量が多くなる。まして、今回は三者の心情が同時に動く物語である。
 複雑な物語を読むうえで、ひとつの見方がある。その複雑性は本当に必要だったのか。今回であれば、ソロモンとアガレスの物語を同時に進行する必要があったのか。別にアガレスさえリジェネレイトしてしまえばいいのだから、ソロモンの物語はここで語る必要はなかったんじゃないか。
 結論から書くと、ある。そしてこの複雑さは、物語に必要な複雑さであった、と考える。

 もうひとつ。オリエンスはこの物語に必要だったのか。
 これはすでに何度か書いてきたことだが、特にリジェネレイトの物語と新規登場メギドの紹介を兼ねるようになった現体制でのイベントでは、(あくまで最初期に限った話だが)その兼ね合いに苦労しているように見受けられたし、一方で問題を正確に把握してシナリオが洗練されてきた現状がある。
 たとえば『死を招く邪本・ギギガガス』であれば、フルーレティはあくまで「物語」を導入するに留まり、中盤以降はフェードアウトし、ベリトの物語に席を譲る。更にそのわずかな尺でアムドゥスキアスやアンドロマリウスといった複数の人物と関係を結ぶことで、キャラクターとしての魅力を描くことに注力する、そういう理想的な動きを見せている。
 一方、オリエンスはこの物語の終盤までソロモンたちに同行し続けた。そこでオリエンスはどういう動きを見せ、どのように物語に寄与したのか。
 上記の問いには、もちろん、必要だったと考える。そこには「余所者」というポジションを逆手に取った、実に見事な動きがある。

 本編に入る前に、まず重要なのは、イベントの時間である。
 これはさりげないが、ウェパルの登場シーンを見れば分かる(第05話・1)。ウェパルの服装はリジェネレイト済であり、『さらば哀しき獣たち』と同じく、6章と7章の間のエピソードだ。理由は後述するが、これは『その交渉は平和のために』で、ウェパルが説明が面倒だから、という理由でリジェネレイト前の服装で登場したのとは、対置して考えるべきだと思う。そして『さらば哀しき獣たち』が、7章のバンキン族との共存を願うソロモンの意志に繋がるように、この物語も、6章と7章との関係において読み直すことが出来る。

 本編に入る前に、では6章とはどういう物語だったのか。

 それは辺境での虐殺に始まる、メギドラルからヴァイガルドへの侵略戦争であり、ウェパルの死と再生であり、サルガタナスとの対決であり、王都の民、そしてハーフェンのような犠牲者の遺族との対峙であり、ソロモンが「碑」としての己を自覚した物語だった。
 7章1節のウェパルの死は、当然ながら、ソロモンに深い傷を与えた。ただし、それはグロル村の死者と変わらないのではないか、と心中で思っていたのを、仲間を失うのは初めてのはずだ、とブネに傷の深さを指摘されるという、凝った構造で明らかにされる(本編第50話・END)。
 『折れし刃と滅びの運命』という題名を重ねて読むと、この50話にも「折られた」という形容が現れる。

王さま
「誰よりも純粋にヴィータ
守ろうとした男が…
…その守ろうとしたヴィータから
憎まれたあげく殺されかけ、
大切な仲間を奪われる、か…
…これでは、心を折られても
おかしくないな」
(本編第50話・冒頭) 

 「碑」という概念が初めて語られるのもこの50話の冒頭だ。ヒルフェの地下道で唯一の生存者となったマイネが、それを語る。
 長い引用になるが、これは7章で「村の少年」としての在り方を取り戻す、という物語の重要な伏線にもなっている。

マイネ
「とにかく今、私や王都の人が
傷つきながらも笑って暮らせるのは
あなたのおかげです
あのときは、本当にありがとう」

ソロモン
「でも…
俺が間に合わなかったせいで…
みんなあんな目に…
…犠牲が出たことで
俺を恨む人だっているだろうし」

マイネ
「そうですね
元どおりの暮らしっていうのは、
周りの環境も含めて、ですから…
…そういう意味では、
無事に助かった人なんて
誰もいなかったのかも
(……)でもそれを言うなら、
幻獣やメギドラルに関係なく…
…人はただ生きてる限り、
なにかを失い続けるって
ことのはずです
(……)そのことを誰もが、
覚悟してなきゃいけないのに、
つい忘れちゃうみたい
…そうならないように
生きてる者が心を向けるのが
この「鎮魂碑」なんです
自分を取り巻く「なにか」が
変わってしまう前のことを
覚えておくための「碑」
これがあることで、
死体なんか残ってなくても、
この「碑」に向かって…
…再び大地の恵みとして
みんな帰ってきてくれる…
そんな気がするんですよね
そして「繰り返せる」…
もう一度、自分を取り巻くなにかが
ゆっくり時間をかけて戻っていく…」
(本編第50話・冒頭)

 人は生きている限り必ず失い続ける。その真理と、生前の死者の名を共に記憶、記録する「碑」として王都の鎮魂碑はある。親しい人の死に遭遇して、過去の自分が決定的な衝撃を受けたとしても、そこから切断され尽くされないための錨として、それはある。一方で、ヴァイガルドにおいては死者の魂はフォトンになって大地に循環するとされる。何故それが「みんな帰ってきてくれる」かを、合理的に説明することは難しい。まして科学的に証明することは出来ない。だが、死者の名を記憶し、忘却しないこと、そして循環を信じること自体が、心の慰めとなる。だから、これは機械の論理ではなく心情、信仰の問題になる。改稿版『悪夢を穿つ狩人の矢』でも物語られたことだ。

 重要な場面がこの直後に続く。マイネが、ソロモンに名を訊ねる場面だ。

マイネ
「私、まだあなたの名前
教えてもらっていませんわ
(……)「あなたの名前」です
ソロモン王は通り名ですよね
シバの女王だって、
本当はアミーラっていうんです
あの子も根は普通の女の子なの
あなたも、超人なんかじゃなくて
根は普通の男の子だって
わかったから…
…名前を教えてください」

ソロモン
「あ…
ああ、俺は…
…………
…っていうんだ
…なんでだろう、
なんかそのことを、
今まで忘れてた気がする」

マイネ
「ほら、やっぱり無理してる
ソロモン王っていう「なにか」に
無理やりなろうとしてませんか?
私をあの状況で
救い出してくれたのは、
他ならぬあなたの意思でしたよね
「ソロモン王」なんかじゃない
あなたを見ている人もいるの
私は「あなた」の味方です!」
(本編第50話・冒頭)

 「超人」なんかじゃなく「普通の男の子」としてソロモンを見るマイネの台詞は、7章の展開を鑑みれば、「普通の男の子」としてのソロモンを書く、という宣言にも読める。王だから戦うのではない。普通の少年として、そう望んだから戦うのではないか、という指摘に、ソロモンは辛うじて再起する。

 思い返せば、ソロモンは徹底して「善人」ではあるが、「超人」としては書かれなかった。7章でもモラクスがソロモンを心配して涙する場面が差し挟まれるが、2018年の『届かぬ心・モラクスの願い』でも、彼は1章時点で村を滅ぼされた「少年」としての「アニキ」の身を案じていた。
 サービス開始当初から、ソロモンをあくまで「普通の男の子」とする見方は一貫している、と言っていい。
 マイネが語った「碑」の定義は、ソロモン自らが口にするとき、同じ語でありながら意味を大きく変えている。

ソロモン
「俺はさ…
もう「死んでる」んだ
メギドたちに会う前、
俺にも「普通の生活」があった
ずっと住んでいた村があって、
仲のいい友達もいた
(……)俺が憧れてた人も、
オレのことを好きでいてくれた
人だっていたんだ
だけど、そういう普通のことを
受け止めて、一緒に歩める
「俺」は、もうこの世にいない
村が滅ぼされて、みんな
いなくなってしまったとき、
俺は、死んだんだと思う
(……)だから俺は、「碑」になったんだ
「王」っていう碑に
(……)俺と同じように一度死んで、
この世界を循環する魂となって
集まってくれた「72人」
(……)みんなそれぞれ、誰もが戦ってる
そのやり方や在り方が違っても
だからみんなの目線を、1つに
束ねておかなきゃならない
…それが「碑」の役割なんだ」
(本編第59話・5)

 普通の少年としての、個としての自分は滅びた。追放メギドとはメギドの死からヴィータに生まれ変わった存在のことだが、自分もまたヴィータとしては既に死を迎え、集団としての目線を束ねる装置として、「碑」として在る。そう定義付けている場面だ。
 実は6章における「碑」の定義を読むのは難しい。というのは、この語はマイネと、シバ・ソロモンで大きく意味付けが異なるからだ。マイネの「碑」は魂が再び循環する未来へ想いを馳せるための装置であり、シバの「碑」は過去の死者の無念、その成し得たことを想い、ヴァイガルドに生きるヴィータのひとりひとりが未来のための現在の戦いを想い、その意志と目線を束ねる装置である(第59話・冒頭)。
 ソロモンの「碑」は、このシバの定義に近い。告白にバラムやウェパルが絶句するように、ここにはソロモンの「個」としての在り方はどうなるのか、という問が発生する。そしてここから七章冒頭のモラクスの流涙と、「同世代」との交流が描かれる。

ラク
「…俺には…さぁ
あのときの…アニキの碑の話、
よくわかんなかったんだ
(……)でも、なんかすげぇ
悲しいこと言ってるってのは
わかった
(……)アニキが笑うときってさ、
俺と出会う前とは違うのかなって
考えてたんだ、あれからずっと
(……)泣くときもさ、怒るときもさ、
グロル村にいたときの
アニキとは違うのか?」

ソロモン
「…わからない
同じような気もするし、
違うような気もする…」

(……)

ラク
「俺さぁ、昔からな~んか
気持ちがウソなのは嫌なんだ
だからアニキが無理して
嗤わなかったり、泣かなかったり…
…逆に自分にウソついてまで
笑ったりすんのだけは、なんか…
なんか、すげぇ嫌なんだよ
(……)前と同じでなくたってさ、
気持ちがあるんなら…それが
ウソじゃなきゃ、いいじゃん!」
(第61話・3)

 この後にも会話は続くが、いずれにせよソロモンは決して「気持ち」を捨てているわけではないし、「碑」として「ウソ」の笑いを浮かべ続けていたわけでもない。ただし、マイネの言葉を借りるならば、6章の戦禍において、ソロモンは決して「無事に助かった人」ではないのである。6章は、十代後半の「少年」への負荷としてはあまりに重過ぎる経験が続く。ウェパルの死、王都民との対峙、そしてハーフェンに代表される、救えなかった者の遺族への直面。メギドは会話劇が主体なので、正確な心理は意外と把握が難しいのだが、6章3節でソロモンが「碑」としての自分を語ることには、ある種の心の殺し方があったと思う。心を殺さなければ到底生き延びられないような、苛烈な出来事が続いている。

 あれは、ハーフェンへの語りでありながら、同時に自分に言い聞かせる動作だったのではないか。
 ソロモンとモラクスの対話は、気持ちがあるかどうか、という話に続く。一個人としての気持ちを殺すのが「碑」である。7章1節のソロモンは、それまでの本編と比べて、「気持ち」を見せる。バンキン族の処遇をめぐってブネとも対決するし、その軽率さを咎められることもある。でも、まずはそれでいい、というのが7章1節の物語だと言っていい。まず自分を通す。そのうえで「自分を疑う」という主題が続くのが、7章2節の物語である。

 そしてこの6章から7章の「気持ち」の在り方には明らかな飛躍がある。だから、それをブリッジする話が必要となる。それが、『折れし刃と滅びの物語』が占める立ち位置でもある。言葉遊びのようでもあるが、「碑」とソロモンが口にするとき、それは「刃」のひとつの折れ方であった、と思う。
 だから、ウェパルがリジェネレイトした姿で登場したことには意味がある。ソロモンが「碑」という言葉に初めて出会うのはその死の直後であり、再生こそ達成したが、ハーフェンの怨恨の深さを思い知らされる出来事でもあった。心を殺し、「碑」にならざるを得なかった遠因でもあったと言える。
 製作側が意図したか否かはともかく、物語の姿に正確に沿った演出である。私は意図がある方で取りたい。
 時間さえ明示しておけば、『その交渉は平和のために』のように、リジェネ前の姿で登場しても問題はなかったはずなのだから。
 
 前置きが長くなった。本編を読み直していこう。
 ソロモンの物語で特に重要な場面は、まず石星坑道のガスのなかで見る幻覚だ。シャックスの姿形を借りて、「心の奥にある無意識の叫び」と説明される通り、このとき幻のソロモンが語る言葉は、彼自身が無意識に六章ののちに考えていたことと見なしていいだろう。

ソロモン
「…お前はなにができる?
(……)暴力は好きか?
蹂躙は好きか?
メギドの長になって
他者を使役し、他者を踏みにじる
他人任せの暴力は好きか?
(……)かりそめの王として謙遜しつつ
その裏では圧倒的な部下の力に
酔いしれている偽物が…お前だ
(……)お前はすでに力に酔ってるんだ
(……)お前は自分では
なにもしない「卑怯者」だ
危険なことは手下どもに任せて、
自分はいつも安全な場所にいる…
「腰抜けの王様」だ
(……)お前は、自分1人じゃなにも
できねえ無力な存在なんだ…」
(第02話・1) 

 この無意識の疑いを要約するならば、①自分はメギドラルの軍勢という他者相手に力を振るうこと自体に快楽を覚えていないか、②自分はメギドに力を振るわせるだけの無力な存在なのではないか、というところだろう。裏返せば、前者の疑いがあるからこそ、ソロモンはメギドラルと落とし所を付けなくてはならないという七章の発想に至れるのだろうし、後者は、だからこそ「碑」として出来る限りを尽くす、という意思に繋がるはずだ。
 ここで見落としてはいけない、さりげないが重要な記述がある。第1話のマルファスの言葉である。

マルファス
「昔はあの村で「山」に入って
「石」を持って帰ってくるのが
通過儀礼」だったらしいんだ
(……)それをすれば大人だって認められる
儀式みたいなもんだよ」
(第01話・3)

 なぜガスの充満する石星坑道が通過儀礼の場となるのか。あくまで本編で語られているのは石の希少性によるのではないか、という推測のみだが、そこでは自身の「無意識の叫び」が問われる。自己への疑い、理性で抑圧した、他ならぬ己の受け入れがたい醜さに、直面させられる。あくまで通過儀礼は数十年前の風習であり、そのころはガスの影響も然程なかったのだろうが、いずれにせよ、ソロモンが辿るのはそうした苦難の過程である。
 滅びを受容し、それを望んですらいるようなデオブ村の人々を救うのは、果たして正しい選択なのか。それは、単なる自分のお節介、傲慢、エゴなのではないか。下山したソロモンが悩む問もまた、自身の行為への疑い、自分を疑うという動作のなかにある。
 坑道に並ぶもうひとつの儀式の場がある。「瞑想の小道」だ。

アガレス
「ここはデオブ村の成人が
儀式のために使う場所なのだ
自らを高め、自らに問う地だ
(……)道に迷ったものはここで茶を飲み
自らに問い、答え、道を探す…
「運命」の扉を開くために」
(第03話・4) 

 神秘の松明を救うべきではなかったかと後悔を語るソロモンを、オリエンスが「バッカみたい」と一喝する。

オリエンス
「「他者を重んじる」って言うけど…
そのために自分が軽くなったら
本末転倒じゃん
「他者」ってのはね、「自分」が
しっかりと確立してるからこそ
存在するもんなの
ヒトのこと考えすぎて自分が
不安定になるぐらいなら、最初から
ワガママ通してりゃいいのよ」 

 他者を重んじることが出来るのは、まずは自分の意思を確立してから。
 自分の意思よりも他者を重んじることは「本末転倒」なのだという言葉を、ソロモンは「沁みる」という。
 素朴な正論だ。でも、自らの心を殺し、軍団員という他のための「碑」になろうとしていたソロモンにこの言葉を発せたメギドは、オリエンス以外には居なかったのではないかと思う。オリエンスがこう語れたのは、彼女が余所者の「超新星」だからだ。
 このことは、同じ第03話・2で、オリエンスがソロモンたちの議論がついていけない描写でも強調されている。
 
 なぜ、外部者だからこそ語れたのか。
 それは、オリエンスが六章の戦争体験に巻き込まれたソロモンを、一切知らないからだろうと、考える。彼女は、自分の意志を殺して他者のために尽くそうとする在り方が、ソロモンなりの心の守り方だということを、まったく認識していない。
 それこそ、事情を知らない、余計な「お節介」とも、ひょっとすると呼べるかもしれない。
 たとえば、同じ六章と七章の繋ぎ目となるイベントに、『魔獅子と聖女と吸血鬼』がある。ソロモンとイポス率いる傭兵団に復讐を試みたココは、第2章の王都包囲戦で家族を失い、その感情のぶつけ所を見出せなかった。第50話・冒頭で、ウェパルの死を知らされた王が、たとえヴィータであろうと刃を向けた以上は敵だ、と言い切る場面がある。実際にはエルプシャフトの刃がハーフェンに向けられることはなかったが、ココは、6章のハーフェンが辿り得た姿でもある。重要なのは、ココの動機を、イポスが配慮してソロモンに伝えない、ということである。話の順番としても、ハーフェンの説得に成功し、復讐のために同類を複数殺め、すでに説得不可能なニコとソロモンが対面するのは今更の感もあるが、説得可能な遺族/説得不可能な遺族、というバリエーションは、メギドらしい羅列とも言える。あくまで推測に過ぎない。でも、イポスの行ったような配慮が、これまでにも軍団内にはあったのではないか。「碑」の決意を語ったとき、バラムやウェパル、モラクスを含めたソロモンに近しいメギドたちは、みな絶句していたのだから。
 
 己を捨てて「碑」になろうとしたソロモンに、戦禍を知っている軍団員が「自分を大切にしろ、自分の感情をまず優先しろ」と伝えることは、とても難しい。その問題をおそらく認識しながら、ソロモンと同年代を行動させるよう配慮する、という間接的な関わり方しか出来ないブネの不器用さが、その困難を物語っている。「自分の感情をまず優先しろ」といっても、王は王なのである。
 7章冒頭のモラクスとソロモンの軽率な行動について、彼の感情は理解しつつも、まずは叱責するしかない。
 そういう苦い、責任ある「父」の立場に置かれているのが、ブネである。
 ブネはしばしば損な立場を引き受ける。ソロモンと共に歩める者は複数いるだろうが、彼を叱責出来る者、「王」としての責任を問うことが出来る者は希少である。だから、ソロモンがウェパルの死に打ちのめされた場面ですら、「強くなれ」という、ともすれば無情な言葉をかけるしかない。
 時間を待つぐらいが、常識的な選択だろう。でも、それが出来る状況ではない。
 厳しい正論しかブネは口に出来ないし、またそれを伝えられるのは、ブネ以外にはいないのである。
 
 オリエンスの発言はありふれた正論だ。でも、だからこそ外部者である彼女にしか発話出来なかった。
 新規メギドの紹介と、リジェネの物語を同時に語ることは難しい、と最初に書いた。それは、新たに登場するメギドを、物語のどこに位置付けるかの判断こそが難しい、とも言い換えられる。『折れし刃と滅びの運命』は、オリエンスが新参者であること自体に、物語での意味を与えている。
 面白さでは「物語」を導くフルーレティのほうが上かもしれない。でも、これまでにない、間違いなくスマートな解法だったと思う。

 人は立場に応じた言葉しか語れない。ある人にとって「沁みる」言葉が、どれほど凡庸であっても、選ばれた誰かにしか語れないことがある。
 あるいは、こんな言い方も出来る。寄り添うこと自体は、誰にでも出来る動作かもしれない。しかし、選ばれた者にしか寄り添えない時がある。
 オリエンスは、余所者であるからこそソロモンにその言葉を口に出来た。だが、外部者であるソロモンは、村人に同じような効果的な言葉は発せない。このあたりが実に慎重だと思うが、たとえば第04話・冒頭の、石のために村人があるのではなく村人のために偶然石があったに過ぎない、というソロモンの正論に、その通りだ、と村人が納得する場面は(災いを止めた後ですら)ないのである。職人・氷の人はソロモンが村を守ろうとしている意思に敬意を払うのであって、あくまで論理に説得されたわけではない。これはバルバトスが、洪水による滅びの哀しみを和らげるために「もっともらしい理由」をつけたのだ、と分析して語るのも同様である。というか、彼らだけでは、父に死なれた子の問には応えられないし、寄り添いも出来ないのである。
 洪水を止めたのはあくまでソロモン達の行いだ。しかし、この「滅びの運命」に際して村人に寄り添えたのは、アガレスのみである。

 劇中でのアガレスの意図はとても分かりにくい。そもそも本人が明確に意図を語る場面が少ないし、さらにその目的は分散して説明されている。
 そもそも、なぜアガレスはデオブ村を訪れたのか。

アガレス
「あの村は近いうちに滅びる
そういう運命にある
(……)私はその意志を受け取りに来た
村が滅びた際、近隣の村や町に
そのことを伝えてほしいと」
(第01話・4) 

 第一の目的は、メッセンジャーである。滅びの運命が迫ったとき、石の民はそれを受け容れるという掟と共に生きている。村人が全滅したとき、後にその地へ集う人々に掟を継承させるための語り手が必要だろう。アガレス自身が、「各地に散った石の民の末裔が、またこの村で暮らし始めるだろう」(第02話・END)と語る通り、村の外で暮らす民のなかにも、滅びの事実を知って帰郷しようとする者がいるはずだ。
 もちろん、目的はそれだけではない。

ソロモン
「アガレスがこの村にいたのは…」

アガレス
「本当にこの村が滅びの「運命」を
辿るのかどうか…
私はそれを知りたかった
だからこの村のことを…
歴史や伝承を調べていたのだ」
(第02話・END) 

 歴史や伝承だけではない。山を実際に調べてデオブ村の滅びの原因を最初に突き止めるのもアガレスだ(第03話・2)。彼はシャーマン風の装いで、言葉遣いが抽象的なために予想しづらいのだが、その分析は合理的である。ガスと洞窟の傾斜から掟の意味を素早く読み取り、(ソロモンの気付きという形式を取っているために分かりにくいが)幻獣が森の獣を捕食出来ずにいることから、土地のフォトンの枯渇と洪水、そして夜輝石が再び採取できるようになる仕組みも正確に把握している。そのうえで、「滅び」を看過すべきなのか、自らに問い続けているのである。

 この立ち位置は特異だ。彼はソロモン・バルバトス・マルファスのように理に適った分析はするが、導き出された論理で村人を説得することはない。むしろ、その意思を尊重すべきではないか、という真逆の位置に一度立ちさえする。だからこそ、彼は村の滅びを止めようとそのメカニズムを分析しながらも、同時に長の死にも寄り添うことが出来る。この特異さは、村を滅ぼされた一族唯一の生き残りであることを思うと、一層際立つ。

アガレス
「思えば「らしくない」ことをした…
自分でも…そう思っているのだ…
だが…私は彼らの滅びの運命を…
彼らのように…甘受できなかった…
我が一族は一夜のうちに滅んだ…
幻獣の襲来により…成す術もなく…
辛うじて私1人生き残ったが…
どこかで…悔やんでもいた…
誰1人守り切れなかったことに…
だからこそ…我が一族に連なる…
デオブ村の民を…救えぬものかと…
ふふふ…なんと傲慢な…」
(第05話・3)

 アガレスは生き残った者のサバイバーズ・ギルトに苦しめられてきた。より重要なのは、その想いをソロモンに直接語ることは決してないが、彼もまた、自らの「傲慢」な「お節介」が正しいのか、悩み続けていたことである。ソロモンとアガレスは、共に幻獣によって滅ぼされた集落唯一の生存者であり、共に自らの行いを「傲慢」ではないかと己を疑い続けている。自分は本来はたまらなく無力な存在なのではないか、というソロモンの問は、運命の前には無力なのではないか、というアガレスの問に似ている。
 二人は鏡合わせの似姿である。
 だから、ソロモンが悩むとき、すなわち疑いから自らと戦うとき、彼はアガレスと戦闘することになる。自己格闘としての疑いを、ゲーム的に表現したとき、ソロモン対ソロモンではなく、似姿であるソロモン対アガレスとして描き直す。そういう演出だったと思う。
 無印のキャラエピでアガレスは、「誰も自分の運命には逆らえない」と断言する。「運命に抗い続ければ、更なる破滅の運命を招く」だけとして、盗賊を狩り続けるアガレスが目にしたのは、滅びの運命を与える己の姿を前に逃げ出した野盗の頭だった。野盗は自らの力で運命を覆したのか、それがヴィータの持つ力なのか。だとすれば、ヴィータに転生した己にも、その力が備わっているのか。そうした問を経て、アガレスは森を出る。初期のテキストなのもあるが、これはハルマゲドンという滅びの運命を変えるための旅立ちである、と素直に読むべきなのだろう。
 『折れし刃と滅びの運命』で新たに語られたのは、アガレスが、父の予言で一族の滅びの運命から逃れ去った者だという設定だ。滅びから逃げた者、という意味では盗賊の頭とアガレスは変わらないのである。ここにも鏡合わせの運命が用意されている。
 ソロモンが苦しんだように、アガレスもまた、その傲慢を単なる「慰め」ではないかと思い悩んだはずである。
 アガレスの物語とソロモンの物語は、共に同じ問題に悩む者であるが故に、同時に語らねばならなかったのだと思う。

???
「…デオブ村とグロル村を重ねて
自分を慰めてるのか?
お前が「取りこぼした」命の
代替品として…あいつらを
助けようってのか?」

ソロモン
「…そうじゃない
(……)デオブ村の人たちにだって
「生きてて良かった」って思える
日常があるって信じてるだけだ
(……)命を拾ってそれでも死にたいなら
後は好きにすればいいさ
(……)俺は…間違ってるか?」

???
「お前がそう思うのなら…
好きにすりゃいいさ
(……)…じゃあ足掻いてみな
傲慢な王様よ…」
(第05話・2) 

 繊細なやり取りだ。石の民に「生きてて良かった」と思える日常があるかどうかは、余所者のソロモンには予知のしようがない。あくまでそれは正誤の問題ではなく、信じるか否かの問題であり、そう想定すること自体が「傲慢」なのである。いくら悩み続けても、「傲慢」は免れ得ない。

 しかし、次のように言い換えることも出来る。己が「傲慢」であることを直視出来なくなったとき、人はまさに傲慢そのものになるだろう。

???
「(……)悩むことを止めるな…
常に疑問を持て…自分を疑え…
悩むことを止めたとき…
お前の「傲慢」さは他人に害なす
刃となることを忘れるな…」
(第05話・2)

 自己への疑いは苦い。だが「疑う」という動作は、もはや最初の幻覚の場面のような、単なる自己否定ではなく、「傲慢」であることの直視、「他人に害なす刃」になる手前で立ち止まるための内省に、同じ言葉のままで意味が変じている。
 これは石の民が、「滅び」という語の意味を、同じ言葉のまま変えたのとも、パラレルである。

ソロモン
「俺のしたこと…
余計なお節介だったかな?」

氷の人
「…そうかもしれん
だがそれでも構わない
どの道、我らの村はもう「滅びた」
(……)我らが重んじていた「石」は
なくなり…「石」に関する掟も
もはや意味をなさなくなった…
(……)デオブ村は一度「滅び」た
だが、それは新たなデオブ村として
生まれ変わるために必要だったのだ
(……)我らの部族にとって…
「死」は、なにも生まぬ無ではない
再生の予兆だからな」
(第05話・END) 

 ここでの「滅び」は、生命の滅亡から、再生の契機として捉え直されている。重要なのは、デオブ村が取り尽くした夜輝石を再度採掘出来るまでの「滅び」のプロセスにも、最初から「再生」が読み込まれていたことである。ただし、かつての滅びが洪水による生命の滅びであるならば、ここでの「滅び」は、過去の因習からの脱却として読み替えられている。

 この地点から読み返すならば、ソロモンの「通過儀礼」とは次のように整理出来る。それは己を疑う自分をまず否定し、オリエンスに自己の確立を説かれ、疑う自分そのものを肯定する物語である。疑いの苦みを受け容れ、苦い思考を続けること。それが「大人」である、ともいえる。
 この内省としての疑いは、第7章の「オジサン」すなわちベルフェゴールという大人を通じた「疑い」の物語へ橋渡しされるはずだ。

 因習からの脱却は、断じてすべての「古き掟を否定するわけではない」。
 掟に従って石に寄り添ったからこそ、子供は洞窟のどこを砕けば大洪水を避けられるのか瞬時に読み取ったのである。フォカロルが「古いメギドたちの考えの中にも取り入れるべき点はあるし、そうでないものもある」(第03話・冒頭)と語ったように、そこには叡智がある。デオブ村の掟は単に「頭ごなしに否定される」ようなものとして描かれていない。何故長が最後まで予言を出来たのか、そのメカニズムは明らかになることなく超神秘的な力として描かれたままに終わるし、また村の因習にもっとも否定的であったマルファスですら、終盤には「彼らの風習や言い伝えはあながち馬鹿にできない
ってのも事実だよ」「迷信のように見えても、それは長年の経験に裏打ちされた確かな「知識」だったりするんだ」と肯定している(第05話・1)。
 では、掟に殉じた死者についてはどうなのか。

聖なるまやかし
「僕の父さんは間違ってたの?
ウソのために死んだの?」

アガレス
「いいや、間違っていない
彼の死は多くのものを動かした
…決して無意味な死ではない
むしろこの村で一番の功労者だ」
(第05話・END)

 実はこの問は、二度繰り返されている。最初の問は、長とアガレスとの対話である。

部族の長
「これまで…幾度となく…
滅びを…享受してきた…ワシらの…
祖先たちは…ただの愚か者なのか…」

アガレス
「(……)オマエたちは…間違っていない
死ねばフォトンは大地に還り…
そして巡ってゆく…
その循環は…正しい道だ…
自然は常に死を運んでくる…
無数の手段で…魂を…フォトンを…
大地に…戻そうとする…
だが…同時に生物は…
死から…逃れようと抗う…
それはすべての命が持つ本能…
オマエは…よく戦った…
おそらくはオマエたちの祖も…
よく戦った…ことだろう…
その結果…もたらされたのが…
滅びだとしても…それは…
それこそ…「運命」というもの…」
(第04話・END) 

 繰り返された問の何が違うのか。もちろんリジェネレイト前後なのはあるが、より重要なのは問われる者ではなく、問う者の立場である。第一の問はこれから死へ向かう者の問であり、第二の問は死者に残された者の問である。アガレスは長との対話においては生命の循環としての死を語り、長の戦いと終焉を肯定する。遺児との対話においては、石の民を衝き動かした父親の死を肯定し、終焉を意味付けるための生の価値を物語る。
 この第二の問への答えには、かつて父に先立たれた己への語りも含まれるだろう。彼の運命はいつも鏡合わせなのだ。
 そして(アガレスが実際に思っていたかはともかく)長の死への肯定も含まれている。物語の終盤、「予定外のポイント」からも水が溢れ出している描写からすると、わずかな時間差が命取りになった可能性は高い。作劇上の演出とも言えるが、仮に長が囮にならなければ、大洪水は止まらなかったかもしれない。いずれにせよ、死者と遺族との心の傍に立ち、戦いとしての生の果ての死と、死から読み直した生のいずれをも肯定するアガレスの姿は、どこか魂に寄り添う宗教者にも似ていると思う(こういうことが出来るメギドは、登場人物ではアガレスが唯一かもしれない)。
 だが、よりにもよって逼迫した事態のなかで、アガレスがソロモンが「壁」として立ち向かったのは何故なのか。

アガレス
「「死」も…「滅び」も…
すべては運命なのだとしたら…
抗うことも運命ならば…
抗ったところで報われぬのも…
また…「運命」…
(……)私は…確かめねばならん…!
「運命」を…乗り越えるとは…
どういうこと、なのか…
抗えぬはずの「滅び」に…
抗うことが…そもそも可能なのか…
そのために、私は…
私は…ここにいる…!
来るがいい…召喚者よ…!
私こそが「運命」…
オマエが抗うべき…立ち向かうべき
最後の…壁だ…!」
(第05話・3) 

 運命を乗り越えるソロモンの姿を間近で見たいだけなら、最初から同行すれば良いだけの話だ。切迫した状況下でのアガレスの行動は、抽象的な理由付けをいくら積み重ねようとも、現実的には傍迷惑そのものである。ガスの中で自分の似姿と戦っている、(ソロモンがそうしたように)それこそ自分の迷いを打ち払うために必要だったのだ、といっても迷惑には変わらない。作劇の粗さと取るのもいい。というか、それが自然である。
 でも、ここはあえて、それでも敵として立ち向かわねばならない理由があった、と取りたい。だから、ここからは解釈である。
 まず、長の死の場面を振り返らなくてはならない。囮となり傷付いた長に、アガレスはソロモンたちが山へ行く時間を稼いだのではないか、と問う。長はそうではない、と明確に否定する。その心情は結局語られることはないが、あくまで予言の死の場面に従っただけのようにも見える。
 ただし、長は最後に、デオブ村を頼む、と遺言を伝える役目をアガレスに託す。そもそも彼の役割は滅びのメッセンジャーである。
 ところがアガレスの伝言はこうだ。

アガレス
「長は命を賭して…時間を稼いだ…
オマエたちが…洪水を止めるため…
の…時間を…」
(第05話・冒頭)

 よく読むとおかしな場面である。
 これはアガレスが都合よく解釈しているのではなく、長の心情が両義的なのだと取りたい。予言は絶対であり、滅びを免れることは出来ない。しかしその滅びの意味が変じるならば、民の命も助かるかもしれない。でなければ「村を頼む」という遺言は残せないはずだ(自分のように看取ってくれ、という意味かもしれないが)。ここでの長の依頼とは、遺言の伝達役であると同時に、「滅び」の意味を変えてくれ、という願いにも近いかもしれない。
 彼女は因習に従って民が幻獣に身を投げ出すことを肯定した一方で、滅ぶはずの村の今後を最後まで想う。アガレスがソロモンに伝えたのはあくまで前者の意志に過ぎない。時間稼ぎのために死ぬのではない、と否定したことを伝える意味は、たしかにここではない。
 だが、たとえソロモンたちが山に向かう手助けをしたといっても、村人たちを死へ向かわせた事実は消えない。

 私の結論は、あそこで敵として立ち向かったアガレスは、長のように過去の因習に従った死者たちに最後まで寄り添おうとしたのではないか、というものだ。大洪水による滅びが完全に無意味でしかないのだとすれば、死者たちの想いもまた何の意味もない無駄死にとなるだろう。
 たとえ村が因習を脱却するとしても、誰かが石のために殉じた者の魂に寄り添わねばならない。これが出来るのは、滅びの意思を肯定する立場と、否定する立場の両方に同時に立つ、その狭間で迷い続けたアガレスのみである。後者がソロモンならば、彼は前者の位置に立つことを試みた、と言える。
 人数差と体力からして、アガレスがソロモン達に敗北するのは必定だ。
 だが、それでも、大洪水による滅びを肯定し、時に人にそれを推し進めさえした死者の立場に立たねばならなかった。それは力無き村人ではなく、かつて予言によって滅ぶはずの運命から逃れ出た者である自分が引き受けるべきなのではないか。戦いに負けたのであれば、そしてそのために自分が死んだとしても、それはまた「運命」のはずだ。このとき、大洪水に呑まれた過去の死者たちも、正々堂々と負けを認められるはずである。少数民族のシャーマンに育てられた、という無印の設定文がある。シャーマンの定義などあるわけもないが、魂に寄り添う人と読めば、私はこの戦いには納得がいく。
 そんなことはテキストのどこにも書かれていない。また村を滅ぼしたソロモンに語るようなことでもない(だから、その理由は正確には語られなかった、と解釈したい)。しかし、長の遺志を尊重することは、滅びに殉じ、それを推し進めた祖先の死者たちの魂をも尊重することと同義のはずだ。
 長がアガレスに問うのは、自分を含めた過去の死者たちが間違っているのか、という問なのだから。

 書きたいことはおおむね書いたので、最後にほんの少しだけ。
 メギドのテキストは、私は書き手が相当自由に書いているのではないかと推測している。
 というのは、『折れし刃と滅びの運命』の物語の構造はあまりに複雑だからだ。ソロモン・アガレス・石の民の物語が並列され、ソロモンにおいては「疑い」の意味が、石の民においては「滅び」の意味が転じる流れが同時に語られ、おまけにオリエンスの活躍が差し挟まれ、アガレスの意図に至っては各話ごとに分散されて説明される。確かにエンタメ、ソシャゲのシナリオとしてさらっと読み流せる面白さはあるのだが、一方でゆっくり読むと、いつまでも読み終わらないぐらいの濃密な情報量がある。孤高の個として生きていたフォカロルが、転生して兵士となり、集団で戦うことを知った結果としてオリエンスと通じ合えるとか、今回の旅に同行するのがオセやキマリスといったエルプシャフト文明圏の外側の住人であることとか、まだまだ書けることはたくさんある。というか、あってしまう。
 さっと読み飛ばせるぐらい分かりやすく単純だが、細部に目を凝らせば途端に分かりにくくなる……というのは、読み応えのあるテキストの理想形であると同時に、ソシャゲのシナリオとしては不可解ですらある。ともすれば、読み手の受け取れる情報量を高く見積もり過ぎている、とも言える。
 たとえば、「アガレスの意図が非常に分かりにくいので整理してください」というオーダーが注文側からあれば、それをひっくり返すのは非常に難しいはずだ。一方で、ではたとえばアガレスが己の心を「分かりやすく」説明するかというと、私は過去のテキストを読む限りでは否だと思う。キャラクター性の尊重とは玉虫色の言葉で、受け取る側がそう受け取れなければかえって火種になるだけだが(し、それをテキストで重視しているなどといった発言は、記憶の限りではないし、忘れているならば、その程度ということだろうが)ここにはアガレスらしい語りの無骨さがあるな、と個人的には思う。
 
 メインストーリー6章と7章の「間」を書くということも、本来であればどこまで必要性があるかは疑わしい。「碑」から村の少年としての己を取り戻させる、という動きには明らかに飛躍と乖離がある。幻獣に村を滅ぼされたソロモンがバンキン族を殺さぬ道を選ぶのも同様であり、だから『さらば哀しき獣たち』という物語が必要ではあった。『折れし刃と滅びの運命』最後のソロモンの笑顔は、7章冒頭(第61話・3)の全部が全部グロル村に居たときの笑顔とは違うわけじゃない気がする、というソロモンの発言にも繋げられるだろう。その飛躍の過程を尺の限られた本編で物語るのは難しいだろう。だが、だとしても別に間奏など差し挟むことなく、強引に物語をそちらへ動かしてしまえばいいのである。
 でも、その馬鹿丁寧な余剰、こだわり、情報量の過多こそが、物語と登場人物に活力を与えているといっていい。
 情報の過多は、それを受け取るユーザーを信じ切っているとも言える。物語の登場人物が生きているように息づいている、なんてありふれた理想形、使い古された定型表現、そして私個人の勝手な感想に過ぎないけれど、そんな素朴な体感で、今回の感想については終わりにしたいと思う。