お前の好きな顔が最強だ メギド72について

 紹介文というより感想文なので、このゲームについてはあんまりよくわからない文章です。

 

 メギド72というソシャゲにはまっている。ドリフェスがサービス終了を間近に控えつつあって、その終了告知直前にハマった新しいソシャゲなのだが、丁度よすぎて、物事のタイミングとは不思議なものだと思う。

メギド72

メギド72

  • DeNA Co., Ltd.
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 このRPGを紹介するのは難しくて、かつ直感的にプレイ出来てしまうのでだらだら言葉を尽くすよりは実際に手に触れてほしいのだが、かなり秀逸なゲームである。ガチャを死ぬまで回して強キャラを引き、あとは延々脳死レベル上げ、という作業ソシャゲとは違う。という謳い文句に私たちは散々騙されたわけなのだが、少なくともメギド72は本当に違う。なにせキャラのレアリティが無く、クラスの相性差がかなりゆるめに設定されているのだから、とまず説明する。FGOで言えば星によるレベル上限が無くて、クラス間のダメージ倍率が弱いのだ。
 
 「どんなキャラでも活躍の機会がある」というキャッチフレーズは、たぶんそれなりに多くのソシャゲが採用しているのだろう。が、実際にはバランスブレイカーが何人か居てしまって、そいつを引けば勝ち、裏返せばそいつ以外に大した価値はない、という状況がしばしば生まれてしまう。マーリンとか。孔明とか。そういうキャラクターを一人作り上げてしまうと、それをガチャで引けたユーザーと引けなかったユーザーに強烈な難易度の差が生じてしまう(でもって高難易度のステージを用意するとなると前者に合わせるほかない)。
 ガチャを引かせるには強くて魅力的なキャラクターが必要だ。したがって、実際には「どんなキャラでも強い」というのは経営的に難しい。実際にそれをやるとしても、絶対的な相性差というのが欲しい。たとえば(もう面倒くさいのでFGOで喩えるが)マーリンだけ居ても☆5のアサシンやアーチャーが居なければライダーやセイバーには勝てないのだ。バーサーカーはすぐ死ぬし(私は土方さんが好きだ)。FGOのクラス相性は、ダメージ倍率が強烈なのでそれぞれのクラスで「強キャラ」を引く必要が出てくる(ように見える)。
 FGOを始めていた当初は、このクラス相性というシステムがかなり辛かった。私はソシャゲの育成キャラを顔だけで決める人間なので、ガウェインがアーチャーにボコボコにされると萎えたし、土方さんが速攻で沈められるのを見るのも萎える。キャスターでいちばん好きなサーヴァントが☆4のミドキャスとキャスギルなので、アサシンが出てくるだけでわりとイベント周回が辛い。土方さんはすぐ死ぬし(二回目)。
 ただ、このクラス相性というシステムは実際には「どんなキャラでも活躍の機会がある」ように見せかけるのに一役買っているし、実際にクラス相性のような大雑把なシステム無くしてキャラの多様さを描き出すのは、相当に難しいのだろう。私はゲームを作る人間ではないので、実際にどれぐらい難しいのかはよくわからないけれども。
 
 しかし、やっぱり「どんなキャラでも活躍の機会がある」と、そういう大雑把なシステムとは何かが違うのである(FGOはたぶんそんなことは謳っていないと思いますが)。「どんなキャラでも活躍の機会がある」とは、ここでは要するに「俺が好きなキャラをいちばん活躍させろ」という意味である。黒石勇人が好きならセンターの座が黒石勇人しかありえないように、RPGでもいちばん活躍すべきは俺が好きな顔のキャラでしかあり得ないのである。現実はもちろんそんなわけにはいかないのだが、RPGに限らずソシャゲ、ゲーム全般がある程度人の願望を満たしてくれる装置なのだとしたら、やっぱり見たいのは推しの活躍なのだ。土方さんはすぐ死ぬ(3回目)。

 

 そういう「俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい」という最低の願望を満たすのが、メギド72というソシャゲである。ここまででFGOと比較して書いているのは丸わかりなので、あられもなくFGOと違う点を書くと、メギド72はキャラクターにレアリティの差が無い。すべてのサーヴァント(メギド72ではサーヴァントのことはメギドといいます)にはレアリティの設定が無く、したがって一見して分かるレベル上限の差やパラメータの強烈な差もない。プロトクーが星3じゃなければ絶対に槍はプロトクーしか育てていなかった(それでは誰もガチャを回さないからダメである)。
 しかもクラス相性によるダメージ倍率がかなり緩い。お前の好きな顔をいちばん強く育てられるし、しかもクラス相性という世界の秩序によって推しが理不尽にボコられることもない。土方さんがアメリカの片田舎で幼女にハメ殺されることもないし、五重塔で絵師にボコボコにされることもないのだ。

 

 「俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい」という願望を満たすには、キャラクターの自由なカスタマイズが必要である。そのキャラの根本の性能まで変えては何がなんだかわからないので、プラスアルファで自由に変更出来るオプション性能が必要になる。FGOで言えば概念礼装だし、私がフリゲで未だにいちばん戦闘が面白いと思っている夢遊猫ケーリュケイオンは任意の特技をひとつ自由に追加出来た。キャラクターのベースの性能との組み合わせがどうハマるか試していくのが楽しいわけで、メギド72はこのスキルをオーブという装備で追加する仕組みになっている。これによって、ある時はキャラクターの力を脳死が如く一気に上げ続けるしかないキャラが、突然全体1回無敵を連発する超防御寄りのキャラになったりするのである(フォラス先生)。
 「俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい」とは、つまり推しにどんな状況でも「ある程度は」対応出来るようにしてほしい、ということだ。大事なのは、ここで「ある程度」を超えてしまうと、そのキャラはバランスブレイカーになってしまう。それでは面白くない。ゲームの側から提示された最適解が、たまたま自分の推しになっただけという、なんだか肩透かしな気分になってしまう。
 「俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい」とは、きわめてわがままな願望なのである(当たり前だ)。
 
 俺の好きな顔がいちばん強くあってほしい気持ちには、強敵が必要である。
 土方さんがボッコポコにされてもガッツで耐え切りビームを放って敵を爆殺したら脳汁がだらだら出るように、推しが最強で居るためには最強を証明するための敵が必要なのだ。そしてそうした強敵に、メギドは事欠かない。敵の性能も味方キャラと同じく個性豊かである。が、しかし、なぜか、にもかかわらず、メギドの育成は、推しだけ育てていてもなんとかなる。なぜかはよく分からないのだが、とにかく現在配信中のメインシナリオを全部終わらせた私でも、未だに推せる盾役とヒーラーが居ない。速攻勝負がものを言いがちなゲームではあるが、盾とかヒーラーとか、普通のRPGでは絶対に必要なキャラが居なくても顔のゴリ押しで何とか勝てるのだ――「メインシナリオは配布キャラだけで問題ない」というメギドの金言があるが、これが嘘ではないのである。配布キャラだけでも、自分のガチャ産の推しだけでも難易度はさして変わらない。
 メギド72はバランス調整がよく出来ているゲームで、大体のキャラはどんな状況でも活躍出来るのだが、しかし普段使っていない(あるいは顔だけで育てていた)キャラを放り込んだりすると予想外に大活躍したりする。この思いもがけなさがまた楽しいし、お前の好きな顔がいつだって最強なのだ。

 じゃあガチャなんか引く意味ねーだろと思われるかもしれないが、無論ある。メギド72は他のRPGの例に漏れずステータス異常とバフが非常に重要なので、キャラ単体の強さではなくキャラの組み合わせが重要なのである。そしてスキルのカスタマイズ度が高いので、バフとステータス異常は(ある程度以上は)装備で賄えてしまうし、それはもちろん本職のキャラには適わない(ここが大事なのである)。
 推したい顏を揃うまでガチャを引け。キャラの個性はシンプルであるにもかかわらず極めて豊かなので、新しいキャラを引けば誰と組み合わせれば強いかワクワクするのはFGOと変わらない(しかもレベルキャップがない)。

 ただしガチャのレートは渋い。サーヴァントが引けるのは1ガチャに付き5%で、1諭吉で回せるのは30連とちょっとである。ただし、月末に新規キャラ追加+サーヴァントが引けるのが10%の期間限定ガチャが救済策として用意されているので、裏返せばここぐらいしか課金する要素はない。ここでは紹介しないが、どのキャラもかなりキャラクターとしての味付けが濃厚なので、とりあえずたくさん人数を集めてみると楽しい。新キャラが普段はなかなか来ない仕様である以上最初のリセマラは(モチベーションの意味でも)ある程度はやったほうがいいとは思うが、とりあえず引けたキャラでも育てたりキャラストを開放していくうちに愛着が沸いてくるものだ。
 そう断言出来るぐらいキャラ設定には力が入っていると思う。仲間になるキャラクターも、人間にとっての救済は死しかありえないと平気で語って村を焼く伝道師とか、自然への愛が激し過ぎて人間も魔物も主人公も同じぐらいマジで嫌いでプレゼントしただけで「マジうぜえ…」って吐き捨ててくる自称守護聖獣とか、興味本位で世界の終わりを見たがるヤバい眼鏡のお姉ちゃんとか、協調性が無さ過ぎて死亡率100%の最前線に左遷され素材を貢ぐと「人の顔を伺うな!!」ってマジ切れしてくる説教お兄さんとか、勝ち気で可愛いソシャゲによく居そうなアーチャーの女の子が最終再臨で身体から蛇が生えてくるとか、もう味付けが濃過ぎて何がなんだか意味がわからない。なにせゲーム内で「いつ誰が裏切るか分からない」「内ゲバで全滅しそう」とかガチャで金払って引いた味方が平然とのたまうぐらいである。マジで協調性のない奴らがやたら多いが、そこがいい(繰り返すがマジでない)。ゲームを進めながら開けていく個人エピソードもメインシナリオも、やたら村が焼けたり人が死んだりするが、そこがいいのである。

 

 もうひとつ、メギド72は一度全員生存クリア出来たステージは、スタミナを消費するだけで一瞬で周回が終わらせられるようになる。FGO脳死素材周回がボタン一つで一瞬で終わるのだ。その分、スタミナの消費は激しく、石は高い。もっともFGOにおけるQP的なゲーム内通貨で回復薬が1日に複数個買えたりするわけだが、そんなに何度もログインしないので、素材を集中的に集めようとなると石を砕きまくる羽目になる。
 ただ、スタミナ回復+月末のガチャで人数を集めるためにとりあえずガチャを回しまくる以外は、正直かなり課金要素は少ないと思う。そして「メインシナリオは配布キャラだけで問題ない」のだが何故かイベント配布のキャラが妙に強いそんなビジネスモデルでどうやって金を稼ぐ気なのか理解出来ないのだが、本当に強いのである。

 

 脈絡のない文章になったが、そんなわけで、好きな顔をほどよく大活躍させるには最高のゲームである。
 まずは公式サイトのキャラクター紹介から気になる顏を探して、アプリをダウンロードしてください。

megido72.com

 ちなみに私の最推しはフラウロスくんで、主人公に平気で金をせびってはギャンブルに使い飯をたかるクズですが、滅茶苦茶カッコよくて強くて彼氏面してくる半裸です。

 

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 強いのでオススメです(顏が強いのが最強なので)。

ソシャゲの葬式 ドリフェスと黒石勇人について

 とりとめのない話。

 言うまでもなくソシャゲは終わりがある。コンシューマーゲームでない以上は避けられない宿命であって、アプリのサービスが終わればそこで終了である。ドリフェスの場合、五次元コンテンツという側面がある以上、三次元のキャストとの兼ね合いはあっただろう。
 まあ、ごく一部の界隈だけを見ていると言ってしまえばそれまでだろうけれども、(なかなかえげつないガチャのシステムもあって)収益はそれほど悪くなかった、と思う。個人的な印象としては、KUROFUNEのSAKURA LETTERを実装したあたり、SRも恒常追加ではなく期間限定にしたあたりから、ドリカや背景のクオリティも上がったような気がしている(もちろんインペリアルガーディアンとか、ワイルドガイズとか、ローズブリットとか、優れたデザインのドリカも当然あるけれども、どちらかといえばそれ以降のドリカのほうが好きだ。特にSR)。モデルのクオリティも、今年に入ってかなり上がったし(それだけにちょっと今回のサービス終了はショックが過ぎた)。

 私はそれまでのジャンルが刀剣乱舞(今もキャラは好きですが)で、かつ刀が舞台化されてもまったく興味が沸かないタイプだったので、三次元のキャストにはやっぱりさして興味がない(太田さんと株元さんは人柄としてはかなり好きだが)。ドリフェスの場合、特にDDは、三次元のキャストの成長もコンテンツの売りにしていた側面があった。二次元のキャラは三次元のキャストのライバルだ、と監督か誰かが言っていたような気がするが、三次元キャストと二次元のキャラが、本当にうまく、並列に扱われていたと思う。
 プロジェクトとしてのドリフェスのフィナーレは、武道館である。圧倒的に三次に偏っているようであるけれども、三次にさして興味のない私でも、これが正しかったと思う。三次元のキャストにとって、二次元のキャラはライバルなのであり、競い合い、そしてどこかで乗り越えるか、別々の道を進まなければならない。二次元のキャラと三次元の人間にどっちが重みがあるかというと、これは、素朴に言って、やっぱり三次元の人間のほうだろう。
 逆に、二次元のキャラに負けてしまうような三次元の人間に、たとえばいちばん好きだった黒石勇人を演じてほしくない。色々解釈はあるけれども、二次元の世界が先に終わって、その先に三次元のキャストがある、というようなイベントの配置の仕方は、(かなり悔しいし、正直、苛立ちさえするけれども)間違いではないと思う。終わり方としても、いつでも繋がれるアプリ、二次元の世界がずるずると生き延びるのでは、やっぱりうまく締まらない。
 それは心残りはある。私は黒石勇人が本当に好きだったのでシナリオは絶対に実装してほしかったし、途中から片桐いつきも好きになってしまったので、ユーアーマイライバルもアプリで見たかった。ドリフェスのアプリは本当に素晴らしいソシャゲで、たとえばMay Be Ladyでも1stと2ndで衣装が違ったりするわけだが、曲・振付・カメラワーク・ドリカどれもが最高だった(チヅは永遠にカメラから見切れていたが)。
 本当に悲しい。私は黒石勇人が死ぬほど好きで、黒石勇人に死ぬほどかっこいいドリカを着せてかっこよく踊ってもらうのが本当に楽しくて楽しくて、2016年冬~2018年春まで本当に黒石勇人が最高という気持ちだけで生きてきたようなものなので、アプリが終わって黒石勇人に会えないのはとてつもなく悲しい。正直もうラストのイベントなんかやりたくない、というぐらいの気持ちがある(ライトニングボルト勇人くんたぶんガチャだろうし……)。

 が、別にそんな個人の感情はどうとして、この終わり方はなんとなくしっくり来てしまう。それが、すごく悔しい。

 プロジェクトとしてのドリフェスについては、私はあんまり良いファンでは正直ない。
 まず三次元のキャストにほとんど興味がないのもあったし(途中から株元さんと太田さんは好きになりましたが)
実のところ一部の回を除いてアニメがあんまり好きでないのもある。1期は繊細な人間模様をきっちり描こうとしていた。特に佐々木・片桐・及川の心理描写は素晴らしかったし、私は全然奏と純哉の組み合わせにテンションが上がったりはしないのだが、それでも互いの本音を慎くんの提案で互いに言い合う場面は本当にぐっときた。
 それだけ精妙な物語を作りながら、DDとしてのひとつの明るいエンディングで締めようと、理由なくKFを負けにする展開には納得がいかなかった。2期は逆に、1期でしっかりとDD個々人の問題が描かれたせいで、もはや描くべきものがないのでは、と正直思った。たとえば2話と3話のKFの物語は抜群によく出来ている。Future Voyagerのライブ場面は一週間の無料配信で何回見たかわからない。でもたとえばファンミーティング回とか、奏が骨折を気合でなんとかするラストとか、勇人くんが歌う理由を見出す回とか、要素要素は良いのに、それを貫く物語論理が弱い。
 アニメドリフェスが一貫して抱えていた問題は、心理や関係性の描写が丁寧であるにもかかわらず、一個の関係や心理だけで設定が終わってしまって、それ以上のものを描きにくい、というところだった。
 また描くための材料がない。DD/KFの物語に焦点を当てすぎてしまって、それ以外の部分が疎という印象がある。
 これはどうやったって仕方ない問題である。それ以上に何か葛藤を作ろうとすると、たぶんものすごく暗くなる。
 2期の最終話がライブシーンの総集編なのは、予算もあっただろうが、あれ以上なにを描けばいいのか、というのもあったと思う。劇場版を望む声もあるし、私もやってほしいかほしくないかで言えばやってほしいけど、でもたとえば1期のいつき・純哉くん・慎くんを中心とした回や、2期のKF回を超えるような出来栄えの作品が出来るとは、あんまり思えない。優れた回はとびぬけて優れているけれども、だからといってすべてが平均的に優れているとはちょっと言えないし、24話というクールで描ける内容と、ジャンルとして明るい作風とはマッチしづらい。
 この描ける物語の少なさ、世界の狭さは、最初から2期で終わることを予定していたのではないかと個人的には思う。

 アプリはアニメの補完、サブエピソードでしかないはずだが、私はこっちのほうが(アニメの好きな回を除いて)ずっと好きである。たとえばマリンライブで圭吾が勇人と買い食いをしたがるシーンとか、DIVE TO SNOWで雪玉を投げ合うシーンとか、まあKUROFUNE中心なのは否めないが、そういうささやかな細部、ディテール描写のほうこそ面白かった。これは私が物語よりサブエピソードや細部描写のほうが好きな性質なのもあるだろうけれども、アニメドリフェスは繊細な描写に反して物語の論理が大味だし、これはキャラクターの過去や葛藤を詰め込み過ぎるわけにはいかない以上、どうしても仕方ないだろうと思う。そうなると細部や、なんでもない日常の描写、ちょっとした関係性の露出のほうがよほど光りやすいのは、たとえば刀剣乱舞の二次創作なんか見てもそうだと思う。
  あと、ああいう力の強い物語を日常的に味わうというのは、なんかしんどい。アプリドリフェスのシナリオは大体軽くて、毒っ気がなくて、オールキャラギャグ(特定CP寄り)みたいなもんであって、それでいいのである。
 
 話が逸れたけど、私はポリゴンが今ほどクオリティが高くなかったときから、とにかくアプリが好きだった。最初に揃えた報酬URはワイルドガイズで、それまで刀剣乱舞だけやっていたのもあって、課金とは狂人だけがやるものだとも思っていたが、とりあえず回復薬にだけ課金した。大学図書館二階のラウンジで必死になってUp to Speedとバードケージのノーマルを回し続けた。ダークラグジュアリーコートが一式揃っただけでもとにかく嬉しかったし、ワイルドガイズは最高だった。ペラペラというかペタペタの腹筋モデルはなんか紙人形みたいだと思ったがそのうちに慣れて、逆にMステがキャラの筋肉をかなりくっきりと描いてるのにびっくりした記憶がある。
 そこからはあまり課金の記憶がなく、ターパレver奏もナイトゼブラも揃っていないので、たぶんほとんど課金していない。バレンタインデビルの気狂いっぷりとボーダーの高さには絶叫した。国試直前は憂鬱で、布団にくるまってあなたの瞳で踊りたいをたたき続けていた(ローズブリット勇人くんはかっこよすぎて大興奮した。今でも好きなドリカ)。社会人のようなものになり、ブロッサムワルツが実装されたときから、一日一万円で回し始めるようになった。最終日にブロッサムワルツの靴が、タリーズの二階席で引けたときのことは今でも覚えている(いちごのアイス付きのケーキプレートと、大量にはちみつを入れた紅茶を机に乗せていた)。
 当時の職場に近かった道玄坂を下りながらガチャを引き続けたが、それでもインペリアルガーディアンは一度も引けなかった。チアフルジャムは今でもよくわからないドリカだが、ブロッサムワルツはとにかく好きだった。眼鏡と合わせるのが特に好きだった(マフラーのキャラが好きだったので)。ディアフューチャーは、当時たしか学ランのドリカが無くて、アニメの勇人くんの学ランが好きだった私には着せて楽しいドリカだった。ワンデーポリスマンは、ちょっとデザインが力尽きた印象はあるけれども、それでも最高だ(勇人くんはジェントルホテルマンとか、かっちりした制服がよく似合うので)。ハングリーウルフが報酬になったときはマジで運営を恨んだ(そらニューセイリングはガチャでしょうよ)。ホワイトオーキッドはこっちに握り拳を放ってくる黒石勇人にテンション爆上がりしたし、競い合うKUROFUNEが可愛すぎて最高だったし、キャンブロRver慎くんを着た勇人くんはワイルド系だが完全に正統派の王子だった。インフィニットヴォヤージュはなぜか圭吾だけ揃った(悔しい)。ラフグラフィティKFは2万円で引けた。あのラフで、シンプルで、しかもワイルドな恰好が本当に勇人くんによく似合う。シーサイドネイビーは海兵の制服なので当然勇人くんに似合い過ぎる。ソーダスプラッシュは初めて揃ったガチャURだった。
 進む決意! 二人だけの海賊は本当に、本当にうれしいイベントだった。FACE 2 FAITHは神曲だし、けっこう長い間放置されているわりにガチャだけはなぜかきっちり課税されていくKUROFUNEの、最高の新曲だった。おまけに期間限定SRのバッカニアレイドがとにかくかっこよかった。シンプルでワイルド、それかかっちり固まったフォーマルがとにかく勇人くんには似合うのだが、今でもバッカニアレイドは期間限定SRの最高傑作だと思う。軍服もかっこいい。追憶のロンドンも素晴らしかった。クロスエコーも素晴らしいがアフタヌーンプレッピーも、育ちの良い勇人くんによく似合う。このあたりのSRドリカは、ガチャURドリカよりも良いのではないかと思えるぐらい素晴らしい出来だった。ヌーディストブルーはかなり笑ったが、これとサンダーボルトハーフパンツの組み合わせは格闘家っぽくて正直かっこよかった(人前でやるのはかなりはばかられるが)。
 湯けむり温泉合宿は勇人くんの入浴ドリカは引けなかったが、それよりもきつかったのはジェントルホテルマンがなぜか一向に揃わなかったことで、SRであるにもかかわらず550連揃えるのにかけている(気が狂うかと思ったが、ほかに金の使い道もないし勇人くんはやっぱり制服がよく似合うのでまあ良し。ちなみにフォロワーは確かラフグラフィティKFに500連出しても揃わなかったので、このあたり、アプリの仕様にバグがあったとしか思えない)。マリーミーは頭おかしいのかと思った(揃いました)。インペリアルガーディアンがここでSRで揃って、Ver勇人くんトップスを着せたときのあまりのかっこよさに唖然とした。ヴァレンタインファントムシーフは当然フォーマルなのでかっこいい(そればっかり)。AFSイベは黄色は勇人くんに似合わないと思ったが揃えるとかっこよかった(本当にそればっかりだ)。
 それで、たぶんライトニングボルト勇人くんはガチャURになると思う。さすがに最後は奏が報酬だろうから、これは仕方ない。仕方ないけども、たぶんライトニングボルト勇人くんは引き切れないし、引けるまで金を払い続ける気力も、正直ない。
 
 恨みとか、寂しさは、あんまりない。仕事がちょっとバタバタしているのもあるが、正直忙しいのもあって、あんまり感情が沸かない。ただこうやって、軽くイベントとドリカを振り返ると、本当に黒石勇人が好きだったなあと思う。スマホの中に何枚スクショがあるかわからない。だいたいドリフェスを始めたのも黒石勇人がカッコ良かったからで、もっと言えば刀剣乱舞同田貫と要素要素がかなり近いからだ(短髪、黒髪、目つき悪い、ストイック、わかりにくいが熱血で、なんだかけっこう世話見がいい。最悪な理由である)。
 死ぬほどかっこいい黒石勇人に死ぬほどかっこいい、でも派手過ぎず、シンプルな衣装を好きに着せて、素晴らしい曲の数々で踊らせられるアプリが、それはもう、出会ったときからずっと好きだった。インペリアルガーディアン、バッカニアレイド、クロスエコー、ローズブリット、スパークリングアイズ、ブロッサムワルツ、シーサイドネイビー、ホワイトオーキッド、ミリタリーロック、アフタヌーンプレッピー、ボーイフレンド、ジェントルホテルマン、ヌーディストブルー、ローズシャイニーver勇人、どれも本当に最高のドリカだ。
 何気ない、でもたとえば黒石勇人と風間圭吾の最高の関係性が滲むちょっとしたエピソードの数々や、物語とはきっと呼べない、彼らの日々の断片を読み進めるのが、とにかく楽しかった。
 ガチャの悪口をボロカスに言うのも楽しかった。UR3枚ダブりはいつか同シリーズ別種に交換できるんじゃないかと思ったが、結局そんなことはないまま、プレゼントボックスに大量のダブりURが詰め込まれている。どれだけ所持上限を引き上げられても、プレゼントボックスは満杯になった(1000枚なんか、本当にびっくりするほどすぐ埋まるのだ)。不要ドリカをひたすら捨て続ける作業は空しく悲しく憎たらしく、FGOみたいにサクサク削除できないインターフェースには怒りが爆発しそうだった。でも、そういう意味不明なダルさですら、今となっては懐かしい。
 それが悲しい。ラストイベントを走る前から、まったく論理の通らない、ばかばかしい懐かしさにつきまとわれている。もう終わったような気分でいる。私にとってドリフェスとはほぼアプリのこと、さらに言えばアプリの中の黒石勇人と同義なぐらい黒石勇人が好きだったので、そんなに遠くない五月のどこかで、もうドリフェスと会えないということが、ただひたすらに悲しい。そのソシャゲであるが故の、必然的な終わりを頭ではわかっていながらも、いざやってくるとこれほどずんとした、重い痛さとしてやってくるのを、ばかばかしいと思うし、また全然笑えない。
 最初から最後までとりとめのない話ばかりだったが、2年近く取りつかれていたものが自分から遠く、絶対的に届かないところに過ぎ去っていく経験というのは本当に初めてで、その時間、記憶、喪失を美化できる体力はない。たかがソシャゲ、たかが画面の向こうの仮想の存在にこれほど入れ込めるのも自分でもよくわからないのだが、でも人間は幻想と現実の区別がたとえついていても、幻想にはいくらでも入れ込める生き物なんだろう。一秒でも、一分でも黒石勇人の声が聞きたいと思うけれども、一方で、もうアプリは終わったものだと距離を取りたい気持ちも、正直ある。今更振り返って、また痛い気分にはなりたくないのだ、というところではある。
 まとまりのない文章なので終わりらしい終わりもないのだが、つい昨日、雑誌で見たこんな短歌が、胸を衝く。
 「誰かが死んで死んだ誰かがしてくれたことだけ泣きしゃべる喪服のひと」と、最初に置いて、

 つまりわたしもそういうひとか してくれたことばかりおもいうかんでくる(斎藤斎藤/『歌壇』3月号)

 別にたかがソシャゲのサービスが終わったわけで、そこに人死にとか葬式とかを持ち出すのは明らかに過剰なのだが、こんな文章を書いていてつい思い出してしまうのはこんな歌で、ばかばかしいことこの上ないが、それでもやっぱり、葬式の歌が思い浮かんできてしまう。ソシャゲに葬式があるかと自分を笑ったところで、仕方ない話である。【了】

お題小説企画『手帳』作品まとめ

 2月18日から2月25日まで、お題「手帳」で書いていただいた小説の評です。私の小説は今回は無し。体たらくで申し訳ないです。「手帳」って携帯のスケジュール管理アプリで十分用を果たせてしまうわけで、肌身離さず持つ携帯と手帳のどっちを亡くし易いかとか、記入の手間とかいちいち筆記具が必要なのとかを考えると、割ともう個人の好み以上の意味はない代物なのかもしれない、と思います。几帳面に予定をつけるようなきっちりした人が、わざわざ手帳を採用するのは不思議な感じです。

 

 以下、作品とその評です。ご投稿いただいた方々、ありがとうございました。本当に遅くなってしまってすみません。

 

【参加作品】

1.箱さん『君の手帳』(@_B0X

「みんな手帳に感謝しよう。そして素晴らしい手帳小説を読もう!」

http://privatter.net/p/2213339

 

2. ぐるぐるさん『彼の行間』(@hutariguruguru

「なにもかも、ぜんぶ、真っ白だったのだ」

http://privatter.net/p/2214345

 

3. けめこさん『ループ』(@kemeko19

「予定をなぞっていると、隣に彼がいるような気がするのだ」

http://www.twitlonger.com/show/n_1splmaj 

 

 ◇箱さん「君の手帳」
 せっかく盛り上げるような文章を書いてくれたのに私の体たらくが申し訳ないところです。ひとつこれ手帳というより自由帳とか罫線のないノートの類なんじゃないかというのは気になりました。最後が内輪ギャグ調ではあるんだけど、この手の文章、オシャレ風の文房具屋兼雑貨屋みたいなところにオシャレなフォントで書かれているような気がします。あれってギャグ前提でないならどういう気分で書くのか、というか自由帳を最初から最後まで埋めるのって相当難しくないかとか、自由に何でも書ける、という条件を与えられるとかえって自由に書きにくい節があるんじゃないかとか、色々と思わされるところではあります。

 

◇ぐるぐるさん『彼の行間』 
 情報が足りないというよりは適切に絞っていて、不気味な余韻を残すことに成功している。わかることは茂木が「私」に対して何か異様な執着があったというぐらいで、会ったその日が空白、というイメージは鮮烈でした。個人的にはどれだけ実績があろうが何か解消不可能な羨望を抱え続けていた、という線が好きかな。ロマンチックな解釈は個人的にはしたくない。
 最初から最後まですっきりとした文章なのだけれども、最後のところでちょっと説明臭くなるところは不思議な気持ちがしました。こういうところを説明するタイプの小説文化とは正直遠い位置にいるのですが(私であれば絶対削ります)さりとて書き手の力量からして不要なものをわざわざ付け加えたという感じもしない。そうなると住み慣れた土地の文化とかいったほうが適切な気がしなくもない。ただもしこれを単なる落ちの説明として読まないなら(……そしてこの人の力量であれば文化にかかわらずそういう興ざめなことは本来しない気がする)茂木から「私」に対しては言葉で書き切れないような、ほとんど傷に近いような感情(とその抑圧)があった、その鮮烈な痕跡を目にしたにもかかわらず、「空白は何も教えてくれない。空白は何も語らない」と勝手に謳い上げてしまう「私」という人間は、たぶん本人が思っているよりもずっと怖い人間なんじゃないか、というところです。

 そうなると興味は茂木より、茂木がこれほど嫌な痕跡を残している「私」のほうに向きはする。でも、なんとなく「私」はごく当たり前の凡庸な人間であって、茂木が一方的に羨望や執着に近いものを膨らましていたような気がしなくもない。それが怖い。小品だけれども、派手な装飾がないスッキリした小説なだけに、余計にぞっとするような印象を残す素敵な小説でした。最初に書いたような手帳の時代錯誤っぽいところは、この年齢なので何の問題も無し。面白かったです。

 

◇けめこさん『ループ』
 このヒロインは怖い! 手帳をなぞっている設定が無ければ単なるセンチメンタルな小説だったけれども、この設定はかなり怖いです。最初は中編小説に発展し得るその前段階、何かのスケッチかなあと思って読み始めたけれど、最初の「彼岸」と絡めて読むとかなり鮮烈な短編でした。ぶつ切りといえばそうだけどこれは設定一本勝負みたいな小説で、これでいいんでしょう。
 ただひとつ注文をつけるなら、この小説は設定の描写であって設定から始まる物語ではない。たとえばこの「ループ」が最初の設定にあるなら、物語はまずもって「ループ」からの脱出になるでしょう(あるいは脱出する、と見せかけて結局うまくいかない、とか)。そこまでを書いて欲しかったというのは無茶な要求です。ただこの文体は丹念な描写だけで小説を作り上げていくタイプでも無いような気がして、なんとなくこの先に物語が続きそうな気がしてならない。それは小説自体の欠陥というより、スピーディに物語を展開していく文体と、設定の「描写」だけで読ませようとする小説との相性が良くない。これに関しては企画のスケールの問題であって書く側の問題ではないです。
 最初の場面を読む限り、このヒロインは現実の要請よりも自分でこしらえた幻想(自作の幽霊とでも言えるかも)のほうを優先するわけだけれども、彼女が今までこの手のケースをどうやって乗り切ったのか、それから度々起きていたであろう「吐き気とは違う何か」にどう対処し、どう「ループ」を続けてきたのかは非常に気になるところです。もしこれを中編ぐらいの長さの小説にするなら、そこがひとつの見せ場になるんでしょう。面白かった。一気に書いたが故の設定の面白さかもしれないけれど、出来れば膨らましてそれなりの長さの小説にしてみても良いんじゃないかと思います。ループで遊園地と来たら、回転木馬とかジェットコースターとか、そういうあざとい繋げ方も沢山出来そう(というか小説内を読み返していて、あるかと思いきや案外それが無かったという、変な驚き方をしていました)。「年」は前に進み続けるけれど「日付」はループし続けるわけで、「手帳」が普通のノートと異なるのはこの「日付」にあることを鑑みれば、お題の消化としても素敵です。

「国試の本質は何ですか」という質問を頂いたのでお答えします

 ask.fmでいただいた「国試の本質は何ですか」という凄まじくファジーな質問に答えを書いたら文字数制限で弾かれたのでブログに載せます。そもそも質問する相手間違ってない…?

 

 答えは各自まちまちでしょうから色んな人に話を聞いてみてください。私にとっての本質になるのですが、結局は「ベーシックな知識」と「判断力」を問う試験だったと思います(超つまんない回答ですね)。
 ちなみに私の成績はそんなに良くないので話半分に聞いてください(ボーダースレスレで苦しむことは無いですけど友人は全員私より成績良いです)。
 
 具体的に何を評価・判断するかというと、
①自分の能力や特性
②どこまで勉強するべきか
③当日の試験問題自体
 の三点です。そりゃそれしかないだろってセレクトですが。

 ①に関しては、自分が直前に追い込みの利く人間かどうか見極めておくことが非常に大事です。直前期にメンタルがやられて勉強が出来ないリスクがあるなら当然先回りして勉強したほうがいいです。私は自分のメンタルを信頼していませんでしたから、自然とそういう勉強をするしかありませんでした。ここの判断を誤ると流石にヤバいんじゃないでしょうか。案の定直前期は毎日布団をかぶってツイッターをする有様だったので、それまでに勉強しておいて良かったです。
 
 ②に関しては、諦める能力とも言えます。
 ひとつの科の疾患をどこまで数多く勉強するか。あるいはコモンな疾患でも「どこまで奥深く勉強するか」という問題があるわけです。だからといって全疾患全事項を勉強するわけにはいかないわけで、「これは出るかもしれない」「これは流石に出ないだろう」という見極めが必要になってきます。あるいは「この疾患・この事項は仮に出すとしても知識のない学生が本番で解るように出すはずだ」という推測です(③に絡みます)。
 
 たとえば今年出たReiter症候群の問題。実際にReiter症候群まで押さえていた学生は稀ですし、またこういう国試的にレアな疾患はそもそも出題が少ないので演習のしようがないのが実情です。
 111A53はa.網状皮斑は血管炎の症候だし関節炎でこれは流石にないだろう、bとdはIEの症候なんだからどっちもバツ、ということで消去法でcとeが残ります(更にここからクラミジアと関係ありそうだからcは確実にありそう、全身疾患っぽいからeもあるだろう、という判断が入ります)。なので実際にはReiter症候群なんか勉強してなくても解けるわけです。
 こういう問題は知識を問うというよりは学生の判断力を問う問題と判断すべきです(つまり作問する側もReiter症候群なんか知らんだろうなあという前提で作っています)。過去に出た疾患だけを繰り返し出すのは出題側もばつが悪いわけで、こういう判断力を問う問題が出るのは仕方ありません。
 
 マイナー科を何をどこまで勉強するかですが、基本的にマイナー科の先生も「全員がマイナー科に進むわけではない」という前提を共有しているものと考えて構わないと思います。であればそういう先生が出題する疾患は、自然と①commonか、②criticalな疾患のどちらかになると思います。眼科なら前者は白内障とかで、後者はCRAOとか急性緑内障発作になるんでしょう。
 あるいは整形外科なら骨折と腫瘍だけは最低限押さえておく。骨腫瘍は骨肉腫と骨巨細胞腫ぐらいしか理解出来ないならもうそこでやめておく。骨折は逆に合併症ぐらいまでは単なる知識として押さえられるんだから押さえておく。
 
 もうひとつ忘れてはいけないのは③混同しやすい疾患です。具体的にはa. 名前が似ている, b. 症候が似ているペアです。これは仮にcommonでもcriticalでもないとしても(……いや国試で本当にレアで緊急性のない病気ってあんまり出題されないしされたら諦めていいと思うんですが)試験問題を作成する上で引っ掛け選択肢を作り易いからです。
 たとえば眼科なら網膜色素変性と加齢黄斑変性、それこそ整形外科の勉強してないと全部一緒にしか見えない骨腫瘍シリーズ、感染症なら麻疹と風疹です。今年度の必修でbを問うたのが溶連菌とアデノウィルスの鑑別を訊いたやつ…とまあ言えないこともないわけですが(必修で訊くなよ実際疾患に対する苦手意識は「名前or症候が似てて訳わからん」に由来する場合がほとんどです。ちなみにこの手の混同しやすい疾患ペアは教科書を開けたら全然違うケースが非常に多いです。つまり苦手意識が先立ち過ぎて「どうせ解らんから」といつまでも放置しているパターンです(ちなみに私の場合は脳出血の症候とか内分泌の負荷試験とかでした)。
 あと、引っ掛け選択肢を作りやすいという意味では過去の除外選択肢の意味をさらっと確認しておくのは案外大事です。Argyll Robertson瞳孔とか皮膚結核とか、本番知らずに出されたらパニックを起こしそうな選択肢であってても、Argyll Robetson徴候ってよく知らないけど神経梅毒とかMSで見られるんだね、尋常性狼瘡って何なのか解らんけど皮膚結核なんだ、とかそんな程度で構いません。幸運にも本番で出たら自信を持ってバツ出来ます。
 
 どこまで勉強するかという話は、どの教科書を選択するかに関わってきます。
 これは神経内科志望の成績がアホみたいに良い友達の話をそのままパクるんですけど、レビューブックさえあれば国試は十分じゃないでしょうか。朝倉内科学とかはもう別次元としてイヤーノートとか持ち運びしんどくない…? 字細か過ぎて読めなくない…? 本番の休憩時間にあれ持ち込んでる人結構いてビックリしました。
 出題された事項をまとめてる以上、普段の過去問演習もレビューブックさえあれば大体何とかなるし、実際あそこに書かれた事項を全部押さえるだけでも大変です。裏返せば、あれをきっちり読み込んで落ちる可能性は低いかなあ……と。私は直前期に内分泌とか血液とかさっと読んだのが本番で大いに役立ちました。ページ数が少ない割にしっかり疾患を押さえてるのは評価ポイント高いです。あと、国試の正解選択肢にいちいち下線を引いてくれているので、「あ、この事項が問われた疾患はこんな問題だったなあ」と記憶を反芻出来たりもします。レビューブックに出てない事項を問われた場合は、(後述しますが)知識でなく判断力を問うているか、あるいは捨て問と判断しても構わない気がします。あと、見た目が薄いので「国試の勉強ってこんだけでいいのか!」と気楽に思わせてくれるところも美点です。「こんなにたくさん勉強しなくちゃいけない」という意識はそれだけで勉強のモチベーションを下げかねません。

 
 ちなみに必修でビビりがちな投与経路とか体位とか診察の問題はレビューブック必修に載ってます。この手の問題を正答出来なければ落ちるという土壇場にそもそも陥らないのが肝要とはいえ、「俺は投与経路も体位も診察もとりあえず押さえたぞ」という自負は本番のメンタルを安定させます。Amazonレビューの評価は妙に悪いですけど、私はオススメします。必修ガイドラインに則って症候ごとに疾患が羅列されているので、「そういやこの疾患って何だっけ…」と結果的に全科の復習に繋がりやすいのも良いです。なぜあんなに評価悪いのだ。
 ともあれまず誰もが知っている事項を落とすわけにはいかない、という国試の大原則からすると、レビューブックの赤字から勉強していくのは悪い勉強法ではないはずです。というか本番前になっても赤字で抜け落ちてる事項は正直アホみたいにあるので、それを手軽にスピーディーに確認復習できるという意味でも私はレビューブックを強く推します。しかも安い。素晴らしいです。
 
 最後に③当日の問題の評価です。判断のカテゴリとしては、
a.知識ではなく学生の判断力・読解力を問うている
b.誰も解けない、平均点を落とす前提で作っている
c.削除前提で作っている
d.誰もが解ける前提で作っている
 あたりでしょうか。dの問題は当然落とせません。bの問題は落として問題ありませんが実は問題文をよく読めばor選択肢自体がヒントになっているaの問題という可能性があります。基本的にはdさえ解ければ受かる試験なんでしょうがaを当てれると気分が安定します。ぜひ当てたい。そこの見極めは大事です。
 
 cの問題はたとえば今年なら呈示されてる画像がわかりにく過ぎることで人気を博した111c21です。これは私の妄想なので真に受けないでほしいんですけど、111c21のような明らかに答の決まらない問は合格率調整のためにあえて作られたのだと思っています(大多数の人間より優秀であろう各大学の教授が意味もなくこんな悪問を出すとは考えにくい……というか考えない方が私は好きです)。「この問題を採点除外にすれば合格率9割を切るけどこの問題ならギリギリセーフ」という微妙な選択をするために、あらかじめ「この問題は採点除外にしてもいい」という悪問の準備が必要なんじゃないかなあ。逆に言えばこの手の削除前提の問題は答えられなくても仕方ないです。出来なくとも真に受けずにも流すべきだし、これが解けなくても受かる程度にはベーシックな知識を習得しておくべきなんでしょう。

 aの例をもう2例挙げます。
 ひとつは110回のRolandてんかんです。発達の遅れがあるなら6歳以前に気付かれるだろうからaは×、cが答えならWest症候群でaと答えがダブるから×(いや他にACTH療法の適応があるてんかんがあるのかもしれないんですけど私が国試で見たことはないからここは×していいのです)、dはMoyamoyaなので×(いや過呼吸賦活試験は欠神発作で陽性になるらしいんですけどそこまで押さえてる学生って本番何人いるのかって話ですし、仮にこれが○ならそういう病歴が問題文に書き込まれていそうなものです), eは神経学的に異常を認めないからおそらく×で残りはbだけになります。これまで発作を起こしていたのかもしれないけど6歳の入眠時だから今まで誰も気付かなかった、という勝手な想像が立ち上がったら確信度は上がります。したがってこれはRolandてんかんを知らなくてもWest症候群とMoyamoyaという国試的にスタンダードな知識があれば解ける問題で、Rolandてんかんの問題を装って後者を問うているベーシックな出題とも言えます出題する側も毎年West症候群とMoyamoyaを愚直に問うのはばつが悪いと考えるべきです)。てんかんや脳波に関する学生の苦手意識を巧みに衝いた出題であって、やっぱ神経内科の先生は凄いなと思います。この手の「消去法で答えが出る」問題は、言い換えれば「他疾患の基礎的な知識を問う」問題であるパターンが多いです(Reiter症候群のもそうですね)。
 もうひとつは今年のSigmoid diverticulitisです。私の英語力が貧相なのもあるのですが、だとしてもdeverticulitisという単語を知っている人間は稀なわけで(いや世間はそうではないのかもしれませんが国試本番は自分の知識が最大限蓄積されたタイミングですから、このときの自分に解らないのであれば自分以外も全員解らないと判断して構わないはずです――裏返せばそれぐらいは勉強したほうがいいです)ですからeにMeckel's deverticulosisが用意されていると読むべきです。
 
 などと長々書いてきたわけですが、結局過去問を10年分ぐらい解いて知らないことが出てきたらレビューブックで確認する、という勉強法ぐらいしか無いと思います。何だかんだベーシックな知識があれば受かる試験なので、もうくどいほど繰り返された話ですが「みんなが当たり前に知っていそうなことを自分も知っているようにする」が結局は原則です(その判断にはもちろん過去問や模試の全正答率が役立ちます)。そして教科書が違えど誰もが参考にするのは結局過去問なので、国試の勉強は過去問をひたすらちまちまと解き続ける他に方法はありません(そしてまた医学を学ぶ上で優れた教材なんだろうと今となっては思います)。必修に関しても同様で、10年分ぐらい解いてレビューブック必修を丁寧に読めば何とかなります。というかそれ以外の方法が思い付きませんでした。
 最初の問いに帰りますが、国試の本質は結局「基礎的な知識」と「判断力」という非常に、非常に味気の無いものになりますが、それでいいのだろうと思います。逆にそれ以外を問われたら困ります。
 
 ちなみにこんな偉そうに書いていますがマークミスとかで落ちてたらask.fmもtwitterもblogも全て消えますのでよろしくお願いします。あとリファンピシンが肝代謝ってところまで押さえてたらステロイドの効果が減弱するかどうか解らなくても95%ぐらいの確率で受かりそうと思ったのは私だけでしょうかあの総評はテンション高くて好きです)。以上です。受験生だったら頑張ってくださいね。

週末小説企画 『炬燵布団小説』まとめ

・2月3日金曜夕方から突発的に始まった、「人にお題をもらって小説を書こう!」という企画に参加してくださった方の作品です。枚数制限無し、期限は2月5日21時まで、という設定でした。
・お題はたばためさん(@tbtm99)さんから頂いた「炬燵布団」です。「炬燵布団って炬燵とどう違うの…?」「炬燵布団小説って何…?」という意味不明な問いが超局地的に発生していました。
・事前に参加してくれると仰っていただいた方、また飛び入りサプライズで参加してくださった方、本当にありがとうございました。こんなに参加していただけるとはちょっと思ってもみませんでした。
・最後に、企画者が遅くなってしまってすみません……。皆さんお早い。
・作中から、数文勝手に引用して紹介しています。

 

1.エマノンさん『無題』(@lowemanon
「この足を突っ込んでいる炬燵が世界の中心である」

http://privatter.net/p/2153832

 

2.鮭とば子さん『M』(@lrg_girl
「それ以上、何もなかった。おれはたずねることはないし、Mが何か口にすることもない。きっとこれからも。あるいは、たぶん」

http://lrigirl.web.fc2.com/short/165.html

 

3.ぐるぐるさん『炬燵布団』(@suzushi221
「どんどんお腹がまるくなっていく。章吉の嫌いなまるになっていく。私はそのことがこわい」

http://privatter.net/p/2156671

 

4.じょんさん『おもいおもわれ』(@borokobo
「先輩は不思議な人だった。一般的な大学生からはずれている。先輩が赤信号が続けばいいと思えばその通りになるし、空気を読もうとしたら大気に突然文字が浮かび上がる」

http://privatter.net/p/2157490

 

5.佐々田端束さん『炬燵布団小説』(@ssd_hntk
「あなたの手は熱い。けれど脚が、どうしてだろう、まだ温まらない」

http://privatter.net/p/2157646

 

6.ぐるぐるさん『15センチ四方の世界の全て』(@hutariguruguru
「どうしようもなく可愛くて仕方がない。俺を殺そうとしたことも? 無関心よりはましだろう」

http://privatter.net/p/2159160

 

7.箱さん『炬燵布団に秘められしBL可能性』(@_BOX
「ふと気がつくと受けは自分が炬燵布団になっていることを発見した」

http://privatter.net/p/2159330

 

8.Raise『裸の炬燵』(@Raise_4096
「お前がそんなに勝手なら、俺にだって、勝手な実験ぐらいさせろよ」

https://docs.google.com/document/d/1G80SrJXKKLEHMtkHNmYzAPysFC8rBJFjvu3BDrkGtWE/edit?usp=sharing

 

 以下は総評と各作品への評です(2/18)。

 

◇総評 
 面白かった! 「炬燵布団」って人にお題を頼んだ側が言うのもなんですけどかなり厄介な題材で、炬燵とどう違うんだよというところに引っ掛かるなら「布団」のほうに話をずらすことになり、そういうのを気にせず大雑把に「炬燵」だけで消化してもいいのでしょう。後者で面白かったのは「布団」の消化から布団の中の「暗闇」に着眼し、さらに視覚ではよくわからない「妖怪」や「体温」に転じた小説。この消化方法は見事。正攻法じゃないのだと炬燵布団に変身するやつは流石にびっくり。
 もう一つ興味深かったのは普段書き慣れてる枚数がどれぐらいなのかうっすらと透けて見えてきそうなあたり。かなり短い期間、実質即興に近いイベントだったので、中編長篇を書くのに慣れている人だと掌編をいきなり書こうとして四苦八苦するかもな、と感じました。そういう方の小説は、もう少し長い期間で書かれたものを読んでみたいな、と個人的なわがままとして思います。
 いずれにせよ厄介な題材でしたが、個々人がどういう感覚や要素に着眼するのかが見えてくる面白い題でした。今回はお付き合いいただき有難うございました。

鮭とば子『M』
 ある意味では何も起きない、物語を書くというよりは際どい感情の発露を描く小説なんだろう。こういうものを書かせると抜群に巧い人だとは知っていたけれど流石に盤石の出来……。これ以上先に進んでは小説にならないし、言ってしまえばMも「おれ」も自分の感情を片側で自覚しつつ、単なる誤認じゃないかと先に流してしまいそうなところがある。それを、切なくとか、変な感傷で書くのではなく、あくまで明晰な文章で書くところは流石。「彼女が出来そうになったが寸前でやっぱ振られる」というのはBLの定番展開だなあ。Mは彼女に付き合ってと言われたら普通に乗っただろう。そこの呆気なさというか、関係性を描いてはいるんだけれど異様に情が強いわけではないというさっぱりした感じ、あるいは煮え切らなさが素晴らしい。でも二人とも早く彼女作ったほうがいいよ……って読んでて勝手に焦ってしまった。そこがBLのようで、案外ファンタジーにはなってない(雰囲気をファンタジーっぽくして話も単にファンタジーだったら小説として読みどころが無いわけだからこのほうが絶対良い)。〆の文章は予想外だけど面白かった、ぜひ使いたい。「おれ」にはこれから冬になるたびMのことをたまに思い出して「何してんだ……?」って気分にはなってほしい。てかM早死にしそうだな。
 
○ぐるぐるさん(赤)『炬燵布団』
 ぐるぐるさんの小説をちゃんと読んだの初めてだなあ。最初の一文で「秋口」から「晩秋」に時間を移動させて弾みをつける。冒頭の一文ってだいたい読む側が小説の内側に入れるように、書く側が書く弾みをつけれるように移動や運動を書くのが鉄板なのですが、ああ、書き慣れている人なんだなあと思う。私から章吉への感情、それから二人の状況をスピーディに書く。いいですね。私から章吉への感情は「大好き」とざっくばらんに書かれていて、なんだか不穏なものを匂わせた結末。男はDV男一歩手前だし女ともども思考がちょっと理解しにくい。ただそういう理解しにくい二人ではあるけれど何だかんだうまくやっていけてしまう、そういう関係性自体をひとつの作品として描きたいのかなという気がする。最後の結末で急に優しくされるのダブルバインドじゃん……というかこのヒロイン最終的に子供を理由に別れられなくなりそう……と勝手に暗い気持ちになっていました。ただちょっと意地の悪い注文をするならこの人の文体はもっと長い枚数で活きる気がする。ちょっと窮屈というか、書き手の書きたいものが十全に書かれていない印象を受けなくもない。文体は軽やかだけれどハイテンポに物語を書き連ねていくタイプという気もして、そういう人が枚数制限や時間制限の設けられた場合にアクの強いエピソードや人物で小説に仕立てようとするのは割によくあるんじゃないか。これはちょっと企画の性質上仕方ない話なんだけれど、この人のもっとじっくり本腰を入れた小説を読んでみたくはあります。そういう意味で、また別の小説を読ませてほしい一作でした。
 
○ぐるぐるさん(緑)『15センチ四方の世界の全て』
 エキセントリックで不幸なヒロインって…こう…男のある種の欲望を詰め込んだような存在! 「俺」の情けなさ、理沙子の過去と布の切れ端と鮮やかなエピソードはあるのだけれどもそれが小説として一つの流れ、意味をもって浮き上がってこないむず痒きがある。この人もある程度長い枚数でじっくり書いた方が面白い気がする。企画に乗ってもらった人間の言うことではないんだけど。「あまりにちんけで無力な言葉が思い浮かぶのだけれど、そんなのとてもじゃないけれど口にすることはできない。くだらない童貞の妄想みたいな言葉に対して彼女の抱えている悲しみはあまりに重くて深くて、そんな言葉が彼女を救えるのだとしたらそれは都合のいい創作物の中だけだ」と考える「俺」の頭の悪さが作為的な、概念的なものとしてコントロールされてるのかちょっと自信が持てなくて(……あまりに小説らし過ぎるというか)この人の小説のスタイルとして、こういうカッコいい文章は普段なら相応で適切な物語の積み重ねの先に置かれるんだけれど、企画の性質上そこがスキップされてしまったような印象を受ける。むず痒いというか、この人に関してもやはりこの小説以上の力量を持っている気がしてなりません。そういう意味で赤いほうのぐるぐるさんと同じく次作を読んでみたい。
  
○じょんさん『おもいおもわれ』
 「空気は吸うもので吐くものだと思っている」のエンシェントおたくなところ最高に笑ってしまう。マイルドでアクのない恋愛小説といえばそれまでなんだけど、そこに先輩の能力、妖怪という一工夫が加わっていて凄く質の高い掌編になっている。先輩も語り手のヒロインも性格が良さそうな感じで無条件に信頼してしまいそう。本人の性格は知らないけどこれほど素直に好感の持てる人達を書けるのはひとつの特性で羨ましいなあと思う。決して毒にも薬にもならないような掌編、というのでもなく、一工夫をうるさくない程度にさっと利かせたウェルメイドな掌編であって、この人の長い小説は是非読んでみたい。あくまで推測だけど、二次創作の質が物凄く高そう。蜜柑の剥き方なんかどうでもいいでしょって思ってそうな先輩と、そういうところが気になる女の子という描き分けとか、相手の理解し難さと「妖怪」の掴み難さが重なるところとか、さらっと書かれているし本人にそういう自負も無いのだろうけれど何気に書き慣れたが故のテクニックを伺わせる小説で、素晴らしいです。好きな掌編でした。でもマジで空気の下りはエンシェントおたく。
 
○箱さん『炬燵布団に秘められしBL可能性』
 さすがにこの書き出しは凄い。「受け」って言葉自体あまりに使い古されてはいるけど普通に変な単語だし、だいたい冒頭からいきなり「受け」って誰だよって感じだし(でも内輪に向けた文章というのではなくて笑わせてくるパワーがあるから、これは立派にひとつの作品なんだなあと思います)星井七億さんとかのメタBLギャグっぽい。でも変態なようで家具に変身した感覚を書くあたりのSFっぽさ(……何気にこんな現実にありえない体感を感じられる気になれる文章ってすごいものです)は好きだし、照れ隠しのようにナスビとキュウリのオヤジギャグに走ってはいるけれど電源の入っていない炬燵で寝てる受けさんは可愛い。何気に文章がうまいのはこの手のアホギャグものを書く人にはよくあるけれど、変な発想と、案外根柢のBLの素朴さにほっこり出来て楽しかったです。息切れではなく意図して力を見せ切ってくれない感もあるけど、それは企画の限界かな。面白かったです。
 
佐々田端束さん『炬燵布団小説』
 痛い女といえばそうかもしれない。別に何か約束を取り付けたわけでもなく、勝手に情を膨らませ勝手に怒っているだけの異様に勝手な想い、ひょっとすると片想いと名付けることすら能わないような感情なのかもしれないけれど、その勝手さを十二分に自覚して冷えられるだけの距離感がいい(というか掌編として結晶するにはこの距離感は必須だったでしょう)。切ないというような綺麗な言葉ではなく、徹頭徹尾勝手に怒っているだけなんだけれども、その感情の描写だけで読ませられる掌編というのはなかなか見事だろうと思います。一方で「あなた」も徹底的に無知というわけでもなく、何かしら刺々しいものがあることを自覚している。文体は正直まどろっこしくはあるけれども、勝手な感情とその自覚、という混乱を巧みに反映した、物語の側から意味づけられたまどろっこしさなのでするりと読めるものがあります。ごく短い場面なのだけれど、良い意味で中編小説の一部のように読める小説でした。

 

エマノンさん『無題』
 明晰に書かれているようで何もかもが曖昧で茫漠としている。それは手癖というより、深い傷を受けた主人公の回想の限界として読むべきなのでしょう。台詞回しや細部の情報の出し方に違和感を覚える一方で、これは(もしかすると書き慣れていないというのが一因だとしても)主人公の混乱を反映したものとしても読める気がします。人の死を展開上のクライマックスに持ってくる小説ってそれだけではなかなか小説になりにくいわけで(死んだ後から回想する、というのなら別で)瞬発的なイメージで書かれた勢い、とでもいうべきものを感じました。やはり中編小説の一部、ここから「私」の物語が始まる第一歩というような掌編でした。この短い文章に書き手の個性すべてが現れたとは言いにくいですが、情報量の出し方、住み慣れたはずの部屋を不思議に遠い場所のように描く書法、それとは一転してびっくりするような結末の付け方といい、なかなか独特な掌編でした。単純に中身のないものを無理に書き込もうとしたものとは思えない。これはこの人独自の文体なのでしょう。

寒川倫さん(正しい倫理子さん)の「差別する身体」に対する疑問と、ある表現の残忍さ

 12月17日22時、ご意見を受けて追記しました。

 

rinriko-web.hatenablog.com

 話題の文章として回ってきた文章です。読んでいてとても興味深かったので、気になるところをいくつか挙げようと思います。

 

 まず書き手の寒川さんは「ユーリ!!! on Ice」によって「BL消費者の思考回路」が「暴かれた」といいます。特に寒川さんが気にされたのは「男性同士の恋愛を愛してやまないはずの腐女子からの一部から、極めてホモフォビックな言葉が出てきた」ことです。寒川さんが「ホモフォビックな言葉が出てきた」と感じられた例は、どういった場面だったのでしょうか。

 

 

あえて差別用語を原文そのままに使って書くと、「これは"単なるホモアニメじゃない"」といった同性愛嫌悪が「ほめ言葉」として使われていたり、「これはホモよりもっとすばらしいものだ」といったバカバカしい愛のランク付けが、平然と行われているところを何度も見た。

 

 

①「これは単なるホモアニメじゃない」は同性愛嫌悪である。

②「これはホモよりもっとすばらしいものだ」は愛のランク付けである。

 という二点に、うーん、そうかな、とちょっと思ってしまいました。

 まず①に関して。寒川さんは「単なるホモアニメじゃない」を「同性愛嫌悪」とした理由は、おそらくは「BL」ではなく「ホモ」という差別語を使われたからなのかな、と思います。でも、仮に「単なるBLアニメじゃない」であれば、それは「並のBLアニメじゃない」という感嘆表現(……ただまあ「じゃあ私が見てるBLアニメはダメなのかよ」と思わせる意味では危険かもしれません)でしかない気もします。

 「単なる萌えアニメじゃない」は「萌えアニメとして見るだけには勿体ない、そういった狭苦しいジャンルを超えた力のあるアニメだ」というぐらいの感嘆の意味で使うのではないでしょうか。②に関しても同様で、もっと言えば「愛のランク付け」とは「BL」とたとえばヘテロの恋愛を比較したときに起きることであって、寒川さんの書き方ではユーリはBLとして読まれているようなので、であれば「BL内で比較してより優れた作品である」と読まれそうなものですが、このあたりをあえて「同性愛嫌悪」とされたことに特別な理由があるのかな、と感じました。

 さて、寒川さんの再構成版では、原文に加えてさらに次の一文が追加されています。

 

これには既視感があった。自分自身がかつて「腐は隠れるべきだ」と考えていたことだ。

 

 そもそも「同性愛嫌悪」かちょっとよくわからない事象なのですが、同性愛嫌悪をちらつかせる腐女子に対して、寒川さんご自身が「かつて「腐は隠れるべきだ」と考えていたことだ」に重なるものがあるようです。どのような重なりがあるのかは後に書かれるのでしょう。

 

 同性愛と異性愛の非対称性が差別であるとき、フィクションの同性愛とフィクションの異性愛の非対称性もまた差別的である。

 この文章についてはちょっと書いてあることがよくわからないのですが)、ともかく寒川さんは「なぜ、腐だけについて私は「隠れるべきだ」と考えていたのだろうか?」と自問されています。

 話はやや飛んで、寒川さんは「なぜ「男性同士の恋愛描写を公式で行うことが男性同士の恋愛描写を好むはずのクラスタから嫌悪される」という現象が発生するのか?という問題について」以前考えたことを書かれています。

rinriko-web.hatenablog.com

この記事の中で、BLが自身の性欲のありかを撹乱したい女性にとって救いになりうる、という話に触れた。

 この「性欲のありかを攪乱」するとは、どういう事態を指すのか。

BLはBL消費者の性欲がどこにあるのかを見えなくさせる。これは外から見て隠れる、という意味もあるが、より重大なのは「自分自身が自分の性欲や、自分自身が受けているジェンダーの抑圧と向き合うことを避ける」ことができる点である。私は「男と女」の恋愛漫画を読んでいると、「女側に自己投影しろ」という強制力のようなものを感じてしまう。また、エロシーンが含まれたものだと「女性側に自己投影する自分」の存在が気持ち悪くなってしまって、どうにもつらくなることがある。

そういうときに、男性同士の恋愛は「安心して」読むことができるのだ。どこに自分を置いて読むかという問題について自由になれるからである。

 

 「自分の性欲と向き合う」「自分自身が受けているジェンダーの抑圧と向き合うことを避ける」とはどういう事態なのか。それを寒川さんは、ヘテロ恋愛漫画とBL漫画を読んでいるときのご自身の体験を比較して語っています。ヘテロ恋愛漫画に寒川さんが感じる「女側に自己投影しろ」という強制力は「ジェンダーの抑圧」に、エロシーンに対して「女性側に自己投影する自分」は「自分の性欲」に相当するのだと思います。後者は別に良くないかと思うのですが、私は当事者ではないので寒川さんの自己への嫌悪についてコメントすべきではありません。

 

 このあたり、寒川さんが強制的に「女」として「自己投影」しろ、と命じられているのか、それともヘテロの恋愛に無意識に「自己投影」してしまうかは判然としません。これは論理の乱れというよりは、ひとつの正確な描写なのでしょう。面白いです。「お前は女だから当然女として自己投影すべきだ」という「ジェンダーの抑圧」は、ちなみに私は(特にユーザーを舐めた乙女ゲーとかに)あると感じます。そうした主客のはっきりしない、曖昧な苦しみに対置されるのがBLです。

 

そういうときに、男性同士の恋愛は「安心して」読むことができるのだ。どこに自分を置いて読むかという問題について自由になれるからである。

 

  これはちょっと面白い考え方です。原文を参照すればわかるのですが、つまり(女子BLのような例外はもちろんあるけど)腐女子はBLにおいて自己投影する対象先がない、完璧な他人の恋愛事として読むことが出来る……わ、なるほど、と思いました。私に当てはまるかはちょっと「?」でしたが、寒川さんご自身の自己分析としては興味深いです。

 で、「なぜ性欲を隠さねばならないのか?」

 私の経験について言うと、考えられる一番大きな理由は、「自己嫌悪」だ。それは「自分の性への嫌悪」であり、もっというと、「自分の性欲への嫌悪」、「性欲を持つ自分への嫌悪」である。

 寒川さんは自己嫌悪、とりわけ「自己の性への嫌悪」がある。「自分の性欲への嫌悪」「性欲を持つ自分への権利」があられて、「性欲を隠さねばならない」と思われるようになった。なぜ自分がそう思ったかについては、

この自己嫌悪は、社会的に生み出されてしまったものなのだと思う。

 どういうことか。

 男性に比べて女性は圧倒的に「エロ」を語ることを社会的に許されていないし、なんとなく自分がそういう気分を(どういう形であれ)持っていることについて、罪悪感や「不適切」なような気持ちを感じるのだ。

 後者に関しては寒川さんがそう感じられたのだから自由です。前者に関しても少なくとも寒川さんが生きてこられた「社会」では「エロ」を語ることを許されなかった、のでしょう。このあたりも、「女性はエロを語ってはいけない」と社会、というと大きいので、他人に許されなかったのか、自分自身が「エロを語る」ことを許せなかったのか、判然とはしませんが、やはり正確な描写なのでしょう。

 ただ一方で不思議なこともあります。「エロを語る」ことと「性欲を抱く(が秘める)」こと自体は(結果と原因の関係にはあっても)別で、それはたとえば「差別感情を口にする」ことと「差別感情を抱く(が秘める)」のと同じぐらい別なようにも感じたのですが、寒川さんのなかではこの二つは直結しているようです。

 ここから寒川さんのまとめです。

つまり、以下のようなプロセスが考えられる。

(1)自身の性欲への嫌悪からBLを消費する。

(2)しかし昇華の過程が複雑になっただけで性欲をBLに向けていることに変わりはないので、さらに性欲を隠し嫌悪する方向へ向かう。

(3)自分の性欲は隠さねばならない/不適切である/普通ではない、という思考が、自分が性欲を向けているBLは隠さねばならない/不適切である/普通でない、へすり変わる。

 寒川さんは(ほかにも理由はあるとは思うのですが)もっぱら自身の性欲への嫌悪から「BL」を読まれていたようです。「昇華」の過程が複雑になった、ということは寒川さんはBLを読む以前には別の「昇華」の過程を取られていたうえで比較されたのでしょうが、これに関しては本文中に記述がないのでわかりません。「昇華」という用語の使い方には疑問が残って、そもそも「さらに性欲を隠し嫌悪する方向に向かう」のって「昇華」出来てなくないか、とは思ったりはします。

 「性欲をBLに向けている」という事態は、ここまで書かれた文章との整合性が取れません。「自己投影する必要がない、気楽な空間だからBLを読む」という話をされていたはずで、ここまでだとそれは「逃避」なんじゃないかなあ。

 寒川さんは一体どっちなのでしょうか。「逃避」として読まれていたのか、実はここに書かれていなかっただけで「昇華」として読まれていたのか。ともかく寒川さんは、「自分の性欲は不適切である、隠さねばならない」と考えた末に、「自分が性欲を向けているBLは隠さねばならない」と考えます。それが「自分自身がかつて「腐は隠れるべきだ」と考えていた理由」です。

 さて、寒川さんは問題を提起します。

ここで問題になるのが、腐女子は男性同性愛を消費する存在でありながら、(ごくわずかな例外を除いて)男性同性愛の当事者ではないということだ。

 それはそうでしょう。だからこそ寒川さんはBLを楽しく読めたのだし。ここでの「消費」は、ご自分が安らぎを見出されていたものに対してはちょっと塩辛い言葉だとは思いますが。ここからが寒川さんの「差別」論です。

上記のプロセスは、人間の肉体と性が直結している以上、思考回路としてある意味当然の流れかもしれない。本人にとってはBLが自分の領域であり、どう扱ったとしても同じ趣味の身内の問題でしかないと信じているためだ。しかし、これを客観的に見れば、同性愛差別にしかならない。BLは私たちのものであり、同時に全く私たちのものではない。

  つまり寒川さんにおいては、BLを「不適切」「普通ではない」と見なすことは現実の「同性愛」を「不適切」「普通ではない」と見なすことと同義だそうです。ということは、寒川さんご自身も現実の同性愛に対してそのような認識を過去されたのかと推測されますが、そういう記述は本文にはありません。寒川さんのこの部分で差別されているのが誰なのかは、腐女子なのか現実の男性同性愛者かはわかりません。

 寒川さんは過去の自分を悔やみます。

私は自分の中に<差別>の枠組みがあることに、「腐は隠れろ」論者であった当初は気付けなかった。時間をかけて、最近になって初めて、自分自身もまた知らない間に差別をし、自己と他者の区別がつけられずに過ごしていたのだと認識するに至った。

 つまりここでの差別は腐女子差別です。寒川さんは①自身の性欲を認められないが故にBLに逃避し安らぎを見出していた、②ところが逃避しただけでは結局性欲は更に募るばかりで、BLは寒川さんの性欲の問題に関しては悪循環を引き起こしていた(……ってなんだか嫌な書きだし、さすがに誤読している気がしますが)③したがって寒川さんはBLに対して「隠さなければならない」「不適切である」という思いを抱くようになった、ということです。ところが、

人間である以上、どうしても自分と違う相手に怯えたり身構えたりする気持ちが無意識に発生してしまう。ならば、自分の中の差別心に気づかねばなるまい。

 「自分と違う相手に怯えたり身構えたりする気持ち」から想像される相手は腐女子ではありません。だって寒川さんはBLを読まれて安らぎを見出す腐女子だったのですから。ということは、寒川さんがここで差別しているのは男性同性愛者、という風に(二択で考えると)至ってしまいますが、そんな話はしていなかったような。

 もちろんこのふたつに繋がりがあれば推測可能なんでしょうが、そこの関係性は特に提示されていません。

  更に「自分と違う相手に怯えたり身構えたりする気持ち」はそれは当然発生するとして、そこから「自分の中の差別心に気づかねばなるまい」理由は、ここには書かれていないので文中だけではちょっとよく解りません。寒川さんの中には何らかの理由があるのだろうと思います。

自分がなぜ差別を内包するのか、ゆっくり目をそらさずに考えていくべきだろうと、自分自身へ言い聞かせる意味も込めて、この記事をまとめるに至った。

 とあるのですが、結局寒川さんの話したかった差別は同性愛者差別だったのか、腐女子差別だったのか、どっちかなのかちょっとわからないので、「自分がなぜ差別を内包するのか、ゆっくり目をそらさずに考えていくべきだろう」という説得・提示のプロセスとしては疑問点がつく、と言わざるを得ません。

 ともあれ、寒川さんは何度もこの文章の改訂を繰り返されているので、今後更に納得いく説得・提示のプロセスが行われるのだろうと思います。私がこの再構成版についての感想を書いたのは14時時点で(さらにそれまで書いていたのは前夜時点の原文でした――そこで気になる個所のいくつかは再構成版においては削除されていたので、ここでは書きません)実際の寒川さんの文章とはラグがあるかもしれませんが。

 補論に関しては機会があれば。

 

 ここから追記です(補論についても含みます)。

 

 追記します。

 寒川倫さんの文章の問題点はいくつかあるとは思うのですが、特に再構成版において強く出ているのは腐女子差別」と「同性愛者差別」をパラレルに語っているところです。端的にまとめると、寒川倫さんの『差別する身体』のメッセージは「一部の腐女子は同性愛者差別をしている、ところで私も腐女子差別をしていたが自分に向き合うことでそこから脱することが出来た、だからあなたも自分の内なる同性愛者差別に向き合ってほしい」というものです。論理的にはこう読むしかないと思います。
 そしてこれは、私は残念ながらかなり受け入れるのは厳しいメッセージだと思います。
 
 何故こう読めてしまうのか。
 寒川さんの再構成版は、決して実際に同性愛者が差別されたシーンについて語られているわけではないからです。「ホモ」が「差別語」であることはそうだとして、一方で「ホモ」に「差別」の感情があったかどうかは個々の腐女子に訊かねばわかりません。ただ、私は正直、ないほうが多いと思いますが――後述しますが、仮に「BLは普通でない」というフィクションに対する嫌悪と、「現実の同性愛は普通でない」という現実の出来事に対する嫌悪をイコールで結ぶなら、なおさら「ユーリ」を褒める文脈で「差別」の感情は考えづらいです。
 差別語の使用はポリコレ、というよりは社会的なマナーとして控えた方が無難とは思います。
 
 「内なる差別に目を向けて」というメッセージは別に間違ってはいないわけです。ところが、その論理立てがどう考えてもおかしい。仮に邪推をするなら(邪推なので間違っているでしょう)「ユーリ!on ICE」を視聴する腐女子が嫌いだから、「ホモ」という言葉を使った、彼らは男性同性愛者を差別している、とわざとバッシングをした、とすら言えてしまう。更に寒川倫さんがそもそも腐女子に対して差別的な感情を持っていた、ということがその証拠にすらなりえてしまう。
 
腐女子の言動に非論理的な言いがかりをつけた。寒川倫さんは腐女子に差別的な感情を過去持っていたことがある。もしかすると、寒川倫さんは同性愛差別に対してメッセージを送りたいというのではなくて、ただ言いがかりをつけたかっただけなのかもしれない。」

 これは邪推であり、間違いでしょう。しかし、非論理的な指摘を(……まああまり言いたくはないのですが、いささか高圧的な文体で)されている以上は、そう推測してしまうことも可能ではあります。私はそうは思いたくはありませんが。
 
 また、他人の不注意を注意する際に非論理的な言動で迫るというのは、私は賛同出来ません(たとえば「殺人をしては何故いけないのか」は論理的に考えられるのか、という話はありますが、これはどう考えても「ホモは差別語として捉えられるからやめたほうがいいですよ」という注意勧告だけで終えられた話です)。

 
 寒川倫さんのなかでは「腐女子差別」と「同性愛者差別」に繋がりがあるのではないか、という意見もいただきました。

 つまり、「BLは普通じゃない」と考え、「BLは普通じゃない」と発言した場合、そこには「ゲイはキモい」というメッセージも含まれるだろう、ということです。これは私は大いにあり得ることだと思います。

 しかし、であれば猶更、「これは普通のホモじゃない」と、「ホモは普通じゃない」は、近い文章のようでまったく別の意味になるはずです。結局、寒川倫さんが具体的な同性愛者差別について触れていない以上、あの文章だけで「(一部の)腐女子は男性同性愛者を差別している」という結論に至ることは難しい。言葉のチョイスがおかしいならそれを指摘すれば良かっただけではないでしょうか。

 
 ちなみに、この記事の後に書かれた寒川倫さんの追記は不可解です。

 

そもそも私が違和感を持ったのがこの部分である。

(1)ユーリオンアイスが、男性同士の間に結ばれる深い愛情を、BL作品と銘打たれていない作品の中で描いた作品であること

(2)(1)について、一部の人が、普段自分たちが消費しているBLなどと比較し、それらより素晴らしいものだと表現したコメントがあったこと

→つまり、

BL文脈にない作品の中の男性同士の深い愛情>BLと銘打ってある作品

という図式ができているような印象を抱いた、ということだ。

これはすなわち「BL」というジャンルの卑下になる。男性同性愛をコンテンツにしたBLというジャンル自体が、どうして卑下されないといけないのだろうか、という疑問だった。私は、BL消費者自身によって、BLが「不適切な欲望」と認識されているのではないか、という仮説を立てたのである。

実際にはそんなことを考えなくていいはずだし、異性愛の恋愛ものと同性愛の恋愛もので扱いが違うのは差別的な姿勢だと感じられた。私自身無意識に差別をしてきた。

 

 

①「ユーリ!on ICE」はBL作品としてラベリングされずに男性同性愛が描かれた
②しかも一部の腐女子は「普通のBLではない」という感嘆表現をした

 以上の二点から、後者の腐女子が「まるでBL作品としてラベリングされていないもので描かれた男性同士の深い愛情は、BL作品よりも素晴らしい」と思い込んでいるように見えた、というわけです。


 つまり、BL消費者は一般のジャンルに対してBLを下に置いた、BLに対して内心「不適切」だという思いがあるのではないか、と考えられたそうですが、であればそれは単に寒川さんの誤読です。ご自分の経験に引きずられてファンの心理を読んだわけで、誤読としても典型的でしょう。


 もちろん「ホモ」という言葉使いは危ういです。しかし、この最初の例示が「同性愛者の差別シーン」として適切かいささか言い切りにくい以上、寒川倫さんの文章についてはやはり意味を成していないのではないか、と言わざるをえません。
 
 かなり意地悪く言うなら、最初から勝手に「これは普通のホモアニメじゃない!」と盛り上がっている様から「BLを下に見ている」と勘違いして、更にそこから「差別だ!」と爆走して、勝手に「差別はやめたほうがいい」と注意されている、という状況に近いです。ちなみに「自分が主張したことについては後悔はない」とありますが、それは別に文章全体が非論理的であること、この文章が批判を受けたことと関係あるようには思えません。そうですか、というだけです。

 
 「ホモ」という言葉は使わないほうが無難だよ、という意見は正しいでしょう。でも文章は、とりわけそれがメッセージとして発信されるなら、伝達内容が正しくとも伝達形式に問題がある、ということが生じます。そもそも注意する対象に「差別」感情があったのか疑問です。そして言葉遣いとしての「ホモ」が「意図せざる差別加担」であれば、それに応じた書き方があったでしょう。もっともそこに焦点を当てるなら、「ホモ」という何気ない言葉遣いがどう「差別」に加担し、それを加速させるのかについても、具体的な何らかの例示があって良かったのかもしれませんね。

 もっとも、差別を是正するうえで必要なのは言葉どうこうより具体的な制度整備ではないか、とも思うのですが、それはあくまで感想です。

 
 また、寒川倫さんが「自分はセクシュアリティで差別されたことがない」が故に「性的マイノリティ」に対して「罪悪感」つまり「申し訳ない」と思うのは寒川さんの感情なので自由なのですが、それをわざわざ表出されるというのは、いささか残忍なことをされているのではないかな、と私は思います。以上です。

 

雑誌『精神療法』のマインドフルネス特集を読みました

 雑誌『精神療法』の特集「マインドフルネスを考える、実践する」が面白かったので特に興味深かったところだけ紹介。マインドフルネスを考える、つまり批判的吟味なのでわりと辛辣な記事が多い。記事の掲載順と紹介順は全然合ってません。

精神療法第42巻第4号―マインドフルネスを考える,実践する

精神療法第42巻第4号―マインドフルネスを考える,実践する

 

 

  1. 中村伸一「マインドフルネス雑感」

 「精神療法」の編集者(心理療法に関わっている精神科医の先生)の書いたエッセイのうちの1本。米国家族療法アカデミーの年次大会で著名なマインドフルネス治療者の講演を聞き、ワークショップに参加したが「素朴な感想は、……いわゆるカルチャーセンターにいって習得すれば済む話ではないか」というものであり、「スキルとして習得するだけの価値はある」としつつ、米国での人気は「オリエンタルな香りのする禅仏教へのあこがれと癒しや救い、さらには「悟り」をそこに求めようとする社会的(経済的)な背景」による所が大きく、最終的には「落ち着きを取り戻し、また「斬新」と勘違いされる「○○療法」が芽を出すだろう」と釘を刺す内容。マインドフルネスをすれば万事解決、というようなものとはかけ離れた、相当冷静な筆致の記事が多い特集だが、それを象徴するようなエッセイ。ただし本特集にも呼ばれた大谷彰『マインドフルネス入門講義』は「ちゃんと知っておくのによい本」「真摯にマインドフルネスについて著している信頼できるもの」であり、「早々に」使える技法もある、との評価。

マインドフルネス入門講義

マインドフルネス入門講義

 

 

  1. 藤田一照「マインドフルネスと無心」

 特集の最初の記事。筆者は曹洞衆国際センター(サンフランシスコ)に所属の僧侶の方。

 仏教における「心」とは「自他、有無、生死、善悪、得失、賢愚といった」観念を二分する「念想」であり、こうした二分法が人生の諸問題を引き起こすとする。西洋心理学では「私には心がある」と見なすが禅は「心が私を作り出す」とする。希望、悲喜、悲しみや怒りや失望といった心に去来するものは、実体のない単なる虚妄に過ぎない。そうして絶えず立ち現れる想念、思考、願望、といった一過的に過ぎない現象の連なりから、しかし逆にそれを経験する確かな主体があるように錯覚してしまう。その時に与えられる名こそが「私」である。つまり「私」とはどこまでいっても単に想起される心の経験に過ぎないのだが、あたかも「経験」と「経験とは別に(その結果として)存在している私」という区別があるよう錯覚する。そして「私」がより良い経験を得ようともがこうとするが、これは「夢の中でもっと良い夢を見ようとしてもがいているようなもので、けっきょくのところ堂々巡りの中で疲弊」する。こうした「有心」すなわち「私」のパラダイムの中で生きている以上は、自分の悩みや苦しみも「私」が解決すべき問題となり、人生は「私の維持、向上、発展、幸福」を図る、「私」をめぐる「緊張と戦い」が果てしなく続く場と化す。常に「私」という夢を見続けている私がどれだけ夢見る自己を実現したとしても、最終的には「それぐるみが夢であった」と「老病死の現実との直面」によって突きつけられる、というスゲー過激な文章。坊さんだからか。

 禅の目標における無心とmindfulnessは字面からして真逆である。臨床におけるマインドフルネス(あるいはclinical mindfulness)は最早仏教という出発点を離れ、世俗的治療技法、あるいは有用な注意のスキルとして自立しているが故に、仏教の教義にそぐわないという批判は不当である。とはいえ、仏教における「無心」がそうした「有心のパラダイムそのものがもつ問題性」への対処プラグラムとしてあるならば、「無心」を出発点としたマインドフルネスは本来苦しみをもたらす「有心のパラダイム」をむしろ強化・補強する(たとえばライフハック的な瞑想なんかは「自己実現」のためのテクニックだろう)ばかりであり、結局はその時々の対処療法にしかならないのではないか、という批判。最終的には入門勧誘に近い気もするし、思想自体に馴染みにくいところはあるけど、ともすれば単にライフハック化しかねない瞑想に対してどうなの、というお怒りの文章としては(一風変わった論理を辿ってはいるが)面白い。ちなみに後に紹介する大谷彰がdis目的で引用されていてちょっと笑う(大谷彰はたぶん書いている当時は藤田一照の文章を読んでなかったろうが、こうした仏教側からの批判をうまくまとめていて、それも楽しい)。

  1. 北西憲二『マインドフルネスとあるがまま』

 森田療法研究所所長。森田療法で有名な先生。本特集の企画者でもあり、本誌の編集者。

 森田療法では「あるがまま」あるいは理想とする「とらわれ」のない状態に至ってこそ「治療」が始まるが、この「あるがまま」を到達目標とするマインドフルネスでは、その後いったい何が起きるかの吟味検討が不足している。つまり、マインドフルネスに達した経験がどう行動に結びつくのか、それがどう治療として一貫しているのか、というところが見えてこない。

 慢性抑うつと対人恐怖に悩む青年患者が瞑想に取り組んだところ、落ち着いた環境下では身体感覚に集中が出来、マインドフルネスといえる状況に達したようだったが、自己嫌悪や対人不安に囚われている際にはどうしても瞑想に没入出来なかった。どのような状態に、いつマインドフルネスの技法を用いるかについても検討が必要だろう。

 「瞑想をして、あるがままに辿り着けば万事が解決する」というような風潮がある中で、更にそれを「治療」にまで結び付けていく具体的なイメージが見えてこない、という声は、批判というよりは正直な感想なのだろう。ただ実際には単に健康維持・増進のためにウケてる面もあるだろうから、治療者寄りの意見。

 

  1. 大谷彰『アメリカにおけるマインドフルネスの現状とその実践』

 『マインドフルネス入門講義』の著者。

 マインドフルネスはアメリカ総人口の8%にあたる約1800万人の成人が実行しており、慢性疼痛患者の17%がマインドフルネスによる治療経験ありと回答しているらしい。どんだけ流行ってるんだ。Mindfulnessという語自体はイギリス人の仏教学者TW Rhys Davidsがパーリ用語”sati”を訳したもの。

 藤田一照のように「私」への囚われ自体からの脱却を目指し、たとえば「現生利益」のための瞑想を批判した『仏教思想のゼロポイント』の魚川祐司のような立場はマインドフルネスでも仏教パラダイムによる「ピュア・マインドフルネス」とでも呼べるもので、臨床パラダイムによる「臨床マインドフルネス」とは区別する。臨床マインドフルネスとは治療、もしくは健康増進・維持を目的としたプログラムで、方法論の違いはあるが主な治療要因は脱中心化(decentering)であるという見解がコンセンサスとなっている。脱中心化とは「思考や感情を一時的な心的現象とみなし、それが必ずしも現実や真実、自己の存在価値などを反映したり、重要な意味を持っていたり、またそれに対して特別な処置をする必要もないととらえる能力」「不安や憂鬱な考えや感情は単にその場限りの一時的な現象に過ぎず、絶対的な事実ではないとみなす態度」である。こうした心理反応・身体感覚に対して距離を置くことが、マインドフルネスによる情動調整を可能にすると推察される(PTSDの治療手段としても利用される)。

 めちゃくちゃ面白いのはエビデンスの問題。臨床マインドフルネスのエビデンス検証の大半は何の介入も受けないグループとの比較であり、「これでは臨床マインドフルネスに軍配が上がるのは当然だと考えざるをえない」。

 特に凄まじいのは2014年JAMAのこのメタ解析。

Meditation for Psychological Stress and Well-being | Complementary and Alternative Medicine | JAMA Internal Medicine | The JAMA Network

 

 瞑想をキーワードにした論文18753件のうち、瞑想が治療の中心とされないものを除外して方法論的に信頼のおける研究の個数を調べたところ僅か43件、全体の0.2%に過ぎなかった。更にこの信頼のおける研究のみで不安・うつ・ストレス・疼痛に対する効果のメタ解析を行ったところ、認知行動療法など何らかの介入を行ったグループでは効果に差が無かった(figure A. が介入無しがコントロールの場合の比較、Bが介入ありの場合の比較)。

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 すなわち「現時点のデータを検証する限り、臨床マインドフルネスの効果寮は小から中規模を示し、治療効力は無治療や支持療法などよりは有効であるが、従来の認知療法より優れているとは言えない。これが行動科学の導く結論であり、マインドフルネスを取り巻く最近のイメージとは大きく異なる」「マインドフルネスのさらなる人気と大衆化に備え、臨床マインドフルネスに携わる者はこのエビデンスが示す現実を銘記すべきである」ってマインドフルネスの先生が言うんだから凄い。

 

 マインドフルネスの大衆化による影響が最も強く見られるのはビジネスの世界で、宗教学者のJeff Wilsonは”Marketing mindfulness”とまで呼んでいる。「アメリカではマインドフルネスと言えば「すべて素晴らしく、スピリチュアル、健全、リベラルなどの代名詞」とみなす風潮が蔓延しており」「結局のところ、普段ならまず買わないであろう商品を購入し、お金を使わせる手段にほかなら」ない(マインドフルネスをテーマとしたカーテン、ついたてなどの室内装飾品、関連教材、チャイム、線香、あるいは高級リゾート地でのバケーションを兼ねた研修など)。更には近年のアメリカでは「にわか仕込みの仏教「専門家」がメンタルヘルス分野に出現し、堂々とマインドフルネスを論じる」「日本ではまず考えられない光景」がしばしば見られている、とのこと。結論としては、先に米国が瞑想と臨床をマインドフルネスとして結びつけたうえで日本に逆輸入するというヘンテコな事態が起きているが、そもそも仏教諸国の心理学者や精神医学に携わる人間が瞑想を臨床手段として積極的に海外に発信しなかったのがマズかったのでは、とあるが、それはちょっと厳しくないかとも思う。ともあれマインドフルネスの紹介をしている先生がここまで苛烈に書いているのは楽しい。俄然著作を読みたくなった。

  1. 原田誠一『マインドフルネス・私観―文学~診療~日常生活のマインドフルな世界~』

 編集委員。マインドフルネスの心理内容はマインドフルネスが開発される以前に吉田健一が『時間』『変化』で書いてた!宗教の術語なしにこの時代にこんなことを書けた吉田健一は偉い!ついでに『不思議な文学史を生きる』で吉田健一を「昭和期の文芸批評の一番重要な人物」として激褒めした丸谷才一も超偉い!俺は診療場面では「今、ここの」「自らの体験に、リアルタイムで気づきを向け、受け止め、味わい、手放す」作業をやってるけどこれってマインドフルネスじゃん!あと毎日仕事場のクリニックまで歩いて通っているけど今はライラックの花が咲いててめっちゃ綺麗、この感動、マインドフルネスじゃん……という超脱力系エッセイ。いや嘘は書いてないつもりなので一度読んでほしいし、あとは吉田健一で誰がテンション上げるんだ!? まあその辺は「マインドフルネスに関して抱いている雑感を思いつくまま率直に記させていただいた。読者諸賢のご検討・ご批判をお願い申しあげる次第である」なので最初から織り込み済みなんだろう。「何でもマインドフルネスじゃねーか!!」って暗に嫌味を言っているかと思ったけど、たぶん違う気がする。

 

 途中で引かれている神田橋條治『精神科養生のコツ』は面白い。「養生のコツの中でいちばん大切な基本となる助言」は「気持ちがいい、という感じをつかんで、その感じですべてを判定すること」であり、「この気持ちの良さを、もっと良くするにはどうしたらいいだろう?」という問いかけが大事なんだって。超有名本だがうちの図書館にはありません。残念。

 

時間 (講談社文芸文庫)

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変化

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改訂 精神科養生のコツ

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仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

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不思議な文学史を生きる

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