メギド72『守りたいのは、その笑顔』について

 『守りたいのは、その笑顔』は、ネフィリムとニバスの戦いの物語だ。それは同時に、6章の「戦後」を描く物語でもある。
 2018年末の6章2節以降、メギドがイベントシナリオで繰り返してきたのは6章の主題の再奏だった。たとえば家族を2章の王都侵攻作戦で失い、その感情のやりどころを見つけられないまま凶行に走った『聖女と魔獅子と吸血鬼』のニコは第6章のハーフェン(葬送騎士団)の在り得た姿でもあるし、『その交渉は平和のために』から繰り返し登場しているフルカネリ商会も、ヴィータ自身の自主防衛の是非、メギドという異種族への嫌悪において、同様に葬送騎士団の変奏である。6章の物語で書き切れなかった部分を補筆したのが、6章と7章の幕間のイベントテキストであるともいえる。
 6章はヴァイガルドを護る戦いであり、同時にソロモン自身が「碑」に徹すること、自らを殺すことで自らを護るしかなかったという意味でも防衛戦だったと思う。その主題は『折れし刃と滅びの運命』から、更に7章の特にモラクス・ウェパルとの対話で繰り返し描かれている。すなわちソロモンの「戦後」の主題が描かれたのが『折れし刃と滅びの運命』であったのだが、その文脈で読むならば、『守りたいのはその笑顔』を中心とした物語群は、ヴァイガルドの「戦後」を描く物語でもあった。
 それを演ずる最高の適役が、道化師ニバスであり、そして「化粧」の練習を始めるネフィリムだったと思う。
 
 まずはイベント本編を見ていこう。
 そもそもの前提として、ニバスは戦争社会に生きるメギドとして極めて特異な性格をしている。2019年前半はヒュトギンやアルテ・アウローラを中心に、年末にかけてアガレス、ニスロクとメギドの異端児を主役に描き続けてきた傾向は、本イベントでも持続している。ニバスはまず何よりも「道化師」であり、その思想が語られる場面はこれまで二度あった。
 第一は無印のキャラエピだ。病気の少女を笑わせるために命がけの綱渡りを行う場面である。

ニバス
「道化師は人を笑わせるために
どんな無謀なことにも、
どんなバカげたことにも挑戦するの
人を笑わせることに
全力で命を懸ける…
それが道化師なんだよ」
(Rニバス・8話)

ニバス
(やった…ついにやったよ!
私の曲芸で皆を
笑顔にすることができた!
私はこのために
道化師になったんだ…
メギドの頃から落ちこぼれで、
何の取り柄もなかった私に
ただ1つできること…
私は笑わせることで、
人々を幸せにしたかったの!)
(Rニバス・11話) 

 実はニバスが「落ちこぼれ」なのは戦争社会に馴染めなかっただけに過ぎない、という後付けがあるのだが、いずれにせよ誰かを「笑顔」にすることがニバスの願いであり、個である。

 それが戦いの中で語られる場面がある。メインストーリー第6章で、マモランティスの構成員と対峙する場面だ。敵を挑発しながら逃げ惑うニバスは、「メギドの誇り」がないのかと問われ、「今は心の棚の上で埃被ってます」と答える。「下級メギド」と謗られても道化に徹し、逃げ続けるも、敵のメギド体に追い詰められる場面である。

ニバス
(私は…
…勝って相手を見下すような
笑いは「嫌」なんだ!
もっと幸せな…
私と、見てくれた人両方を
笑顔にする「戦い」こそ…
…「芸」だ
私は、それを極めるために…
そのために、この世界で…)
(本編第58話・4)

 自分と観客の双方が「笑顔」を得られる戦いこそ、ニバスの「芸」である。もちろんこの「笑顔にする戦い」は、直接的な武力の衝突ではない。でも、ニバスにとって「自分」と「観客」の両方を共に笑顔にすることは、本来のメギドにとっての戦争と同じぐらい真剣な「戦い」なのである(こういう価値判断の異端こそ、ニバスが「道化」たる所以かもしれないが)。それは観客に対する戦いであり、自分の限界に対する戦いでもあるだろう。『守りたいのは、その笑顔』でもっとも目を惹くのは、二つの「戦い」がパラレルに描かれる構成だ。具体的には、対コンチェイと、対キノミである。

ニバス
「あのさ…
私やっぱりこの街に残っても
いいかな?
(…)キノミちゃんのこと、
やっぱり心配でさ…
ネフィリムさんがいるうちは、
あの子が笑わなかったとしても
そのうち笑うかなって思えたけど…
ネフィリムさんがいないんじゃ
あの子、ずっと辛いまんまだよ」

ソロモン
「それはそうかもしれないけど、
でもずっとネフィリムに頼るって
わけにもいかないだろ?」

ニバス
「そう! だからこそだよ!
私は「今」あの子を笑わせたい!
今のあの子に必要なのは絶対に
「それ」なんだって!
どういう身の上かもわかんないし、
どんな辛い目に遭ったのかも私には
知りようがないけどさ…
それでも…ちょっとでも笑えれば…
その一瞬は辛いことも悲しいことも
忘れられるでしょ?
(…)私は昔から戦争なんてどーでもいい
ただ自分の芸で誰かを笑わせたい…
笑顔にしたいだけなんだ
そのためにヴァイガルドまで来て…
あんな「笑い」を必要としてる子を
放っとくわけにはいかないよ!」
むしろそれこそが…
みんなを芸で笑顔にするのが
私にとっての「戦い」だもん!」
(第04話・2) 

 ネフィリム不在の「今」だからこそ、深く依存するネフィリムから引き離された辛さ、悲しみを一瞬でも「忘れられる」ための笑いが必要である。そしてそれは幻獣に襲われた人々を助けるための「戦い」と同じぐらい真剣な「戦い」なのだ、というのがニバスの考えだ。

 ニバスは何故キノミを笑わせることが出来たのか。
 第一は、酒場の主人から譲り受けたストリートオルガンのおかげだ。旅芸人を名乗ったニバスとアスラフィルの芸を気に入った酒場の主人が、何かの役に立たないかと夜の宿にストリートオルガンを持ってくる。生物ではなく、物が自動で音を立てるのを見てキノミは喜ぶ。ここでキノミが喜ぶのは、後述するような「グルグル」と「パ」という緊張と弛緩の動きだ(たぶん「イナイイナイ」「バァ」に近いのだろう)。第二にはニバスが無意識に行っていた「緊張」と「ほぐれ」である。

ユフィール
「たしかにキノミちゃんはあの
オルゴールに夢中でしたけど~…
キノミちゃんが最初に笑ったのは
ニバスさんを見て、でしたよ?
(…)笑いって、緊張状態が緩和されると
生まれるそうなんです~
キノミちゃんはあのとき、とても
真剣にオルゴールを見つめていて…
それがいわば緊張状態ですね~
ところがニバスさんがそこで
転んでしまったことで緊張状態が
不意にほぐれて思わず笑いが…」
(第05話・END) 

 キノミは何故笑えなかったのか。それは芸に興味がないというよりは、ヴァイガルドに逃亡した直後であり、更にネフィリムと分離されることで常に緊張状態にあったからだろう。
 ストリートオルガンという別の対象に一旦注意が移動し、更にニバスの転倒で緊張が「不意にほぐれ」たことが笑いに繋がった、というのがニバスの戦いの論理だ。たとえばここで、ニバスの芸のひたむきさに心打たれて、というようなロジックを採用しないのがメギドらしい作り込みだと思う。この笑いは、むしろ芸の真摯さは関与しない達成である。

ニバス
(そっか…私は自分の芸を完璧に
こなして見せつけることしか
考えてなかったのかも…!
芸が高度になるにつれて、
「すごい」って感想になって
笑いが起こりにくくなって…
そして笑いがないから次第に
飽きられていく…!
大事なのはバランスだったんだ…
真剣さと緩さのバランス…!
音も芸もその手段のひとつ…!)
(第05話・END) 

 真剣な気付きであると同時に、ニバスがモグラを「師匠」と尊敬するのがまさに「真剣さと緩さのバランス」という感もあるが、そもそも「自分の芸を完璧にこなして見せつけること」は、何よりまず自分が緊張状態にあり、己の「笑い」からは程遠い。対マモランティス戦でニバスが先行して気づいていたように、本来ニバスの「芸」とは自分と観客の双方を笑顔にさせるための戦いだ。芸の達成だけに意識が集中してしまうと、まず自分が本心から笑えなくなる。緊張が客にも伝播して、「すごい」という感想は得られても、笑顔からはますます遠ざかる。これは作中には描いていないが、「緩さ」とは、ストリートオルガンを回しながら思わずずっこける自分を、他ならぬ自分が笑い飛ばす態度なのかもしれない。
 ニバスは既に「真剣さ」は十分過ぎるぐらいに得ている。リジェネレイトのきっかけになっているのは、「緩さ」すなわちコメディの会得である。
 物語の結末で、再びニバスとネフィリムが並び合う場面を読み返せば、その変化は明らかだ。まずは飽きられているときのニバスの演技を見てみよう。

ニバス
「さーて! お次は6本!
うまくいきましたら、どうぞ
拍手を…」

残酷な子供
「ねーねー、ニバスの姉ちゃん」

ニバス
「おっと…なにかな?
今、芸の途中だから話は後で…」
(プロローグ) 

 実はここまで読み返すと、ニバスにとって最大の問題は「飽き」ではないのである。

 仮にニバスが芸のレパートリーをいくら増やし、アスラフィルのように音楽を会得したところで、根本問題として「飽き」が来ることには変わりがない(アスラフィルはニバスのような「緩さ」のコメディは出来ないだろうが、楽器の音色や音圧を吹き変えることで「緊張」と「緩さ」を描き分けられるだろうし、何より音楽は直接情緒に働きかけ、人々に「笑顔」を与えることが出来る)。ここで重要な描写は、「芸の途中だから話は後で」と観客の言葉が入り込む余地を抑制してしまう態度だ。「見せつけること」が最前面なのである。
 それに対して、物語の最終場面でのニバスは、まず芸を始める前のBGMとして、キノミにストリートオルガンを回してくれるよう頼む。それを見た子供たちが自分も回したがったとき、ニバスは「はいはい、じゃあ順番にね…/っていうか芸を見て!/芸をっ!」とストリートオルガンに負ける芸人、というコメディを演じる。それを見たネフィリムが、「賑やかですね、ここ/キノミも楽しそうです」と(それまで散々加えていた説明を無しに)素直に感想を述べる場面こそが、ニバスの成長の証だろうと思う。このあと台詞は「良かったね、キノミ…!/あなたが笑っていられるように、/私もがんばりますから…!」と続く。ニバスのこの「緩さ」こそが、もう一度キノミを笑顔にさせているようだ。
 あらためて、ニバスは道化だ。ニバスの師匠はたとえば自分より遥かに年下の子供であり(ニバスRのキャラエピ)そしてトーポという珍妙な幻獣である。彼らを純粋に慕う姿はどこか滑稽ですらあるし、一方でそこには真剣な情熱がある。時に滑稽な愚か者になり、そして誰より人々を笑顔にさせることに真摯なのが、この物語のニバスだろうと思う。

 キノミのために戦ったのは、もちろんニバスだけではない。もうひとりの主役である、ネフィリムの戦いを見ていこう。
 『守りたいのは、その笑顔』では、ニバスとネフィリムは互いを補い合うような役割を果たしている。ニバスがキノミの心を守る戦いをしたのならば、幻獣という物理的な脅威を駆逐したネフィリムは、キノミの身を守るために戦っているのにも等しい。そしてニバスが確かな成長を遂げたように、ネフィリムもまた物語のなかで明らかな変化を果たしている。
 ネフィリムの発言でまず注意を引くのは、過去、コシチェイに戦争の不可解を語る場面だろう。

ネフィリム
「そもそも…なんでみんな戦争なんか
したがるんですかね…
小さくて弱いのに一生懸命戦って…
傷つけ合って死んでいって…
昔からずっと思ってましたけど、
この体になってより強く思います…
みんな弱いんだから無理して
戦うことなんかないのに、って…」
(第05話・3)

 これはネフィリムが巨大故に得られた発想かというと、けっこう難しいところだと思う。「そもそも…なんでみんな戦争なんかしたがるんですかね」という疑問は新世代のメギドが有しがちな疑問だし、別にネフィリムに限ったことではない。たとえば改稿版『悪夢を穿つ狩人の矢』でも、ネルガルは脆く壊れやすい、そして一度壊れたら取り返しの付かない身体での戦争の意義を理解出来ず、メギドの身体を機械に置き換える研究をしていた。別にネフィリムが巨大であろうがなかろうが、中央から離れた者にとって、意義のよく分からない戦争で落命する者は、「小さくて弱いのに一生懸命戦って」いる不可解な死者に変わりないはずだ。
 むしろ重要なのは、ネフィリムのこの言葉に哄笑を誘われたコシチェイに、次のように反論する場面である。

コシチェイ
「ハハハハハハハッ!
こいつはいい! さすがだね!
さすが味方のメギドを3人…
軍勢の幻獣を数百匹も「蹂躙」した
ヤツは言うことが違う!」

ネフィリム
「じゅ…蹂躙したんじゃないです…
ちょっと、その…撫でてあげたら、
みんな死んでしまって…」

コシフェイ
「素晴らしいじゃないか…!
撫でたつもりが殺してしまった…
まさに規格外の力…っ!
君は破壊の権化…!
戦争の申し子だ…っ!」

ネフィリム
「…………」
(第05話・3) 

 コシチェイにとっては「蹂躙」かもしれないが、あくまでネフィリムにとっては「撫でてあげた」に過ぎない。ネフィリムが自分の体躯を厭う理由はいくつかあるだろうが、目立ってコシチェイのような者の関心を呼んでしまう他に、無意識に「規格外の力」を振るい、よりにもよって自分が最も忌避する「戦争」の「申し子」になってしまう苦痛があるだろう(ここには、自分が好き好んで選んだわけではない外見や生まれつきの力で苦しむことになる『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のジズに似通ったものも感じる。コシチェイがジェノサイド・フォーにネフィリムのことを説明する場面で、言及されるのは「耳」である)。プーパに括りつけられた首輪の爆風を受け、ソロモンにその身を案じられたネフィリムがこう返す。

ネフィリム
(守る…私が…みんなを…
私の力で誰かを「守れる」…
傷つけるんじゃなくて…
「守れる」…!)

ネフィリム
「(…)とても、気持ちがいいです…
(…)誰かを守れるって…
守ってほしいって頼られるのって、
嬉しいことなんですね…
初めてです
こんな気持ち…」
(第05話・3) 

 あくまで守るだけならば、積極的に力を振るう必要はない。忌まわしい体躯を前に差し出しさえすれば可能なことであり、しかもそれは「守ってほしい」と「頼られ」さえする。呪いが祝福に転じる(これは『嵐の暴魔と囚われの騒魔』ではなかなか書き切れなかった、別の到達点でもあると思う)。そしてネフィリムが自分の体躯と力を肯定的に受け止め、初めての喜びを味わう第05話・3は、ニバスがキノミを初めて笑顔にさせるときでもある。

 ただし、ここで思い返さなくてはならないのは、そもそもネフィリムは冒頭でメギドの支配を逃れたプーパ達を実質的に守護していたことである。同じ守護であるにもかかわらず「嬉しい」が別格であるということには、ソロモンから願われる「守り」と、プーパ達から要請される「守り」に幾ばくかの違いがあることを意味するだろう。
 では、ネフィリムが教えられる「守り」とはどのようなものか。それを導くのがサレオスだ。
 ソロモン達と合流したネフィリムが、アスラフィルとニバス、ソロモンの掛け合いを見て感想を述べる場面がある。

サレオス
「…急に賑やかになったな」

ネフィリム
「そうですね…なんか、楽しそうです
私が知ってる小さい人たちって、
もっとギスギスしてましたけど…」

サレオス
「そりゃメギドラルの話だろ?
向こうじゃ戦争が中心だからな
ギスギスもするさ
…だけどこっちは違う
「こういうの」が当たり前なんだ
で、俺たちは「こういう」毎日を
守るために戦ってるのさ」

ネフィリム
「「守る」ために…「戦う」…」
(第03話・冒頭) 

 ネフィリムの台詞の重点は分かりにくい。ネフィリムはプーパを守るために力を振るってきたのだから、この感慨は奇妙だが、おそらくこれはネフィリムにとっては「守る」ではなく、単に力を振るうだけの行為なのである。冒頭の場面を読み返すと、プーパはネフィリムが断れないのをいいことに、無理に侵入者の排除を頼み込んでいる。ここにはネフィリムの意志は無い。単に言われるがまま、幻獣のように力を振るっているだけだ。勝手な読みだが、ネフィリムはプーパ達を進んで守りたくて戦っているというよりは、彼らの命令に反し、諍うことが嫌で力を振るっていたのではないか(幾ばくかの愛着はあっただろうが)。

 力を行使すること、戦うことは厭わしい。しかし、戦うことが守りたいものを守るためにあるのであれば、呪わしい力はむしろ祝福に等しいものになる。もっとも、ここには微妙な矛盾があるのは確かだ。力を振るうのは厭わしく、守ることは喜ばしい。だが守ることも力の行使である以上は、誰かを傷付けることにも等しい。
 そのジレンマに再び硬直してしまうネフィリムの背中を後押しするのが、サレオスの説得である。

サレオス
「おまえもおまえだ、ネフィリム
言われっぱなしで黙るな!
一緒に戦うようになってからも、
おまえはずっと誰かを守って
ばっかりだった…
それはそれで尊いことさ
実際、俺たちもそれに助けられた
だけどな、本当に嫌なことや
本当に譲れないことがあるなら…
守るだけじゃ駄目なときもある!
「戦う」ってのはそういうことだ!
俺たちだってだからこそ…
ときには誰かを傷つけてる!
それでも守りたいもんがあるんだ!」
(第05話・END)

 「守る」と「傷つける」は紙一重だ。しかし、何故ここでネフィリムに「傷つける」=時には他者に覚悟を以て、暴力を振るわねばならないことを説くのがサレオスなのか。たとえば無印のキャラエピで、サレオスは「人の生き方なんて人それぞれ/俺は否定も肯定も、する気はないぜ」(サレオスB・2話)と漏らす。
 あるいは、船に乗せた男が盗賊に身をやつした理由を聞いて、こう語る。

サレオス
「要はおまえさん、今まで流れに
逆らって生きてきたわけだ
(…)人の生き方には川と同じだ
流れってものがあるんだよ
どんな緩やかな川でも、
流れに逆らって進もうとすれば、
疲れるばかりで先に行けない
(…)自分の流れなんて、
自分にしかわからないものだ」
(サレオスB・4話) 

 この「流れ」は独特の語彙ではある。男が盗賊に身をやつしたのは、教育熱心な両親への反抗心からだった。束縛から逃れたいという想いだけでなく、親の願いに応えたい気持ちもあったかもしれない。いずれにせよ束縛から逃れるにも相応の方法があるが、男が選んだのは「流れ」に反した、強引な脱出でしかなかった。まさにサレオスが滝を越えていくように、状況に即して、柔軟に、しなやかな生き方を選んでいくのが「流れ」に従うことだろう。あるいは、己の心の流れから逆らうことも、またサレオスには避けるべき選択肢だろう。
 男の生き方は、流れに逆らうという抽象的な言い回しを書き直せば、生硬なのである。親から逃れたい一心で盗賊となり、他人から奪う生き方が、いかにも硬い。男は自分を盗賊と言い聞かせるからこそ、船頭であるサレオスを刃物で脅すが、サレオスが呆れる通り、単に船で王都の兵から逃れたいのであれば、ただ黙って船に乗り続ければいいだけだ。
 何故サレオスは人の生き方を「否定も肯定」もしないのか。
 それは、ある凝り固まった基準から他人の生き方を判定することは、ただただ硬直的だからだ。そこには「流れ」のような、思考のしなやかさはない。
 サレオスは渡し守、すなわち水の流れを読む人だ。流れを柔軟に、俯瞰して読む人として物語を読み返せば、サレオスの言動はすとんと腑に落ちる。たとえばペクスのことをソロモンに伝えないのは、「つまんない先入観」を「抜きにしてほしい」(第04話・冒頭)からだ。故郷への愛着はあるだろうが、それ以上に、ソロモンが最初から憎むべき勢力としてメギドラルを見ることは、サレオスの観点からすれば「流れに逆ら」うような見方も同然だろう。決定的なのは、その後に続く、何気なく読み飛ばしがちだが、実に特異な発言である。

サレオス
「それに…俺自身、ペクスのことを
詳しく知ってるわけじゃないんだ
ヴィータの観点ではあれはクソさ
だけど、よくわからないものを
感情的に否定するのは好きじゃない
…だから黙ってるしかなかったんだ
俺自身にペクスに対する明確な
「答え」がないからな」
(第04話・冒頭) 

 ヴィータを家畜として飼い、実験を重ね、時に食糧とするような制度は、現実的に「クソ」以外の何物でもあるはずがない。しかしそこで、明確な答えがない以上、俯瞰して判断を保留するのがサレオスの思考なのである。確かにサレオスの言葉はのらりくらりと捉えどころがない。線を引いた左右のどちらにも与しないところがあるだろうし、故に信頼し難い底知れなさがある。たとえばペクスをめぐって他のメギド達に意見を求められたとき、「クソ」と明言せず、「黙って」いることは、むしろ不信を招くだろう。
 だが、それでもその立場を選ぶのが、サレオスなのである。
 そして同時に、サレオスは決して「選ばない」人間ではない。がむしゃらに船を漕ぐわけにはいかないが、流れが読めたのであれば、いずれかの方向に進路は決めねばならないだろう。プーパにトドメを刺すべきか議論する場面で、議論の趨勢を見て黙したヒュトギンに対して、サレオスは真っ向からソロモンに反対する。
 その反対の理由自体はありふれているが、むしろここで注目したいのはヒュトギンが黙った理由である。

ヒュトギン
(「戦争嫌い」のオレの立場じゃ、
「四の五の言わずにブッ殺せ」とは
口が裂けても言えないもんな…)
(第03話・END) 

 ヒュトギンはあくまで自分の「立場」にこだわったうえで、ソロモンに反対することを諦めている。いかにもこれは「硬い」思考であって、本当に反対したいなら立場を越えてでも、「口が裂けても」発するべき言葉であったはずだ。読んでいて、私はサレオスがプーパにトドメを刺すようはっきり意見表明するのが意外だった。キャラエピもそうだが、もともとサレオスはニュートラルな立場にあることを好むだろうと思っていたし、それは今回のイベントでも然程変わらない。
 普段から飄々とした、俯瞰的な位置を好む人物ではあるが、それでも言葉を発するべき時は、明白に反対の立場を表明する。
 「流れ」を俯瞰して読み、他に決して意見を押し付けないながらも、自分の立場と意見をしっかりと表明することが出来る大人。それがサレオスだ。
 だからこそ、サレオスはネフィリムの「硬さ」を批判する。もっとも批判されるべきは、自己犠牲の安易さである。

サレオス
「自分勝手なのはおまえも一緒だ!
人のこと守るだけで満足して…
死ぬんじゃねえっ!
俺はな…他者を石ころみたいにしか
思ってないヤツは大ッ嫌いだが…
自分のことを石ころみたいにしか
思ってないヤツも嫌いなんだ!
ときには牙を剥けっ!
誰かを傷つけたとしても…!
自分も「守れ」よ!」
(第05話・END) 

 サレオスがこうネフィリムに檄を飛ばすのは、コシチェイがネフィリムに自己犠牲の論理を説いたからだ。他者を傷つけたくないのであれば「君が私と来ればいい」「そうすれば別に誰も傷つかない」「君さえ我慢すればすべてが/うまくいく」。だが、サレオスの立場からすれば、ネフィリムがこの論理を受容するのは「自分勝手」なのである。コシチェイはネフィリムを単なる「石ころ」としか見なしていないが、ネフィリム自身が、これまで己の力と体躯を厭い、「石ころ」のように自らを安んじていたのも確かだ。
 自分が犠牲になりさえすれば、これ以上誰も傷つかない。そういう安直な自己犠牲の論理こそ、サレオスには最も「硬い」論理なのである。
 自分が犠牲になる必要もなく、誰かを傷付けるにせよ最低限で済むような道を、しなやかに選び続けるのが、サレオスの理想のはずだ。
 ネフィリムはこの後、サレオスに潜在していた怒りを引き出され、コシチェイを己の力で撃退する。ここには二つの変遷がある。第一には、ネフィリムがコシチェイへの嫌悪、敵愾心を抱いていること自体を直視し、心の流れに逆らわないこと。第二には己の厭っていた「傷つける」という選択肢を、状況に応じて柔軟に、しなやかに選ぶことである。
 選ばないことと、選べないことは違う。サレオスが後押ししたのは、傷つけるという選択肢もまた選べるようにする、という手解きであったと思う。

 ネフィリムは己の基準に縛られた、「硬い」人物である。もうひとり「硬い」人物が居る。それがソロモンだ。『さらば哀しき獣たち』の経験から、ソロモンはプーパにトドメを刺すことに反対し、話し合うことを提案する。しかし、これはサレオスが劇中で指摘する通り、事態に即していない、先行事例から「硬く」判断した選択肢に過ぎない。
 こう読み返すと、ソロモンの未熟さとは、不殺の「甘さ」ではなく、判断の「硬さ」なのである。
 刻一刻と変化する状況に対応し続け、時には自分の判断を疑うこと。その手腕が問われたのがまさしく7章であり、自分の判断を疑えないのであれば、それは思考の生硬さに他ならない。それを指摘するのが7章のベルフェゴールだし、『守りたいのは、その笑顔』におけるソロモンは、プーパにトドメを刺さないのではなく、むしろ刺せないのである。他ならぬソロモンが、「自分でも思っている以上に/この前の件を引きずってたんだ」(第05話・冒頭)と、商人たちの死体を前に語っているのだから。
 何より重要なのは、6章の「碑」に体現されるソロモンの考えが、端的に自己犠牲の思想であることだ。ここにおいて、ネフィリムとソロモンの位置は重なり合う。
 そしてこの地点からこそ読み返さなくてはならないのが、ネフィリムとキノミの、自立をめぐる物語である。

 ネフィリムに護られていたプーパは、彼女に頼るばかりで自分で食料を入手しようとする気概もなく、食料の取り辛さからネフィリムが移動を提案しても聞き入れようとはしない。本人が嫌がる外敵の排除を無理に頼み込んでいるとはいえ、プーパもネフィリムの空腹を案じてはいるし、ある程度以上の感謝はあっただろう。
 ただ、それは断ることが苦手なネフィリムの性格につけこんでいるにも等しいし、ネフィリム自身が状況に問題を感じていたのは確かだ。

ネフィリム
(うーん…懐いてくれるのが
嫌なわけじゃないけど…)
(ずっと私と一緒じゃなきゃ
ダメだとしたら、この子…
駄目になっちゃいそうだな…
オーさんとサイさんみたいに…)
(第03話・END) 

 ネフィリムがキノミを突き放すことを選ぶのは、このプーパを自身に依存させてしまった経験が第一であり、第二に「私はメギドだし」と種族の違いを意識したからだ(第04話・1)。守るだけでは依存を生むばかりで、「駄目」にしてしまう。自分で現実に立ち向かっていく力を、むしろ自分が潰してしまう。ネフィリムがソロモンとパラレルな存在であるならば、ソロモンが守っていたのは誰か。それは6章、ヴァイガルド防衛戦におけるヴィータ達である。とりわけ王都の民は、ソロモンに守護されていたにもかかわらず、災厄の原因を求めるがあまり、ソロモンを外敵と見なしてしまう。そこには扇動者の存在や不安、不信、誤解もあったが、彼等との対立を決定的に解くのは、シバの女王の演説である。

シバの女王
「…おぬしたちもまた、守る者じゃ
ゆえに「王都の盾」の後ろで、
安全だけを願おうとするな
未来を生み出すための礎として、
みなが勇気を持って滅びの危機に
抗う者であってほしいのじゃ」
(第59話・冒頭) 

 ネフィリムとソロモンは共に自己犠牲の論理を生きようとしていた人々だが、同時に彼らの守護だけでは成し遂げられないものがある。それこそが、守られる側の自立であり、それぞれが「滅びの危機に抗」い、戦う意思である。それが無い限り、王都の民はただ守られるが故の鬱憤を蓄積するか、王都の盾たるシバに、あるいはソロモンという剣に依存していくだけだ。シバの女王の演説にはバルバトスの物語が続くが、ここに重要な描写がある。葬送騎士団の男は「リスク」を説く。その内実は説明されていないが、追放メギドはヴィータの肉体を有しているといえど、所詮は異種族に過ぎない。メギド同士の対立が火種となっているのだし、彼らがいつこちらに牙を剥くかも分からない。補って読むのであれば、リスクとはそういったものだろう。これに応える言葉が重要だ。

理解した群衆
「今、この世界のどこに
「リスクのない」場所がある!
敵はなんだってやるんだぞ!
(…)俺はシバの女王
おっしゃることを支持するよ
みんな戦ってるんだ」
(第60話・1)

 リスクのない場所などどこにもない。むしろ、己もまたヴァイガルドを守る一員として立ち上がるのならば、そのリスクは覚悟を以て引き受けるものだ。
 ここで大事なのは、彼等に自立の意志を植え付けたのは、ソロモンという直接の守護者ではなく、むしろシバの女王なのである。この構図は、ネフィリムがキノミを自立させるのではなく、児童福祉に造詣の深いマルコシアスとユフィール、そしてニバスが自立のきっかけを作り出したのと類似している。『守りたいのは、その笑顔』で描かれる防衛戦は、その意味で、6章・ヴァイガルド防衛戦の再演に等しい。物理的な脅威から自らの身を徹して守るのがソロモンとネフィリムであり、守る対象の心を立ち上がらせるのがシバの女王とニバスである。そしてこの二種の防衛戦は、ネフィリムとニバスの戦いが同列に描かれたように、同じぐらい重大なものだ。
 そして最後に、ニバスとネフィリムの物語は、ソロモンとシバが語れない或る余白を描いている。それこそがネフィリムのキャラエピで描かれる、「戦後」のささやかな物語である。
 ここにおいてこそ、『守りたいのは、その笑顔』は、本編のサイドストーリーとして完結している。

 ネフィリムのキャラエピで主要な舞台となるのは、王都で開催される「衣服の品評会」だ。それは「ヴァイガルド中の仕立て屋」がそれぞれの「作品」を持ち寄って集い、それぞれの「センスや技術」を問う会であり、第一にはそれぞれの「店の宣伝」と「被服産業全体の活性化」が目的である。しかし、より重要なのは、むしろこちらの目的である。

シバの女王
「王都襲撃などもあって、昨今は
暗い話が多かったからのう…
その雰囲気を打破する意図もある」
ネフィリム・2話) 

 ヴァイガルド防衛戦はソロモンとシバの勝利に終わり、物理的な脅威は去ったものの、いまだ戦後の「暗い」雰囲気は続いている。それを打破する催しである。そもそも、被服産業、つまりお洒落をすること自体が、日常の生存を越えた余剰ではある。まして服飾の「センス」を競い合うことは、余剰の極みだ。だがそれこそが、「戦後」の平穏を証立て、人々から「暗い」雰囲気を取り去ることが出来る。ここで開かれるのはつまりファッションショーだが、それに縁あってネフィリムが参加することになるのが話の大筋だ。
 仕立て屋がネフィリムをモデルに選ぶのはその「大きさ」故である。広大な会場で目立つには、その長身がまさにうってつけというわけだ。
 ネフィリムのコンプレックスを知っていたマルバスは、「大丈夫?」「嫌な気持ちになってない?」と案じる。ここでの応答が重要だ。

ネフィリム
「大丈夫です…むしろ、あの…
私で良ければやらせてもらおうかと
思ったくらいで…
(…)あなたの話はとても
わかりやすかったし…
ちょっと、うれしかったです…
大きい私が必要だって言ってくれて
これまでにも、そういう人が
いなかったわけじゃないですけど…
誰かを傷つけるためだとか、
そんな目的ばかりだったから…
そういうのは、嫌なんです
でも服を着るだけなら…
誰も傷つきませんもんね?」

ワース
「そう、ですね…
そうでなければいけません
最近は暗い話が多いですけど、
僕は自分の服を着ることで誰かが
幸せになってくれたらいいって…
そう思いながら仕事してますよ」

ネフィリム
「素敵だと思います、そういうの
私で良ければ…協力させてください」
ネフィリム・4話) 

 他人を傷付けるだけの忌まわしい力が、誰かを守るために恵まれた力に転じるのと似た構図にこそ近いが、その体躯は最早「戦い」とはまったく関係のない地点で求められる。ワースの服飾は「幸せ」のために、表題に結び付けて言い直すならば、誰かの「笑顔」のためにある。着飾ることは決して生存に不可欠ではないが、しかし「笑顔」を産むことが出来る余剰でもある。ネフィリム自身も、自らが着飾ることに、確かな満足感を覚える。

ネフィリム
「私も、かわいい服を着られるのは
嫌じゃないですし…
ほんの少しの時間でしたけど、
昨日もドレスを着ているときに
とても心が弾みましたから…」
ネフィリム・7話) 

 ネフィリムは火事に巻き込まれた子供を救うため、結局品評会には出場出来なかったものの、ドレスを纏って王都を走ったこと自体が服の宣伝になる。そして今後も服を着てほしい、と有償で依頼される。

ワース
「品評会なんかに頼るまでもなく、
ネフィリムさんが僕の服を着て歩く
だけで良い宣伝になったんですから
そんなことができる人は、
そうはいませんよ?
(…)というわけでネフィリムさん…
これからも定期的に僕の服を
着ていただけますか?
服のお代は要りません、いや…
むしろ払わせていただきますから!
(…)この調子でいけばネフィリムさんの
ような職に就く人が、たくさん
出てくる可能性もありますよ」

マルバス
「じゃあネフィリムにはがんばって
その仕事をやってもらわなきゃ!
私だって、その服を着る仕事
やってみたいもの!」
ネフィリム・7話) 

 ネフィリムが就くのは服飾のモデル業であり、そこで宣伝されるのは着る人の「幸せ」を願われたワースの製品である。その意味では、ネフィリムは笑顔のための余剰を人々に広める存在でもある(これを担うのが、巨大な体躯という余剰を持ち合わせたネフィリムなのが良い)。これは強引な読みだけれど、実はこのキャラエピで彼女の位置にいちばん近い存在こそ、私はニバスだと思う。ニバスBのキャラエピはごく気軽に読めるコメディだが、最後にニバスの重大な決意が、さりげなく描き込まれている。

ニバス
(私も、もっともっと芸を磨いて
もっともっとたくさんの人を笑顔に
できるようにならなくちゃ…!
(…)芸で戦争を失くして、世界を
平和にすることだって
できるかもしれないしね…!)
(ニバスB・6話) 

 同時に注目したいのは、芸の特訓のため足早に去っていったニバスを見送る、団長の言葉だ。

団長
「今では芸の腕もたしかだが、
もはやあの子の存在自体が
「芸」なのかもしれないな…
人を笑顔にし、勇気づけてくれる…
最高の「芸」だ」
(ニバスB・6話) 

 「芸」は決して戦時に生き延びるために必要な催しではない。それどころか、生存においては何ら必要のない余剰に過ぎない。だからそれに心血を注ぐニバスは、戦争社会では落ちこぼれの異端児でしかなかった。だが、6章以降の「戦後」では、まさにこうした「笑顔」を誘う余剰こそが、戦禍の「暗い雰囲気」を打ち払うのには必要なはずだ。それは人を「勇気づけ」あるいは「世界を平和にすること」だってできるかもしれない。何より、オクスのキノミが最初に緊張を解かれて笑顔となるきっかけこそ、ニバスの「芸」に他ならない。
 戦争の暗い影と、遷延する緊張とを解き、人々に笑顔を招くことも、また別の世界の守り方であるに違いない。ニバスの決意が物語るのはそういう思想だ。それもまた、サレオスがネフィリムに説いた、「楽し」く「賑やか」な毎日を守るための戦いのはずだ。故に『守りたいのは、その笑顔』とは、6章の再演であると同時に、そこでは描き切れなかった「戦後」の回復と、その「笑顔」を守る者たちの物語でもあったのである。

メギド72『美味礼賛ノ魔宴』について

 『美味礼賛ノ魔宴』は、まずは2018年クリスマスの『BEHEMOTH』との対比を誘う。
 ラウムとアモンは、共に過去、①父親の過失により、②家計が傾いた時代を経験しており、③現在の父親は成功した人物になっている(ライオは王宮付きのキャラバンの長に、ステファーノは貴族となる)。二人は共にヴィータの名、メギドの名を意識することを迫られる。彼らの名への向き合い方は、大きく位相が異なる。アモンはライオへの葛藤を断ち切ったように見えるが、虐待による怒りと傷が消えるのは、あの年齢ではあり得ない。それを断ち切るには、ヴィータとしてのリュカを捨て、自分はメギドのアモンと言い聞かせることでしかあり得ないはずだ(実際、リュカはアモンなのだから)。だから、その意味では傷付く自分自身を名ごと抹消、切断、殺害する物語だ。
 アモンのPUガチャタイトルは「憎悪の向かうその先に」だし、最後に贈る武器は「過去を断ち切る刃」だ。それは心のなかでのリュカ、ヴィータの自分との決別でもある。もちろんそれを突き動かすのは怒りであり、憎悪である。対称的に、ラウム=アルフォンソが苦しめられる問題は、親への憎悪ではなく、親への親愛に起因する。
 ラウム自身が詳細に心情を語る場面は少ないが、重要なのは次の謝罪だ。

ラウム
「すまねえ…!
オレはずっと…アンタらに嘘を…
嘘をついてた…!
(…)アンタらの息子アルフォンソの
魂を…オレが取り込んじまって…
だから…すまねえ…
殺されたって文句は言えねえ…
親子の縁を切るってんなら、
それも構わねえ…
なんでも…言ってくれ…
オレはどんな罰でも…」
(第10話・END)

 ラウムが父・ステファーノに謝罪するのは「魂」を「取り込」んだことであり、「殺されたって文句は言え」ない罪だ。
 つまりラウムは自分がヴィータ=アルフォンソの「魂」を殺したという罪悪感がある(だから「罰」を受けるのも辞さない)。殺されても文句は言えないし、「親子の縁を」切られても仕方ない。ステファーノ夫妻がメギドの話を食卓でしたのは6章の後だろうから、この「嘘」とは、その会話より以前に、「息子」の「魂」を取り込んだ偽物同然の存在であると明かせず、あたかも息子であるかのような「嘘」を付き続けたのも含んでいるだろう。この罪悪感は、両親への敬愛が無ければあり得ない。
 親を愛するからこそ、自分がメギドだと明かせず、嘘を付き続けるしかなかった(グレモリーは第08話・ENDで、両親を「戦争」に巻き込みたくなかったラウムの気遣いを指摘しているが、これも親愛に起因するだろう)。これは見た目の強面とは大きく異なる、繊細な優しさであって、ラウムの物語は、その嘘で隠していた真実が明らかになったとき、しかし親が自身を「息子」として再度受け容れてくれる、アルフォンソではなくラウムであっても、家族として共にやり直せることの確認である。
 ここにおいてアモンとラウムの対比は際立つ。自身のメギドの名の提示でアモンは家族の縁を切り、ラウムは再び家族の縁を結び直す。アモンが過去を断ち切るためリュカを殺さざるを得なかったのとは対照的に、既にラウムはアルフォンソを(心理的には)殺していたのであり、だからステファーノが未来において呼ぶ名は「ラウム」でしかあり得なかったのかもしれない。
 何故最後にステファーノ夫妻がラウムを受け容れられたのか。それを読むには、まずグレモリーによるステファーノ夫妻の説得を読まねばならない。

グレモリー
「我らは魂のみでこの地に追放され、
そしてこれから生まれるヴィータ
魂と結びつき転生を果たした…
本来ならば、ただのヴィータとして
生まれる者の魂を糧に…
我らは二度目の生を受けたのだ」

ジュリアナ
「うう…ああああああっ!
やめてくれよ!
もう…やめておくれよ!
嘘だろ、そんな…!
じゃあアルフォンソは…!?
アタシたちのアルフォンソは…」
(第08話・3)

 ここでジュリアナが「やめてくれ」と懇願するのは、まさにラウムがアルフォンソを殺し、その殺害者である「化け物」のラウムをアルフォンソとして育ててしまったという可能性に直面させられたからだ。「じゃあアルフォンソは」に続く言葉は、夫の言葉通りに「じゃあ(私たちの育てた)アルフォンソは(化け物であるラウムであり、本来生まれるべきアルフォンソではないのか)」という意味に読まなくてはならない。

 これに続くグレモリーの応答は、あくまで事実を伝える。

グレモリー
「それは極めて難しい質問だ
私はかつてイゾルデという名を
与えられたヴィータだったが…
あるとき自分がグレモリーという
メギドであったことを思い出し…
そこから己がメギドだと自覚した
以来、私は名を変えてグレモリー
として生きているが…
ゾルデとして生きていたころの
記憶や経験がそれで無為になったか
と言われれば、そうではない
そういう意味では、私はグレモリー
でありイゾルデでもあると言える」
(第08話・3)

 ラウムはアルフォンソではないのか。これは「極めて難しい質問」であって、追放メギドのラウムはメギドのラウムヴィータのアルフォンソの融合体である。
 でも、両親の心を救えるのはそんな事実ではないだろう。ラウムがいつメギドに覚醒したかは物語中で語られていないから、どこで接ぎ木されたかは分からないが、彼らが育てた子が、まさしく自分たちの子に他ならないという証拠こそが、彼らのいちばん求めるもののはずだ。
 グレモリーの説得は二度に分かれる。より重要なのは、彼女が夫妻に茶を煎れたあとの、二度目の説得である。

グレモリー
「ステファーノ…
私は貴様を高く買っているつもりだ
「大地の恵み」が視えることを
いいことに私利私欲に走らんと
する者は少なくない…
だが貴様はその「力」を恵まれぬ
者たちのために使い続けた…
(…)その口の悪さゆえ、なにかと
いらぬ誤解を受けやすいが…
貴様はそんな偏見や誤解をものとも
せずにひた走ってきた…
大した度量と根性だ
(…)だからこそ貴様自身は人の見た目や
身分、肩書きなどにも左右されず、
つまらぬ偏見にも流されない…
…そういう男だと思っていたがな
(…)貴様の息子もそうだ
そんな貴様らに育てられたか、
いつでも人の心配ばかりしている
貴様に似て強面で口が悪いせいで
最初のうちはヤツを怖がる者も
少なくなかったが…
今では仲間たちの誰よりも
信頼されている男だと
言ってもいいぐらいだ
2人とも、胸を張れ!
化け物だからどうした!
貴様らの息子は…
誰よりも…どんなヴィータよりも…
真っ当に、真っすぐに育っている!」
(第08話・END)

 この説得は長い。「人の見た目や身分、肩書」や「つまらぬ偏見」にも流されない、というステファーノへの激励や、「真っ当に、真っすぐに育っている」という部分に着目すると、むしろグレモリーが何を言いたいのか読み辛くなってくる(もしかすると、こういう部分からマイノリティへの意識も読み得るかもしれない)。
 ここでもっとも必要なのはラウムラウムであると同時にアルフォンソである証明であり、故に着目すべきなのは、「貴様の息子もそうだ」という下りだと思う。貴様すなわちステファーノに「似ている」点の列挙こそが重要なのである。二人はいずれも口が悪く、「いらぬ誤解」を受けてきた。だが「いつでも人の心配ばかり」していて、今では「誰よりも信頼されている男」だ(これはこじつけだが、ラウムは『ソロモン王と悪魔の鏡』やキャラエピで、善行を成そうとするときに度々「ひた走」っている)。
 ステファーノはこのとき、ラウムを「息子」として認め、セリエの取引を断る。
 だが、それだけでは弱い。ステファーノとラウムの父子の繋がりをグレモリーが証明しただけでは片手落ちなのだ(もちろんジュリアナはこの時点で納得はしているのだが)。
 もうひとつ大事なのは、ジュリアナとラウムの親子証明だ。ここで、重要な意味を持つのが、家族の記憶である。

 前編と後編でいずれも物語で大きな意味を持つのは、ニスロクの料理である。ところがこの二つの在り方は大きく違う。オリアスをリジェネレイトさせる料理はクリス・マウスを材料にしており、故に過去の能力を取り戻させるだけのフォトンを含むが、ラウムに記憶を取り戻させる料理に特殊な「力」などない。これらは共に過去を甦らせるための料理でありながら、後者は何の変わり映えもしない、ごく普通のドーナツでしかない。ここで意味を持つのは料理ではなく、料理をめぐる記憶である。

ジュリアナ
「…本当にそんなのであのコを
元に戻せるのかい?」
ニスロク
「…この料理自体にそんな力はない
(…)必要なのは「心」を動かすことだ
ヤツのヴィータとしての心を
(…)貴様が持っていけ
(…)料理というものには…
それぞれに相応しい供し方
というものがある
そして、この料理は貴様が
出さねば意味がない
「メギド自体の味の記憶」が
ヤツのメギドとしての魂を
揺り動かしたのだとしたら…
ヤツのヴィータとしての心…
魂を揺り動かせるのは、
ヴィータとしての味の記憶」だ
貴様が供することも含めて、
ヤツにとっての「記憶」だろう」
(第10話・3)

 このドーナツで記憶が戻るかどうかの賭けこそ、ジュリアナにとってラウムはメギド=怪物なのか、それとも息子のアルフォンソなのか、という試問に等しい。
 追放メギドは人外の怪物性と人間性とを併せ持った存在であり、たとえばイポスCの悪魔的な享楽の思想や、グシオンBのアルバートへの思慕のように、それは2019年のメギドが繰り返し描き続けてきた事実だ。あるいは純正メギドの数が増えたからこそ、追放メギドのこの混合性を、差異としてあらためて描き直す必要が生じたのかもしれない。
 この怪物性、人外性を無視して親子として受け入れるのは都合のいい話であって、「聖人」のラウムだからこそ、最も獰猛で野蛮な怪物の面を親に提示し、そして受け入れられなくてはならない。追放メギドは亡命メギドのような純正のメギドでもなく、ただのヴィータでもない。それをニスロクの言葉は端的に物語っている。だから、ジュリアナがどこまで受け容れたように見えても、グレモリーの説得だけではまだ足りないのである。片側は確かにヴィータでも、もう片側は怪物であり、それを受け容れなければ「家族」としての関係は組み直せない。ドーナツの記憶は、母・ジュリアナが隣人からおすそ分けされたドーナツを、息子に与えた記憶であり、それを息子が家族三人で分かち合おうと提案した記憶でもある。

アルフォンソ
「オレだけが食うなんて…
そんなの嫌だぞコラァ!
食べるなら父ちゃんと母ちゃんと
三人で分けるんだコラァ!
(…)オレは知ってんだからな!
オレのために2人がちゃんと飯を
食ってねえの!
(…)オレも家族だろコラァ!
助け合って生きていくのが
当たり前じゃねーかっ!」

ステファーノ
「テメェ、この野郎…!
いつの間にそんな…
あちこちで暴れちゃ人様に
ケガさせてばっかいたテメェが…
立派になりやがって…オラァ!」

ジュリアナ
「うう、う…
やっぱアンタの…子供だね…!
人のことばっか気遣って…」
(第10話・END) 

 それは家族の絆を物語る記憶でもあり、アルフォンソがステファーノの息子であると母親が実感する記憶でもある。

 ニスロクに語りながら、ラウムにドーナツを与えながら、ジュリアナ自身がこの記憶を同時に強く思い出していたんじゃないか。ラウムがこのドーナツを口にするのは、ステファーノが過去を語り出し、回想へ続く場面の後なのだし。ステファーノがラウム=アルフォンソを自分の息子だとグレモリーに再確認させられたように、ジュリアナも夫の語りを聞きながら、共に家族の記憶を呼び起こされたのではないか。そしてこの父の語りと、母の手から与えられた菓子とが記憶を呼び起こしたとき、確かに母にとって目の前の怪物は人外のラウムではなく、他ならぬアルフォンソとして証明されるのだと思う(そしてもちろん、これは富の独占を図って破滅に落ち込んだライオと、ドーナツを分かち合い、富と繁栄もまた分かち合っていったステファーノとを対比的に読んでいい)。アルフォンソでもあることを証明されたラウムは、再び夫婦と家族としての関係を結び直す。これがラウムの物語だ。

 ここまで読み返したように、『美味礼賛ノ魔宴』で重要なのは家族の主題だ。それは2018年の『BEHEMOTH』後編が同様にアモンとライオの関係を主題にしていたのとパラレルに読むべきだが、もうひとつ大切なテーマがある。それは贈与と返礼、贈り物と恩返しだ。そう意識して読み返したとき、やっと私は『美味礼賛ノ魔宴』が降魔祭=クリスマスの物語だと納得がいった。そして、その地点から見返したときに、何故オリアスの物語とラウムの物語が同時に語らねばならなかったのが腑に落ちた。
 それを読むためには、まず物語の後日談から振り返らなくてはならない。
 ラウムリジェネの物語は、『ソロモン王と悪魔の鏡』で盗賊の老婆の処遇をめぐってフラウロスとラウムが対立したエピソードを下敷きに書かれている。あの場面でのラウムの考え方はちょっと掴み辛かった記憶があるが、キャラエピでは明瞭に、老婆を「改心させてやって、真っ当な人生を送らせ」てやる機会を失ってしまった後悔として描かれている。
 その再話として描かれる盗賊の母子の物語は、まさに「改心」と「真っ当な人生」の機会をラウム父子が贈る物語である。使用人として召し抱えた母子の盗みに気付いたとき、ラウムは彼らを捕えて牢に入れるのではなく、再び屋敷で働かせる。その罪を他の使用人に漏らしもない。挙句の果てにラウムは、息子の起業金の足しにするよう、バールゼフォンの新作の絵を彼らに贈り、その門出を見送る。大事なのは、ここで息子から「この恩返しはいつか必ず」と礼を言われて、ラウムが断る場面である。

ラウム
「…いらねぇよ、そんなもん
(…)勘違いすんなよ、ババァ
これはテメェらのためじゃねえんだ
オレたちに恩を返されたところで、
ただ金だの気持ちだのがお互いの
間を行き来するだけだろうがコラ
だからテメェらは、余裕ができたら
今のテメェらみたいな境遇の
ヤツらを助けてやれ
それがテメェらの「償い」だぜ
永遠に終わることのねぇ、
「送り」地獄だコラ
(…)大事なのはよ…
恩を「返す」ことじゃねえんだよ
次に「送る」ことなんだ
受けた「恩」を「優しさ」に変えて
見ず知らずの他人に送っていけば、
いつか世界全部が優しくなんだろ」
ラウムC・10話)

 これは「オヤジの受け売り」であり、まさにこの慈愛の思想をラウムが語ること自体がステファーノの息子である証明だ。ステファーノはその慈善故にイベントシナリオで「聖人」(第08話・冒頭)と評されているし、ラウムも召喚時の紹介文に「聖人」と書かれている。そしてアルフォンソ、ステファーノ、ジュリアナはキリスト教の聖人の名とも一致するわけで、ラウムがクリスマスイベントに選ばれた理由のはまさに聖人だからなんじゃないか(本当のところはもちろん分からないが)。
 いずれにせよ、このラウム/ステファーノの見返りを求めない贈り物とは、究極の善意であり、ある種の愛情、慈悲だろう。
 贈り物と恩返しというモチーフは、『美味礼賛ノ魔宴』において頻出する。たとえばバールゼフォンがそもそもラウムに絵を贈ったのは、ステファーノに行き倒れているところを救われた恩があるからである。スケールはずっと小さいが、もうひとり見返りを求めない贈り物をする「父親」が居る。フォラスだ。クノスペで娘の降魔祭の衣装を探し求めるフォラスは、当たり前だが、別に娘に恩を返してほしくて贈るわけではない。ただ相手の喜ぶ姿を見たいのであって、それを愛情と呼んでも差し支えないはずだろう。
 ラウム=ステファーノが悪人を真っ当な善人にしようとするのも、ただそうした機会を与えたいのに過ぎない。世界全部が優しくなる未来はあくまで個人の理想のビジョンであり、その熱意はどこか人類への愛にも近い。マルコシアスが孤児院に贈り物をしようとするのも、やはり見返りが欲しいわけではない(……2018年のライオが、最早罪を償う相手が不在のなかで、孤児院に贈り物をする場面を思い出して塩辛い気持ちにはなる)。だから、マルコシアスに頼まれてフォラスがサンタの衣装を身に纏うのは、理に適った流れだ。そもそも「サンタ」の起源であるシトリーは、直接的な見返りを求めることなく戦う英雄であり、彼女こそ、「恩を」「送る」人なのだから。

シトリー
「私は、あなたたちを「守りたい」の
(…)理不尽に突き付けられる
滅びの危機から
このヴァイガルドという世界を
私という存在を、
この世界に「生み出して」
受け入れてくれたヴィータたちを
ヴィータたちの、楽しい文化や…
…あなたの作る「おいしいもの」を
マリアナ、友人のあなたを
…守らせて、私に」
(シトリーR・8話) 

 そもそもシトリーが食を愛するようになったきっかけは、ある村で催された食事会である。結果的には村のために戦ってくれた彼女への、感謝の返礼としての食事会だ。

シトリー
(…戦場の高揚とはまるで違う、
穏やかでたしかな充実感
――「楽しい」んだ
今日1日だけで、様々なものを
得た気がする
正しい…、おいしい…、
楽しい…
…なにも得られない
無為の日々だけじゃなかった
正しい行いは、「実」のあること
として自分に返ってくるのね…
「ここでは」そうなんだ
それは旅路に意味を持たせる
私はもっと「正しい行い」を、
積極的にすべきなんだわ)
(シトリーR・3話) 

 吟遊詩人に謡われるような英雄と褒め称えられたことが嬉しいのではない。村人と食卓を囲み、温まる料理を口にし、共に笑い合う「穏やかでたしかな充実感」が嬉しいのであり、自分の旅路を意義あるものと信じられるのが嬉しいのだ。このあと、シトリーの戦いを描く場面で、村人たちが彼女に恩を返そうと立ち上がる場面が挟まれているのも重要だろう(これは無印のキャラエピでも語られる)。シトリーは、まさに自分という個を「産み出して」くれたヴィータ(たとえばマリアナ、たとえば出会った人々)に恩義を感じ、それ故に「見ず知らずの他人」のヴィータを守り続ける。ここには「恩を」「送る」動作がある。そもそも現実のサンタが何故贈り物を始めたか、どういう理想像があるのか私は知らないけれど、ともかく見返りを受け取ることなく贈り物を与えられる者には違いないはずだ(シトリーCのキャラエピでも、彼女は村の少女に「お礼なんて気にしないで/私は自分のすべきことをしているだけだから」と語っていて、お礼としての伝統料理を提案するのは少女のほうからである)。その資質こそ、聖人の資格のひとつなのかもしれない。
 だから、『美味礼賛ノ魔宴』には、何人もの聖人サンタが居る。
 それは他ならぬ英雄のシトリーであり、ラウム=ステファーノであり、そして規模がずっと小さくても、フォラスとマルコシアスもまた愛する子らには「サンタ」なのである。あるいは、炊き出しという無償の善意を贈るアミーもまた、その列に並んでもいいのかもしれない。まして、ニスロクに頼んで再利用させてもらった高級肉を、多少はつまんだのかもしれないが、炊き出しのシチューに惜しみなく使える人なのだから。

 そういう「聖人」の地平が片側にあれば、もうひとつは「俗人」の地平があるかもしれない。
 たとえばオリアスだ。オリアスはアジトの仕事は億劫で避けてきたし、見栄っ張りで、あの歳まで生き延びているのに何故か泣き虫であったりする。それを俗人と呼ぶのはこじつけだが、たとえばサン&ムーンを無償で使役しているのは、オリアス自身の一部だから当然なのかもしれないが、ラウムの自分で出来ることは自分でやる、という信条とは対照的だ。
 リジェネレイト後のオリアスにはさりげない、けれど大きな変化がある。それを物語るのがキャラエピの、シチュー作りのエピソードだ。
 シチュー作りに無事成功し、アジトの面々でそれを食したとき、それはアンドロマリウスの言葉を借りれば「みんな笑顔になれる」「平和」で幸福な時間だった。共に作り、共に食するのは楽しい。サンとムーンに楽しさを指摘されたとき、オリアスは「間違ってはない」と漏らす。このあと料理の才能があるんじゃないかと勘違いするのがオリアスらしくて微笑ましいけれど、同じ追放メギドとも距離を置いていたオリアスがその楽しさを実感したのは、たぶん本人が思っている以上にずっと大きな一歩だろう。面倒だった収穫祭にも「おいしいシチュー」を「つくって」「ヴィータにほめられたい」理由で出ようとする。これは見栄には違いないだろうけど、けっこうちゃんとした社交性に数えられるべきじゃないか。こういうトーンのほんわかしたリジェネレイトはメギドでは非常に珍しいので、私はとても好きだった。だって、あのオリアスが予行練習までしようとするのだし(失敗するが)。
 オリアスを収穫祭に誘う村長の言葉は、物語の主題に正確に沿って書かれている。「できる返礼は限られていますが」「なにかしらの形で恩返しをと」(オリアスC・第06話)とあるように、『美味礼賛ノ魔宴』を中心とした物語群は、贈与と返礼(恩返し)を繰り返しモチーフにしている。この村長の手短な言葉から分かるのは、オリアスは村人に自分が意識している以上の贈答をしていることだ(当たり前に使える能力を使っているだけだから、当然といえばそうなのだが)。だから村の生活を保障してくれるだけで恩返しじゃないかと(面倒な気持ちも最初はあっただろうが)意外に控えめに答えているんじゃないか。贈り物の価値は、当たり前だけど、自分の予想では絶対に測れない。良かれと思ったものが裏目に出たこともある。普段何気なく貸している力が意外に誰かの支えになっていたこともある。オリアスも知らず知らずして、そういう互助の世界に生きている。

 『美味礼賛ノ魔宴』の結末は、オリアスが雪を振らせる場面で結ばれる。
 オリアスにとってそれは「気配り」であり、誰が雪を降らせたかなんてヴィータが知るわけはないのだから、これも見返りを求めない善意である(よりにもよって復興工事中の街に雪を降らせてしまうのも、オリアスらしくてすごく好きだ)。オリアスがアジトへ向かう理由は明示されていないけれど、ジズもアジトを飾り付けているし、たぶん去年のようにアジトで降魔祭の集いを催すのだろう。時間の前後はあるが、『美味礼賛ノ魔宴』を彼女の物語として整理するならば、①普段出向かないアジトの集いや村の収穫祭へ参加する社交性、②共に集い、共に同じものを飲み食いする楽しさの学習、③「きっちりする」すなわち自力で生活を整えようとする意思の芽生え、そして④ヴィータのために無償で雪を降らせる善意の四点でリジェネレイトを描かれているわけだけれど、最後のこの雪の贈り物こそがオリアスにとって最大の歩みだと思う。
 強引だけど、最後にサンタとトナカイの格好をしたサン&ムーンと共に空を飛ぶオリアスも、サンタたちの列には並んでいるんじゃないか。

 ニスロクとは何者だったのか。
 彼は料理に飽くなき探求心を燃やす人だけれど、贈与と返礼というモチーフから読み返せれば、必ず恩を返す人でもある。たとえばニスロクがオリアスに特別な料理を振舞うのは幻獣討伐で大いに助けられたからでもあり、その義理堅さを驚かれているぐらいだ。肉屋の臓物、あるいはバフォメットの塩に本来の値段以上の価値を見出し、相応しいと考えた返礼を支払う。贈与と返礼、責任と応答は表裏一体だろう。もちろん料理人の矜持はあるだろうが、ラウムの暴走を知らされたとき、「私の料理が原因となれば」「責任を取らねば」とはっきり語る(第08話・冒頭)。その思想を物語る大事な場面が二つある。ひとつはフルカネリの別荘で、ソロモンたちに肉を台無しにされて激怒する場面だ。

ニスロク
「「食う」ことは「生きる」ことだ…
すなわち食事を蔑ろにすることは
生への冒涜以外の何者でもない
貴様らに生きる資格はない
料理人の矜持として…
このニスロクが貴様らを捌いてやる」
(第02話・4)

 もうひとつは、ソロモンが引き止めるのも聞かず、クリス・マウスを内側から解体するのにこだわる場面だ。

ニスロク
「…これは私の料理人としての矜持だ
味を落してまで狩りを行うのは
食材への敬意に欠ける
狩る以上は、食材を最善の状態で
確保せねば…料理人の名折れだ」
(…)「食う」ことは「生きる」こと…
食材を狩るのに命ひとつ賭けられん
ようでは命を喰らう資格などない!」
(第04話・END)

 ニスロクが食材への敬意にこだわるのは、食うことが「命を喰らう」ことだからだ。食われる側の命を奪う以上は、最大限にその命の価値を活かす殺し方でなくてはならない。
 だから食材は最善の状態で確保せねばならないし、狩ることが相手の命を奪う以上、自身の命も同様に賭けなければならない。こういう意識は、「聖人」ではないが、宗教家には近いと思う(上記の「捌く」が「裁く」とのダブルミーニングなのも、そう想わせる)。たとえばアガレスCのキャラエピには、遺跡で幻獣に殺された男をめぐる台詞のやり取りがある。
 アガレスの罠猟の発想を聞き、お前を連れてきてよかった、というニスロクの言葉に続く対話である。

アガレス
「別に私の手柄ではない
ここで死んだ1人の男の運命が…
私たちを導いたのだ」

ニスロク
「貴様の言葉はよくわからんが…
まあ、感謝はしておこう
もしその男が「遺跡の主」とやらに
食われたのであれば…私たちはその
男の命も「いただく」わけだしな」
(アガレスC・5話)

 喰うことは、食材が過去に喰ってきた命の連なりを喰うことに等しい。だから遺跡の主たる幻獣を喰らうのは、同時に幻獣に喰われた男の命を「いただく」ことであり、「感謝」が必要なのである。勝手な補いだが、「いただきます」という感謝の礼にニスロクがこだわるのは、料理人への感謝ではなく、喰らう食材、命への感謝だろう。

 これはメギドとしては極めて特異な意識のはずだ。『滅びの運命と折れし刃』で描かれたのは、アガレスの宗教家としての像だった。逝く人の魂と、遺された生者の魂に寄り添い、時に死者の魂を背負い、死者の全力の奮闘の結果としての「運命」を称え、この先に続く人生を全力で生きるよう生者を静かに励ます、そんな在り方である。
 アガレスとニスロクは互いの思想に踏み込む会話こそ交わさなかったが、彼等の出会いには、ある種の必然性があったと思う。
 喰うことが他者の生命の収奪である以上、そこには絶対的な恩義がある。命を「いただく」ことは、究極の収奪であり、究極の贈与でもある。
 
 だから、『美味礼賛ノ魔宴』は贈与と返礼とを軸にして、次のように整理出来る。
 「聖人」のラウムが最大限の善意を贈り続ける者ならば、「料理人」のニスロクは贈られた生命に対し、選んだ客と最高の料理を以て、最大限の返礼を行う者である。
 きっと「聖人」ではないオリアスが、共に作り、共に食する楽しみを知り、まるで「サンタ」のような善意を以て、魔術の雪を贈るまでの物語だ。

 あらためて、『美味礼賛ノ魔宴』はすごく地味な話である。2019年の物語群のなかでも、長さのわりに飛び切り地味だ。ヴィータが死ぬわけでもないし、凄惨な事件や過去が語られるわけでもない。さらりと軽く読める、あくまでクリスマスらしい、「ありふれた良い話」でしかないかもしれない。
 しかし、ごく何気なくだが、『美味礼賛ノ魔宴』にはオリアス・ニスロク・ラウムという三人の主役に最大限の活躍が割り当てられている美点があるし、テキストの細部を読めば、そこには贈り物と恩返しという物語の主題が、ちゃんと生きているように息づいている。
 構築的といってしまえばそれだけだが、私はなんだかそういう物語を読んでいると「生き生きしているなあ」という気持ちになる。

 これは決して意図したものではないだろうけど、ありふれた良い話をちゃんと書く、という試みがあったと思う。
 オリアスのリジェネレイトだって、(長命の予言者としてはあまりにも呑気という本人の特異さはあるが)シリアスな深い話でも何でもない。ごく小さな一歩の物語に過ぎない。
 でも、それを丁寧に書くという意識が、私はすごく好きだ。そういう物語の幅を持ち合わせているメギド72という物語の群が好きだし、クリスマスの物語なら、こういう話こそが似合うのかもしれない。贈り物の日なのだし。三人の主役は全然ありふれた登場人物ではないけれど、クリスマスという催しは、誰もが楽しむありふれた祭りであり、それ故に魅力的な日のはずだ。
 そのありふれた物語を、あくまで凡庸なままに、最後まで一貫した主題のもと、丁寧に書き続けること。
 けれど、たとえばシトリーやアガレスといった、別の物語の登場人物ともゆるやかに接点を繋ぎ、物語を広く紡いでいくこと。
 『美味礼賛ノ魔宴』は、物語のスケールが段々大きくなっていったメギドの2019年を締めるのに、意外に相応しい物語だったのかもしれない。

メギド72『折れし刃と滅びの運命』について

 複雑な物語だ。

 話はフォカロルの武器が破壊され、修理のためにデオブ村へ向かうという導入から始まり、最後にはソロモン・アガレス・村人たちの三者三様の物語が展開される。この三つの物語が同時進行するだけに情報量は当然多いし、更にアガレスの言動や心情が、丁寧に追わなければ掴み辛いのもある。
 直近のメギドのイベントシナリオ、特に『死を招く邪本・ギギガガス』や『さらば哀しき獣たち』においては、複雑化してきた群像劇を、シンプルにまとめ直すという傾向にあったと思う。フルーレティの亡命が成功した、という物理的な動きに比べて、ベリトがジルに会うことを決意した、という心理的な動きは、より情報量が多くなる。まして、今回は三者の心情が同時に動く物語である。
 複雑な物語を読むうえで、ひとつの見方がある。その複雑性は本当に必要だったのか。今回であれば、ソロモンとアガレスの物語を同時に進行する必要があったのか。別にアガレスさえリジェネレイトしてしまえばいいのだから、ソロモンの物語はここで語る必要はなかったんじゃないか。
 結論から書くと、ある。そしてこの複雑さは、物語に必要な複雑さであった、と考える。

 もうひとつ。オリエンスはこの物語に必要だったのか。
 これはすでに何度か書いてきたことだが、特にリジェネレイトの物語と新規登場メギドの紹介を兼ねるようになった現体制でのイベントでは、(あくまで最初期に限った話だが)その兼ね合いに苦労しているように見受けられたし、一方で問題を正確に把握してシナリオが洗練されてきた現状がある。
 たとえば『死を招く邪本・ギギガガス』であれば、フルーレティはあくまで「物語」を導入するに留まり、中盤以降はフェードアウトし、ベリトの物語に席を譲る。更にそのわずかな尺でアムドゥスキアスやアンドロマリウスといった複数の人物と関係を結ぶことで、キャラクターとしての魅力を描くことに注力する、そういう理想的な動きを見せている。
 一方、オリエンスはこの物語の終盤までソロモンたちに同行し続けた。そこでオリエンスはどういう動きを見せ、どのように物語に寄与したのか。
 上記の問いには、もちろん、必要だったと考える。そこには「余所者」というポジションを逆手に取った、実に見事な動きがある。

 本編に入る前に、まず重要なのは、イベントの時間である。
 これはさりげないが、ウェパルの登場シーンを見れば分かる(第05話・1)。ウェパルの服装はリジェネレイト済であり、『さらば哀しき獣たち』と同じく、6章と7章の間のエピソードだ。理由は後述するが、これは『その交渉は平和のために』で、ウェパルが説明が面倒だから、という理由でリジェネレイト前の服装で登場したのとは、対置して考えるべきだと思う。そして『さらば哀しき獣たち』が、7章のバンキン族との共存を願うソロモンの意志に繋がるように、この物語も、6章と7章との関係において読み直すことが出来る。

 本編に入る前に、では6章とはどういう物語だったのか。

 それは辺境での虐殺に始まる、メギドラルからヴァイガルドへの侵略戦争であり、ウェパルの死と再生であり、サルガタナスとの対決であり、王都の民、そしてハーフェンのような犠牲者の遺族との対峙であり、ソロモンが「碑」としての己を自覚した物語だった。
 6章1節のウェパルの死は、当然ながら、ソロモンに深い傷を与えた。ただし、それはグロル村の死者と変わらないのではないか、と心中で思っていたのを、仲間を失うのは初めてのはずだ、とブネに傷の深さを指摘されるという、凝った構造で明らかにされる(本編第50話・END)。
 『折れし刃と滅びの運命』という題名を重ねて読むと、この50話にも「折られた」という形容が現れる。

王さま
「誰よりも純粋にヴィータ
守ろうとした男が…
…その守ろうとしたヴィータから
憎まれたあげく殺されかけ、
大切な仲間を奪われる、か…
…これでは、心を折られても
おかしくないな」
(本編第50話・冒頭) 

 「碑」という概念が初めて語られるのもこの50話の冒頭だ。ヒルフェの地下道で唯一の生存者となったマイネが、それを語る。
 長い引用になるが、これは7章で「村の少年」としての在り方を取り戻す、という物語の重要な伏線にもなっている。

マイネ
「とにかく今、私や王都の人が
傷つきながらも笑って暮らせるのは
あなたのおかげです
あのときは、本当にありがとう」

ソロモン
「でも…
俺が間に合わなかったせいで…
みんなあんな目に…
…犠牲が出たことで
俺を恨む人だっているだろうし」

マイネ
「そうですね
元どおりの暮らしっていうのは、
周りの環境も含めて、ですから…
…そういう意味では、
無事に助かった人なんて
誰もいなかったのかも
(……)でもそれを言うなら、
幻獣やメギドラルに関係なく…
…人はただ生きてる限り、
なにかを失い続けるって
ことのはずです
(……)そのことを誰もが、
覚悟してなきゃいけないのに、
つい忘れちゃうみたい
…そうならないように
生きてる者が心を向けるのが
この「鎮魂碑」なんです
自分を取り巻く「なにか」が
変わってしまう前のことを
覚えておくための「碑」
これがあることで、
死体なんか残ってなくても、
この「碑」に向かって…
…再び大地の恵みとして
みんな帰ってきてくれる…
そんな気がするんですよね
そして「繰り返せる」…
もう一度、自分を取り巻くなにかが
ゆっくり時間をかけて戻っていく…」
(本編第50話・冒頭)

 人は生きている限り必ず失い続ける。その真理と、生前の死者の名を共に記憶、記録する「碑」として王都の鎮魂碑はある。親しい人の死に遭遇して、過去の自分が決定的な衝撃を受けたとしても、そこから切断され尽くされないための錨として、それはある。一方で、ヴァイガルドにおいては死者の魂はフォトンになって大地に循環するとされる。何故それが「みんな帰ってきてくれる」かを、合理的に説明することは難しい。まして科学的に証明することは出来ない。だが、死者の名を記憶し、忘却しないこと、そして循環を信じること自体が、心の慰めとなる。だから、これは機械の論理ではなく心情、信仰の問題になる。改稿版『悪夢を穿つ狩人の矢』でも物語られたことだ。

 重要な場面がこの直後に続く。マイネが、ソロモンに名を訊ねる場面だ。

マイネ
「私、まだあなたの名前
教えてもらっていませんわ
(……)「あなたの名前」です
ソロモン王は通り名ですよね
シバの女王だって、
本当はアミーラっていうんです
あの子も根は普通の女の子なの
あなたも、超人なんかじゃなくて
根は普通の男の子だって
わかったから…
…名前を教えてください」

ソロモン
「あ…
ああ、俺は…
…………
…っていうんだ
…なんでだろう、
なんかそのことを、
今まで忘れてた気がする」

マイネ
「ほら、やっぱり無理してる
ソロモン王っていう「なにか」に
無理やりなろうとしてませんか?
私をあの状況で
救い出してくれたのは、
他ならぬあなたの意思でしたよね
「ソロモン王」なんかじゃない
あなたを見ている人もいるの
私は「あなた」の味方です!」
(本編第50話・冒頭)

 「超人」なんかじゃなく「普通の男の子」としてソロモンを見るマイネの台詞は、7章の展開を鑑みれば、「普通の男の子」としてのソロモンを書く、という宣言にも読める。王だから戦うのではない。普通の少年として、そう望んだから戦うのではないか、という指摘に、ソロモンは辛うじて再起する。

 思い返せば、ソロモンは徹底して「善人」ではあるが、「超人」としては書かれなかった。7章でもモラクスがソロモンを心配して涙する場面が差し挟まれるが、2018年の『届かぬ心・モラクスの願い』でも、彼は1章時点で村を滅ぼされた「少年」としての「アニキ」の身を案じていた。
 サービス開始当初から、ソロモンをあくまで「普通の男の子」とする見方は一貫している、と言っていい。
 マイネが語った「碑」の定義は、ソロモン自らが口にするとき、同じ語でありながら意味を大きく変えている。

ソロモン
「俺はさ…
もう「死んでる」んだ
メギドたちに会う前、
俺にも「普通の生活」があった
ずっと住んでいた村があって、
仲のいい友達もいた
(……)俺が憧れてた人も、
オレのことを好きでいてくれた
人だっていたんだ
だけど、そういう普通のことを
受け止めて、一緒に歩める
「俺」は、もうこの世にいない
村が滅ぼされて、みんな
いなくなってしまったとき、
俺は、死んだんだと思う
(……)だから俺は、「碑」になったんだ
「王」っていう碑に
(……)俺と同じように一度死んで、
この世界を循環する魂となって
集まってくれた「72人」
(……)みんなそれぞれ、誰もが戦ってる
そのやり方や在り方が違っても
だからみんなの目線を、1つに
束ねておかなきゃならない
…それが「碑」の役割なんだ」
(本編第59話・5)

 普通の少年としての、個としての自分は滅びた。追放メギドとはメギドの死からヴィータに生まれ変わった存在のことだが、自分もまたヴィータとしては既に死を迎え、集団としての目線を束ねる装置として、「碑」として在る。そう定義付けている場面だ。
 実は6章における「碑」の定義を読むのは難しい。というのは、この語はマイネと、シバ・ソロモンで大きく意味付けが異なるからだ。マイネの「碑」は魂が再び循環する未来へ想いを馳せるための装置であり、シバの「碑」は過去の死者の無念、その成し得たことを想い、ヴァイガルドに生きるヴィータのひとりひとりが未来のための現在の戦いを想い、その意志と目線を束ねる装置である(第59話・冒頭)。
 ソロモンの「碑」は、このシバの定義に近い。告白にバラムやウェパルが絶句するように、ここにはソロモンの「個」としての在り方はどうなるのか、という問が発生する。そしてここから七章冒頭のモラクスの流涙と、「同世代」との交流が描かれる。

ラク
「…俺には…さぁ
あのときの…アニキの碑の話、
よくわかんなかったんだ
(……)でも、なんかすげぇ
悲しいこと言ってるってのは
わかった
(……)アニキが笑うときってさ、
俺と出会う前とは違うのかなって
考えてたんだ、あれからずっと
(……)泣くときもさ、怒るときもさ、
グロル村にいたときの
アニキとは違うのか?」

ソロモン
「…わからない
同じような気もするし、
違うような気もする…」

(……)

ラク
「俺さぁ、昔からな~んか
気持ちがウソなのは嫌なんだ
だからアニキが無理して
嗤わなかったり、泣かなかったり…
…逆に自分にウソついてまで
笑ったりすんのだけは、なんか…
なんか、すげぇ嫌なんだよ
(……)前と同じでなくたってさ、
気持ちがあるんなら…それが
ウソじゃなきゃ、いいじゃん!」
(第61話・3)

 この後にも会話は続くが、いずれにせよソロモンは決して「気持ち」を捨てているわけではないし、「碑」として「ウソ」の笑いを浮かべ続けていたわけでもない。ただし、マイネの言葉を借りるならば、6章の戦禍において、ソロモンは決して「無事に助かった人」ではないのである。6章は、十代後半の「少年」への負荷としてはあまりに重過ぎる経験が続く。ウェパルの死、王都民との対峙、そしてハーフェンに代表される、救えなかった者の遺族への直面。メギドは会話劇が主体なので、正確な心理は意外と把握が難しいのだが、6章3節でソロモンが「碑」としての自分を語ることには、ある種の心の殺し方があったと思う。心を殺さなければ到底生き延びられないような、苛烈な出来事が続いている。

 あれは、ハーフェンへの語りでありながら、同時に自分に言い聞かせる動作だったのではないか。
 ソロモンとモラクスの対話は、気持ちがあるかどうか、という話に続く。一個人としての気持ちを殺すのが「碑」である。7章1節のソロモンは、それまでの本編と比べて、「気持ち」を見せる。バンキン族の処遇をめぐってブネとも対決するし、その軽率さを咎められることもある。でも、まずはそれでいい、というのが7章1節の物語だと言っていい。まず自分を通す。そのうえで「自分を疑う」という主題が続くのが、7章2節の物語である。

 そしてこの6章から7章の「気持ち」の在り方には明らかな飛躍がある。だから、それをブリッジする話が必要となる。それが、『折れし刃と滅びの物語』が占める立ち位置でもある。言葉遊びのようでもあるが、「碑」とソロモンが口にするとき、それは「刃」のひとつの折れ方であった、と思う。
 だから、ウェパルがリジェネレイトした姿で登場したことには意味がある。ソロモンが「碑」という言葉に初めて出会うのはその死の直後であり、再生こそ達成したが、ハーフェンの怨恨の深さを思い知らされる出来事でもあった。心を殺し、「碑」にならざるを得なかった遠因でもあったと言える。
 製作側が意図したか否かはともかく、物語の姿に正確に沿った演出である。私は意図がある方で取りたい。
 時間さえ明示しておけば、『その交渉は平和のために』のように、リジェネ前の姿で登場しても問題はなかったはずなのだから。
 
 前置きが長くなった。本編を読み直していこう。
 ソロモンの物語で特に重要な場面は、まず石星坑道のガスのなかで見る幻覚だ。シャックスの姿形を借りて、「心の奥にある無意識の叫び」と説明される通り、このとき幻のソロモンが語る言葉は、彼自身が無意識に六章ののちに考えていたことと見なしていいだろう。

ソロモン
「…お前はなにができる?
(……)暴力は好きか?
蹂躙は好きか?
メギドの長になって
他者を使役し、他者を踏みにじる
他人任せの暴力は好きか?
(……)かりそめの王として謙遜しつつ
その裏では圧倒的な部下の力に
酔いしれている偽物が…お前だ
(……)お前はすでに力に酔ってるんだ
(……)お前は自分では
なにもしない「卑怯者」だ
危険なことは手下どもに任せて、
自分はいつも安全な場所にいる…
「腰抜けの王様」だ
(……)お前は、自分1人じゃなにも
できねえ無力な存在なんだ…」
(第02話・1) 

 この無意識の疑いを要約するならば、①自分はメギドラルの軍勢という他者相手に力を振るうこと自体に快楽を覚えていないか、②自分はメギドに力を振るわせるだけの無力な存在なのではないか、というところだろう。裏返せば、前者の疑いがあるからこそ、ソロモンはメギドラルと落とし所を付けなくてはならないという七章の発想に至れるのだろうし、後者は、だからこそ「碑」として出来る限りを尽くす、という意思に繋がるはずだ。
 ここで見落としてはいけない、さりげないが重要な記述がある。第1話のマルファスの言葉である。

マルファス
「昔はあの村で「山」に入って
「石」を持って帰ってくるのが
通過儀礼」だったらしいんだ
(……)それをすれば大人だって認められる
儀式みたいなもんだよ」
(第01話・3)

 なぜガスの充満する石星坑道が通過儀礼の場となるのか。あくまで本編で語られているのは石の希少性によるのではないか、という推測のみだが、そこでは自身の「無意識の叫び」が問われる。自己への疑い、理性で抑圧した、他ならぬ己の受け入れがたい醜さに、直面させられる。あくまで通過儀礼は数十年前の風習であり、そのころはガスの影響も然程なかったのだろうが、いずれにせよ、ソロモンが辿るのはそうした苦難の過程である。
 滅びを受容し、それを望んですらいるようなデオブ村の人々を救うのは、果たして正しい選択なのか。それは、単なる自分のお節介、傲慢、エゴなのではないか。下山したソロモンが悩む問もまた、自身の行為への疑い、自分を疑うという動作のなかにある。
 坑道に並ぶもうひとつの儀式の場がある。「瞑想の小道」だ。

アガレス
「ここはデオブ村の成人が
儀式のために使う場所なのだ
自らを高め、自らに問う地だ
(……)道に迷ったものはここで茶を飲み
自らに問い、答え、道を探す…
「運命」の扉を開くために」
(第03話・4) 

 神秘の松明を救うべきではなかったかと後悔を語るソロモンを、オリエンスが「バッカみたい」と一喝する。

オリエンス
「「他者を重んじる」って言うけど…
そのために自分が軽くなったら
本末転倒じゃん
「他者」ってのはね、「自分」が
しっかりと確立してるからこそ
存在するもんなの
ヒトのこと考えすぎて自分が
不安定になるぐらいなら、最初から
ワガママ通してりゃいいのよ」 

 他者を重んじることが出来るのは、まずは自分の意思を確立してから。
 自分の意思よりも他者を重んじることは「本末転倒」なのだという言葉を、ソロモンは「沁みる」という。
 素朴な正論だ。でも、自らの心を殺し、軍団員という他のための「碑」になろうとしていたソロモンにこの言葉を発せたメギドは、オリエンス以外には居なかったのではないかと思う。オリエンスがこう語れたのは、彼女が余所者の「超新星」だからだ。
 このことは、同じ第03話・2で、オリエンスがソロモンたちの議論がついていけない描写でも強調されている。
 
 なぜ、外部者だからこそ語れたのか。
 それは、オリエンスが六章の戦争体験に巻き込まれたソロモンを、一切知らないからだろうと、考える。彼女は、自分の意志を殺して他者のために尽くそうとする在り方が、ソロモンなりの心の守り方だということを、まったく認識していない。
 それこそ、事情を知らない、余計な「お節介」とも、ひょっとすると呼べるかもしれない。
 たとえば、同じ六章と七章の繋ぎ目となるイベントに、『魔獅子と聖女と吸血鬼』がある。ソロモンとイポス率いる傭兵団に復讐を試みたココは、第2章の王都包囲戦で家族を失い、その感情のぶつけ所を見出せなかった。第50話・冒頭で、ウェパルの死を知らされた王が、たとえヴィータであろうと刃を向けた以上は敵だ、と言い切る場面がある。実際にはエルプシャフトの刃がハーフェンに向けられることはなかったが、ココは、6章のハーフェンが辿り得た姿でもある。重要なのは、ココの動機を、イポスが配慮してソロモンに伝えない、ということである。話の順番としても、ハーフェンの説得に成功し、復讐のために同類を複数殺め、すでに説得不可能なニコとソロモンが対面するのは今更の感もあるが、説得可能な遺族/説得不可能な遺族、というバリエーションは、メギドらしい羅列とも言える。あくまで推測に過ぎない。でも、イポスの行ったような配慮が、これまでにも軍団内にはあったのではないか。「碑」の決意を語ったとき、バラムやウェパル、モラクスを含めたソロモンに近しいメギドたちは、みな絶句していたのだから。
 
 己を捨てて「碑」になろうとしたソロモンに、戦禍を知っている軍団員が「自分を大切にしろ、自分の感情をまず優先しろ」と伝えることは、とても難しい。その問題をおそらく認識しながら、ソロモンと同年代を行動させるよう配慮する、という間接的な関わり方しか出来ないブネの不器用さが、その困難を物語っている。「自分の感情をまず優先しろ」といっても、王は王なのである。
 7章冒頭のモラクスとソロモンの軽率な行動について、彼の感情は理解しつつも、まずは叱責するしかない。
 そういう苦い、責任ある「父」の立場に置かれているのが、ブネである。
 ブネはしばしば損な立場を引き受ける。ソロモンと共に歩める者は複数いるだろうが、彼を叱責出来る者、「王」としての責任を問うことが出来る者は希少である。だから、ソロモンがウェパルの死に打ちのめされた場面ですら、「強くなれ」という、ともすれば無情な言葉をかけるしかない。
 時間を待つぐらいが、常識的な選択だろう。でも、それが出来る状況ではない。
 厳しい正論しかブネは口に出来ないし、またそれを伝えられるのは、ブネ以外にはいないのである。
 
 オリエンスの発言はありふれた正論だ。でも、だからこそ外部者である彼女にしか発話出来なかった。
 新規メギドの紹介と、リジェネの物語を同時に語ることは難しい、と最初に書いた。それは、新たに登場するメギドを、物語のどこに位置付けるかの判断こそが難しい、とも言い換えられる。『折れし刃と滅びの運命』は、オリエンスが新参者であること自体に、物語での意味を与えている。
 面白さでは「物語」を導くフルーレティのほうが上かもしれない。でも、これまでにない、間違いなくスマートな解法だったと思う。

 人は立場に応じた言葉しか語れない。ある人にとって「沁みる」言葉が、どれほど凡庸であっても、選ばれた誰かにしか語れないことがある。
 あるいは、こんな言い方も出来る。寄り添うこと自体は、誰にでも出来る動作かもしれない。しかし、選ばれた者にしか寄り添えない時がある。
 オリエンスは、余所者であるからこそソロモンにその言葉を口に出来た。だが、外部者であるソロモンは、村人に同じような効果的な言葉は発せない。このあたりが実に慎重だと思うが、たとえば第04話・冒頭の、石のために村人があるのではなく村人のために偶然石があったに過ぎない、というソロモンの正論に、その通りだ、と村人が納得する場面は(災いを止めた後ですら)ないのである。職人・氷の人はソロモンが村を守ろうとしている意思に敬意を払うのであって、あくまで論理に説得されたわけではない。これはバルバトスが、洪水による滅びの哀しみを和らげるために「もっともらしい理由」をつけたのだ、と分析して語るのも同様である。というか、彼らだけでは、父に死なれた子の問には応えられないし、寄り添いも出来ないのである。
 洪水を止めたのはあくまでソロモン達の行いだ。しかし、この「滅びの運命」に際して村人に寄り添えたのは、アガレスのみである。

 劇中でのアガレスの意図はとても分かりにくい。そもそも本人が明確に意図を語る場面が少ないし、さらにその目的は分散して説明されている。
 そもそも、なぜアガレスはデオブ村を訪れたのか。

アガレス
「あの村は近いうちに滅びる
そういう運命にある
(……)私はその意志を受け取りに来た
村が滅びた際、近隣の村や町に
そのことを伝えてほしいと」
(第01話・4) 

 第一の目的は、メッセンジャーである。滅びの運命が迫ったとき、石の民はそれを受け容れるという掟と共に生きている。村人が全滅したとき、後にその地へ集う人々に掟を継承させるための語り手が必要だろう。アガレス自身が、「各地に散った石の民の末裔が、またこの村で暮らし始めるだろう」(第02話・END)と語る通り、村の外で暮らす民のなかにも、滅びの事実を知って帰郷しようとする者がいるはずだ。
 もちろん、目的はそれだけではない。

ソロモン
「アガレスがこの村にいたのは…」

アガレス
「本当にこの村が滅びの「運命」を
辿るのかどうか…
私はそれを知りたかった
だからこの村のことを…
歴史や伝承を調べていたのだ」
(第02話・END) 

 歴史や伝承だけではない。山を実際に調べてデオブ村の滅びの原因を最初に突き止めるのもアガレスだ(第03話・2)。彼はシャーマン風の装いで、言葉遣いが抽象的なために予想しづらいのだが、その分析は合理的である。ガスと洞窟の傾斜から掟の意味を素早く読み取り、(ソロモンの気付きという形式を取っているために分かりにくいが)幻獣が森の獣を捕食出来ずにいることから、土地のフォトンの枯渇と洪水、そして夜輝石が再び採取できるようになる仕組みも正確に把握している。そのうえで、「滅び」を看過すべきなのか、自らに問い続けているのである。

 この立ち位置は特異だ。彼はソロモン・バルバトス・マルファスのように理に適った分析はするが、導き出された論理で村人を説得することはない。むしろ、その意思を尊重すべきではないか、という真逆の位置に一度立ちさえする。だからこそ、彼は村の滅びを止めようとそのメカニズムを分析しながらも、同時に長の死にも寄り添うことが出来る。この特異さは、村を滅ぼされた一族唯一の生き残りであることを思うと、一層際立つ。

アガレス
「思えば「らしくない」ことをした…
自分でも…そう思っているのだ…
だが…私は彼らの滅びの運命を…
彼らのように…甘受できなかった…
我が一族は一夜のうちに滅んだ…
幻獣の襲来により…成す術もなく…
辛うじて私1人生き残ったが…
どこかで…悔やんでもいた…
誰1人守り切れなかったことに…
だからこそ…我が一族に連なる…
デオブ村の民を…救えぬものかと…
ふふふ…なんと傲慢な…」
(第05話・3)

 アガレスは生き残った者のサバイバーズ・ギルトに苦しめられてきた。より重要なのは、その想いをソロモンに直接語ることは決してないが、彼もまた、自らの「傲慢」な「お節介」が正しいのか、悩み続けていたことである。ソロモンとアガレスは、共に幻獣によって滅ぼされた集落唯一の生存者であり、共に自らの行いを「傲慢」ではないかと己を疑い続けている。自分は本来はたまらなく無力な存在なのではないか、というソロモンの問は、運命の前には無力なのではないか、というアガレスの問に似ている。
 二人は鏡合わせの似姿である。
 だから、ソロモンが悩むとき、すなわち疑いから自らと戦うとき、彼はアガレスと戦闘することになる。自己格闘としての疑いを、ゲーム的に表現したとき、ソロモン対ソロモンではなく、似姿であるソロモン対アガレスとして描き直す。そういう演出だったと思う。
 無印のキャラエピでアガレスは、「誰も自分の運命には逆らえない」と断言する。「運命に抗い続ければ、更なる破滅の運命を招く」だけとして、盗賊を狩り続けるアガレスが目にしたのは、滅びの運命を与える己の姿を前に逃げ出した野盗の頭だった。野盗は自らの力で運命を覆したのか、それがヴィータの持つ力なのか。だとすれば、ヴィータに転生した己にも、その力が備わっているのか。そうした問を経て、アガレスは森を出る。初期のテキストなのもあるが、これはハルマゲドンという滅びの運命を変えるための旅立ちである、と素直に読むべきなのだろう。
 『折れし刃と滅びの運命』で新たに語られたのは、アガレスが、父の予言で一族の滅びの運命から逃れ去った者だという設定だ。滅びから逃げた者、という意味では盗賊の頭とアガレスは変わらないのである。ここにも鏡合わせの運命が用意されている。
 ソロモンが苦しんだように、アガレスもまた、その傲慢を単なる「慰め」ではないかと思い悩んだはずである。
 アガレスの物語とソロモンの物語は、共に同じ問題に悩む者であるが故に、同時に語らねばならなかったのだと思う。

???
「…デオブ村とグロル村を重ねて
自分を慰めてるのか?
お前が「取りこぼした」命の
代替品として…あいつらを
助けようってのか?」

ソロモン
「…そうじゃない
(……)デオブ村の人たちにだって
「生きてて良かった」って思える
日常があるって信じてるだけだ
(……)命を拾ってそれでも死にたいなら
後は好きにすればいいさ
(……)俺は…間違ってるか?」

???
「お前がそう思うのなら…
好きにすりゃいいさ
(……)…じゃあ足掻いてみな
傲慢な王様よ…」
(第05話・2) 

 繊細なやり取りだ。石の民に「生きてて良かった」と思える日常があるかどうかは、余所者のソロモンには予知のしようがない。あくまでそれは正誤の問題ではなく、信じるか否かの問題であり、そう想定すること自体が「傲慢」なのである。いくら悩み続けても、「傲慢」は免れ得ない。

 しかし、次のように言い換えることも出来る。己が「傲慢」であることを直視出来なくなったとき、人はまさに傲慢そのものになるだろう。

???
「(……)悩むことを止めるな…
常に疑問を持て…自分を疑え…
悩むことを止めたとき…
お前の「傲慢」さは他人に害なす
刃となることを忘れるな…」
(第05話・2)

 自己への疑いは苦い。だが「疑う」という動作は、もはや最初の幻覚の場面のような、単なる自己否定ではなく、「傲慢」であることの直視、「他人に害なす刃」になる手前で立ち止まるための内省に、同じ言葉のままで意味が変じている。
 これは石の民が、「滅び」という語の意味を、同じ言葉のまま変えたのとも、パラレルである。

ソロモン
「俺のしたこと…
余計なお節介だったかな?」

氷の人
「…そうかもしれん
だがそれでも構わない
どの道、我らの村はもう「滅びた」
(……)我らが重んじていた「石」は
なくなり…「石」に関する掟も
もはや意味をなさなくなった…
(……)デオブ村は一度「滅び」た
だが、それは新たなデオブ村として
生まれ変わるために必要だったのだ
(……)我らの部族にとって…
「死」は、なにも生まぬ無ではない
再生の予兆だからな」
(第05話・END) 

 ここでの「滅び」は、生命の滅亡から、再生の契機として捉え直されている。重要なのは、デオブ村が取り尽くした夜輝石を再度採掘出来るまでの「滅び」のプロセスにも、最初から「再生」が読み込まれていたことである。ただし、かつての滅びが洪水による生命の滅びであるならば、ここでの「滅び」は、過去の因習からの脱却として読み替えられている。

 この地点から読み返すならば、ソロモンの「通過儀礼」とは次のように整理出来る。それは己を疑う自分をまず否定し、オリエンスに自己の確立を説かれ、疑う自分そのものを肯定する物語である。疑いの苦みを受け容れ、苦い思考を続けること。それが「大人」である、ともいえる。
 この内省としての疑いは、第7章の「オジサン」すなわちベルフェゴールという大人を通じた「疑い」の物語へ橋渡しされるはずだ。

 因習からの脱却は、断じてすべての「古き掟を否定するわけではない」。
 掟に従って石に寄り添ったからこそ、子供は洞窟のどこを砕けば大洪水を避けられるのか瞬時に読み取ったのである。フォカロルが「古いメギドたちの考えの中にも取り入れるべき点はあるし、そうでないものもある」(第03話・冒頭)と語ったように、そこには叡智がある。デオブ村の掟は単に「頭ごなしに否定される」ようなものとして描かれていない。何故長が最後まで予言を出来たのか、そのメカニズムは明らかになることなく超神秘的な力として描かれたままに終わるし、また村の因習にもっとも否定的であったマルファスですら、終盤には「彼らの風習や言い伝えはあながち馬鹿にできない
ってのも事実だよ」「迷信のように見えても、それは長年の経験に裏打ちされた確かな「知識」だったりするんだ」と肯定している(第05話・1)。
 では、掟に殉じた死者についてはどうなのか。

聖なるまやかし
「僕の父さんは間違ってたの?
ウソのために死んだの?」

アガレス
「いいや、間違っていない
彼の死は多くのものを動かした
…決して無意味な死ではない
むしろこの村で一番の功労者だ」
(第05話・END)

 実はこの問は、二度繰り返されている。最初の問は、長とアガレスとの対話である。

部族の長
「これまで…幾度となく…
滅びを…享受してきた…ワシらの…
祖先たちは…ただの愚か者なのか…」

アガレス
「(……)オマエたちは…間違っていない
死ねばフォトンは大地に還り…
そして巡ってゆく…
その循環は…正しい道だ…
自然は常に死を運んでくる…
無数の手段で…魂を…フォトンを…
大地に…戻そうとする…
だが…同時に生物は…
死から…逃れようと抗う…
それはすべての命が持つ本能…
オマエは…よく戦った…
おそらくはオマエたちの祖も…
よく戦った…ことだろう…
その結果…もたらされたのが…
滅びだとしても…それは…
それこそ…「運命」というもの…」
(第04話・END) 

 繰り返された問の何が違うのか。もちろんリジェネレイト前後なのはあるが、より重要なのは問われる者ではなく、問う者の立場である。第一の問はこれから死へ向かう者の問であり、第二の問は死者に残された者の問である。アガレスは長との対話においては生命の循環としての死を語り、長の戦いと終焉を肯定する。遺児との対話においては、石の民を衝き動かした父親の死を肯定し、終焉を意味付けるための生の価値を物語る。
 この第二の問への答えには、かつて父に先立たれた己への語りも含まれるだろう。彼の運命はいつも鏡合わせなのだ。
 そして(アガレスが実際に思っていたかはともかく)長の死への肯定も含まれている。物語の終盤、「予定外のポイント」からも水が溢れ出している描写からすると、わずかな時間差が命取りになった可能性は高い。作劇上の演出とも言えるが、仮に長が囮にならなければ、大洪水は止まらなかったかもしれない。いずれにせよ、死者と遺族との心の傍に立ち、戦いとしての生の果ての死と、死から読み直した生のいずれをも肯定するアガレスの姿は、どこか魂に寄り添う宗教者にも似ていると思う(こういうことが出来るメギドは、登場人物ではアガレスが唯一かもしれない)。
 だが、よりにもよって逼迫した事態のなかで、アガレスがソロモンが「壁」として立ち向かったのは何故なのか。

アガレス
「「死」も…「滅び」も…
すべては運命なのだとしたら…
抗うことも運命ならば…
抗ったところで報われぬのも…
また…「運命」…
(……)私は…確かめねばならん…!
「運命」を…乗り越えるとは…
どういうこと、なのか…
抗えぬはずの「滅び」に…
抗うことが…そもそも可能なのか…
そのために、私は…
私は…ここにいる…!
来るがいい…召喚者よ…!
私こそが「運命」…
オマエが抗うべき…立ち向かうべき
最後の…壁だ…!」
(第05話・3) 

 運命を乗り越えるソロモンの姿を間近で見たいだけなら、最初から同行すれば良いだけの話だ。切迫した状況下でのアガレスの行動は、抽象的な理由付けをいくら積み重ねようとも、現実的には傍迷惑そのものである。ガスの中で自分の似姿と戦っている、(ソロモンがそうしたように)それこそ自分の迷いを打ち払うために必要だったのだ、といっても迷惑には変わらない。作劇の粗さと取るのもいい。というか、それが自然である。
 でも、ここはあえて、それでも敵として立ち向かわねばならない理由があった、と取りたい。だから、ここからは解釈である。
 まず、長の死の場面を振り返らなくてはならない。囮となり傷付いた長に、アガレスはソロモンたちが山へ行く時間を稼いだのではないか、と問う。長はそうではない、と明確に否定する。その心情は結局語られることはないが、あくまで予言の死の場面に従っただけのようにも見える。
 ただし、長は最後に、デオブ村を頼む、と遺言を伝える役目をアガレスに託す。そもそも彼の役割は滅びのメッセンジャーである。
 ところがアガレスの伝言はこうだ。

アガレス
「長は命を賭して…時間を稼いだ…
オマエたちが…洪水を止めるため…
の…時間を…」
(第05話・冒頭)

 よく読むとおかしな場面である。
 これはアガレスが都合よく解釈しているのではなく、長の心情が両義的なのだと取りたい。予言は絶対であり、滅びを免れることは出来ない。しかしその滅びの意味が変じるならば、民の命も助かるかもしれない。でなければ「村を頼む」という遺言は残せないはずだ(自分のように看取ってくれ、という意味かもしれないが)。ここでの長の依頼とは、遺言の伝達役であると同時に、「滅び」の意味を変えてくれ、という願いにも近いかもしれない。
 彼女は因習に従って民が幻獣に身を投げ出すことを肯定した一方で、滅ぶはずの村の今後を最後まで想う。アガレスがソロモンに伝えたのはあくまで前者の意志に過ぎない。時間稼ぎのために死ぬのではない、と否定したことを伝える意味は、たしかにここではない。
 だが、たとえソロモンたちが山に向かう手助けをしたといっても、村人たちを死へ向かわせた事実は消えない。

 私の結論は、あそこで敵として立ち向かったアガレスは、長のように過去の因習に従った死者たちに最後まで寄り添おうとしたのではないか、というものだ。大洪水による滅びが完全に無意味でしかないのだとすれば、死者たちの想いもまた何の意味もない無駄死にとなるだろう。
 たとえ村が因習を脱却するとしても、誰かが石のために殉じた者の魂に寄り添わねばならない。これが出来るのは、滅びの意思を肯定する立場と、否定する立場の両方に同時に立つ、その狭間で迷い続けたアガレスのみである。後者がソロモンならば、彼は前者の位置に立つことを試みた、と言える。
 人数差と体力からして、アガレスがソロモン達に敗北するのは必定だ。
 だが、それでも、大洪水による滅びを肯定し、時に人にそれを推し進めさえした死者の立場に立たねばならなかった。それは力無き村人ではなく、かつて予言によって滅ぶはずの運命から逃れ出た者である自分が引き受けるべきなのではないか。戦いに負けたのであれば、そしてそのために自分が死んだとしても、それはまた「運命」のはずだ。このとき、大洪水に呑まれた過去の死者たちも、正々堂々と負けを認められるはずである。少数民族のシャーマンに育てられた、という無印の設定文がある。シャーマンの定義などあるわけもないが、魂に寄り添う人と読めば、私はこの戦いには納得がいく。
 そんなことはテキストのどこにも書かれていない。また村を滅ぼしたソロモンに語るようなことでもない(だから、その理由は正確には語られなかった、と解釈したい)。しかし、長の遺志を尊重することは、滅びに殉じ、それを推し進めた祖先の死者たちの魂をも尊重することと同義のはずだ。
 長がアガレスに問うのは、自分を含めた過去の死者たちが間違っているのか、という問なのだから。

 書きたいことはおおむね書いたので、最後にほんの少しだけ。
 メギドのテキストは、私は書き手が相当自由に書いているのではないかと推測している。
 というのは、『折れし刃と滅びの運命』の物語の構造はあまりに複雑だからだ。ソロモン・アガレス・石の民の物語が並列され、ソロモンにおいては「疑い」の意味が、石の民においては「滅び」の意味が転じる流れが同時に語られ、おまけにオリエンスの活躍が差し挟まれ、アガレスの意図に至っては各話ごとに分散されて説明される。確かにエンタメ、ソシャゲのシナリオとしてさらっと読み流せる面白さはあるのだが、一方でゆっくり読むと、いつまでも読み終わらないぐらいの濃密な情報量がある。孤高の個として生きていたフォカロルが、転生して兵士となり、集団で戦うことを知った結果としてオリエンスと通じ合えるとか、今回の旅に同行するのがオセやキマリスといったエルプシャフト文明圏の外側の住人であることとか、まだまだ書けることはたくさんある。というか、あってしまう。
 さっと読み飛ばせるぐらい分かりやすく単純だが、細部に目を凝らせば途端に分かりにくくなる……というのは、読み応えのあるテキストの理想形であると同時に、ソシャゲのシナリオとしては不可解ですらある。ともすれば、読み手の受け取れる情報量を高く見積もり過ぎている、とも言える。
 たとえば、「アガレスの意図が非常に分かりにくいので整理してください」というオーダーが注文側からあれば、それをひっくり返すのは非常に難しいはずだ。一方で、ではたとえばアガレスが己の心を「分かりやすく」説明するかというと、私は過去のテキストを読む限りでは否だと思う。キャラクター性の尊重とは玉虫色の言葉で、受け取る側がそう受け取れなければかえって火種になるだけだが(し、それをテキストで重視しているなどといった発言は、記憶の限りではないし、忘れているならば、その程度ということだろうが)ここにはアガレスらしい語りの無骨さがあるな、と個人的には思う。
 
 メインストーリー6章と7章の「間」を書くということも、本来であればどこまで必要性があるかは疑わしい。「碑」から村の少年としての己を取り戻させる、という動きには明らかに飛躍と乖離がある。幻獣に村を滅ぼされたソロモンがバンキン族を殺さぬ道を選ぶのも同様であり、だから『さらば哀しき獣たち』という物語が必要ではあった。『折れし刃と滅びの運命』最後のソロモンの笑顔は、7章冒頭(第61話・3)の全部が全部グロル村に居たときの笑顔とは違うわけじゃない気がする、というソロモンの発言にも繋げられるだろう。その飛躍の過程を尺の限られた本編で物語るのは難しいだろう。だが、だとしても別に間奏など差し挟むことなく、強引に物語をそちらへ動かしてしまえばいいのである。
 でも、その馬鹿丁寧な余剰、こだわり、情報量の過多こそが、物語と登場人物に活力を与えているといっていい。
 情報の過多は、それを受け取るユーザーを信じ切っているとも言える。物語の登場人物が生きているように息づいている、なんてありふれた理想形、使い古された定型表現、そして私個人の勝手な感想に過ぎないけれど、そんな素朴な体感で、今回の感想については終わりにしたいと思う。

メギド72『悪夢を穿つ狩人の矢』(復刻改稿版)について

 2018年12月は、ベヒモス前後編・保健室イベント・6章2節と質・量いずれも相当のテキストが連続した時期だった。たしかにこれまで月初にイベントを開催し続けているとはいえ、まさか1月の第1週目もその規則を守るとは思わなかった。初回『悪夢を穿つ狩人の矢』だ。後出しに近いが、たとえば月の前後半で復刻と新規イベントを入れ替えたり、あるいは1度休みを取ってもよかったのでは、とは正直感じた。

 ただ結局先延ばししたところで2月3月分の製作に皺寄せを来すだけだし、メギドの日やリリース記念日が固定されている以上、安易にスケジュールを動かすことは出来ないのだろう。メインシナリオの更新速度が気にされていた時期でもあっただろうし、製作体制の破綻もやむを得なかったのかもしれない。これは私の勝手な推測に近いけれど、テキストを見る限り、ベヒモスイベント以前は相当な少人数でイベントシナリオを担当していたのではないか、という気もする。

 しかし、思い返すと初回版『悪夢を穿つ狩人の矢』の「問題」は、意外とその所在を明確に言い表しづらい気もする。メギドはバトルシステムが充実している一方で、キャラクターにも重きを置いたゲーム展開をしてきたはずで、この場合最たる問題となるのはキャラクターの記述の矛盾だろう。

 リジェネレイトは、直近の例ではグシオンやイポスの新規描写がそうであったように、メギドの新たな側面を提示する機会でもある。新しさは、既存の記述からの発展であろうとも、飛躍や非連続を必ず伴う。流石に高笑いを繰り返すアンドラスは普段の言動との非連続が強いとは感じやすいが、「反している」かというと、言い切ることは難しい。レラジェの「自らの力そのものを恐れていた」という新規設定についても、導入の巧拙を問うことは可能だが、ゲーム内の既存の記述に反するかというと、否ではあるのだろう。矛盾と非連続は違うもので、前者は難しくても、後者はいくらか理由のつけようはある(それこそ高笑いは徹夜明けだったのかとか、苦しいものであっても)。とはいえ、もちろんテキストの展開が一本調子であったり、設定の導入・描写といった質において、それまでの平均水準を逸脱していた、と取る人があっても、仕方ないテキストではあったかな、とは思う。

 「山」は難しい。

 道行く人々とも出会い辛いだろうし、せめて小屋がなければ、あるいは頂上・山腹・裾野を明確に書き分けるのでなければ、どこまでいっても漫然と険しい斜面が続くだけだ。そうなると場面が切りづらい。物語が展開しにくい。傑作『死を招く邪本・ギギガガス』ですら、最初は古書街に始まり、フルーレティの計画が明かされるのは高級レストランで、アリトンが客に勝手に紅茶を注いでいたはずだ(記憶違いでなければ)。こういうちょっとした人の動きを書いて、時間を前に進めるのが、山は非常に難しい。一般に人がいない場所での物語は、展開に難儀しがちだ。自分ひとりの部屋だけで物語を進められるのは、よほど文章がうまい人だけだ。

 メギドはテキストを大幅に改稿する際もステージ構成を変えないので(ライターがすごいのである)このあたりの処理をどうするのかは気になったが、改稿版ではレラジェの狩人としての知識を描く機会として活用したり、あるいは地滑りで物語に起伏をつけたりして、かなり巧みに処理されていた。

 今後こういう大幅な改稿がありうるかというと、私は可能性のうえではあり得ると思う。

 製作体制が破綻し、かつ運営が一定水準以上の質をシナリオに求め続ける限りは、可能性としては絶対にない、とは言い切れない。これは勝手な妄想だけど、比較的一本調子な展開に、時折味付けの濃いフレーズや描写をアクセントに挿入する手つきは、どことなく初稿版の『ソロモン誘拐事件・逃走編』や『上書きされた忠義』を思い起こさせる(たとえば初稿版なら手首を切るアンドラス)。

 どのイベントをどのライターが担当したかは妄想の域を絶対に出ないが、メギドのイベントシナリオの質が急激に上昇したのは(あくまで私見だが)『二つの魂を宿した少年』からであり、それ以前のシナリオについては『背中合わせの正義』を除いていずれも改稿されている事実からも、メギドの運営がシナリオの或る水準への到達、あるいは方向性の一貫にこだわりつづけていることが伺える。とはいえ、2019年1月のプロデューサーレターで製作体制のアップデートについて言及されており、また以降のテキストを読む限り、少なくともベヒモスイベント以前ほどの少人数でイベントシナリオを製作しているわけではないようには感じる。

 大幅な改稿が起こる可能性は、そう高くないのではないか。

 前口上が長くなったが、非常に面白く読んだシナリオだった。改稿版『悪夢を穿つ狩人の矢』の主題は「生命」と「継承」だと取ったけれど、これらはいずれもレラジェがネルガルを説得する場面から息吹き始める。実はこのネルガルの思想が、さらりと書かれているようで案外把握しづらい。

 まず最初にネルガルが語るのは、寿命の問題である。

ネルガル

「……ワタシが最終的に

実現しようとしているのは、

「死の克服」だ

(……)ワタシたちメギドは、生物として

単に長命で強靭なだけに過ぎない

死を迎える点では他と大差ない

だが寿命の格差が、世界全体を

不安定にさせている…というのがワタシの見解だ」

(第03話・4)

 寿命の格差、個を損耗するまでの時間の差異こそが執着を産み、「世界」を不安定にさせている、というのがネルガルの発言だ。ただし、これはあくまでメギドラルの状況であって、そもそもネルガルがヴァイガルドの生態系を機械化する、という結論にはこの筋道だけでは至らない。ましてネルガルは人里離れて暮らしていたのであり、動物同士の争いからヴァイガルドの生態系に「不安定」を見出すのも、この時点ではあまり自然に感じられない。

 ひとまず、ガープがメギドラルの戦争と退廃を繰り返す「停滞」を指摘し、ネルガルが「ハルマゲドン」と自身の計画を同列に語るときに「救済」という語を口にしていること、ネルガルの計画が停滞からの離脱を目指していたのは確かだろう。

 二度目の戦いに敗れたネルガルは、再びその心情を語る。

 「かつてメギドラルにいたころ」の心境だ。

 

ネルガル

「(……)ワタシはメギドという存在が

ヴィータを模倣する社会に…

…脆弱な身体のままで

ひたすら戦争を続ける社会に

強い矛盾を感じていた

本来であれば、

「個」の実像、実態である

メギド体にフォトンは不可欠だ…

…にも拘わらず、フォトン不要の

ヴィータ体のまま戦争を繰り返し、

戦果を挙げようとする

(……)持って生まれた力を発揮できぬまま

メギドたちが戦場で失われていく

世界を見て、ワタシは絶望した

…と同時に、閃いたのだ

メギド体とヴィータ体の

共通点とはなんだろう、と

それは「魂」だ、それが個の核だ

…ならば、それを覆う

「別のもの」があれば

よいではないか

(……)その発明こそが、

この「機械の身体」に他ならない

血肉を捨てた、魂を納める器

生存にはフォトンを必要とせず、

戦うためにはフォトンを利用できる

そして破壊されても再生できる

(……)」

レラジェ

「…だけどそれは、メギドラルでは

否定されたんだな」

ネルガル

「…そうだ

メギドの「理念」に反するのだと

ワタシには理解できなかった

(……)ワタシの偉大な研究を否定しながら

メギドとしての力も発揮できず

戦争で死んでいくメギドたちを…

…いつしかワタシは

冷めた目で見るようになった

「クダラナイ」

「戦争などなんの意味もない」

だからワタシは、メギドラルを

見限ることにしたのだ」

(第03話・END)

 ヴィータ体で深刻なダメージを負えば命を失うのは『さらば哀しき獣たち』のチリアットの結末が示したところだが、本来のメギド体ではない、いわば偽りや仮初のヴィータ体は、ネルガルにとっては「持って生まれた」自然な在り方からはかけ離れたものだろう。「肉体と魂」を切り離し、別人のメギド体に魂を移植する実験は作中ですでに何度か語られているし、メギド体が(ソロモンが繰り返し行っているように)フォトンで再構成可能なものならば、いつでも組み直し可能な機械の身体も、そうかけ離れたものではない、というネルガルの論理は、意外と筋が通っている。まして、ネルガルのような優れた技術者が必要とはいえ、そこに自分なりのオーダーやカスタマイズが通るならば、それは「個」の直接的な反映にすら近い。

 ただし、ここでネルガルは、メギド体への誇りを見落としている。感情問題への視点が抜け落ちている。メギドが自身のメギド体に愛着と誇りを抱く設定はすでに語られていて、ネルガルの思想は論理的には筋が通っていても、メギドの心情的には受け入れ難いものだろう。

 だからこの「理念」とは、言葉通りの理念ではなく、むしろ感情的な躊躇い、抵抗感をうまく言葉にできないまま、その提案を退けるときの名目的な「理念」なのではないかと思う(この「理念」がどういうものかは明白に語られてはいないので、これはあくまで勝手な読みだけど)。

レラジェ

「…オマエが「イチゴウ」のために

世界のすべてを変えようと

したのはわかった

せっかくメギドラルで

機械の身体を生みだしたのに、

目的ごと否定されて…

…オマエはこっちの世界に来た」

(同上)

 レラジェの発言から察するに、ネルガルがメギドラルではなく、ヴァイガルドの生態系を機械化しようとしたのは本気だ。時系列を整理するなら、①メギドの機械化を提唱するも周囲に拒否されてヴァイガルドに渡航し、②漫然と研究を継続する過程でイチゴウの死を体験し、③イチゴウの蘇生とヴァイガルドの生態系の機械化を目論む、という流れになる。

 この③が何度読み返しても私には理路を追えなかった。しかし、そもそもモーゼスのような猫たちが「幻獣に襲われたりして身体を欠損させた動物」(第03話・4)なのを踏まえれば、仮に幻獣でなくとも山の獣に襲われて落命することはあり得るだろう。また、義足のような機械の身体は、たとえ破壊されても取り換えれば修復は出来る。そう補って読んだ。

 ただ、このネルガルの思路には、やはり引っかかるものがある。これは本文のどこにも書かれていないけれど、私はネルガルが最初からイチゴウの喪失を無意識に理解していたのではないか、と取りたい(これは何故出会ったばかりのレラジェがネルガルを説得出来たか、という問題にも関わるが)。イチゴウの行動範囲はたとえ蘇生したとしても限られているだろうし、屋敷近辺の生態系だけを機械化してしまえばいい話なのでは、と最初に読んだときは正直思った。山の生態系を機械化出来るのであれば論理的にはヴァイガルドの生態系すべてを機械化できるのかもしれないが、五年という時間を費やしてネルガルが機械化出来たのは精々六十数体に過ぎないし、合理的ではない。

 バフォメットやアンドラスも、この計画に即座に否を唱える。合理的に、である。

アンドラ

「仮にヴィータが全員、

機械の身体なんかになったら…

…護界憲章はヴィータ

全滅したと判断するだろう

だから、そうなる前に

護界憲章の強制力がなんらかの

影響を及ぼしてくるはずだ」

ネルガル

「それは推測に過ぎないだろう

実際の影響が不確定である以上、

実現不可能という結論に

結びつけることはできない」

バフォメット

「実現不可能と判断する理由は、

他にもあるぞ!

貴様、この世界のヴィータ

生物を機械の身体にするのに、

どれだけ時間をかけるつもりなのだ

あの山1つを改造幻獣で

埋め尽くすのにだって、

数年もかかっているのではないか!

ヴィータだけで、この世界に

何百万人いると思っているのだ」

(……)

ネルガル

「…数がどれだけいようと、

問題にはならないはずだ

なぜなら死を根絶した者にとって、

時間は脅威ではないからな」

(第03話・4)

 このネルガルの反論は、論理的には正しいかもしれないが、現実に即しているもの、あるいは理に敵ったものではない。論理的な帰結と、合理的な判断と、感情的な結論とはいずれも違うもので、ネルガルは聡明な発明家だろうから尚更思うが、この場面のネルガルは、イチゴウの喪失で壊滅的に混乱していたのではないかと思う。つまり反論ではなく、強弁、意地、強がりに近いのではないか。

 ものすごくベタだけど、イチゴウとの触れ合いとその喪失は、ネルガルに感情を教えたのだろう。誇りと愛着は同じぐらい不合理で説明の難しい感情だけど、メギド体にこだわるメギドと、愛着を抱いていたイチゴウの喪失で精神をかき乱されるネルガルとは、いずれも同じ感情の地平に居る。

 ただしネルガルは、ここでも猫の身体を機械に置換しようと試みている。

 とはいえ果たしてそれが本気かというと、私は生態系の機械化以上に留保がつくのではないかと思う。そもそも、ネルガルは、果たして真に「蘇生」を成し遂げていたのか。

アンドラ

「何匹も解剖を続けて確信できたのは

こいつらは最初から「死んでる」…

ってことだ

キミたちが殺したからじゃない

別の原因で傷つき、死んだ幻獣を

誰かが動くように「直した」んだよ」

(第02話・3)

 アンドラスが改造幻獣を解剖する場面の、この「直した」という言葉遣いは何気ないけれど、非常に重要だと思う。たしかに改造幻獣たちは、野生の獣の在り方を模し、自律的に動いているようにも見える。しかし、果たしてそれは「蘇生」だったのか。そもそも幻獣は獣の在り方を模する必要などないはずであって、この時点で改造幻獣は生前とは在り方を異とする。ネルガルは人工の「目」を埋め込み、この感覚器こそが改造幻獣の行動を規定し、山での生存に最も適した在り方へ到達させたわけだ。ちょっとしたCPUのようなものか。

 

 そもそも、メギドラルでメギドの終焉を見ていたネルガルが、「死」をまったく、完全に、理解していなかったとは考えにくい。にもかかわらず改造幻獣の実験を蘇生成功と解釈したのは、死体の修復というよりは、おそらくは「目」によるプログラム的な環境適応を、誤認したのではないか。

 プーパでもない、道具でしかない幻獣にネルガルが然程の注意を払っていたとは思えない。あるいは、幻獣がひとまず修復されたように見えるのであれば、イチゴウも似たような修復を行うことは可能だと、淡い希望に賭けたのかもしれない。

 いずれにせよ、ネルガルの計画は理路に乏しいものであり、かつヴァイガルド渡航前後の思想を一挙に語っているために、ゆっくり読むとつまずく場面ではある。

 ただ、私はこの部分についてはネルガルの混乱を反映したものだと取りたくなるし、それだけの豊かさは担保出来ているテキストだと思う。

 であれば、レラジェの説得はどのように取れるのか。

 ネルガルの提案を、レラジェが再度拒む場面を見返してみる。

ネルガル

「なぜだっ!!

科学の前に不可能はないっ!!」

レラジェ

「オマエは理解してないんだ、

「死」を!」

(第03話・END)

 五年、メギドラル時代を勘定に入れれば更に長大な年月を費やした実験と思想が、レラジェの一喝で容易く修正されるのはぴんと来ない、という意見を読んで、私も正直、なるほどそうかもしれないな、と思った。また、ここまで引用して追跡したように、そもそもネルガルの心情自体が直接的に語られていない場面が多く、把握しづらいのもある。

 ただ、ここまで読み返せばわかるように、そもそもネルガルの計画はもはや論理や合理性で駆動しているのではなく、感情の範疇に近い。五年間、他者と交流していなかったのもあるだろうが、レラジェの一喝はアンドラスやバフォメットが口にしたような論理的・合理的な視点からの欠陥の指摘ではなく、「魂」という曖昧な語を以てしての感情的な一喝であり(そもそもネルガルが、引用部である通り、珍しく感情的に激昂している)その後に続くのも、論理による説得ではなく、事実の確認に過ぎない。

 でも、共に死を確認してくれる他者こそが、彼女には必要だった。死を分かち合う、とも言える。

 このあとのネルガルとレラジェの問答に、実に細やかな台詞がひとつある。

ネルガル

「……「死」とは」

レラジェ

「…「魂」の喪失」

ネルガル

「…「イチゴウ」の魂は」

レラジェ

「…ここにはもうないと思う」

ネルガル

「…………」

レラジェ

「仮にその手術台の上にある

「イチゴウ」の死体を、

機械の身体で再生しても…

…それはもう、

オマエの飼っていた猫では

ないんじゃないかな」

ネルガル

「…なぜだ」

レラジェ

「重要なのは、

そこに魂が宿るか否か…

だからさ」

ネルガル

「…………」

レラジェ

「「魂を納める器」が

どんなによくできてたって、

空っぽじゃ意味がない

泣いたり、笑ったり、

一生懸命機械の振りをしたり…

そういう中身が必要なんだよ」

ネルガル

「…理解した

…………

…と、思う」

レラジェ

「…ん」

(第03話・END)

 アンドラスの提示した護界憲章の問題に、「必ずしもそうなるとは限らない」と反論したように、実際にイチゴウを機械の身体に置換したとき、「必ずしも」もとの在り方を取り戻さない、とは限らない。それが論理の世界の発想、あるいは「機械」の思考だろう。最後のこのネルガルの「思う」が、とても大切な動詞だと思う。魂の消滅、蘇生の困難は、ネルガルからすれば、あくまで「思う」・信じる、すなわち信用の問題であり、感情としてそれを容認出来るか、という問題に属する。

 ごく短い部分だが、この最後のネルガルの「思う」こそ、見事な台詞だ。レラジェの「…ん」という静かな応答もまた、その容認にひっそりと寄り添う描写として読みたくなる。そもそも、野ざらしにすればいつかは自然に分解される遺骸を、わざわざ埋葬するのは、衛生的な問題もあるだろうが、「さよなら」の感情を重視した儀礼でもある。続くイチゴウの埋葬の場面で、手向けの花が用意されるのも、心情の文脈に位置付けられている。

 ネルガルとレラジェの説得の場面について長々と書いてしまったが、もうひとつ重要な主題は「継承」だ。もちろんそれを最初に提示するのは、ガープの「子供」をめぐる発言である。

ガープ

「子供とは未知なるもの

不完全だが未来あるもの

環境に変化をもたらすもの

(……)わからんか

それがある限り、世界に

「死」などないということが

貴様は未知のものを

生みだそうとはしていないのだ

この世界を不死で統一して、

停滞させた先になんの意味がある

そこには…

…「魂」などあるまい」

(第03話・4)

 生殖による再生産があり、そこに継承がある限り、「死」などない。

 裏返せば、たとえ肉体的な死があろうとも、子供を通じた「魂」あるいはあり方、気風、技術、思想の継承は可能ということだろう。これが生殖、すなわち血縁による継承に限らないのは、ナスノとレラジェの関係性が示している。ナスノのシルエットはリジェネレイトしたレラジェの姿に他ならず、時間の前後はあるが、意味するところは、レラジェがナスノの「魂」や在り方を継承したという、かなり直截的な表現だ(でも、媒体の特性を活かした、優れたゲーム表現でもある)。

 ナスノはレラジェが自分を母と呼んだとき、強烈な暴力を振るう。この心情はいかようにも解釈可能なだろうが、「母娘」という関係は自分たちにそぐわない、と本気で感じていた可能性もあると思う。重要なのはその心理というより、むしろ強固な絆で結ばれた師弟と、(疑似親子とするのか、単にどういう言葉で呼ぶのか、という問題に過ぎないかもしれないが)親子のあいだには、明確な区別はつかない、ということではないか。

 少なくとも、そこに継承、あるいは「魂」の不滅の在り方の差異はない。ガープが生殖による継承を代表するならば、ナスノとレラジェは生殖に依らない継承を体現している。

 

 継承とは、親子や師弟のような、強い絆のもとでのみ成し遂げられるものなのか。ここで活きるのがバフォメットの発言だろう(そもそも彼女は、この目的のために同行したようなものだが)。

バフォメット

「ネルガルの技術で生まれたモノが

抑制されつつ流通するよう…

…我がその管理・監視役に

名乗り出ようと思う」

(……)

ソロモン

「だけどもしヴィータが、

ネルガルの作ったモノを模倣して

たくさん作り始めたら?」

バフォメット

「それはこの世界にとっては

発展だし、構わぬだろう

ネルガルとして技術を

独占したいわけではあるまい?」

ネルガル

「積極的ニ肯定

ワタシハワタシノ発明品ガ、広ク

有効利用サレルコトヲ望ム」

(第05話・END)

 バフォメットが体現するのは、流通を介した技術の伝播と継承だ。ネルガルと職人たちの間にバフォメットが介在する以上、そこに絆のような硬固な関係はないが、それでもネルガルの製品は彼らに新たな技術を継承・開発させるかもしれないし、その技術こそまさにガープの語る「環境に変化をもたらすもの」に相当するだろう。そもそも「模倣」とは、レラジェがナスノに対して行ったことだ。

 このバフォメットの提案こそが、「継承」という主題を、単なるヴィータ同士の関係性に依らない、大きく広がりのあるものに拡張している。

 であれば、バフォメット同様、改稿版で新規に登場したコルソンにも注目しなくてはならない。

 ネルガルは生きていた猫への愛着と喪失に動揺させられましたが、果たしてこの愛着は生物にだけ向けられるものなのか。

 ネルガルがイチゴウの喪失を語り涙する場面の直後に、コルソンがとらまるの凹みを心配してすすり泣く場面が挿入される。とらまるは無機物、非生命の物質に他ならないが、それでも彼を含めたぬいぐるみはまず「おともだち」なのであり、顔の凹みにはまさに友人が傷つけられたように動揺して涙する。ここにも、繊細な動詞の選定がある。

アンドラ

「さすがにぬいぐるみは専門外でさ

役に立てなくてすまないけど、

アジトで誰かに直してもらうしか…」

コルソン

「ねえ、ソーくん…

誰にお願いしたらとらまる治して

もらえる…?」

(第03話・END)

 「直す」と「治す」の一字の違いに過ぎないが、二人が選ぶ同音の語は、もちろん前者が無機物の修復であり、後者が「おともだち」の治療という意味で大きく異なる(こういう何気ない細部への気の使い方が、本当に好きだ)。ゲームシステム上あり得ないだろうが、仮にとらまるが修復不可能なまでに破壊されたとすれば、コルソンはイチゴウを失ったネルガルのように深い喪失感情を味わうだろう。子供の見方といえばそれで終わりかもしれないが、ここに滲むのは、生命と非生命への愛着にもまた、境界を定めないという感覚だ。そうした柔らかな境目への容認であり、コルソンもまた、物語の幅を大きく広げることに寄与している。

 私はメギドのシナリオにおける「多様性」というのが今まで正直よくわからずにいたのだけれど、今回のシナリオは、まさしくそれを体現するものだったのではないかと思う。

 愛着については生命をネルガルが、非生命をコルソンが、継承については血縁と生殖をガープが、血縁に依存しない師弟関係をナスノとレラジェが、人と人との関係に依存しない技術の継承をバフォメットとネルガルが担っている。

 最初は何故バフォメットとコルソンが追加されたのか理由が掴めなかったのですが、物語の主題に沿った、実に見事な加筆だった。2019年の優れたシナリオ群でも上位に属するのではないか。

 書いておきたいことは書き終えたので、最後にひとつだけ。

 実験の目的を失いながら、それでも研究を停止出来ずに人里離れた館で漫然と継続し、一見理路が通っているようで、愛着対象の喪失による激しい感情に突き動かされる研究者ネルガルは、2018年の『プルフラス・復讐の白百合』におけるサタナキアの姿を彷彿とさせる。その感情を心の「眼」で読んだプルフラスが急所を突く場面も重なるし、レラジェには偶然の成り行きもあるが、いずれも慕っていた相手の敵討ち、という点では目的を同じにする。存在自体が不条理に近い、という点でグリマルキンとサラを重ね合わせることも出来るだろう。そもそもレラジェRとプルフラスはゲーム性能上でも同じ点穴のアタッカーだし。

 『プルフラス・復讐の白百合』は、メギドのイベントにおいて、初めてサタナキアすなわち「敵」の心情が密に描かれ、物語にぐっと厚みが出るようになった、記念すべきシナリオでもあった。そういう意味で、非常に懐かしい気持ちになった、ということを最後に書き添えて、今イベントの感想を終わりとします。 

 

 

 

 

メギド72『さらば哀しき獣たち』について

 メギドの月初イベントの感想を、月後半実装メギドのキャラエピを読んでから書こうとして失敗し続けた。そうするといつまでたっても書き終わらないし、そもそもメギドのイベントストーリーはイベント本編でほぼ完成している。その月の実装メギドのキャラエピがその前日談や後日談に当たることは多いものの、本筋に絡まない場合もまた多い。これは新規実装メギドの所持率を考えれば当然のことで、たとえばエリゴスBやフェニックスCのキャラエピはイベントの後日談に相当はするけれども、イベントの内容をより深めるというよりは、対象のメギドの魅力をより引き出す、という点に軸が置かれている(大きな物語はユーザー全員が障壁なく共有できるものであってほしい、と個人的には思うので、是非その方向性で進んでほしい)。
 なので、2019年10月度の『さらば哀しき獣たち』についても、本編(と、一部前日談に当たるべバルのキャラスト)の時点で十分内容としては完結しているものとして、感想を書いておきたい。

 シナリオに触れる前に、まずは初の配布メギド不在の月初イベントだった。
 これまで『紡ぎ紡がれし思い』や『届かぬ心・モラクスの願い』など、新規実装メギドなしで特定メギドの活躍を描くイベントはあったが、これは復刻するに足るイベント数がまだない運営当初、間を持たせるための幕間だったと思う。
 今回の配布メギド不在の理由は、いくつか推測される。

 まず思い付くのは(これがいちばんの妄想という気もするが)今後配布可能なメギドの枠の少なさだ。
 今現在の真メギドの残り枠数は、アバラムまでを入れて32枠であり、祖真リジェネは足しても50+66枠となる。このまま月三枠で実装を続けていくと、単純計算で50月で枠を使い切る計算になる(もちろんメインストーリーでの配布や、年末など月によっては四柱の実装もあり得るだろう)。72という数字にこだわって追加するとなれば大がかりだし、いずれにせよ準備まで時間が掛かる。やはり新規メギドが居るか居ないかは、物語を魅力付けるうえで大きいとは思う。もちろんリジェネの枠はまだまだ残っているので、今後も新規メギド1体+リジェネメギド2体のペース配分を続けていくのではないかと推測するけれども、時計を追加しないのであれば、どこかで新規メギド実装のペースは落とす必要があるかもしれない。これまでは初心者にとにかく戦力を増やすという意味合いもあったが、過去イベントを常設化するのであればその必要性も下がる。
 現在のカウントダウン形式も、見方を変えればイベントと本編の時系列整理=サイドストーリーをより自然に導入するための準備にも見える。
 もうひとつの理由として、配布メギドの加入を終着点としたとき、どうしても物語の展開が固定されがちだった。また、リジェネと新規実装メギドの物語を同時並列する難しさもあった(特にリジェネ実装直後はそれに苦戦していたと思う)。
 新規メギドの活躍を描きながら、どう既存メギドを描写していくかという課題も、実装メギド数の増加と共に(あまりそれを感じさせないのがライターの腕前とは言えるが)難易度が急激に上がっていたと思う。ひとまずはテキスト量の増加で対処出来はしても、それによるテキストの複雑化は避け難い。物語のピント合わせも、どうしても難しくなってくる。特に群像劇を意識したのだろう昨今のイベントではその傾向が強かった。一方で『死を招く邪本ギギガガス』では、既存キャラを活躍させる前半の群像劇、新規実装メギドであるフルーレティに焦点を当てた中盤、ベリトとジルの結末を描いた後半、と構造的にはっきりと整理されていたわけで、その問題意識の現れではなかったか、と今は思う。

 『さらば哀しき獣たち』においては、新規メギドの登場を省くことで、ウヴァル・オロバス・ナベリウスといった、これまでイベントに登場しなかったメギドたちの活躍を詳細に描くことが出来たし、単に新たなメギドが仲間になって終わり、では絶対に迎えられないビターな結末を描くことが出来た。
 まもなく二周年が近いけれども、メギドは現在も自分の物語の領域を拡張し続けようとしている。
 既存メギドの活躍は、コンテンツの人気を安定化させるためにも有用だ。メギドはキャラクターに愛着を抱かせることを主戦略にしている意味でもキャラゲーだし、人気のある同一のキャラばかりを集中的に取り扱うと、どうしても物語の幅が狭くなる。既存メギドの活躍を複数描ける今回のようなイベントは出来れば今後も期待したいし、その役割は十二分に果たせていたと思う。また、今回はあくまでオーブが報酬となったが、たとえば特注霊宝を含めた(比較的製作の容易な)霊宝製作書を報酬にすることも可能だろう。もちろんまだまだリジェネの枠は残存しているが、たとえばリジェネ配布と同時に特注霊宝で無印を強化するといった構成も考えられる。季節のスキンはさすがに金を取るべきだろうが、それを割り当てられた三柱の活躍を描くとか、報酬を新規メギドに絞らなければまだまだ展開は多様化出来る。もちろん新規メギドの配布を含めた実装は嬉しいし、今後にも期待したい。

 物語面について。まず今回目を惹いたのは、「言葉」という主題の取り扱いだった。
 プーパの設定については、第04話・冒頭でサタナイルに「要は言語を扱える幻獣を他とは区別している」と端的に要約されている。とはいえこの発言については、幻獣がコミュニティを作れるとは驚いた、というサタナイルとフォラスの会話に端を発している。オーク、コボルトといった単一種族ならまだしも、今回の「村」は異なる二種族から成るコミュニティであり、(実際に異種族間のやり取りがどうかは原作内での描写が乏しいし、さすがにそこまでの設定は練り固まっていないだろうと思うが)言語によるコミュニケーションは必要だったろうと思われる。
 まして、二種族の村長はべバルとアバラムを欺くために高度な演技までしているのであり、これは言語あってこそのものだろう。
 いずれにせよ、作中のやり取りを見る限り、メギドやヴィータと意思疎通出来るということは、プーパがプーパであるうえで必須の条件だろう。言語を理解されないのであれば、かつてバルバリッサが『暴走少女と一つ目幻獣の島』(復刻改稿版)でサイクロプス三兄弟を欺いたように、相手に嘘を信じ込ませることすら出来ないのだから。ただし、サタナイルのこの要約は、「扱える」であって「話す」ではないところが勘所ではないか。
 これについては、グラシャラボラスがさりげないが、重要な発言をしている。

行商人ヨンチョ
「へえ…言葉を喋れる幻獣ねえ」
グラシャラボラス
「そういう噂自体は聞いたことがあったけどよ…マジでいるとはな」
行商人ニーチョ
「そんなすごいことなのか、それ?
オウムだの九官鳥だの、喋る動物は
他にもいるぜ?」
グラシャラボラス
「オウムも九官鳥も、こっちの言葉を
真似してるだけだろ?
(…)だけど、さっきここに来たのは
自分の意志でちゃんと言葉を
喋るヤツだ」
(第02話・END) 

 「オウム」や「九官鳥」は「言葉を真似してるだけ」であり、そこには「自分の意志」がない。エンキドゥは鍵を勝手に持ち出そうとしているし、そこには明確に自分の意志がある。また、メギドラルに帰りたくないという一心で双子を欺こうとする村の幻獣たちにも、自律した意志がある。
 ただし、その前のエンキドゥとグラシャラボラスの会話には、さながら「オウム」のような同語反復が目立つ。

謎の幻獣?
「「まじ」って…なに?」
グラシャラボラス
「あ…知らねえのか?
「本当」とか「本気」っつー意味さ」
謎の幻獣?
「「まじ」は「本当」とか「本気」…
うん、おぼえた」
(……)
謎の幻獣?
「オイラ、「マジ」は幻獣なの…」
グラシャラボラス
「「マジ」の使い方おかしいぞ、それ」
(第02話・1)

 グラシャラボラスの「マジ」は「本当か」という感嘆詞に近い用法であって、「マジは幻獣」という修飾には使えない。ここで「マジは幻獣」と語ることは「オウム」のような硬直的な反復に近くて、おそらくその後の運用法を推察し、実際に正しく扱うことは「オウム」には出来ない。このグラシャラボラスとエンキドゥのやり取りはさりげないけれども、エンキドゥに「オウム」に近い側面があること、言語運用の生硬さを表している。このあとに続く「ナンコー」をめぐるやり取りも、薬は持っておくものではなく使うもの、飲むものではなく塗るものという推察の難しさを示唆している。
 両者のエピソードには、類推を含んだ検討力の乏しさが共通する。エンキドゥは自分がメギドであると嘘をつくことも出来るし、村長たちも双子を騙すことは出来る。けれども結局村長たちはチリアットの「解放」の言外の意味を疑うことも出来ないし(これは暴力による脅迫もあっただろうが)この点ではバルバリッサに吹き込まれた嘘を吟味なしにそのまま信じるサイクロプス三兄弟に近いものがあるのではないか、と思う。

 人が言葉の運用の力がもっとも試されるのは、未知の語を使うときだろう。外国語であれば文法の類推まで必要になるのかもしれないが、母国語であっても推測が必要になる場面は多々ある。「外」の語は教えられるものだ。エンキドゥ=プーパがグラシャラボラス=メギドに教えられるエピソードとパラレルに、べバルのキャラエピでは、べバルとアバラム=メギドがヴィータの孤児たちに言葉(概念)を教えられる場面が登場する。

興奮している子
「それ、「カッコイイ」だろ!
カチカチのトカゲの人形!
オレのたからものなんだ!」
喜んでいる子
「私のは「カワイイ」でしょ?
モフモフのイタチのぬいぐるみ
私のたからものなの」
アバラム
「たしかに、
カチカチで「カッコイイ」…!」
べバル
「たしかに、
モフモフで「カワイイ」…!」
(2話) 

 この「イタチ」と「トカゲ」が本編の「毛玉」と「鱗玉」に対応するわけだが、べバルとアバラムにとっての「カワイイ」「カッコイイ」はこの孤児の少年少女の教えが第一である。イベント本編でオロバスが「カッコイイ」のは「カチカチ」だからで、ベヒモスが「カワイイ」のは「モフモフ」だからだ(先に「カワイイ」「カッコイイ」の概念を知っているのであれば、ベヒモスはひとまず「カワイイ」には当てはまりづらいのではないか)。
 一方で、彼らにとっての「カワイイ」「カッコイイ」は単にカチカチ/モフモフといった触り心地のみに限定されていないし、孤児たちも3話で楽器を「カワイイ」「カッコイイ」と評する。モフモフした楽器はそうなくて、せいぜい「イカしている」ぐらいの、ファジーな意味だろう。
 べバルとアバラムもまた、「かわいく演奏したいコ/カッコよく演奏したいヤツ」と柔軟に語を運用している。
 メギドの言語運用という点で見逃せないのは「あだ名」である。具体的には、ベヒモスとエンキドゥの差異に注目しなくてはならない。エンキドゥはグラシャラボラスを「グラボス」「グラシャス」と呼び、ベヒモスはモラクスを「モーモー」と呼ぶ。この二組は、エンキドゥは直接的に覚え切れないとは語っていないものの、いずれも名前を中途で省略している、という点は共通している(モーモーについては、メギド体が牛であるのと偶然の一致はあるだろうが)。一方でベヒモスがソロモンを「ピカリン」と、あるいはナベリウスを「ワンコ」と呼ぶのは名の省略ではなく、相手の特徴を捉えた「あだ名」である。こういった創意工夫、あるいは柔軟な言語運用は、エンキドゥにはまず出来ないだろう。べバルとアバラムの「敵」や「仲間」といった語の使い方についても、やはり状況に応じた柔軟な(ファジーな)運用が垣間見える(特に、第04話・1の、エンキドゥを「仲間」にカウントする場面など)。
 生硬な/柔軟な言語運用という枠組みは、作中で繰り返し参照される。たとえばウヴァルのこの台詞である。

ウヴァル
「私はウヴァル…
「幻獣を狩ったり狩らなかったりする者」…だ」
(……)
フォラス
(混乱させてやり過ごしたが…
そもそも名前だけ言ってりゃ済んだ
話なんじゃねえかな…)
(第04話・冒頭) 

 メギド時代の記憶に乏しいウヴァルにとっては「幻獣を狩る者」こそ、わずかなアイデンティティの土台である。ウヴァルのキャラエピは、「キリングマシーン」として機械的に幻獣を狩る彼女の姿を描く一方で、プーパを彷彿とさせるような意志ある幻獣との接触と、彼女が垣間見せる「優しさ」を描いている。ただ幻獣を狩るだけであれば、それは「キリングマシーン」であり、あるいは(エンキドゥが語るように)殺し合う幻獣に近いものかもしれない。そこに少年の親友である幻獣を殺さない、という優しさが働くことで、ウヴァルに「キリングマシーン」以外の意志があることを物語る、という筋立てだ。作中でも、ウヴァルは当初「幻獣を狩る者」として村の幻獣を強く警戒しながらも、最終的にはエンキドゥを「仲間」と認める柔軟な対応をしている(これをウヴァルが口にする構成が素晴らしい)。ウヴァルがプーパからメギドになったのではないかという推測をちらほらと見かけて、根拠は検索した限りではちょっと分からなかったのだが、たしかに上記のやり取りだけを引き抜けば、エンキドゥを含むプーパに近い言語運用ではある。

 ウヴァルのキャラエピは、山の神隠しの噂を聞いた彼女が、幻獣の気配を察知して狩りに行く、というごく単純な筋立てである。
 『さらば哀しき獣たち』を踏まえて読み返すと、神隠しの元凶である幻獣が、少年の親友である幻獣の色違いなのに目が行く。もちろん幻獣の立ち絵自体が少ないのがその最大の原因だが、ウヴァルのキャラエピと本編に共通するのは「似ているようで微妙に異なる二組」というパターンである。
 冒頭のポータルを守る兵士たち、そして村に囚われたキャラバンの商人は同一人物と見紛うような双子、三つ子である。しかし彼らは外見が似ているだけで、決して同一ではない。これはべバルとアバラムが「双子」である以上に、プーパと幻獣の関係に近い。
 そしてプーパとメギドの関係にも、おそらく近い。
 オーブやプーパ/メギドの設定については、おそらく現時点での暫定的な設定という意味合いも含めて、あくまで作中人物が語るのは仮説である。とはいえそれを参照するならば、たとえばベヒモスがプーパではなくて幻獣である理由は、オロバスにこう語られる。

ベヒモス
「キボーだのソンケーだの、
勝手に押し付けんなよ…
オレはオレのために戦ってんだ」
オロバス
「あの「力」に対する欲望が…
彼に「個」を確立させたのかな?」
(第04話・1)

 欲望、言い換えれば強靭な意志こそが「個」を確立する。
 チリアットは身内であるべバルやアバラムに優しい一方で、プーパには「鬱陶しい雑草」と言い放つまで強い不快感を覚えているし、単なる幻獣以上に苛烈な扱いをしているのではないかと思う。仮に言葉の扱いが生硬であっても、「個」の確立があればメギドになるというのであれば、プーパとメギドは双子のように遠く近い(現にベヒモスはプーパからメギドになったのだから)。フォラスが懸念したように、それは家畜が突然人語を喋るような不気味さを有している。そんな状況は現実にはないから想像に過ぎないが、己が唯一言語を話し、かつそれを基盤に「個」=意志を確立する固有種である、という思い込みが崩されたとき、人は自分のアイデンティティが侵犯されるような不快さを感じるだろう。簡単に受け入れられるようなことではない。
 当時のベヒモスは「オレのために戦って」いたであって、誰かを真似て、誰かに命令されて戦っていたわけではない。
 ここで想起されるべきはエンキドゥの振舞いであって、メギドラル時代のエンキドゥの在り方は詳しくは書かれてはいないが、他の幻獣から「戦功」を邪魔する「役立たず」として暴力を振るわれる場面から察するに、命令されて動く集団の一員だったのだろう(第05話・2)。
 エンキドゥの言語運用には、単純に飲み込みの遅さを反映しているとも言えるが、「オウム」に近い模倣の側面がある。

 だからこそエンキドゥが己の危険を顧みず、身を挺してソロモンをかばう場面は意義深い。
 ソロモンは、チリアットとの対峙に際して助力を願い出たエンキドゥを、「駄目だ!下がってろ、エンキドゥ!巻き込まれるぞっ!」と退ける(第05話・4)。
 確かにソロモンをかばうこと自体は、かつて(勘違いとはいえ)ベヒモスが自分にそうしてくれた、その真似に過ぎないのかもしれない。しかし、慕うソロモン王の命令を無視してまでかばうことは、いわば命令違反だし、単なる真似ではない、自立した意志が無ければあり得ない。言い換えれば「個」である。ベヒモスが「オレのために」戦うように、エンキドゥも自分の意志でソロモンを守る。『さらば哀しき獣たち』は直接的にそこまで明言はしていないが、このときのエンキドゥは、「個」に限りなく近い。だからこそ、ベヒモスが真っ先にエンキドゥの活躍を認めるんじゃないか。
 ちょっと甘い読みだけれども、この最期の瞬間、エンキドゥはメギドに限りなく近付いていたと思う。

 テキストは相変わらず精緻で読み応えがあったけれど、今回はゲーム体験として切なさの深く残る、総合的に優れたイベントだったと思う。いつも通りといえばそうだが寄崎さんのイベント曲も素晴らしいし、あとはポースリトスが感慨深かった。イベント交換用のアイテムは毎回味わい深いチョイスで楽しみなのだが、今回のポースリトス(光る石ぐらいの意味だろう)は、色合いからしてオーブの欠片を彷彿とさせる。
 イベントの前半でフォラスとナベリウスが、オーブは幻獣の力の残滓か、あるいは幻獣そのものかと仮説を挙げ合う場面があるが、いずれにせよこの砕け散ったオーブの破片は、芽生えつつあった「個」を散らす他なかったプーパたちの命の名残を集めるようで切ない(争いを厭った彼らも、間違いなく「哀しき獣たち」の一員だろう)。ごく何気ない細部だけれど、こんなところにまで神経が行き届いていると、遊ぶ側としては非常に嬉しい。
 今年の他の傑作群に決して劣ることのない、素晴らしいイベントだったな、というところで終わりとします。

霊宝の話

 いまさら霊宝を触り出したけど、非常によく出来たゲームデザインだと思う。なので、短く書いておきたい。
 まず霊宝が開発された経緯は、はっきりとは書かれていないので結果的にそうなっただけに過ぎないかもしれないが、おそらくメギドの「長期プレイヤーのやることない問題」に起因すると思う。


長期プレイヤーに合わせた調整をすると新規プレイヤーの方は突破困難になってしまう…。
かと言って、新規プレイヤーを意識してイベントを調整してしまうと、長期のプレイヤーからすれば1日で終わってしまう…。
長期プレイヤーの方の「やることがない」という声も課題として捉えております。

(プロデューサーレター vol.15)

megido72-portal.com

 メギドは常に初級者~中級者を意識したデザインを志向し続けている。共襲ならまず初心者がPUされたメギドのフルオートだけでポイントが稼げるような仕組みのほうが個人的には良いと思うし(もう少し工夫の余地はありそうだが)イベント本編は1章をクリアした時点で配布メギドを仲間に出来るぐらいの難易度であってほしい。そして、だからこそメギドのイベントは報酬を高く設定し辛い。「上級者はこんなに素晴らしい特典を得られるけれど、始めたばかりの自分には無理だ」という思いは確実にモチベーションを下げる。だから、最近のメギドはイベント報酬をチケットやエンブリオ幼程度に留め続けているのだと思う。やり込み要素に近かったイベオーブについても、育成による性能強化の幅を狭めることで周回の必要性を下げている。
 周回を強いるデザインと、やり込みたい人だけがやり込めるゲームコンテンツというのは当然違う。メギドはここをしっかり切り分けている。
 
 中級者までを意識したデザインにおいては、当然それを越えた上級者にどういうプレイをしてもらうか、という点が課題になってくる。
 さらに、そもそもメギドはRPGなので、やり込みは必然的に素朴な周回にはなる。誰もが思い付きそうな話で、何度か任意のレベル下げシステムがあれば低レベルクリアのやり込みが出来て面白そうだとか、手持ちのメギドからランダムに何人かPUしてエネミーと戦うようなコンテンツはどうだろうか、とか妄想は書いていた。ただそれはプログラム的に難しい気もするし、いずれにせよまずは「やり込む」=周回の価値があるポイントを作ったほうがいい。かつ、それは中級者以下でも必須な報酬を設けることは極力避けなければならない。不死者の育成とか、終わってしまった人間にはどうとも思えなくても、これから始める人にはけっこう大変に違いないのだ(ベルフェゴールで久々にそれを思い出した)。
 
 メギドがひとつ重視していることに、性能の面白みがあると思う。
 たとえばアタッカーは普通頭打ちになる。インフレを避けるなら、必然的な帰結ですらある。アスモデウス以降に限らず、初期から強力なアタッカーを複数用意している以上は当然である。しかしエリゴスリジェネなら「プロメテウスと組み合わせれば覚醒スキルが連発出来るじゃないか」「これだけ強力なバフに、更にフォラスやダンタリオン、ジズを組み合わせればどうなるだろう」「アスモデウスと比べて中威力の攻撃を連発する分、たとえばフルカスのMEと組み合わせしたら場持ちが良いかもしれない」と、アスモデウスとは別のプレイングの幅が生まれる。実際のダメージソースとしては、アスモデウスと大して変わらない程度なのかもしれない。でもプレイングの幅が違う。別の面白みがあると言ってもいい。
 これは非常に重要なことだ。毎月三体もの新規キャラを実装し、既に百二十体以上の膨大なキャラが存在している中で、単なるインフレが生じていないのはこの「別の面白み」を重視しているからといっていい。バルバトスRとクロケルRはいずれも強力なアタッカーだが、バルバトスRが非常に強力なMEで初手からムルムルやアンドロマリウスの奥義を発動させやすいのに対して、クロケルRはフォトン破壊やHP吸収という場持ちの良さが魅力になる。単純に後続を「より派手なダメージを叩き出せる」という点だけで魅力付けしようとすると、待ち受けるのはインフレである。インフレの最大の問題は、初期環境のキャラクターの価値が目減りすることだ。全てのメギドにファンがいる、という状態は間違いなく理想的だ(ファンをコンテンツに留まらせるのはキャラクターへの愛情であり、そして複数のキャラクターに愛情を持たせられるデザインは強い。そしてすべてのメギドにファンが居れば、その一人一人が魅力を語り、それが時に愛着の伝播となる。魅力的なキャラが多いせいで、私はいまだにいちばん好きなメギドを挙げられない)。
 裏返せばそれは、ファンを幻滅させる施策は非常に取り辛い、ということだ。だからインフレはメギドでは絶対に避けるべき一手だし、多くの場面でこれまで避けられている。もちろんそう思わない人もいるだろうが、基本的に性能は複数の軸で組み立てることで差別化出来ている。

 霊宝は強化だ。ただしあくまで「面白み」の幅を越えてはいないと思う。最初の印象は地味ですらあった。他にもそういう人はいるんじゃないか。
 精々シルバーミラーをザガンに、ゴシックダガーをラッシュのアタッカーに、オンブラポンチョを覚醒ゲージが非常に重いメギドに装備させる、ぐらいしか思いつかなかった。系譜が実装されると、ラッシュの猛撃、具体的には金のアマルティア&トレラントリングには「アスタロトベヒモスより先行して強化済スキルを放てる…!」というワクワク感があった。ただ、確かに強力ではあるけれど、猛撃持ちのアスタロトベヒモスのコンビが、今後のメギドの攻略に必須かというと、そうは思わない(ガオケレナの捕獲には非常に役立っている)。条件さえ揃えれば強烈なダメージを与えられるアタッカーは他にいくらでもいるだろうから、あくまで楽しみ方の範疇を越えてこない。
 ここが安心出来る。確かに強化ではある。しかし、必要性より面白さ、プレイングの幅の拡張、というほうに傾いた強化である。
 たとえばRイポスは強力な自己バフ性能を持ち合わせている。これに素のステータスを向上させるゴシックダガーを四本装備させたらどうだろうとか、色々アイデアが思い付く。でもそれは攻略に必須なアイデアではない。「この霊宝を持たせればこんな風に活躍出来るのではないか」と計画と妄想を練り、実際に活躍させてみて上手くいったりいかなかったりするのが楽しいのである。よくよく考えればこれは、オーブのデザインと近似している(メギドのバトルシステムとして非常に優れたものにしている一因だと思う)。バーストのメギドなら誰でも蘇生と全体強化解除が出来る。カウンターなら誰でも列覚醒上げが出来る。「このオーブをこのメギドに持たせたら、こんな風に活躍させられるんじゃないか」という自由な幅が面白い。
 計画の自由、妄想の自由だ。
 
 霊宝作成はいずれもコストが重い。しかし、このコストもよく練られたものだと思う。
 たとえば猛撃に使う金のアマルティアを見てみる。素材の内訳のうち、特に重いのは次の三つだろう。
1.ステージ43のみで稀にフィールドドロップする奇岩洞の金水晶
2.ステージ37のボスがドロップする竜騎神の大検
3. ルゥルゥ系の素材・捕獲アイテム

 大幻獣の捕獲報酬を必要とするのは、大幻獣に対応するメギドの育成を終えてしまうと捕獲の意味が最早無くなっていたのに対して、上手い具合に再利用していると思う。個人的には大幻獣は倒すよりも捕獲するほうが難しい。単に倒すだけの大幻獣討伐に再び捕獲を持ち込んできたのは、悪くない選択肢だ。ちょっと面倒ではあるけれども、プレイングの幅を広げているとも言い換えられる。もっともアシュトレトに対するフラカンユグドラシルに対するガオケレナのように、これまでの大幻獣は捕獲が難しければ亜種できっちり調整を利かせている。様々な難易度、原種/亜種のステージを回るような仕組みにしたのは、個人的には楽しいほうだ。今現在捕獲が極めて困難な大幻獣はいないと思うのだが、人によってはチケットの活用幅が増えたとも言える。また、オーブ育成を終えてしまえば基本的に用済みだったのが、今後は「いちばん最初はこのメギドの組み合わせで試していたけれど、こういう組み合わせにすればもっと楽なんじゃないか」という見直し、新しいプレイングの機会にもなると思う。

 1と2は面白い組み合わせだ。稀にフィールドドロップするアイテムは、オート周回にチケットを費やすより、フィールドドロップを狙ってリタマラした方が効率はいい。一方で5章以降、それこそ竜騎神の大剣のようなボスドロップ金素材は、銀素材銅素材でも積み重ねれば金素材になるのだから、チケット周回に向いている。この組み合わせはベリアルからの不死者育成で既に見られていたものなのだが、「時間があるときはリタマラを狙い、時間がなければボスドロ素材をチケット周回する」というプレイを意識しているのだろう(…というのに気付いたのが霊宝作成からで、私はベリアルを育成するときは相当石を砕く羽目になった)。リタマラは案外単純でフラストレーションが溜まりにくいし、一度VHをクリアしてしまえば二度と触れないだろうなと思っていたボスと、久々に戦う機会にもなった。プロトアバドンとか、まず進んで倒しに行かないだろう。せっかく調整を重ねた敵エネミーなのだから、出来ればプレイヤーにも時々は戦闘してもらったほうが良いという考えなら、わりと納得しやすい感情だ。Nとはいえ、意外と再戦のためにパーティを組むのも悪くないし。
 
 「やることがない」というとき、そもそもメギドの「やること」とは何だろうか、という問題に当たる。
 メギドの戦闘が面白いのは言うまでもない。しかしもうひとつ面白いのはRPG的な「ちまちました育成」ではないか。私はオーブ育成のためのイベント周回がとても好きではあったが、これは中級未満の人に強いる難易度が高い。ピローヌやグラディエイターはフルオート周回だけで良くても、サタニックリブラやデュークはさすがにしんどかったし。素材を集める、合成する。小目標を達成する小気味良さがある。霊宝は小規模な育成の連続だ。だから、触ってみると意外に面白い。あまりそんな気がしなかったからこそ面白さが不思議なのだが、ゲームデザインの上手さを改めて認識する。

 「やることない問題」については、欲を言えばレベル下げシステムとか、たとえば任意のメギドから数人がランダムに選出されて、敵と戦うランダムダンジョン……とか、勝手なプレイヤーにありがちな妄想はいくらでも思い付く。でもこういうシステムはコストを考えると現実的ではない(だから妄想なのだ)。あくまで本編の面白さに近いものを再現しつつ、かつプレイングの幅を広げるという意味で、霊宝は非常に保守的であり、精巧なゲームデザインだと思う。ちなみに同時実装されたウィッシュリストも、使い勝手が良くて好きだ。レアアイテムがドロップしたら当然すぐに合成したいわけで、そこからメギドの強化画面に飛んで、霊宝の山から目当てのものを探す、という作業をちゃんと省略したのは有難い。
 もちろんキャラ性能の可変域を増やす、という意味で優れているのは言うまでもない。ウェパルの特注霊宝とか、すごく面白い性能だ。

 霊宝がエンドコンテンツとして設定されたことで、今後のイベントで上級者向けの報酬を用意する必要性がぐっと減ったことは書いておきたい。
 たとえばサタニックリブラやデュークは典型的な「やることない問題」に対するエンドコンテンツだったと思うが、労苦を重ねる以上、性能は当然相応に優秀なものでなければならず、故に地獄の周回を強いられる……という構造上の問題があった。一方で霊宝が新たな「やること」として用意されたなら、イベントは目当てのものだけを早々に交換して、あとはまた霊宝作りに戻ればいい。だから中級者まではイベント周回をどうすれば今の手持ちで効率化出来ればいいかを考えるのが課題になるし、それが終わっている上級者は霊宝作りをする。新しい導線だ。霊宝目的のリタマラも、サタニックリブラ周回に比べれば簡単だ(比較対象が微妙なのは重々承知で)。でもこれは本当にやってみると、案外さくさく終わるのである。
 朝起きるたびに余ったSTの使い道が思い付かなかったりするときもあった。常に小目標がある今では、なかなか考えられない事態だ。
 エンドコンテンツといえばこれまでは大幻獣オーブの育成と、イベントのエンブリオ幼集めが相当していたと思う。でも今後はそれに第三の選択肢として霊宝作成が加わる。決して数は多くはないだろうけれど、早々に大幻獣オーブ育成を終えられる上級者は居る。個人的には、同じ大幻獣をひたすら倒し続けるのは私はしんどい。霊宝は集めるアイテムの種類もそれなりに多岐に渡っている。そこがありがたい。大幻獣オーブの育成より効果が実感しやすいし、恩恵を受けるメギドも多い。だから、エンドコンテンツとして霊宝作成は非常によく出来たデザインだと思う。
 今月のイベントがそうだったけれど、イベント報酬の幅を広げたのも良かった。おそらくイベントオーブは、まだまだ足りてない特効、耐性はあるけれども、いつか性能が頭打ちになる要素なんじゃないかと思う。インフレを引き起こしやすい部分とも言い換えられる。毎回1-2種類のオーブを用意し続けるのも負担だっただろうし、オーブから新規霊宝に追加要素を切り替えていくのなら、とても良い選択だと思う(現実には時々イベントオーブを追加することにはなるだろうが)。
 これは妄想に近い楽しさではあるが、鏡とかケーキとか豆煮込みとか指輪とかハートブローチとか、大したことではないけどいろんな種類のアイテムを自分の意志でメギドに贈れるのが素朴に楽しい。今月実装された「冥界ノ栞」は、毎回イベントの報酬交換用アイテムが味があって魅力的だっただけに、形を残せるようでとても嬉しい。それも、限られた時間でのイベント周回必須の報酬ではなく、あくまでレシピ配布形式なのがいい。記念品のお土産みたいだ。この調子で、報酬アイテムの色変えを今後も霊宝化してもらえると嬉しい。あと、新規霊宝というのはなんだかんだ楽しみだ。オーブでもメギドでも、なにかしら新しい要素がゲームに追加されるとワクワクする。なので、また定期的に追加してもらえると嬉しい。冥界ノ栞は入手難度自体は低いので、中級者ぐらいのユーザーにも霊宝に触れてもらうキッカケにしよう、という意図があったかもしれない。
 もちろん被りの恩恵がちょっと増えた、というのは言うまでもない。匣の大きさは、いざ霊宝に触り始めるとけっこう気になる要素だ。もちろん単発のガチャとかで何度も被らせるようなデザインにすると課金の重たさが跳ね上がりユーザーが疲弊するだけなので、今ぐらいの上げ幅でいいとは思う。攻撃力+15%というようなバフ特性の価値も上がった。

 良いことばかり書いたので、気になることを最後にふたつだけ書いておく。
 霊宝を一度誰かに装備させて忘れてしまうと探すのが面倒くさいので、出来ればメギド全員の霊宝を一度に取り外すコマンドがあれば嬉しい。
 あと、これだけ魅力的な要素であるにもかかわらず、情報提示が今のところ煩雑過ぎて、取り組み辛かったのはある。ゴシックダガーやオンブラポンチョ、シルバーミラーのように作成が容易ですぐ使える霊宝も多くあるが、初めて触れる人は全ての霊宝の効果を逐一確認したりはしないと思う(ゲームを始めた当初、オーブの効果をいちいち確認するのが面倒で、三章の終わりになるまでメイジマーマンの効果を知らなかったのを思い出した)。ただ、これについてはとりあえず初期状態として大量の霊宝を用意しなければならなかったのもあると思うし、今後イベントごとにゆっくり霊宝を追加していけば、ちょっとは目が行きやすくなるのではないかと思う。
 イクリプス霊宝は私はまだ手が出せない。これは少なくない数の人がそうだろうし、運営も予想済みなのではないか。だからこそイクリプス霊宝の性能も全般に控えめになっているのだろうと思う(非イクリプス霊宝でそれなりに替えが利くものが多い)。エンブリオ程の価値の高さは必要ないだろうが、たとえば今後のイベント周回報酬にこれをオマケ程度で設置するのもいいかもしれない。
 
 これから霊宝に触る人には、ひとつひとつの能力値は地味だが、重ねると色々違ってくる、ぐらいで考えてみるといいと思う。まずは長所を伸ばすようなものが使いやすい。攻撃力バフと、フォトン確率追加系の霊宝は役立てやすい。四つ重ねると、MEに近い効果が出てきて面白い。
 言い古されてきたオススメだが、トレラントリング×3+金のアマルティア×1のアスタロトベヒモスの組み合わせとか、シルバーミラー×4のザガンとか、毒避けの盾×4とサタニックリブラ持ちのサブナックとか。後列パーティだとオンブラポンチョ×4とピローヌ持ちのプロメテウスの組み合わせが好きだ。パーティにアタッカーが複数人居る状態はそこまで多くはないだろうから、1~2セット作ってしまえば使い回せばいい。
 公式サイトの霊宝一覧はカタログみたいで楽しい。でも性能の比較確認には非公式攻略wikiのほうがいいだろう。まずはここを見てから、「あ、この霊宝はこのメギドに使えるじゃないか」と色々妄想してほしい。ちなみに冥界ノ栞の防御上昇値は作成の簡単さに比して破格だと思う。


 色々書いたけれど、とにかく霊宝のシステムが好きだ。デザインはひとつの答えで二つ以上の問いに答えるもの、というような定義文章をどこかで見かけた記憶があって、誰の言葉かは知らないが、たしかにその意味で霊宝は優れたデザインだと思う。

 

現代文学チュートリアルガチャ

 一年に一度ぐらい、おそらくはもっと低い頻度なので嘘を書いている気もするが、「現代文学ってどこから読めばいいんですか?」と訊かれることがある。私はもっぱら日本の現代小説ばかり読むので、じゃあこんな風に読むのはどうか、という提案は出来る。今回はその話である。

 現代文学と言われて、思い付くのは芥川賞かもしれない。
 なんだかよくわからない、なんで賞を獲得したのかよくわからないような小説(と世間に思われがち)で、アマゾンレビューも散々な評価だったりする。そのわりに何故か芥川賞は半年に一回ニュースになる。聞いたこともないような作家が(だいたいの受賞者は現代文学を読んでいたらわかるのだが)インタビューを受けている。話題にもなる。『美しい顔』とか『百の夜を跳ねて』とか、作者名がぱっと出てこなくても書名は分かる人がいるのではないか。
 
 現代文学は面白いと思う。
 現代文学は、新人賞(もしくはそれに準ずるようなルート)→編集者によるボツとリライトの繰り返し→文芸誌への掲載という、複数のフィルターを通過した作品にのみ贈られるものだ。文学賞受賞作であれば、賞候補へのノミネート→受賞作とさらに選定は厳しくなる。
 だから、現代文学、少なくとも文学賞に選ばれるような作品が、どれもこれも面白くない、ということはまずないはずである。コンテンツ、新ジャンルとしてプレイを始める価値は十分にある。ただし非常に取っつきにくく見えるのは確かだ。だいたい「文学」って何やという感じだ。文学というとき、批評・詩・小説等々あるのだが、「学」という字が付くと、哲学とか人文学とか、そっちを連想するだろう。それも読んだ方が絶対面白いのだが、小説より更に取っ付きにくいので、今回は触れない。

 昔の日本文学を読むのは簡単である。文庫は選別の装置だ。太宰治はどこの本屋にもある。
 読むと格好良くも見える。馬鹿に出来ないことだ。人が本を読み始める動機なんか、それぐらいの格好付けでいいだろうと思う。
 現代文学を読むのは大変である。そもそも本を読むのは、たしかに一般的には面倒なことなのである。芥川龍之介の小説から任意の一作を取り上げて必ず面白いかというと、おそらくそんなことはないはずだが、昔から現在まで読み継がれた文学は、それだけで保証書付きのようなものだ。
 現代文学は、何をどう読めばいいのか、まるで分からない。

 話は変わるけど私はソシャゲが大好きだ。ソシャゲにはチュートリアルがある。ガチャもある。
 だが現代文学にはチュートリアルはない。おそらく「純文学 ブログ」で検索したら湿っぽくてうるさそうなブログばかり出るだろう(残念なことに私もそういうブログを書いている)。しかし逆に、あまりにライト過ぎる紹介も胡散臭い。お前絶対俺のこと馬鹿にしてるだろ、ぐらいの気持ちになる記事もある。私が今やっているソシャゲ(メギド72)は、どうチュートリアルで懇切丁寧に解説しようとしても間違いなく取っつきにくいゲームで、触り始めた当時はあまり攻略記事が発達してなかったのもあり、ゲームシステムを6割程度理解したのは実装済のラストステージまで行ってからであった。それは私がアホ過ぎるからだが、しかし現代文学にはろくなチュートリアルも、最初のガチャもないのだ。
 だがいざ読み始めると凄く面白い。楽しい。
 故に、鼻で笑われて然るべき文章なのだが、現代文学をこんな風に読み始めるのはどうか、という一案である。

 結論から書くなら、頼りになるのは文学賞だ。
 文学は面白い。しかしどれもこれも面白いではチュートリアルにならない。「実装キャラ全員いつでもどこでも強いですよ」の大半は欺瞞である。育成に時間がかかるのではなく、最初から最後まで強いキャラを引きたいように、出来る限り面白い小説=レアリティの高い小説を引き当てたいのは間違いない。だから、良作の選別装置である文学賞受賞作から読んでいったほうがいいに決まっている(SR以上限定ガチャみたいなもんだ)。
 手に入りやすさを考えれば、今年か去年あたりの受賞作を読むのがいいだろう。
 賞の数は多い。よく見る賞の個人的な分類と、一覧を挙げる。受賞作については『文学賞の世界』が見やすい。

【A】大御所作家が受賞することが多い賞
野間文芸賞
谷崎潤一郎賞
【B】大物~中堅の文学賞
泉鏡花文学賞
芸術選奨大臣賞
紫式部文学賞
毎日出版文化賞
読売文学賞
【C】芥川賞とその周辺(新人~中堅)
芥川賞
野間文芸新人賞
三島由紀夫賞
芸術選奨新人賞
織田作之助文学賞

 A群はきわめて手堅い賞である。特に野間文芸賞は、近年の受賞者を見ても堀江敏幸保坂和志笙野頼子橋本治と定番中の定番というような作家の目白押しで、地方の高校生が東京の文学部に来て本格的に読み始めるような作家はだいたいこの賞に入っているだろう。このあたりの作家が好きだったら、ああ、本好きなんだなあ、というような。受賞作はともかく受賞者に外れはまずない。といいつつも私はこの賞の受賞作を読んで外れた例はない。谷崎潤一郎賞も手堅いが、ライトな読み味の小説が多い気もする。その作家のキャリアにおいても淡めの小説という印象が強い。

 B群はA群ほどの手堅さ、言い換えれば保守性はそこまでではないが、キャリアの長い作家が受賞しやすい賞を集めた。毎日出版文化賞読売文学賞は手堅さと新規性のバランスがよく取れていて、多和田葉子村田喜代子川上弘美のような大御所から、松家仁之のような(当時のキャリア的には)気鋭の新人、さらには東山彰良のようなエンタメ寄りの作家も受賞させている。紫式部文学賞は女性作家限定の賞で、近年の受賞者は極めて手堅い。手堅さを求めるならば毎日出版文化賞紫式部文学賞泉鏡花文学賞だろうか。この群の幅は意外に広く、厚みを感じさせるものがある。

 C群は芥川賞を中心とした、新人から中堅の作家が受賞することが多い印象の賞を集めた。賞を取ったからといって作家のレアリティがSRからSSRに格上げされるようなことはないだろうが、「野間文芸新人賞」「三島由紀夫賞」「芥川賞」が三冠と呼ばれるように、この三賞は文芸における若手の気鋭の作家が受賞しやすい賞だろう。その後の芥川賞作家が候補・受賞作に選ばれることも多い賞だ。
 C群から選ぶのなら、芥川賞よりは野間文芸新人賞三島由紀夫賞織田作之助文学賞を読んだほうが安全だろう。芥川賞は番狂わせも度々あるものの、何度か候補作が続いたあとに受賞することも少なからずあり、受賞作より候補作のほうが良いことも珍しくない(村田紗耶香『コンビニ人間』や、今村夏子『むらさきのスカートの女』のような、面白い小説もあるけれど)。
 個人的には芥川賞は作品賞というより実質的な作家賞、功労賞に近くなっている気もする(のを意識しているからこそ、ときどき驚くような受賞結果を導き出してくるのではないかと思いつつも)。ただし芥川賞候補作のチョイスは毎回けっこう挑戦的で、世間の注目を集められそうな小説も必ずひとつは入れるようにしている。運営側の腕前だろう。世間にもっとも近い文学賞、という認識があるのかもしれない。

 当然ながら芥川賞は年間に多くて4人まで選定出来ないのであり、芥川賞を受賞しなかった作家でも推している作家は私にも居る(候補作になった経験はある作家ばかりだが)。ただし、最初のチョイスとしていきなり五大文芸誌(文学賞の候補作になるような、いわゆる純文学の小説が掲載されている文芸誌で、すばる・群像・新潮・文学界・文藝の五つを指す)を読むのは無理があり過ぎる。だから、まず文学賞から読むのがいいと思う。
 
 どの賞から読むべきか。どれから読んでもいいでは放置に等しい。私は題名と作者名、表紙で惹かれたらそれで読めばいいと思う。
 表計算ソフトかノートに賞と作品名と作者名を列挙して、見比べて直感で適当に決めるのがいい。一般人の作品評は当てにならないし、そのための文学賞とも言える。結局は自分で引いて読んでみるしかない。ガチャキャラの性能だって実際に使ってみなくてはわからない。そのほうが良いゲームだと個人的には思うし、現代文学もそういうコンテンツだ。
 知らないソシャゲの最初の引き直しガチャの結果なんか、顔と声と名前で決めるようなものだろう。まして文学はgamewithも攻略サイトを作ってくれないし、リセマラ最強ランキングも非公式攻略wikiもないのである。
 小説の外見は題名と表紙と作者名だ。現代文学チュートリアルガチャもそれでいいと思う。確かにA群とC群に選ばれる作家ではキャリアの差が確実にある。しかし、初期実装キャラと最新実装キャラのどっちが自分がプレイしていて楽しいかなんて分かったものではない。
 だから分類こそしたが、今年か去年のこれらの賞の受賞作を並べてみて、なんとなくで読み始めるのがいい。

 最初に何冊読めばいいだろうか。私は五冊読めばいいと思う。
 日本の文学賞は、繰り返しになるが、新人賞→編集者によるチェック→文芸誌への掲載→賞候補へのノミネート→受賞作という、何重ものフィルターを通過した作品にのみ贈られるものだ。だから、文学賞から三冊から五冊読んで、流石にどれも面白くないということは滅多にないはずである。
 そこで面白い作家に出会えれば、その作家の単行本を図書館で借りて、最初の作品から順々に読んでいくのがいい。個人的にはA群の作家は著作数が多過ぎるだろうから、BかCの作家を選ぶのがいいかなとは思う。もちろんA群の受賞者のうち、他の賞の受賞作だけ読んでいくのもいい。小説の読み方には、文学賞読みとか外国文学読みとか震災文学読みとか、裾野をどんどん広げていく横の読みがあれば、作家ひとりをずっと読み進めていく縦の読みもある。

 私は縦の読み、作家読みのほうが面白いと感じる。ある作家の小説Aを理解するには、その作家の先行する作品が理解の助けになることは大いにあるからだ。作家読みをするということは、作家を推すということだ。芥川賞を獲得すれば作家のレアリティがいきなりSSRになるわけではないが、どんなソシャゲも推しのキャラが居れば、そのキャラの活躍は嬉しい。新しい単行本が出たり、文芸誌に新作が出たり、その作品評を読んだりと、リアルタイムで動きを追うのが楽しい。CSとは異なるソシャゲの楽しさはこのリアルタイム性だろう。その意味では、文学はソシャゲに似ている(かも)。

 小説が分からなければどうだろうか。よくあることだ。分からない小説を面白く読むのは難しい。
 一応は読み終えたほうがいいが、その一冊がダメなら諦めて次の小説に行くのが得策だろう。
 しかし、個人的には、ある小説を一冊読んでその全貌を理解することは本来困難だと思う。作者がその小説を書くまでには、デビュー作や過去の小説の積み重ねがあり、その積み重ねの結果として作品がある(私は作家の最新作はいちばん面白い小説として読むように心がけている)。別の比喩をすれば、前駆症状の積み重ねと進行があって、現在の症状がある。分かるとは意味が分かるということだ。意味とは得てして物事の連続、繰り返し、流れの結果として浮かび上がってくる。分からない小説、意味が掴めないものに対しては、過去作から読むのが比較的成功率の高いアプローチだ。

 たとえば仮想通貨が主題の小説があったとして、嫌な言い方ではあるが、その人の素性も来歴も知らずに読めば「お、流行りに乗ったんだな」という気にしかならないかもしれない(アマゾンレビューにはこの類の文章が溢れている)。
 しかし、過去作を読めば、その作家が仮想通貨という主題を選んだ理由が必然的なものとして浮かび上がってくるのである。それも小説が「分かる」ということだろう。作家のエッセイや評論を読む、必要がない、とは言わない。ただ私は、小説のことは小説の流れで理解したくはなる。
 小説を分かることは面白い。私が小説について取りとめのない感想を書いたり、作家読みをしたがるのは、それが「分かる」に繋がりやすいからである。実際に、小説がまったく分からなかったある作家について、数年後に最初から読み始めたら分かったこともある。

 まず文学賞チュートリアルガチャをしたら、あとは作家ひとりに絞った読みを勧めたい。ソシャゲなら育成に相当するかもしれない。自分のなか、すなわち妄想の作家像の育成、に過ぎないかもしれないけれど。とはいえ最初からまったく分からない小説を読むのは大変だ。
 「分からないが、なんとなく面白い」というぐらいの作家を読み進めるのがいちばん良い気もする。その直感が大切だと思う。

 横の読みはともかく、作家読みは感想をつけると楽しい。お勉強とかではない。単なる遊びでしかない読書でも、なにか真っ当なことをしている気分になれる(バカといえばその通り)。ただこれはコストが大きいだろうから、全員には勧めない。
 とはいえ作家読みをしていて、単行本化された著作の感想を全て書くと、妙な達成感がある。同人誌にしてもいいと思う(した)。
 現代小説には単行本化されない作品も少なからずある。たいていは作家のwikipediaに書誌が掲載されている。単行本化されていない小説に、意外にその後の作品を分かるためのピースが埋まっていたりするから面白い。
 でも、こんなところまで読むようになったら、その人はもう文学のプレイヤーだろう。

 批評はどうだろうか。
 私は批評を読んで良かったと思っている。自分の読みは、間違いなく今まで読んだ批評に寄っている。
 ただ批評をどこから読み始めればいいかというと非常に難しい。小説は読めてしまえばあまり大外れがない気がするのだが(そういう職人的な作家を進んで読む傾きがあるとはいえ)批評には大外れがある。小説のトンデモもあることにはあるが、上手く騙してくれることが多い。批評のトンデモは気付きやすい。小説ならば初期作から順々に読むことを勧めたいがけれど、批評は受賞作、代表作から読んだほうがいいのではないか。
 私は批評を私小説のように読む癖がある、そういう私的な読み方をする批評家が好きだったからに過ぎないのだが、たとえばドストエフスキーのろくな読者でなくとも秋山駿のドストエフスキー論(『神経と夢想』)は突き刺さった。ドストエフスキーの良い読者ならもっと面白く読めたかもしれないが、ドストエフスキーを粘着質に、熱っぽく読んで書く人の文章は、その情熱が面白いのである。
 私がひとまず読んだと言える批評家は秋山駿、山城むつみ福田恒存の三人ぐらいである。柄谷行人小林秀雄も昔よく読んだ。
 批評家は好きな小説を面白く読む術を知っている仕事だ、と思う。読みの深度で面白く出来るのが小説だ。卓抜な読みは、批評の範疇だろう。
 批評を読むのは、小説を楽しむブーストになる。ただし、単行本化される現代作家の批評は、基本的にある主題のもとに現代作家の作品を整理し直す本か(たとえば震災における文学とか)村上春樹大江健三郎といったような、すでに名声の確立したような作家が大半だろう。
 文芸誌に現代作家の作品論・作家論が出ることもあるが、基本的には短いものだ。書評は、図書新聞や、五大文芸誌に掲載されることもあるが、これが非常に見つけにくい。まとめてくれるようなサイトがあればいいなと思うのだが。ひとつ参考にし易いのは文学界の『新人小説月評』というコーナーで、これは前月の文芸誌に掲載された小説の短評が載る(芥川賞を受賞した作家の作品は載せない)。
 文芸誌の作品を読むようになれば、そこを読むのが楽しくなる。

 金を払うべきか。出版不況でこんな風に書くのはどうかと思うが、最初は図書館でいいと思う。
 文学賞受賞作はどこの図書館にも確実に入っているはずだし、最初のガチャはいつでも無料のはずだ。金を払うのはゲームをある程度やり込んでからでいい。つまり、ある作家を好きになって、その最新作の単行本や、それが載った文芸誌に金を払うぐらいでいいんじゃないかと思う。
 日本の図書館は本当にすごくて、文学賞の受賞者や、候補作に選ばれるような作家の著作は取り寄せればすべて読めることがほとんどである。図書館は使い倒すべき施設だ。司書さんの労働環境は本当に良くなってほしい。奇跡的に無料の施設である。オランダは有料だそうだ。
 無料プレイを積み重ねた先に、あなたが本屋で現代作家の小説や文芸誌を買ってくれたら、私はとても嬉しいことだと思う。