雑記

おもに調べ物のまとめです。

メギド72『嵐の暴魔と囚われの騒魔』について(Ⅱ)

 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想について、続編です(前回は下記)。

 

A.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』について私が読み落としていた部分についてまずは書きます。それは(明瞭そのものだろうけれども)これが「差別」の物語である、ということです。
 作中を貫く「外見」(ジズ)と「声」(プロメテウス)の対比について、プロメテウスがアイドル、正確には歌手の設定が物語上何を意味しているか、メギドとして差別を受けた経験のあるモラクスと、「正義」を理想とするマルコシアスこそが、エイジズムの表れと取れる発言をする意味について言及します。

 

B.続けて、私が書いた感想の何が問題であったかについて書きます。テキストを批判するときは、当たり前だけれども、そのテキストの可能性を最大限まで読んだうえで行うべきだ、ということです。
 また「私はこれは差別表現だとは取らないが、これを差別だと思う人も居るハイリスクな表現であるからやめたほうがいい」という批判が今回どうなのか、について書きます。
 なお、以前の感想については、無修正で公開とします。

roughpaper.hatenablog.jp

 

 本稿は私が『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の何を読み落としていたか、に関しての文章であり、他人を批判する意図はありません(というか他人の読みについて、それに対して疑問を抱くならともかく、その存在を否定するような筋合いは、別にこの文章に限らずどこにもありません)。また、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の修正を歓迎する方への批判の意図、および修正を批判する人への批判の意図も、断じてありません。

 

①『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は差別の物語である――救いとしての眼と声

 

 大変今更ですが、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は差別について書かれた物語です。
 差別される対象とは第一にジズであり、第二に「悪魔」として幽閉されるプロメテウスです。まずは、ジズの差別のプロセスを読んでいきます。

 

 プロローグです。
 何故ジズが村から追放されるに至ったかは微妙に難しいところですが、次の二点の台詞に注目します。

 ジズ:
 ジズ、ちゃんとやるから
 「力」を…
 …こんとろーるできたら、
 帰ってきていいんだよね…?

 ジズが追放された理由は第一にメギドとしての「力」です。それを裏付けるように、

 厳しい顔をした村人:
 …体のいい追放じゃよ
 でも、やっと村も安全になる…

 と続きます。作中でははっきりとは描写されないのだけれども、ジズは故郷の村でも力をコントロール出来ずにトラブルを起こすことがあったのでしょう。

 このことは第02話・1でも、 

 

 ブネ:
 バフォメット、
 迫害の理由はなんなんだ?

 バフォメット:
 「力」である

 

 と裏付けられます。一方で、ジズの差別はそれだけによりません。同じくプロローグでは、

 陰口を言う村人:
 …悪魔の子
 なによあの耳、気持ち悪い…

 と、ジズの耳が忌避されていることが書かれます。
 つまり、ジズが差別を受けるのは「力」と「外見」の二重の条件によるものです。バフォメットが語る迫害の理由は「力」ですが、第2話で語られるジズの迫害は、「力」よりもむしろ「外見」によるものが先行しています。ジズが「力」のコントロールが付かなくなるのは、そもそも「外見」によって差別され悲しみに暮れたときなので、この順番は自然です。たとえば、第02話・2の、ジズが街にたどり着く場面です。

 ジズ:
 ま、まって…
 どうして、ジズに冷たいの
 ジズはみんなと仲良くしたいの

 街の悪ガキ:
 だってオマエ、変じゃんっ!
 なんだよ、その耳っ!
 しっぽとかキメーんだよっ!

 ジズ:
 こ、これは生まれつきなの…
 ジズがわるいわけじゃ…

 街の悪ガキ: 
 でも変じゃんっ!
 こっち来るな、あっち行けよ!

 このあとジズは彼らに金を奪われ、風の力が暴発しそうになります。その際に、

 ジズ:
 ううう…
 おとうたん…ひぐっ!
 そうだ、ジズ、笛持ってる…

 

 プロローグ、村を出るとき父親が笛を渡した場面を読み返すと、

 父親:
 違う、笛が「力」を
 起こしてるわけじゃない!
 むしろ「音楽」は
 心を落ち着けるんだ
 この子にはそれが必要なんだ
 

 とあります。つまり、ジズはこれまでも風の力を抑えられなくなったとき、笛を吹くことで感情を抑えて乗り切ってきた経験があるわけです(これはバフォメットによっても説明されます)。
 ところがその順番を入れ替えて、笛が力のキーだと考えた村長は笛を持たせないようにしています。
 この「順番を入れ替えて」というのは、さりげないですが、本イベント全編で繰り返される構造です。第一にそれはジズの過去が錯時的に語られる構造であり、第二に本来プレイヤーが出会っていないバフォメットがあたかも既に登場したかのように語られる構造です(これがどこまで意図されたものかは分かりませんが)。

 このあと実際にジズは笛を吹き、なんとか落ち着きを取り戻してロールケーキを買いに行きます。ところがロールケーキでは自分の力をコントロール出来ない事実にショックを受けます。ここで猫耳、という「外見」について店員と客の間で言及があります。
 第2話・03でもジズの放浪が描かれます。新たな街に訪れた村人の会話です。

 暇そうな人:
 …なんだい、あんた
 見慣れない子だねぇ

 迷惑そうな人:
 な、なんだか薄汚れた子だな
 親はどうしたんだ

 (……)

 警戒してる人:
 …おい、これ…
 変だぞ、なんだこの耳…
 

 

 既に複数の指摘があるように、ここで言及されるのは「見慣れない」「薄汚れた」「耳」と、徹頭徹尾「外見」についてです。
 それに対して、ジズは「声」を上げます。

 ジズ:
 そ、そんなこといわないで…
 た、「たすけて」…

 助けを拒絶され、悲嘆に暮れたジズは「力」をコントロール出来ず、街を破壊します。次の街では、


 街の人々:
 …おい、あれ…
 …悪魔の力の…
 …どこかの街を壊滅させた…
 …なんてひどいことを…

 
 ジズが差別を受ける所以はもはや「外見」ではなく「力」からに順番が変わります。故郷の村の村長が本来力をコントロールするものを順番を入れ替えて力のキーにしたように、ここでは差別の順番が入れ替っています。

 ジズはこのあと助けを求めるのが「やさしそうな女性」です。
 

 ジズ: 
 あの…
 
 やさしそうな女性:
 は!?
 え、なんで私!?
 なにか用なのっ!?

 ジズ:
 や、やさしそうだったから…

 やさしそうな女性:
 勝手なこと言わないでっ!
 迷惑だわっ!

 

 ジズは「外見」で話しかける相手を選んだ。もちろんこれは外見による差別ではないけれども、外見が最初の判断になる、というものの見方はこれまでジズが受けてきた差別の裏返しです。さて、ジズが「外見」による差別を受けるのであれば、「種族」で差別を受けているのがプロメテウスです。

 

 警備兵:
 …あんたたちは、信用できん
 …悪魔だからな

 
 もっともプロメテウスの場合は、悪魔として警戒されていても歌=「声」で好感を得ています。警備兵がプロメテウスへの差別を解消するのも、最初のきっかけは歌=「声」です。ジズが助けを求める「声」を黙殺されたのは対照的に、です。

 さっきの警備兵:
 好意は不信を塗り替える
 だからあんたたちの歌は、
 嫌いじゃない

 …聞くたびに、不信が薄まるからな
 街の人たちの反応を見てもわかる

 

 第4話の2・3でも繰り返されるのも外見への言及です。ジズがブネと接触しないのはその外見故であり、またマルコシアスが語るのは「一度見た相手であれば警戒心を解く」という悪魔狩りの経験です。何気ない場面ですが、外見と警戒心が密に結びつけられています。
 それは、ジズがまず外見から警戒されてきた流れの反復でもあります。

*1
 「外見」と「声」が、決定的に対比されるのは第5話・01のプロデューサーとプロメテウスの場面です。ソロモンがブネの叱責、あるいは激励を、目を閉じて黙って聞いていた後の場面です。

 プロデューサー:
 見た目はチャラいけど、
 結構クッソ真面目で
 精神的にもタフなやつだったな

 プロメテウス:
 ううん、泣いてた

 プロデューサー:
 ? 

 プロメテウス:
 あの人の気持ち、
 アタシには「聞こえた」から
 …泣いてたよ
 …どうしようもない悲しみで、
 押しつぶされそうな「音色」
 真っ暗闇の中で、
 叩きつけるような暴風に
 晒されてるような孤独を感じた…
 …泣いても泣いても、
 涙が風で飛ばされて乾いてく
 あれはそういう感情の音色だよ

 

 こうして引用してみると、ソロモンの心情を述べるこの部分は、ジズの心情を連想させるようなものです。 バルバトスは2話でこう語っています。

 バルバトス:
 ジズは、たった1人で
 生き抜こうと戦ってるんだ
 「この世界」を相手にね…
 俺は、俺に可能な限り
 そういうヤツに味方したい
 行こう、ソロモン

 こう語るバルバトスが、ブネと共にソロモンの「善性」を護ろう、というのはぐっとくるものがあります。もちろんソロモンは仲間こそ居ますが故郷は一度滅んでいます。世界を救うことは孤独です。「暴風」に等しいような敵も居る。あるいは救うべきヴィータの悪意に晒されることもあるでしょう。ソロモンの戦いの相手は現実的にはメギドラルですが、それは同時にハルマゲドンを巻き起こそうとする「世界」の仕組みでもあります。メインストーリー46話で言及されているように、最終的な戦いの相手は「母なる白き妖蛆」という、メギド達が知覚出来ないシステムです。 
 プロメテウスはソロモン達と一旦は別れますが、「希望」の音色を聴取し、街に戻ります。

 プロメテウス:
 増えてる!
 増えてるよ!
 人を思いやる気持ちが…!
 これを束ねれば、「希望」になる!
 アタシの歌で、それができる!
 (……)アタシわかったの!
 いい歌を歌えばそれでいいって
 ものじゃないって
 心に何かが届くときは、
 受け取る側にも準備がいる…
 それに相応しい「状態」があるの
 きっと、その「状態」を
 いっぱい生み出せることが、
 この世界の懐の広さなんだ!
 今、ヴィータたちの気持ちが
 素敵な音色を響かせてるのが、
 アタシには聞こえるの!
 ドン底の最低にあっても、
 それでもあきらめない心が…
 人を想う気持ちが…
 その「音色」を歌に乗せて、
 みんなの気持ちを繋いで、 
 ジズに届けたいの!

 歌をジズに届けるには街が騒がし過ぎる。状況の打開策を提案するのはプロデューサーです。

 プロデューサー:
 ふぅ、仕方ねぇな…
 あっちを見な、見張り台があるだろ
 あそこからなら街中に響くぜ!

 (……)

 プロメテウス:
 …………
 (さっすが視点が高い鳥だって
 言わなくてよかったかも)

 

 ジズが召喚される場面で鍵となるのは「声」です。それは第一に「みんなの気持ち」を繋いだプロメテウスの「歌」であり、暗闇から聞こえてくるソロモンの「声」です。「外見」による差別の過去に苦しみ、ヴィータ不信に陥ったジズの心を救い上げるのは「声」です。しかしプロメテウスの声が届くのはそもそもプロデューサーの「眼」があったからです。ジズを差別した「眼」がジズの救いに繋がる。あるいはジズを苦しめた非難の「声」が、プロメテウスとソロモンの呼びかけという救いの「声」に転じる。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は、災いを与える目と声が、救いへと転じる物語です。

 

②「年を取ったらキツイ」は何故モラクスの言葉なのか

 今回修正された表現について再確認します。

 

ジズ:
 こんとろーる…!
 ジズは…
 もうだいじょうぶ…なの?

 シャックス:
 でもでもー
 耳とかしっぽは
 そのままなんだねー?

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 マルコシアス
 大丈夫ですよ、
 すごく可愛いですから!

 モラクス:
 でも年取ったら、ヤバくね?

 マルコシアス
 そ…そのときはそのときです
 周りがキツくなってから、
 対策を考えましょう

 

 前回の記事で私はこの部分は先天的なジズの特徴が、後天的なアクセサリーとして変換された上で周りが「キツく」なると、エイジズムを彷彿とさせる表現をしていてハイリスクである、と書きました。マルコシアスの「周りがキツく」に対するジズのリアクションは書かれていません(もう修正されて読めないですがまず書かれていないはずで、この流れでジズが落ち込んだりしたら後味がいくらなんでも悪いです)。

 最初にこの部分を読んだときに感じたのは、同じくメギドとして村で差別を受けていて、故にジズの境遇に憤慨したモラクスがする発言としてはあまりに不用意なんじゃないか、そしてそれに同調するのがマルコシアスなのも違和感がありました。マルコシアスについては、「マルコシアスの章で行き遅れとして描かれているので、外見と年齢が結び付くのは理解出来る」という意見もあり、筋は通っているのかもしれないとは思いましたが、個人的にはちょっとしっくりこないものがあります(メインストーリーでバラムがマルコシアスの婚期についてからかっているのは確かで、ただ普段から本人や周囲がそういう言動を繰り返しているわけでもないしなあ……というところです。私がマルコシアスを推しているわけじゃないのもあるだろうけれど、それを言われて初めて「そういえばそんな描写もあったなあ」と思い出す程度ではありました)。

 この部分でまず私が最初に疑問に感じたのは、
①モラクスとマルコシアスがこの発言をするのは不自然では?
②どういう意図でこの会話をわざわざ挿入したのか?
 の二点です。

 しかし、差別というテーマに視点を絞れば、この被差別者のモラクスと「正義」のマルコシアスの発言は実にありふれたことです。差別を受け、同じ差別自体に激昂することが出来る人が、エイジズムのような別の抑圧には不用意に加担してしまう。たとえば自身が「男らしくない」と性別による抑圧を受け、他人の女性差別に憤慨したとしても、「年を取れば自然に~するものじゃないか」とか無意識に思ったりするようなことは、これは単純に責められるべきこととも言い切れず、あり得ておかしくない現象です。 
 実際「正義」のマルコシアスですら、「周りがキツく」なる、という表現をごく自然に使ってしまう。マルコシアスは自分を「正義」だと思っているだろうけれど、モラクスは自分が被差別者という認識がどこまであるかは難しい(でもマリーとの一件は確実に心の傷になっているでしょう)。とはいえ、被差別者が別の抑圧を意図せずしてしまうのは別にヴァイガルドに限らず現実にもよくあることでしょう。
 嫌な話です。でも、この嫌な重さは、ジズによる死人の存在を明確に描き出したことを考えれば、ライターが表現したい内容としてあり得たと思います。そしてもうひとつ大事なのは、この発言に対してジズのリアクションは書かれていない。ジズにとっては今現在のことが全てで、未来においてどうするかなんて考えようがない。
 ただ、この発言を聞いて(この時点で言語化出来なくても)ジズが感じるのは「私は一生この猫耳と付き合わなくてはいけないのか」という重さではないか、と思います。そしてその重い条件を実際に(まあハルマゲドンでヴァイガルドが吹っ飛べばそんな問題もないのですが)ジズは引き受けなくてはならないのです。やはりこれも、ジズによる死人の存在を描き出したのと同水準の重さでしょう。
 
 もうひとつ。モラクスの疑問自体は、ヴァイガルドというお先真っ暗な土地であれば本来は現実問題として目を外すわけにはいきません。一般に状況の悪い場ではとんでもない抑圧が平気で起こりますし、正当化されます(東京医大の一件のように)。ヴィータに対して友好的なアイムですら、「見た目が変わらない」とたったそれだけの、しかし暗い状況下では恐怖に繋がりかねない理由で迫害を受け、住まいを追い出されています。

 したがって、「年取ったら、ヤバくね?」というモラクスの問は、ヴァイガルドに生きる者として自然です。テーマとは別に、被差別者であったからこそ現実を考えずに居られないモラクスの視点のはありえるわけです(というかメインストーリーでのモラクスも現実をシビアに考えがちです)。いくら差別に憤慨していても現実の差別について意識が向く描写は、「ヤバい」という言葉選びを当のジズの前でするのは配慮には欠けるかもしれませんが、キャラクター性として不自然なものではない、と今は思います。

 したがって、何故「年取ったら、ヤバくね?」がモラクスの発言かについては、
①差別というテーマに絞って見れば、被差別者であっても無意識に別の抑圧には加担する
②キャラクター性に絞って見れば、被差別者として暗い現実を突きつけられたモラクスであるからこそ、あの明るい場面でも現実を見据えた冷めた問が湧き上がってくる
 の二点を考えます。マルコシアスが「周囲がキツく」なると発言する理由については、私は①でのみ考えます。行き遅れの設定だから年齢と外見が結びつく、という考えについては、筋は通っているかとも思いますが、感情的に同意はしにくいです(でも、それはあくまで感情です)。

 さて、修正後のシナリオを見てみます。

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 シャックス:
 そうなの?
 ジズジズが嫌なわけじゃないなら、
 よかったよかった!

 マルコシアス
 そうですね
 心配いりませんよ、ジズ
 なにもおかしくありませんから!

 モラクス:
 文句言うヤツがいたら
 俺がぶちのめしてやるってっ!

 

 シャックス、マルコシアス、モラクスと今回のイベントで問題になった(シャックスの台詞が問題になるのは私は正直よくわからなくはありますが)三人による肯定が続きます。しかし重要なのは、ここでもジズのリアクションは書かれていないことです。
 実際にはシャックスが言う通り「ジズジズが嫌なわけじゃない」かどうかはよくわかりません。というか、「年取ったら、ヤバくね?」とモラクスの現実的な問があることを踏まえると、少なくとも肯定は難しいだろうし(……なので、修正されたことでシャックスの個性が消されてるんじゃないか、という問題は実にトリッキーな形で解決されていると考えます)マルコシアスが「なにもおかしくありません」と言うのは、もちろん「おかしい」と抑圧するヴァイガルドの人々が前提にあります。
 でも現実を離れた「気遣い」としてはこれが適切です。
 モラクスの「年取ったら、ヤバくね?」は今は言わなくていい。「そのときはそのとき」なのです。このタイミングでは「なにもおかしく」ないし、「文句言うヤツ」からは守ってやる、と保護のスタンスが出て自然でしょう。ただそこには「おかしい」と思う風潮は示唆されているし、「文句言うヤツ」も想定されている、というところで、本来のシナリオの苦味を維持していると考えます。
 
③私の『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想のなにが問題なのか

 既に書いた『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想の問題点について取り上げます。
 私が「年取ったら、ヤバくね?」は削除修正すべきだ、と書いたのは、あの箇所が差別表現として読めたからではなくて(ある表現が現に差別的かどうかに対しては私は興味はないので)「差別表現として読み取って攻撃する人がいるだろうし、ハイリスクではないか」と感じたからです。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』はこれまででも最高傑作に近いシナリオであり(その理由についてはひとえに「敵」の表現によるとは書いた通りです)だからこそこんな些末な部分で批判されるぐらいであれば、もうとっとと消してしまったほうがいい、という意見でした。

 

 これは、事なかれ主義でもありますが、責任逃れでもあります。
 「私は悪く思わないけれど、悪く思うような人もいるから、そんなラディカルな表現はしないほうがいいよ。それに、別にこの部分が無くたって大して話の内容は変わらないし」という意見に過ぎません。
 何の責任かと言えば、表現の修正を推す責任です。私のこんな小さなブログに影響力があるかというと私自身は疑わしいし、また公式へ直接的に意見を述べたこともないのですが、しかし、表現が実際に修正された以上、その責任がまったくもってないかというと、断じてそんなことは言えない。
 表現の修正を推すには、相応の責任があります。

 私は小説を書いたり読んだりして、人の作品に意見したりもするのですが、基本的にテキストに対して修正変更を提案するときには、その可能性を最大限に引き出した上ですべきだと思っています。ひとつは「変えたほうがいいって、お前が読めてないだけやんけ」と思うのが普通だし、何よりテキストを書く行為自体が大変だからです。
 作品の最大限の可能性を引き出してもいないのに雑に「こんな部分はまずい」と言ってそのまま進むのは、相手が納得しているのではなくて、単に立場による抑圧である場合が少なくないはずです。テキストの最大限の可能性を吟味したうえで、それでも修正したほうがいい、というのは、これは批判をするうえで必要な礼儀ではないかと思います(もちろん他人にそれを押し付けるつもりはありません)。
 
 では、そもそも私がこの部分の意味を最大限に読めていたかというと、否です。
 具体的には、これが「差別」の物語である、という素朴な事実を見落としています。
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は議論を呼んだテキストでした。私もものを読むのは得意なほうではありませんが、あの部分について議論が巻き起こること自体、複数の意味を持ち得る証左として読んで差し支えないと思います(いや、そんなもの、こういう意味に決まっているだろう、お前が読めていない、と言われれば他に何も言いようはありませんが)。この場面の解釈について書かれた文章を複数読みましたが、どれもある程度以上の筋は通っている、という印象は正直受けます。
 
 テキストは複数の解釈を生みます。でもその広がりがまずい、今回のようにハイリスクなのであれば相応の注意は必要なはずで、たとえばバルバトスに「たとえ迫害された者であっても同じように迫害することはありうる」ぐらいの注釈は入れて良かっただろう、と思います。
 つまり、削除ではなく、追記であの部分の可能性を救う選択肢はあった。
 もし小説であれば、私はたぶんそう言っていたとも思います。よく実際に口にする言い回しであれば「この部分はテーマは分かるけれど、これだけだと意味が広がり過ぎるし、人によっては差別の現れだと受け取りかねないから、言い訳じゃないけどちょっと注釈を入れたほうがいい」というところです(文面で書くと実にアホですが)。

 また、私が「被差別者もまた差別をし得る」というテーマの表れだ、と読んでいるのも実のところこのシナリオに直接書かれていないテーマに過ぎません。それは擁護であっても「差別表現はいかなるものであっても作中の主人公寄りのキャラクターにはさせるべきではない」というぐらい、テキストの中身と本来無関係な発想と個人的には思います。なので、本来は削除よりも注釈、のほうが望ましかったような気はします。
 ただし、それは今だから言えることで、そもそも差別と被差別の物語である、という事実を読み落としている時点で、確かにハイリスクな表現ではあるにしても、あまりに性急でした。
 
 もうひとつの問題点は、「ハイリスクだから止めたほうがいい」に底流する萎縮の論理です。
 これは「無難なことだけ言っておいたほうがいい、というのでは書けるべき内容が狭まるのでは」という問に関するものです。リスキーな表現でしか書けない場面自体そんなに多いとも思わないのですが、もし読み手に違和感を感じさせる(さらに外傷経験があるような人にかなりのダメージを与える)リスクを承知でするのであれば、話はまったく変わってきます。「リスクを承知でやっています」に対して「ハイリスクだからやめたほうがいい」というのは、単純に萎縮を強いる論理でしかありません。
 
 大多数の人とは無関係な、まったくもって個人的な感情ですが、これだけの傑作シナリオを書いたライターさんが、単なる不注意であんな場面を入れたわけではなかった、と一歩踏み止まれれば良かったなあとすごく後悔しています。これだけの作品を書いている以上、やはり何らかの意味はあるはずだという眼で見ていれば、拾い上げられた可能性があった(もちろん注釈無しの現状では妄想に等しい読みですが)。だって、もしこれで今後ライターさんが萎縮することがあれば、その責任の一端がないとは断じて言えない。
 言えない、どころではない。ある。
 あると見なせないのなら、そもそもそんな文章を長々書くべきじゃない。
 そこで「結局修正したほうがいいと判断したのは公式だったんでしょ?」と私が言うのは、それは単なる後付けの正当化です(他人が同じことを言うのはどうでもいいです)。表現の修正を推す側として意見することには相応の責任があって、たとえば作品を酷評した相手が小説を書けなくなるとか(私も忘れているだけでそういう最悪なことに加担していたに違いありません)書いた側の心を破壊するぐらいのリスクはある。

 私自身、作品を否定される側に回って渋い思いをしたことは何度かあります。そういう否定をされて苦い思いをした自分が、別の作品に対して同じような否定を繰り返す。それは差別ではなくて単なる否定だけれど、その反復について考えたとき、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のあの場面は、かなり重い気持ちで読み返さずにはいられません。長くなった上に余計なところが多い文章になってしまいましたが、以上です。(了)

 

note.mu

 なお、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』が差別の物語である、という事実を気付かさせてくれた文章は上記リンクです。紹介を許可してくださったモ。さんに深く御礼申し上げます。

*1: なお、シャックスの台詞修正を受けてバルバトスが「裏表がない」というのは、「外見」ではない部分についての言及であって、この場面は単に差し替えという以上に、流れに沿った優れた台詞です(私はシャックスの台詞は修正不要と感じていましたが、それとは別に、このバルバトスの台詞は物語に沿った形と考えます)。吟遊詩人、「声」の人であるバルバトスが、「外見」による差別を織り込んだジズを巡る計画を見抜くのもよく出来た流れだと思います。

メギド72『嵐の暴魔と囚われの騒魔』秀逸なシナリオと一個のミス

 今回はメギドのシナリオ『嵐の暴魔と囚われの騒魔』の感想、および表現面での指摘です。

A.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』が優れたシナリオである、ということを説明します。
B.『嵐の暴魔と囚われの騒魔』において問題とされ得る、二点の表現の吟味を行います。

①『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は第一に優れたシナリオである――特に「敵」の表現において

 まず初めに、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』はこれまでのメギド72のイベントシナリオで最も秀逸なもののひとつであった、と主張します。特に素晴らしかったのが敵の表現です。これまでメギド72は複数のイベントを開催してきましたが、いずれも「メギドラル本編に比べてアホ過ぎない」と突っ込みたくなるほど、敵の表現については本編ほどの精彩には乏しかった印象があります。

 それはおそらく、メギド72のコストカットに由来します。メギドは基本的に敵として登場したモデルは味方キャラか(最近は少なくなってきましたが)オーブとして再利用していて、モデルの製作コストを考えれば当然のことです。
 そしてそれ故に、「今後仲間になるメギドがあまりに悪辣なことをしにくい」という制約があります。
 メギドの常套句(嘘です)のひとつに「どのツラ下げて仲間になったんだ」がありますが、たとえばデカラビアとフォルネウスはその代表例で、もし仮に彼らがイベントで登場して村人を虐殺したうえで仲間になったとしたら、プレイヤーとしてはかなり微妙な気分になったと思います。。
 『鎮魂の白百合・プルフラス』(これも傑作)におけるサタナキアは、アシュレイをめぐる情念の書き込みを以て「アシュレイを殺害しているが仕方なかった」と思わせる、巧みな描写をしています。
 四冥王はそもそもガープの仲間だし、アラストールは作中でモブに慕われてすらいます。
 カスピエル、インキュバスメフィストの三馬鹿については後述します。
 
 特に興味深いのが今後仲間になるであろうガギゾンで、イベント自体のトリックスターとして用意されたキャラクターでもありますが、実際にやっていることはメギドの範疇では案外無難で、物語の結末で罪深さが軽減されています。『上書きされた忠義』のブニが洗脳を解かれずに人格崩壊していたり、『二つの魂を宿した少年』のシャミハザがジルの魂を殺した、なんて流れがあればガギゾンはまさに「どの面下げて仲間になったんだ」で、実際にはブニは問題なく洗脳を解かれた上にブネの格好良い見せ場を作っていますし、ジルとシャミハザは大変な仲良しです。
 これは今後仲間になるうえであまりに酷い振舞いをさせるわけにはいかない、というユーザーの感情に配慮したシナリオ構成であり、それ故に今後もガギゾンの行動は基本的にヌルいことが予想されます。

 したがって、メギド72のイベントシナリオにおいては、「敵」はしばしばキャラクター性の乏しい幻獣(ドネルケバブ、古き災厄の魔女)か、やむを得ない事情で「暴走」したメギド達(アラストール、ジニマル、ブニ)に設定されている場合が大半です。最後まで正気を保って対立したのはサタナキアのみで、それも作中で殺されたかった、と心情説明が明確にされています。
 基本的にメギドの「敵」には仲間に出来るだけの「ヌルさ」が必要なのです。
 ヌルくないことが発覚しても、それは仲間になった後でなくてはならない、という原則があります。そうでなければ、仲間にする=ガチャを回させる意欲が普通は無くなってしまうわけで、それは商売の観点からよろしくない。
 そしてその制約故に、メギドのイベントは「敵」の描写に苦労させられてきました。本編のメギドラルがかなり強烈な悪意をもって行動してくるのに対して、イベントシナリオのメギドラルはどれもポンコツにせざるをえなかったのが実情だと思います。
 
 「敵」がポンコツの上で盛り上げる物語は非常に難しいです。張り合いがないから。それ故に、メギドのイベントシナリオは、しばしば「敵」の脅威に打ち勝つソロモン、というクライシスとは別の形で盛り上がりを描こうとしてきました。そして、その面倒な条件にもかかわらず、概ねメギドのシナリオは面白く書かれています(すごいです)。たとえばその代表格は物語としては誤解の解消と和解がすべての『死者の国の四冥王』で、メギドのイベントシナリオらしい、非常に穏健な出来栄えです。一方で、敵の意思が明確な『復讐の白百合』は、面白さのベクトルが(同じ感動ものでも)違ってきます。
 
 『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は、この「敵」の表現で極めて優れていました。ジズがヴァイガルドに追放された理由は実に陰険で、作中で描かれる悲惨な放浪の細やかな描写もあって、ぞっとするぐらい怖いメギドラルです。
 また、ソロモンでは救えない、最後の最後まで勝算が無いんじゃないか、そんな状況のスリリングさも凄まじかった(状況の危うさに匹敵するのはジニマルですが、ジニマルは「敵」が曖昧な自然現象のような幻獣であっただけに、その脅威はより強いです)。なにせソロモンが本当に「殺すしかないかもしれない」と思うところまで来ていて、それだけ「敵」の悪意が凄い。そこを成功に着地させるのがヴァイガルドの人のささやかな善意とプロメテウスの歌なのも、散々ヴィータの悪意を描いただけにグッと来ます。
 キャラクター描写のうえでも、化け物として村で虐げられていたモラクスがジズの境遇に激昂する、戦争の現実を突きつけつつ汚れ役を自ら引き受けようとするブネ、そしてバルバトス、と秀逸な要素が多かったと思います。
 ソロモン一行では打開出来ない状況(プロメテウスの幽閉)を、バフォメットという「悪」を連想させるキャラクターに解決させたのも上手い展開だし、胸糞の悪い描写をジズの放浪を通して描きながら、最後に親子再会を示唆するハッピーエンドに導きつつ、それとなくバフォメットが死者の存在をソロモンに耳打ちする、実に引き締まった終わり方です。敵の悪意の凄まじさ、そして単なるハッピーエンドではない、苦味をわずかに漂わせた終わり、この二点において、今回のイベントはメインストーリーに似たベクトルでの秀逸さがあったように思います(そしてそれ故に、化身舞踏のアレンジBGMを初めて聞いたときは難易度にかかわらずものすごく興奮しました)。
 私は傑作だと感じています。
 
②『嵐の暴魔と囚われの騒魔』と『ソロモン誘拐事件・逃亡編』について

 しかし一方で、『嵐の暴魔と囚われの騒魔』においては、ハイリスクな表現があるのは確かです。
 少なくとも一個の部分においては問題だと感じます。
 
 まず私はライターの倫理観に基本的に興味がなくて、たとえばキャラクターが倫理的に問題のある発言をしたからといって、ライターの倫理観に問題がある、という思考の型については同意しません。
 そもそもメギド72は「クズ」も容認する「多様性」をテーマに組み込んでいるので、実は「全てのキャラクターは正しく倫理的な言動をすべきだ」という前提が強い場合は、メギド72のシナリオはかなり受け入れ難いものになり得そうなものです。しかし実際にはそうではなくて、そういうタイプの批判をする人でもメギドはある程度楽しくプレイ出来るようなシナリオになっています(多様性か)。

 実はそれもそのはずで、メギドのメインキャラ、つまりユーザー全員が読まずには居られない部分のキャラの発言においては、基本的に無難な発言しかしていません。口の悪いバエルも実際大したことは言っていないし、シャックスも味方やプレイヤーの感情を強烈に踏みにじるような発言は基本的にしていなかったはずです(このあたり私はシャックスの言動に強く注意するほうではないので、もし違っていたら教えてもらえると大変ありがたいです)。
 メインシナリオに登場しないデカラビアやフォルネウスといったキャラクターも、基本的にソロモンに対しては(過剰なぐらい)友好的ですし、フラウロスについても同様です。
 このあたり、実はメギド72には、

①倫理的に問題ある発言(現実のプレイヤーを含めて他人を傷つけるような言動)はしない
ヴィータ=プレイヤーの倫理的感性とは異なるが、それが自然と思わせるようなキャラ描写・説明がある
③対外的にはかなり問題があるが、少なくともこちらに向ける言動ではヴィータ=プレイヤーの神経を逆撫でしない

 という三パターンに分かれた発言の型があります。フォルネウスがキャラストで邪悪なシムシティのついでにソシャカスを揶揄するような邪悪な集金システムとか始めたら最悪です(メギドのガチャは無難な範囲ですが)。
 また、破滅的な状況に陥っているヴァイガルドでは、本シナリオのような陰惨で非倫理的な事態が起きるのはごく自然なことです。メギド達が同じように非倫理的な言動を繰り返すのでは救いがなくて、むしろそのような環境であるからこそ、彼らが倫理的に問題ない、人を傷つけない言動を遵守することは、一定層のプレイヤーにとっては重要なのだろうと思います。だからこそメギドがいちばん注意深く取り扱っているのは「クズ」です。彼らは多様性を担うキャラクターとして当然非倫理的な言動をしなければならない。けれどもそれが現実のプレイヤーに不快感を抱かせることは避けたい。
 この微妙に難しいラインを、メギドのクズは強いられています。

 それがもっとも難しかったのが、おそらく三馬鹿だったと思います。フォルネウスがヴィータの救済は死しかない、と言ってもそれは所詮他の村のモブの悲惨な事件であって、プレイヤーを直接傷つけるような言動はありません。それに対して三馬鹿は物凄く取扱いが難しいキャラクターで、「女性を利用する対象としか見ていない」なんて強烈な設定を与えられているからです。性的搾取を常態にしてるWD配布キャラっていくら多様性でもチャレンジがハイリスク過ぎるだろ。しかし実際にはこの設定は、

①カスピエルは仲間になった瞬間にソロモンに異常に執着し、過去のアーバインへの思慕を見せる
インキュバスには小学生のようなアホな言動を繰り返させる
メフィストはキャラストでハーゲンティとシャックスと仲良くする
 
 この三点で毒抜きが試みられています。この三人のなかで一番性的搾取を露骨にしているのは手段が見えないカスピエルではなくインキュバスだと思うのですが、個人的にはカスピエルのほうがその印象は強いです。カスピエルの変わり身はあまりにメチャクチャですが、実際にソロモンへの執着無しで「もっと女がひっかけやすくなった」とか「どの女を使おうかな」といった言動を繰り返しているとなると、使うのに抵抗の強いプレイヤーは居て自然だと思います。言動ではカスピエルのほうが強烈だけれども、手段としてはインキュバスのほうが露骨である。仮に嫌われるとしても一人にヘイトが集中しないような仕組みにもなっているんじゃないかと思います。

 毒抜きがうまく出来ているかどうかはともかく、少なくともそうした試みがありそうだ、ということです。その毒抜きがされていない、ファーストコンタクトとしてのイベントストーリー『ソロモン誘拐事件・逃走編』に一部から賛否両論があったのは確かですし、女性を操って盾にする展開に一部のプレイヤーが傷つくリスクがあるのは否定出来ません。何故ならそこに描かれているのは、どうしようもなく単純な性的搾取だからです。更に言えば、インキュバスに対応するサキュバスが男性を搾取するような描写が無かったのもあるかもしれません(じゃああったら良かったかと言うと私は嫌です)。

 非常に長い前置きになりましたが、では『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のハイリスクな表現を確認します。
 リスクとは、人を傷つけ得るリスクです。
 
③『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のハイリスクな表現――しかしそれがすべてではない
 
 批判を受けていた描写は、見た限り2点です。
 うち1点は訂正したほうがいいだろう、と思います。そちらを先に挙げます。

 A.

 ジズを召喚した直後の会話です。

 シャックス: 
 でもでもー
 耳とかしっぽは
 そのままなんだよねー?

 ジズ:
 これは…
 うまれつきだから…

 マルコシアス
 大丈夫ですよ、
 すごく可愛いですから!

 モラクス:
 でも年取ったら、ヤバくね?

 マルコシアス
 そ…そのときはそのときです
 周りがキツくなってから、
 対策を考えましょう。 

 これは確実にハイリスクだと思います。猫耳は先天的だ、とジズが説明しているにもかかわらず、モラクスの「年取ったらヤバくね?」を受けてマルコシアスが「周りがキツくなる」と表現する。要するにマルコシアスの発言は後天的につけるアクセサリーとしてわざわざ変換しているうえで、そのうえで加齢と「キツイ」を組み合わせ、しかも人によってはギャグと取りかねない小休止でやっているので、エイジズムと読まれても言い訳が出来ない。
 つまり「年甲斐もなくそんな恰好をして」という抑圧を連想させるわけです。
 モラクスが「周りがキツくなる」と考え無しに言うならまだしも(脳筋の範疇として無理に考えられなくもないので、ただモラクスは無思慮ではないと思うのですが)マルコシアスにこれをやらせるのは猶更わからない。
 そして別にここの発言はさして会話において重要な部分でもないわけで、「あってもなくてもどっちでもいい部分」で「ハイリスクな言動をさせる」のはやはりリスキーです。
 裏返せば、この部分は消したところでさして会話に影響がないので、消したほうが無難だと思います。

 それによってキャラクターの描写が色褪せるとか、そういうデメリットも感じられません。
 
 次を批判を目にしたものの、これに関しては問題としてのリスクは感じなかった、という描写です。
 ただし別の問題は感じます。具体的には、シャックスの取り扱いの難しさです。

 B.
 4章3節ジズが荒野にてソロモン王と対話するのを、仲間たちが見守る場面です。

 マルコシアス
 うまくいきそうですね! 
 ソロモン王1人で
 接触させる作戦は成功です!

 シャックス:
 さすがモンモン、
 やるもんですなー!
 子供をさらうプロになれるネ!
 
 バルバトス:
 なんて人聞きの悪いことを
 言うんだキミは…

 この「子供をさらうプロ」はシャックスの非倫理的言動です。もっともこのあと、マルコシアスの「初対面の人よりも、見たことある人のほうがいくらか警戒心は和らぐはずです」という「悪魔狩り」の経験で得た発言について、バルバトスが「その発言、よく考えると逆に怖いんだけど……」とコメントしています。
 マルコシアスが意味する悪魔狩りとは、追放メギド、つまり同胞を狩っていた経験であり、そのときに「見たことある人」としてある意味騙し討ちに近いことをした。だからこそバルバトスは「怖い」発言だと認識しているし、「子供をさらうプロ」は勿論「人聞きの悪いこと」であり、このマルコシアスの騙し討ち共々「怖い」ニュアンスのうちに含まれる、と読みます。
 シャックスの非倫理的な言動は、作中において非倫理的であると、はっきり説明されています。
 そもそもシャックスは元々爆弾発言をするキャラクターだし、唐突なものとも感じません。
 この「子供をさらうプロ」はエンディングで反復されます。

 シャックス:
 さっすがモンモン、
 やるもんですなー!
 子供をさらへぶぅっ!?
 
 バルバトス:
 …キミ、少し空気を読みなさい

 ここでもバルバトスは倫理的にシャックスを戒めているわけで、「非倫理的な軽口を放つシャックス」「倫理的に諫めるバルバトス」というごく自然な描写をされていると思います。この場面でのシャックスにこう言わせることに、少なくとも消したほうがいいメリットは私は感じません。子ざらいという人権を蹂躙するような行為を軽口で放っているのは問題だと指摘は出来るかもしれないけれども、腐ったフォトン袋の時点で十分非倫理的では。
 
 実はこの描写が問題視されるのは、そもそもシャックス自体の扱いが非常に難しいことにあるんじゃないかと思います。トラブルメーカーの鳥頭設定がある以上、シャックスがプレイヤーに向けて活躍出来るのは「予想外の、だれにも出来ない発想」をする場面が第一なのですが、このパターンは書き方が硬直しがちなので繰り返し使いにくい。
 もっともジズは人によっては扇情的なキャラクター造形には見てもおかしくはないので(あんな悲惨な境遇を見て扇情もへったくれもあるかとは思いますが)そこと「人さらい」は厳しいマッチングではあるかもしれません。
 そこに性的搾取、のようなものを読むことは可能、なのかもしれない。でも一般的ではないんじゃないかな。

 基本的にメインシナリオはずっと状況が緊迫しがちなので、シャックスが間を抜けたことを言った程度では空気が緩んだりもしない。鳥頭! って連呼される描写が続くのは多少は仕方ない気もします。モラックスだー!! なんて秀逸な描写はあるけども、「実は学生で頭がキレる」という設定と鳥頭設定の食い合わせがかなり悪い。不憫です。
 なんか、普通にシャックスが誰かを思いやるような話とかメインストーリーとかでもっとないかなあ。出来なくない気がするんだけども。今のままだと、非倫理的な言動だけが持ち味になっている、と受け取る人はいそう。
 私はシャックスが推しではないけれど、人によってはつらくなっても仕方ないかなあ、と思います。
 
 私が確認する限りでは『嵐の暴魔と囚われの騒魔』のシナリオを批判可能な点はこの2点に限られると感じます。
 Aは確実にまずい。でもBはシナリオではなくてキャラクターの活用法がまだ模索され尽くしていない、という印象を受ける。したがって、後者についてはこのシナリオに限ったことではなくて、このシナリオ単体だけでは修正が困難な問題です。一方前者は修正(削除)したほうが確実にメリットがある。

 なぜこんなオタクの「お気持ち」を連想させるような七面倒くさい文章を書くかというと、まず何より『嵐の暴魔と囚われの騒魔』は優れたシナリオだからです。私はこれまでで一番の傑作だと思っています。それを、こんな簡単に削除出来るようなミスひとつで「シナリオに問題がある」などと言われるのは、正直かなり残念です。
 勿体無さすぎる。そんな批判で簡単に崩れるようなシナリオであるはずがありません。あっていいわけがない。

 本当のところを言えば、部分ひとつの間違いで全体全てを批判するのは、物事の吟味としては問題があると感じます。一方で、大まかには問題がないからといって、細部の問題に目を閉じるのもそれは違う。
 Aの描写は迂闊です。非倫理的な言動をするときは必ず注意を集中させているメギド、らしからぬミスだと言ってもいい。でもそれがすべてではない。Aの描写は、シナリオ全体を称賛するにしても、私は削除すべきだと思います。
 でもそれがすべてではない。そのごく僅かな部分を削除したところで全体が台無しになるわけではない。そこさえ無ければシナリオとしては本当によく出来ているのだから、さっさと消してしまったほうがいい、と感じます。
 
④リスクの意識は本筋よりもむしろ細部において重要なのかもしれない

 ここまでがあまりに長過ぎたので、最後は軽く終わらせます。
 今回『嵐の暴魔と囚われの騒魔』で問題になったのは「年甲斐もなくそんな格好をするのはおかしい」とよくある抑圧で、場合にもよるだろうけれど、人を傷つけ得る言動として取り上げられても不自然ではないと思います。
 私はそういう言動で傷ついた記憶はないけれども、それで傷ついた人がいるのは想像出来る。
 人が問題視する言動のひとつは過去の傷を再現し得るものです。もちろんそれ以外に、「理不尽な抑圧」を共通項として括って反応する場合もあるだろうけれども、そうしたハイリスクな表現が、本筋ではなくて細部でされる場のダメージは一般に大きいような気はします。
 女性の性的搾取をメインに露骨に打ち出したコンテンツは、そういうのが無理な人は受け取らないほうが自然でしょう(もっとも広告の問題はあります)。そういう見た目をしていなくて、唐突にそれが飛び出してきたとき、傷の再現は起こりやすくなる。それが本筋であれば、人は完全に拒絶することが出来る。また本筋ならそれなりの救済が来る場合も少なくありません。今回のシナリオで虐待のトラウマが惹起された人はいるかもしれないけれど、それはある程度物語の結末で救われるんじゃないか、ではもちろん、あまりに甘くて無神経だとは思うのですが。
 でも不用意な細部ではそれは難しい。だから、細部に傷が呼び起こされたとき、人はそれを救い得ない全体を急激に否定するのかもしれない。なら、それを「読解力がない」とか「問題の一部でしかない」とかいう気にはなれない。

 ともかく不用意な細部はハイリスクだと感じます。昔読んだ文芸の小説で、義理の兄に性的虐待を受けて妊娠した女性が、そのレイプに快感を覚えていた、と手記に記述している場面があり、これはちょっとどうなんだ、と感じたことがあります。オタクコンテンツに限らず、傷の惹起が生じやすく、また注意を払うべきは、本筋ではなくて細部なのかもしれません。
 長くなりましたが、以上です。

東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』読売文学賞を受賞した最高に切ないBL

 東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』は2018年の読売文学賞受賞作で、しっかりした文学賞なのですが、選考委員に腐女子でもいたのか? ってぐらいオタクのツボを完璧に突いた超良質の泣けるメリバBLなので紹介します。
 とにかく49歳直木賞作家おじさんの腐女子の才能がすごい。
 文章はかなり読み易いので、300ページ以上はありますが1-2日で読めると思います。
 被虐待ショタ、義兄弟、同性間の重い情念が好きなオタクにもオススメ。
 ただし本作はミステリ的要素を少量ですが含んでおり、中盤でのあるどんでん返しが小説の勘所のひとつだったりするので、そういうのが気になる人は全部は読まないほうがいいです。

僕が殺した人と僕を殺した人

僕が殺した人と僕を殺した人

 物語が始まるのは2018年のアメリカ、デトロイト。少年を7人殺したアジア系アメリカ人の連続殺人犯「サックマン」が逮捕され、極刑はまず免れない中、同じく東洋系の国際弁護士「わたし」が弁護に向かいます。
 「わたし」は敏腕弁護士なのですが、なぜ彼が絶望的な裁判を引き受けたのか、というのは後で明かされます。
 同時に進行するのは1984年、台北の十三歳の少年、漫画の大好きな優等生「ぼく」ことユンの語りです。「ぼく」の兄は若くして事故で死亡し、弁護士である父は鬱病になった母を静養目的でアメリカへ連れていきます。「ぼく」は幼馴染の「アガン」の両親に預けられ、父母の帰りを待ちます。アガンには暴力をためらわない不良の兄弟分「ジェイ」と、弟の「ダーダー」がいます。
 デトロイトの物語は、「わたし」とサックマンの二人。台北の物語は、ユンとアガン、ジェイ、ダーダーの四人の物語です。このうちの誰かがサックマンと「わたし」だというわけです。
 
 アガンの母は父から別の男に乗り換えつつあり、ジェイは義父から虐待を受けています。そんなわけで家庭環境のよろしくない少年たちが暗い時間のなかでワイワイするのが前半部です。ジェイとアガンは優等生である「ぼく」が気にくわずにボコボコにしたりするのですが、互いの傷を感じ取ってか、わりとあっさり仲良くなります。

 ぼくはアガンとジェイと四六時中つるむようになった。ぼくとジェイは仲直りしていた。あれくらいの喧嘩ならジェイにとってはちょっと肩と肩が触れたようなもので、悪かったな、いいさ、で済む話だった。というか、それで済ましてやろうという気にさせられる屈託のなさが、ジェイにはあった。
 ……ジェイといると、兄の言っていたことがすこしわかるような気がした。細かいことを言ってちゃだめだ、それが男同士の付き合いってやつさ。いったん打ち解けてしまえば、ジェイは遺憾なく大陸の血を発揮した。すなわち仲間の仲間は全員仲間、仲間の敵は全員の敵、というのがぼくたちの掟だった。(p.50)


 義兄弟好きにはたまらないですね。
 ジェイは一度暴力に走ると止まらなくなるヤバい不良ショタですが義に厚く、アホンの母親が水商売務めだったことを馬鹿にした大の男をやりこめたりします。妹が四人の不良に囲まれたときは単身で挑みかかります。

 ぼくたちの声援がとどいたかどうかは知らないが、ジェイは臆することなく戦った。いくら喧嘩が強いといっても、相手が四人もいたんじゃ勝ち目はない。ぶちのめされ、蹴飛ばされ、踏みつけられても、あいつは不倒翁(おきあがりこぼし)みたいに立ち上がった。ついに先生たちが駆けつけ、不良たちが捨て台詞を残して逃げ去ると、妹たちが泣きじゃくなりながらジェイにすがりついた。あいつは顏を腫らし、傍目にも立っているのがやっとのくせに、妹たちの頭や背中を撫でてやった。もしも人生で学ばなければならないものが勇気だとしたら、ジェイは小学校四年生のときにはすでに免許皆伝の域だった。(p.71)


 イケショタです。アニメ化したらたぶん細谷佳正田村睦心が声当てると思います。
 あるいは「ぼく」は、人形師であるジェイの祖父が神に奉納する人形劇をする直前で熱射病で倒れたとき、咄嗟に自分がやると言い出したりします。

 アガンがぼくを脇にひっぱっていった。「なんだよ『冷星風雲』って? おれらにできるわけねえだろ!」
「いや、やるんだ」
「布袋劇のことなんか、なんにも知らねえだろうかず」
「それでもやるんだ」
「おまえなあ……」
「ジェイのうちはこれだけで食ってるんだろ?」
「そりゃそうだけど!」
「ぼくたちがやらなきゃ、あいつはまた親父に殴られるかもしれない」
(p.58)


 義兄弟は最高ですね。この「冷星風雲」というのは中学生で『AKIRA』が大好きな「ぼく」の創作ファンタジーで、兄をヴィランに殺された少年が敵討ちに挑む、という話です。ちなみにジェイは『AKIRA』では鉄雄に例えられます。救急車に祖父と乗り込んだジェイをよそに、ぼくとアガンは無事場をしのぎ切ることに成功します。

 数日後、ジェイに誘われて龍山寺に参った。
 ぼくたちは關帝炉に香を立てて合掌した。ぼくとジェイとアガンはそれぞれ劉備関羽張飛になったつもりで『三国志』の桃園結義の真似事をした。「我ら三人、同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せんことを願わん」という例のあれだ。
 義が結ばれると、ぼくたちは顏を見あわせてにやにや笑った。(p.62)


 義兄弟は最高ですね。ぼく、ジェイ、アガン兄弟の四人は台北で流行していたブレイクダンス(映画の「ブレイクダンス」によるブームでした)にはまったり、そのために一緒にナイキのスパイクを盗んだりして友情を深めます。
 あとブレイクダンスを人前で踊ったらレイプされかけたりします。

 新公園と紅樓のあたりが同性愛者のたまり場だということは知っていたけれど、同性愛がなんなのかはよく知らなかった。大人たちからはとにかく紅樓に近づくなと言われていたので、ぼくたちはいっぱしの大人になったつもりで敢えてそこを晴れ舞台に決めたのだった。
 ……ぎくしゃくとロボットになりきっていたぼくは、見物人の輪がだんだん狭まってくることに気づかなかった。で、気がついたときにはもうダーダーが敵の手に落ちていた。
 赤煉瓦の壁に押しつけられたダーダーは、棒みたいに身を固くして男たちにあちこち撫でられていた。あまりにも信じ難いその光景に、ぼくはガソリンが切れたロボットみたいに動きを止めてしまった。目はダーダーのベルトをはずそうとする男たちに釘付けだったが、それはアガンとジェイもおなじだった。ぼくたちは指をくわえてダーダーを見殺しにしていた。
 お尻をむんずと摑まれて、ぼくはぴょんっと跳び上がってしまった。ふりむくと、鳥打帽をかぶった男が金歯を見せてにやりと笑った。台湾語でなにか言われ、まったく聞き取れなかったけれど、全身に鳥肌が立った。
「幹(くそ)!」ジェイがべつの男を蹴りのけていた。「なんだ、こいつら!?」
「林立建!」アガンが弟の名を叫んだ。「こっちに来い!」
(……)
「くそったれ!」四方八方からのびてくる手をジェイが払いのける。「おれに触るんじゃねえ!」
(p.81)


 いくら1984年のスラムでも本当にこんなところあるのかよって感じですが、商業BLだったらありそうな展開なので、たぶんそういうことなんだと思います。ダーダー含めてみんな無事に逃げ延びます。
 義兄弟が最高なのですが兄弟も最高で、アガンはダーダーのことをウザがってはいますがクソ好きだったりします。ダーダーが見慣れぬ時計(母の浮気相手で、後に兄弟の義父になる男からの贈り物です)をつけているのを見たアガンは、彼が盗みをしたと勘違いしてブチ切れます。

「盗んだんだな、この野郎!」アガンはぼくを撥ねのけてダーダーに掴みかかった。「いいか、おれが悪いことをするのはおれが馬鹿だからだ」
 ダーダーは体をよじって逃れようとしたけど、アガンの力は強かった。
「だけど、おまえはちがう」
「は、放せよ――」
「おまえは頭がいい」
 ダーダーの目に涙がふくらんでいく。
「おれの真似なんかすんな」弟を突き放すまえにアガンはそう言った。「今度ものを盗んだらぶっ殺すからな、わかったか」
(p.89)

 兄弟も最高ですね。
 さてそんな仲良し義兄弟三人の関係が変わるときが来ます。ブレイクダンスで盛り上がりまくった夏休みの終わりにアガンの母親が蒸発した日に、ぼくは国際電話で両親が帰国してくることを知ります。ぼくは父に頼まれて、ジェイと共に空気の入れ替えのため実家に帰り、マイケル・ジャクソンのPVを見ながらダンスの練習をします。
 ぼくとジェイの関係が決定的に変わるのはその場面です。

 ビデオを何度も巻き戻してマイケルの動きを研究し、自分たちなりに改良を加え、ゾンビのように右肩だけをひょうひょい持ち上げながらポジションを入れかえる練習をした。一時間ほど汗まみれで踊ったあと、ジェイがぼそりと漏らした。
「ふたりだけで練習してても意味ねえよ」
「そうだな」
「アガンとダーダーもいっしょにあわせなきゃ街では踊れねえだろ」
 虚無感に襲われたぼくたちはソファに身を投げ出し、流しっぱなしのビデオをぼんやり眺めた。
 ぼくはアガンの母親とあの男がいっしょにいるところを想像しようとしたけれど、大人の男と女がいったいなにを遊ぶのかは想像もつかなかった。マイケル・ジャクソンのMVが終わり、『閃光』(フラッシュダンス)のMVにかわっていた。黒いレッグウォーマーをつけた女性が、ダンススタジオのなかを自由な小鳥みたいに跳びまわる。何度も見たビデオなのに、いつ見ても彼女のレオタード姿に見とれてしまうのだった。青いスポットライトを浴びたシルエットが背中を反らせ、その素晴らしい肉体に水が勢いよくかかる。それはあのころのぼくが知るもっともエロチックな場面だった。
 と、ジェイの顔が視界をふさぎ、彼の唇がぼくの唇にちょこんと触れた。
 ほんの一瞬だった。
 ジェイはソファに背を戻し、ぼくたちは何事もなかったかのようにテレビを見つづけた。ダンサーの女性がダイヴしてバックスピンに入る。軽快に足踏みをする彼女のお尻が画面いっぱいに躍動していた。
「あっちの女って」粘つく口をどうにか開いた。「尻を出すことに抵抗がないみたいだね」
 ジェイは黙りこくっていた。
 だからぼくも口を閉じて、片脚でくるくるまわる裸同然の女をにらみつけた。女性の自由と露出度は比例しているんだ、と言われているみたいだった。
「なに、いまの?」
 やはり返事はない。
「もう二度とするなよ」
 腹の底からわけのわからない怒りがこみ上げてくる。両親がアメリカから帰ってきて、これからなにもかも上手くいくはずの人生にケチがついたような気がした。
「いいか、二度とだぞ」
 ぼくたちは断固としてテレビに顏をむけていた。
(……)やがてジェイが立ちあがり、ひっそりと帰っていったあとも、ぼくはテレビのまえから動けなかった。
(p.115-117)

 商業BLの1話かよ。ここで「人生にケチがついたような気」がするのは同性愛自体への抵抗感もあったでしょうが、レイプされかけたのを思い出したんでしょう(なのであれは商業BLだからではなくて実に巧みな伏線です)。ぼくはジェイを「なにも言わないのは不公平」「敢えて弁解しないのはこっちを軽く見ているからだ」「ああいうことがあったら非のあるほうが歩み寄るべき」だと憎み、暴行を加えます。商業BLだったらソロで喧嘩して最終的には絆されるところですが、ぼくはアガンと共に暴力を振るいます。初恋の相手に「おまえ、ちんこが吸いたいんだろ!」などと散々に罵られ、わざと喧嘩に負けて号泣するジェイの描写は本書で二番目に泣ける場面です(ここは実際に読んでほしいので引きません)。もっともぼくとジェイは、だからといって友達の関係を解消したりはしません。「このまえはおまえとアガンにやられたからな。これで恨みっこなしだ」と「共謀して喧嘩の理由をすりかえる」ことで、互いに嘘の笑いを交わします。
 商業BLの2話かよ。

 1948年の冬、ジェイが義父の暴行で入院します。普段から虐待を受けていたジェイが入院するほどの暴力を被ったのは、ゲイの大学生と関係していることを父に知られたからでした。
 

「おれたちはガキで、世界はガキの思いどおりになんかならねえんだ」
 かえす言葉がなかった。
 ジェイの存在がひどく遠かった。遠すぎて、いままで一度だって近づいたことなんかないみたいだった。手をのばせば触れることができるほど近いのに、それはなにものも寄せつけない遠さだった。もしかすると、と思った。ジェイが継父に殴られるのは、この遠さのせいなのかもしれない。
 あの夜のことが頭をよぎる。ぼくにキスをしたとき、あのときだけジェイはとても近かった。近すぎて、腹だたしいほどだった。ジェイはぼくに近づこうとした。とんでもなく不器用なやり方で。ぼくになにができただろう? こいつを受容も拒絶もしないやり方が、正しい答えがどこかにあったのだろうか?
(……)アメリカンポップスは終わり、ベッドの上からジェイがおだやかな笑顔をふりむけてきた。
「バレたんだ」
 ぼくとアガンは顏を見あわせた。
「バレた」その声は耳をふさぎたくなるほど静かだった。「あいつにバレちまったんだ」
 なぜだかわからないけれど、大声で泣き叫びたい気持ちになった。自分とあのろくでなしの継父はおなじ穴の貉なのだという気がした。
 そして、唐突に悟った。ジェイはいままた、おっかなびっくりぼくに近づこうとしている。痛めつけられた野良犬のように鼻をひくつかせ、軽蔑や拒絶のにおいを嗅ぎ分けようとしている。ぼくは大人ぶって常識という名のあきらめを説くこともできたし、すべてを時間に委ねてもよかったし、天真爛漫を装ってジェイの相手を根掘り葉掘り尋ねることだってできた。
 だけどそんなことをすれば、ジェイに二度と近づけないのはわかりきっていた。だったら、おれが何度でも悪を斬る。ジェイのおじいさんが日射病でぶっ倒れたとき、布袋劇の人形を無我夢中で操りながら、ぼくの冷星ははっきりとそう言った。おれが斃れても、おれの意志を継ぐ者はかならずあらわれるさ。
 記憶の断片がひとつにつながり、またたく間にストーリーができあがった。冷星のつぎなる敵の武器は固い竹でつくった簫だ。ハーメルンの笛吹きみたいに簫の音色で子供たちをかどわかし、その簫で子供たちを撲殺するから……そうだ、黒簫(ヘイシャオ)と名付けよう!
(p.161-163)


 「もしあの義父をぶっ殺すんなら手を貸すぜ、なあ、アガン」と最初は冗談で言っていたぼくですが、この黒簫の空想を契機に「ほんとに殺すか」と言い出します。アガンは止めに入ります。

「なにか……なにか考えがあるのか、ユン?」
「おい! 本気にするな、ジェイ。ユンは冗談を言っているだけさ」
「そうなのか、ユン……冗談なのか?」
「本気だよ」ぼくは言った。「おまえがその気なら絶対にバレない方法がある」
 彼の目が期待に染まってゆく。
(p.165)

 重要なのはユンが「自分とあのろくでなしの継父はおなじ穴の貉なのだ」と罪悪感を抱いていることです。義理の息子の同性愛を知って暴力を加えたジェイの義父も、抵抗感から暴力を振るった自分も何も変わらない。もうひとつ大切なのは、「だけどそんなことをすれば、ジェイに二度と近づけないのはわかりきっていた」と接近の意思がユンにあることです。もともと弁護士の息子であるユンは、喧嘩の強い不良のジェイに憧れを抱き、「ジェイになりた」(p.265)いほどでした。ユンからジェイへの感情というのは、この他は非常に読み取りづらく書かれているものの、物語の最終盤に、あることをきっかけにアガンがユンをこう責め立てます。

「おまえはジェイに気に入られたかっただけだろ! 気がつかねえとでも思ってたのか? おまえは小学校のころからジェイに憧れてた。言っちまえよ、ジェイにキスされたときもほんとうはまんざらでもなかったんじゃねえのか? おまえは、おまえは――」(P.282)

 三人は占いで殺人計画を実施すべきか試します。
 占いは偶然にも三人揃えて実施すべきという結果を弾き出し、計画が動き出します。


※ここから中盤のどんでん返し、「わたし」と「サックマン」の正体についてのネタバレがあります。


 ここまで読んできた人間なら、まず「わたし」はユン、ジェイが「サックマン」であると自然に考えるところです。ユンは弁護士の息子であり、母には周囲でいちばんの私立高校に行くよう言われている。「サックマン」は少年売春に手を出した過去があると書かれており、同性愛傾向があるのは間違いない。あるいは『AKIRA』になぞらえたとき、ジェイは鉄雄と重ねられているし、暴力の歯止めが利かないところが描写されてもいる。

 実際には「わたし」がジェイで、サックマンがユンに相当します。これが中盤のどんでん返しで、このユンとジェイが入れ替わっているように見える、ということ自体が小説の種であり、哀切さの核であり、極めて良質なBLたらしめている仕掛けです。

 結論から言うと殺人計画は失敗します。毒蛇にジェイの義父を噛ませようという計画を立て、実際に蛇を入手し、廃業状態のアガンの店に隠します。アガン兄弟は母と義父のもとに、父は妻に逃げられた失意から、遠くの友人宅に身を寄せています。計画が頓挫したのは、蛇を隠している間に偶然にも実父が帰宅し、毒蛇に噛まれて死亡しているところをほかならぬアガンとジェイが発見したことでした。動揺し自首しようとするアガンをジェイがひとまず説得し、彼が帰宅します。続けて罪悪感に苦しむジェイに、駆け付けたユンが「計画を立てただけでは罪にならない」「アホンさんの死に責任がないとは言わないけど、刑務所に入るほど重くはない」と説きます。ジェイに語りかけながら、ユンは世話になった「アホンさんの死を他人事のように醒めた目で眺めている自分」を感じます。そしてアガンに連絡を試みますが、電話が通じない中、アガンやジェイとつむることをよく思わない母の愚痴を聞かされたユンは、殺意を抱きます。

果てしなくつづく空っぽの呼出音だけでも充分苛立たしいのに、そこへ母の愚痴が加わると、手あたりしだいにだれかを殺したい気分になった。
 もしかすると、冷星のお兄さんを殺したのはぼくのような人間なのかもしれない。ぼくは邪悪な蛇遣いで、名前は、そうだな、酔蛇(ズイシャア)にしよう。酔蛇がこの世でもっとも憎むもの、それはいつまでも自分を子供扱いする母親だ。(……)受話器を電話にたたきつけると、幸いにして母がぴたりと口を閉じてくれた。そうじゃなければ、受話器を母の顔面にたたきつけていたかもしれない。
 (……)蛍光灯の下に立ち、ぼくが考え出した悪役たちのひとりひとりになりきって、世界中の人間を皆殺しにする方法を考えた。虎眼、流刀、蚕娘娘、黒簫、酔蛇――冷星の敵は六人という設定だから、あとひとりで全員が出そろう。そう思ったら、すこしだけ気分がよくなった。最後のひとりはとびきり強靭で、とびきり残忍で、とびきり賢くしよう。こいつがほかの全員を束ねて、悪の帝国をつくるのだ。
(P.268)


 アガンへの電話が二日通じなかったユンは、「恐怖と不安」から直接彼のマンションを訪ねます。「兄が死んだ翌年に弟まで刑務所に行く破目になったら、母は完全に壊れてしまう」とユンは「神経に障る」「母の金切り声」に感じています。屋上のアガンに自首を控えるよう説得はしますが、ユンは既に失敗を予想していました。「アガンを思いとどまらせること、母を救うこと、自分を護ることがぼくのなかでせめぎあい、殺意によく似たものに練りあげられて」いくのを自覚しながら、ユンはアガンを殺そうと煉瓦で顔面を打ちます。

素早く足を踏み出し、やつの頭を打った。がっくりと片膝をついたアガンの目が恐怖に見開かれる。(……)その太った体は豚のように無様だったけれど、目だけはまだ生きていた。こういう目をしているかぎり、人はたとえ殺されてもけっして負けはしない。
 落ちていたセメント袋をやつの頭にかぶせ、その上から何度も殴りつけると、煉瓦が粉々になった。(……)問題は目だな。素手でアガンを殴りつけながら、そう思った。目さえ見なければ、親友を殴り殺すことだってできるんだ。
(p.286)


 気絶したアガンを屋上から突き落とすはずだったユンは、それを見ていたある人物に突き落とされます。ユンは辛うじて生き残りますが、頭を強打し、二年間の昏睡状態の後、「外傷性脳損傷」から性格の変化を来します。「両親に対して暴力をふるうようになり、母親は鼻を折られた」。両親はユンをひとりアメリカに送り出し、母は空港に駆け付けたアガンとジェイを「ユンはもうもとには戻らない、あんたたちがユンを殺したのよ」と罵ります。
 
 三十年後、アガン兄弟は亡父と同じ牛肉麺店で大成功を収め、ジェイは兵役を終わらせたのち、法律家の道に進み、現在は国際弁護士となり、同性のパートナーを得ています。一方ユンは母親が2008年に病死し、自分の買った男娼の少年に財布を盗まれかけた際に半殺しにし、アメリカの刑務所に収監され、アジア系ギャングの男娼となることで刑務所生活を生き延びます。出所したユンは2011年に衝動的に少年誘拐殺人を犯し、ブレイクダンスの達人」や「台湾の人形師」を装って少年を引き付ける手口で、2015年までに計7人の少年を殺害します。
 遺体はいずれも袋に入れられていました。
 性的暴行があったか、どういったプロセスで殺したか、については記述がありません。
 サックマンの逮捕、そしてその正体がユンであることを知ったアガンは、ジェイに弁護を依頼します。

「ユンのニュースをテレビで観たとき、おれが真っ先になにを思ったかわかるか? ああ、ユンがこんなふうになっちまったのはおれのせいだ、おれのせいでユンがぶっ壊れて、そのせいで罪のないガキどもが殺されちまった。(……)ユンはなりふりかまわずおれを説得しようとしてた。なのに、おれは……(……)ジェイ、おれがユンを殺したのか? おれのせいでユンはああなっちまったのか?
(……)それはわたし自身が何度も自分にぶつけてきた質問だった。
(p.301)


 面会室でユンは弁護士がジェイであることに気付かず、過去の殺人について尋ねられるとこう語ります。

「彼(ジェイ)はどんな子だったんですか?」
「沈杰森のこと? いいやつだったよ。ぼくは彼に憧れていた。ぼくは退屈な優等生だったから、彼みたいな不良少年と友達になれたのが誇らしかった。そういう気持ち、わかるだろ?」
「それで彼の父親を殺してやろうと?」
「自分が彼にふさわしい人間だと証明したかったのかもしれないね」
(p.227)


 ユンはアガンの写真を見せられると共に豹変し、「おまえがヘイシャオ(黒簫)だ」とジェイの首を絞めます。ユンが留置所で書いた漫画には、ジェイと思しき小さな子供の死体と、彼を殴り殺した黒簫が描かれていました。
 ユンは未だにジェイの義父の殺人計画に囚われているわけです。つらい。
 ユンは「虎眼、流刀、蚕娘娘、黒簫、酔蛇」を含めた六人の敵によって兄が殺された、とジェイに語ります。

「それはあなたが殺した少年たちと関係あるんですか?」
「でも、最後のひとりがずっと見つからなかった」
「(……)いまは見つかったということですか?」
「サックマン」
「それはあなたです。あなた自身があなたの六人目の敵なんですか? つまり、あなたのなかにもうひとり別人格がいて、それがあなたの六番目の敵だという解釈ですか?」
「きみはどう思う?」
(……)「そういうこともありえると思います」おまえがTBI(外傷性脳損傷)だということを考えれば、というひと言は呑みこんだ。「わたしを襲ったとき、あなたは『黒簫』と口走っていました」
(……)「意味のないうわ言だよ」
「連続殺人鬼は意味のないうわ言なんて言いませんよ」
(p.254)


 彼は笑います。
「理由があって人を殺すのと、理由がないのに人を殺すのと、なにが違うのかな」
 あなたは理由もなく殺人を犯すような人ではない、とジェイは答えます。
「ぼくのほうに理由があったら、殺された子たちは納得してくれるのかい?」
 答えに窮したジェイに、ユンは耳を近付けてくれ、と言います。監視カメラの向こうの警察官に聞かれないように。首筋を噛まれるのではないかと躊躇しながら、ジェイは耳をユンの口元に近づけます。

 予期していたことが、まったく予期せぬ形で起こった。反応も対処もできなかった。
(……)わたしが身を仰け反らせたのは、彼の唇がわたしの唇に触れたためだった。
(……)口で手をおおったわたしを、彼は車椅子の上で笑いながら見上げていた。
(……)「殺人なんてこの程度のことだよ。きみたちが思うような入り組んだ理由なんてなにもない」
(……)頭に血がのぼって、言葉がもつれた。仕返しのつもりか? そう言いかけて、言葉を呑んだ。そんなはずはない。だとしたら――
(……)「理由なんてないよ。きみを安心させられる理由なんて」
(……)「聞いてくれ、ユン、おれは――」
「でも、もうそんなふうに呼ばないでほしい」彼は言った。「どうか、お願いだから」
(p.256-257)


 30年前のキスと殺人計画を未だに引きずってるジェイくんにこの仕打ちである。 
 警察署を出たジェイは、自分はユンに赦してもらいたがっているのだと考え、罪悪感に打ちひしがれます。どう考えてもユンが相当悪いと思うのですがジェイくんは商業BLの登場人物なので罪悪感に飲み込まれまくりだし、行きずりの男にレイプされようとしたりします。
 商業BLの6話かよ。
 その後ユンに連続殺人の理由を推論して聞かせますが、ユンは「こんなこじつけは聞いたことがない」と答えるのみです。私もこれは読んでいてこじつけだと思ったので、ここには書きません。
 ジェイが、勝ちようのない裁判の弁護を引き受けた理由が、最終盤になってようやく明かされます。

「おれはおまえがあの出来事を思い出す手伝いがしたい。いや、おまえは思い出さなければならない。(……)ひとりぼっちで死ぬな、ユン。(……)おれもアガンもおまえのそばにいてやれない。(……)おまえがおれたちを思い出さないかぎり、おれたちはおまえといっしょにいられないんだ」
(……)わたしたちの無謀な計画のせいでアホンさんは死に、彼はサックマンになった。
(……)「思い出せ、ユン」わたしはほとんど命令していた。「せめて思い出のなかだけでも、おまえと最後まで一緒にいさせてくれ」
(p.306)


 ユンはジェイを思い出した、と最後には言います。
 それが本当かどうかは、文中だけではわかりません。
 ジェイは、「全身全霊で記憶が戻ったふり」だと考えます。

「覚えてるか、ジェイ?」
「なにをだ、ユン?」
「ぼくたちがはじめて会ったときのことさ」
「そんなの、憶えてないよ」
「そうだな、ずいぶんむかしのことだもんな」
 ユンはうなずき、やさしく目を細めた。そして、懐かしい声がわたしの耳にとどく。
「でも、ぼくはよく覚えているよ」
 これから彼といっしょに、長い長い螺旋階段を降りていくことになる。楽園にたどり着けるとは思わない。ただ、いっしょに歩いていく。やがて彼がこの世界から欠けてしまうところまで。
(p.311)

 メリバBLの文体を完璧にトレースする東山彰良さんの腐女子力がすごい。マジで泣けます。
 ユンはそれから少年時代の記憶について語り、ジェイはそれをノートに書き留めていきます。
 2019年にユンは処刑され、ジェイはパートナーからユンが初恋の相手だったんだ、と指摘されます。彼は否定しますが、「もしサックマンがユンくんじゃなくてあの太った子(アガン)だとしても、きみはやっぱり書いたかい?」と問われ、黙ります。小説は、ほぼそこで終わりです。

 この小説の重要な点は、ユンはジェイのことをまんざらでもなく思っていた、という点です。ユンが買っていた男娼は十二歳の少年で、台北時代の年回りとほぼ変わらないのも辛い。もっとも、ジェイはユンがアガンを殺そうとしたのは母親を守るためだったと考えていて、ユンが当時のことを思い出し語りする際もやはり出てくるのは母親です。ただ、これは頭部外傷で記憶が不完全なユンの語りであって、実際どうなのかはわかりません。
 そしてなぜユンが少年たちを殺したのか、はっきりとした理由は作中では分からずじまいです。わかることはユンが殺人計画、あるいはジェイの残像に三十年後も囚われていたこと、それだけです。理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。あるいはこんな状況になったうえで、ジェイへの怒りが幾分かあったのかもしれない。
 しかし、仮に殺人計画が成功していたのであれば、三人はジェイの義父を殺していました。あくまで計画が失敗したのは偶然の故であり、更にユンが転落したのも、もっといえば計画に踏み出したのも三回の占いがたまたまそういう結果になった、というだけです。

 『僕が殺した人と僕を殺した人』という題名はまぎらわしいです(これを書きながらどっちがどっちかよくわからなくなったことが何回かありました)。しかしそう考えると、この題名のまぎらわしさがこの小説の鍵なのです。僕が殺した人と僕を殺した人はまぎらわしく、どちらがどちらであってもおかしくない。「僕」は僕であって「ぼく」と必ずしも同じではない、けれどもまったく違うとはいえない。
 普通に読めば「僕」はユンであり、「僕を殺した人」はアガンとジェイ(と、少なくとも当人たちは思っています)であり、「僕が殺した人」は少年たちでありアガンの父です。
 でも、偶然が掛け違えば、「僕が殺した人」も、「僕を殺した人」も、だれになっていたかはわからない。
 「僕」が「ぼく」=ユンであったか、「わたし」=ジェイであったかも、ひょっとするとわからない。この物語のどんでん返しはジェイではなくユンがサックマンだというミスリードを誘発する仕掛けによって成立していますが、もし偶然がほんの少しでも違えば、サックマンとなっていたのはジェイで、弁護士になっていたのはユンだったかもしれない。というか、弁護士の息子であり、母親がより高い教育を受けさせたがっているユンのほうが、スラムで虐待されているジェイより遥かにその確率は高かったはずです。
 でも、そうはならなかった。
 たまたま偶然こういう物語になっただけで、もしかするとジェイの初恋は叶っていたかもしれない。
 だけどそうはならなかった。単にエンタメとしてどんでん返しがあるだけではなくて、偶然の哀切さを裏付ける仕組みとして、このミスリードは用意されています。この哀しさは、実際に読んでぜひ体験してほしいと思います。

 最後に、サックマンという名前について。少年たちの遺体がsac=袋を被せられた状態で放置されていたのは、袋を被せ、目を見ないようにしてアガンを殴りつけた、という台北でのエピソードに通じます(またその「袋」は作中では蚕の繭とも関連があるのですが、ここでは触れません)。そしてもうひとつ大事なのは、suck=吸う、という意味があることです。そもそもユンが殺人計画を立案したのは、つまりユンが「殺され」サックマンになるきっかけとなったそもそもの始まりは、「おまえ、ちんこが吸いたいんだろ!」とジェイを罵倒した、その罪悪感からでした。

 そんなわけで、東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』は、2018年メリバBLの最高傑作のひとつです。
 アニメ化か映画化でオタクを皆殺しにしてほしいのですが、まずは皆さん小説で殺されてほしい。オススメです。

メギド72『プルフラス・復讐の白百合』感想

 メギド72の六月度イベ『プルフラス・復讐の白百合』の感想です。これ今まででいちばん良かったイベじゃないかなあ。すごいです。メギド72はプレイヤーの声を本当によく拾い上げてくれているソシャゲで、それが非常に細やかなゲーム性の部分で発揮されてくる。具体的には、

 

①まずはデュークのようなレアエネミーのレアドロップ限定高性能SSRオーブについては今回見送り。とはいえインサニティは青龍号に劣らぬ魅力的な性能。

②育成素材用のRオーブについては道中でドロップ。たぶん地獄の犬狩りを踏まえた上での改善点。

③初心者は素材用の餌オーブが足りずになかなかオーブ育成に手を出せなかったけど、RブラブナとSRムタチオンのドロップ率を大きく上げることで対処。育成でのオーブ消費は激しいので初心者以外でも当然嬉しい。

④取得マップが限られている、あるいは頻繁には周回しないマップでドロップするため不足しがちな素材を複数周回が予想されるマップアイテムに設定。ツインハンター狙いの5-3で悪魔の血と聖者の護符、フォレスターおよびエンブリオ狙いのEX-2でプラチナムスター。つまり、周回の本来の狙いではない部分にも旨味を感じさせるデザインが完成されている。

 

 というところでしょうか。『二つの魂を宿した少年』で浮上してきた、あるいはゲーム内で気になりがちな問題を本当にきっちりと解決したイベントデザインで、さすがメギドの製作陣としか言いようがないです。素晴らしいです。しかもその頑張りようが一切押しつけがましくない!

 

 メギドの製作スタッフが何回か言及している改善ポイントとして、メギドはある程度まで進めてしまうとやることがない、という問題点があります。

 確かにメギド72にはシナリオ攻略のほかにキャラ育成とそれに付随する素材集め、オーブ育成、大幻獣狩りといったコンテンツが用意されていて、最初のプレイは「やることが……! やることが多い!」状態(金田一)なのですが、メギドの育成は段々と高速化できるシステムで、一度した苦労は無意味に反復させない仕組みになっています。代表例が攻略チケットで、あるいは星6を数体育成してしまえばVHコンプリートの難易度はぐっと下がる。

 最初のVH突破の興奮は大切にさせつつ、VHクリアで手軽に集められるようになった素材で星6を次々育成させていく。最初は苦労させ、そこからは急速に効率化させる。それ故に、ある程度ゲームが進むと「もうやることがない」ようにも見えてくる(実際にはそういうプレイヤーを飽きさせないためにこそPvPがあり、この段階に至ったプレイヤーならフリーバトルに手を出していそうなものですが)。

 

 あまりにすべてを高速化させてしまうと、ゲームとしての面白みがなくなってしまいます(ゲームの面白さにはある程度の「遅さ」も必要なのかもしれません)。単に石を砕くだけのゲームにならないように、メギドではいくつか早くなりがちなスピードを律速するブレーキが存在しています。たとえばそれはスキップ不可能な大幻獣撃破とEXオーブ育成の道だったり、あるいはイベント周回であったりするわけです。特に前者は「やることがなくて消化しようのないスタミナを一気に消化させる」という役目も果たしていて、なかなか憎い構成です。

 イベントにも大幻獣と同じようなエンドコンテンツを用意しよう。そういう心積もりで設定されたのが『背中合わせの正義』から始まるEXボスのSSRオーブであり、この路線はSSRファミリアン、難易度を跳ね上げたSSRサタニックリブラ、と続いていきます。

 それでも飽き足りないプレイヤーのために、というつもりで用意されたのがおそらく『二つの魂を宿した少年』のSSRデュークでした。 

 『二つの魂を宿した少年』は①シャミハザのポテンシャルを最大限活かせるSSR青龍号を初心者でも手軽に手に入る形式にしつつ、回復面で強力なSSRデュークを中級者以上のエンドコンテンツとして設定する、という仕組みにしています。デュークのドロップ確率の厳しさに苦しめられた人が多数出たのは既知のところであり、また奥義並みの高い回復性能を備えていたのも未入手の無念の想いを強くさせるところでした。ただ、これがもし驚異的なダメージを叩きだすオーブであったら、もっと問題になっていたと思います(入手の難しさもあったでしょうが意外と中級者以上でも使っている人を見かけません)。ここを回復にして様子を見るのは流石の手堅さだし、またいくらあっても嬉しい記憶の欠片を周回の副産物にしたのも嬉しいデザインでした。

 このイベントごとのエンドコンテンツをどう設定するのか、というのがメギド製作陣の現在の課題のように見えます。今回はデュークに相当するレアエネミーのレアドロップは存在せず(ツインハンターがそうかと思ったけど実際には5-3で落ちる)その種のエンドコンテンツはひとまず見送った形になりました。ただ、個人的には死んだ目で猫を探したのも悪くない記憶なので、またいつか同じ方向性のSSRオーブが来ることを楽しみに待っています。

 

 新たなSSRは2種。まず何より目を引くのは連続ダメージ20%以上バフ+自身にスキル2個追加と、ガチャ産かよと言いたくなるSSRインサニティ。一見ミミックと性能が変わらないようですが、特性は連撃ラッシュアタッカーにピッタリで、しかも自身にスキル追加はターゲティングのシステム上何気に便利です。ゼパルの燃えるゴミが増える、ヴィネやラウムの覚醒上げと組み合わせたらおそろしく強そう。あとは、今回新規に追加されたサラに乗せるのも便利そうです。自分にスキルを二つ追加しつつ、実際に点穴を乗せるのは他のメギド……という立ち回りはミミックのターゲティングでは不可能なので、そう考えると意外と器用な立ち回りも出来るオーブです。

 二種の新規SSRのうち、もうひとつはSSRフォレスター。最大HPの2割以上加算はありがたい。20%の回復と10%の攻撃バフよりはそっちが魅力。ただラッシュの最大HP加算をどう捉えるかは難しいところで、個人的にはラッシュアタッカーの耐久は盾役やフリアエ・アムドゥスキアスで耐えるほうが好きです。むしろ、これはサラのように稀有な耐久ラッシュ型のメギドのために用意されたもののように見えます。列回復のないアンドラスでも耐久と回復範囲を同時に強化出来ていいかも。あとはエリゴス。

 SSRについては新規追加メギドのサラを念頭に置きつつ、ゼパルのような既存メギドにも旨味が大きい性能に仕上げた、という印象です。

 シャミハザと青龍号ほど分かりやすくはないけれど、プルフラスの使い方が比較的分かりやすいのに対し補助サポーターのサラはやや扱いが難しいかもしれない。そう考えると、青龍号が帯水+雷攻撃の強力さを教えてくれたように、運営側から「こんな風にサラを使ってみてはどうでしょうか」というメッセージなのかもしれません。フリーバトルでも一人生き残ったサラにインサニティを発動させ、破壊的なダメージを叩きだす場面を見て興奮しました。

 

 SRは2種。SRムタチオンはデバフが強化出来れば楽しかっただろうけど、単体ダメージ強化はSSRドネ未所持なら有難い特性です。単体攻撃アタッカー、ということでプルフラスに持たせるのにちょうど良さそう。カウンターのSRウォールバスターは汎用性の高い防御バフに後列無敵1回と、これもターゲティングのシステム上何気に便利な性能。同じく防御バフ持ちのSSR盾の幻獣体ブニとは綺麗に差別化されていて、咄嗟の範囲攻撃を防御するのに便利そうです。智の番人バラム戦やアバドン戦にも使えるかも。

  RブラブナはRバーデンヴォルフに相当する育成素材オーブですが、今回特にいいなあと思ったのはとにかくSRムタチオンと並んで落ちまくること。ひとつは地獄の犬狩りの反省からの改善でしょうし、あとは課金しないと初心者は餌用のオーブ数が足りずに育成に踏み出にしくい現状に対して、だったらRオーブをたくさん配ってやるよ、というデザインじゃないかと思います。実際メギドのオーブ育成は地味に楽しくて、メギド自体の育成がLv70で終了する以上、育成要素が残るのはオーブのほうです。初心者にも是非このちんまりした楽しさを味わってほしいので、(そしてやっぱり強化したオーブは強いので)こういう取り組みは是非続けてほしいです。

 オーブはサバトで余るようで、実際は育成を始めたら意外と不足してしまうわけで、気軽に餌に使えるオーブが大量にもらえるのは(サバトそこそこ回したつもりですが)個人的にも非常にありがたかったです。バーストもいつか頼む……。

 ブラブナは幻獣の餌のために作られたものらしいので、そのあたりの設定も重なって楽しい。

 Rツインハンターも育成素材オーブですが、ブラブナほどではないけれど5-3を回せば真っ当な確率で落ちる。あまりに簡単に落ち過ぎてしまうとそれはそれで育成の楽しさが無いので、丁度いい塩梅だと感じました。

 他、何気にマップのドロップアイテムについても悪魔の血、聖者の護符、プラチナムスターと取得マップが限られる、あるいは青真珠やゴールドオイルといった重要素材のついでで手に入らず不足しがちなアイテムに着眼したドロップで、非常に細やかな配慮だと思います。

 あと、これはあくまで体感なのですが、エンブリオ幼のドロップ率が上がったように感じています。五個ぐらい落ちてます。

 気のせいかな。気のせいじゃなかったら、これもすごく嬉しいです。

 

 こんなにしっかりと問題点に向き合って毎回イベントのクオリティを上げてくれているのにそれを押し付けてこない慎ましさがすごい。

 あえて改善点を挙げるならば、その細やかさ故に、毎回の進歩がいまひとつ広く周知されていないのがむず痒い。もっとイベントデザインの丁寧さを説明していいじゃないかという気になってくる。でもそのちょっと信じられないような謙虚さがメギドらしいのかもしれない。

 あともうひとつ。これは難しいところだけど、ツインハンターが5-3でドロップするのに気付きにくい構造は気になった。あのイベントの説明文ではツインハンターがデュークの枠に相当すると勘違いしそうなもので、しかもオーブ育成のために果てしなく周回をするプレイヤーだとエンブリオを狙うはずなので、5-3をツインハンターが落ちるまで周回する可能性はかなり低い。サプライズなのかなあとも思うけれども、ちょっとここを上手く気付かせる仕組みが欲しかったな、というのが正直なところです。ただツインハンターをドロップしなくても、交換分のオーブでインサニティとフォレスター1体ずつなら星3に出来たので、それは初心者に対する配慮として非常に良かったと思います(またそれ故に希少オーブという勘違いも深まった節がある)。

 でも、後から誰かが気付いて「えっそうなんだ!」と情報の共有が広がっていくのもソシャゲの醍醐味だろうから、ここは微妙なところ。

 それとアイテム交換所のエンブリオ幼見送りは……あれすごく良かったと思うんですけど、オーブ育成のため延々周回をするプレイヤーだけ有難い要素ではあるので、アイテム全交換の達成感を考えて無しにしたのかな(だとしたらすごく理解はきっちりします)。今回で言えば研究フォトン、ブラブナシロップの余りを何か有効活用出来ないかどうか、については今後も考えていただけると嬉しいです。現状、特に初心者がオーブを★3まで育成するときとかに不足したガルドを一気に貯める手段が乏しいので(財宝クエストはあまりにしょぼい)ゴルド交換とかもいいんじゃないかなあと思います。ゴルドの稼ぎ方が現状コツコツやる以外だとメギドクエストのスタミナ割引キャンペーン+EXクリア前提ぐらいしかないのは、ちょっと初心者にはきつそう。

 以上、本当にあえて挙げるなら、という程度です。

 

 もっぱらゲームデザインの話ばかりになってしまったけれども、イベントストーリーも素晴らしかった。プルフラスの復讐、をめぐる話でありながら同時に親友を奪われたサタナキアの情念をそれとなく描く。プルフラスさえ居なければアシュレイがヴァイガルドへの脱出を図ることもなく、そしてそれ故に死ぬこともなかった。勝手かもしれないけれどサタナキアにだって復讐する資格はあって、さらにそこにソロモンが村の仇を討った過去が重なり合ってくる、という物凄くテクニカルな設定です(でもさらっと読める)。サタナキアの罪悪感をプルフラスはとっくに見抜いていて(このあたり心眼の設定を想起させて楽しい)アシュレイが愛したヴァイガルドを守るための戦いだからこそ、サタナキアが協力するであろうことを理解している。だからといって、何から何までサタナキアのことを許せるわけではない、とアジト台詞でちゃんと描写しているのも素晴らしい。

 配布がプルフラスなのはお前……こんなウケそうなキャラを配布って正気か!?(いつもの)と引きましたが、点穴システムを体験するのが5章1節でベリアルを仲間にしてからではあまりに遅い。始めたてのプレイヤーにも新システムを実際に触れてもらう上ではやはり配布がいちばん正しい選択なんだけど……選択なんだけど……やっぱでも正気じゃない! だからといってサラの性能は初心者にはまず理解されないのでアタッカーを配るしかない! それはそうなんだけども! そうなんだけども! シャミハザのときもそうだったけど!

 サタナキアさんには何卒オタクにガチャを回させていただきたい次第です。あとブラブナのキャラデザが良過ぎるんですけどこれまさか今回のイベントだけで使い捨てるつもりなのか? 大幻獣ブラブナとかない? 色変え再登場するよね! ぜひしてください。

 そんなわけで、非常に満足度の高いイベントでした。『二つの魂を宿した少年』があまりに楽しかったのでこれを超えるイベントはちょっとないんじゃないかと思ったんですけれども、いや、もう本当にすごいとしか言いようがないです。製作スタッフの皆さんは本当にいつもいつもお疲れ様です……5章1節もすごく良かったんだけどちゃんと休んでる!? 大丈夫!? 引き続きメギドくんのこれからが楽しみです。

連想・回想

 昔宇野千代のエッセイで、いつも座っている部屋の窓から外を見て、風景を文章にすれば自然と小説が始まると書いていて、半信半疑で試してみたがまったくうまくいかなかったことがある。筆を温めるというのか、小説は書けば書くほど書きやすくて、前の場面を活用して後ろの場面の駆動力に(要素の再利用、あるいは伏線ともいえる)出来る以上、小説は常に最初がいちばん大変だ。そこを慣れた風景描写から始めてしまえばあとはどうにでもなるということか、とその時は考えていた。その感想は今もあまり変わらないが、ただ最近になって身をもって実感するのは、小説の言葉というのは非常に書くのが面倒だということである。(詩を軽んじているわけではなくて、小説を書く人間には)詩というのはある程度は文法から自由なように見える。あるいは評論というのは存外いい加減な文体から始めても許される節がある(ように見える)。

 

 ただ小説は大抵の場合違っていて、なんだかんだ、誰それが何々をした、という行動の文章を書かなくてはならない。私が言っているのは非常に古臭い小説の一形式であって、世の中にはそういう古いしきたりから逸脱したものがいくらでもあるのだろうが、ともかく小説の文章というのは不自由になりやすい。たとえば自分の机の上について描写しろ、といわれても、これが小説だと面倒くさい。

 赤い紅茶缶、使い終わったまままだ捨てていない牛乳パック、葉の残ったポット、埃のうっすら溜まったキーボード、日曜日に中古で買った弦楽五重奏のCDと、ともかく要素を列挙することは出来る。でもこれを小説の文章にするとなると、「机の上には紅茶缶、……、が並んでいた。」と誰それが何々している式で書かなくてはいけない。これは、おそらく人間の頭に普通でない負担を強いる。少なくとも私が机を見て頭に思うことは、(視覚的イメージなのもあるが)「紅茶缶、牛乳パック、ポット……」という名詞の羅列で現れ出てくる。思考、つまり日常の文体においては、誰それが何々していた形式の文が出る可能性はおそらく私たちが思っているほど高くはない。

 小説の文章は、人間の現在の思考からはかけ離れがちである。

 

 たぶん記憶違いだと思うのだが、川端康成か誰かが、小説の文章修行に、通勤中に目に見えるものすべてを頭の中で小説の文章のように書きなさい、という方法を挙げていた気がする。電車に乗って見えるものすべてを言葉で描写してみるわけだが、これは(宇野千代がそうしたように)①ともかく言葉と外界のものの距離を近付ける練習であり、②「誰々が何々した」式の文章に頭をチューニングする練習である。「何々駅に電車がたどり着くと、真っ青な顔をした人々が汗の臭いをまきちらしながら入ってきた」というような思考は普通しない。

 頭の中でそんな文章を書くようなことは、意識せねばまずありえない。

 

 私は冒頭で人が死んだり居なくなったりするとかなりスムーズに小説が書ける。最近の書き出しをいくつか挙げると「彼女が死んだことを聞かされたのは、六月の終わりだった」とか、「死んでから話し始める奴には、うんざりする」とか、あるいは「ものを失くすのは多いけれど、不思議と鍵は失くさない」で、第一番目のはそのまま人が死ぬ。二番目も勿論死ぬ。三番目はルームメイトに出ていかれる話で、人間の不在である。かつて柄谷行人が人間の死と不在は厳密には区別がつかない、というようなことをどこかで書いていて(武田泰淳論だったかもしれない)これもほんまかいなと思った記憶があるが、ともかく人間が死んだ後や、大切な誰かが不在になった後(たとえば私は一時期人が失踪する小説を書きまくっていた)というのはとにかく小説として書きやすい。死は端的に終わりである。そこから先、現在が未来に向けて新しい何かを追加していく可能性は少ない。

 終わってもうどうもならなくなった後、というのは書きやすいのである。宇野千代の、とにかく目の前にあるものの描写から始めるのは現在から始める書き方だが、物事が終わった、という表明から書き始めるのは現在の断念である。基本的には過去にしか向かない。冒頭で人が死んだり失踪したら、まずもってその人に関する回想に続くのが自然だろう。

 つまり、(なんだか小学生式であるが)小説には現在から始まる文体と、現在を断念し過去に向かう文体の二種類がある。当たり前である。

 

 ところで、今たとえば海について描写する。私は海にいるわけではないので、そうなるとイメージ、というより正確には記憶の海について書くことになる。波打ち際とか貝殻とか、潮騒の音とか、風の湿り気であるとか、海鳥の影とか、犬を連れて砂浜を歩く人とか、遠くに見える漁船とか、そういう要素を列挙するだろう。それは私が直接訪れた海であり、あるいは映画で見た海であり、小説で読んだ海の描写でもあるが、とにかくそういった記憶の蓄積から要素を引っ張り出して、組み合わせていく。その都度思い出している、ともいえる。

 

 言語は今ここにないものについて語ることが出来るが、想像はしばしば連想の組み合わせであり、連想とは回想の組み合わせである(あるいは回想のエラーである)。想像力がそれ即ち記憶を思い出す力とイコールというわけではないが、記憶力、というより回想する力を培うことが想像のそれに繋がる可能性は低くないと思う。小説家の何人が日記好きか私が知るところではないけれども、昔辻邦夫の展覧会で彼の日記を見たとき、その日にあった出来事をすべて回想して書きつけていたのをなんだか怖いなあと感じたことがある。日記は小説を書くうえでひとつの訓練と見なしていいのかもしれない(もちろん彼の歴史小説は膨大な資料の上にあっただろうが)。あるいはその日にあったことを、寝る前に一通り回想してみるとかもいい。その場合は「誰々が何々した」式のほうがいいんだろう。

 

 文章の書きやすさとは連想のしやすさである。小説を書きだすのに苦労するのは、何かひとつ要素を最初に置いたところで、そこから連想できるものが乏しいからだ。「この人物ならこんな風に動くだろう」という発想もそれまで書いてきた行動からの類推、記憶からの連想である。現在を断念した追想から小説を始めると書きやすいのは、小説自体がしばしば連想-回想-追想から多く成り立つからである。たくさんの今ここにないものについて、想像して、連想して、回想して、書かなくてはならない。

 想像-連想-回想は、小説の生理の根元である。

 

 あるいは、これも誰がちゃんと書いたのかは忘れているが、現代小説に認知症的な文体(……というのもなんだか各人によって意味するところがばらばらなので難しいところだが)が頻出するのだとしたら、それ自体が小説の書きづらさの無意識の結晶、とは言えるかもしれない。記憶、正確には記憶の回想能力に関する小説は、しばしば小説についての小説に見える。

 

 桜、猫、電車は認知症のスクリーニングに使う決まり文句であるが、桜・猫・電車と列挙されたところでなにかひとまとまりのイメージを編み上げるのは難しい。自分の中の猫の記憶、桜の記憶、電車の記憶を呼び起こしてみると、「電車に乗って家族で桜を見に行ったことがある」とか「桜の根元で太った猫が寝ていて図々しいと思ったことがある」とかエピソードに繋げることが出来て、これなら(面白さはともかく)小説になりそうである。こればっかりは各人の記憶の性質(あるいは持ち合わせる語彙の偏り)によるだろうが、私は「あそこで見た桜は濃い茜色で、桜色というよりはもっと中国風の力強い色だったなあ」というような記憶はあまりなく(よくわからない例示だけど)どうしても誰々が何々をした式の記憶のほうが多い。

 

 なにかひとつの核となる中心をおいて、そこから派生して連想された言葉を頼りに小説を書くやり方があるとして、たとえば「桜」から「春」「団子」「花見」「入学式」を連想してみる。「春」はあまり役立ちそうにない。「団子を自分で作るのは意外と面倒だった」とか「入学式の日は桜がきれいで思わず立ち止まった」とか「母が花見を嫌がっているうちに雨で全部花が落ちてしまった」とかそういうエピソードの形に変換-連想すれば、小説としてのとっかかりは見つけやすい。何も思い付かなければ自分の話で、あるいは他人の小説なり、映画や漫画なり、ともかく自分の話でないものを回想できたのならそれも小説に使える。もっとも、後者は自分を主語として記憶していないだけで、本当は自分の話なのかもしれないが。

オタクの紅茶史 料理が出来ないオタクが紅茶を淹れるために

 料理が出来なくて部屋が汚いオタクのための紅茶の淹れ方、というよりは端的にここ半年の自分の紅茶の話です。

 

①うちの紅茶の淹れ方

 料理が出来ないオタクというのは一種の病であり、それ相応に最適化した料理をせねばなりません。トマト切ってオリーブまぶしてドレッシングかけるとか、シリコンスチーマーに放り込んで魚焼くとか。私は高校時代に家庭科の課題で自分の台所で料理を作ろう! と言われたときに母親に頼むから絶対やめて!! と懇願された記憶があるのでいまだに火を使いません。使うときは電化。たまにクソ汚いモツ煮を作る。あと部屋が汚ねえ。


 でもって紅茶が好きなんですけど、紅茶、自分で淹れると長年妙に味が薄くて悩んでいて、結果から言うと電気ケトルで淹れたお湯はなんか温度が足りなくてうまく煮出せないっぽいです。バカなのでルピシアのモンポットとか不相応に買いましたけどどんだけ茶葉を入れても薄い! 水温が足りない! あと最近割れた!(クソ悲しかった) というか完全に沸騰し切る前に安全装置で大概の電気ケトルは電源落ちる! なんで電気ケトルはもう基本的にお役御免にして、レンジでポットごと煮ることにしました。そこらのドンキやニトリでも売ってるHARIOの500mlジャンピングリーフポット。あれに適当に茶葉入れて冷水から煮立てる。頭激悪の解決法ですが、なんかこれでようやくまともに紅茶が飲めるようになりました。ルピシア使い出してから約半年の気付き。遅えよ。

 

ハリオ ジャンピングリーフポット 2~3人用 JPP-50

ハリオ ジャンピングリーフポット 2~3人用 JPP-50

 

 
 人それぞれの淹れ方があるでしょうが私は500ml水を入れて、浮き上がって液面一杯に広がる程度の茶葉を入れて、それから700Wで5分ツイッターをやりながら煮立ててます。4分ぐらいからボコボコしてくるので突沸しないよう注意。あとはまた適当に作業するなりなんなりして待ちながら、飲みたくなった頃合いにポット全体を揺らして注ぎます。アフタヌーンティーかどっかのインタビューで抽出用とサーブ用のポット二つ用意して……みたいな記事があっただけど料理出来ないオタクに出来るかそんなもん。放置してたらバカ濃くなりそうなんですがレンジで煮立ってる最中に十分染み出すのか濃すぎて飲めないとかいやこれ出がらしやんって味になったことはないです。料理が出来ないオタク、というか現時点の私に出来る唯一まともな味のする紅茶の淹れ方だと思います。品はない。

 

ルピシアについて
 料理が出来ないオタクは出来ないくせにお洒落っぽいもんが大好きなんで、当然オタクが理解出来る範疇のお洒落であるところの専門店ルピシアには激弱です。ほら……なんかこう……ユメ・オ・レとか、キャラメル&ラムとか、さくらんぼ紅茶とか、バレンタインのチョコレート紅茶とか訳分かんないやつ好きになるでしょ。どうぶつのもりで育ったのであの手の記念茶とかフレーバー付きのティーはもう絶対に抗えません。そしてオタクはあの丸っこいルピシア缶が大好きなのでルピシアガチャをいちいち缶付きで回して、汚い部屋に使い道のない缶が山積みになり仕方なくドリフェス!(サービス終了しました)のカードダスを入れたりする。

 缶を買うのはやめろ。あれは何もいいことないです。邪魔です。ツイッターで綺麗な菓子箱を貯めても何にもいいことなくていつか使おうと思う空白が延々と増えて部屋を圧迫するだけみたいな小洒落たセンテンスを読んだことがありますが、地味で色遣いの上品なルピシアラベルを貼ったルピ缶は最悪です。紙箱みたいに潰せないし、ラベル剥がすのも勿体ない気がしてきてマジで無が発生します。やめましょう。袋で買え。どうせ飲まないやつが山ほど溜まってるんだ、そのままどっか転がしとけ。大いなる邪魔とは理解していても贈り物には重宝します。そこの店の限定銘柄二缶入れて適当に菓子放り込んだらなんか気安い手土産感が発生します。あと缶は一応小物入れとかには便利ですね。有名チョコレートショップの缶を小物入れにしてる患者さんが昔居て、エモいなあと思った次第です。

 紅茶は依存性のある薬物ですので飲みだすと止まりません。夕方以降に飲むとなるとカフェインに弱いオタクは朝まで延々起きる羽目になります。なので買うとしたら普通のフレーバー紅茶(オタクはインドかどっちかの地名~2018ver~みたいなフレーバー付いてないやつは買いません)と、夕方以降用のデカフェかノンカフェイン、あとなんかオタク心をくすぐる紅茶以外の変わり種の茶の三種で、出来ればルイボスティーを後ろ二つのどちらかに入れておくと味が優しくて飲みやすいです。私のオススメファーストチョイスはさっきも挙げたキャラメル&ラム、純粋ヤクです。日本茶はよくわからんので私は薦めない(淹れ方がダメなだけかも)。

 

③マジでやめたほうが良かったやつ
 料理の出来ないオタクがどっかの喫茶店で見かけたフルーツティーを真似るのは破壊的産物を産むのでやめろ。意味不明な果物の煮汁と味の薄い紅茶のブレンドが出来て最悪です。果物の処理も面倒くさい。私はリンゴで試しましたが一生フルーツティーは自分で淹れないと誓いを立てました。
 あと底の深い水出しポットで淹れるミルク出し。お前それ洗浄機もないのに本気で自力で洗う気か?

 

ルピシアは高くて飲むの抵抗あるって人
 ドンキの紅茶コーナーでトワイニングのクオリティ缶を買うといいです。私が好きなのは無難にクオリティのアールグレイで、トワイニングは超有名銘柄ですがまず音韻がいい、トワイニングの紅茶缶ですよ……エモい……。あとクオリティと銘打ってはありますがルピシアと比べると相当安くて、1箱100gなのでいくらでも紅茶の淹れる練習が出来て(そんなもん練習要るのかと思われそうですが料理の出来ないオタクには練習が必要です)しかもスタンダードな味わいなのでいくらでも飲めます。フォションみたいなお高い印象の有名ブランドでも実はルピシアより安かったりします。ルピシアテメーどんだけぶんだくってんだ。エモ代か。ならいい。

トワイニング クオリティ アールグレイ 100g

トワイニング クオリティ アールグレイ 100g

 

 

⑤あるといいもの、なくてもいいもの
 要るもの。
 牛乳。どんなに失敗した茶でもとりあえず砂糖と牛乳を入れれば飲めます。薄いとダメ。
 レンジ。文明。火が使えないオタクに許された唯一の調理器具。
 HARIOのジャンピングポット。料理が出来ないオタクには超便利。淹れ方は上記。
 砂糖。白糖と黒糖両方欲しい、なかなか使い切れないので出来るだけ小さいやつを。料理しないオタクがいきなり砂糖入れとか買って大量にドバドバ入れると悲劇を生みます。絶対いつかそれ台所に落として悲惨なことになるぞ。
 カルディで売ってるドイツ製の味付け砂糖。ツイッターでオタクに受けてたけど実際美味くてどんなにヤバいお茶を入れてもこれだけで救われる。ラムはクセがあるからファーストチョイスには薦めない。アールグレイかチャイ。
 ハチミツ。ちょっとだけあると楽しい。これも小さいのを買う。
 冷蔵庫。牛乳保管用。

 
 要らなかったもの。
 電気ケトル。何個か試しましたが水温が足りなくてイマイチ濃く抽出されません。残念。
 ミルク用のピッチャー。使う必要ないだろバカ。牛乳パックから注げや。ニトリで百円以下で売ってる。
 木のお盆。バカ。やめろ。
 茶菓子用の小皿。バカ。
 ティープレス。バカ。ギュイギュイ押しても別に濃く出たりはしないです。ポットでいい。
 カップ&ソーサー。お前皿洗えねえだろ。そのうち割るので部屋が汚いオタクは耐熱強化ガラスカップ一択です。
 HARIOからワンカップティーメーカー。たぶんジョナサンで使ってるやつ。上の茶漉しの部分無くして謎のガラスコップが単独生成される可能性が非常に高いうえ、茶漉しと小さめのカップの両方細々洗うの意外と面倒臭いので薦めません。

HARIO (ハリオ) ワンカップティーメーカー 200ml ブラック OTM-1B

HARIO (ハリオ) ワンカップティーメーカー 200ml ブラック OTM-1B

 


 ルピシアのティードザール。茶葉を正確に測れるとかいう金メッキの代物でオタク心をくすぐるティースプーンですが、料理出来ないオタクなんかどうせ二杯分とか書いてても謎の直観で三杯分四杯分入れるから役に立たん。
 同じくルピシアから茶漉し。なんかもう頭が悪すぎて普通の茶漉しと、中に茶葉を閉じ込めてお湯を注いだら抽出できる!って球型の二種類持ってたりしますけど普通に茶漉し付きのポット買いましょう。無意味にパーツ増やしても料理してこなかった部屋の汚いオタクはそこら中に部品ばらまくだけです。HARIOのジャンピングポットが優秀なんでそれでいいです。
 
⑥結語
 そんなわけで、HARIOのジャンピングポットと700W出せるレンジ、あと適当な茶葉と牛乳と砂糖があれば料理が出来なくて部屋がクソ汚いオタクでもそこそこの味の紅茶が無限に飲めます。ルピシアは高いけど喫茶店で紅茶を飲むとそんな程度じゃない金が1杯で持っていかれるので、そう考えると相対的には高くないです。ルピシアは気合入れるときに飲んで普段はトワイニングのクオリティとかでも良い感じ。どちらかというとここ半年の紅茶の経歴をまとめただけの話でしたが、そんなわけでオタクの皆さんも紅茶を飲んでください。本読んだり文章書いたりしているときに手元に茶があると、それだけでなんとなく気分が落ち着きます。今飲んでるのはオルヅォチャイのミルク出しで、500mlも牛乳飲んだら腹が痛くて死にそうです。以上です。

 

 あとなんか小説ブログもやってるんでよろしくお願いします

somenotes.hatenablog.jp

今のメギド72にあえて要望するなら

 メギド72は先月の大型アプデで色々もう完成してしまっていて、正直文句のつけようがないです。にもかかわらずあえてメギド72に「こうなったりしないかな」という個人的要望をまとめました。いやもう、基本わがままな要望でしかなく、すでにスタッフさんはかなり働いていただいている感じなので、本当にあえてレベル。

 普段気になってるところは2つだけです。

 

①攻略チケットを使う枚数を指定させてほしい
 1枚か10枚かは極端で、3回ずつ周回する、という風に細かに区切りたい。私は石を砕くのに何の抵抗感もないけれど、それでも手持ちの石が無いときに「もう面倒だから10回全部回る! どうせ他のメギドの素材にも使うんだし」という面倒故の石砕きはなかなか出来ない。たぶん普通のプレイヤーは石を砕くこと自体に抵抗感があるはずで、ただそれでも1回刻みを繰り返すのは面倒なので、2回使う、5回使うというように指定させてくれてもいいかなあと思います。

 

②クエストリザルトのGET!表示を再検討してほしい
 ある程度ゲームが進んで全マップ金星が付くようになると、素材集めについてはもう推せるメギドを一刻も早く☆6にしたい、ただもう時間の勝負です。そんな時にあのGET!が出てくると躓く! お前の欲しい素材取れたよ! という親切サインかもしれないけどいちいちサインしてリザルト表示のテンポを崩さなくてもわかる! 何より今高速周回してるんだ! という気持ちよさが阻害されて勿体ない! なので、あのGET!サインについては非表示可とか、そういうオプションを正直つけてほしいです。


ここから先はわりとどうでもいいです

 

③☆6とそれ以外のキャラ絵・衣装を変更できるようにしてほしい
 いわゆるアスタロト白衣問題」と言われているやつで、星6以上のキャラ絵衣装とそれ以外のときを変えたい、という意見はもうご意見箱に来てそうだけど、確かに正直欲しくはあります。というのは星6以前の衣装もすごく凝ってて大好きなので……(教官、星6もそれ以外も最高だよね)。ただFGOも初期は再臨ビジュアルの変更が出来なかったとか何とか聞くし、意外と内部処理は面倒臭いのかもしれないです。いつか変更出来るようになったらいいなあ。

 

④乳揺れどないするのか問題
 いやこれ難しい問題です……。キャラデの高木さんは女性も男性もプレイできるようなキャラデを目指したって確かインタビューで答えられていた気がしますが、そのわりにめっちゃ乳揺れる。ナベリウスもフリアエ様も揺れる。とにかく揺れる。セクシーかは微妙だけどあの高いモデル力で揺れる。これは苦手な人も好きな人も居るだろうから難しいけど、個人的にはちょっと控えめにしたほうが無難かなとは思います。でも実際ウケてるのかウケてないのかなんか全然わからないわけで、好きな人は絶対居るんですよね。もっとこう上品な揺れ方はないもんか。
 乳揺れON/OFFは無意味に工数増やすだけだろうし、ってか設定の細かいエロゲーかよって感じだし、このへんは「どういう表現がいちばん安全にウケるか」という無理難題なので、色々試行錯誤していただきたいです。
 個人的にはフォロワーが「あの乳の揺れ方は下着付けてなくて痛いんじゃないかってすごく心配になる」つってたのが印象的だった。ブニさんをめっちゃ心配していた。

 

⑤過去イベストを読み返させてほしい

読み返させてください

 

ここからはさらにどうでもいいです


⑥いつか既出メギドがアレンジエネミーとして登場するイベントが欲しい
 いつかです。やるとしても、たぶんずっとずっと先。 
 既に登場済のメギドのスキルや特性をアレンジしたボスエネミーとして再登場してくるところが見たくて、いやメギドクエストで良いじゃん! って話なんですけど、やっぱりあれはレベル上限が設定されている以上見慣れた普段のメギドと変わらないわけで、「いやこんなんどうやって倒すねん…」というアレンジが見てみたい。一味変えたらこんなに強くなりましたよ、というような。WDイベのサーヤ&キュバ吉みたいな。
 たとえばシャックスとか、たとえばブネさんとか、見慣れたメギドが強ボスキャラとして出てきたら面白いなあと思います(モーションの流用も出来そうだしね)。このへんFGOがうまい。これは今時点でけっこう欲しいけど、でも新キャラをイベで売り込んでいくほうが優先なのは当たり前なので、新キャラが出せなくなった頃合いに欲しい。

 

⑦キャラスキンは欲しいけど、たぶんメチャクチャ面倒くさい
 新しいキャラを出しまくられると心配になるのでこう……衣装変更とか良いと思うんですよね! 水着とか!学ランとか!(ソシャゲか?) 1人1人のキャラに愛を注げるソシャゲだし、新規キャラ作るよりやっぱそういうアレンジのほうが楽じゃないですか! って思いはしたんですけど、まあこれ絶対面倒臭いですよね……。私だったらやりたくなくて、既存キャラの新規モデルいちいち作るぐらいなら新メギドのモデル作るし、てか絶対商売にならんし、これはオタクの妄想に留まるレベルでいいんだと思います。五年後ぐらいに欲しい。
 でもフラウロスの水着は楽そう。

 

⑧いつかAIの改善をしてほしい
 パイモンさんをフルオートで使うと女性が1人しか居ないのに薔薇→アタック→また薔薇の悲しいサイクルを(しかも雑魚戦で)こなしたり、ウァプラさんが無限回転したりするので、そのへんちょっとAIの改善が欲しいです。ただあれだけ多彩なキャラクターが居て、しかもパーティの組み合わせでほぼ性能が変わるに等しいシステムで常に最適解を弾き出すようなAIなんか簡単に作れるはずがなくて、フルオートがある時点でも(エネミーのAIを流用してるのかと思いますが)奇跡に近そう。そうなると個別のキャラごとに作らなきゃいけなかったりするのかなあと考えてみたりするけど、ここの改修は(イマイチ地味なわりに)壮絶なコストがかかりそうなので、マジで我儘レベル。
 八年後ぐらいに欲しい(それぐらい続いてほしい)。

 

⑨サントラ欲しい
 みんな言ってる(まあ出すのいろいろ大変そうな気はしますが)

 

 ってここまで人の意見とかも参考にしつつ一応列挙してみたんですけど、基本的にマジで要望がなかったです。いやすごい。ガチャも基本は期間限定がないので「いつか引ける」という希望を延々と持たせてくれるし(結果的にサバトにバンバカ金出させたほうが儲かる気がします)ドブに相当するオーブは強化素材に使いまくれるし、てかオーブ合成のUI改善で育成ようやく出来るようになったけどメチャクチャ楽しいしで……なんか……マジで不満がないことを書きながら再確認しました。そんなところです。