メギド72 『見習い女王と筋肉の悪魔』には何が書かれていたのか

 『見習い女王と筋肉の悪魔』お疲れ様でした。今回のイベントシナリオについては、特にウァプラのキャラ像をめぐって活発な議論を見ました。私も議論や感想のいくつかを読ませていただいて、あらためて『見習い女王と筋肉の悪魔』を再読する機会になりました。

 

 いくつかの感想にもある通り、たしかに粗やわかりにくさはあるテキストだと思います。ただ一方で気になったのは、そうした感想には、原作に確かに書かれているはずのことが、あたかも書かれていなかったように記載されているものがいくつかある、ということです(逆も然りです)。原作との解釈違いは他人の自由で、他人の感想はどう書こうが自由なので、その感想にケチをつけるのは根本的には暴力的な行為です。ただ、そうした文章がインターネットで流通するなかで、(ややダーティな手段を使わなければ)再読出来ないシナリオについて誤った事実を書いているのだとしたら、ちょっとどうなんだろう、とは思ってしまいました。今回読まなかった人は検索したらそうした感想が最初に目につくわけだし、また読んだはずでも「あ、そういう話だったんだね……」という認識が広がっていきます。

 

 誤った事実とは、「書かれていたこと」が「書かれていなかったこと」になっている、あるいは「書かれていなかったこと」が「書かれていたこと」になっている、ということです。ただし、そのような誤認が誘発されてしまうのには、やむを得ない事情もあると思われます(後述します)。
 とはいえ、原作に書かれているはずのことが書かれていないことになり、書かれていないことが書かれていることになってライターが批判される事態は、私個人としてはちょっと思うところがあります。ですので、ひとまず『見習い女王と筋肉の悪魔』を再読し、特に読み落とされているのではないかと思われる部分について、二箇所だけ補記しておくことにします。

 

 第一は、イベントで描かれたウァプラの家畜への考えはどのようなものだったのか、というものです。
 具体的には、食肉は是であり、酪農は否であるというウァプラの考えが語られている場面について、読み返しておきます。
 第二は、ウァプラは牛を野に放とうと提案したのは、どのような場面であり、かつ、どのような考えであったか、というものです。

 

 実際には、粗がやや目立つとはいえ、『見習い女王と筋肉の悪魔』は語るべき部分が多いテキストだと思います。
 ただ、たとえば「ウァプラがザガンと闘牛をめぐる対話で沈黙するのはなぜか」とか、「なぜ物語のハッピーエンドが牛乳で結ばれるのか」あるいは「なぜウァプラの物語が、女王候補、そして理術研究院の計画についてのエピソードと共に語られるか」については、まずは原作に書かれたことを再確認したうえで書こうと思います。それだけの慎重さは必要になるテキストで、でなければこれほど活発な議論は置き得なかったからです。
 したがって、先にこの二箇所について書いておきます。

 

 この文章を読んだ方は、何らかの手段で原作の再確認をしていただけると嬉しいです。
 結局、他人の眼に物事の解釈を任せるより(たとえば「これは6章2節とのキャラ像にズレがあり、外注の弊害だ」とか「こいつが言っているからたぶんそうなんだろう/そうじゃないんだろう」とか)自分で読み直すのがいちばんだと思います。

1.ウァプラはなぜ食肉を許容し、酪農は許容しなかったのか


 ウァプラが「食肉」は許容するけれども、一方で「牛乳」は飲まない、すなわち酪農は許容出来ないのは何故か、そうした自然保護精神に一貫した理由を読み取りづらい、との感想を見ましたので、こちらについて確認します。
 まずウァプラが「食肉」について語る場面は次の通りです。

 ウァプラ
「…あの牛は、家畜だ」

ウァプラ
「本来、自然にあるべき動物を捕らえ
自分たちに都合のいいように囲う…
アレはヴィータのエゴの象徴だ」
 
(……)

バルバトス
「…ひと口に家畜と言ってもいろんな種類があるじゃないか
あの牛は見たところ乳牛だろ?
だったら殺されるために飼われてるってわけじゃない
キミがそこまで嫌悪するようなことじゃないと思うけど…?」

ウァプラ
「…そんな屁理屈はどうでもいい
家畜を飼うヤツはおしなべてクソだ」

バルバトス
「だけどキミだって肉は食うだろ?
家畜はダメで、それはいいのかい?」

ウァプラ
「…それは生物として正当な手段で正当な獲物を得ているだけだ
家畜を食い物にするのとは違う」

 食肉はするが牛乳は飲まないとは、「食肉」は許容するけれど「乳牛」の飼育すなわち酪農は容認出来ない、ということです。ウァプラが食肉を許容するのは「生物として正当な手段で正当な獲物を得ている」からです。「正当な手段」とは、この場面で直接的な記載はありませんが、自然に思い当たるのは「狩り」でしょう。リジェネレイトのアジト内台詞でもウァプラは「俺も狩りくらいはする…だがそれは食うためだ」と発言していますから、これはやはり「狩り」と考えて問題ないはずです。

 

 「正当な手段で正当な獲物を得ている」食肉=狩りが容認され、「自然にあるべき動物を捕らえ自分たちに都合のいいように囲う」酪農が容認されない精神は、果たしてどういう論理=倫理のもとに成立しているのか。もっとも参照しやすいのは、6章2節のアンチャーターに対するウァプラの態度、そしてウァプラ自身の言葉です。苦渋の末、アンチャーターの機能停止を選んだ(というより選ぶしかなかった)ソロモンが、ウァプラに問います。

ソロモン
「…俺、間違ってないよな?」

ウァプラ
「フン、知るかよ
ただ…いいか
…「ただ、そうできるから、する」
命ってのは、みんな、そうなんだ
そいつはテメェも含むんだぜ
道理とか正義とかをふりかざして
なにかを滅ぼして当然だなんて、
テメェが思わなかったのは…
…悪くなかったと思うぜ
命の在り方からはみ出すな
あらゆるものに敬意を払え
俺にとって「そうではないもの」は
悪だからな、覚えとけよ」

 ウァプラにとっての「悪」とは「命の在り方からはみ出」し、「あらゆるものに敬意を払」わないものです。
 「命の在り方」とは、「そうできるから、する」というアンチャーターの言葉を引き継いでいますが、これだけではまだわかりません。
 この「命の在り方」がより具体的に書かれているのは、ウァプラがアンチャーターの「在り方」に憤りを覚えた場面です。

アンチャーター
「私という存在の持つ機能は、
私自身の存続を根底から否定するものなのだ」

ウァプラ
(やっぱり、か…ようやく納得したぜ
こいつにムカつくんじゃねぇ、こいつ自身にはどうしようもねぇってことがムカつくんだ…!)

アンチャーター
「この世界で起動し、生き延びられる限り私は自由を謳歌できる
ただの模倣かもしれないが、「生きる喜び」というものが私にもわかる
誰も傷つけることなく生存を「積み重ねて」いくことは単純な喜び…達成感があるのだ
(…)そこに意味があるかは、私には「わからない」
ただ、そうできるから、する
(…)ヴィータに擬態し、彼らの中に紛れ、平穏に暮らす
「善意」を模倣しながら」

 アンチャーターの運命の何が「どうしようも」ないのか。それはアンチャーターの機能が彼自身の生き続ける世界を破壊することであり、彼の死こそが世界を崩壊から救う唯一の手段だということです。「ただ、できるから、する」とは、すなわち「自由を謳歌」し、「誰も傷つけることなく」「生存を積み重ねて」いくことです。とりわけ重要なのは、「誰も傷つけることなく」すなわち、他者の生命の在り方を歪めない、ということです。
 アンチャーターの不条理とは、まさに自身の機能が「ただ、できるから、する」自然な己の命の在り方を歪めるところにあります。

 「あらゆるものに敬意を払え」とは何を意味するのか。ソロモンが「道理とか正義とかをふりかざ」さなかったことは少なくとも「悪くなかった」のであり、それを受けての説明であることを踏まえれば、これこそが「敬意」に相当するのでしょう。では、なぜソロモンは「道理」や「正義」を「ふりかざ」せなかったのか。世界を滅ぼすことがアンチャーターの本意でないことを知り、一同が衝撃を受けた後の場面を確認します。

アンチャーター
「キミたちが、私に自殺しろと言いたいのはわかる」

ラク
「いや、そんなんじゃっ!! ねえ…けどさ… たぶん…」

アンチャーター
「だが実際にこうして、私は倒されたわけだ
指摘どおり、もう機能停止も近い
(……)…それとも、私を見逃してくれるのか?
これから起動する別のアンチャーターたちも、そのままにしてくれるのか?」

ソロモン
「…………
ごめん、それはできない
俺はただ、これを俺たちの「意思」でやるって…
…道理とか、正義とかで、
アンタが「死んで当然」だって、
そうは言いたくないだけなんだ
ごめん…」

 「死んで当然」と「言いたくない」のが「意思」であり、「死んで当然」と主張するのが「道理」や「正義」です。この二つを対比するとき、前者こそウァプラにとって「悪」に近いものなのでしょう(原文の言い回しは「意思」を示したソロモンこそ「悪くなかった」ですが)。
 なぜならばそれは、「生きる喜び」を日々積み重ねる、アンチャーターの「命の在り方」をこそ否定するものだからです。その「命の在り方」を認識したうえで、「ごめん」と、その命を終わらせる責任を引き受けること。それがソロモンの「意思」であり、倫理であり、「敬意」です。「あらゆるものに敬意を払え」というウァプラの言葉は案外意味がつかみにくいのですが、ソロモンのここでの態度を読む限りでは、あらゆる生物の「命の在り方」を尊重し、(ここまでは書いていませんが、たとえば食肉のように)仮にその命を終わらせるのであれば、相応の責任を引き受けること、を意味します。

 畜産がウァプラにとって悪というとき、「自然にあるべき動物を捕らえ、自分たちに都合のいいように囲う」「ヴィータのエゴ」こそが悪なのです。なぜならそれは、動物の「自然にあるべき」在り方を歪めているからです。「敬意」とは生き物を殺すか殺さないかといったことではありません(それは狩りを容認する点からも明らかです)。あるいは「誰も傷つけることなく」とアンチャーターが語るとき、それもまた生き物を殺すか否か、の意味ではありません。なぜならこの発言は「ヴィータ」の「中に紛れ」たときの意味だからです。「ただ、そうできるから、する」命の在り方=すなわち「自然にあるべき」在り方を尊重することが「敬意」であり、だから、このときのウァプラにおいては、畜産とは「あらゆるものに敬意を払え」という倫理から逸脱した「悪」なのです。

 

 『見習い女王と筋肉の悪魔』のウァプラに「自然保護精神」を見出そうとしたとき、実はイベントのテキストには明確にその「自然保護精神」は書かれていません。ここに書かれているのは「ウァプラにとって何が許容し難い悪なのか」であり、それが「家畜」であるということです。
 ウァプラの「自然保護精神」が理由を以て語られているのは6章2節のこの場面かと思いますが、私にはイベントのバルバトスとウァプラの問答は、「ただ、そうできるから、する」すなわち、自然な命の在り方を重視する6章2節のウァプラの論理を、そのまま引き継いでいるものと思われます。
 なぜ「狩り」は「正当」なのか。6章2節の議論を敷衍するならば、獲物の命に「敬意」を払い、命を終わらせるに際して、相応の責任を引き受けているから、と読むことは可能です。「生態系」からいって上位のものが下位のものを捕食する、という推察も可能ですが、それについてはイベントシナリオおよび6章2節に相当する記述は見当たりません。ただし、畜産は明瞭に悪と断じられていますが、「正当な手段で正当な獲物を得ている」「狩り」が「悪」でない理由は本文内では記載が希薄であるのも確かです。これについては、家畜が主題故に詳説する必要がなかった、と判断は可能です。

 

 まとめます。 
 
1.ウァプラが食肉を許容し、酪農を許容しない理由は、イベントシナリオでは前者が「正当な手段で正当な獲物を得ている」後者が「自然にあるべき動物を捕らえ自分たちに都合のいいように囲う」ものであるからとして、バルバトスの問答で語られている。
2.その「正当」か否かを判断する評価基準については、イベントシナリオ内に読むことは出来ない。ウァプラにとって何が「悪」か否かの判断基準は、6章2節で記述されている。それは自然な「命の在り方」を尊重せず、「都合のいいように」歪めるものであり、畜産はこれに該当する。
3.食肉すなわち「狩り」が「正当」である理由は、6章2節の議論を引き継ぐのであれば「敬意」や「責任」を伴う行為として許容されていることが推察されるが、実際に「狩り」に対するウァプラの態度を描いた箇所はイベントシナリオ内になく、その許容理由については推測の域は出ない。

2.ウァプラの牛は「野に返せばいい」について

 ウァプラがマルチネの牛を「野に返せばいい」と発言したことについては多くの議論を呼んだようです(たとえばメギドポータルのこの議論が参考になります)。感想のなかには「冗談」とするものもあれば、もっと過激なものだと、無条件に家畜動物を「野に返」そうとした、と取るものもありました。
 確かにウァプラは「野に返せばいい」と原作内で発言しています。では、実際にウァプラがマルチネの牛を「野に返」そうとしたのはどういう場面であり、本当に牛を野に返すことを検討していたのか確認します。結論から言うならばウァプラはマルチネの牛を「野に返」すことを検討していますが、ただしそれはある条件下において、です。無条件に野に放とう、というものではありません。

 まず、ウァプラがマルチネの牛を「野に帰」そうとする場面は二回あります。

 先に「野に返せばいい」と発言したほうから読み返します。マルチネが王都の密偵に誘拐されたことが判明し、王都に救出に向かおうと話し合う場面です。同行しようとするソロモンに、ウァプラは森の動物を数多く殺している「獣殺し」を看過出来ない以上、ソロモンは自分と再び森を捜索すべきだ、と主張します。それに対するザガンの反論はこうです。

ザガン
「ちょっと待ってよ、ウァプラ…
マルチネが戻らなかったら、
この牧場の牛くんはどうなるのさ?」

ウァプラ
「野に返せばいい」

ザガン
「本気で言ってるの?
一度、人と共生した牛たちが、
すんなり自然で暮らせると思う?」

ウァプラ
「…………」

ザガン
「キミが家畜を認めないのは自由さ
でも、必ずしも自然で暮らすことが
動物たちの幸せとは限らないよ?」

ウァプラ
「じゃあ森の動物だったら無残に殺されてもいいってのか?」

ザガン
「そ、そういうわけじゃないけど…」

 議論の流れは、最終的にバルバトス単独で王都に向かい、残りの面子で森の再捜索へ向かう結論に至ります。この後、バルバトスが王都までの道のりで獣殺しに殺害された幻獣の死骸を発見したため、獣殺しが森を出た可能性があるものとして、引き返してソロモンに報告します。
 一旦別れたパーティは、王都に獣殺しが向かっているものと推察し、合流して王都に向かうこととなります。

 

 ここで確かにウァプラは「野に返せばいい」と答えています。それに対するザガンの返答に沈黙しつつ、「じゃあ森の動物だったら無残に殺されてもいいってのか?」と問い返し、ザガンの言葉を詰まらせます。ここで問われているのは、「マルチネを救い(=牧場の牛を家畜として生かす)森の動物が無残に殺されるのを見過ごすのか」「マルチネを見捨てて(=牛を野に放ち)獣殺しを倒すことで森の動物の生命を守るべきか」という二項対立です。
 ただし、この二項対立はかなりわかりにくいものです。また、この場面の議論は、そもそもザガンの発言が不自然です。
 どう考えてもマルチネを見捨てることは出来ないし、動物でなくともヴィータに危害を加える可能性も大いにあるわけですから、いずれにせよ獣殺しを看過することもできません。であれば、自然とマルチネ救出と獣殺し捜索にチームが分かれるはずで、なぜザガンがウァプラが「ソロモンは森の捜索に向かうべきだ」と発言したとき、即座に「それでマルチネが戻らなかったら」と仮定の話したのかはよくわかりません。人さらいがヴィータで、獣殺しが幻獣なら、ソロモンが同行すべきは当然後者のはずです。だからバルバトス単独で王都へ救出に向かおうとするわけです。
 だから、そもそもこの議論自体が巻き起こること、すなわち二項対立自体が奇妙です。どちらも見捨てるわけにはいきません。
 加えて、この場面の条件節は、繰り返しますが非常に複雑な書かれ方をしています。 

 

・マルチネを救う→森の動物を見捨てる+牛を家畜のままに留め置く
・マルチネを救わない→森の動物を救う+牛を野に放つ(→「人と共生した牛たちが、すんなり自然で暮らせ」ることはない→死ぬ可能性が高い)

 

 ただし、「野に返せばいい」は「動物にも権利がある、だから無条件で野に返すべきだ」ということを頑なに主張しているわけではありません。
 むしろ実質的にここで問われているのは、「マルチネを救うことで、牛を生かし、森の動物を見捨てるのか」「森の動物を救うことで、牛を殺し、マルチネを見捨てるのか」という対立です。ここは非常に誤解を招きやすい場面です。そもそも二項対立とすべきかは微妙ですし、ウァプラが畜産にそもそも反感がある、という描写がさらに場面を読み取りづらくしています。

 

 ウァプラが牛を野に放とうと検討するのはこれが二回目です。ウァプラが「野に返」す考えについてこれと別の形式で語っているのは、マルチネの牧場を最初に訪れる、一番目の場面です。第一話で一行がマルチネの牛を幻獣から救った後、ウァプラがマルチネを自分でワッカ村に送り出すと言い出します。ブネとバルバトスが「まさかアイツ…村まで言って牧場の牛を全部逃がす気じゃねえだろうな…」「やりかねないかもね…家畜という概念を嫌ってるみたいだから…」と懸念を示します。ウァプラとザガンが、マルチネをムッカ村に送ったその次の場面です。

ウァプラ
「おい…戻るぞ」

ザガン
「ウァプラ…キミ、なにしに来たの?
マルチネと話をするわけでもなく、勝手にどっかに行っちゃうしさ…」

ウァプラ
「…牧場を見て回ってた」

ザガン
「牧場を? なんで?」

ウァプラ
「この牧場の環境が許しがたいほど劣悪だったら…
牛たちを逃がしてやろうと思ってな」

ザガン
「やっぱりそんなこと考えてたのか…
でも、それをしなかったってことは
問題はなかった、ってことだね?」 

 この場面は何気なく書かれていますが、複雑な記述です。
 第一にウァプラは間違いなく「牛たちを逃がしてやろう」と考えていた。ただしそれは「この牧場の環境が許しがたいほど劣悪だったら」という条件付であり、無条件に牛を放つようなものではありませんでした。
 この条件の有無は微妙なようで、とても大きなものだと思います。
 そもそもウァプラはムッカ村の領主なのですから、統治力がどの程度あるにせよ、家畜をいかなる条件下でも許容出来ないのであれば、そもそも畜産を禁ずるぐらいは出来たでしょう。最初に引用したバルバトスとの対話で語ったように、「本来、自然にあるべき動物を捕らえ自分たちに都合のいいように囲う」「ヴィータのエゴの象徴」として家畜を見なしているけれども、ただしマルチネの牧場は「劣悪」ではなかった。両親に先立たれ、人手不足はあるけれども、そのなかで十分に管理をしていた。故に「嫌悪」は残るが、それを「許容」することは出来る、ということです。

 ただし、ここでは牛を野に放つことで果たして野生環境で生きていられるのか、という議論はされませんし、そもそもウァプラが家畜動物を野に放って問題ないのか把握しているかどうかは本文中からは読み取れません(もっとも知らないわけがない、と個人的には思うのですが)。


 「劣悪な環境で虐げられているよりは、たとえ死の可能性が低くないにしても別の環境に生きる選択肢を与えたほうがマシだ」ぐらいの発想はあるかもしれません。また、仮に牧場で牛が虐げられていたとすれば、ウァプラが何の行動も起こさないとは考えられません。ウァプラの使用人はディオひとりであり、慢性的な人手不足なのですから牧場を自身で管理することは現実的ではありませんが、他の選択肢のひとつに「野に放」つことは含まれるでしょうし、あるいは牧場主の処罰や、管理者の強制変更を検討するかもしれません。ただ、いずれも推測の領域を越えません。
 
 メギド72のテキスト全般に言えることですが、こうした複雑な情報を非常に少ない語数で書くところがあります(しかも、きわめて平易な言葉で)。ソシャゲのテキストなので当然読み易い。それはUI上語数が絞られていることとも無関係ではないのだけれど、故にちょっと立ち止まって読まないと、読み逃す情報というのはあるのだろうと思います。いずれにせよ、この二つの場面のウァプラは、無条件に(言い換えれば、考え無しに、いかなる条件も考慮せず)牛を野に放とうとした、というわけではありません。一方で「冗談」でそのように発言したわけでもありません。

 

 何故ウァプラが無条件に牛を逃そうとしたのではないかと誤解が起きたのか。それはブネとバルバトスが「まさかアイツ…村まで言って牧場の牛を全部逃がす気じゃねえだろうな…」「やりかねないかもね…家畜という概念を嫌ってるみたいだから…」と懸念を表明しているからです。ここがミスリードというか、「牧場の牛を全部逃がす」かと思いきや、という話運びになっている。ただ、テキストをさらりと読み飛ばすと、おそらく「この牧場の環境が許しがたいほど劣悪だったら」という条件の記述よりも、ブネとバルバトスが懸念を示していたシーンのほうに意識が強く残るのだろうと思います。
 
 二つの場面に共通するのは、「牛を野に放つ」というとき、いずれも条件節が設定されているということです。
 牧場の場面では、「マルチネの牧場が十分に牛を管理できていなければ、牛を野に放つ」。
 マルチネ誘拐後の場面では、「それで森の生物が助かるのであれば、(マルチネを見捨てて)牛を野に放つ」。
 
 いずれにせよ、ウァプラが留保なしに牛を野に放とうとした迷惑な自然保護キャラというのは、事実誤認に近いと思います。第二の場面でウァプラはここでザガンに論の弱点を指摘されていますが、一方でザガンもまた持論に森の動物への視点が抜けていることを指摘されているのは、しばしば見落とされています(ウァプラがザガンに自論の誤りを一方的に指摘され、論破される、というような議論の流れではありません)。

 非常に煩雑になりましたので、まとめます。

1.ウァプラは牛を「野に返せばいい」という発言をしており、実際に牛にその検討をする場面は本文中に二度ある。最初の場面では「牧場の環境が劣悪であれば牛を野に返すべきだ」二番目の場面では「森の動物を見捨てるぐらいなら、誘拐されたマルチネを見捨て、牛を野に放つべきだ」という主張であり、いずれにおいても「野に返す」うえでは条件留保がある。無条件に野に返すことを主張したわけではない。
2.二番目のザガンとの対話では、ウァプラとザガンはいずれも相互に論の弱点を指摘しており、ここに正否の差はない。
 たとえばウァプラが間違っており、ザガンが正しいというような読みを導くことは出来ない。

3.物語を結ぶ「牛乳」と、ウァプラのリジェネレイトについて

 かなり長々文字数を割いたわりに、ここまでの文章は描写の再確認しかしていません。
 単なる再確認だけでこれだけの文字数を要してしまうのは私の愚鈍さの故ではありますが、一方でこの二つの場面について、事実の把握がずれているのではないか、と感じてしまう感想はいくつか見受けられました。今回の文章では、リジェネのアジト台詞で「菜食主義」に言及することがどうなのか、といったことについても基本的には触れませんし(どう感じようが個人の自由でしよう)リジェネのキャラ像がどの程度これまでのウァプラのキャラ像から変化しているか、その変化は既存の描写と大幅な乖離を来しているか、についてもここまでには書いていません。
 ですから、「リジェネのキャラ像に違和感があった」という感想に対しては、私はこの文章では言及しませんし、たとえば「リジェネのキャラ像は違和感があったとしても受け入れるべきだ」というような主張はしません。それらは事実の認識ではなく、個人が自由に成すべき「解釈」の問題だからです。「誰が、どういう状況で、どういった発言をしたのか」という問いには確かな答えがありますが、「その発言から、読み手としてはどう感じたのか」は感想であり、感情の問題であり、個々人の自由の領分です。

 

 そもそも何が書かれているのか正確に把握しなければ、感想の持ちようがない、というのは個人的な心情としてはあります。早合点ということです。ただそれはあくまで私個人の考えであり、事実の曲解や誤解で好きなものを嫌いになるというのは、ありふれた話です。そのときの嫌悪や悲しみや怒りは間違いなく真摯であり、またその感情を言葉にしてインターネットで発表したいというのも、理解可能な感情です。

 

 また、慎重に読むことは、相応の負荷のかかる作業ではあると思います。だから、ある感想に原作との事実把握のずれがあったとしても、それは正直に言って仕方ない気がします。そもそもメギドのテキストUIは現時点でも発展途上のものであり、またゲーム内での再読が困難なことも、とりわけイベント終了後に事実誤認を引き起こしやすいのは致し方ないだろうと考えます(記憶は容易に事実を歪曲するからです)。
 
 とはいえ、このままでは無味乾燥な事実確認だけに終わってしまいます。ひとまず議論が見られた二箇所についての確認は終えることにして、最後になぜこの物語のエンドは牛乳で結ばれるのか、についての個人的な解釈を書いておきます。

 

 結論から言えば、この物語はザガンとマルチネという、二人の飼われた「牛」と関わり生きる他者の姿に、「家畜を飼うヤツはおしなべてクソだ」(バルバトスとの対話)という認識をやや緩める、というだけの話です。

 

 ですから、ウァプラが果たして家畜を全て肯定しているのか、ザガンやマルチネ以外の「牛」と関わるヴィータをどう思うかについては、この物語だけではわかりません。それについて考えるうえでは、まずはザガンとウァプラの、闘牛をめぐるやり取りを確認する必要があります。領地での動物殺しが相次ぎ、ウァプラがアジトの面々に協力を依頼する冒頭の場面です。通りがかったザガンへの協力要請を、ウァプラが忌避するところから会話は始まります。

ウァプラ
「ソイツは闘牛士だぞ…
罪もない牛に刃を突き立てる畜生だ
そんなヤツの助けなどいらん」

ザガン
「ちょっと!
そんな言い方はないんじゃないの!」

ウァプラ
「…俺は事実を口にしただけだ
動物殺しを見世物にしやがって」

ザガン
「…たしかにそういう側面があるのは否定しないよ
だけどウァプラ…キミはちゃんと闘牛を見たことはないだろう?」

ウァプラ
「見る必要があるか!
あんな悪趣味なもの…!」

ザガン
「そう言うと思った
でもね、見てみればわかるよ
私たちは一方的に牛を殺してるわけじゃない
…逆に牛に殺されることだってあるんだ
つまり私たちと牛の命がけの勝負さ
それを見もしないで否定するのは、
乱暴だと思わない?」

ウァプラ
「…………」

 結局ザガンはソロモンの取り成しでパーティに参加します。問題は、なぜウァプラはザガンの言葉に沈黙するか、です。
 それは「命がけ」だからなのだ、と思います。ウァプラは確かに「ちゃんと闘牛を見たことはない」のです。何故ならそれは「悪趣味」であり、それが意味するのは、本来は平穏に生きられるはずの牛を、無理に戦わせて生命の在り方を歪ませる、「敬意」を大いに踏みにじった形式での隷属にしか思えないからです。だからウァプラは乳牛は許容できても、肉牛は強く否定するはずです。
 ザガンはそれがなぜウァプラにとって「悪趣味」なのか理解しています(これは個人的にちょっとびっくりで、このイベントでザガンはウァプラの内面にとても強く踏み込んでいます)。だから「一方的に殺してるわけじゃない」という反論が反論たり得るのです。
 「一方的に殺してる」のであればウァプラは絶対に容認しないでしょう。そう思い込んでいたからウァプラは闘牛を見なかった。
 ただし「私たちと牛の命がけの勝負」であれば話が違う。確かに闘牛は遊興のために飼われた家畜ですが、闘牛は闘牛士を殺し得る。そこでは「勝負」を「自然な在り方」としている生き物が二種いて、むしろ闘牛で殺し合うこと自体が自然なのです。だからウァプラは沈黙するのです。

 

 このザガンの反論は、実に見事にウァプラの急所を突いています(何故ザガンがこれほど明晰にウァプラの考えを把握しているのかは、本文には書かれていないのでわかりませんが)。闘牛も酪農も、いわば野生の「牛」としての在り方を歪めている点については変わりません。しかしザガンは闘牛場で闘牛の闘牛としての在り方を尊重し、6章2節の言葉を借りるならば「敬意」をもって向き合っている。だからウァプラは沈黙せざるを得ないのです。

 

 ウァプラが食肉を許容出来て、酪農が許容出来ない理由は既にバルバトスの対話で明確に書かれている、と確認しました。「だけどキミだって肉は食うだろ? 家畜はダメで、それはいいのかい?」というバルバトスの問いかけに、「それは生物として正当な手段で正当な獲物を得てるだけだ。家畜を食い物にするのとは違う」と答えるところからすると、「正当な手段」とは狩りを意味するのだろう、と。この「正当」を恣意的に解釈するならば、食肉は、いわば捕食者たる人間が獣を狩るという点からは「正当」なのです(そんなことはイベントシナリオには書いていないので、恣意の解釈です)。
 それは生態系として「自然な在り方」だから。一方で「家畜を食い物にする」のは在り方を歪めるから許されない。
 この「食い物にする」というウァプラの言葉は示唆に富んでいます。「飼い殺し」は単なる捕食よりもウァプラにおいては非道なのです。
 あるいは「毛皮」はどうなのか。ウァプラが毛皮について言及するのは、次のアジト内での台詞のみです。

ウァプラ
「…この毛皮は肉の副産物だ
俺が毛皮のために獣を殺すわけがねえだろ」

 つまりウァプラは「肉」のための狩りは許容するけれど、「毛皮」のための狩りは許容出来ない。何故なら後者は「強者が弱者を食らう」という自然な在り方から逸脱した「殺し」だからです。ほかのアジト内台詞についてはどうでしょうか。

ウァプラ
「俺も狩りくらいはする…
だがそれは食うためだ 娯楽でやってるヤツは死ね」 

 これも同様に、食うための自然な在り方としての「狩り」は許容され、娯楽のための「殺し」は許容されないという、明確な論理を示しています。いずれにせよ、6章2節から引き続くウァプラの物語として、このアジト内台詞も同じ価値判断を貫いています。あるいは、ウァプラの無印のキャラエピで撃退される「密猟団」は、「珍しい動物ってのは、それだけで高値を付けてくれる金持ちが多い」と語る通り、金銭のための狩りを行う故に悪なのです。ここにあるのは、生き物の自然な在り方を歪めることは、ウァプラにとっては悪だ、という明快な論理です。
 

 ウァプラがウァプラがマルチネの牛をなぜ容認するのか、そのきっかけとなると思われる場面を確認しておきます。ソロモンと召喚したハックがマルチネを救出し、二人を見送った後の、ごく短い場面です。

ザガン
「ふふ…でも、牛くんは嬉しそうだね
これから賑やかになるからかな?」

ウァプラ
「…………」

 牛がなぜ「嬉しそう」なのか。ザガンの解釈は「これから賑やかになる」つまり、マルチネと共にハックが牧場の生活に加わることが嬉しいのだろう、という意味合いです。それに対してウァプラが沈黙するのは何故なのか。
 ごく単純な場面ですが、私の解釈としては、ウァプラはそもそもマルチネの帰還を牛が「嬉しそう」にしていると捉えたのだと思っています。実際には牛の感情はわかりませんので、これは推測の域を出ませんが、いきなり無関係な他人が出現したところで、牛が「嬉しそう」にするとは思えません。
 牛が喜ぶのは、マルチネを救ったハックが牧場に来るからです。だから、その喜びは、そもそもマルチネが帰還したことが前提にあります。
 マルチネが牧場の牛たちを愛情深く世話していることは、繰り返し作中で強調されています(エルプシャフトの密偵が牛の世話に難渋する場面もそうでしょう)。家畜が飼い主の帰還を喜ぶならば、それは自身の信条とは別として、その「嬉しそう」を尊重しなければならない。
 だからウァプラはこのとき「…………」と沈黙します。

 

 ライターの沈黙の表現が少ないといえばそうなのかもしれませんが(だからまさしくここは「解釈」です。とはいえ沈黙の表現なんてこれ以外にあまりないとは思いますが)ザガンとの闘牛をめぐる対話、そしてマルチネの牛が「嬉しそう」にしているのを見たとき、いずれもウァプラは同じように沈黙しています。そして振り返れば、この物語は獣殺しに対峙するとき、ウァプラが相容れないはずのザガンと互いに協力して戦える、という変化の物語でもあります。「家畜を飼うやつはおしなべてクソだ」という考え自体は然程の変わりはないかもしれませんが、いずれにせよザガンとマルチネは例外なのでしょう(ザガンについては、表面的には「精々好きにしてろ」ぐらいの距離感かもしれませんが)。

 

 だからウァプラはマルチネの牧場修理に支援金を出します(もちろんそのままであれば被害を被るのは牛だから、もあるのでしょう)。そして「嬉しそう」にマルチネに飼われる牛の乳を受け容れるのです。これは、たとえばペットや家畜は無条件に開放されなくてはならない、というような発想とはむしろ真逆です。ペットや家畜が飼い主と共にあることで「嬉しそう」なのであれば、その意思を尊重するべきだ、という考え方だろうと思います。

 

 ちなみに、このウァプラの物語が「見習い女王」の物語と並列的に書かれていることは実に興味深いものです。
 シバは女王候補を探そうとするガブリエルに、「己の人生を捨てさせる」ことへの「心苦し」さを語っています。「自分が王族という意識すらない者」にまで「己を捨てて働けと言わねばならぬのか」とカマエルに問うとき、シバが語る「己を捨て」るとは、おそらくはウァプラの「在り方」を歪める、と同義だろうと思います。まさしく、「ヴァイガルドを守る」という「正義」や「道理」をもって、その者の人生を捨てさせることは、ウァプラの言葉を借りれば「敬意」の喪失なのでしょう。そして理術研究院の「魂」が生み出す自然な「メギド体」を、その持ち主から引き剥がし、別の魂を注ぐことで「兵士」を作り出そうとする研究もまた、言うまでもなく「命の在り方」を大いに歪めるものです。
 余談ですが、ハックのヴァイクラチオンとは「ヴィータが己の肉体だけで戦うために編み出された」技と鍛錬の術です。すなわちそれは武器を使わず己の肉体のみで戦う戦闘技術でもありますが、ハックのキャラエピで「歩く」がひとつの目標となるように、それは自身の「自然」にある可能性を最大限まで引き出す術でもある、と私は読みます。これは完全に妄想ですが、ウァプラは自分の可能性を最大限まで追い求める「在り方」自体を、(ハック自身の性格とは相性が悪そうではありますが)嫌悪することはまずないのではないかと思います。

 

 いずれにせよ、『見習い女王と筋肉の悪魔』はハックとマルチネが再会し救われ合う物語であると同時に、シバの女王候補探しや理術研究院の陰謀という「命の在り方」を歪めるものの終焉、そして「家畜を飼うヤツはおしなべてクソだ」と断じていたウァプラが、ザガンとマルチネという二人の飼われた牛に関わる他者を認めるまでの物語です。

 なお、ウァプラがリジェネレイトの片鱗を示すのは、第一にイベントでザガンと協力して獣殺しと戦うときです(なおこのときウァプラが「牛刺し女」ではなく、「ザガン」と呼んでいることは注目に値します)。
 二度目の場面は、ディオの協力を得て、自身が領主になるまでの経緯を思い返したときです。 

ウァプラ
(今まで考えたこともなかったが
俺はヴィータどもに助けられて
ここにいると言えなくもねえ…
ヴィータなんぞ自然に害をなす余計な生き物だと思ってたが…
いや、今でも思ってはいるが…
「守ってやる」程度にはマシな連中もいるってのは
認めてやるべきなのか…)

 この二番目のリジェネレイトの片鱗について、ウァプラは「ソロモン」あるいは「他の追放の連中が俺を」「俺の「なにか」を変えやがった」と語ります。このとき回想されるザガン(それも「牛刺し」ではなく「ザガン」と呼ぶ場面です)は、その変えた「追放の連中」の代表例なのかもしれません。
 いずれにせよこの「マシな連中もいる」という考え方は、ザガンとマルチネを容認する姿勢とかなり似通ったものです。
 ただし、ウァプラがヴィータの存在を完全に容認しているわけではないことは、ヒッポの凶刃を受けた際の、次の語りからも明らかです。

ウァプラ
「やはりヴィータってのはあのくらいクソなほうが落ち着くぜ…
俺としたことがヴィータにもマシなヤツがいるなんて甘ったるい考えを持ちそうになるところだった…
そうだ、俺は「このままで」いい
他の連中がどうかは知らんが、俺は俺だ…」

 ウァプラがリジェネレイトするきっかけは、二度の場面を総合して考えれば「おしなべてクソ」な連中のうちに、「マシな連中もいる」ということに気付く、という動作に端を発します(家畜と生きる者のうちのザガン、ヴィータのうちのディオ)。一方で、それはあくまで「マシな連中もいる」というだけで、完全な容認ではありません。おそらくはウァプラが、全ての家畜業者を容認することはないように。
 個人的には、このリジェネレイトの動機は、比較的慎重に練られたものだと思います。長くなりましたが、とても楽しめたイベントでした、というところで、このイベントについての感想は終わります。