連想・回想

 昔宇野千代のエッセイで、いつも座っている部屋の窓から外を見て、風景を文章にすれば自然と小説が始まると書いていて、半信半疑で試してみたがまったくうまくいかなかったことがある。筆を温めるというのか、小説は書けば書くほど書きやすくて、前の場面を活用して後ろの場面の駆動力に(要素の再利用、あるいは伏線ともいえる)出来る以上、小説は常に最初がいちばん大変だ。そこを慣れた風景描写から始めてしまえばあとはどうにでもなるということか、とその時は考えていた。その感想は今もあまり変わらないが、ただ最近になって身をもって実感するのは、小説の言葉というのは非常に書くのが面倒だということである。(詩を軽んじているわけではなくて、小説を書く人間には)詩というのはある程度は文法から自由なように見える。あるいは評論というのは存外いい加減な文体から始めても許される節がある(ように見える)。

 

 ただ小説は大抵の場合違っていて、なんだかんだ、誰それが何々をした、という行動の文章を書かなくてはならない。私が言っているのは非常に古臭い小説の一形式であって、世の中にはそういう古いしきたりから逸脱したものがいくらでもあるのだろうが、ともかく小説の文章というのは不自由になりやすい。たとえば自分の机の上について描写しろ、といわれても、これが小説だと面倒くさい。

 赤い紅茶缶、使い終わったまままだ捨てていない牛乳パック、葉の残ったポット、埃のうっすら溜まったキーボード、日曜日に中古で買った弦楽五重奏のCDと、ともかく要素を列挙することは出来る。でもこれを小説の文章にするとなると、「机の上には紅茶缶、……、が並んでいた。」と誰それが何々している式で書かなくてはいけない。これは、おそらく人間の頭に普通でない負担を強いる。少なくとも私が机を見て頭に思うことは、(視覚的イメージなのもあるが)「紅茶缶、牛乳パック、ポット……」という名詞の羅列で現れ出てくる。思考、つまり日常の文体においては、誰それが何々していた形式の文が出る可能性はおそらく私たちが思っているほど高くはない。

 小説の文章は、人間の現在の思考からはかけ離れがちである。

 

 たぶん記憶違いだと思うのだが、川端康成か誰かが、小説の文章修行に、通勤中に目に見えるものすべてを頭の中で小説の文章のように書きなさい、という方法を挙げていた気がする。電車に乗って見えるものすべてを言葉で描写してみるわけだが、これは(宇野千代がそうしたように)①ともかく言葉と外界のものの距離を近付ける練習であり、②「誰々が何々した」式の文章に頭をチューニングする練習である。「何々駅に電車がたどり着くと、真っ青な顔をした人々が汗の臭いをまきちらしながら入ってきた」というような思考は普通しない。

 頭の中でそんな文章を書くようなことは、意識せねばまずありえない。

 

 私は冒頭で人が死んだり居なくなったりするとかなりスムーズに小説が書ける。最近の書き出しをいくつか挙げると「彼女が死んだことを聞かされたのは、六月の終わりだった」とか、「死んでから話し始める奴には、うんざりする」とか、あるいは「ものを失くすのは多いけれど、不思議と鍵は失くさない」で、第一番目のはそのまま人が死ぬ。二番目も勿論死ぬ。三番目はルームメイトに出ていかれる話で、人間の不在である。かつて柄谷行人が人間の死と不在は厳密には区別がつかない、というようなことをどこかで書いていて(武田泰淳論だったかもしれない)これもほんまかいなと思った記憶があるが、ともかく人間が死んだ後や、大切な誰かが不在になった後(たとえば私は一時期人が失踪する小説を書きまくっていた)というのはとにかく小説として書きやすい。死は端的に終わりである。そこから先、現在が未来に向けて新しい何かを追加していく可能性は少ない。

 終わってもうどうもならなくなった後、というのは書きやすいのである。宇野千代の、とにかく目の前にあるものの描写から始めるのは現在から始める書き方だが、物事が終わった、という表明から書き始めるのは現在の断念である。基本的には過去にしか向かない。冒頭で人が死んだり失踪したら、まずもってその人に関する回想に続くのが自然だろう。

 つまり、(なんだか小学生式であるが)小説には現在から始まる文体と、現在を断念し過去に向かう文体の二種類がある。当たり前である。

 

 ところで、今たとえば海について描写する。私は海にいるわけではないので、そうなるとイメージ、というより正確には記憶の海について書くことになる。波打ち際とか貝殻とか、潮騒の音とか、風の湿り気であるとか、海鳥の影とか、犬を連れて砂浜を歩く人とか、遠くに見える漁船とか、そういう要素を列挙するだろう。それは私が直接訪れた海であり、あるいは映画で見た海であり、小説で読んだ海の描写でもあるが、とにかくそういった記憶の蓄積から要素を引っ張り出して、組み合わせていく。その都度思い出している、ともいえる。

 

 言語は今ここにないものについて語ることが出来るが、想像はしばしば連想の組み合わせであり、連想とは回想の組み合わせである(あるいは回想のエラーである)。想像力がそれ即ち記憶を思い出す力とイコールというわけではないが、記憶力、というより回想する力を培うことが想像のそれに繋がる可能性は低くないと思う。小説家の何人が日記好きか私が知るところではないけれども、昔辻邦夫の展覧会で彼の日記を見たとき、その日にあった出来事をすべて回想して書きつけていたのをなんだか怖いなあと感じたことがある。日記は小説を書くうえでひとつの訓練と見なしていいのかもしれない(もちろん彼の歴史小説は膨大な資料の上にあっただろうが)。あるいはその日にあったことを、寝る前に一通り回想してみるとかもいい。その場合は「誰々が何々した」式のほうがいいんだろう。

 

 文章の書きやすさとは連想のしやすさである。小説を書きだすのに苦労するのは、何かひとつ要素を最初に置いたところで、そこから連想できるものが乏しいからだ。「この人物ならこんな風に動くだろう」という発想もそれまで書いてきた行動からの類推、記憶からの連想である。現在を断念した追想から小説を始めると書きやすいのは、小説自体がしばしば連想-回想-追想から多く成り立つからである。たくさんの今ここにないものについて、想像して、連想して、回想して、書かなくてはならない。

 想像-連想-回想は、小説の生理の根元である。

 

 あるいは、これも誰がちゃんと書いたのかは忘れているが、現代小説に認知症的な文体(……というのもなんだか各人によって意味するところがばらばらなので難しいところだが)が頻出するのだとしたら、それ自体が小説の書きづらさの無意識の結晶、とは言えるかもしれない。記憶、正確には記憶の回想能力に関する小説は、しばしば小説についての小説に見える。

 

 桜、猫、電車は認知症のスクリーニングに使う決まり文句であるが、桜・猫・電車と列挙されたところでなにかひとまとまりのイメージを編み上げるのは難しい。自分の中の猫の記憶、桜の記憶、電車の記憶を呼び起こしてみると、「電車に乗って家族で桜を見に行ったことがある」とか「桜の根元で太った猫が寝ていて図々しいと思ったことがある」とかエピソードに繋げることが出来て、これなら(面白さはともかく)小説になりそうである。こればっかりは各人の記憶の性質(あるいは持ち合わせる語彙の偏り)によるだろうが、私は「あそこで見た桜は濃い茜色で、桜色というよりはもっと中国風の力強い色だったなあ」というような記憶はあまりなく(よくわからない例示だけど)どうしても誰々が何々をした式の記憶のほうが多い。

 

 なにかひとつの核となる中心をおいて、そこから派生して連想された言葉を頼りに小説を書くやり方があるとして、たとえば「桜」から「春」「団子」「花見」「入学式」を連想してみる。「春」はあまり役立ちそうにない。「団子を自分で作るのは意外と面倒だった」とか「入学式の日は桜がきれいで思わず立ち止まった」とか「母が花見を嫌がっているうちに雨で全部花が落ちてしまった」とかそういうエピソードの形に変換-連想すれば、小説としてのとっかかりは見つけやすい。何も思い付かなければ自分の話で、あるいは他人の小説なり、映画や漫画なり、ともかく自分の話でないものを回想できたのならそれも小説に使える。もっとも、後者は自分を主語として記憶していないだけで、本当は自分の話なのかもしれないが。

オタクの紅茶史 料理が出来ないオタクが紅茶を淹れるために

 料理が出来なくて部屋が汚いオタクのための紅茶の淹れ方、というよりは端的にここ半年の自分の紅茶の話です。

 

①うちの紅茶の淹れ方

 料理が出来ないオタクというのは一種の病であり、それ相応に最適化した料理をせねばなりません。トマト切ってオリーブまぶしてドレッシングかけるとか、シリコンスチーマーに放り込んで魚焼くとか。私は高校時代に家庭科の課題で自分の台所で料理を作ろう! と言われたときに母親に頼むから絶対やめて!! と懇願された記憶があるのでいまだに火を使いません。使うときは電化。たまにクソ汚いモツ煮を作る。あと部屋が汚ねえ。


 でもって紅茶が好きなんですけど、紅茶、自分で淹れると長年妙に味が薄くて悩んでいて、結果から言うと電気ケトルで淹れたお湯はなんか温度が足りなくてうまく煮出せないっぽいです。バカなのでルピシアのモンポットとか不相応に買いましたけどどんだけ茶葉を入れても薄い! 水温が足りない! あと最近割れた!(クソ悲しかった) というか完全に沸騰し切る前に安全装置で大概の電気ケトルは電源落ちる! なんで電気ケトルはもう基本的にお役御免にして、レンジでポットごと煮ることにしました。そこらのドンキやニトリでも売ってるHARIOの500mlジャンピングリーフポット。あれに適当に茶葉入れて冷水から煮立てる。頭激悪の解決法ですが、なんかこれでようやくまともに紅茶が飲めるようになりました。ルピシア使い出してから約半年の気付き。遅えよ。

 

ハリオ ジャンピングリーフポット 2~3人用 JPP-50

ハリオ ジャンピングリーフポット 2~3人用 JPP-50

 

 
 人それぞれの淹れ方があるでしょうが私は500ml水を入れて、浮き上がって液面一杯に広がる程度の茶葉を入れて、それから700Wで5分ツイッターをやりながら煮立ててます。4分ぐらいからボコボコしてくるので突沸しないよう注意。あとはまた適当に作業するなりなんなりして待ちながら、飲みたくなった頃合いにポット全体を揺らして注ぎます。アフタヌーンティーかどっかのインタビューで抽出用とサーブ用のポット二つ用意して……みたいな記事があっただけど料理出来ないオタクに出来るかそんなもん。放置してたらバカ濃くなりそうなんですがレンジで煮立ってる最中に十分染み出すのか濃すぎて飲めないとかいやこれ出がらしやんって味になったことはないです。料理が出来ないオタク、というか現時点の私に出来る唯一まともな味のする紅茶の淹れ方だと思います。品はない。

 

ルピシアについて
 料理が出来ないオタクは出来ないくせにお洒落っぽいもんが大好きなんで、当然オタクが理解出来る範疇のお洒落であるところの専門店ルピシアには激弱です。ほら……なんかこう……ユメ・オ・レとか、キャラメル&ラムとか、さくらんぼ紅茶とか、バレンタインのチョコレート紅茶とか訳分かんないやつ好きになるでしょ。どうぶつのもりで育ったのであの手の記念茶とかフレーバー付きのティーはもう絶対に抗えません。そしてオタクはあの丸っこいルピシア缶が大好きなのでルピシアガチャをいちいち缶付きで回して、汚い部屋に使い道のない缶が山積みになり仕方なくドリフェス!(サービス終了しました)のカードダスを入れたりする。

 缶を買うのはやめろ。あれは何もいいことないです。邪魔です。ツイッターで綺麗な菓子箱を貯めても何にもいいことなくていつか使おうと思う空白が延々と増えて部屋を圧迫するだけみたいな小洒落たセンテンスを読んだことがありますが、地味で色遣いの上品なルピシアラベルを貼ったルピ缶は最悪です。紙箱みたいに潰せないし、ラベル剥がすのも勿体ない気がしてきてマジで無が発生します。やめましょう。袋で買え。どうせ飲まないやつが山ほど溜まってるんだ、そのままどっか転がしとけ。大いなる邪魔とは理解していても贈り物には重宝します。そこの店の限定銘柄二缶入れて適当に菓子放り込んだらなんか気安い手土産感が発生します。あと缶は一応小物入れとかには便利ですね。有名チョコレートショップの缶を小物入れにしてる患者さんが昔居て、エモいなあと思った次第です。

 紅茶は依存性のある薬物ですので飲みだすと止まりません。夕方以降に飲むとなるとカフェインに弱いオタクは朝まで延々起きる羽目になります。なので買うとしたら普通のフレーバー紅茶(オタクはインドかどっちかの地名~2018ver~みたいなフレーバー付いてないやつは買いません)と、夕方以降用のデカフェかノンカフェイン、あとなんかオタク心をくすぐる紅茶以外の変わり種の茶の三種で、出来ればルイボスティーを後ろ二つのどちらかに入れておくと味が優しくて飲みやすいです。私のオススメファーストチョイスはさっきも挙げたキャラメル&ラム、純粋ヤクです。日本茶はよくわからんので私は薦めない(淹れ方がダメなだけかも)。

 

③マジでやめたほうが良かったやつ
 料理の出来ないオタクがどっかの喫茶店で見かけたフルーツティーを真似るのは破壊的産物を産むのでやめろ。意味不明な果物の煮汁と味の薄い紅茶のブレンドが出来て最悪です。果物の処理も面倒くさい。私はリンゴで試しましたが一生フルーツティーは自分で淹れないと誓いを立てました。
 あと底の深い水出しポットで淹れるミルク出し。お前それ洗浄機もないのに本気で自力で洗う気か?

 

ルピシアは高くて飲むの抵抗あるって人
 ドンキの紅茶コーナーでトワイニングのクオリティ缶を買うといいです。私が好きなのは無難にクオリティのアールグレイで、トワイニングは超有名銘柄ですがまず音韻がいい、トワイニングの紅茶缶ですよ……エモい……。あとクオリティと銘打ってはありますがルピシアと比べると相当安くて、1箱100gなのでいくらでも紅茶の淹れる練習が出来て(そんなもん練習要るのかと思われそうですが料理の出来ないオタクには練習が必要です)しかもスタンダードな味わいなのでいくらでも飲めます。フォションみたいなお高い印象の有名ブランドでも実はルピシアより安かったりします。ルピシアテメーどんだけぶんだくってんだ。エモ代か。ならいい。

トワイニング クオリティ アールグレイ 100g

トワイニング クオリティ アールグレイ 100g

 

 

⑤あるといいもの、なくてもいいもの
 要るもの。
 牛乳。どんなに失敗した茶でもとりあえず砂糖と牛乳を入れれば飲めます。薄いとダメ。
 レンジ。文明。火が使えないオタクに許された唯一の調理器具。
 HARIOのジャンピングポット。料理が出来ないオタクには超便利。淹れ方は上記。
 砂糖。白糖と黒糖両方欲しい、なかなか使い切れないので出来るだけ小さいやつを。料理しないオタクがいきなり砂糖入れとか買って大量にドバドバ入れると悲劇を生みます。絶対いつかそれ台所に落として悲惨なことになるぞ。
 カルディで売ってるドイツ製の味付け砂糖。ツイッターでオタクに受けてたけど実際美味くてどんなにヤバいお茶を入れてもこれだけで救われる。ラムはクセがあるからファーストチョイスには薦めない。アールグレイかチャイ。
 ハチミツ。ちょっとだけあると楽しい。これも小さいのを買う。
 冷蔵庫。牛乳保管用。

 
 要らなかったもの。
 電気ケトル。何個か試しましたが水温が足りなくてイマイチ濃く抽出されません。残念。
 ミルク用のピッチャー。使う必要ないだろバカ。牛乳パックから注げや。ニトリで百円以下で売ってる。
 木のお盆。バカ。やめろ。
 茶菓子用の小皿。バカ。
 ティープレス。バカ。ギュイギュイ押しても別に濃く出たりはしないです。ポットでいい。
 カップ&ソーサー。お前皿洗えねえだろ。そのうち割るので部屋が汚いオタクは耐熱強化ガラスカップ一択です。
 HARIOからワンカップティーメーカー。たぶんジョナサンで使ってるやつ。上の茶漉しの部分無くして謎のガラスコップが単独生成される可能性が非常に高いうえ、茶漉しと小さめのカップの両方細々洗うの意外と面倒臭いので薦めません。

HARIO (ハリオ) ワンカップティーメーカー 200ml ブラック OTM-1B

HARIO (ハリオ) ワンカップティーメーカー 200ml ブラック OTM-1B

 


 ルピシアのティードザール。茶葉を正確に測れるとかいう金メッキの代物でオタク心をくすぐるティースプーンですが、料理出来ないオタクなんかどうせ二杯分とか書いてても謎の直観で三杯分四杯分入れるから役に立たん。
 同じくルピシアから茶漉し。なんかもう頭が悪すぎて普通の茶漉しと、中に茶葉を閉じ込めてお湯を注いだら抽出できる!って球型の二種類持ってたりしますけど普通に茶漉し付きのポット買いましょう。無意味にパーツ増やしても料理してこなかった部屋の汚いオタクはそこら中に部品ばらまくだけです。HARIOのジャンピングポットが優秀なんでそれでいいです。
 
⑥結語
 そんなわけで、HARIOのジャンピングポットと700W出せるレンジ、あと適当な茶葉と牛乳と砂糖があれば料理が出来なくて部屋がクソ汚いオタクでもそこそこの味の紅茶が無限に飲めます。ルピシアは高いけど喫茶店で紅茶を飲むとそんな程度じゃない金が1杯で持っていかれるので、そう考えると相対的には高くないです。ルピシアは気合入れるときに飲んで普段はトワイニングのクオリティとかでも良い感じ。どちらかというとここ半年の紅茶の経歴をまとめただけの話でしたが、そんなわけでオタクの皆さんも紅茶を飲んでください。本読んだり文章書いたりしているときに手元に茶があると、それだけでなんとなく気分が落ち着きます。今飲んでるのはオルヅォチャイのミルク出しで、500mlも牛乳飲んだら腹が痛くて死にそうです。以上です。

 

 あとなんか小説ブログもやってるんでよろしくお願いします

somenotes.hatenablog.jp

今のメギド72にあえて要望するなら

 メギド72は先月の大型アプデで色々もう完成してしまっていて、正直文句のつけようがないです。にもかかわらずあえてメギド72に「こうなったりしないかな」という個人的要望をまとめました。いやもう、基本わがままな要望でしかなく、すでにスタッフさんはかなり働いていただいている感じなので、本当にあえてレベル。

 普段気になってるところは2つだけです。

 

①攻略チケットを使う枚数を指定させてほしい
 1枚か10枚かは極端で、3回ずつ周回する、という風に細かに区切りたい。私は石を砕くのに何の抵抗感もないけれど、それでも手持ちの石が無いときに「もう面倒だから10回全部回る! どうせ他のメギドの素材にも使うんだし」という面倒故の石砕きはなかなか出来ない。たぶん普通のプレイヤーは石を砕くこと自体に抵抗感があるはずで、ただそれでも1回刻みを繰り返すのは面倒なので、2回使う、5回使うというように指定させてくれてもいいかなあと思います。

 

②クエストリザルトのGET!表示を再検討してほしい
 ある程度ゲームが進んで全マップ金星が付くようになると、素材集めについてはもう推せるメギドを一刻も早く☆6にしたい、ただもう時間の勝負です。そんな時にあのGET!が出てくると躓く! お前の欲しい素材取れたよ! という親切サインかもしれないけどいちいちサインしてリザルト表示のテンポを崩さなくてもわかる! 何より今高速周回してるんだ! という気持ちよさが阻害されて勿体ない! なので、あのGET!サインについては非表示可とか、そういうオプションを正直つけてほしいです。


ここから先はわりとどうでもいいです

 

③☆6とそれ以外のキャラ絵・衣装を変更できるようにしてほしい
 いわゆるアスタロト白衣問題」と言われているやつで、星6以上のキャラ絵衣装とそれ以外のときを変えたい、という意見はもうご意見箱に来てそうだけど、確かに正直欲しくはあります。というのは星6以前の衣装もすごく凝ってて大好きなので……(教官、星6もそれ以外も最高だよね)。ただFGOも初期は再臨ビジュアルの変更が出来なかったとか何とか聞くし、意外と内部処理は面倒臭いのかもしれないです。いつか変更出来るようになったらいいなあ。

 

④乳揺れどないするのか問題
 いやこれ難しい問題です……。キャラデの高木さんは女性も男性もプレイできるようなキャラデを目指したって確かインタビューで答えられていた気がしますが、そのわりにめっちゃ乳揺れる。ナベリウスもフリアエ様も揺れる。とにかく揺れる。セクシーかは微妙だけどあの高いモデル力で揺れる。これは苦手な人も好きな人も居るだろうから難しいけど、個人的にはちょっと控えめにしたほうが無難かなとは思います。でも実際ウケてるのかウケてないのかなんか全然わからないわけで、好きな人は絶対居るんですよね。もっとこう上品な揺れ方はないもんか。
 乳揺れON/OFFは無意味に工数増やすだけだろうし、ってか設定の細かいエロゲーかよって感じだし、このへんは「どういう表現がいちばん安全にウケるか」という無理難題なので、色々試行錯誤していただきたいです。
 個人的にはフォロワーが「あの乳の揺れ方は下着付けてなくて痛いんじゃないかってすごく心配になる」つってたのが印象的だった。ブニさんをめっちゃ心配していた。

 

⑤過去イベストを読み返させてほしい

読み返させてください

 

ここからはさらにどうでもいいです


⑥いつか既出メギドがアレンジエネミーとして登場するイベントが欲しい
 いつかです。やるとしても、たぶんずっとずっと先。 
 既に登場済のメギドのスキルや特性をアレンジしたボスエネミーとして再登場してくるところが見たくて、いやメギドクエストで良いじゃん! って話なんですけど、やっぱりあれはレベル上限が設定されている以上見慣れた普段のメギドと変わらないわけで、「いやこんなんどうやって倒すねん…」というアレンジが見てみたい。一味変えたらこんなに強くなりましたよ、というような。WDイベのサーヤ&キュバ吉みたいな。
 たとえばシャックスとか、たとえばブネさんとか、見慣れたメギドが強ボスキャラとして出てきたら面白いなあと思います(モーションの流用も出来そうだしね)。このへんFGOがうまい。これは今時点でけっこう欲しいけど、でも新キャラをイベで売り込んでいくほうが優先なのは当たり前なので、新キャラが出せなくなった頃合いに欲しい。

 

⑦キャラスキンは欲しいけど、たぶんメチャクチャ面倒くさい
 新しいキャラを出しまくられると心配になるのでこう……衣装変更とか良いと思うんですよね! 水着とか!学ランとか!(ソシャゲか?) 1人1人のキャラに愛を注げるソシャゲだし、新規キャラ作るよりやっぱそういうアレンジのほうが楽じゃないですか! って思いはしたんですけど、まあこれ絶対面倒臭いですよね……。私だったらやりたくなくて、既存キャラの新規モデルいちいち作るぐらいなら新メギドのモデル作るし、てか絶対商売にならんし、これはオタクの妄想に留まるレベルでいいんだと思います。五年後ぐらいに欲しい。
 でもフラウロスの水着は楽そう。

 

⑧いつかAIの改善をしてほしい
 パイモンさんをフルオートで使うと女性が1人しか居ないのに薔薇→アタック→また薔薇の悲しいサイクルを(しかも雑魚戦で)こなしたり、ウァプラさんが無限回転したりするので、そのへんちょっとAIの改善が欲しいです。ただあれだけ多彩なキャラクターが居て、しかもパーティの組み合わせでほぼ性能が変わるに等しいシステムで常に最適解を弾き出すようなAIなんか簡単に作れるはずがなくて、フルオートがある時点でも(エネミーのAIを流用してるのかと思いますが)奇跡に近そう。そうなると個別のキャラごとに作らなきゃいけなかったりするのかなあと考えてみたりするけど、ここの改修は(イマイチ地味なわりに)壮絶なコストがかかりそうなので、マジで我儘レベル。
 八年後ぐらいに欲しい(それぐらい続いてほしい)。

 

⑨サントラ欲しい
 みんな言ってる(まあ出すのいろいろ大変そうな気はしますが)

 

 ってここまで人の意見とかも参考にしつつ一応列挙してみたんですけど、基本的にマジで要望がなかったです。いやすごい。ガチャも基本は期間限定がないので「いつか引ける」という希望を延々と持たせてくれるし(結果的にサバトにバンバカ金出させたほうが儲かる気がします)ドブに相当するオーブは強化素材に使いまくれるし、てかオーブ合成のUI改善で育成ようやく出来るようになったけどメチャクチャ楽しいしで……なんか……マジで不満がないことを書きながら再確認しました。そんなところです。

メギド72GWイベ『二つの魂を宿した少年』感想

 メギド72GWイベ『二つの魂を宿した少年』感想です。
 強力ディフェンダーのブニさん無料配布回が終わり、無難にアンドレアルフスさん復刻かな? と思いきやまさかの間髪入れずのシャミハザくん無料配布回。商売する気ある? 大丈夫? といういつものムードです。

 

■新メギド:シャミハザくん、フリアエ様、アラストールさん。
 シャミハザくんはとにかく攻め一辺倒の純粋ファイター。特性のHP75%以下攻撃力UPはベリト様と被っているけど、あちらはめまいとフォトン強奪で敵攻撃を妨害しつつ奥義を2回放つのが前提の性能で、こちらはそういった絡め手は一切なし、自己強化も出来る純粋なカウンターファイターです。運用としては青龍号で滞水→覚醒スキルで攻撃力バフ→奥義→スキルという流れが強い。メインストーリーで仲間になるメギドはカウンターが多く、マルコシアスさんはともかくシャックスは火力がちょっと弱めなので、滞水を揃って活かせる電撃系ファイターを用意したのだと思います。
 ブニさんがアバドンのような連撃はなかなか辛いガープを補う存在として用意されたように(と勝手に思っていますが)たぶんシュミハザくんもシャックスを補う存在として作り上げられたんじゃないかな。性格もメギドの男には珍しい素直な好青年で、そういう意味でも初心者向けという印象です。これからメギドを始める人が楽に攻略できるように、というコンセプトで作られたとしても、お手軽にダメージを弾き出せるメギドなのでフリバで使うと楽しい。

 フリアエ様はスキルでまさかの前列防御1回無効というトンデモ性能。ホーリーフェイクの使い道がないやんけ! カミバカリフォラスが現時点でやたらめったら強く、しかもカミバカリはガチャ産SSRなのでナーフし辛い現環境だと、サバトで引きやすいフリアエ様を用意した意義は大きそうです。ナーフで調整するとどうしてもユーザーの不満を買うので(特にメギドはキャラへの愛着を生みやすいので性能を下げるのは危険です)同じぐらい強い、でも微妙に運用感の違うメギドを配置する手腕は相変わらず手堅い。フリーバトルではカミバカリフォラスはかなり強いですが、1ターン1回しか使えない以上、メインストーリーだと集中攻撃でどうしても落ちやすい。そこを連発出来る性能はかなり魅力的で、フリバでもパイモンのような単発アタック連続系に対しては特に強そうです。
 マスエフェクトも強い! カウンターファイターの覚醒-1はシャミハザくんとも早速かみ合いますが、特に強力なのはガミジンさんとの組み合わせでしょう。覚醒ゲージ4でバニーフォラスやラウムで支援してしまえば1ターン目で超強力な列攻撃奥義を放ててしまう。アガリアレプトさんの開始時覚醒ゲージ+2で1ターン目からハルファスの奥義を撃ててしまうことを考えると、(意図してかはわかりませんが)もしかすると「強さの調整には同系列の、だが微妙に性能の異なる要素をぶつける」というやり方なのかもしれません。でも意外とまだフリバでは見かけない。
 覚醒スキルの氷結も意外に便利な地形効果だし、奥義も列回復+攻撃バフ、さらには放置してても勝手にスキルフォトンを獲得してしまうので置物にしても有用、とかなり隙のないサポーターです。これを普段のPUガチャではなくサバトで広く提供してしまうあたりがメギドらしい。

 アラストールさんは特性で毎ターン覚醒+1, スキルで初手から攻撃力低下、覚醒スキルはマルコシアスさんと同じくめまい列攻撃と便利そうなサブアタッカー。特に初手から攻撃力を下げられるメギドは貴重では。奥義はまだ未開示ですが、メギド体みたいに全体感電だったらさすがに強すぎるかなあ。いずれにせよ実装が楽しみです。

 

■シナリオ
 シナリオは相変わらず爽やか! シャミハザくんは癖のない好青年だし、フリアエ様は面白サイドの住人とはいえ基本は真っ当な裁判官だし、アラストールさんは悪役とはいえ憎み切れない姉御肌が光ります。飛行物体を打ち抜くシャックスは格好いいし、最後は何もかも丸く収まってハッピーエンド、と幕間のサブイベントらしい読み易い話。ソロモン君の善人ぶりも光ります。そしてガギゾンくんは早くアジトに来てほしい、教官とフリアエ様とマルコシアスさんがお前を待っています。

 

■オーブ
 ついにオーブ育成のUIが改善され(素晴らしいです)メインシナリオ4章まで一切オーブを進化させなかった私もガンガン強化出来るようになりました。とにかく目に見えて強化されていくのが楽しい! メギドのオーブは単にステータスを上げるだけではなくて自由に取り換え可能なスキルコマンドでもあるので、オーブの強化はそのまま推しキャラの強化に繋がる楽しさがあります。まさか4章終わったところでこんな楽しみを発見するとは思いもしなかった。
 そしてイベント限定オーブを集める大変さ! 無限ボーデンヴォルフ狩り、初手邪魔なんだよを連発しているウァプラさんの目の荒みぶりがさらに悪化しそうです。たぶんこれまでのイベントもバブルヘッドやキラーレディを集めるのキツかったんだろうな……。でも実際青龍号を1体レベマにするのは楽しかったので、復刻されたら是非サタニックリブラやピローヌやグラディエイターを強化したいです。
 
 今回の目玉はまずはSSR青龍号
 単体ダメージ強化もシャミハザくんの能力とマッチして強力ですが、しらぬいなど普通は3ターン費やす滞水を2ターン目から放てるのは強い。2ターン目で滞水させて、シャミハザとシャックスで速攻で攻め抜いていく、という戦略が取れるオーブです。もはやカウンターのラッシュ化。
 SR暴龍ガルグイユは2.5倍感電ダメージと、カウンターのRオーブを彷彿とさせるようなバーストオーブ。2.5倍感電ダメージはシンプルに強力なので育成の価値はありそうですけど、すでにグラディエイターという超強力ライバルがいるのと、犬狩りがあるので活躍の機会は難しそうかな。一方SRエクセネイターは赤月の残党兵長と同系列の4連撃オーブ。威力がわずかに上なのと、特性が反撃なのが細かな違い。赤月の残党兵長はHP+10%以上upと汎用性の高い特性があり、やっぱり無限犬狩りが必要なので使いやすいとは言いづらいですが、同系列でもこういう細やかな違いがあると使い分けをつい考えたくなって楽しいです。
 Rバーデンヴォルフはまさかのヘルハウンドと同性能なのに威力が2倍→1.5倍に落ちるという使い道皆無の完全素材用オーブ。大幻獣特攻とかならまだしも飛行特攻だと(確かに対象の敵は多そうですが)あんまり使い道ないかなあ。SSRジェルスペクターも同様で、カウンターの死者特攻は珍しそうですけど既にキマリスが居るし、列2倍はちょっと地味。アラストールさんが使っているみたいに全体スキル強化があったら面白そうでしたけど、やっぱりそれはキマリスやフォルネウスとの兼ね合いを考えると難しそうです。これも個人的には素材用かなあという印象。
 1-4無限バーデンヴォルフ狩りは、ヘルハウンドの金箱を簡単に出せるプレイヤーなら旨味は全くないですが、おそらくは初心者向けを考えたのだと思います。正確なカウントはしていないですが、ほかの強化素材オーブは概ね蝶の交換で足りそう。ぜひメギドを始めたての人には青龍号をレベマにしてもらって、シャミハザ君を活躍させてほしい、というメッセージなんじゃないかと思っています(勝手に)。

 そして新たにレアエネミーのレアドロップ、というハードルの高いオーブとして登場したのがSSRデューク。入手難度は高いけれど、毎ターン回復15%は超魅力的! 20%以上であればフリバのバティンさんの立つ瀬が無いので絶妙な値です。覚醒スキルが強力な分奥義はなかなか放ちにくいマルバスに是非持たせてあげたいです。
 というわけで、毎日地獄の犬狩りと猫探しを繰り返しています。そろそろアジトが獣臭くなりそう。

 

■周回について
 今回から新たにレアエネミーのレアドロップ、というイベント固有のエンドコンテンツが設定された形です。一方でネリさんという別のレアエネミーも設置して、記憶の欠片をばらまく形式。記憶の欠片はガチャを回した人間ほど数が欲しくなるアイテムだし、紅水晶の原石や抜け殻といった貴重な素材も用意して、一個の目標を狙いつつも副産物が美味い、そんなEXマップを作ったのはさすがメギドだと思います。目標が一個だけだとどうしても気持ちがすり減りがちなので、セットのご褒美があるとモチベーションが保ちやすい。
 ただやっぱりレアエネミーの出現頻度が低い! そのうえレアドロップの排出率もかなり低いので、せっかく苦労して倒したフリアエ様から蝶や記憶の欠片が出てくるとガッカリ感は半端ないです。せっかくフリアエ様とのバトルも熱いのに惜しい! とはいえここは調整の難しそうなところで、紅水晶の原石や抜け殻はデュークを狙うぐらいの人だと塔でサクサク集められるようになっているので、周回する人ほど旨味が少なくなるのは仕方ない。全員に役立つようなエンブリオ幼のドロップ率は相変わらず低めなので、ここを調整すればあるいはもっと周回しやすかったかなあ。あとは、塔で出ないゴールドオイルもレア素材に配置したほうが良かったんじゃないかな、とか。
 レアエネミーのレアドロップって発想はコンシューマーっぽくて楽しいのですが、もうあと一歩欲しかったのが正直な感想です。初回だし、これからまたいろいろ変わっていくんじゃないかと思います。
 ただ、今回初めて周回してショップも全部交換し切って、やっぱりメギド72は楽しいゲームだなあと。戦略性に富んだゲームなのは今更言わずもがなですけど、オートで周回出来るパーティを頭使ってなんとか組んで、それで延々周回させていく、という遊び方も楽しみのひとつ。微妙にへっぽこなAIの動作を読みつつ、適当に放置しても安定してアラストールさんを倒せるパーティを組むのは興奮しました。とりあえず教官はオートではクビです(ごめん)。

 

■そんなわけで
 相変わらず楽しいゲームでした。メギド72は組み合わせが物を言うシステムである以上、新しいメギドやオーブが追加されるとそれだけで戦略のバリエーションが増える、その都度面白さが加速的に上がっていく凄いゲームです。これからもプレイヤーが増え続けていってほしいです。

文学のサービス終了(ドリフェスの死から1か月経って)

 ドリフェスのサービス終了が告知されて約一か月が経った。別にソシャゲに限らず終わらないものはないわけで、物事の終わりについていつまでも野放図に語り続けるのは私はみっともないと感じる。特に私は抑制、筆を抑えることが持ち味の作家が好きな分、喪失についての抑制の利いていない語りというのは肌感覚として受け入れ難い(私のなかでは須賀敦子とか津村節子とかである)し、自分で書いていてもどうかと思う。が、色々と雑感はあるので、とりあえず書いておく。ちなみに他人の批判とかではない。

 

 どう考えてもよくわからないのは、言ってしまえばソシャゲのサービス終了ごときにここまで感情を費やせる自分である。端的に人間の死に匹敵するようなものを感じてしまった、その理由である。
 これはどう考えてもおかしい。
 いくつか比較して考えてみる。たとえばコンシューマ型の売り切りのゲームだと、最初からソシャゲのようなデータ更新は無い。あるいは小説だと、私が読む小説の作者は大概死んでいるので、これ以上の元々のコンテンツの更新というものはない。私は別に作家が死んでも大したショックを覚えない。ある優れた大学教授の作家が逝去したとき(稲葉真弓という優れた作家です)その教え子である友人がひどく悲しんでいて可哀想だな、とは感じたが、私自身としてはその人の死になにか感じるところがあるわけではなかった。個人的な付き合いがあるわけがないし、まず著作を全部読み切っているわけではないから今後の著作目録が更新されようがされまいが別に影響はない、と無理やり理由をつけることは可能なのだろうが、とにかくなにか近所の人が死んだ、というぐらいの感情の動き方しかなかった。
 たぶん私が好きな存命の作家、たとえば津村節子なんかはそのうちに亡くなられるだろうと思うが、だからといって何か感情が動くかというと、おそらくない。それで傑作『紅梅』や『星祭りの町』が読めなくなるというならたぶん名残惜しい気分にはなるだろうが、手元に本は残っている。

 

 私が知っている人間の死を体験したのは一例だけで、文芸サークルに所属していた先輩が自ら命を絶ったことがあった。同じ場所に属していた人間は全員がそれぞれのショックを覚えただろうし、私は混乱して、小説をやっていると人間は死ぬんだな、とよくわからない結論に至った。ちょうど小説で色々あって鬱屈していたのもあって、それを勝手な理由にして小説を投げ出していた時期もあった(資格試験が近付いていたという状況もあったが、難度から考えるとあまり大した理由とは言えない)。
 一応は医療従事者である。ちゃんと担当していたと言える方が亡くなられたのは三例。うち一例はそれなりに言葉を交わさせていただいたこともあって気分が重かったし、うち一例は後悔もある。
 人の死とたかだかコンテンツの更新終了を同列に語るのは私は冒涜であると思うし、ここまで書いてきてやっぱり後者に対して「死」という言葉を当てはめるのは絶対におかしいと感じる。が、にもかかわらず、何かしら後者に前者へ通じるものを覚えてしまったのも(非常に不本意であるが)確かだ。その先輩が亡くなられた時にも思ったが、私は自分が想像しているより冷静でないときがずっと多いんだろう。

 

 ソシャゲの「死」とは第一に更新終了であり、第二にアプリの使用不可だろう。
 データが更新されなくなってもアプリがアーカイブとして残るのであれば何らかの記憶の端緒として残り続ける。作家が死んだところでその著作が手元に置いていればなんとなく死んだ気はしないし、別に死んだところでどうでもいいとすら思う(私が好きな批評家の秋山駿は、死に際に非常に優れた本を書いていたりするし)。何の記憶かというと、ソシャゲの更新を楽しんでいた過去の記憶である。
 ソシャゲはそれなりに人の人生の一部分に食い込むわけで、最初からそういう時間感覚のもとで作られている。ソシャゲのサービス終了とはそのような遊びの時間の終わりでもある。更新が終わったところで手元に記憶を遡れるものがあれば死んだ気はしない、あるいは昔の作家のように最初から死んでいれば更新は自分が読んだ分だけ成されるのであって、大概の作家は全著作まで読むには至らないので、要は作家なり小説なりは永遠にサービス終了しないのである。文学はサービス終了しない(書いてて思うが馬鹿過ぎる)。
 記憶だけでは、記憶の更新はない。大切なのは記憶を遡りうる紐なんだろう。私はその先輩が死んでからいくつかその人との思い出を書いたが、思い出すところはいつも同じ情景ばかりだし、たぶんこれからもそうに違いない。都合のいい勝手な解釈を避けようとするならば、どのみち記憶というのは同じ部分ばかりを反復する羽目になる。小説は読むたびに印象を更新し続ける。たとえ作家の著作を全部読んだところでまた見返せば印象の更新なり新しい発見なりはあるわけで、むしろそこで「もう読んで大体わかった、こいつはこういうやつだ」と思い見なしてしまった時点がその作家の(読む側の問題なのだが)サービス終了だ。
 「まだここには何かがある」という予感が文学のサービスを継続させる。実際、どう読んだっていい加減なことしか書いていないような著作家でも何となく凄そうに見えるのは「ここには何かがあってほしい」という漠然とした期待である例が多いだろうし、またそうした予感を文体に漲らせる作家というのは、読んでいて興奮してしまう。小説なんて所詮とか、思想なんて所詮とか、そうした予感を捨てた要約に入り込んでしまったとき、その人のなかで文学はサービス終了しているんだろう。

 

 要約とは要するにこういうことでしょう、という無意味な先読みである。実際はしばしばその先読みは外れていて、要していない微妙な部分にこそ肝心な更新がある。私の好きな批評家の山城むつみは、しばしば「この違いは微妙だが重要である」というレトリックを使う。微妙な差異のうちに重要な何かを読み続けられるところに山城むつみの読みの熱量はあるし、また小説を書くうえでも、この微妙な差異にどれだけの喜びを感じられるかが、熱量の維持範囲を決めるのかもしれない。

 

 「いつも同じ展開ばかり」と感じるようになればいくらソシャゲでも飽きる。そういう反復を避けるために、毎回少しずつ趣向を変えて新しい展開を出し続けねばならないのがソシャゲの大変さかとも想像する。文学はそもそも人間が書いていて、老年ならともかく青年から中年期というのはそれなりに変化の連続なので、小説というのは本当に(あまりに当たり前ですが)書くごとに更新がある。書いていて「あ、これは前にも書いたやつだ」と思っていても何かしらの微妙なアップデートがあるべきだと思うし、それが無ければ小説なんて書いていられない。
 
 私は小説にはそれなりに普遍的な技術論があって然るべきと思ってそういうものを考えたし、その真似事めいたものを書き継ぎもしたけれども、書いたところで何となくそれを使う気にならないことが殆どだった。小説を書くための道具作りは、それ自体が小説にでもならない限りあまり書く上での面白さはない(読むうえで明晰に見通す楽しさはあるだろうが)。また繰り返し使うモチーフがある。お茶を飲んだり電車に乗ったりすると小説が進みやすい。ある程度の反復、使いまわし、マンネリは誰が小説を書くうえでもあるだろう。が、そこには必ず「微妙」な差異がある。そこを自分で嗅ぎ付けられるかどうか。あるいは「これは一見今まで書いたものと同じようだが、けれど絶対的に違う何かがここにある」という確信を持てるかどうか。
 ただまあ、今時そこまで「文学」と呼べるものを信仰するのは時代錯誤だろう。私はいつまでたっても文学的な趣味趣向を捨てられないところがあって、(こういう文章自体がそうだが)どう考えたって馬鹿馬鹿しいし、人に自慢出来る趣味でもないし、またそうした劣等感を裏返してやけに人に大きく出たり文学の重要性をでっちあげてみたりする体力も無い。津村節子須賀敦子山城むつみも秋山駿も稲葉真弓も話に出したら「誰だよ」という顔をされるに決まっているし、別にそれでいい(というか知ってる人間のほうがたぶんおかしい)。文学と政治を連続させられる気力もない。あらゆる意味で私は幼稚なんだとは思うし、たかだかソシャゲごとき、と自分で言い捨ててるのはあんまりにもあんまりなのだが、に「死」を感じてしまうのもそういうところかもしれない。ソシャゲの話から小説の話に連続していくのもそうだろう。

 

 売り切り型のアプリと、更新の終わったソシャゲでどう違うのか。私はよくフィクションの続編や書かれていない日常の細かな描写を想像するのが好きなので、そういう妄想の遊びを売り切り型のコンテンツで繰り返してきたのだが、ドリフェスでそうした勝手な補完をする気があまりしない。少なくともサービスが終了してからはあまりしないだろうと思う。この差異がどこから来るのかはよくわからない。
 
 ただ、人間は仮構にそこまで入れ込めるのか、というのを自分で体感したのはちょっと驚く経験だった。2.5次元コンテンツは私小説に通じるところがあって、基本は仮構/フィクション/2次元なのだが、ベースの一部に現実/伝記的体験/3次元が含まれている。私は2次元としての黒石勇人が好きだったので別に3次元のキャストはどうでもいいかなあとすら思っていたのだが、たぶん、2.5次元としてのそういう性質に、予想外に親和性があったんだろう。ただそれを差し引いても、自分がそこまでフィクションに没入出来て、しかも「死」を感じられるのは衝撃だった。他の人がそう感じていても当然に他人の自由だが、自分に対してはちょっと困るというか、戸惑う。これは私の感性の問題なのかもしれないし、あくまで仮構でしかないキャラクターにそこまでの「命」を吹き込んだ、プロジェクトのよくわからない力なのかもしれない。


 自分が私小説を読んでいて、とっくに死んでいるはずの作者を「生きている」としか思えないときがあって(もはやこんなんオカルトである)たぶんドリフェスにおける「命」とはそういうものに近かった。
 自分とは全然遠い、ほとんど架空のフィクションの存在に近いような死者が、にもかかわらず自分のすぐそばに居るような理解不可能な錯覚がある。自分が視ているとしか言いようがないような、しかし言葉にするならば妄想と呼ぶしかない知覚、距離がある。そういう感覚がある限り現実の作者が死んでいようが生きていようがどうでもよくて、こういうのを「生きて」「いる」と称するのは言葉の誤用でしかないのだが、やっぱり文学はサービス終了しないんだなあ、と直感的に感じてしまうし、小説は人間の生命の再生装置なんだと、わりにありふれた結論で、何の話をしたかったのかわからなくなってきたが、そんなところだ。

お前の好きな顔が最強だ メギド72について

 紹介文というより感想文なので、このゲームについてはあんまりよくわからない文章です。

 

 メギド72というソシャゲにはまっている。ドリフェスがサービス終了を間近に控えつつあって、その終了告知直前にハマった新しいソシャゲなのだが、丁度よすぎて、物事のタイミングとは不思議なものだと思う。

メギド72

メギド72

  • DeNA Co., Ltd.
  • ゲーム
  • 無料

 
 このRPGを紹介するのは難しくて、かつ直感的にプレイ出来てしまうのでだらだら言葉を尽くすよりは実際に手に触れてほしいのだが、かなり秀逸なゲームである。ガチャを死ぬまで回して強キャラを引き、あとは延々脳死レベル上げ、という作業ソシャゲとは違う。という謳い文句に私たちは散々騙されたわけなのだが、少なくともメギド72は本当に違う。なにせキャラのレアリティが無く、クラスの相性差がかなりゆるめに設定されているのだから、とまず説明する。FGOで言えば星によるレベル上限が無くて、クラス間のダメージ倍率が弱いのだ。
 
 「どんなキャラでも活躍の機会がある」というキャッチフレーズは、たぶんそれなりに多くのソシャゲが採用しているのだろう。が、実際にはバランスブレイカーが何人か居てしまって、そいつを引けば勝ち、裏返せばそいつ以外に大した価値はない、という状況がしばしば生まれてしまう。マーリンとか。孔明とか。そういうキャラクターを一人作り上げてしまうと、それをガチャで引けたユーザーと引けなかったユーザーに強烈な難易度の差が生じてしまう(でもって高難易度のステージを用意するとなると前者に合わせるほかない)。
 ガチャを引かせるには強くて魅力的なキャラクターが必要だ。したがって、実際には「どんなキャラでも強い」というのは経営的に難しい。実際にそれをやるとしても、絶対的な相性差というのが欲しい。たとえば(もう面倒くさいのでFGOで喩えるが)マーリンだけ居ても☆5のアサシンやアーチャーが居なければライダーやセイバーには勝てないのだ。バーサーカーはすぐ死ぬし(私は土方さんが好きだ)。FGOのクラス相性は、ダメージ倍率が強烈なのでそれぞれのクラスで「強キャラ」を引く必要が出てくる(ように見える)。
 FGOを始めていた当初は、このクラス相性というシステムがかなり辛かった。私はソシャゲの育成キャラを顔だけで決める人間なので、ガウェインがアーチャーにボコボコにされると萎えたし、土方さんが速攻で沈められるのを見るのも萎える。キャスターでいちばん好きなサーヴァントが☆4のミドキャスとキャスギルなので、アサシンが出てくるだけでわりとイベント周回が辛い。土方さんはすぐ死ぬし(二回目)。
 ただ、このクラス相性というシステムは実際には「どんなキャラでも活躍の機会がある」ように見せかけるのに一役買っているし、実際にクラス相性のような大雑把なシステム無くしてキャラの多様さを描き出すのは、相当に難しいのだろう。私はゲームを作る人間ではないので、実際にどれぐらい難しいのかはよくわからないけれども。
 
 しかし、やっぱり「どんなキャラでも活躍の機会がある」と、そういう大雑把なシステムとは何かが違うのである(FGOはたぶんそんなことは謳っていないと思いますが)。「どんなキャラでも活躍の機会がある」とは、ここでは要するに「俺が好きなキャラをいちばん活躍させろ」という意味である。黒石勇人が好きならセンターの座が黒石勇人しかありえないように、RPGでもいちばん活躍すべきは俺が好きな顔のキャラでしかあり得ないのである。現実はもちろんそんなわけにはいかないのだが、RPGに限らずソシャゲ、ゲーム全般がある程度人の願望を満たしてくれる装置なのだとしたら、やっぱり見たいのは推しの活躍なのだ。土方さんはすぐ死ぬ(3回目)。

 

 そういう「俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい」という最低の願望を満たすのが、メギド72というソシャゲである。ここまででFGOと比較して書いているのは丸わかりなので、あられもなくFGOと違う点を書くと、メギド72はキャラクターにレアリティの差が無い。すべてのサーヴァント(メギド72ではサーヴァントのことはメギドといいます)にはレアリティの設定が無く、したがって一見して分かるレベル上限の差やパラメータの強烈な差もない。プロトクーが星3じゃなければ絶対に槍はプロトクーしか育てていなかった(それでは誰もガチャを回さないからダメである)。
 しかもクラス相性によるダメージ倍率がかなり緩い。お前の好きな顔をいちばん強く育てられるし、しかもクラス相性という世界の秩序によって推しが理不尽にボコられることもない。土方さんがアメリカの片田舎で幼女にハメ殺されることもないし、五重塔で絵師にボコボコにされることもないのだ。

 

 「俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい」という願望を満たすには、キャラクターの自由なカスタマイズが必要である。そのキャラの根本の性能まで変えては何がなんだかわからないので、プラスアルファで自由に変更出来るオプション性能が必要になる。FGOで言えば概念礼装だし、私がフリゲで未だにいちばん戦闘が面白いと思っている夢遊猫ケーリュケイオンは任意の特技をひとつ自由に追加出来た。キャラクターのベースの性能との組み合わせがどうハマるか試していくのが楽しいわけで、メギド72はこのスキルをオーブという装備で追加する仕組みになっている。これによって、ある時はキャラクターの力を脳死が如く一気に上げ続けるしかないキャラが、突然全体1回無敵を連発する超防御寄りのキャラになったりするのである(フォラス先生)。
 「俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい」とは、つまり推しにどんな状況でも「ある程度は」対応出来るようにしてほしい、ということだ。大事なのは、ここで「ある程度」を超えてしまうと、そのキャラはバランスブレイカーになってしまう。それでは面白くない。ゲームの側から提示された最適解が、たまたま自分の推しになっただけという、なんだか肩透かしな気分になってしまう。
 「俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい」とは、きわめてわがままな願望なのである(当たり前だ)。
 
 俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい気持ちには、強敵が必要である。
 土方さんがボッコポコにされてもガッツで耐え切りビームを放って敵を爆殺したら脳汁がだらだら出るように、推しが最強で居るためには最強を証明するための敵が必要なのだ。そしてそうした強敵に、メギドは事欠かない。敵の性能も味方キャラと同じく個性豊かである。が、しかし、なぜか、にもかかわらず、メギドの育成は、推しだけ育てていてもなんとかなる。なぜかはよく分からないのだが、とにかく現在配信中のメインシナリオを全部終わらせた私でも、未だに推せる盾役とヒーラーが居ない。速攻勝負がものを言いがちなゲームではあるが、盾とかヒーラーとか、普通のRPGでは絶対に必要なキャラが居なくても顔のゴリ押しで何とか勝てるのだ――「メインシナリオは配布キャラだけで問題ない」というメギドの金言があるが、これが嘘ではないのである。配布キャラだけでも、自分のガチャ産の推しだけでも難易度はさして変わらない。
 メギド72はバランス調整がよく出来ているゲームで、大体のキャラはどんな状況でも活躍出来るのだが、しかし普段使っていない(あるいは顔だけで育てていた)キャラを放り込んだりすると予想外に大活躍したりする。この思いもがけなさがまた楽しいし、お前の好きな顔がいつだって最強なのだ。

 じゃあガチャなんか引く意味ねーだろと思われるかもしれないが、無論ある。メギド72は他のRPGの例に漏れずステータス異常とバフが非常に重要なので、キャラ単体の強さではなくキャラの組み合わせが重要なのである。そしてスキルのカスタマイズ度が高いので、バフとステータス異常は(ある程度以上は)装備で賄えてしまうし、それはもちろん本職のキャラには適わない(ここが大事なのである)。
 推したい顏を揃うまでガチャを引け。キャラの個性はシンプルであるにもかかわらず極めて豊かなので、新しいキャラを引けば誰と組み合わせれば強いかワクワクするのはFGOと変わらない(しかもレベルキャップがない)。

 ただしガチャのレートは渋い。サーヴァントが引けるのは1ガチャに付き5%で、1諭吉で回せるのは30連とちょっとである。ただし、月末に新規キャラ追加+サーヴァントが引けるのが10%の期間限定ガチャが救済策として用意されているので、裏返せばここぐらいしか課金する要素はない。ここでは紹介しないが、どのキャラもかなりキャラクターとしての味付けが濃厚なので、とりあえずたくさん人数を集めてみると楽しい。新キャラが普段はなかなか来ない仕様である以上最初のリセマラは(モチベーションの意味でも)ある程度はやったほうがいいとは思うが、とりあえず引けたキャラでも育てたりキャラストを開放していくうちに愛着が沸いてくるものだ。
 そう断言出来るぐらいキャラ設定には力が入っていると思う。仲間になるキャラクターも、人間にとっての救済は死しかありえないと平気で語って村を焼く伝道師とか、自然への愛が激し過ぎて人間も魔物も主人公も同じぐらいマジで嫌いでプレゼントしただけで「マジうぜえ…」って吐き捨ててくる自称守護聖獣とか、興味本位で世界の終わりを見たがるヤバい眼鏡のお姉ちゃんとか、協調性が無さ過ぎて死亡率100%の最前線に左遷され素材を貢ぐと「人の顔を伺うな!!」ってマジ切れしてくる説教お兄さんとか、勝ち気で可愛いソシャゲによく居そうなアーチャーの女の子が最終再臨で身体から蛇が生えてくるとか、もう味付けが濃過ぎて何がなんだか意味がわからない。なにせゲーム内で「いつ誰が裏切るか分からない」「内ゲバで全滅しそう」とかガチャで金払って引いた味方が平然とのたまうぐらいである。マジで協調性のない奴らがやたら多いが、そこがいい(繰り返すがマジでない)。ゲームを進めながら開けていく個人エピソードもメインシナリオも、やたら村が焼けたり人が死んだりするが、そこがいいのである。

 

 もうひとつ、メギド72は一度全員生存クリア出来たステージは、スタミナを消費するだけで一瞬で周回が終わらせられるようになる。FGO脳死素材周回がボタン一つで一瞬で終わるのだ。その分、スタミナの消費は激しく、石は高い。もっともFGOにおけるQP的なゲーム内通貨で回復薬が1日に複数個買えたりするわけだが、そんなに何度もログインしないので、素材を集中的に集めようとなると石を砕きまくる羽目になる。
 ただ、スタミナ回復+月末のガチャで人数を集めるためにとりあえずガチャを回しまくる以外は、正直かなり課金要素は少ないと思う。そして「メインシナリオは配布キャラだけで問題ない」のだが何故かイベント配布のキャラが妙に強いそんなビジネスモデルでどうやって金を稼ぐ気なのか理解出来ないのだが、本当に強いのである。

 

 脈絡のない文章になったが、そんなわけで、好きな顔をほどよく大活躍させるには最高のゲームである。
 まずは公式サイトのキャラクター紹介から気になる顏を探して、アプリをダウンロードしてください。

megido72.com

 ちなみに私の最推しはフラウロスくんで、主人公に平気で金をせびってはギャンブルに使い飯をたかるクズですが、滅茶苦茶カッコよくて強くて彼氏面してくる半裸です。

 

f:id:raise4096:20180320002029p:plain

f:id:raise4096:20180320002149p:plain

 強いのでオススメです(顏が強いのが最強なので)。

ソシャゲの葬式 ドリフェスと黒石勇人について

 とりとめのない話。

 言うまでもなくソシャゲは終わりがある。コンシューマーゲームでない以上は避けられない宿命であって、アプリのサービスが終わればそこで終了である。ドリフェスの場合、五次元コンテンツという側面がある以上、三次元のキャストとの兼ね合いはあっただろう。
 まあ、ごく一部の界隈だけを見ていると言ってしまえばそれまでだろうけれども、(なかなかえげつないガチャのシステムもあって)収益はそれほど悪くなかった、と思う。個人的な印象としては、KUROFUNEのSAKURA LETTERを実装したあたり、SRも恒常追加ではなく期間限定にしたあたりから、ドリカや背景のクオリティも上がったような気がしている(もちろんインペリアルガーディアンとか、ワイルドガイズとか、ローズブリットとか、優れたデザインのドリカも当然あるけれども、どちらかといえばそれ以降のドリカのほうが好きだ。特にSR)。モデルのクオリティも、今年に入ってかなり上がったし(それだけにちょっと今回のサービス終了はショックが過ぎた)。

 私はそれまでのジャンルが刀剣乱舞(今もキャラは好きですが)で、かつ刀が舞台化されてもまったく興味が沸かないタイプだったので、三次元のキャストにはやっぱりさして興味がない(太田さんと株元さんは人柄としてはかなり好きだが)。ドリフェスの場合、特にDDは、三次元のキャストの成長もコンテンツの売りにしていた側面があった。二次元のキャラは三次元のキャストのライバルだ、と監督か誰かが言っていたような気がするが、三次元キャストと二次元のキャラが、本当にうまく、並列に扱われていたと思う。
 プロジェクトとしてのドリフェスのフィナーレは、武道館である。圧倒的に三次に偏っているようであるけれども、三次にさして興味のない私でも、これが正しかったと思う。三次元のキャストにとって、二次元のキャラはライバルなのであり、競い合い、そしてどこかで乗り越えるか、別々の道を進まなければならない。二次元のキャラと三次元の人間にどっちが重みがあるかというと、これは、素朴に言って、やっぱり三次元の人間のほうだろう。
 逆に、二次元のキャラに負けてしまうような三次元の人間に、たとえばいちばん好きだった黒石勇人を演じてほしくない。色々解釈はあるけれども、二次元の世界が先に終わって、その先に三次元のキャストがある、というようなイベントの配置の仕方は、(かなり悔しいし、正直、苛立ちさえするけれども)間違いではないと思う。終わり方としても、いつでも繋がれるアプリ、二次元の世界がずるずると生き延びるのでは、やっぱりうまく締まらない。
 それは心残りはある。私は黒石勇人が本当に好きだったのでシナリオは絶対に実装してほしかったし、途中から片桐いつきも好きになってしまったので、ユーアーマイライバルもアプリで見たかった。ドリフェスのアプリは本当に素晴らしいソシャゲで、たとえばMay Be Ladyでも1stと2ndで衣装が違ったりするわけだが、曲・振付・カメラワーク・ドリカどれもが最高だった(チヅは永遠にカメラから見切れていたが)。
 本当に悲しい。私は黒石勇人が死ぬほど好きで、黒石勇人に死ぬほどかっこいいドリカを着せてかっこよく踊ってもらうのが本当に楽しくて楽しくて、2016年冬~2018年春まで本当に黒石勇人が最高という気持ちだけで生きてきたようなものなので、アプリが終わって黒石勇人に会えないのはとてつもなく悲しい。正直もうラストのイベントなんかやりたくない、というぐらいの気持ちがある(ライトニングボルト勇人くんたぶんガチャだろうし……)。

 が、別にそんな個人の感情はどうとして、この終わり方はなんとなくしっくり来てしまう。それが、すごく悔しい。

 プロジェクトとしてのドリフェスについては、私はあんまり良いファンでは正直ない。
 まず三次元のキャストにほとんど興味がないのもあったし(途中から株元さんと太田さんは好きになりましたが)
実のところ一部の回を除いてアニメがあんまり好きでないのもある。1期は繊細な人間模様をきっちり描こうとしていた。特に佐々木・片桐・及川の心理描写は素晴らしかったし、私は全然奏と純哉の組み合わせにテンションが上がったりはしないのだが、それでも互いの本音を慎くんの提案で互いに言い合う場面は本当にぐっときた。
 それだけ精妙な物語を作りながら、DDとしてのひとつの明るいエンディングで締めようと、理由なくKFを負けにする展開には納得がいかなかった。2期は逆に、1期でしっかりとDD個々人の問題が描かれたせいで、もはや描くべきものがないのでは、と正直思った。たとえば2話と3話のKFの物語は抜群によく出来ている。Future Voyagerのライブ場面は一週間の無料配信で何回見たかわからない。でもたとえばファンミーティング回とか、奏が骨折を気合でなんとかするラストとか、勇人くんが歌う理由を見出す回とか、要素要素は良いのに、それを貫く物語論理が弱い。
 アニメドリフェスが一貫して抱えていた問題は、心理や関係性の描写が丁寧であるにもかかわらず、一個の関係や心理だけで設定が終わってしまって、それ以上のものを描きにくい、というところだった。
 また描くための材料がない。DD/KFの物語に焦点を当てすぎてしまって、それ以外の部分が疎という印象がある。
 これはどうやったって仕方ない問題である。それ以上に何か葛藤を作ろうとすると、たぶんものすごく暗くなる。
 2期の最終話がライブシーンの総集編なのは、予算もあっただろうが、あれ以上なにを描けばいいのか、というのもあったと思う。劇場版を望む声もあるし、私もやってほしいかほしくないかで言えばやってほしいけど、でもたとえば1期のいつき・純哉くん・慎くんを中心とした回や、2期のKF回を超えるような出来栄えの作品が出来るとは、あんまり思えない。優れた回はとびぬけて優れているけれども、だからといってすべてが平均的に優れているとはちょっと言えないし、24話というクールで描ける内容と、ジャンルとして明るい作風とはマッチしづらい。
 この描ける物語の少なさ、世界の狭さは、最初から2期で終わることを予定していたのではないかと個人的には思う。

 アプリはアニメの補完、サブエピソードでしかないはずだが、私はこっちのほうが(アニメの好きな回を除いて)ずっと好きである。たとえばマリンライブで圭吾が勇人と買い食いをしたがるシーンとか、DIVE TO SNOWで雪玉を投げ合うシーンとか、まあKUROFUNE中心なのは否めないが、そういうささやかな細部、ディテール描写のほうこそ面白かった。これは私が物語よりサブエピソードや細部描写のほうが好きな性質なのもあるだろうけれども、アニメドリフェスは繊細な描写に反して物語の論理が大味だし、これはキャラクターの過去や葛藤を詰め込み過ぎるわけにはいかない以上、どうしても仕方ないだろうと思う。そうなると細部や、なんでもない日常の描写、ちょっとした関係性の露出のほうがよほど光りやすいのは、たとえば刀剣乱舞の二次創作なんか見てもそうだと思う。
  あと、ああいう力の強い物語を日常的に味わうというのは、なんかしんどい。アプリドリフェスのシナリオは大体軽くて、毒っ気がなくて、オールキャラギャグ(特定CP寄り)みたいなもんであって、それでいいのである。
 
 話が逸れたけど、私はポリゴンが今ほどクオリティが高くなかったときから、とにかくアプリが好きだった。最初に揃えた報酬URはワイルドガイズで、それまで刀剣乱舞だけやっていたのもあって、課金とは狂人だけがやるものだとも思っていたが、とりあえず回復薬にだけ課金した。大学図書館二階のラウンジで必死になってUp to Speedとバードケージのノーマルを回し続けた。ダークラグジュアリーコートが一式揃っただけでもとにかく嬉しかったし、ワイルドガイズは最高だった。ペラペラというかペタペタの腹筋モデルはなんか紙人形みたいだと思ったがそのうちに慣れて、逆にMステがキャラの筋肉をかなりくっきりと描いてるのにびっくりした記憶がある。
 そこからはあまり課金の記憶がなく、ターパレver奏もナイトゼブラも揃っていないので、たぶんほとんど課金していない。バレンタインデビルの気狂いっぷりとボーダーの高さには絶叫した。国試直前は憂鬱で、布団にくるまってあなたの瞳で踊りたいをたたき続けていた(ローズブリット勇人くんはかっこよすぎて大興奮した。今でも好きなドリカ)。社会人のようなものになり、ブロッサムワルツが実装されたときから、一日一万円で回し始めるようになった。最終日にブロッサムワルツの靴が、タリーズの二階席で引けたときのことは今でも覚えている(いちごのアイス付きのケーキプレートと、大量にはちみつを入れた紅茶を机に乗せていた)。
 当時の職場に近かった道玄坂を下りながらガチャを引き続けたが、それでもインペリアルガーディアンは一度も引けなかった。チアフルジャムは今でもよくわからないドリカだが、ブロッサムワルツはとにかく好きだった。眼鏡と合わせるのが特に好きだった(マフラーのキャラが好きだったので)。ディアフューチャーは、当時たしか学ランのドリカが無くて、アニメの勇人くんの学ランが好きだった私には着せて楽しいドリカだった。ワンデーポリスマンは、ちょっとデザインが力尽きた印象はあるけれども、それでも最高だ(勇人くんはジェントルホテルマンとか、かっちりした制服がよく似合うので)。ハングリーウルフが報酬になったときはマジで運営を恨んだ(そらニューセイリングはガチャでしょうよ)。ホワイトオーキッドはこっちに握り拳を放ってくる黒石勇人にテンション爆上がりしたし、競い合うKUROFUNEが可愛すぎて最高だったし、キャンブロRver慎くんを着た勇人くんはワイルド系だが完全に正統派の王子だった。インフィニットヴォヤージュはなぜか圭吾だけ揃った(悔しい)。ラフグラフィティKFは2万円で引けた。あのラフで、シンプルで、しかもワイルドな恰好が本当に勇人くんによく似合う。シーサイドネイビーは海兵の制服なので当然勇人くんに似合い過ぎる。ソーダスプラッシュは初めて揃ったガチャURだった。
 進む決意! 二人だけの海賊は本当に、本当にうれしいイベントだった。FACE 2 FAITHは神曲だし、けっこう長い間放置されているわりにガチャだけはなぜかきっちり課税されていくKUROFUNEの、最高の新曲だった。おまけに期間限定SRのバッカニアレイドがとにかくかっこよかった。シンプルでワイルド、それかかっちり固まったフォーマルがとにかく勇人くんには似合うのだが、今でもバッカニアレイドは期間限定SRの最高傑作だと思う。軍服もかっこいい。追憶のロンドンも素晴らしかった。クロスエコーも素晴らしいがアフタヌーンプレッピーも、育ちの良い勇人くんによく似合う。このあたりのSRドリカは、ガチャURドリカよりも良いのではないかと思えるぐらい素晴らしい出来だった。ヌーディストブルーはかなり笑ったが、これとサンダーボルトハーフパンツの組み合わせは格闘家っぽくて正直かっこよかった(人前でやるのはかなりはばかられるが)。
 湯けむり温泉合宿は勇人くんの入浴ドリカは引けなかったが、それよりもきつかったのはジェントルホテルマンがなぜか一向に揃わなかったことで、SRであるにもかかわらず550連揃えるのにかけている(気が狂うかと思ったが、ほかに金の使い道もないし勇人くんはやっぱり制服がよく似合うのでまあ良し。ちなみにフォロワーは確かラフグラフィティKFに500連出しても揃わなかったので、このあたり、アプリの仕様にバグがあったとしか思えない)。マリーミーは頭おかしいのかと思った(揃いました)。インペリアルガーディアンがここでSRで揃って、Ver勇人くんトップスを着せたときのあまりのかっこよさに唖然とした。ヴァレンタインファントムシーフは当然フォーマルなのでかっこいい(そればっかり)。AFSイベは黄色は勇人くんに似合わないと思ったが揃えるとかっこよかった(本当にそればっかりだ)。
 それで、たぶんライトニングボルト勇人くんはガチャURになると思う。さすがに最後は奏が報酬だろうから、これは仕方ない。仕方ないけども、たぶんライトニングボルト勇人くんは引き切れないし、引けるまで金を払い続ける気力も、正直ない。
 
 恨みとか、寂しさは、あんまりない。仕事がちょっとバタバタしているのもあるが、正直忙しいのもあって、あんまり感情が沸かない。ただこうやって、軽くイベントとドリカを振り返ると、本当に黒石勇人が好きだったなあと思う。スマホの中に何枚スクショがあるかわからない。だいたいドリフェスを始めたのも黒石勇人がカッコ良かったからで、もっと言えば刀剣乱舞同田貫と要素要素がかなり近いからだ(短髪、黒髪、目つき悪い、ストイック、わかりにくいが熱血で、なんだかけっこう世話見がいい。最悪な理由である)。
 死ぬほどかっこいい黒石勇人に死ぬほどかっこいい、でも派手過ぎず、シンプルな衣装を好きに着せて、素晴らしい曲の数々で踊らせられるアプリが、それはもう、出会ったときからずっと好きだった。インペリアルガーディアン、バッカニアレイド、クロスエコー、ローズブリット、スパークリングアイズ、ブロッサムワルツ、シーサイドネイビー、ホワイトオーキッド、ミリタリーロック、アフタヌーンプレッピー、ボーイフレンド、ジェントルホテルマン、ヌーディストブルー、ローズシャイニーver勇人、どれも本当に最高のドリカだ。
 何気ない、でもたとえば黒石勇人と風間圭吾の最高の関係性が滲むちょっとしたエピソードの数々や、物語とはきっと呼べない、彼らの日々の断片を読み進めるのが、とにかく楽しかった。
 ガチャの悪口をボロカスに言うのも楽しかった。UR3枚ダブりはいつか同シリーズ別種に交換できるんじゃないかと思ったが、結局そんなことはないまま、プレゼントボックスに大量のダブりURが詰め込まれている。どれだけ所持上限を引き上げられても、プレゼントボックスは満杯になった(1000枚なんか、本当にびっくりするほどすぐ埋まるのだ)。不要ドリカをひたすら捨て続ける作業は空しく悲しく憎たらしく、FGOみたいにサクサク削除できないインターフェースには怒りが爆発しそうだった。でも、そういう意味不明なダルさですら、今となっては懐かしい。
 それが悲しい。ラストイベントを走る前から、まったく論理の通らない、ばかばかしい懐かしさにつきまとわれている。もう終わったような気分でいる。私にとってドリフェスとはほぼアプリのこと、さらに言えばアプリの中の黒石勇人と同義なぐらい黒石勇人が好きだったので、そんなに遠くない五月のどこかで、もうドリフェスと会えないということが、ただひたすらに悲しい。そのソシャゲであるが故の、必然的な終わりを頭ではわかっていながらも、いざやってくるとこれほどずんとした、重い痛さとしてやってくるのを、ばかばかしいと思うし、また全然笑えない。
 最初から最後までとりとめのない話ばかりだったが、2年近く取りつかれていたものが自分から遠く、絶対的に届かないところに過ぎ去っていく経験というのは本当に初めてで、その時間、記憶、喪失を美化できる体力はない。たかがソシャゲ、たかが画面の向こうの仮想の存在にこれほど入れ込めるのも自分でもよくわからないのだが、でも人間は幻想と現実の区別がたとえついていても、幻想にはいくらでも入れ込める生き物なんだろう。一秒でも、一分でも黒石勇人の声が聞きたいと思うけれども、一方で、もうアプリは終わったものだと距離を取りたい気持ちも、正直ある。今更振り返って、また痛い気分にはなりたくないのだ、というところではある。
 まとまりのない文章なので終わりらしい終わりもないのだが、つい昨日、雑誌で見たこんな短歌が、胸を衝く。
 「誰かが死んで死んだ誰かがしてくれたことだけ泣きしゃべる喪服のひと」と、最初に置いて、

 つまりわたしもそういうひとか してくれたことばかりおもいうかんでくる(斎藤斎藤/『歌壇』3月号)

 別にたかがソシャゲのサービスが終わったわけで、そこに人死にとか葬式とかを持ち出すのは明らかに過剰なのだが、こんな文章を書いていてつい思い出してしまうのはこんな歌で、ばかばかしいことこの上ないが、それでもやっぱり、葬式の歌が思い浮かんできてしまう。ソシャゲに葬式があるかと自分を笑ったところで、仕方ない話である。【了】