ソシャゲの葬式 ドリフェスと黒石勇人について

 とりとめのない話。

 言うまでもなくソシャゲは終わりがある。コンシューマーゲームでない以上は避けられない宿命であって、アプリのサービスが終わればそこで終了である。ドリフェスの場合、五次元コンテンツという側面がある以上、三次元のキャストとの兼ね合いはあっただろう。
 まあ、ごく一部の界隈だけを見ていると言ってしまえばそれまでだろうけれども、(なかなかえげつないガチャのシステムもあって)収益はそれほど悪くなかった、と思う。個人的な印象としては、KUROFUNEのSAKURA LETTERを実装したあたり、SRも恒常追加ではなく期間限定にしたあたりから、ドリカや背景のクオリティも上がったような気がしている(もちろんインペリアルガーディアンとか、ワイルドガイズとか、ローズブリットとか、優れたデザインのドリカも当然あるけれども、どちらかといえばそれ以降のドリカのほうが好きだ。特にSR)。モデルのクオリティも、今年に入ってかなり上がったし(それだけにちょっと今回のサービス終了はショックが過ぎた)。

 私はそれまでのジャンルが刀剣乱舞(今もキャラは好きですが)で、かつ刀が舞台化されてもまったく興味が沸かないタイプだったので、三次元のキャストにはやっぱりさして興味がない(太田さんと株元さんは人柄としてはかなり好きだが)。ドリフェスの場合、特にDDは、三次元のキャストの成長もコンテンツの売りにしていた側面があった。二次元のキャラは三次元のキャストのライバルだ、と監督か誰かが言っていたような気がするが、三次元キャストと二次元のキャラが、本当にうまく、並列に扱われていたと思う。
 プロジェクトとしてのドリフェスのフィナーレは、武道館である。圧倒的に三次に偏っているようであるけれども、三次にさして興味のない私でも、これが正しかったと思う。三次元のキャストにとって、二次元のキャラはライバルなのであり、競い合い、そしてどこかで乗り越えるか、別々の道を進まなければならない。二次元のキャラと三次元の人間にどっちが重みがあるかというと、これは、素朴に言って、やっぱり三次元の人間のほうだろう。
 逆に、二次元のキャラに負けてしまうような三次元の人間に、たとえばいちばん好きだった黒石勇人を演じてほしくない。色々解釈はあるけれども、二次元の世界が先に終わって、その先に三次元のキャストがある、というようなイベントの配置の仕方は、(かなり悔しいし、正直、苛立ちさえするけれども)間違いではないと思う。終わり方としても、いつでも繋がれるアプリ、二次元の世界がずるずると生き延びるのでは、やっぱりうまく締まらない。
 それは心残りはある。私は黒石勇人が本当に好きだったのでシナリオは絶対に実装してほしかったし、途中から片桐いつきも好きになってしまったので、ユーアーマイライバルもアプリで見たかった。ドリフェスのアプリは本当に素晴らしいソシャゲで、たとえばMay Be Ladyでも1stと2ndで衣装が違ったりするわけだが、曲・振付・カメラワーク・ドリカどれもが最高だった(チヅは永遠にカメラから見切れていたが)。
 本当に悲しい。私は黒石勇人が死ぬほど好きで、黒石勇人に死ぬほどかっこいいドリカを着せてかっこよく踊ってもらうのが本当に楽しくて楽しくて、2016年冬~2018年春まで本当に黒石勇人が最高という気持ちだけで生きてきたようなものなので、アプリが終わって黒石勇人に会えないのはとてつもなく悲しい。正直もうラストのイベントなんかやりたくない、というぐらいの気持ちがある(ライトニングボルト勇人くんたぶんガチャだろうし……)。

 が、別にそんな個人の感情はどうとして、この終わり方はなんとなくしっくり来てしまう。それが、すごく悔しい。

 プロジェクトとしてのドリフェスについては、私はあんまり良いファンでは正直ない。
 まず三次元のキャストにほとんど興味がないのもあったし(途中から株元さんと太田さんは好きになりましたが)
実のところ一部の回を除いてアニメがあんまり好きでないのもある。1期は繊細な人間模様をきっちり描こうとしていた。特に佐々木・片桐・及川の心理描写は素晴らしかったし、私は全然奏と純哉の組み合わせにテンションが上がったりはしないのだが、それでも互いの本音を慎くんの提案で互いに言い合う場面は本当にぐっときた。
 それだけ精妙な物語を作りながら、DDとしてのひとつの明るいエンディングで締めようと、理由なくKFを負けにする展開には納得がいかなかった。2期は逆に、1期でしっかりとDD個々人の問題が描かれたせいで、もはや描くべきものがないのでは、と正直思った。たとえば2話と3話のKFの物語は抜群によく出来ている。Future Voyagerのライブ場面は一週間の無料配信で何回見たかわからない。でもたとえばファンミーティング回とか、奏が骨折を気合でなんとかするラストとか、勇人くんが歌う理由を見出す回とか、要素要素は良いのに、それを貫く物語論理が弱い。
 アニメドリフェスが一貫して抱えていた問題は、心理や関係性の描写が丁寧であるにもかかわらず、一個の関係や心理だけで設定が終わってしまって、それ以上のものを描きにくい、というところだった。
 また描くための材料がない。DD/KFの物語に焦点を当てすぎてしまって、それ以外の部分が疎という印象がある。
 これはどうやったって仕方ない問題である。それ以上に何か葛藤を作ろうとすると、たぶんものすごく暗くなる。
 2期の最終話がライブシーンの総集編なのは、予算もあっただろうが、あれ以上なにを描けばいいのか、というのもあったと思う。劇場版を望む声もあるし、私もやってほしいかほしくないかで言えばやってほしいけど、でもたとえば1期のいつき・純哉くん・慎くんを中心とした回や、2期のKF回を超えるような出来栄えの作品が出来るとは、あんまり思えない。優れた回はとびぬけて優れているけれども、だからといってすべてが平均的に優れているとはちょっと言えないし、24話というクールで描ける内容と、ジャンルとして明るい作風とはマッチしづらい。
 この描ける物語の少なさ、世界の狭さは、最初から2期で終わることを予定していたのではないかと個人的には思う。

 アプリはアニメの補完、サブエピソードでしかないはずだが、私はこっちのほうが(アニメの好きな回を除いて)ずっと好きである。たとえばマリンライブで圭吾が勇人と買い食いをしたがるシーンとか、DIVE TO SNOWで雪玉を投げ合うシーンとか、まあKUROFUNE中心なのは否めないが、そういうささやかな細部、ディテール描写のほうこそ面白かった。これは私が物語よりサブエピソードや細部描写のほうが好きな性質なのもあるだろうけれども、アニメドリフェスは繊細な描写に反して物語の論理が大味だし、これはキャラクターの過去や葛藤を詰め込み過ぎるわけにはいかない以上、どうしても仕方ないだろうと思う。そうなると細部や、なんでもない日常の描写、ちょっとした関係性の露出のほうがよほど光りやすいのは、たとえば刀剣乱舞の二次創作なんか見てもそうだと思う。
  あと、ああいう力の強い物語を日常的に味わうというのは、なんかしんどい。アプリドリフェスのシナリオは大体軽くて、毒っ気がなくて、オールキャラギャグ(特定CP寄り)みたいなもんであって、それでいいのである。
 
 話が逸れたけど、私はポリゴンが今ほどクオリティが高くなかったときから、とにかくアプリが好きだった。最初に揃えた報酬URはワイルドガイズで、それまで刀剣乱舞だけやっていたのもあって、課金とは狂人だけがやるものだとも思っていたが、とりあえず回復薬にだけ課金した。大学図書館二階のラウンジで必死になってUp to Speedとバードケージのノーマルを回し続けた。ダークラグジュアリーコートが一式揃っただけでもとにかく嬉しかったし、ワイルドガイズは最高だった。ペラペラというかペタペタの腹筋モデルはなんか紙人形みたいだと思ったがそのうちに慣れて、逆にMステがキャラの筋肉をかなりくっきりと描いてるのにびっくりした記憶がある。
 そこからはあまり課金の記憶がなく、ターパレver奏もナイトゼブラも揃っていないので、たぶんほとんど課金していない。バレンタインデビルの気狂いっぷりとボーダーの高さには絶叫した。国試直前は憂鬱で、布団にくるまってあなたの瞳で踊りたいをたたき続けていた(ローズブリット勇人くんはかっこよすぎて大興奮した。今でも好きなドリカ)。社会人のようなものになり、ブロッサムワルツが実装されたときから、一日一万円で回し始めるようになった。最終日にブロッサムワルツの靴が、タリーズの二階席で引けたときのことは今でも覚えている(いちごのアイス付きのケーキプレートと、大量にはちみつを入れた紅茶を机に乗せていた)。
 当時の職場に近かった道玄坂を下りながらガチャを引き続けたが、それでもインペリアルガーディアンは一度も引けなかった。チアフルジャムは今でもよくわからないドリカだが、ブロッサムワルツはとにかく好きだった。眼鏡と合わせるのが特に好きだった(マフラーのキャラが好きだったので)。ディアフューチャーは、当時たしか学ランのドリカが無くて、アニメの勇人くんの学ランが好きだった私には着せて楽しいドリカだった。ワンデーポリスマンは、ちょっとデザインが力尽きた印象はあるけれども、それでも最高だ(勇人くんはジェントルホテルマンとか、かっちりした制服がよく似合うので)。ハングリーウルフが報酬になったときはマジで運営を恨んだ(そらニューセイリングはガチャでしょうよ)。ホワイトオーキッドはこっちに握り拳を放ってくる黒石勇人にテンション爆上がりしたし、競い合うKUROFUNEが可愛すぎて最高だったし、キャンブロRver慎くんを着た勇人くんはワイルド系だが完全に正統派の王子だった。インフィニットヴォヤージュはなぜか圭吾だけ揃った(悔しい)。ラフグラフィティKFは2万円で引けた。あのラフで、シンプルで、しかもワイルドな恰好が本当に勇人くんによく似合う。シーサイドネイビーは海兵の制服なので当然勇人くんに似合い過ぎる。ソーダスプラッシュは初めて揃ったガチャURだった。
 進む決意! 二人だけの海賊は本当に、本当にうれしいイベントだった。FACE 2 FAITHは神曲だし、けっこう長い間放置されているわりにガチャだけはなぜかきっちり課税されていくKUROFUNEの、最高の新曲だった。おまけに期間限定SRのバッカニアレイドがとにかくかっこよかった。シンプルでワイルド、それかかっちり固まったフォーマルがとにかく勇人くんには似合うのだが、今でもバッカニアレイドは期間限定SRの最高傑作だと思う。軍服もかっこいい。追憶のロンドンも素晴らしかった。クロスエコーも素晴らしいがアフタヌーンプレッピーも、育ちの良い勇人くんによく似合う。このあたりのSRドリカは、ガチャURドリカよりも良いのではないかと思えるぐらい素晴らしい出来だった。ヌーディストブルーはかなり笑ったが、これとサンダーボルトハーフパンツの組み合わせは格闘家っぽくて正直かっこよかった(人前でやるのはかなりはばかられるが)。
 湯けむり温泉合宿は勇人くんの入浴ドリカは引けなかったが、それよりもきつかったのはジェントルホテルマンがなぜか一向に揃わなかったことで、SRであるにもかかわらず550連揃えるのにかけている(気が狂うかと思ったが、ほかに金の使い道もないし勇人くんはやっぱり制服がよく似合うのでまあ良し。ちなみにフォロワーは確かラフグラフィティKFに500連出しても揃わなかったので、このあたり、アプリの仕様にバグがあったとしか思えない)。マリーミーは頭おかしいのかと思った(揃いました)。インペリアルガーディアンがここでSRで揃って、Ver勇人くんトップスを着せたときのあまりのかっこよさに唖然とした。ヴァレンタインファントムシーフは当然フォーマルなのでかっこいい(そればっかり)。AFSイベは黄色は勇人くんに似合わないと思ったが揃えるとかっこよかった(本当にそればっかりだ)。
 それで、たぶんライトニングボルト勇人くんはガチャURになると思う。さすがに最後は奏が報酬だろうから、これは仕方ない。仕方ないけども、たぶんライトニングボルト勇人くんは引き切れないし、引けるまで金を払い続ける気力も、正直ない。
 
 恨みとか、寂しさは、あんまりない。仕事がちょっとバタバタしているのもあるが、正直忙しいのもあって、あんまり感情が沸かない。ただこうやって、軽くイベントとドリカを振り返ると、本当に黒石勇人が好きだったなあと思う。スマホの中に何枚スクショがあるかわからない。だいたいドリフェスを始めたのも黒石勇人がカッコ良かったからで、もっと言えば刀剣乱舞同田貫と要素要素がかなり近いからだ(短髪、黒髪、目つき悪い、ストイック、わかりにくいが熱血で、なんだかけっこう世話見がいい。最悪な理由である)。
 死ぬほどかっこいい黒石勇人に死ぬほどかっこいい、でも派手過ぎず、シンプルな衣装を好きに着せて、素晴らしい曲の数々で踊らせられるアプリが、それはもう、出会ったときからずっと好きだった。インペリアルガーディアン、バッカニアレイド、クロスエコー、ローズブリット、スパークリングアイズ、ブロッサムワルツ、シーサイドネイビー、ホワイトオーキッド、ミリタリーロック、アフタヌーンプレッピー、ボーイフレンド、ジェントルホテルマン、ヌーディストブルー、ローズシャイニーver勇人、どれも本当に最高のドリカだ。
 何気ない、でもたとえば黒石勇人と風間圭吾の最高の関係性が滲むちょっとしたエピソードの数々や、物語とはきっと呼べない、彼らの日々の断片を読み進めるのが、とにかく楽しかった。
 ガチャの悪口をボロカスに言うのも楽しかった。UR3枚ダブりはいつか同シリーズ別種に交換できるんじゃないかと思ったが、結局そんなことはないまま、プレゼントボックスに大量のダブりURが詰め込まれている。どれだけ所持上限を引き上げられても、プレゼントボックスは満杯になった(1000枚なんか、本当にびっくりするほどすぐ埋まるのだ)。不要ドリカをひたすら捨て続ける作業は空しく悲しく憎たらしく、FGOみたいにサクサク削除できないインターフェースには怒りが爆発しそうだった。でも、そういう意味不明なダルさですら、今となっては懐かしい。
 それが悲しい。ラストイベントを走る前から、まったく論理の通らない、ばかばかしい懐かしさにつきまとわれている。もう終わったような気分でいる。私にとってドリフェスとはほぼアプリのこと、さらに言えばアプリの中の黒石勇人と同義なぐらい黒石勇人が好きだったので、そんなに遠くない五月のどこかで、もうドリフェスと会えないということが、ただひたすらに悲しい。そのソシャゲであるが故の、必然的な終わりを頭ではわかっていながらも、いざやってくるとこれほどずんとした、重い痛さとしてやってくるのを、ばかばかしいと思うし、また全然笑えない。
 最初から最後までとりとめのない話ばかりだったが、2年近く取りつかれていたものが自分から遠く、絶対的に届かないところに過ぎ去っていく経験というのは本当に初めてで、その時間、記憶、喪失を美化できる体力はない。たかがソシャゲ、たかが画面の向こうの仮想の存在にこれほど入れ込めるのも自分でもよくわからないのだが、でも人間は幻想と現実の区別がたとえついていても、幻想にはいくらでも入れ込める生き物なんだろう。一秒でも、一分でも黒石勇人の声が聞きたいと思うけれども、一方で、もうアプリは終わったものだと距離を取りたい気持ちも、正直ある。今更振り返って、また痛い気分にはなりたくないのだ、というところではある。
 まとまりのない文章なので終わりらしい終わりもないのだが、つい昨日、雑誌で見たこんな短歌が、胸を衝く。
 「誰かが死んで死んだ誰かがしてくれたことだけ泣きしゃべる喪服のひと」と、最初に置いて、

 つまりわたしもそういうひとか してくれたことばかりおもいうかんでくる(斎藤斎藤/『歌壇』3月号)

 別にたかがソシャゲのサービスが終わったわけで、そこに人死にとか葬式とかを持ち出すのは明らかに過剰なのだが、こんな文章を書いていてつい思い出してしまうのはこんな歌で、ばかばかしいことこの上ないが、それでもやっぱり、葬式の歌が思い浮かんできてしまう。ソシャゲに葬式があるかと自分を笑ったところで、仕方ない話である。【了】