文学のサービス終了(ドリフェスの死から1か月経って)

 ドリフェスのサービス終了が告知されて約一か月が経った。別にソシャゲに限らず終わらないものはないわけで、物事の終わりについていつまでも野放図に語り続けるのは私はみっともないと感じる。特に私は抑制、筆を抑えることが持ち味の作家が好きな分、喪失についての抑制の利いていない語りというのは肌感覚として受け入れ難い(私のなかでは須賀敦子とか津村節子とかである)し、自分で書いていてもどうかと思う。が、色々と雑感はあるので、とりあえず書いておく。ちなみに他人の批判とかではない。

 

 どう考えてもよくわからないのは、言ってしまえばソシャゲのサービス終了ごときにここまで感情を費やせる自分である。端的に人間の死に匹敵するようなものを感じてしまった、その理由である。
 これはどう考えてもおかしい。
 いくつか比較して考えてみる。たとえばコンシューマ型の売り切りのゲームだと、最初からソシャゲのようなデータ更新は無い。あるいは小説だと、私が読む小説の作者は大概死んでいるので、これ以上の元々のコンテンツの更新というものはない。私は別に作家が死んでも大したショックを覚えない。ある優れた大学教授の作家が逝去したとき(稲葉真弓という優れた作家です)その教え子である友人がひどく悲しんでいて可哀想だな、とは感じたが、私自身としてはその人の死になにか感じるところがあるわけではなかった。個人的な付き合いがあるわけがないし、まず著作を全部読み切っているわけではないから今後の著作目録が更新されようがされまいが別に影響はない、と無理やり理由をつけることは可能なのだろうが、とにかくなにか近所の人が死んだ、というぐらいの感情の動き方しかなかった。
 たぶん私が好きな存命の作家、たとえば津村節子なんかはそのうちに亡くなられるだろうと思うが、だからといって何か感情が動くかというと、おそらくない。それで傑作『紅梅』や『星祭りの町』が読めなくなるというならたぶん名残惜しい気分にはなるだろうが、手元に本は残っている。

 

 私が知っている人間の死を体験したのは一例だけで、文芸サークルに所属していた先輩が自ら命を絶ったことがあった。同じ場所に属していた人間は全員がそれぞれのショックを覚えただろうし、私は混乱して、小説をやっていると人間は死ぬんだな、とよくわからない結論に至った。ちょうど小説で色々あって鬱屈していたのもあって、それを勝手な理由にして小説を投げ出していた時期もあった(資格試験が近付いていたという状況もあったが、難度から考えるとあまり大した理由とは言えない)。
 一応は医療従事者である。ちゃんと担当していたと言える方が亡くなられたのは三例。うち一例はそれなりに言葉を交わさせていただいたこともあって気分が重かったし、うち一例は後悔もある。
 人の死とたかだかコンテンツの更新終了を同列に語るのは私は冒涜であると思うし、ここまで書いてきてやっぱり後者に対して「死」という言葉を当てはめるのは絶対におかしいと感じる。が、にもかかわらず、何かしら後者に前者へ通じるものを覚えてしまったのも(非常に不本意であるが)確かだ。その先輩が亡くなられた時にも思ったが、私は自分が想像しているより冷静でないときがずっと多いんだろう。

 

 ソシャゲの「死」とは第一に更新終了であり、第二にアプリの使用不可だろう。
 データが更新されなくなってもアプリがアーカイブとして残るのであれば何らかの記憶の端緒として残り続ける。作家が死んだところでその著作が手元に置いていればなんとなく死んだ気はしないし、別に死んだところでどうでもいいとすら思う(私が好きな批評家の秋山駿は、死に際に非常に優れた本を書いていたりするし)。何の記憶かというと、ソシャゲの更新を楽しんでいた過去の記憶である。
 ソシャゲはそれなりに人の人生の一部分に食い込むわけで、最初からそういう時間感覚のもとで作られている。ソシャゲのサービス終了とはそのような遊びの時間の終わりでもある。更新が終わったところで手元に記憶を遡れるものがあれば死んだ気はしない、あるいは昔の作家のように最初から死んでいれば更新は自分が読んだ分だけ成されるのであって、大概の作家は全著作まで読むには至らないので、要は作家なり小説なりは永遠にサービス終了しないのである。文学はサービス終了しない(書いてて思うが馬鹿過ぎる)。
 記憶だけでは、記憶の更新はない。大切なのは記憶を遡りうる紐なんだろう。私はその先輩が死んでからいくつかその人との思い出を書いたが、思い出すところはいつも同じ情景ばかりだし、たぶんこれからもそうに違いない。都合のいい勝手な解釈を避けようとするならば、どのみち記憶というのは同じ部分ばかりを反復する羽目になる。小説は読むたびに印象を更新し続ける。たとえ作家の著作を全部読んだところでまた見返せば印象の更新なり新しい発見なりはあるわけで、むしろそこで「もう読んで大体わかった、こいつはこういうやつだ」と思い見なしてしまった時点がその作家の(読む側の問題なのだが)サービス終了だ。
 「まだここには何かがある」という予感が文学のサービスを継続させる。実際、どう読んだっていい加減なことしか書いていないような著作家でも何となく凄そうに見えるのは「ここには何かがあってほしい」という漠然とした期待である例が多いだろうし、またそうした予感を文体に漲らせる作家というのは、読んでいて興奮してしまう。小説なんて所詮とか、思想なんて所詮とか、そうした予感を捨てた要約に入り込んでしまったとき、その人のなかで文学はサービス終了しているんだろう。

 

 要約とは要するにこういうことでしょう、という無意味な先読みである。実際はしばしばその先読みは外れていて、要していない微妙な部分にこそ肝心な更新がある。私の好きな批評家の山城むつみは、しばしば「この違いは微妙だが重要である」というレトリックを使う。微妙な差異のうちに重要な何かを読み続けられるところに山城むつみの読みの熱量はあるし、また小説を書くうえでも、この微妙な差異にどれだけの喜びを感じられるかが、熱量の維持範囲を決めるのかもしれない。

 

 「いつも同じ展開ばかり」と感じるようになればいくらソシャゲでも飽きる。そういう反復を避けるために、毎回少しずつ趣向を変えて新しい展開を出し続けねばならないのがソシャゲの大変さかとも想像する。文学はそもそも人間が書いていて、老年ならともかく青年から中年期というのはそれなりに変化の連続なので、小説というのは本当に(あまりに当たり前ですが)書くごとに更新がある。書いていて「あ、これは前にも書いたやつだ」と思っていても何かしらの微妙なアップデートがあるべきだと思うし、それが無ければ小説なんて書いていられない。
 
 私は小説にはそれなりに普遍的な技術論があって然るべきと思ってそういうものを考えたし、その真似事めいたものを書き継ぎもしたけれども、書いたところで何となくそれを使う気にならないことが殆どだった。小説を書くための道具作りは、それ自体が小説にでもならない限りあまり書く上での面白さはない(読むうえで明晰に見通す楽しさはあるだろうが)。また繰り返し使うモチーフがある。お茶を飲んだり電車に乗ったりすると小説が進みやすい。ある程度の反復、使いまわし、マンネリは誰が小説を書くうえでもあるだろう。が、そこには必ず「微妙」な差異がある。そこを自分で嗅ぎ付けられるかどうか。あるいは「これは一見今まで書いたものと同じようだが、けれど絶対的に違う何かがここにある」という確信を持てるかどうか。
 ただまあ、今時そこまで「文学」と呼べるものを信仰するのは時代錯誤だろう。私はいつまでたっても文学的な趣味趣向を捨てられないところがあって、(こういう文章自体がそうだが)どう考えたって馬鹿馬鹿しいし、人に自慢出来る趣味でもないし、またそうした劣等感を裏返してやけに人に大きく出たり文学の重要性をでっちあげてみたりする体力も無い。津村節子須賀敦子山城むつみも秋山駿も稲葉真弓も話に出したら「誰だよ」という顔をされるに決まっているし、別にそれでいい(というか知ってる人間のほうがたぶんおかしい)。文学と政治を連続させられる気力もない。あらゆる意味で私は幼稚なんだとは思うし、たかだかソシャゲごとき、と自分で言い捨ててるのはあんまりにもあんまりなのだが、に「死」を感じてしまうのもそういうところかもしれない。ソシャゲの話から小説の話に連続していくのもそうだろう。

 

 売り切り型のアプリと、更新の終わったソシャゲでどう違うのか。私はよくフィクションの続編や書かれていない日常の細かな描写を想像するのが好きなので、そういう妄想の遊びを売り切り型のコンテンツで繰り返してきたのだが、ドリフェスでそうした勝手な補完をする気があまりしない。少なくともサービスが終了してからはあまりしないだろうと思う。この差異がどこから来るのかはよくわからない。
 
 ただ、人間は仮構にそこまで入れ込めるのか、というのを自分で体感したのはちょっと驚く経験だった。2.5次元コンテンツは私小説に通じるところがあって、基本は仮構/フィクション/2次元なのだが、ベースの一部に現実/伝記的体験/3次元が含まれている。私は2次元としての黒石勇人が好きだったので別に3次元のキャストはどうでもいいかなあとすら思っていたのだが、たぶん、2.5次元としてのそういう性質に、予想外に親和性があったんだろう。ただそれを差し引いても、自分がそこまでフィクションに没入出来て、しかも「死」を感じられるのは衝撃だった。他の人がそう感じていても当然に他人の自由だが、自分に対してはちょっと困るというか、戸惑う。これは私の感性の問題なのかもしれないし、あくまで仮構でしかないキャラクターにそこまでの「命」を吹き込んだ、プロジェクトのよくわからない力なのかもしれない。


 自分が私小説を読んでいて、とっくに死んでいるはずの作者を「生きている」としか思えないときがあって(もはやこんなんオカルトである)たぶんドリフェスにおける「命」とはそういうものに近かった。
 自分とは全然遠い、ほとんど架空のフィクションの存在に近いような死者が、にもかかわらず自分のすぐそばに居るような理解不可能な錯覚がある。自分が視ているとしか言いようがないような、しかし言葉にするならば妄想と呼ぶしかない知覚、距離がある。そういう感覚がある限り現実の作者が死んでいようが生きていようがどうでもよくて、こういうのを「生きて」「いる」と称するのは言葉の誤用でしかないのだが、やっぱり文学はサービス終了しないんだなあ、と直感的に感じてしまうし、小説は人間の生命の再生装置なんだと、わりにありふれた結論で、何の話をしたかったのかわからなくなってきたが、そんなところだ。