連想・回想

 昔宇野千代のエッセイで、いつも座っている部屋の窓から外を見て、風景を文章にすれば自然と小説が始まると書いていて、半信半疑で試してみたがまったくうまくいかなかったことがある。筆を温めるというのか、小説は書けば書くほど書きやすくて、前の場面を活用して後ろの場面の駆動力に(要素の再利用、あるいは伏線ともいえる)出来る以上、小説は常に最初がいちばん大変だ。そこを慣れた風景描写から始めてしまえばあとはどうにでもなるということか、とその時は考えていた。その感想は今もあまり変わらないが、ただ最近になって身をもって実感するのは、小説の言葉というのは非常に書くのが面倒だということである。(詩を軽んじているわけではなくて、小説を書く人間には)詩というのはある程度は文法から自由なように見える。あるいは評論というのは存外いい加減な文体から始めても許される節がある(ように見える)。

 

 ただ小説は大抵の場合違っていて、なんだかんだ、誰それが何々をした、という行動の文章を書かなくてはならない。私が言っているのは非常に古臭い小説の一形式であって、世の中にはそういう古いしきたりから逸脱したものがいくらでもあるのだろうが、ともかく小説の文章というのは不自由になりやすい。たとえば自分の机の上について描写しろ、といわれても、これが小説だと面倒くさい。

 赤い紅茶缶、使い終わったまままだ捨てていない牛乳パック、葉の残ったポット、埃のうっすら溜まったキーボード、日曜日に中古で買った弦楽五重奏のCDと、ともかく要素を列挙することは出来る。でもこれを小説の文章にするとなると、「机の上には紅茶缶、……、が並んでいた。」と誰それが何々している式で書かなくてはいけない。これは、おそらく人間の頭に普通でない負担を強いる。少なくとも私が机を見て頭に思うことは、(視覚的イメージなのもあるが)「紅茶缶、牛乳パック、ポット……」という名詞の羅列で現れ出てくる。思考、つまり日常の文体においては、誰それが何々していた形式の文が出る可能性はおそらく私たちが思っているほど高くはない。

 小説の文章は、人間の現在の思考からはかけ離れがちである。

 

 たぶん記憶違いだと思うのだが、川端康成か誰かが、小説の文章修行に、通勤中に目に見えるものすべてを頭の中で小説の文章のように書きなさい、という方法を挙げていた気がする。電車に乗って見えるものすべてを言葉で描写してみるわけだが、これは(宇野千代がそうしたように)①ともかく言葉と外界のものの距離を近付ける練習であり、②「誰々が何々した」式の文章に頭をチューニングする練習である。「何々駅に電車がたどり着くと、真っ青な顔をした人々が汗の臭いをまきちらしながら入ってきた」というような思考は普通しない。

 頭の中でそんな文章を書くようなことは、意識せねばまずありえない。

 

 私は冒頭で人が死んだり居なくなったりするとかなりスムーズに小説が書ける。最近の書き出しをいくつか挙げると「彼女が死んだことを聞かされたのは、六月の終わりだった」とか、「死んでから話し始める奴には、うんざりする」とか、あるいは「ものを失くすのは多いけれど、不思議と鍵は失くさない」で、第一番目のはそのまま人が死ぬ。二番目も勿論死ぬ。三番目はルームメイトに出ていかれる話で、人間の不在である。かつて柄谷行人が人間の死と不在は厳密には区別がつかない、というようなことをどこかで書いていて(武田泰淳論だったかもしれない)これもほんまかいなと思った記憶があるが、ともかく人間が死んだ後や、大切な誰かが不在になった後(たとえば私は一時期人が失踪する小説を書きまくっていた)というのはとにかく小説として書きやすい。死は端的に終わりである。そこから先、現在が未来に向けて新しい何かを追加していく可能性は少ない。

 終わってもうどうもならなくなった後、というのは書きやすいのである。宇野千代の、とにかく目の前にあるものの描写から始めるのは現在から始める書き方だが、物事が終わった、という表明から書き始めるのは現在の断念である。基本的には過去にしか向かない。冒頭で人が死んだり失踪したら、まずもってその人に関する回想に続くのが自然だろう。

 つまり、(なんだか小学生式であるが)小説には現在から始まる文体と、現在を断念し過去に向かう文体の二種類がある。当たり前である。

 

 ところで、今たとえば海について描写する。私は海にいるわけではないので、そうなるとイメージ、というより正確には記憶の海について書くことになる。波打ち際とか貝殻とか、潮騒の音とか、風の湿り気であるとか、海鳥の影とか、犬を連れて砂浜を歩く人とか、遠くに見える漁船とか、そういう要素を列挙するだろう。それは私が直接訪れた海であり、あるいは映画で見た海であり、小説で読んだ海の描写でもあるが、とにかくそういった記憶の蓄積から要素を引っ張り出して、組み合わせていく。その都度思い出している、ともいえる。

 

 言語は今ここにないものについて語ることが出来るが、想像はしばしば連想の組み合わせであり、連想とは回想の組み合わせである(あるいは回想のエラーである)。想像力がそれ即ち記憶を思い出す力とイコールというわけではないが、記憶力、というより回想する力を培うことが想像のそれに繋がる可能性は低くないと思う。小説家の何人が日記好きか私が知るところではないけれども、昔辻邦夫の展覧会で彼の日記を見たとき、その日にあった出来事をすべて回想して書きつけていたのをなんだか怖いなあと感じたことがある。日記は小説を書くうえでひとつの訓練と見なしていいのかもしれない(もちろん彼の歴史小説は膨大な資料の上にあっただろうが)。あるいはその日にあったことを、寝る前に一通り回想してみるとかもいい。その場合は「誰々が何々した」式のほうがいいんだろう。

 

 文章の書きやすさとは連想のしやすさである。小説を書きだすのに苦労するのは、何かひとつ要素を最初に置いたところで、そこから連想できるものが乏しいからだ。「この人物ならこんな風に動くだろう」という発想もそれまで書いてきた行動からの類推、記憶からの連想である。現在を断念した追想から小説を始めると書きやすいのは、小説自体がしばしば連想-回想-追想から多く成り立つからである。たくさんの今ここにないものについて、想像して、連想して、回想して、書かなくてはならない。

 想像-連想-回想は、小説の生理の根元である。

 

 あるいは、これも誰がちゃんと書いたのかは忘れているが、現代小説に認知症的な文体(……というのもなんだか各人によって意味するところがばらばらなので難しいところだが)が頻出するのだとしたら、それ自体が小説の書きづらさの無意識の結晶、とは言えるかもしれない。記憶、正確には記憶の回想能力に関する小説は、しばしば小説についての小説に見える。

 

 桜、猫、電車は認知症のスクリーニングに使う決まり文句であるが、桜・猫・電車と列挙されたところでなにかひとまとまりのイメージを編み上げるのは難しい。自分の中の猫の記憶、桜の記憶、電車の記憶を呼び起こしてみると、「電車に乗って家族で桜を見に行ったことがある」とか「桜の根元で太った猫が寝ていて図々しいと思ったことがある」とかエピソードに繋げることが出来て、これなら(面白さはともかく)小説になりそうである。こればっかりは各人の記憶の性質(あるいは持ち合わせる語彙の偏り)によるだろうが、私は「あそこで見た桜は濃い茜色で、桜色というよりはもっと中国風の力強い色だったなあ」というような記憶はあまりなく(よくわからない例示だけど)どうしても誰々が何々をした式の記憶のほうが多い。

 

 なにかひとつの核となる中心をおいて、そこから派生して連想された言葉を頼りに小説を書くやり方があるとして、たとえば「桜」から「春」「団子」「花見」「入学式」を連想してみる。「春」はあまり役立ちそうにない。「団子を自分で作るのは意外と面倒だった」とか「入学式の日は桜がきれいで思わず立ち止まった」とか「母が花見を嫌がっているうちに雨で全部花が落ちてしまった」とかそういうエピソードの形に変換-連想すれば、小説としてのとっかかりは見つけやすい。何も思い付かなければ自分の話で、あるいは他人の小説なり、映画や漫画なり、ともかく自分の話でないものを回想できたのならそれも小説に使える。もっとも、後者は自分を主語として記憶していないだけで、本当は自分の話なのかもしれないが。