東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』読売文学賞を受賞した最高に切ないBL

 東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』は2018年の読売文学賞受賞作で、しっかりした文学賞なのですが、選考委員に腐女子でもいたのか? ってぐらいオタクのツボを完璧に突いた超良質の泣けるメリバBLなので紹介します。
 とにかく49歳直木賞作家おじさんの腐女子の才能がすごい。
 文章はかなり読み易いので、300ページ以上はありますが1-2日で読めると思います。
 被虐待ショタ、義兄弟、同性間の重い情念が好きなオタクにもオススメ。
 ただし本作はミステリ的要素を少量ですが含んでおり、中盤でのあるどんでん返しが小説の勘所のひとつだったりするので、そういうのが気になる人は全部は読まないほうがいいです。

僕が殺した人と僕を殺した人

僕が殺した人と僕を殺した人

 物語が始まるのは2018年のアメリカ、デトロイト。少年を7人殺したアジア系アメリカ人の連続殺人犯「サックマン」が逮捕され、極刑はまず免れない中、同じく東洋系の国際弁護士「わたし」が弁護に向かいます。
 「わたし」は敏腕弁護士なのですが、なぜ彼が絶望的な裁判を引き受けたのか、というのは後で明かされます。
 同時に進行するのは1984年、台北の十三歳の少年、漫画の大好きな優等生「ぼく」ことユンの語りです。「ぼく」の兄は若くして事故で死亡し、弁護士である父は鬱病になった母を静養目的でアメリカへ連れていきます。「ぼく」は幼馴染の「アガン」の両親に預けられ、父母の帰りを待ちます。アガンには暴力をためらわない不良の兄弟分「ジェイ」と、弟の「ダーダー」がいます。
 デトロイトの物語は、「わたし」とサックマンの二人。台北の物語は、ユンとアガン、ジェイ、ダーダーの四人の物語です。このうちの誰かがサックマンと「わたし」だというわけです。
 
 アガンの母は父から別の男に乗り換えつつあり、ジェイは義父から虐待を受けています。そんなわけで家庭環境のよろしくない少年たちが暗い時間のなかでワイワイするのが前半部です。ジェイとアガンは優等生である「ぼく」が気にくわずにボコボコにしたりするのですが、互いの傷を感じ取ってか、わりとあっさり仲良くなります。

 ぼくはアガンとジェイと四六時中つるむようになった。ぼくとジェイは仲直りしていた。あれくらいの喧嘩ならジェイにとってはちょっと肩と肩が触れたようなもので、悪かったな、いいさ、で済む話だった。というか、それで済ましてやろうという気にさせられる屈託のなさが、ジェイにはあった。
 ……ジェイといると、兄の言っていたことがすこしわかるような気がした。細かいことを言ってちゃだめだ、それが男同士の付き合いってやつさ。いったん打ち解けてしまえば、ジェイは遺憾なく大陸の血を発揮した。すなわち仲間の仲間は全員仲間、仲間の敵は全員の敵、というのがぼくたちの掟だった。(p.50)


 義兄弟好きにはたまらないですね。
 ジェイは一度暴力に走ると止まらなくなるヤバい不良ショタですが義に厚く、アホンの母親が水商売務めだったことを馬鹿にした大の男をやりこめたりします。妹が四人の不良に囲まれたときは単身で挑みかかります。

 ぼくたちの声援がとどいたかどうかは知らないが、ジェイは臆することなく戦った。いくら喧嘩が強いといっても、相手が四人もいたんじゃ勝ち目はない。ぶちのめされ、蹴飛ばされ、踏みつけられても、あいつは不倒翁(おきあがりこぼし)みたいに立ち上がった。ついに先生たちが駆けつけ、不良たちが捨て台詞を残して逃げ去ると、妹たちが泣きじゃくなりながらジェイにすがりついた。あいつは顏を腫らし、傍目にも立っているのがやっとのくせに、妹たちの頭や背中を撫でてやった。もしも人生で学ばなければならないものが勇気だとしたら、ジェイは小学校四年生のときにはすでに免許皆伝の域だった。(p.71)


 イケショタです。アニメ化したらたぶん細谷佳正田村睦心が声当てると思います。
 あるいは「ぼく」は、人形師であるジェイの祖父が神に奉納する人形劇をする直前で熱射病で倒れたとき、咄嗟に自分がやると言い出したりします。

 アガンがぼくを脇にひっぱっていった。「なんだよ『冷星風雲』って? おれらにできるわけねえだろ!」
「いや、やるんだ」
「布袋劇のことなんか、なんにも知らねえだろうかず」
「それでもやるんだ」
「おまえなあ……」
「ジェイのうちはこれだけで食ってるんだろ?」
「そりゃそうだけど!」
「ぼくたちがやらなきゃ、あいつはまた親父に殴られるかもしれない」
(p.58)


 義兄弟は最高ですね。この「冷星風雲」というのは中学生で『AKIRA』が大好きな「ぼく」の創作ファンタジーで、兄をヴィランに殺された少年が敵討ちに挑む、という話です。ちなみにジェイは『AKIRA』では鉄雄に例えられます。救急車に祖父と乗り込んだジェイをよそに、ぼくとアガンは無事場をしのぎ切ることに成功します。

 数日後、ジェイに誘われて龍山寺に参った。
 ぼくたちは關帝炉に香を立てて合掌した。ぼくとジェイとアガンはそれぞれ劉備関羽張飛になったつもりで『三国志』の桃園結義の真似事をした。「我ら三人、同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せんことを願わん」という例のあれだ。
 義が結ばれると、ぼくたちは顏を見あわせてにやにや笑った。(p.62)


 義兄弟は最高ですね。ぼく、ジェイ、アガン兄弟の四人は台北で流行していたブレイクダンス(映画の「ブレイクダンス」によるブームでした)にはまったり、そのために一緒にナイキのスパイクを盗んだりして友情を深めます。
 あとブレイクダンスを人前で踊ったらレイプされかけたりします。

 新公園と紅樓のあたりが同性愛者のたまり場だということは知っていたけれど、同性愛がなんなのかはよく知らなかった。大人たちからはとにかく紅樓に近づくなと言われていたので、ぼくたちはいっぱしの大人になったつもりで敢えてそこを晴れ舞台に決めたのだった。
 ……ぎくしゃくとロボットになりきっていたぼくは、見物人の輪がだんだん狭まってくることに気づかなかった。で、気がついたときにはもうダーダーが敵の手に落ちていた。
 赤煉瓦の壁に押しつけられたダーダーは、棒みたいに身を固くして男たちにあちこち撫でられていた。あまりにも信じ難いその光景に、ぼくはガソリンが切れたロボットみたいに動きを止めてしまった。目はダーダーのベルトをはずそうとする男たちに釘付けだったが、それはアガンとジェイもおなじだった。ぼくたちは指をくわえてダーダーを見殺しにしていた。
 お尻をむんずと摑まれて、ぼくはぴょんっと跳び上がってしまった。ふりむくと、鳥打帽をかぶった男が金歯を見せてにやりと笑った。台湾語でなにか言われ、まったく聞き取れなかったけれど、全身に鳥肌が立った。
「幹(くそ)!」ジェイがべつの男を蹴りのけていた。「なんだ、こいつら!?」
「林立建!」アガンが弟の名を叫んだ。「こっちに来い!」
(……)
「くそったれ!」四方八方からのびてくる手をジェイが払いのける。「おれに触るんじゃねえ!」
(p.81)


 いくら1984年のスラムでも本当にこんなところあるのかよって感じですが、商業BLだったらありそうな展開なので、たぶんそういうことなんだと思います。ダーダー含めてみんな無事に逃げ延びます。
 義兄弟が最高なのですが兄弟も最高で、アガンはダーダーのことをウザがってはいますがクソ好きだったりします。ダーダーが見慣れぬ時計(母の浮気相手で、後に兄弟の義父になる男からの贈り物です)をつけているのを見たアガンは、彼が盗みをしたと勘違いしてブチ切れます。

「盗んだんだな、この野郎!」アガンはぼくを撥ねのけてダーダーに掴みかかった。「いいか、おれが悪いことをするのはおれが馬鹿だからだ」
 ダーダーは体をよじって逃れようとしたけど、アガンの力は強かった。
「だけど、おまえはちがう」
「は、放せよ――」
「おまえは頭がいい」
 ダーダーの目に涙がふくらんでいく。
「おれの真似なんかすんな」弟を突き放すまえにアガンはそう言った。「今度ものを盗んだらぶっ殺すからな、わかったか」
(p.89)

 兄弟も最高ですね。
 さてそんな仲良し義兄弟三人の関係が変わるときが来ます。ブレイクダンスで盛り上がりまくった夏休みの終わりにアガンの母親が蒸発した日に、ぼくは国際電話で両親が帰国してくることを知ります。ぼくは父に頼まれて、ジェイと共に空気の入れ替えのため実家に帰り、マイケル・ジャクソンのPVを見ながらダンスの練習をします。
 ぼくとジェイの関係が決定的に変わるのはその場面です。

 ビデオを何度も巻き戻してマイケルの動きを研究し、自分たちなりに改良を加え、ゾンビのように右肩だけをひょうひょい持ち上げながらポジションを入れかえる練習をした。一時間ほど汗まみれで踊ったあと、ジェイがぼそりと漏らした。
「ふたりだけで練習してても意味ねえよ」
「そうだな」
「アガンとダーダーもいっしょにあわせなきゃ街では踊れねえだろ」
 虚無感に襲われたぼくたちはソファに身を投げ出し、流しっぱなしのビデオをぼんやり眺めた。
 ぼくはアガンの母親とあの男がいっしょにいるところを想像しようとしたけれど、大人の男と女がいったいなにを遊ぶのかは想像もつかなかった。マイケル・ジャクソンのMVが終わり、『閃光』(フラッシュダンス)のMVにかわっていた。黒いレッグウォーマーをつけた女性が、ダンススタジオのなかを自由な小鳥みたいに跳びまわる。何度も見たビデオなのに、いつ見ても彼女のレオタード姿に見とれてしまうのだった。青いスポットライトを浴びたシルエットが背中を反らせ、その素晴らしい肉体に水が勢いよくかかる。それはあのころのぼくが知るもっともエロチックな場面だった。
 と、ジェイの顔が視界をふさぎ、彼の唇がぼくの唇にちょこんと触れた。
 ほんの一瞬だった。
 ジェイはソファに背を戻し、ぼくたちは何事もなかったかのようにテレビを見つづけた。ダンサーの女性がダイヴしてバックスピンに入る。軽快に足踏みをする彼女のお尻が画面いっぱいに躍動していた。
「あっちの女って」粘つく口をどうにか開いた。「尻を出すことに抵抗がないみたいだね」
 ジェイは黙りこくっていた。
 だからぼくも口を閉じて、片脚でくるくるまわる裸同然の女をにらみつけた。女性の自由と露出度は比例しているんだ、と言われているみたいだった。
「なに、いまの?」
 やはり返事はない。
「もう二度とするなよ」
 腹の底からわけのわからない怒りがこみ上げてくる。両親がアメリカから帰ってきて、これからなにもかも上手くいくはずの人生にケチがついたような気がした。
「いいか、二度とだぞ」
 ぼくたちは断固としてテレビに顏をむけていた。
(……)やがてジェイが立ちあがり、ひっそりと帰っていったあとも、ぼくはテレビのまえから動けなかった。
(p.115-117)

 商業BLの1話かよ。ここで「人生にケチがついたような気」がするのは同性愛自体への抵抗感もあったでしょうが、レイプされかけたのを思い出したんでしょう(なのであれは商業BLだからではなくて実に巧みな伏線です)。ぼくはジェイを「なにも言わないのは不公平」「敢えて弁解しないのはこっちを軽く見ているからだ」「ああいうことがあったら非のあるほうが歩み寄るべき」だと憎み、暴行を加えます。商業BLだったらソロで喧嘩して最終的には絆されるところですが、ぼくはアガンと共に暴力を振るいます。初恋の相手に「おまえ、ちんこが吸いたいんだろ!」などと散々に罵られ、わざと喧嘩に負けて号泣するジェイの描写は本書で二番目に泣ける場面です(ここは実際に読んでほしいので引きません)。もっともぼくとジェイは、だからといって友達の関係を解消したりはしません。「このまえはおまえとアガンにやられたからな。これで恨みっこなしだ」と「共謀して喧嘩の理由をすりかえる」ことで、互いに嘘の笑いを交わします。
 商業BLの2話かよ。

 1948年の冬、ジェイが義父の暴行で入院します。普段から虐待を受けていたジェイが入院するほどの暴力を被ったのは、ゲイの大学生と関係していることを父に知られたからでした。
 

「おれたちはガキで、世界はガキの思いどおりになんかならねえんだ」
 かえす言葉がなかった。
 ジェイの存在がひどく遠かった。遠すぎて、いままで一度だって近づいたことなんかないみたいだった。手をのばせば触れることができるほど近いのに、それはなにものも寄せつけない遠さだった。もしかすると、と思った。ジェイが継父に殴られるのは、この遠さのせいなのかもしれない。
 あの夜のことが頭をよぎる。ぼくにキスをしたとき、あのときだけジェイはとても近かった。近すぎて、腹だたしいほどだった。ジェイはぼくに近づこうとした。とんでもなく不器用なやり方で。ぼくになにができただろう? こいつを受容も拒絶もしないやり方が、正しい答えがどこかにあったのだろうか?
(……)アメリカンポップスは終わり、ベッドの上からジェイがおだやかな笑顔をふりむけてきた。
「バレたんだ」
 ぼくとアガンは顏を見あわせた。
「バレた」その声は耳をふさぎたくなるほど静かだった。「あいつにバレちまったんだ」
 なぜだかわからないけれど、大声で泣き叫びたい気持ちになった。自分とあのろくでなしの継父はおなじ穴の貉なのだという気がした。
 そして、唐突に悟った。ジェイはいままた、おっかなびっくりぼくに近づこうとしている。痛めつけられた野良犬のように鼻をひくつかせ、軽蔑や拒絶のにおいを嗅ぎ分けようとしている。ぼくは大人ぶって常識という名のあきらめを説くこともできたし、すべてを時間に委ねてもよかったし、天真爛漫を装ってジェイの相手を根掘り葉掘り尋ねることだってできた。
 だけどそんなことをすれば、ジェイに二度と近づけないのはわかりきっていた。だったら、おれが何度でも悪を斬る。ジェイのおじいさんが日射病でぶっ倒れたとき、布袋劇の人形を無我夢中で操りながら、ぼくの冷星ははっきりとそう言った。おれが斃れても、おれの意志を継ぐ者はかならずあらわれるさ。
 記憶の断片がひとつにつながり、またたく間にストーリーができあがった。冷星のつぎなる敵の武器は固い竹でつくった簫だ。ハーメルンの笛吹きみたいに簫の音色で子供たちをかどわかし、その簫で子供たちを撲殺するから……そうだ、黒簫(ヘイシャオ)と名付けよう!
(p.161-163)


 「もしあの義父をぶっ殺すんなら手を貸すぜ、なあ、アガン」と最初は冗談で言っていたぼくですが、この黒簫の空想を契機に「ほんとに殺すか」と言い出します。アガンは止めに入ります。

「なにか……なにか考えがあるのか、ユン?」
「おい! 本気にするな、ジェイ。ユンは冗談を言っているだけさ」
「そうなのか、ユン……冗談なのか?」
「本気だよ」ぼくは言った。「おまえがその気なら絶対にバレない方法がある」
 彼の目が期待に染まってゆく。
(p.165)

 重要なのはユンが「自分とあのろくでなしの継父はおなじ穴の貉なのだ」と罪悪感を抱いていることです。義理の息子の同性愛を知って暴力を加えたジェイの義父も、抵抗感から暴力を振るった自分も何も変わらない。もうひとつ大切なのは、「だけどそんなことをすれば、ジェイに二度と近づけないのはわかりきっていた」と接近の意思がユンにあることです。もともと弁護士の息子であるユンは、喧嘩の強い不良のジェイに憧れを抱き、「ジェイになりた」(p.265)いほどでした。ユンからジェイへの感情というのは、この他は非常に読み取りづらく書かれているものの、物語の最終盤に、あることをきっかけにアガンがユンをこう責め立てます。

「おまえはジェイに気に入られたかっただけだろ! 気がつかねえとでも思ってたのか? おまえは小学校のころからジェイに憧れてた。言っちまえよ、ジェイにキスされたときもほんとうはまんざらでもなかったんじゃねえのか? おまえは、おまえは――」(P.282)

 三人は占いで殺人計画を実施すべきか試します。
 占いは偶然にも三人揃えて実施すべきという結果を弾き出し、計画が動き出します。


※ここから中盤のどんでん返し、「わたし」と「サックマン」の正体についてのネタバレがあります。


 ここまで読んできた人間なら、まず「わたし」はユン、ジェイが「サックマン」であると自然に考えるところです。ユンは弁護士の息子であり、母には周囲でいちばんの私立高校に行くよう言われている。「サックマン」は少年売春に手を出した過去があると書かれており、同性愛傾向があるのは間違いない。あるいは『AKIRA』になぞらえたとき、ジェイは鉄雄と重ねられているし、暴力の歯止めが利かないところが描写されてもいる。

 実際には「わたし」がジェイで、サックマンがユンに相当します。これが中盤のどんでん返しで、このユンとジェイが入れ替わっているように見える、ということ自体が小説の種であり、哀切さの核であり、極めて良質なBLたらしめている仕掛けです。

 結論から言うと殺人計画は失敗します。毒蛇にジェイの義父を噛ませようという計画を立て、実際に蛇を入手し、廃業状態のアガンの店に隠します。アガン兄弟は母と義父のもとに、父は妻に逃げられた失意から、遠くの友人宅に身を寄せています。計画が頓挫したのは、蛇を隠している間に偶然にも実父が帰宅し、毒蛇に噛まれて死亡しているところをほかならぬアガンとジェイが発見したことでした。動揺し自首しようとするアガンをジェイがひとまず説得し、彼が帰宅します。続けて罪悪感に苦しむジェイに、駆け付けたユンが「計画を立てただけでは罪にならない」「アホンさんの死に責任がないとは言わないけど、刑務所に入るほど重くはない」と説きます。ジェイに語りかけながら、ユンは世話になった「アホンさんの死を他人事のように醒めた目で眺めている自分」を感じます。そしてアガンに連絡を試みますが、電話が通じない中、アガンやジェイとつむることをよく思わない母の愚痴を聞かされたユンは、殺意を抱きます。

果てしなくつづく空っぽの呼出音だけでも充分苛立たしいのに、そこへ母の愚痴が加わると、手あたりしだいにだれかを殺したい気分になった。
 もしかすると、冷星のお兄さんを殺したのはぼくのような人間なのかもしれない。ぼくは邪悪な蛇遣いで、名前は、そうだな、酔蛇(ズイシャア)にしよう。酔蛇がこの世でもっとも憎むもの、それはいつまでも自分を子供扱いする母親だ。(……)受話器を電話にたたきつけると、幸いにして母がぴたりと口を閉じてくれた。そうじゃなければ、受話器を母の顔面にたたきつけていたかもしれない。
 (……)蛍光灯の下に立ち、ぼくが考え出した悪役たちのひとりひとりになりきって、世界中の人間を皆殺しにする方法を考えた。虎眼、流刀、蚕娘娘、黒簫、酔蛇――冷星の敵は六人という設定だから、あとひとりで全員が出そろう。そう思ったら、すこしだけ気分がよくなった。最後のひとりはとびきり強靭で、とびきり残忍で、とびきり賢くしよう。こいつがほかの全員を束ねて、悪の帝国をつくるのだ。
(P.268)


 アガンへの電話が二日通じなかったユンは、「恐怖と不安」から直接彼のマンションを訪ねます。「兄が死んだ翌年に弟まで刑務所に行く破目になったら、母は完全に壊れてしまう」とユンは「神経に障る」「母の金切り声」に感じています。屋上のアガンに自首を控えるよう説得はしますが、ユンは既に失敗を予想していました。「アガンを思いとどまらせること、母を救うこと、自分を護ることがぼくのなかでせめぎあい、殺意によく似たものに練りあげられて」いくのを自覚しながら、ユンはアガンを殺そうと煉瓦で顔面を打ちます。

素早く足を踏み出し、やつの頭を打った。がっくりと片膝をついたアガンの目が恐怖に見開かれる。(……)その太った体は豚のように無様だったけれど、目だけはまだ生きていた。こういう目をしているかぎり、人はたとえ殺されてもけっして負けはしない。
 落ちていたセメント袋をやつの頭にかぶせ、その上から何度も殴りつけると、煉瓦が粉々になった。(……)問題は目だな。素手でアガンを殴りつけながら、そう思った。目さえ見なければ、親友を殴り殺すことだってできるんだ。
(p.286)


 気絶したアガンを屋上から突き落とすはずだったユンは、それを見ていたある人物に突き落とされます。ユンは辛うじて生き残りますが、頭を強打し、二年間の昏睡状態の後、「外傷性脳損傷」から性格の変化を来します。「両親に対して暴力をふるうようになり、母親は鼻を折られた」。両親はユンをひとりアメリカに送り出し、母は空港に駆け付けたアガンとジェイを「ユンはもうもとには戻らない、あんたたちがユンを殺したのよ」と罵ります。
 
 三十年後、アガン兄弟は亡父と同じ牛肉麺店で大成功を収め、ジェイは兵役を終わらせたのち、法律家の道に進み、現在は国際弁護士となり、同性のパートナーを得ています。一方ユンは母親が2008年に病死し、自分の買った男娼の少年に財布を盗まれかけた際に半殺しにし、アメリカの刑務所に収監され、アジア系ギャングの男娼となることで刑務所生活を生き延びます。出所したユンは2011年に衝動的に少年誘拐殺人を犯し、ブレイクダンスの達人」や「台湾の人形師」を装って少年を引き付ける手口で、2015年までに計7人の少年を殺害します。
 遺体はいずれも袋に入れられていました。
 性的暴行があったか、どういったプロセスで殺したか、については記述がありません。
 サックマンの逮捕、そしてその正体がユンであることを知ったアガンは、ジェイに弁護を依頼します。

「ユンのニュースをテレビで観たとき、おれが真っ先になにを思ったかわかるか? ああ、ユンがこんなふうになっちまったのはおれのせいだ、おれのせいでユンがぶっ壊れて、そのせいで罪のないガキどもが殺されちまった。(……)ユンはなりふりかまわずおれを説得しようとしてた。なのに、おれは……(……)ジェイ、おれがユンを殺したのか? おれのせいでユンはああなっちまったのか?
(……)それはわたし自身が何度も自分にぶつけてきた質問だった。
(p.301)


 面会室でユンは弁護士がジェイであることに気付かず、過去の殺人について尋ねられるとこう語ります。

「彼(ジェイ)はどんな子だったんですか?」
「沈杰森のこと? いいやつだったよ。ぼくは彼に憧れていた。ぼくは退屈な優等生だったから、彼みたいな不良少年と友達になれたのが誇らしかった。そういう気持ち、わかるだろ?」
「それで彼の父親を殺してやろうと?」
「自分が彼にふさわしい人間だと証明したかったのかもしれないね」
(p.227)


 ユンはアガンの写真を見せられると共に豹変し、「おまえがヘイシャオ(黒簫)だ」とジェイの首を絞めます。ユンが留置所で書いた漫画には、ジェイと思しき小さな子供の死体と、彼を殴り殺した黒簫が描かれていました。
 ユンは未だにジェイの義父の殺人計画に囚われているわけです。つらい。
 ユンは「虎眼、流刀、蚕娘娘、黒簫、酔蛇」を含めた六人の敵によって兄が殺された、とジェイに語ります。

「それはあなたが殺した少年たちと関係あるんですか?」
「でも、最後のひとりがずっと見つからなかった」
「(……)いまは見つかったということですか?」
「サックマン」
「それはあなたです。あなた自身があなたの六人目の敵なんですか? つまり、あなたのなかにもうひとり別人格がいて、それがあなたの六番目の敵だという解釈ですか?」
「きみはどう思う?」
(……)「そういうこともありえると思います」おまえがTBI(外傷性脳損傷)だということを考えれば、というひと言は呑みこんだ。「わたしを襲ったとき、あなたは『黒簫』と口走っていました」
(……)「意味のないうわ言だよ」
「連続殺人鬼は意味のないうわ言なんて言いませんよ」
(p.254)


 彼は笑います。
「理由があって人を殺すのと、理由がないのに人を殺すのと、なにが違うのかな」
 あなたは理由もなく殺人を犯すような人ではない、とジェイは答えます。
「ぼくのほうに理由があったら、殺された子たちは納得してくれるのかい?」
 答えに窮したジェイに、ユンは耳を近付けてくれ、と言います。監視カメラの向こうの警察官に聞かれないように。首筋を噛まれるのではないかと躊躇しながら、ジェイは耳をユンの口元に近づけます。

 予期していたことが、まったく予期せぬ形で起こった。反応も対処もできなかった。
(……)わたしが身を仰け反らせたのは、彼の唇がわたしの唇に触れたためだった。
(……)口で手をおおったわたしを、彼は車椅子の上で笑いながら見上げていた。
(……)「殺人なんてこの程度のことだよ。きみたちが思うような入り組んだ理由なんてなにもない」
(……)頭に血がのぼって、言葉がもつれた。仕返しのつもりか? そう言いかけて、言葉を呑んだ。そんなはずはない。だとしたら――
(……)「理由なんてないよ。きみを安心させられる理由なんて」
(……)「聞いてくれ、ユン、おれは――」
「でも、もうそんなふうに呼ばないでほしい」彼は言った。「どうか、お願いだから」
(p.256-257)


 30年前のキスと殺人計画を未だに引きずってるジェイくんにこの仕打ちである。 
 警察署を出たジェイは、自分はユンに赦してもらいたがっているのだと考え、罪悪感に打ちひしがれます。どう考えてもユンが相当悪いと思うのですがジェイくんは商業BLの登場人物なので罪悪感に飲み込まれまくりだし、行きずりの男にレイプされようとしたりします。
 商業BLの6話かよ。
 その後ユンに連続殺人の理由を推論して聞かせますが、ユンは「こんなこじつけは聞いたことがない」と答えるのみです。私もこれは読んでいてこじつけだと思ったので、ここには書きません。
 ジェイが、勝ちようのない裁判の弁護を引き受けた理由が、最終盤になってようやく明かされます。

「おれはおまえがあの出来事を思い出す手伝いがしたい。いや、おまえは思い出さなければならない。(……)ひとりぼっちで死ぬな、ユン。(……)おれもアガンもおまえのそばにいてやれない。(……)おまえがおれたちを思い出さないかぎり、おれたちはおまえといっしょにいられないんだ」
(……)わたしたちの無謀な計画のせいでアホンさんは死に、彼はサックマンになった。
(……)「思い出せ、ユン」わたしはほとんど命令していた。「せめて思い出のなかだけでも、おまえと最後まで一緒にいさせてくれ」
(p.306)


 ユンはジェイを思い出した、と最後には言います。
 それが本当かどうかは、文中だけではわかりません。
 ジェイは、「全身全霊で記憶が戻ったふり」だと考えます。

「覚えてるか、ジェイ?」
「なにをだ、ユン?」
「ぼくたちがはじめて会ったときのことさ」
「そんなの、憶えてないよ」
「そうだな、ずいぶんむかしのことだもんな」
 ユンはうなずき、やさしく目を細めた。そして、懐かしい声がわたしの耳にとどく。
「でも、ぼくはよく覚えているよ」
 これから彼といっしょに、長い長い螺旋階段を降りていくことになる。楽園にたどり着けるとは思わない。ただ、いっしょに歩いていく。やがて彼がこの世界から欠けてしまうところまで。
(p.311)

 メリバBLの文体を完璧にトレースする東山彰良さんの腐女子力がすごい。マジで泣けます。
 ユンはそれから少年時代の記憶について語り、ジェイはそれをノートに書き留めていきます。
 2019年にユンは処刑され、ジェイはパートナーからユンが初恋の相手だったんだ、と指摘されます。彼は否定しますが、「もしサックマンがユンくんじゃなくてあの太った子(アガン)だとしても、きみはやっぱり書いたかい?」と問われ、黙ります。小説は、ほぼそこで終わりです。

 この小説の重要な点は、ユンはジェイのことをまんざらでもなく思っていた、という点です。ユンが買っていた男娼は十二歳の少年で、台北時代の年回りとほぼ変わらないのも辛い。もっとも、ジェイはユンがアガンを殺そうとしたのは母親を守るためだったと考えていて、ユンが当時のことを思い出し語りする際もやはり出てくるのは母親です。ただ、これは頭部外傷で記憶が不完全なユンの語りであって、実際どうなのかはわかりません。
 そしてなぜユンが少年たちを殺したのか、はっきりとした理由は作中では分からずじまいです。わかることはユンが殺人計画、あるいはジェイの残像に三十年後も囚われていたこと、それだけです。理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。あるいはこんな状況になったうえで、ジェイへの怒りが幾分かあったのかもしれない。
 しかし、仮に殺人計画が成功していたのであれば、三人はジェイの義父を殺していました。あくまで計画が失敗したのは偶然の故であり、更にユンが転落したのも、もっといえば計画に踏み出したのも三回の占いがたまたまそういう結果になった、というだけです。

 『僕が殺した人と僕を殺した人』という題名はまぎらわしいです(これを書きながらどっちがどっちかよくわからなくなったことが何回かありました)。しかしそう考えると、この題名のまぎらわしさがこの小説の鍵なのです。僕が殺した人と僕を殺した人はまぎらわしく、どちらがどちらであってもおかしくない。「僕」は僕であって「ぼく」と必ずしも同じではない、けれどもまったく違うとはいえない。
 普通に読めば「僕」はユンであり、「僕を殺した人」はアガンとジェイ(と、少なくとも当人たちは思っています)であり、「僕が殺した人」は少年たちでありアガンの父です。
 でも、偶然が掛け違えば、「僕が殺した人」も、「僕を殺した人」も、だれになっていたかはわからない。
 「僕」が「ぼく」=ユンであったか、「わたし」=ジェイであったかも、ひょっとするとわからない。この物語のどんでん返しはジェイではなくユンがサックマンだというミスリードを誘発する仕掛けによって成立していますが、もし偶然がほんの少しでも違えば、サックマンとなっていたのはジェイで、弁護士になっていたのはユンだったかもしれない。というか、弁護士の息子であり、母親がより高い教育を受けさせたがっているユンのほうが、スラムで虐待されているジェイより遥かにその確率は高かったはずです。
 でも、そうはならなかった。
 たまたま偶然こういう物語になっただけで、もしかするとジェイの初恋は叶っていたかもしれない。
 だけどそうはならなかった。単にエンタメとしてどんでん返しがあるだけではなくて、偶然の哀切さを裏付ける仕組みとして、このミスリードは用意されています。この哀しさは、実際に読んでぜひ体験してほしいと思います。

 最後に、サックマンという名前について。少年たちの遺体がsac=袋を被せられた状態で放置されていたのは、袋を被せ、目を見ないようにしてアガンを殴りつけた、という台北でのエピソードに通じます(またその「袋」は作中では蚕の繭とも関連があるのですが、ここでは触れません)。そしてもうひとつ大事なのは、suck=吸う、という意味があることです。そもそもユンが殺人計画を立案したのは、つまりユンが「殺され」サックマンになるきっかけとなったそもそもの始まりは、「おまえ、ちんこが吸いたいんだろ!」とジェイを罵倒した、その罪悪感からでした。

 そんなわけで、東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』は、2018年メリバBLの最高傑作のひとつです。
 アニメ化か映画化でオタクを皆殺しにしてほしいのですが、まずは皆さん小説で殺されてほしい。オススメです。