メギド72『メギドラルの悲劇の騎士』について

悲劇とは何か

マスティマ

「おお、ヴァイガルドよ!
私たちの侵略に怯え、
泣いて許しを請う憐れな
ヴィータたちよ!
このマスティマが、
今こそ真実を語ろう!
この世は悲劇だ、すべての命は
その結末へとさ迷いながらも
歩みを止めぬ愚直な犬だ!
行先がどこかもわからず
ただ群れを成して進む
魚の群れなのだ!
さぁ、雷雨の激しさに戦き、
荒れ狂う海に怯え震えるがいい
かようにこの世は悲劇であると…
私は伝えに来たのだ!
この悲劇の騎士マスティマが!」

 『メギドラルの悲劇の騎士』は、複数の「悲劇」が連なる物語だ。まずヴァイガルドに降り立ったマスティマが迷子になり、行き倒れ寸前となったのも「小さな悲劇」と題される。あくまで他愛ないコントだが、より重要な悲劇が直後に語られる。ヨニゲマン一家への暴力だ。

眼つきがヤバい感じの村人
「そりゃあ、あんたは
村の恩人かもしれねぇが…
あんたのその「方法」で…
…子供がいなくなったのは事実だ
子供を奪われた親の収まりが
つくはずねぇんだ
なぜならヨニゲマン、
あんたにも子供はいて、そっちは
無事なままなんだからな!」

 なぜ重要なのか。これがヴェルドレへの暴力をめぐる論理と、近い位相にあるからだ。
 ヴェルドレは、確かに街の対立を解消し、混乱から救い上げたかもしれない。しかし、それと実際に関係したかは別として、女たちは「男の愛」を決定的に喪失し、ヴェルドレは尚もそれを持ち得ながらも、平然と拒んでいる。

 「村」を「街」に、「親」を「女」に、愛する「子供」を「男の愛」に置き換えれば、村人の語りはそのままヴェルドレへの暴力の論理になる。「嫉妬」と別の言い方をするならば、「収まりがつ」かないのである。
 では、マスティマはそれをどう止めたのか。

マスティマ
「待ちたまえ!
「それ以上」は悲劇になる
それゆえに、私が認めない!
(…)恐怖に突き動かされ…
あるいは焦燥にかられ、怒りが、
嫉妬が、閉塞感が、私たちの
「魂」を突き動かす
それを、衝動のままに許すとき
悲劇は生まれるのだ
考えるのだ、ヴィータ
「もし」ヨニゲマンに今、
制裁を加えたあと…
…子供が無事なまま帰ってきたら、
キミたちは彼にどのようにして
責任を取るつもりなのかな?」

 ソロモン王が息子を捜索しているから待て、というのがマスティマの主張だ。
 それに対し、村人が反論する。 

眼つきがヤバい感じの村人
「…あんたの言うことはわかる
俺たちをただ非難するではなく、
尊重しようとしてることも…
…だけど、怒りや悲しみは
理屈じゃないんだ!」

マスティマ
『「わかるとも」
(…)そう、衝動に突き動かされるとき
私たちの行動は「理屈ではない」
私自身それを「よく知っている」
…知っているのだ
その結果、悲劇が大喜びで
関わった者たちに与える「罰」を
(…)後悔』

 つまり、マスティマ自身「衝動に突き動か」され、「罪」を犯し、「後悔」しているという。同じ「悲劇」の経験者として、お前の気持ちは理解出来る、という。

 「悲劇」とは、「恐怖」や「焦燥」や「怒り」や「嫉妬」や「閉塞感」が、「魂」すなわち情念と「衝動」を突き動かした結果、巻き起こる「暴力」である。この「悲劇」の定義は作中で一貫している。ヴェルドレへの暴力は「愛の悲劇」だし、マスティマの悲劇は自殺、すなわち自己への暴力である。
 
 さて、ヴェルドレは、中央議会の騎士によって滅ぼされた、まつわろぬ者の生存者だった。「秘密の古戦場」におけるその影響を、最初から見抜いていたのがアマイモンだ。

アマイモン
「…ズレてるのは、僕も感じます
周囲への影響も含めて、
少し危険な存在な気がしますね」

 この「影響」は、後々まで長く続くものだったはずだ。たとえば同じ旅団に育ったマスティマは、乳牛を「彼」と呼んだとき、農夫に「乳出すから「彼女」ずら」と訂正され、それを素直に受け入れる。

マスティマ
「それは失礼した!
このような身体を得ることは…
…男女の区別を得ること
メギドはそれを知っていながら
その方面には疎くてね」

(それは大事なことだと…
「彼女」も言っていた…)

 「彼女」とはヴェルドレのことであり、踊り手故に自らのヴィータ体の性別を理解するのは重要だったのだろうが、それはマスティマにまで「身体」は「男女」の性差を有するという、純正メギドには特異な認識を与えていた。
 もうひとつ、彼女が下等生物と見ていたヴィータに最初に感銘を受けるのは、案山子を自作したという農夫の造形の能力だ。破壊と戦争に慣れ親しんでいるはずのメギドが、このような創造に興味を寄せるのもまた、特異な描写だろう。軍団内で例えるなら、アルテ・アウローラの面々に近い素質があるはずだ。
 造形はともかくとして、少なくとも性差の認識に関しては、ヴェルドレの影響は間違いなくあっただろう。

 ひとつ、興味深いやり取りがある。

アマイモン
「僕はまつろわぬ者のことが
知りたかったのですが…
それを知ろうとしていることを
知られることが今後の不利益に
なるかもしれませんから」

ヴェルドレ
「うん…うん…
ぐるぐるしててわかんない
知りたかったことを
知ろうとしていることを
知られたくないから…?」

 『メギドラルの悲劇の騎士』は悲劇の物語であり、悲劇とは暴力の果てしない円環である。この「ぐるぐる」は何気ないけれど、物語の主題と形式をさっと言い当てた一語でもある。

 そのヴェルドレの舞とは、どのようなものか。

ヴェルドレ
「ビルドバロック時代から
伝えられてるものなの
メギドがヴィータの姿を
取ったとき、動きを理解する
「型」から進化したらしいわ」

 紡ぎの舞は、そもそも「ペルペトゥムで踊られたメギドを歓迎する踊り」(4話)であり、それが「持ち帰られて、メギドたちに真似されるようにな」り、「ヴィータ体により馴染み上手に身体を動かせるようになる訓練として」転用された。彼女を使い捨てようとした「秘密の古戦場」の訓練が、ヴィータ体への順応を目的としてたのは、いささか皮肉な呼応ではある。

ヴェルドレ
「…踊るのは好きだけど、
誰かが見てくれるのはもっと好き
どうだった?」

アマイモン
「(…)言葉が思いつかない
目が離せなかった、あれは…」

マスティマ
「…「魅力的」だった」

ヴェルドレ
「!!!!」

 まつろわぬ者唯一の生き残りであったヴェルドレの孤独は、体制的な集団において一層深まったはずだ。理解されないと思っていた踊りを、そこで「魅力的」と讃えられたのは、喜ばしい瞬間であったに違いない。

ヴェルドレ
「あんな集団に放り込まれて
もう二度と笑ったりできないと
思ってたわ、「ありがとう」!」

マスティマ
「…「うれしい」」

アマイモン
「…「ありがとう」」

 鍵括弧に囲まれた言葉たちは、「秘密の古戦場」では決して口にされない、不慣れな単語だったのだろう。ヴェルドレは喜びを与えられたことに感謝し、アマイモンは彼女の喜びを喜び、アマイモンは彼女の感謝を感謝する。それが彼らの喜びの円環であり、「遠き情景」だった。
 その関係の終わりは「悲劇」だった。

軍団長
「夜ごとの秘密で親交を深めた
3人が別れなければならんのは、
悲しいことかもしれん
(…)そう、これは「悲劇」だ
(…)どれほど親交を持とうとも、
いつかは別離のときが来る
所詮メギドは1体1種
結局は別の道を進むことになるのだ
そうでなければ「個」を尊ぶべき
メギドとは言えないからな」

 重要なのは、この「悲劇」を導く情念だ。
 マスティマは、旅団長からアマイモンとヴェルドレが二人で脱走したと知らされ、強く動揺する。彼を決闘で昏倒させ、友達だったのではないかと彼女に問い詰められ、激昂する。

マスティマ
「友達だったともっ!!
キミのことも、そうだと
信じていたっ!!
(…)どうして「2人」で」

 つまりマスティマが「悲劇」に直進した衝動は、「嫉妬」や寂しさの入り混じった感情だった。「2人」から置き去りにされた痛みだった。

ヴェルドレ
「…アマイモンが
騎士を目指すあなたに
迷惑はかけたくないって
(…)アマイモンはただ、
「別の視点」を持つ者から
話を聞きたかっただけなのに…!」

 マスティマは沈黙する。彼女を置き去りにするためではなく、友情故にこそアマイモンは二人で旅立った。そのことにも思い至らず、ただ衝動と暴力で友情を破壊した己の行為は、まさしく「悲劇」だった。

マスティマ
「…後悔しているのだ
長いときを経て、ただそれだけを
ゆえに、キミに会いたい
ただキミの踊りが、今はこの世界で
輝いていることをたしかめたい
ヴェルドレ
今ははるか遠き、私の情景
再びそれを目にしたのち…
…私は、私を殺し
この悲劇を最後まで終わらせるのだ」

 こうしてマスティマは軍団内で力を認められたにもかかわらず、ヴェルドレへの執心のために全てを捨て、ヴァイガルドに旅立った。
 似た境遇の経験者が、プルフラスだ。
 マスティマとプルフラスは、共に復讐者だった。ただ、プルフラスの復讐対象はサタナキアという他者であったのに対し、マスティマは彼女自身への復讐、自死こそが目的だった。
 積もり続けた自責、自己への暴力は、最後には自らを殺すことでしか止まられない。
 それがマスティマの悲劇だった。

愛の悲劇、奪われた悲劇

 ヴェルドレの無残な姿に、マスティマは絶望する。踊り続けていると思い込んでいた友が、手足と自由を奪われ、個の核たる舞踏さえ奪われた。それを、知りもしなかった。マスティマには、あまりにも絶望的な帰結だった。
 興味深いのは、次の描写だ。

ヴェルドレ
「…遠い情景を思い出して
…私は後悔しているの
…踊っていたかった
…無心に、ただ
…踊っていたかった」

 それを聞いたマスティマは「やめてくれ」と絶叫する。「遠い情景」を破壊したのも、ヴェルドレから踊りを奪ったのも、すべて自分の引き起こした「悲劇」が原因だ。その無残な事実を突き付けられるのに、耐えられなかった。
 もうひとつ、可能な読みがある。
 振り返ると、この第3話の「奪われた悲劇」という章題は奇妙だ。出来事としては、無残な姿のヴェルドレを発見する程度しかないからだ。
 となると、「悲劇」が「奪われ」た瞬間は、マスティマがヴェルドレの呟きに絶叫したときぐらいしか残らない。

 では悲劇が奪われるとは、どういうことか。
 これはマスティマの言葉だけでは分からない。けれど、別の「悲劇」における叫びを下敷きにすれば、ひとつの意味が浮き上がってくる。
 それは、4話のアンガ婆さんの叫びだ。
 先んじて書くならば、アンガ婆さんとマスティマは、同じように「愛の悲劇」を生き、そして「悲劇」を「奪われ」て慟哭する者たちだ。
 
 マスティマが騎士たり得たのは、その「悲劇」の旅立ち故であり、だからこそ彼女はヴェルドレを数百年に渡って想い続けた。
 こんなやり取りはどうだろうか。

ユフィール
「別のよく似たヴィータの身体から、
「部品」を切り取って移植します」

マスティマ
「殺すのか」

ユフィール
「方法論のひとつとしては
または死体から新鮮な部品を
手に入れる方法もあります」

マスティマ
「(…)私の手足ではダメなのか
問題ないなら提供する」

 ヴィータ体の損壊は死に等しい。ヴェルドレが再び踊るには四肢の全移植が必要だから、これは自分の命と引き換えに彼女を救ってくれ、と請願しているのにも等しい。
 さらりと書かれているが、ここにあるのは無私の愛であり、究極の自己犠牲だ。過去に旅団長から予言された「1体1種」の孤独から、マスティマはとっくに逸れていた。
 そう在れなかった。

 何故ヴェルドレは、破滅の待ち構える街にわざわざ戻ったのか。その答えは結局最後まで物語られないが、推測は出来る。

路地裏の男
「この街にはかつて、2人の男がいた
高潔なる騎士オルパイラーと、
天才策略家トッカルオだ
(…)それが、街を訪れたヴェルドレに
同時に恋をして言い寄ったのさ」

 騎士と策士。マスティマとアマイモンを彷彿とさせる人物が、自分をめぐって対立したのが、何よりヴェルドレには耐え難かったのではないか。マスティマとアマイモンが共にヴェルドレを想い続けていたように、彼女もまた「遠い情景」の友を想い、悔やみ続けていたのではないか。

路地裏の男
「罪悪感を覚えたのか、
それとも親切心からなのか、
殺し合いなんか嫌だったのか…
とにかく彼女は戻ってきた
そしてオルパイラーとトッカルオを
街の大広場まで呼び出した
我も我もと詰めかけた群衆の前で
ヴェルドレは、今度は逃げずに
はっきりとその2人をフッたんだ
たかが女1人で、街の者たちに
殺し合いまでさせることなんていかに
ちいせぇことか、説教もつけてな
(…)…かっけぇよなぁ、
俺は、この話が大好きで
ヴェルドレのファンになったんだ」

 路地裏の男の「罪悪感を覚えたのか」「殺し合いなんか嫌だったのか」という推量は、遺骸にも事態を正確に言い当てていたはずだ(ヴェルドレ自身は、そう語りはしないだろうけれど)。


 4話はアンガ婆さんの絶叫で結ばれる。

アンガ婆さん
「ま…
待つんだよ…
待って…
待っておくれよ!
行かないで…
行かないでおくれぇ!
そいつに逃げられたら、
あたしの人生はなんだったんだい!
憧れだった男は廃人になって
大好きだった姉さんだって
大好きだった男に殺されて
そいつが原因なんだ!
そいつさえいなけりゃ…
(…)ずっと憎んできたんだよ!
それだけがあたしの
人生だったんだ!
素敵なものを奪われたんだ、
そうするしかないだろぉ!?
なのにそれまで…
それまで奪っていかなくたって
いいじゃないか!
もう老いて先もないのに!
今更…
…今更あたしの人生の意味を
目の前から奪っていくなんて
あんまりだよぉ、あんまりだ!」

 マスティマは自らを「悲劇の騎士」と名付け、後悔と罪悪感、そして己への憎悪を生の支えとして生き続けてきた。愛するものが全て失われる、その遠因たるヴェルドレを憎み続けることが老婆の人生の支えであるならば、悲劇を成し遂げた自分を憎み続けることこそが、マスティマの生の、最後の地盤だった。
 自己への憎しみを以て生きるしかなかったマスティマと、他者を憎しみ続けるしかなかったアンガ婆さんは、極めて近い位相で隣り合っている(アンガ婆さんを幻獣から助けるのが、かつての復讐者プルフラスであるのも偶然ではないのだろう)。老婆が老いと人生の終焉を目していたとき、マスティマ自死を考えていた。

アンガ婆さん
「最後までやらせておくれよ!
返しておくれ!
あたしの憎しみを
返しておくれぇぇぇ!!」

 罪を悔いるべきは、ただ自分ひとりだけ。
 そう頑なに思い続けていたマスティマに、ヴェルドレ自身もまた自らの過ちを悔いていたという事実は、あまりにも残酷だった。そしてヴェルドレは、己と罪を分かち合ってくれる心と言葉すら持ち合わせていない。
 アンガ婆さんの言葉を借りるならば、廃屋で慟哭したマスティマの声は、「私の罪を返してくれ」という叫びだったのではないか。
 自分ひとりだけが悪者であれば良かった。
 自己への憎悪が壊れてしまうなら、「私の人生はなんだった」のか。愛していた踊り手は廃人になり、愛していた友は他ならぬ己に殺された。自分さえいなければ、それを憎むことだけが、自分の人生だったはずなのに。それが、「悲劇」が「奪われる」ということではないか。

 もうひとつ、アンガ婆さんとマスティマを結び付けるものがある。それは4話の章題である「愛の悲劇」だ。マスティマは二人の友を愛していた故にこそ、逃亡の「共犯」として選ばれなかった悲しみに突き動かされた。老婆は姉と男を愛していたからこそ、ヴェルドレを生涯憎み続けるしかなかった。
 「愛の悲劇」は、一見ヴェルドレの引き起こした悲劇を指しているように見える。

路地裏の男
「たとえば舞台で踊り始めたら、
もう途中ではやめられないだろ
下手くそだろうと失敗しようと、
とにかく最後までやり遂げる
しかないじゃないか
「それと同じ」さ
いい悪いの話じゃない、
最悪なのがわかってても…
…最後まで、やり遂げる
(…)だからこれは「悲劇」なんだ
ただただ、悲劇でしかない
愛の悲劇、さ」

 しかし、ここで「最後まで、やり遂げる」のはヴェルドレではない。「最悪なのがわかってても」「やり遂げ」るしかなかったのは、愛する者を奪われた女たちだ。
 そして、物語で「愛の悲劇」を引き起こそうとしていたのは、愛する姉と男を失ったアンガ婆さんであり、愛する友を失ったヴェルドレだった。

紡ぎ紡がれる円舞

リリム
マスティマの目的は死ぬこと
(…)マスティマは、最初から…
騎士になってからも…
高潔であろうとすればするほど
かつて自分がしたことを
許せなかった
それが限界に達した頃…
ヴェルドレの生存を知ったの
転生してまだ生きてるって…
アマイモンは死んだと思ってる
だから詫びる相手はもう、
ヴェルドレしかいない
だから執着してる
ヴェルドレだけでも、幸せに
生きていけるって見届けたかった
そのために偏見を持ってた
ヴィータのことさえ、認めた
たとえヴィータでも、踊れればいい
ヴェルドレの個はそれで認められる
そしてそれを見届けて、自分は
死んでアマイモンにも詫びる
(…)それが、マスティマの目的
これまでの行動原理
(…)だけど彼女は…
ヴェルドレを助けることが
まずできなかった
(…)わかったのは彼女が二度と
踊れないということだけ
マスティマは今、宙ぶらりん
後悔しかない、絶望しかない
まともなことも喋れない
ヴェルドレを抱えてただ泣いてる
(…)これが「悲劇の騎士」
これを終わらせてほしいから…
…みんなの前から、逃げたの
さよならを告げるでもなく、
逃げたのは、追ってほしいから
自分が怒りに染まって
ヴィータに復讐するって
疑ってほしかったの」

 「遠い情景」を失った地で、物言わぬヴェルドレを抱いて涙し、最後はヴェルドレの死んだ街で、悲劇の演じ手のように、虐殺の「演技」をする。そうすれば、きっと殺してくれる。
 そんな思惑があったのではないか。

 かつての決闘で、アマイモンはマスティマに敗れた。それは「必死さで、真剣さで、執念で」負けていた。マスティマはこのとき、置き去りにされた苦しみで、既に勝っていた。けれど、アマイモンもまた、己の過ちを悔い続けていた。

リリム
「昔の自分を思い出して…
もっとうまくやれたかも
なんて思わないで
自分を許してあげて
あれは「失敗」なんかじゃないよ
素敵な思い出を…取り戻して」

 マスティマが悲劇を自らの名に刻み、苦しみを反復したのに対し、アマイモンは過去を抑圧し、追憶を自らに禁じた。けれどその抑圧の源泉は、「もっとうまくやれた」という後悔、「自分を許」せない怒りだった。

アマイモン
「僕が考えるに…
…武器を下ろすことで
回避できる悲劇もあるのですよ
このように
(…)そう、決着はつかない
ただ、それは「悲劇ではない」
(…)思いどおりにいかぬ現実を相手に
僕もまた自分がやるだろうことを
「しない」ことで対抗する…
…智ではなく、心ですよ
それもまた、未来を変える
「戦術のひとつ」なのですよ」

 メギドの本性は、戦争への欲望であり、「1体1種」の孤独だ。決闘ならば、相手の命を奪うのが自然な成行だ。けれど、その悲劇、衝動、暴力の連環に対して、「心」をもって「武器を下ろす」。それが悲劇を断ち切る。マスティマと、他ならぬアマイモン自身の罪悪感を断つ。
 それが彼の、もうひとつの「断罪」だった。
 マスティマは友と和解し、「縛られた現実」から解放される。アマイモンもまた、封じていた記憶を取り戻すことを、己に許す。

ソロモン
「…俺は、ソロモン王だ
アンタを助けに…
いや、迎えに来たんだ
(…)迎えに、来れたんだよ
いろんな人たちが、この
「遠き情景」まで紡いでくれたから
(…)最後に俺はただ、指輪っていう
着替えの部屋と、材料になる
フォトンを提供するだけだ」

 『メギドラルの悲劇の騎士』は、実はソロモンの活躍はこれまでの物語と比してそう多くない。彼が謙虚に語る通り、「助けに来た」のではなく、あくまで物語の終着点で「迎えに来た」に過ぎない。

 踊りを愛するリリムが、異界に失われたヴェルドレの魂を再びこの世に迎え直そうとするとき、彼女もまた別のかたちで「紡ぎの舞」を踊っていた。別の言い方をすれば、「いろんな人たち」が知らずして「紡ぎの舞」を重ねていたからこそ、ヴェルドレを愛した男が、舞踏や美貌を失った彼女を世話するよう命じていたから、二代目旅団長が夢見の者にヴェルドレを探させたから、マスティマが生存を知らされたから、夢見のリリィがリリムに助力を求めたから、リリムが複数の夢を渡り歩いたから、アマイモンがミュトスを送り出し、ソロモンがその依頼を受けたから、遠き情景への道が編まれた。

 
 物語は、二代目旅団長の言葉で結ばれる。

旅団長
「…悲劇みたいなのはよ、
許しがたいものなんでな」

 それはマスティマの、「悲劇というものはね、キミ」「許しがたいものなのでね」という言葉と呼応している。
 彼らは共に、ヴェルドレの紡ぎの舞に心を奪われた。ビルドバロック時代、敵味方を問わず魅了する術として研究されていた域まで、果たしてヴェルドレの舞が深化していたかは分からない。しかし、彼らが他者に降りかかる「悲劇」を許せなかったのは、この舞からではないか。

ヴェルドレ
「私は、燃えさかる炎…
形の定まらない揺らぎそのもの…
法則のない躍動…
(…)私は、吹き抜ける風…
時に優しく、時に気まぐれに…
そして…
時には、激しい突風となる!」
(ヴェルドレの章・4章)

 悲劇はマスティマが最初に語ったように、その結末へと」「愚直」に「歩みを止め」ず、「ただ」直進する情念の終着点でしかない。それは仮に踊りになぞらえられるとしても、「途中ではやめられない」「下手くそ」で「失敗し」た(4話)ぎこちなく硬直した足のもつれあいに過ぎない。
 対して、「舞」は「時に優しく、時に気まぐれに」変幻自在な動きとしてある。

 ヴェルドレはただ己の喜びのままに、自由に踊り続ける。
 だからこそマスティマは、再会を喜びながらも、軍団や戦争に縛られることを拒み飛び出していく彼女を、ただ静かに見守っていた。
 
 かつて遠い日々、ひとりの踊りを見守り、そして悲劇から決別しなければならなかった者たちが、同じ踊りのもとで「縁」を繋ぎ直す。『メギドラルの悲劇の騎士』とは、そんなしなやかな、何重もの円舞の物語だったのだろう。

メギド72『フルカネリ、最後の計画』について

※メインストーリー8章2節までの重大なネタバレがあります。

 支配と自立

 『フルカネリ、最後の計画』は、もちろん前後編にまたがって続く物語の前半に過ぎない。デカラビアの真意は明かされないし、ひとつの物語としてある程度完結していた2018年、2019年の前編と比較しても、まだ何の物語も終わっていない。
 メギドはプレイヤーの予想を裏切るのが大好きだし、ここで予想をしたところで大した意味はないけれど、でも『フルカネリ、最後の計画』は物語後半まで続くだろうひとつのテーマを擁している。支配と自立だ。
 そしてそれは、「多様性」というメギド72の主題に大きく関連するはずだ。「多様性」は、強力な支配下において花開くものではない。それぞれが多様性を発揮するには、それぞれの自立が確約されていなければならない。たとえば「多様性」の果ての「混沌」を象徴するアスモデウスが、誰よりも強烈な我を発揮しているように。あるいは軍団で最も戦闘を忌避するスコルベノトが、その忌避自体は許されているように。

 『フルカネリ、最後の計画』は「洗脳」と「強制力」という支配を行使するデカラビアとフルカネリに対峙する物語だ。
 そうはいっても、デカラビアの立ち位置はどうも複雑なようだ。たとえば、ヴェステン公国である。暗君に統治されていた公国を、デカラビアは「洗脳」という別の支配の果てに救った。それでも彼は悪人か、とフルカネリは問い、ソロモンも一瞬『「だったらいいか?」みたいな顔』(1話)をしてしまう。
 そのヴェステン公国は、エルプシャフト文明圏——というけれど、実際にはハルマの間接統治下にあるものと見ていい。
 

カマエル
「こっちも陛下を通じて何度も
統治を改める通告を出してたんだ!
それが最後通牒の手前で、
悔い改めたと書面をよこして
きやがったんだぞ!
誰だって「脅し」が効いたと
思うだろうがよ!」
(2話)

 カマエルのこの反応は、「陛下」とフラム王の立場を立ててはいるが、実質的な統治者の反応だろう。歴代のエルプシャフト王族がハルマの助言や命令に従わなかったとは思えないし、その意味ではある程度の自立が許されているとはいえ、文明圏とはハルマの支配領域の意に近い。

デカラビア
「まったく気に入らんな
ヴィータの世界の出来事に
ハルマどもが干渉する…
それはこの上ない「歪み」だ
そんな世界は滅びたほうがいい
…そうは思わんか?」
(5話) 

 デカラビアの言葉を借りれば、その支配は「歪み」である。たまたまその支配者がハルマというだけで、ヴィータを卓越した能力を持ち合わせているのであれば、それがメギドであった可能性もあり得ないわけではない。だが、いずれにせよ、それらはヴィータの世界においては「よそ者」からの内政干渉、すなわち「歪み」なのである。
 フルカネリ商会が最初に登場したのは、同じくヒュトギンが初登場した『その交渉は平和のために』だが、舞台となるトーア公国もまた、ヴェステン公国と並んで「国」を名乗ることが許されただけの支配領域だった。トーア公は背後のハルマにまで意識が向いていなかったかもしれないが、いずれにせよ彼の反乱計画はエルプシャフトという統治権力への対抗だったし、それを「愛と正義」のフルカネリ商会が利用したのだった。

 『メギド72』という物語が(このあたりはサービスの継続時期によるから一概には言えないけれど)最終的にハルマとの物語も書き綴るならば、彼らがヴァイガルドにおける実質的な支配層という設定は当然見逃せない。
 たとえばこんなやり取りはどうだろうか。

ガリアレプト
「でも大砲は、幻獣に限れば
かなり有効な手段と
言えるんじゃないかしら」

ガブリエル
「…かもしれませんね
ヴィータ自身が戦う気ならば」

ガリアレプト
「あ、そういうことなのね
三つ巴のハルマゲドンなんて
ごめんだわ、不毛な議論だったわね」
(『ソロモン王と悪魔の鏡』)

 ここでアガリアレプトが話を切り上げるのは、「三つ巴」すなわちメギドとハルマに限らず、ヴィータが「大砲」すなわち武力を持つことの面倒さに気付いたからだ。それは、ハルマによる安定した統治体制を乱しかねない。事実、ヒュトギンがフルカネリ商会を強く敵視するのは、彼らによるマキーネの普及が戦禍を呼び起こしかねないからだ(1話)。

 実のところ、ヴィータが自己の防衛戦力を有するべきだという発想は、何ひとつ間違っていない。『フルカネリ、最後の計画』の冒頭ではマキーネの登場を喜ぶ学者が登場するし、レラジェが語るようにそれは「自衛するための力」としては「下手な傭兵よりもずっと強」く、「たぶん経済的」だ(この「経済的」のニュアンスは難しいけれど、ヴィータの命と比べれば、どんなマキーネも「経済的」だろう)。

 あくまでエルプシャフト文明圏はハルマに守護された(世界全体からすると、おそらく)極手狭な領域に過ぎず、たとえば幻獣相手に王都の騎士団が防衛戦力として役割を果たせているかは疑問だし、そこから外れた辺境となると貧相な「自警団」を作り上げて対抗するしかない。そもそもマキーネという幻獣にも対抗し得る新技術があるならば、まずは王都の防衛戦力として活用してもいいはずだ。ハルマがそれをしないということは、相応の思惑があると取っていいのだろう。

 つまりマキーネは、ヴィータが自立するための基盤となり得る力だった。デカラビアの真意や計画、その生涯、在り方については未だ書かれていないが、おそらくはメギドであるからこそ、実質的なハルマの支配下にある現在のヴァイガルドの歪さを理解出来たのではないか。

 その力をヴィータが手にするきっかけとなったのが、タムスとデカラビアの偶然の出会いだった。タムスはその「個」に則り、ただマキーネを愛し続け、そしてその技術をヴィータへと伝播させることになる。
 たとえば『悪夢を穿つ狩人の矢』のネルガルも、同様にヴァイガルドの水準を遥かに超越した技術を伝え広げることになるが、そこにはバフォメットという調整弁があった。タムスにはそれがなかった。

 だが、いずれにせよ「大砲」が開発される日は遠くなかったのではないか。
 メギド72が描くヴァイガルドはあくまで世界の一部に過ぎないだろうが、ヴィータはその個体数の多さからか、卓越した技術を有する存在が少なからず居る。たとえばセーレの義父・ダディオはその好例だろうし、飛行機(ベリトBのキャラエピ)の開発に成功したヴィータすら居る。
 幻獣がヴァイガルドに与えた影響は甚大だった。
 それはキャラバンの交易を苛酷なものとし、技術の交通を困難にしただろう。裏返せば、ソロモンとシバの女王がヴァイガルドに平和を取り戻すことで、交通は再び可能となり、それまで抑圧されていた文化が新たに花開くことになる。たとえば、『カカオの森の黒い犬』では、贅沢品であるチョコレートをめぐる商習慣が成立したのは、ソロモンの尽力の結果なのだと説明されていた。そもそも、原料であるカカオマスからして、遠方のクリオロ村との交通無しでは入手出来ない。
 故に、仮にハルマが抑圧しようとしても、たとえば技術者が互いの知識を交換し交通させたとき、「大砲」の開発は決して遠い未来ではないはずだ。

ソロモンとタムス

 タムスはソロモン達の仲間となり、フルカネリ商会と激しく対立する。その対立の理由は明快だ。

タムス
「戦って壊されんのは腹立つが
仕方のねェことではあるからな
(…)自爆そのものだって…
最後の最後の手段で使う分には
悲しいけど受け入れてんだ…
だけど…さっきのは別だぜ
いきなり自爆なんて…
あれじゃ「道具」じゃねェか!
オレがアイツらの「個性」を
引き出すためにあれこれ考えながら
直してやったのに…
あんな使い方じゃ意味がねェ!
オレの「仕事」を…!
アイツらは台なしにしやがったッ!」
(4話) 

 一見同じ外観のマキーネを識別番号で細かく判別したように、タムスにとってマキーネは単なる道具ではなく、「個」を有した存在なのである。フルカネリ商会がどのような野望を有しているのかタムスの知るところではないが、少なくとも自身の愛する機械を使い捨ての「道具」として見なす態度において、彼らとタムスが相容れることは絶対にない。
 タムスの機械への偏愛は、標準的な道理を超えている。
 カンセに使役された彼らの自爆をその身で受け続けるのもそうだし、戦いのための駒としての側面は認識しながら、そこに多様な「個」を見出している。単なる「道具」への情念では説明がつかないし、マキーネを商売道具や自衛力と見なすこともない。
 似た思想の持主がひとり居る。ソロモンだ。

???
「…お前はなにができる?
(…)暴力は好きか?
蹂躙は好きか?
メギドの長になって
他者を使役し、他者を踏みにじる
他人任せの暴力は好きか?」
(『折れし刃と滅びの運命』) 

 『折れし刃と滅びの運命』でソロモンが幻聴の声に苛まれるのは、そのものずばりソロモン自身の密かな自己認識を言い当てているものだと見なしていいだろう。裏返せば、どれだけソロモン自身が身体を張り、仲間たちとの関係が良好であろうが、指輪による支配は(デカラビアがベリアルに対してそうしたように)「道具」としての側面を併せ持つ。
 集団の長とは、他者を駒として使役する支配者でもある。
 支配の極北とは処罰である。支配者が他者の裏切りを処罰出来るのは、その人自身が法であるときである。メギド72という軍団は、実のところソロモン自身がメギドたちの拘束を厭うことで、厳格な規則を設けることはほとんど無い)。その場その場でヒュトギンとバラムがソロモンを交えて議論したように「一線」を定め、日常生活においてはフォカロルやウォレファルのような個々人の「説教」が最低限の秩序を形作っている。

 『美味礼賛ノ魔宴』から『フルカネリ、最後の計画』に至るまで、バラムがソロモンを見定めようとしているのはこの「処罰」が可能な器かどうか、ということだ。どれだけ仲間に情があろうが、その相手が過ちを犯した時に罰することが出来るか。故障品に対してそうするように、「道具」として廃棄出来るか。
 それだけの冷徹さを、軍団の王として有することが出来るか。

バラム
「だけど、目を逸らすわけには
いかねえ話だろ?
「軍団に裏切り者がいた」のなら、
その処断は軍団長の責務だからな」
(1話) 

 それは若干18歳のソロモンには苛酷な課題だろうが、けれどメギド72という集団としてメギドラルと対峙しようとする以上、必然的に求められる能力でもある。
 事実、それが問われていたのが8章のフォルネウスであった。一方で、そこではフォルネウスはソロモンに処刑されることを選ばず、自身の身を投げ打って世界を護ることを選んだ。
 つまり自分から進んで自死に至ったわけだし、その厳格さはフェニックスが部分的に引き受けてしまった。デカラビアの物語はその再話のようだが、8章で語り切れなかったものの語り直しになるんじゃないかなと、個人的には思う。

 とはいえ、ソロモンがメギド達を単なる駒として扱っているはずがない。彼らは大事な仲間であり、死した時には当然涙する存在だ。ウェパル、フェニックス、フォルネウスの三者三様の死において、ソロモンはいずれも打ちひしがれ、最も長く旅したウェパルとの別離においては、その意志を挫かれさえした。
 それは、マキーネの破壊を嘆くタムスの姿に似ている。

 「指輪」は本質的には「支配」の道具である。
 フルカネリ・デカラビア・ソロモンというアルスノヴァ形質を持ち合わせた三者において、彼らが共に他者を「支配」する人物なのには変わりない。ただ、ソロモンにおいては(タムスがマキーネに対してそうであるように)没個性な「道具」ではなく相手の「個性」すなわち自立した人格を見なす感性があり、可能なはずの「強制」を避けることになる。
 処罰すべき人物に相対したとしても、彼はフォルネウスに対してそうしたように、まずは一個人としての対話を選ぶ。そんなソロモンだからこそ、ベリアルはその「魂」に触れられる感触を、不快なものとして退けなかったのだろう。

 裏切りと秘密は、関係の故障だといっていい。ソロモンはそこで、関係の放棄ではなく「修理」を選ぼうとする。
 たとえば『心惑わす怪しき仮面』でサタナキアが極秘の実験を続けていたことに、ソロモンは彼の研究への熱意を理解しなかったこと、その事情を打ち明けられなかった責任を同じ目線で担保しようとした。タムスはマキーネが自爆しようとしたとき、それを自身の身を以て止めようとした。
 力の封じられた追放メギドに力を取り戻させるソロモンと、壊れたマキーネを発掘して再起動させるタムスの立場は、そもそも似通っている。もっともタムスの機械への愛と、ソロモンの味方への仲間意識とをまったく同じ盤面で語ることは出来ないだろうが、『折れし刃と滅びの運命』で共に故郷の「滅びの運命」を体験したアガレスと、あるいは8章3説で故郷喪失者としてのフォルネウスとソロモンの在り方が重なったように、ここでタムスはソロモンの「王」としての在り方を反映している。

 もちろん『フルカネリ、最後の計画』から続く物語においてもっとも重要な登場人物は、当然デカラビアだろう。
 同じ指輪の行使者とはいえ、デカラビアとフルカネリにおいて思想の差異があれば、それが物語の駆動力になるかもしれない。ただ、デカラビアがリジェネレイトする物語において、「修理屋」すなわち壊れたものの再生(=regenerate)を担うタムスの存在が、ちょっとでも面白い方向に作用してくれれば、これ以上嬉しいことはない。

書くことを作業にするために

 絵を描く人はよく作業という。言葉を書く人は、あまり使わない言葉だ。たまたま共通する言葉に、原稿がある。これは、もうすこし作業の色合いを帯びた語かもしれない。とはいえ、絵や漫画を描くことは工芸的な作業として見なされがちだが、言葉を書くことは頭を使う、考える仕事のように思われがちだろう。
 人は考えながら書く。あるいは、言葉は考えることを強いているともいえる。人は考えるときに言葉を用い、言葉を用いない思考を直感と呼ぶだろう。私は絵を描いた経験はそうないが、線を引きながら考えることはあまりない気がする。
 考えながら書くのは大変だ。私が言いたいのはただそれだけのことだろう。
 言葉には文法がある。日本人の大半は日本語文法に何年も漬かってきているから、このルールに則って書き続けることは難しいことではない。しかし、文法という思考と、内容をめぐる思考を同時に並列するのは、あまり気付かれないが、大変なことなんじゃないか。
 考えることと書くことは、別の作業であったほうがいい。考えながら書くことは、単純に二倍の労力がかかる。なにより、書けなくなったとき、人は暗い画面の前で、ぼんやりと時間を潰さなくてはならない。
 これは相当な苦痛で、その記憶自体が書くことを嫌にさせる。
 書くことはひとつの感情の持続だろう。三島由紀夫が小説家の仕事を銀行員にたとえたのは有名な話だし、ジャック・ロンドンは毎日書くことを推奨している。たしかフォークナーが、私はインスピレーションに基づいて書いていて、それは毎朝同じ時間に来る、と洒落たことを書いていたのを引用で読んだ気がする。
 英語には、writer's blockという便利な表現がある。どうにも書けない状態のことだ。あらゆる書き手はその壁に閉じ込められることを経験するだろう。毎日書いているほうがその期間を脱する速度はより速い、という研究をこの前見つけた。
 しかし、人は生活する。
 書いて日銭を稼げる人は稀だろう。ますます稀になるかもしれない。人は安定した生活に誘惑される。私はそうだ。仕事は感情を動揺させる。大学時代や、実家にいるときは気軽に書けても、ひとりで生計を立てるとそうはいかない。毎朝同じ時間に書けといっても、毎朝同じ気分でいることは難しい。
 私は朝の寝覚めが悪い。
 最初、書くことは、悪い現実から少しでも目を逸らすための、鎮痛的な気晴らしとしてあったのかもしれない。しかし、暗い画面を繰り返し凝視しているうちに、それは現実よりもずっと悪いものになる。仕事は業務をこなしさえすれば終わる。明確な目標を達成するために、時間を投入することには心地よさがある。書くことと、仕事の価値は逆転する。こうして人は書かなくなる。
 そんな状態で書く意義なんて、どこにあるのだうろか。
 しかし、人は書こうとする。
 惰性なのか、幼少期の成功体験を引きずり続けているのか。源流を回顧するのはそれぞれの勝手だが、書かなくては気持ちが悪いから書こうとする。
 実際には、人は現実の仕事に専心していたほうがよっぽど幸福だろう。私は仕事の能力が高い人間ではないし、まだまだ駆け出しだが、今の自職業はそんなに嫌いではない。少なくとも、他の仕事をやれ、と命じられたら首を横に振ることになる。世間体としても良い仕事に属するだろう。
 でも、やっぱり日曜日には書こうとする。困った話だ。
 であれば、より良い書き方を求めるのは自然なことだろう。

 文章には、内容と文体がある。
 文体という言い方が格好をつけすぎならば、雰囲気でもいい。
 内容と文体は相互に規定し合っている。悲惨な物語は相応の文体で語られるだろうし、幸福な結末を欝々と語るのも変な話だ。上機嫌な口振りで、陰鬱な現実の話ばかり並べるのもおかしい。というか、意識的な倒錯がなければ、難しい。
 人が考えながら書こうとするとき、それは文体から書こうということなんじゃないか。絵を描く人は、手癖で描いた、というかもしれない。文章は、そうはうまくいかない。絵はある一瞬間の描写に労力を費やし続けることが出来る。文章は、そうはいかない。内容が要求される。漫画を手癖で描き続けるのは難しいんじゃないか。ネームという言葉もあるし。
 
 なぜ手癖で書こうとするのか。
 それは、書きながら考えることの成功体験があるからだ。言葉は時に、筆を滑らせて自走する。自分が思いがけないことを、書きながら発見することは多い。物語であれば、なんとなくの粗筋を用意はしているけれど、自分でも思ってみなかった、しかしより正解だと思えるような素晴らしい道筋に行き着く経験は、執筆過程における最良の愉しみだろう。自分の予想を超えるとは、自分を越えたものに触れるということであって、素直に喜ぶべきだ。
 人は苦痛より、快楽の体験に記憶を割く。
 実際にはこれは、書く喜びというより、考える喜びだろう。しかし、書くことと考えることは、そもそも文法のうえで考え続けている以上、微妙に分かち難い作業内容でもある。だから、書く喜びと考える喜びは、しばしば混同されてしまう。考えることは、書くことの後回しにされてしまう。考えてから書くことは、むしろつまらない気さえする。人は、常に自身の成功体験から最善を選び続ける。
 こうして、書きながら考えようとする仕事のスタイルが生まれ落ちる。
 しかし、書く対象=文体と、考える対象=内容は、いずれも気分に左右される。とりわけ文体はそうだ。人は日常のなかで同じ気分で居続けることは出来ない。たとえば知人友人の自殺に直面して、昨日と同じ文体で書き続けることは難しい。
 書くことは時間がかかるが、内容を考えるのは一晩で済む。
 一夜で固定できるとも言える。眠れない夜を潰すために、内容をメモしておくようになった。それを文章に、一個の文体として書くのは別の作業だが、製作図を眺めて、実際に出来上がるものを期待するのは、そんなに悪い気がしない。
 文体と内容が相互規定するのであれば、より早く終わり、中身を固めやすいほうから着手するほうがいい。だから、人は考えてから書いたほうがいい。
 繰り返すが、書きながら考えるのは、労力が二倍である。
 
 私が憧れる作業のスタイルは、好きな音楽を聴いたり、ラジオを聞きながら作業を書くことだ。ソシャゲの周回でもいい。絵を描く人が、アニメを流しながら線を描き続けているのを聞くと、正直羨ましくなったりする。
 書くことを聖なる儀式にしないほうがいい。たしか太宰治の『お伽草紙』に、小説を書く前にピアノを引き鳴らし、風呂で足を洗う女の子の話があった、あれは家で飯を食わせてもらっているから出来ることのはずだ。儀式は、社会人の平日には難しい。というところで文章を終えるつもりだったけど、確認したら『ろまん灯篭』で、女の子は二十一歳だったから、記憶はつくづくあてにならない。

配布メギドについて

 二月から三月のメギドは配布メギド無しだった。プロデューサーレターによると、四月まではこの方針のままということで、理由となったオリエンスの修正にそれだけ重いインパクトがあったのは間違いないだろう。三か月の配布メギド無しには何らかの影響があることは運営側も想定しているだろうけど、ひとつには会社に対するケジメの付け方なのかもしれない。現実的な方針か非現実的かでいえば、前者だろう。

 それはそうと、あらためて配布メギドの意義について考える機会にもなったので、サタナキアBのことも含めて短く書いておく。

 まずは二月の『カカオの森の黒い犬』をあらためて思い返してみる。確かにあそこで実装されたのはスコルベノトとバティンだけだったが、あのイベントはそもそもメギドを配布しない予定だったんじゃないか、と時々思うことがある。
 強いて配布候補になるかな、と私が感じたのはリジェネザガンだった。闘牛士というバトルスタイルからは、ブレイクでの実装もあり得るかもしれないし。
 とはいえ、物語でザガンが活躍する場面は少なめで、スコルベノトとの交わりも、交流というよりは、背中を押されたぐらいである。スコルベノトとバティンのどちらが配布でもおかしくないような話の作り方はしているけれど、それでもザガンの活躍が書かれない説明にはならない。オリエンス修正から一月の猶予はあるにせよ、ザガンの活躍を削るのも急な話だろう。
 そもそも、配布が無いから急いでオーブと報酬を準備しました、ではさすがに制作が間に合わない気がする。なので、昨年の『さらば哀しき獣たち』と同じく、最初から配布メギド無しだったんじゃないか。その代わりに前回同様SSRオーブと、新たに霊宝を追加してみよう、という発想は自然だし。
 月に三柱から二柱に減らすだけでも、制作コストの多少の緩和にはなるだろう。徐々にイベントも恒常化されているから、序盤特有のメギドが少な過ぎて戦略のバラエティに乏しいという問題は、少しずつ解決していくのだろう。
 
 一方で、三月の『心惑わす怪しき仮面』は、サタナキアBは配布だったんじゃないかと勝手に考えている。物語自体がサタナキアを主役に「成長」(プルフラス)を描いているのもあるが、キャラエピでオレイとアシュレイの関係が書かれているのもそうだし、もっと興味深かったのはウァプラからサタナキアへの折り合いの付け方だ。
 ちょっと妄想が過ぎるけど、あれはまもなく復刻されるだろう『見習い女王と筋肉の悪魔』に向けての布石だったんじゃないか。単純化するなら、その本筋はウァプラがザガンやマルチネのような、決して考えが相容れない他者にも「マシ」な連中が居ると認めるまでの物語だ。『心惑わす怪しき仮面』の時系列ではサタナキアと折り合いがつけられるぐらいになっていて、これはリジェネ後のウァプラなんだよ、と事前に描写を用意しておけば、物語はすっと読み易いものになるだろう。

 もちろん性能は見逃せない。
 サタナキアBは、初心者から上級者まで使いこなせる性能だ。その見所はまずはスキルによる前列無敵だ。リーダー時にアタックでチェインを開始するMEは、素早さの遅いガープへ容易にチェイン出来る。メギドの序盤はまず防戦体制を整えることが課題だから、初心者には大いに役立つ性能だろう。
 さらにサタナキアBは、中級者以上をターゲットにしているだろうチェインの既存の問題点を丁寧に潰したメギドでもある。チェインで気になりやすいのは①覚醒上げが面倒だし、②チェインに必要なメギドが多いあまりディフェンダーが入り辛く、準備段階で戦闘不能になってしまうし、③そもそもフォトンの縛りが厳しく肝心のチェインで決めたい時に上手く決められないし、④チェイン自体のメリットが基本的に乏しい、の四点が挙がりやすいだろう。①は特性、②はスキルの無敵、③覚醒スキルによるC→Sへの変換、④奥義の攻撃力昇華と正確に対応している。つまり、ハイドロボムにおけるアイムRに近い役割がサタナキアBには与えられている。
 フォトン予知と攻撃力低下(防戦)のオリアスCや、列攻撃のアガレスCなど、初心者にこそ使いやすい性能のメギドを配布しつつ、時にニバスB、ベリトBのような中級者以降のプレイで輝く性能のメギドをバランス良く配布してきたのが去年から今年までの配布メギドの戦略だろう。サタナキアBは、その両面を併せ持った、非常に良く練られたキャラコンセプトだった。
 それだけに、(実際どうだったのかは確定できないし、近いうちに明かされることはまずないだろうが)配布とならなかったのがつくづく惜しいな、というのが正直な気持ちだ。

 そもそも配布メギドは、初心者から上級者まで、あらゆる層のプレイヤーが召喚出来るメギドである。上級者でも初心者がどう運用すればいいか考えられるし、初心者は最終的にそういう使い方があるんだ、と知ることが出来る(たとえば中級者がオリアスCを取り扱えば、その耐久力を活かしてサタニックリブラを持たせたサブ盾の運用が出来るだろう)。
 そして「今ならクズが無料!」「今なら博打で全財産スったギャンブラーが無料!」と新規参入を呼びかけることも出来る。その呼びかけの効果は分からない。内輪の流通で終わるかも。
 でも、『メギド72』というソーシャルな要素を極力排したソシャゲゲにおいて、非常に貴重なソーシャルな部分を担当しているのが配布メギドなんじゃないか。

 ソーシャルゲームの原義は、「SNS上で(ソーシャルアプリとして)配信されているゲームの総称」らしい(Weblio辞書)。この定義がいわゆる「ソシャゲ」からずれていることは既に数多く指摘されているだろうけれど、「こんなメギドでパーティを組むと攻略出来るよ」「こんな運用も出来るよ」という書き込みや動画が、たとえばtwitterで共有され回覧されていくのを眺めていると、SNSをすっ飛ばして、インターネット黎明期の攻略掲示板を読んでいるような、とても懐かしい気持ちになる。
 
 メギド配布の三か月取りやめはそうせざるを得なかった可能性が高いし、これまでメインストーリーでも惜しみなく配布してきた以上、いずれどこかで必要な期間だったのかもしれない。
 とはいえ、ちょっぴりさみしくなってしまったのも確かだ。
 私はいずれ毎月の配布メギドには限界が来るだろうし、霊宝・オーブ報酬だけでもイベントとしては間が持たせられるんじゃないか、手持ちが少ない初心者には恒常イベントを用意すればいいはずだと信じていた。この冬の方針通りのことだ。
 自分でも意外なさみしさだった。
 しかし、それも五月で終わりだろう。メギドにとっても厳しい冬だったかもしれないが、是非春からも無理のない範囲でゲームを盛り上げていってもらえればと願う。

メギド72『心惑わす怪しき仮面』について

 『心惑わす怪しき仮面』はサタナキアがリジェネを果たす物語であり、そしてプルフラスが復讐を終える最初の一歩を歩むまでの物語でもある。先に結論から書くならば、自己の合理性を最優先としていたサタナキアが「マナー」に順応し、アシュレイという他者に依存していたプルフラスが「自立」を得るまでの成長物語である。

 それを読むためには、そもそも『プルフラス・復讐の白百合』で描かれた復讐とはどういったものだったかを読まねばならない。プルフラスの復讐は、殺人という終焉を回避こそしたが、監視という持続を選んでいる。実は『プルフラス・復讐の白百合』で難解なのは、自身の内面の変化に鈍感で、あまり心情を語らないサタナキアではなく、むしろ明晰に物語るプルフラスの論理である。そして、より厄介な問題に取り憑かれているのもまた復讐者の彼女である。
 まずは『プルフラス・復讐の白百合』を読まねばならない。
 
 まず重要なのは、序盤のプルフラスに、軍団長ストリガが投げかける確認の言葉である。

軍団長ストリガ
「…勘違いするな
俺は引き止めたくて
お前に会いに来たわけじゃない
…お前に
メギドラルへの未練がないか
確認しに来たまでだ
万が一、ヴァイガルドに行けて、
目的が達成できたとしても…
メギドラルにお前の居場所はない
(…)ハルマゲドンに興味がない
非戦思想を持つメギドが、
我が軍団に戻ってきても…
俺は決して
お前を受け入れるつもりはない
…いいな?」
(01話)

 私は再読するまで気付かなかったのだが、このやり取りは非常に重要な設定を説明している。ひとつは、プルフラスはアシュレイのように戦いを厭う反戦思想の持主であること。そして、ストリガの説得を以て尚ヴァイガルドに旅立つプルフラスには、サタナキアが軍団を離脱したように、もはや帰るべき場所がないことである。
 その復讐をめぐる心境が最初に描かれるのは、ソロモンとのやり取りである。プルフラスとアシュレイは、共にヴァイガルドへの渡航を夢見ていた。「仇を討つためだけに生き」(2話)強さを得たという彼女に、ソロモンが疑問を呈する。

ソロモン
「…なあ、プルフラス
オマエ、復讐だけが
生きる理由なのか?」

プルフラス
「ああ
この復讐の炎こそが
僕の原動力だ
サナタキアを憎むほど…
僕は弱い自分を捨て、
より強くなることができたから!」

ソロモン
「じゃあ、サタナキアを殺したら…
もうプルフラスは
強くなれないのか?
(…)大切な人を殺されて、
憎しみを抱くのは
すごく、自然なことだと思う…
でも、俺にはさ…
プルフラスは
仇討ちのためじゃなくて…
弱さを隠すために、
復讐を誓っているように見えるよ…
(…)プルフラスは、
サタナキアを殺した後
どうするんだ?」
(03話)

 では、このプルフラスの「弱さ」とは何なのか。
 ソロモンもプルフラスに負けず劣らず直感で(途中経過を飛ばして)相手の弱点を突くことが多い人物だが、リジェネの物語を読めばその意味は分かる。
 それは復讐以外に生きる意味がないという「脆さ」のことだ。
 彼女は戦争社会のメギドラルには本質的には順応し得ない「反戦思想」の持主であり、心を通わせ、人生の指標、生きる理由に等しかったアシュレイを失った時、サタナキアへの復讐以外に生の目標を見出せなかった。平凡なメギドであれば戦争こそが生の目標であり、戦いを厭うのであれば「カワイイ」を信仰するスコルベノトや、あるいは「芸術」を信じるアルテ・アウローラのような生き方があったのだろう。
 実は、この意味では先月の『カカオの森の黒い犬』のスコルベノトよりもプルフラスのほうが脆い。むしろ、ストリガのもとで不適応だった彼のほうが、力は無くとも強かに生き抜いている(このイベントの順序構成は、もしかすると意図的なものかもしれない)。
 プルフラスはアシュレイという指標を見失った「迷子」なのである。
 
 そもそも、何故サタナキアはアシュレイを殺したのか。

プルフラス
「サタナキアは
僕の知っているメギドの中でも
かなり手強いメギドだ…
いろんな軍団を渡り歩いて、
いつもその合理的な考え方を
評価されていたらしい…
…それなのに、
ヤツは自分の軍団を築こうとせず、
別の誰かに従い続けてきた
あいつは研究ができればいいんだ
だから軍団を持つことや戦果には
少しも興味がない…
そしてあいつは研究のためなら
たとえ同じ軍団の仲間だって
利用して、使い捨てる…
それがどんな相手でもあいつに
とっては研究のための材料でしか
ないんだよ…
…アシュレイ兄さんのようにね」
(04話)

 キャラエピ、あるいはプルフラスの語りからも分かる通り、本来サタナキアは冷徹なまでの合理主義者である。
 にもかかわらず、幻獣化研究をめぐるその行動においては、不合理が目立つのも確かだ。アナキスを自身に寄生させたサタナキアは、宿主を乗っ取ろうとする「個」の強さに驚嘆しつつ、心中で語る。

サタナキア
(それに最初から気づけていれば
もっと違う道もあったのかも
しれないが…
まぁ、今となっては
どうでもいいな…
俺は、この研究を完成させれば
どんな手順を辿ってもいい
ヴィータが大量に死のうが、
幻獣の屍が増えようが…
そして、俺が死のうが…
この研究さえ完成させれば――)
(04話)

 「もっと違う道」とは何か。アナキスの性質を理解していれば、アシュレイを死なせずに済んだかもしれない、という意味だろう。
 重要なのは、サタキナアにとっては自身の身よりも研究の完遂こそが重要だということである。
 これは不思議な発想だ。たとえば『心惑わす怪しき仮面』では、サタナキアは失敗した研究は平然と放棄する。そもそもアシュレイを被検体にして失敗したのであれば、その研究はそこで打ち止めにすべきだろう。にもかかわらず、サタキナアは同じ研究にこだわった。それは、何故なのか。

 そもそもハルマゲドンを見越したサタナキアの幻獣化計画は、メギドの知能と人格を幻獣の水準まで落とすことで、護界憲章に抵触しないようヴァイガルドでメギド体に変身出来るようにすることを目的としている。上位の指導者はメギド体に変身出来なくとも、大半が幻獣程度の知性であっても、前者が後者を導けばいいのである。
 これはサタナキアらしい、ひとまずは合理的な発想ではある。

アシュレイ
「寄生メギドの件なんだけど…
メギドを使った生体実験の結果は
まだ下りないのか…?」

サタナキア
「…まだ無理だ
生体実験を行えば、他の軍団から
目をつけられかねない
メギド体を使うにはもっと隠密に…
そして、正しい時期に行うべきだ
そう、上層部の連中から
何度も言われていただろう?」
(05話)

 これがメギドラル上層部から快く思われなかった可能性は決して低くないはずだ。端的に「個」の蹂躙だからである。プーパとメギドの線引きを考えれば、なおさら嫌厭される発想だろう。
 「目をつけられ」るのはその社会の規則からして当然だ。とはいえサタナキアも研究者らしく、「他のメギドがハルマゲドンを起こす別の方法を発見し、成し遂げてしまう」と焦っていたのも確かだった。
 正直に交渉したところで生体実験の承認が降りるはずもない。だからアシュレイが、軍団への加入を命じられ、戦死が目に見えているプルフラスを護るため、幻獣化した上でヴァイガルドへの逃亡を決意したとき、サタナキアはそれを利用することに決めたのである。
 サタナキアは、実験を利用したアシュレイの逃亡計画を上層部にあえて暴露し、彼とプルフラスに暗殺の危機が迫っていると伝えた。
 実験に成功し、アシュレイがヴァイガルドに渡航すれば、彼らを捕えることは難しいだろう。本来、近い位置にいるサタナキアも責任を問われるだろうが、それは上層部への密告で減じられるだろう。
 上層部の許可を得ないまま生体実験を行い、かつその責任を可能な限り負わないための合理的なリスクマネージメントこそ、サタナキアの計画だった。全てが上手く進めば、アシュレイは問題なくヴァイガルドに渡航し、サタナキアはその責任を出来るだけ負うことなく、生体実験の成功を収められるはずだった。
 
 サタナキアが「親友」をどれぐらい想っていたかは分からない。
 ただ、「俺たちは、アシュレイの信頼を裏切ったオマエとは違う!」(5話)というソロモンの啖呵は、的外れだろう。彼の計画は、たとえ二枚舌の卑劣さはあるにせよ、自身とアシュレイの利益と、かつ己の損失の軽減を合理的に目指したものには違いないからだ。

 ところが、肝心の生体実験が失敗する。秘匿していた幻獣化計画が明るみに出ることを怖れてか、アシュレイを殺しはしたものの、結局はプルトンなる人物に研究を全て潰されることになる。
 
 サタナキアは研究を進めるため、アナキスを自身に寄生させ、ヴァイガルドに渡った。これは、上層部に機械化による不死の発想を問題視され、研究を継続するためにヴァイガルドへ渡ったネルガルの経緯とも似ている。被検体となり得るメギドは、当然サタナキアしか居ない。だから彼は自身を被検体に選ぶ。

サタナキア
「この成果をメギドラルに持ち帰れば
ハルマゲドンに大きく貢献できる…
…よかったな、プルフラス
アシュレイの死も
無駄じゃなかったなぁ!!」
(05話)

 確かに、サタナキアが研究の成果をメギドラルに持ち帰れば、その有用性が認められて再び軍団に復帰することは可能かもしれない。
 しかし、戦果に興味のないサタナキアが、果たしてメギドラルからの称賛を期待するだろうか。そもそも、メギドの尊厳を根本から踏み躙り、制止されたにもかかわらず軍団を離反して進めた研究など、今後も抑圧されるのが目に見えているのである。
 それが分からないサタナキアではないだろう。故にこのサタナキアの言葉は、私は不自然だと取りたい。むしろ重要なのは、「アシュレイの死」が「無駄」にならないという後半の部分ではないか。

 サタナキアとの戦いは、「弱点を見抜く」プルフラスの「心眼」によって終止符を打たれる。プルフラスの以下の台詞は、まさしくサタナキアの「弱点」を射貫き、その指摘を認めさせている。

サタナキア
「さぁ、プルフラス
俺を殺せ…
それが望みだったんだろう?」

プルフラス
「…いや、僕はお前を殺さない
(…)お前とボクは似たもの同士だ
復讐しか、生きる意味がない僕と
研究が生きがいだったお前…
サタナキア…
お前、本当はハルマゲドンなんて
どうでもいいんだろう?
…お前のことだ、
何度も何度も
潰された実験を再開させ…
ただ、幻獣化計画を完成させれば
満足だったんだろう?
(…)僕はお前が死ぬほど憎い…
けど、その憎悪を理由に
僕は自分の弱さから逃げてきた
…僕は自分の弱さを克服したい
だから、お前を殺さない」

サタナキア
「…ハハ、自己満足だな」

プルフラス
「ああ、そうだ
お前と同じになりたくないという
ただの意地だよ
…サタナキア、お前は
アシュレイの死と罪を悔やみ、
苦しみながらこの先も生きろ
研究を失ったこの世界で、
もがきながら生きろ!!」

サタナキア
「ハ、ハハハ…
それが、お前の復讐か…
クク…
俺のことをよく、
わかって、いるじゃないか…」
(05話)

 まず重要なのは、サタナキアはアシュレイの死と、死に至らしめた「罪」を悔いているのである。計画自体は合理的だが、サタナキアは、失敗したときのリスクマネージメントを考慮していなかった(これは「焦り」だけでは説明が難しい箇所でもある)。しかし、事態を円滑化させるための嘘こそ口にはしているが、サタナキアが起こしたのは殺人ではなく、過失事故に近い。

プルフラス
「…軍団をやめるって本当!?
ならアシュレイ兄さんとの研究は
どうなるの…!?」

サタナキア
「…先日の「アシュレイの事故死」が
原因で研究は打ち切りになった
まぁ…俺は勝手に続けるけど
…で、なにしに来たんだ?
もう俺と話すこともないだろう?」

プルフラス
「(…)1つだけ聞かせて
兄さんを…
アシュレイを殺したのは
サタナキアだって…本当なの?
(…)…みんながそう言ってる
兄さんはサタナキアの研究のために
事故死に見せかけて殺されたって…
本当なの!? 嘘だよね!?」

サタナキア
「…もうそんな噂が広まってるのか
だったらシラを切る必要もないな
…お前の言うとおりだよ
アシュレイを殺したのは俺だ
(…)もう用事は終わりかい?
なら研究所に戻らせてもらうよ
これ以上は時間が惜しいからね
誰よりも早く研究成果を挙げる…
それが研究者にとっての戦争だ
だから他の連中よりも先に
「幻獣化計画」を完成させる
必要があるんだ」
(『心惑わす怪しき仮面』01話)

 このやり取りで大事なのは、サタナキアはそもそもアシュレイは「事故死」であると最初に述べ、続けて殺害の関与の有無を問われたとき、素直に「アシュレイを殺した」と答えていることだ。
 これはどちらも嘘ではない。事実に即している。
 プルフラスの結論も合っている。だが、「サタナキアの研究のために」と「サタナキアの研究のためであると同時に、結果的にはアシュレイとプルフラスの渡航のため」では、途中経過が違ってくる。
 過失を殺人と読むのは、罪と後悔の意識なくしてはあり得ないはずだ。アシュレイ殺しが事故だったと説き伏せる、あるいは嘘でその場をしのぐことは、サタナキアには実に容易だったろう。しかし、そうはしなかった。わざわざ自身が殺人者であると認めたのだ。

 何故サタナキアは、プルトンに中止された研究をあらゆる手段を用いて完成させようとしたのか。たとえハルマゲドンに興味がないとしても①科学者の「戦争」への意欲はあったとも読めるし、②既に費やしたアシュレイというコストを無駄にしたくないと合理的に判断した、③あるいは親友への情でその死を無駄にしたくなかったためとも読める。このどれかは確定しようがないし、その全てを併せ持っている可能性も十分にある。あるいは、②と③を区別する意味など大してない。『心惑わす怪しき仮面』におけるサタナキアの意志こそが、まさにそのように判断されているのだから。
  
 プルフラスの啖呵に戻ろう。
 自分とサタナキアは似たもの同士だとプルフラスは主張する。彼女には復讐しか、サタナキアには研究しかないのだから。一方で、サタナキアを殺すことで「お前と同じにはなりたくない」という。
 では何故、サタナキアを殺すことは他ならぬ彼と「同じ」なのか。
 あるいは、何故それは「弱さ」なのか。
 実はこれは『プルフラス・復讐の白百合』だけでは読み辛い。そこに引かれる補助線が、他ならぬアシュレイの言葉である。

アシュレイ
「…じゃあプルフラス
ひとつだけ僕からアドバイス
死ぬのは「弱い」からさ
でも君はこうして「生き残った」
だから君は決して弱くなんかないよ
(…)生きてるってのが大事なんだ
この世界ではね」
「(…)改めて言っておくけど、
君は決して弱くなんかないよ
…それだけは覚えておいてくれ
結局は最後まで楽しく生きた者が
強いし、勝ちなのさ」
(プルフラスB・9話)

 
 結果だけを見れば(すなわち、サタナキアの心情を無視して、事実だけほ鑑みれば)結局プルフラスとサタナキアは、いずれもアシュレイの喪に服することに人生を費やしてきたと言える。
 前者が復讐、後者が研究という姿を取っただけだ。
 アシュレイを喪失したとき、親友への情であれ、死を無駄にしたくないというコスト判断であれ、サタナキアはその犠牲を埋め合わせるために研究を続けるしかなかった。だが、研究が完成してもその死は変わらないし、先々の目標や見通しがあるとも言い難い。そもそも、自身が無事に回復出来るかも分からない、既に失敗した実験の被検体になること自体が、脆さを感じさせる選択だろう。プルフラスも同様に、ルクス・レギオという帰り得る場所を捨て、後先考えぬままに復讐へ走っていたのである。
 彼らの共通点は、どちらもアシュレイの死を自身のなかで処理出来ず、強引な行動化に走るしかなかったということだ。この点で、彼らはどちらも同じように「空っぽ」(プルフラスB・9話)なのである。そのためにサタナキアは、ほとんど自己破壊じみた、我が身を顧みぬ研究を継続していたし、あるいはプルフラスに復讐されるのも満更でなかった可能性さえあるかもしれない(これはさすがに勝手な読みが過ぎるが)。

 アシュレイの死に真正面から向き合えない限り、彼らはいずれも「空っぽ」で「楽しく生き」れないのであり、それが「弱さ」なのである。そして復讐を成し遂げることは、たとえ虚しさを理解していても研究を継続するしかないサタナキアと同じく、「弱さ」をただ回避し続けることだ、というのがこの場面の論理だろう。
 だから、サタナキア殺しは止める。
 しかしより陰湿に、研究を奪う復讐は持続するのである。
 一緒なのではないか。
 復讐を果たしたいのか、より持続的で効果的な復讐を続けたいのか。殺人より陰湿な復讐は、「弱い」復讐とどう違うのか。
 正直に書けば、ここはよく分からない。

 ここがこの物語でもっとも難解な場所だと思う。『プルフラス・復讐の白百合』で私がいちばん分からないのは、最初から謎めいた人物として描かれているサタナキアではなく、プルフラスである。
 私は基本的にメギドで整合性が取れない、理由のよく分からない部分を粗と取らない。「あえてそうしたのだ」とか、「この矛盾にこそ解釈の余地がある」という手続きで理由をつける(贔屓の引き倒しという気もする)。
 しかし、プルフラスのこの論理は、私には補いようがない。物語の勢いが強過ぎて、論理がねじ曲がっているのか。私が単にこね回し過ぎで、素朴に受け取ればいいものを変に力んで読んでいるだけかもしれない(まさにそんな文体だし)。でも、その論理の矛盾にこそ、こんなケアが用意されたのではないか、とも思う。

プルフラス
「ねえ、兄さん…
僕、気づいたんだ
僕はどうしてサタナキアを殺さなかったんだろうって、
ときどき考えてたんだけどさ…
きっと、サタナキアを殺したら、
兄さんと繋がっていた存在が
ひとつ消えてしまうから…
僕は、それが嫌だったんだなって…
おかしな…話だよね…
アイツが兄さんを…殺したのにさ…
それでも僕は…」
(プルフラスB・11話)

 プルフラスがサタナキアを殺さなかったのは、復讐の持続というよりは、単純に彼がアシュレイの親友だったからなのではないか。その論理は破綻しているが、そもそもそれは「サタナキアは殺したいほどに憎いが、兄の親友は殺したくはない」という感情の矛盾があったからなのではないか。

 『復讐の白百合・プルフラス』で救われているのは、プルフラスよりもサタナキアなのではないか。プルフラスが復讐を終えられなかったのとは対照的に、最も自己破壊的で空虚な幻獣化研究を他者に終了を強制されたことは、むしろ幸運に近いだろう。
 プルフラスは殺害によって復讐を終えたのではなく、監視によって復讐を延長した。それどころか、本来憎いサタナキアにはソロモンの手助けという別の目標を与え、どうあれ彼自身は参謀の自己認識を以て動き続けてきた。いずれ軍団が解散すればプルフラスの監視から逃れることも出来るだろうし、他の研究だって出来るはずだ。  
 「僕は自分の弱さを克服したい」とはどういうことか。
 アシュレイの言葉に従うなら、それは彼のいない世界で遅延させた復讐を終わらせ、「楽しく生きた者」になるということだ。それはやり場のない不在の悲しみを受け止め切ることでもある。
 プルフラスリジェネの物語は「自立」とはっきり名付けられている(リジェネ紹介文)。これは、裏返せばアシュレイを想い続けた復讐自体が「依存」という、非常にシビアな認識を物語っている。
 プルフラスは、なぜリジェネの奥義で涙を見せるのか。
 凛とした無印の奥義モーションに対して、今更の涙である。しかしこれは、無印が「泣かない」ではなく「泣けない」ということだったと思う。サタナキアへの復讐を本当に精神的に終え、あらためてアシュレイの死に涙し、それを己の手で拭い立ち上がる動作こそが、プルフラスの本当の門出なのではないか、と思う。

 プルフラスのリジェネの物語は単純だ。ある植物学者の男が、彼女に嘘の護衛任務を依頼し、妹の敵討ちをしようとする。
 自身の似姿といっていい彼の復讐を、プルフラスは止める。

プルフラス
「…話は聞いたよ
君が妹さんのために復讐を
しようとしてるって
(…)だけど、やめたほうがいい
復讐をして…どうするんだい?
君はその先のことを考えてる?
(…)考えてないだろ?
だって今の君にとっては復讐だけが
生き甲斐なんだからさ
だけど、復讐が終わったって
別にそれでなにもかもが終わる
わけじゃないんだ
…僕はそれをよく知ってる」

復讐者ユーリ
「だからなんだ…!
それがなんだってんだッ!
(…)俺は「その先」なんていらねぇ!
あいつを殺せばそれで満足だ!
それでいいんだよッ!」

プルフラス
「じゃあ、復讐が終わったら…
死ぬの?」

復讐者ユーリ
「ああ…!
それでも構わねえ…!」
(プルフラスB・10話)

 復讐の先に待ち受けるのは単なる空虚であり、故にこそプルフラスは復讐の終焉を先延ばしにしたのかもしれない。サタナキアにはそんな意図はなかっただろうが、彼が憎み監視すべき人物だったからこそ、プルフラスは空虚から逃れられたのである。
 プルフラスの「自立」は次の三段階で素描出来る。
 第一は、依存していたアシュレイの死に衝撃を受け、その復讐に執心する段階。第二は、復讐の終焉でなく持続を選び取り、サタナキアの監視に全てを費やす段階。彼の研究がソロモンに公的に認められ、もはや監視出来なくなった後の第三は、自身の似姿に等しい復讐者の姿に己を見つめ直し、真に依存から自立する段階である。

 

 ユーリはそのまま日本語の百合、その妹リーリエは独語の百合である。貴族の兄弟の名はフルーとルドリス、フルールドリスは仏語の百合だ。だから、名前からしてこの物語は『プルフラス・復讐の白百合』を意識している。

 妹の愛した者を殺そうとするのと、兄が信じた親友を殺そうとするのはパラレルだろう。では、ユーリに必要だったのは何か。
 物語は、彼と、その妹の愛したルドリスの対話で結ばれる(ルドリスは意図してユーリの妹のリーリエを死なせたわけではなく、不運の連鎖によって死なさせたわけだが、これはサタナキアのアシュレイ殺しと少なからず重なるものがあると思う)。
 何故彼女は死んだのか、そしてルドリスは彼女を本当に想っていたのか。復讐というこじれた表現形ではあるけれど、本当はそれこそ、ルドリスの知りたかった問いと答えだろう。
 物語はそこまでプルフラスとサタナキアを近付けはしない。またサタナキア自身が殺した以上、今更その経緯を明かす意味もない。
 だから、プルフラスには、ユーリとは別の解決が与えられる。

プルフラス
「僕にはたくさん時間があるんだ!
その中でいろんなものを見て、
いろんな経験をして仕事をして…
それがみんな繋がっていって
僕の「その先」になっていく!
たぶん、そういうことなんだ…!
そうやって生きていくのが、
きっと「楽しく生きる」って
ことなんだよね、兄さん!」
(プルフラスB・11話)

 「その先」を教えてくれる者など誰も居ない、それが答えなのである。プルフラスは兄の言葉を自分の自由に解釈しているだけだが、そうやって自分の意味で、足で、世界を読み歩いていくこと、ひとつずつ視野を広げて「いろんなもの」に触れていくことが、真にプルフラスにとっての復讐の「終わり」であり、兄と復讐からの「自立」なのだろう。

 ずいぶん長い前座になってしまったが、実は『心惑わす怪しき仮面』は、『復讐の白百合・プルフラス』の正統続編のようでありながら、実際にそれを語り継ぐのはプルフラスのリジェネの物語である。今回のイベントシナリオはここ数回でも屈指の面白さだが、それはたぶん、物語の主題が重過ぎないからではないかと思う。サタナキアのリジェネの物語でありながら、実は彼の変化は意外に大きなものではない。状況の変化より、自覚の変化が中心である。
 だからこそ、単純によく出来た怪盗の物語が書けたのではないか。
 とはいえ、これはサタナキアのリジェネを語る物語である。
 後半は、そのリジェネレイトまでの道筋を読んでいこう。

 物語は、一度は破産したはずの貴族・アルミンが、曰く付きの秘宝を手にしたと同時に再興したこと、そしてその領民が行方不明になっている噂を知ったソロモンが、何らかの遺物の関与を疑ってその晩餐会に忍び込んだところから動き出す。晩餐会の最中、「怪盗オレイコルトス」を名乗るメギドにその秘宝「プラチナ・マスク」を盗まれ、それを取り返したところで、偽物だと明らかになる。
 ここで同行していたサタナキアが、実はオレイとサタナキアは旧知の仲で、プルフラスの監視を逃れるためにオレイはサナタキアに返送し、見返りにオレイの怪盗業を研究で支援する協力関係にあり、「プラチナ・マスク」こそ実はサタナキアの研究の産物だと告白する。本来、「プラチナ・マスク」は、生物から安全にフォトンを取り出し、メギドラルとの交渉のために作られた装置だが、生物が硬化を来すため一時凍結された研究だった。しかし、それが軍団の損害を減じるほうに再利用出来るのではないかと研究を進めていた矢先に、ある商人に盗まれた、アルミンの手に渡り、領民をプラチナと化して財を得ていたのだった。アルミンは、あえて偽のマスクを盗ませることで、自身の悪行が世に知れぬよう計画したのだった。
 その実行犯たる執事クロムを追うものの、彼は幻獣の襲撃で瀕死となり、道連れにソロモンを石化させようとする。寸前でサタナキアが身代わりとなり、最期の言葉からプラチナ化したブラブナが石化を解く鍵と知ったソロモンは、ブラブナを大量捕獲するため、オレイの導きで彼の研究所に赴く。そこでプルフラスと、そもそもプラチナ・マスクの研究が、軍団員の損害を減じるためのものであったと知る。最終的にサタナキアの石化は解除され、アルミンは貴族院に捕縛される。今回の事件は元を辿ればサタナキアの研究が原因だが、ソロモンは彼の研究への熱意を理解していなかったことを理由に、その罪と責任を分かち合い、今後の研究を許可する。何故軍団員の損害を減じる研究をしたかについて、オレイは「仲間が取り代えの効かないものになったから」と推論するが、サタナキアは否定する。同時に彼はリジェネレイトを果たし、その後、プルフラスに「お前も自分も成長している」と言われ、わずかな和解を果たす。

 大事な描写は次の三点だ。

サタナキア
((…)俺は負けた…
だから従ったに過ぎない…
ただ「ハルマゲドンの阻止」という
難題にどんな解答が見出せるかに
興味があっただけで…
「ソロモン王」なんてそのための
材料のひとつに過ぎなかった…
それなのに俺はどうして…
どうして「ソロモン王」を
救うためにあんな…真似を…)
(04話)

 第一は、サタナキアが石化しかけたソロモンを庇ったことに、自ら困惑している描写だ。実際には彼は、序盤で幻獣に襲撃された女を助けて驚かれたように、ソロモンの軍団員として適切な行動を取り続けている(これはサタナキアのキャラエピを踏まえると大きな変化だろう)。プラチナ・マスクが途中から軍団員の損傷を減らす用途に転用出来ないか検討されていたのも、同様だろう。
 これらは、(意図的ではあるかは分からないが)ブラブナが環境に適応するように、サタナキアがメギド72という軍団に、あるいはソロモンの考え方に適応していることを意味している。
 しかも、サタナキア自身は自身の内面の変化には鈍感なのである。
 あるいは、アシュレイ殺しの後悔をプルフラスに指摘されてようやく認めるように、「合理的な判断をする自分」が先立って、それと内面の区別がついていないのかもしれない。
 たとえばサタナキアは、ソロモンを庇ったことに対し、「合理的に判断すれば、プラチナ化の糸口は掴めていたものの、それが実際に正しく作用するかは分からない。指輪の所有者である以上、彼の安全を優先するほうが軍団においては合理的だろう」と説明はつけられてしまうのだろう。
 

プルフラス
「僕だって成長するんだよ
お前が成長したみたいにさ」

サタナキア
「せ、成長…俺が…?」

プルフラス
「そうさ…たぶん
だから僕も少しだけ前に
進む気になれたよ
お前のことは完全に許した
わけじゃないけど、前よりは
「仲間」として接しようってね
今あげたチョコレートは
その「証」さ」
(05話)

 
 第二にサタナキアは、プルフラスに「成長」を指摘されている。この「成長」が何かは具体的に物語られないが、研究の性質を考えれば推測はつく。たとえアシュレイと自身の利益の両方を考慮したとしても、基本的にその事故死はサタナキアが安全を犠牲に、自身の研究を第一に考えたのが原因であり、無印のキャラエピでソロモンに対立するのも、自身の考える合理性を最優先とするからだ。
 「独りよがりの自称参謀」という言い回しが実装当時のガチャにあったが、サタナキアは自分のなかの「合理性」を最優先するという意味では、客観的かもしれないが自分勝手でもある(幻獣化研究が本質的に他のメギドの個を蹂躙したものなのもそうだろう)。そのサタナキアが、軍団の一員である以上損害を減らすのは当然だ、という他者を慮る研究をしたこと自体が、「成長」なのだろう。
 他者への思慮なのか、軍団員としての合理的な判断なのかは、厳密に区別することは出来ない。でも、別にそれは、どちらでもいいのだ。

ソロモン
「あのとき俺を助けてくれて
ありがとうな」

サタナキア
「気にしなくていいよ
自分自身よくわからないまま
行動しただけなんだ
なんでだろうね…俺にとっては
他人なんてみんな替えの利く
一要素に過ぎなかったはずなのに
(…)お前は分かるっていうのか」

オレイ
「わかるさ…
「仲間」だからだよ
もしや彼らは君にとって
替えの利く要素ではないのさ」

サタナキア
「(…)そう思うのは勝手だよ
だけど俺としてはそんな安っぽい
感情じゃないと主張したいね
(…)ひょっとしてリジェネレイトか
俺にそんなことがあるなんて
思ってもみなかったけど」

(…)

プルフラス 
「ひょっとしてソロモンを
「仲間」だと思ったから…?」

サタナキア
「だから違うって
強いて言うなら仲間ってものの
定義を再構築しただけさ
(…)あとは自分で考えなよ」
(05話)

 第三に重要なのは、オレイの素朴な指摘を素直に認めないサタナキアである。なぜ、仲間意識を「安っぽい感情」と退けるのか。
 それは、他者を取り代えのきかないものとして慮るようになった「成長」と、軍団の一員として他者に慮るべきだという理性的な「配慮」とは区別が付かないからではないか。オレイの指摘は確かに「安っぽ」くて、基本的に傍若無人なサタナキアが他者にそこまでの思い入れを得たかというと、正直判断が難しい(私は否に寄る)。
 しかし、だとしても、その「配慮」と「仲間想い」とに区別を付ける必要などない。芯から他人を思いやれなくても、それに配慮する身振りを出来ること自体が、大人になるということだからだ。
 それがこの物語の良さだ、と思う。
 サタナキアは「仲間想い」には一生なれないかもしれない(むしろ、仲間想いのサタナキアはちょっと怖い)。でも、軍団の内部で生き続けることで、結果的にヴィータを救い、仲間を慮る研究が出来たのなら、それはもう「仲間想い」と同じ地点に立っている。
 人は倫理の意義を理解していなくとも、他人の大多数がその倫理のもとに生きていることを想像し、それに倣うことは出来る。まさしくサタナキアが、ソロモンの倫理に沿ったように、である。
 それが「マナー」であり、環境への順応であり、大人になるということだろう。
 そう考えれば、何故ウァサゴとフリアエがこの物語の登場人物として選ばれたかも結び合わせたくなる。『心惑わす怪しき物語』は(アルミンに代表されるように)法と罪の物語なのであり、そこに法の番人たるフリアエが召喚されるのは自然な流れだろう。
 これは同時にサタナキアが軍団=社会における「マナー」と「法」を学ぶ、というよりは、既に学んでいたことを遅ればせながら自覚する物語でもある。だから、貴族の「マナー」を序盤に説くウァサゴなのだ、ではさすがに強引な読みが過ぎるが。
 ただ、ウァサゴが貴族院に捕縛されるアルミンを見送るとき、さりげなく「成人」の概念を持ち出しているのを思い起こしてしまう。
 彼は人生の最後まで、貴族のマナーに沿えなかったのである。

 

 最後にひとつ、大切な描写を付け加えておきたい。

 サタナキアの研究の産物で多数の人間が死んだ責任を、ソロモンは彼ひとりに負わせようとはしない。むしろ、その研究への熱意を理解していなかった自分にも問題があったと、軍団長ではなく「仲間」として、その責をプルフラスと共有する。これは、アシュレイの死を(どういう心情かは最後まで分からないが)結果的に単独で引き受け、研究を続けていた頃とは大きな違いだろう。

 サタナキアは領民の死を「終わったこと」として合理的に処理することは出来るに違いない。それでも、その罪を分かち合える者が居るかどうかは、やはり少なくない差異があると思う。

 

 サタナキアは言動が飄々としていて、さらに自身の内面に鈍感であるか、意図的に合理性を先立たせているために分かり辛いが、基本的には『心惑わす怪しき仮面』とその周囲の物語は、サタナキアとプルフラスの成長物語だろう。
 合理性のもとに他者を配慮してこなかったサタナキアが集団で生きる「マナー」を学び、アシュレイという他者に全依存してきたプルフラスが、復讐の終焉と共に、アイムやサタナキアという複数人からの世話を受ける、つまり軍団の一員として依存先を複数有することで「自立」を学ぶ。どのような理由であれ他者を慮る、少なくともそんな規則があると学んだサタナキアと、唯一の他者から離れることを学んだプルフラスとは、鏡合わせの位置にあるのだろう。

メギド72『キミに捧げし大地のソナタ』について

 前回開催時にあまりちゃんと読めなかったイベントなのだが、今回ゆっくり目を通すと非常に面白かったので、感想を書いておきたい。
 『キミに捧げし大地のソナタ』におけるサタナイルとバルバトスの境遇は、作中で彼自身が感慨を覚えるように、ごく近しいものだ。彼等はいずれも音楽を知り、それを愛するが故にメギドラルの秩序から逸脱し、その果てに腹心の部下を殺めねばならなくなる。
 一方でバルバトスとサタナイルには演奏者と指揮者という差異がある。彼等は共に自身より優れた演奏技術を持つ者に触れるが、そこでサタナイルは、アスラフィルの才に圧倒されたと同時に、彼女に嫉妬することを恐れ、指揮者の道を選ぶ。
 この差異は、ごく大雑把には、バルバトスが己の愉しみを、サタナイルが他者を慮り優先する傾向にある、とも言い換えられる。二人は酷似した境遇にはあるが、この差異はサタナイルの問題をより複雑化している。
 第一に、バルバトスとサタナイルという、同じ異端者の類似点と対比点を追っていきたい。そのためには勿論、バルバトスが追放されるまでのリジェネの物語を読まなくてはならない。
 第二に、アリキノは何故凶行に走ったのか。表面の言葉だけを信じるならば、「用無し」になったからサタナイルを殺そうとするのだが、ここには少なからず疑問がある。なにか、他の理由があったのではないか。
 第三に、何故物語を結ぶのがクロケルなのか。
 それはバルバトスの物語において、ソロモンが「バルバトスはバルバトスだ」と言い切ったのに対応している、と考える。ではその言葉はどのような文脈で発せられ、そして何故バルバトスにはその答えが必要だったのか。
 いずれにせよ、まずバルバトスのリジェネの物語を読まなくてはならない。

 まず、音楽を知る前のバルバトスは、ごく普通のメギドと同じように「単純な暴力」(バルバトスR・3話)を楽しんでいた。

バルバトス
議席なんかには興味ないが、
メギドに生まれたからには
武勲こそが誉れだ
死して尚、語り継がれるような
なにかを残すのが俺の「個」…」
(バルバトスR・3話)

 彼は音楽を奏でる奇妙な女メギドと出会い、楽器を学ぶ。

女メギド
「楽器を学ぶには、文化を学ぶ
ヴィータになりきるところからよ」
(バルバトスR・4話) 

 メギドが度々描く「ヴィータ」らしさは、しばしば現実の生存における無駄=余剰を尊ぶ姿勢として描かれる。サタナイルがキャラエピでバールゼフォンに説かれた芸術の価値がまさにそうだし、次の引用部で描かれるような、本来は単なる栄養摂取でしかない「食」に、快楽を見出せる感性もそうだろう。

バルバトス
「「食べる」ってのも、
身体を維持するためだけじゃなく
楽しむことができるはずだ
この世界にある
およそすべてのものは、
楽しむことができるらしい
それを誰かに伝え、
心を共感させる…
その手段を模索する者、
表現者」か
(…)うん、この果実、なんか好きだ
「おいしい」ってヤツだな
この気持ちを、誰かと
共感できるといいんだが…」
(バルバトスR・4話)

 「表現者」としての生き方と芸術を知ったバルバトスは、束の間の幸福を味わう。ところがそれは「悪夢」によって終わる。音楽にかまけるあまり、数年間戦争を放棄していた議席を取り上げられる。その原因たる女メギドを殺そうとした腹心の副官と、対立を余儀なくされる。

軍団副官
「(…)そいつがいる限り、
あんたは先に進めない…
あんたのためなんだ、
バルバトス団長!!
そいつを…
…殺すっ!!」
(バルバトスR・6話) 

 重要なのは、副官は「あんたのため」と言い切り、バルバトスを思慕していたからこそ対立せざるを得なかったことだ。結局バルバトスは、腹心の部下を自ら殺めてしまう。音楽が自分の喜びのためというのなら、何故楽しかった戦争ではないのか。そう問われたバルバトスが、長い台詞で答える。

バルバトス
「俺は…気づいたからだ
世界は自分の外にこそあり、
「個」である自分を覆ってる
俺は世界のすべてを見たいんだ
それは美しい…
音も、光も、言葉も、戦いもだ
そのすべてを含むのが世界なんだ
俺たちはそれを構成する
部品でしかないんだ」
(バルバトスR・6話) 

 バルバトスは世界の「美しさ」に気付いた者である。音も、光も、言葉も、戦いも、果実の味わいも、そこにあるのはいずれも刹那の感覚的な喜びに過ぎない。そうした微細な快楽がひとつの「美しい」光にまで昇華するには、順序の逆はあるかもしれないが、世界に対して自分が「部品」のように小さくある認識がなくてはならない(あるいは、優れた芸術や、あるいは世界の美しさは、視る者に自身の存在を「小さく」感じさせるものだろう)。
 「世界のすべて」を観測することを夢見るバルバトスは、もはや戦いによって死と殺戮をまき散らすような、粗大な「個」にはなり得ない。この前半の芸術家としての台詞は、後半に転調する(だからこの長回しは、一続きの台詞ではなく、二つの調を異にした台詞として読むべきだろう)。

バルバトス
「戦争はただの器なんだ
その中で「個」を輝かせるのは、
小さな武勲なんかじゃない
わかるか? 武勲じゃないんだ
想像してみろよ、「物語」を
いつか誰かが語る話の中で、
俺の存在が描かれることを
勝ち負けじゃないんだ
それ以外になにが成せるのか、
なにを成してきたのか、なんだ
だから俺は―
―俺の物語を作りたくなったんだ
音楽と、言葉で、美しい話を
俺たちの生きた瞬間を、
永遠に残すためにだ!
その中には、オマエだって…
オマエだっていたのに
…どうして
…どうして
「戦争じゃなきゃダメ」なんだ!
殺すだけが物語じゃないだろう!
それは、あまりに…
あまりに美しくない」
(バルバトスR・6話) 

 世界を前に、芸術家という極小の「個」を手にしたバルバトスにとって、もはや一個人の「武勲」や「勝ち負け」や、あるいは「殺す」ことなど単なる出来事に過ぎない。それが何故「美しくない」のかは明白に物語られない。だからここは勝手な補いになるが、殺し殺される現在ばかりに執心し、「永遠」など夢見ようがない世界では、世界の美しさを観測することなど出来るはずもない。バルバトスの「芸術」とは、世界の一瞬の煌めきを①言葉にすることで永遠に留め置き、②さらにその感覚を誰かに伝える手段を意味する。
 殺すことは、本質的にその「永遠」に反しているのかもしれない。
 いずれにせよ重要なのは、数年戦争を放棄していたとはいえ、バルバトスが副官を大切に想い、「俺たちの生きた瞬間」の物語に、彼の存在も含まれていたことだ。その副官を殺めねばならなかったバルバトスの心は、当然のように苦い。

軍団副官
「軍団を捨てて、
俺を殺したあんたが憎い
武勲を否定して、
裏切った俺を殺したことさえ
誇れないあんたを軽蔑する
(…)俺も…嵐に飲み込まれて、
ただ消えることにするよ
さよなら、軍団長」
(バルバトスR・6話) 

 バルバトスのこの戦争放棄は、たとえ消極的であっても、戦争社会においては副官が指摘するがごとく「嵐」のように強烈なエゴの行為に他ならない。副官の凶行も、自身の理想をバルバトスに押し付けるという意味では、同じように強烈なエゴだろう。その意味でこれは、我欲と我欲の衝突である。だから「嵐に飲み込まれ」るという言葉が自然に浮かんできたのだろう。
 ここまでが回想だ。肝心のリジェネは、寿命を迎えたバルバトスが、小村の納屋に忍び込んで静かに死を待つところに、ソロモンが駆け付ける場面から始まる。無印のキャラエピで、かつてイニエに物語を語り続けたように、バルバトスもまたソロモンから扉越しに言葉を受け続ける。

ソロモン
「最後の瞬間を邪魔したい
わけじゃないんだ
ただ、せめてそのときは
小屋の外からでもいいんだ
見送りたいと思ってさ
俺が「勝手に、ここで
話してるだけ」だから
(…)直接触れ合えなくても
言葉を交わしてれば、
なんか繋がってる感じだろ
俺は、バルバトスに、
それを断ち切ったまま
世界から消えてほしくないんだ」
(バルバトスR・7話) 

 かつてバルバトスが出会った少女・イニエは、フォトンの貧しい土地で、大地の恵みを引き寄せ、周囲にそれを分け与える代償として、あまりに短い生涯を約束された存在だった。老い衰える彼女からの応答がないにもかかわらず、バルバトスが小屋の扉越しに物語を語り続けたのは、少しでもその最期の時間を彩らせるためだった。
 イニエはバルバトスに接吻を求める。詩歌に謡われる恋の経験を味わってみたい、そんな単純な好奇心も混合していただろうが、最後に彼女の詩が酒場で朗読される場面から察するに、それは恋慕に近いものだったのだろう。
 バルバトスはまさしく、「勝手に」話し続けることでイニエの死を見送る。
 それは応答や見返りを要求しない、ただ自分がそうしたいが故にそうしただけの、長い手向けの行為である。バルバトスは、いつかイニエの存在を誰もが忘却することに切なさを覚えながらも、その詩を物語ることで彼女が「永遠」に近付くときを夢見ている。そしてこれに応答するのが、ソロモンの次の台詞だ。

ソロモン
「「バルバトスの物語」を
俺が伝えちゃダメかな
(…)バルバトスがいなくなるのが
仕方ないことだとしても…
…結末のわからない
中途半端な物語みたいには
したくない
誰かが最後の瞬間まで付き合って、
バルバトスが最後まで生きたことを
伝えるべきだと思うんだ
(…)あの書置きの、
星空の話、よかったぜ
俺は表現者じゃないから、
あんな風に時間を越えて、
多くの人になにかを残せない
でも身近な人に
バルバトスがどんなヤツか、
話して聞かせることはできる
この世界を守るためとはいえ、
戦うことばかりが
俺たちの物語じゃないよ」
(バルバトスR・7話) 

 イニエがその感性と魂を詩に結晶させ、それをバルバトスが酒場で唄うのと、ソロモンがバルバトスの物語を語り継ぐことは似通っている。「戦うことばかりが俺たちの物語じゃない」というのは、まさにバルバトスが自分を理解しない副官に伝えたかった言葉だ。ここでソロモンが演じる身振りは、二重の意味で過去のバルバトスに近似している。
 では、何故バルバトスはこの説得でリジェネを果たせるのか。
 その論理を読むことは、この台詞のやり取りだけでは難しい(私には分からなかった)。ただ、イニエの死を聞かされたときのバルバトスの反応は重要だと思う。顔馴染みの男から、最後までバルバトスの物語を楽しんでいたと聞かされたときに漏らす、さりげない言葉だ。

バルバトス
「そんなこと、わからないよ
俺にできることはただ…
発するだけだ
彼女の「心の世界」に
それが届いたのかどうか、
知る術はもう…」
(バルバトス・14話) 

 実際には、イニエの「心の世界」をバルバトスは確かに満たしていた。それ故の返礼と、おそらくはささやかな恋文の意味合いも含めて詩が贈られたのだろう。それでも、バルバトスにとって本当にこの選択が正しかったかは、最後まで悩む問だったはずだ。若く美しいまま、イニエの自害を見送る結末は、いかにも美しい物語の結びだろう。バルバトスの接吻と延命は、まさにソロモンがそうしたように「勝手」なエゴであって、無意味な延命であったのかもしれない。それが正しいかは、どんなに純粋な詩でも正確には答えてくれないのである。
 では、そのイニエの立場に置かれたバルバトスは、どう感じていたのか。

バルバトス
「美しく完結するだけが、
物語の在り方ではない、か…
(…)それだけじゃ、物足りないのかも
無様だろうと、蛇足だろうと…
(…)一番の聞き手が、これだもんな」

(「長命者」としちゃ、もう
いつ死んでもおかしくない
終わった男だが…
表現者」としてなら、
まだやれることが
あるかもしれない)
(バルバトスR・7話) 

 ソロモンがバルバトスとの繋がりを断ち切ることなく、その死を見届けたうえで、最期を含めた物語を語り伝えていきたいという想いを受け、なぜ「やる気」になったのか。それを、この場面のみで読むことは、私には出来なかった。バルバトスに音楽を教えた女メギドが誰かといった「謎」も、この物語だけではどこまで真剣に追い求めるべき「謎」かはちょっとはっきりしない。

 しかし、この場面の論理は、イニエを下敷きにすれば別の読み方が出来る。
 イニエは「いつ死んでもおかしくない」「終わった」存在だった。それでも「表現者」として、最後には自分の時間を詩に結晶させて遺した。それは、美しいまま自ら命を絶つ女から、醜く生き延びる老婆に成り下がる「無様」で「蛇足」な在り方だったかもしれない。それでも、バルバトスにとってその「蛇足」は、何としても送らせてやりたい時間だった。本人がどんな詩を書こうが、そこに単なる自己満足の側面があることは否定できない。
 苦い罪悪感がなかったわけではないはずだ。同じように小屋の扉越しに語られて、イニエのことを回想しなかったわけがない、と思いたい。
 そして、いざ自分がイニエのように死に瀕したとき、ソロモンが関係の繋ぎ目を断ち切らぬよう、そして己の死を見届けるために自分を見つけ出してくれたことは、決してあからさまには物語られないが、バルバトスには一種の福音だったはずだ。自分が迷いながら果たした行為の本当の意味を、身をもって教えられたのである。イニエを延命させ、扉越しに彼女に語り続けたことは、果たして適切な行いだったのか。
 そうだったはずだ、というのがソロモンが知らずして提示した答えだった。
 「表現者としてなら、まだやれる」という決意は、かつてイニエが詩を遺したことに触れているのだと読みたい。自分もイニエのように、「表現者」としてまだ出来ることがあるかもしれない。それこそが、文面通りに、バルバトスの決意だったのだと思う。それは、たとえリジェネレイトを予想していなかったとしても、ソロモンに自分のこれまでを語り残す行為だったかもしれない(苦笑を連想させる「一番の聞き手が、これだもんな」という台詞は、意味の解釈が難しいが)。結果的にリジェネと延命に繋がったのは、ちょっとした物語の奇跡だろう。
 リジェネの直前に、こんな掛け合いがある。

バルバトス
「ただし、いいか
(…)俺はここでずっと、
「メギド時代のこと」を
思い出してた
(…)再召喚されると、嵐の時代の
俺が表に出てしまうかも
キミの知ってる、穏やかな俺じゃないかもしれないぞ」
(バルバトスR・7話) 

 バルバトスが副官と対立しなければならなかったのは、音楽への耽溺を、「もはやバルバトスではない」と判断されたからだ。これまでのリジェネレイトの傾向からして、性格や人格が大幅に変わることは無いはずだ。だからこの「キミの知ってる、穏やかな俺じゃないかもしれない」は、不思議な警告でもある。
 何故バルバトスは、このような言葉を発さなくてはならなかったのか。
 バルバトスは音楽を知ることで重大な変化を来し、故に副官を殺さねばならなかった。それは、生涯最後まで、バルバトスの心に傷と後悔として残り続けた。だからこそ、リジェネレイトという新たな変化を目前にして、たとえ不条理な問であったとしても、ソロモンにそう確認せずには居られなかったんじゃないか。
 答えは単純だ。

ソロモン
「バルバトスはバルバトスだろ」
(バルバトスR・7話) 

 この答えに対するバルバトスの反応は描かれない。でも、この何気ない念押しこそが、変化によって手痛い傷を受けたバルバトスには、必要な答えだったのかもしれない。
 イニエの延命と、身勝手な寄り添いは、果たして正しかったのか。
 自分が重大な変化を来したとして、ソロモンはそれを受け入れてくれるのか。
 バルバトスのリジェネレイトは、この二つの問いに、ソロモンが知らずして答えたことで成し遂げられたのではないかと思う(ただこれは読み過ぎだろう)。

 ではイベント本編、サタナイルの物語はどうか。
 野良の幻獣に襲われて気絶したバルバトスと、彼を助けたサタナイルは、互いに「ストラ」「ソナタ」と何も知らないヴィータを装い、偽名を名乗る。
 何故、サタナイルは見ず知らずのバルバトスを救ったのか。

黒髪の女
「私は…私の欲望に従って
行動してるだけだから
(…)私は…「死」が嫌いなの
だから「死」を見たくないのよ」
(第01話・1) 

 サタナイルはかつてのバルバトスのように、既に音楽を知り、メギドとしては引き返せない段階に来ている。「欲望に従って行動」しているのに過ぎないのも、創造とは対極の破壊や「死」を厭うようになるのも、似通っている。

 バルバトスはサタナイルを、あくまでソナタとストラという、ヴィータの男女として口説く(第01話・3)。互いにメギドであることを明かし、敵対したくないというバルバトスの意志を確認したサタナイルは、自分が何をしているのか確かめてほしいという。サタナイルの口調は、部下のアリキノに接するとき、もとはバールゼフォンから教えられた「女」の演技から切り替わる。

バルバトス
(この高圧的な感じ…
これが彼女の「素」なのか?
それとも…)

バルバトス
「…予想もしてなかった展開だね
俺を助けてくれた謎の美女の正体が
部下に恐れられる強面の隊長とは…」

サタナイル
「気弱な態度を取ると舐められるわ
だからどうしても気を張ってしまう
…それだけのことよ」
(第02話・3) 

 バルバトスとサタナイルの境遇は鏡の似姿のように近い。それを劇中で裏付ける台詞が、この場面のあとに続く。かつて苦い後悔を味わった自身の過去を思うからこそ、彼女のことが気にかかって仕方なかったのかもしれない。

バルバトス
(俺の演奏を聞いていたときの
彼女の嬉しそうな顔…あれは
どう見ても演技じゃなかった
俺も「そう」だからわかる…
彼女は音楽を愛してるんだ
だからなんだろうな…
出会ったときから彼女のことが
気にかかるのは
まるで…昔の俺みたいだから)
(第02話・3) 

 とはいえ、サタナイルにはバルバトスといくつかの重要な相違点がある。
 ただ戦争を放棄し、ひたすら自身の愛する音楽に耽り続けたバルバトスに対し、サタナイルはメギドラルの変革を願うからこそ、一兵卒が任じられるようなフォトン収奪の命令にあえて従っている。
 そして、自身より演奏技量の優れた女に一切の引け目を感じなかったバルバトスに対し、才能溢れるアスラフィルと自身の差異を痛感し、同志である彼女に嫉妬する不安を覚えたために楽器演奏から手を弾き、同志を支え導くために指揮者を選んだサタナイルでは、すべてが同じというわけにはいかない。さらに(後述するが)サタナイルはアリキノを想い、音楽と理想を捨てる可能性について考えたことがある、という示唆もある。
 自らの喜びに耽り、自由を謳歌していたバルバトスと、他者や外界を自己より優先しがちなサタナイルでは、当然その問題も変わってくる。むしろ彼女のほうが、当時のバルバトスより状況は更に厄介なものになっている。

 破壊を厭い、ハルマゲドンを快く思ず、創造を尊ぶサタナイルの在り方は、ソロモンとも分かり合える、手を取り合えるはずだというバルバトスの誘いを、サタナイルは拒む。それでも、メギドラルは自分を「生んでくれた」愛すべき世界なのであり、「功を挙げ、地位を得て」「あの世界を変えられるだけの存在に」なるほうに賭けたいという。

バルバトス
(メギドラルへの「愛」か…
彼女は気づいてないんだろうな…
メギドラルって場所はその愛さえも
否定する世界だってことに)

バルバトス
「俺は…
俺は、どうすればいいんだろうな…」
(第03話・1)  

 この苦い実感には、すこし推量が要ると思う。

 バルバトスは、決してメギドラルという世界自体への「愛」を持っていなかったわけではない。むしろ、謎の女にそう話していたように、彼にはヴァイガルドに渡ろうという意志など全くなく、自分が生きるメギドラルという世界の輝きに瞠目し、その美しさをただ愛し続けていた。そのような世界への愛、刹那の快楽に耽り、破壊と殺戮を厭うこと自体が、戦争社会では許されざる異端だった。
 結果としてバルバトスは副官を殺めざるを得なかったが、原因の根は戦争社会という体制だし、この意味ではバルバトスはメギドラルの社会体制そのものに己の「愛」を否定されたとも言える。サタナイルのような、自身を創造したことへの恩義ではなくとも、メギドラルへの愛であることには変わりないはずだ。だからこそ、自身がその愛したメギドラルに傷付けられた記憶を思い返し、サタナイルに何か出来ることがあるのではないかと迷ったのではないか。

 サタナイルは、バルバトスが音楽への愛故に、副官を殺すしかなかった過去を知らない。故に、こんな鋭い問を発している。

 

サタナイル
「(…)貴方もまた
「芸術」を理由に罰を受けた身
罰を受けるくらいなら芸術を…
音楽を捨てようとは思わなかった?」

バルバトス
「(…)俺は音楽を覚えて…
もうそれが「自分の一部」に
なってしまっていたからね」

サタナイル
「音楽を捨てなければ「殺す」と
言われても?」

バルバトス
「同じことさ
「自分の一部」を捨てることも、
殺されることも…大した違いはない」

サタナイル
「じゃあ…貴方の大切な人を
「殺す」と言われたら?
それでも音楽は捨てない?」

バルバトス
「…なんでそんなこと聞くんだい?」
(第03話・END) 

 音楽への愛故に大切な部下を死なせなくてはならなかった時、それでも音楽を捨てずに居られるのか。それまで問いに答え続けていたバルバトスが、一瞬黙って、問の理由を問い返すこと自体が、この質問の鋭さを物語っている。
 サタナイルが密かに持ち続けている音楽への愛も、フォトンを回収するうえでの手ぬるさも、上層部からは不服従、裏切りと見なされて不思議ではない。部下として彼女の行動指針を受け入れていたアリキノもまた、重罰は免れないだろう。
 この場面においても、サタナイルが考えてしまうのは自身の音楽への愛ではなく、むしろアリキノという他者の身の安全である(バルバトスは自分の行動が部下と軍団にどのような帰結を招くのか、副官に言われるまで考えもしなかったのだから、この差異はやはり大きい)。この意味でも、サタナイルは献身と優しさの人であって、本来ならバルバトスのような「嵐」の自我こそがメギドらしい在り方なのだろう(この差異は、あるいは旧世代と新世代の差として説明出来るのかもしれない)。
 サタナイルが実際に音楽と思想を捨てようとしていたかは作中では物語られていないが、そもそも人生相談じみた質問をしている様子からして、彼女に一切の迷いがなかったとは考えにくいだろう。

 会話はソロモンにヴィータ殺しを悟られ、戦いに破れたアリキノの足音で遮られる。アリキノの死を目にし、サタナイルは、ソロモンへの怒りと悲しみを露にする。死体を野晒しにするわけにはいかない、という彼女の気持ちを汲み、バルバトスは死体をフォトンの貯蔵庫へ運ぶことを手伝おうとする。

バルバトス
「こんなことになった以上…
キミと一緒にいることは難しく
なってしまったな
だから、せめて…
最後にそれぐらい手伝わせてくれ
いいだろう、「ソナタ」?」

サタナイル
「…………
ええ、お願いするわ…「ストラ」」
(第04話・冒頭) 

 何故ここでバルバトスが「ソナタ」と呼ぶのか理由は語られないが、メギドラルの異端者として、「同志」として通じ合えた関係は、最早アリキノの死を以て崩れ去ってしまった。だからこそ、最初から互いの素性など知らぬまま、音楽を楽しめた時間を懐かしむと同時に、出会ったときの「赤の他人」(第01話・1)同士に戻ろうというバルバトスなりの哀切な符号だったのかもしれない
 呼び名は、彼女がソロモン王への敵討ちを物語るとき、再び「バルバトス」(第04話・1)に戻る。それは、ソロモン王の配下、すなわち「敵」としてバルバトスを見るという意思表明でもある。
 志を同じくするサタナイルを、このまま死なせるわけにはいかない。考えた末に、バルバトスは、あえてサタナイルの敵討ちに協力する演技をして、互いに会話が始まる糸口を探ることになる。ソロモンとサタナイルが対話に至ることはないが、そこに予想外のアリキノの襲撃が起きる。アリキノを退け、その消滅を前にしたサタナイルは、バルバトスと共に「大地のソナタ」を奏でる。

サタナイル
「(…)この曲はせめてもの…
お前への手向けだ
至らぬ上官であった私を許してくれ
そして…これまでご苦労だった
さらばだ、アリキノ…」
(第05話・END)

 アリキノは何故凶行に走り、サタナイルは「至らぬ上官」として詫びるのか。
 これは非常に難しい。
 まずアリキノはサタナイルの指揮術を盗み取るため、上層部から送られた「犬」であり、「用済み」として彼女を殺めようとする。しかし、別にアリキノ自身がサタナイルを殺す必要などないのである。サタナイルの思想と行動を上層部に報告さえすれば、あとは勝手に処罰が進むはずだ。であれば、わざわざここでサタナイルを殺そうとするには、何らかの理由があるとしか考えられない。それも、サタナイルからの命令が重複したとき、わざわざ自分に従うよう幻獣たちを調教していたのだから、いずれこういった事態を迎えることは予想していたはずだ。
 アリキノは最初から、サタナイルへの暴力の意志があったはずなのである。
 では、その理由は何なのか。

アリキノ
((…)思ったぜ…
結局、力がなきゃクソだってな
ゴミみてェな理想だろうと…
それを叶えるためにゃ力がいる!)

アリキノ
「キレイゴトだけのてめえにゃ
わからねえだろうな…
サタナイルよぉ!」
(第05話・4)

 

 この「ゴミみてェな理想」が指すのは、サタナイルの創造を尊ぶ思想だろう。
 戦争と破壊が第一に尊ばれるメギドラルで、サタナイルの異端の理想を広げるには「力」が必要だ。そしてアリキノ自身が経験したように、たとえ美しい理想に生きていたとしても、力が無ければ圧倒的な暴力には呆気なく崩される。
 そのような現実から目を伏せ、自身が処罰される危険も考慮せずに小手先の「キレイゴト」に耽るように見えたサタナイルに、苛立ちは少なからずあったのだろう。

バルバトス
(蘇る力…
ひょっとするとそれが彼を
変えてしまったのか…?
力の弱いメギドが、
力を得た瞬間に豹変する…
そんなのはよくある話だしな
力がないときにはサタナイルの
理想に共感できていても…
力があればそれは戯言ってわけだ)
(第05話・3)

 バルバトスは、アリキノはサタナイルの理想自体には共感していた、と読む。破壊と戦争を厭うサタナイルの思想は、(たとえばスコルベノトのように)弱者のメギドには都合が良いものだ。そもそも「犬」として上層部の命令に従っていたアリキノだが、サタナイルの言動に接するうちに敬慕の念を募らせ、その思想を受け入れたのだろう。彼が鈴を得物に選んだのは、自身の適性が第一であるが、サタナイルのためでもあった。

アリキノ
「それに…(…)
「楽器」を指揮に用いることで、
上層部も「音楽」の重要性を
理解してくれるんじゃないかと…
(…)メギドとしては無力な私に、
いつもあれこれ手を焼いていただき
…感謝しています
だから私も…
サタナイル様の理想を実現する
力になれればと思うのです」

(…)

サタナイル
「アリキノなりに…
音楽や芸術に希望の「光」を
見出したのかもしれないわ
アリキノは…メギドとしては
戦う力に欠けていたから」
(第04話・1) 

 
 実際には戦う力を有することと、音楽や芸術への愛は(アルテ・アウローラでもっとも保守的なべバルとアバラムがそうであるように)矛盾しない。だが、いずれにせよアリキノが音楽をサタナイルに寄り添って解していたことは、クロケルのベルの音に「情緒」の欠如を見る様からも伺われる(第05話・3)。
 アリキノはサタナイルに隠れ、密かにヴィータを殺し続けていた。

アリキノ
「指揮術のおかげでギリギリ首が
繋がってるくせに、俺にペラペラと
音楽の話をしやがって…
しかも「誰も殺したくねえ」だ…?
そんなことが上層部にバレたら、
どうなるかわかってンのかよ?
(…)だ、け、ど…安心しない
デキる部下の俺が…ばーっちり、
カス上官のケツを拭いておいたぜ
お前が逃がした貴重な貴重な
フォトン袋…ヴィータどもをっ!
ちゃーんと回収してなぁ!」
(第05話・1)

 劇中で説明されたように、サタナイルのフォトンの回収法は非効率的で、上層部にそのささやかな反逆が露呈する可能性は決して低くなかったはずだ。
 上司の命令に反してヴィータからフォトンを回収していれば、たとえサタナイルが罰されるとしても、アリキノ自身の保身は達成されるだろう。しかし、結果から見れば、アリキノが「上官のケツを拭いて」いたおかげで、サタナイルは上層部からの刑罰を免れていたのである。

 アリキノの精神は非常に悩ましい状態にあったのではないか。
 それこそ、サタナイルがアリキノが処罰される可能性を考え、ともすれば音楽と理想を捨てるべきか悩んだのと同時に、アリキノ自身もまた苦しめられていたのではないか、というのが個人的な読みである。

 アリキノの行いは奇異で、指揮術をある程度以上習得出来たのであれば、あとはサタナイルの行動を上層部に報告してしまうだけで良かったはずだ。にもかかわらず、彼女の行動が上層部に露見しないよう、ヴィータ殺しという不合理な手間を取った。であれば、その手間に理由があったと見るのが自然だろう。
 もしそれが、敬愛するサタナイルを護るためだとしたら、残酷である。
 アリキノはサタナイルを護ろうとするが故に、その理想から反し続けることしか出来なくなるからだ。サタナイルは、その指揮術のオリジナリティ故に、辛うじて生存を許されている。言い換えれば、アリキノが指揮術を十分に修得すれば、異端の思想をまき散らすサタナイルは、「用無し」としていつ処刑されてもおかしくない。
 ここでもアリキノは二重の苦しみに苛まれている。
 サタナイルのもとで指揮術を学ぶことは幸福な体験だろうが、自身がそれを習得し切り、彼女を凌駕してしまえば、いずれサタナイルは処刑される可能性が高い。にもかかわらず、サタナイルはアリキノに指揮術を熱心に指導し続け、また露呈する可能性が決して低くない回収作戦を続けていた。
 アリキノが真にサタナイルを敬慕していたのであれば、破滅に直進するようなその振舞いは、見ていて相当に苦しかったはずだ。

 アリキノはサタナイルの理想自体には共感していた。ただし、それには手を汚し、現実の「力」を得る必要があると考えていた。ただ、アリキノがわざわざヴィータを殺し続けたことは、サタナイルを延命させたかったと見る他ない。

 であれば、アリキノはあえてサタナイルに敵対し、自身の力で屈服させ、支配下に置くことで、彼女を延命させたかったのではないか。「思想的には問題はあるが、現在は自分が律しており、指揮術の腕前自体はやはり貴重である」などと理由をつけて。アリキノがケジメとしてサタナイルを屈服させれば、上層部を説得する材料になるだろう。そのようにアリキノは計画していたのではないか。

 アリキノの最大目標は「サタナイルを存命させること」だった。
 彼は既にヴィータを殺害したことをソロモン王に知られている。思想的に近いサタナイルがソロモン王の配下に就く可能性は十二分にあり得るが、ソロモンが自身を受け入れる可能性は高くない。むしろ、ソロモンからサタナイルに事実が伝われば、清廉な彼女がアリキノを許さず、拒絶する可能性も十分にある(なにせ、アリキノは「女」としてのサタナイルの言動には触れず、もっぱら「舐められない」ための高圧的な口調ばかり聞かされてきたのだから)。

 既に一度破れたソロモン王相手に、無策で再戦を挑むことは無謀である。であれば、何故アリキノは密かに逃げることなく、わざわざサタナイルとソロモンに戦いを挑むのか。
 サタナイルがアリキノを大切に想ってくれていることは、彼自身も理解していた。であれば、他ならぬ自身の存在がサタナイルをメギドラルに繋ぎ止める枷のひとつとなっており、また音楽と理想を捨てさせかねない原因となっていることも、思い及んでいたのだろう。
 
 アリキノの凶行の理由を、厳密に確定することは難しい。ただ状況から推察して素描するならば、個人的な読みは次のようになる。
 
 アリキノはサタナイルの理想に共感しながらも、彼女の思想と行動が上層部に露見し、死刑になることを恐れていた。おそらくは蘇生の力を得たのと同時期から、サタナイルの行動が露見しないよう、密かにヴィータを殺してフォトンを回収していたが、彼女はそのような事実にはまったく気付く様子を見せず、無警戒に指揮術を教え続けた。自身が指揮術を習得すること自体がサタナイルの処刑を早め、さらに彼女の理想を護るため、その理想に反してヴィータを殺し続けなければならないジレンマは、アリキノの精神を確実に追い詰めていた。
 そんな中、ソロモン王にヴィータ殺しが露見し、アリキノは死を迎えてしまう。貯蔵庫に置かれた状況から、サタナイルに死なれたと思われているのは明らかである。自分が蘇生の力を持ち、ヴィータ殺しの事実を明かさない限りサタナイルへの再会は叶わないが、それを知った彼女は、アリキノを拒絶するだろう。
 残された選択肢として、アリキノはサタナイルとソロモン王に戦いを挑むことしか出来なかった。いずれにせよ、いつかサタナイルと対立することは予想の範疇で、故に幻獣の調教も前もって施していた。戦いに勝利し、傷付いたサタナイルをメギドラルへ連行すれば、自身が監視し、今後もメギドラル上層部に造反するならこのように処罰を加えるという名目で、サタナイルを存命させられるかもしれない。戦いに敗北したとすれば、サタナイルは自身との繋がりを断ち、後腐れなくソロモン王の軍団に加わることが出来るだろう。勝敗のどちらであろうが、最終的にはサタナイルが存命する結果に違いはない。
 
 この読み方を採用するのならば、『キミに捧げし大地のソナタ』のアリキノの豹変は、彼とサタナイルが共に互いを想いながらも、その心情を言葉にして語ることがなかったが故の悲劇でもある。たとえばサタナイルが、アリキノのために音楽と理想を捨てるべきか迷ったことを明かしていれば。あるいはアリキノが、サタナイルを存命させるため、理想に反してヴィータを殺していることを告白していれば、おそらくこの二人には別の結末が待っていたと思う。
 ただし、アリキノの凶行の理由は、作中では明白に物語られてはいないし、「用無し」として殺すのは、別にこのタイミングである必要はないというだけだ。その行動の不自然さを踏まえ、こう仮の説明は出来る、という程度に過ぎない。

 話を本筋に戻そう。アリキノの死を見届けたサタナイルは、メギドラルに帰還しようとしてバルバトスに引き止められる。ここの口調の変化が、細やかでいい。

バルバトス
「正気か、サタナイル…?
アリキノの言葉がどこまで
本当かはわからないけど…
キミの「思想」が上層部に
漏れていた可能性もある…
だとしたら確実に罰されるぞ」

サタナイル
「承知の上だ
それでも私は…メギドラルを
捨てることはできない」

バルバトス
「今のメギドラルは…
キミを必要としていないのに?
(…)酷な言い方だけど…
それが真実だろう?
キミがメギドラルを救いたいと
願うその気持ちは立派だよ
だけど相手にそれを受け止める
用意がなければ…そんな気持ちも
無駄になるだけだ」

サタナイル
「だったら…どうしろと言うの…」
(第05話・END) 

 メギドラルへの愛と、処罰の可能性を十分に理解し、メギドラルとは敵対する他ないのではないかという気持ちとに、サタナイルは引き裂かれている。バルバトスの説得は、愛するからこそ内部ではなく外部から変えればいい、という引き裂かれた選択肢の統合だ。そうすれば、メギドラルの「敵」にならず、愛するが故に戦うことが出来る。
 サタナイルは、クロケルの無邪気な言動に笑いを漏らす。

サタナイル
「…ふふっ
貴方たちは本当に…
「変わり者」ばかりなのね」

バルバトス
「やっと笑ったね…「ソナタ」」

サタナイル
「…二度とその名前で呼ばないで
そう言ったはずよ」

バルバトス
「最後にそう呼びたかったのさ
これから先は…お互いメギドとして
接することになるだろうからね」

(…)

サタナイル
(ありがとう…「ストラ」
貴方に会えて良かったわ)
(第05話・END) 

 サタナイルは結局、弟同様に大切にしていたアリキノを自ら殺めねばならなかった。その後悔はバルバトス同様、永く残り続けることだろう。
 それでも、束の間、何も知らない、ただ音楽を愛する男と女同士で居られた時間を懐かしむように、バルバトスは「ソナタ」と呼ぶ。それは単なる幻への郷愁に過ぎないけれど、サタナイルもまた、その時間を幸福だったと思わないわけにはいかない。そこには、アリキノの存在もまた織り込まれているのかもしれない。
 短いけれど、とても切ない応答だと思う。
 
 この引き裂かれたものの統合こそが、『キミに捧げし大地のソナタ』で繰り返される動きなのだろう。バルバトスがソロモンに嵐の時代の自分も受け容れられるか問うのもそうだし、凶行に走ったアリキノが、最後に敬慕の声を漏らすのもそうだ。サタナイルのジレンマが「愛するが故に外側から変える」というバルバトスの説得で統合されるのも、「少し前まで敵同士だったのに、たった1曲でわかりあえ」る、と楽譜を書くことを約束して喜ぶクロケルに、サタナイルが心動かされるのもそうだ。そして何より、最後のこの会話である。

クロケル
「ところでサタナイルさんは…
どっちが本当のサタナイルさん
なのですか?
(…)まあ、どっちでもいいです
あんな美しい指揮をできる人が
悪い人なわけないですし」

サタナイル
「ふふ…ありがとう」
(第05話・END) 

 何故この言葉を発するのがクロケルなのか。その答えはクロケルリジェネのキャラエピにあると思う。最後に彼女に触れて、この感想を終わりにしよう。

 クロケルリジェネのキャラエピは、物語というよりは、性格の描写に近い。彼女がそもそも奇跡の子を名乗るのは、年老いた両親に十歳から歳を取らぬ理由をそう説明されたに過ぎない。奇跡の子には世界を平和にするという使命があり、だからこそ人助けの旅に出なければならないという両親の言葉を、クロケルは信じた振りをする。
 実際には、その根拠などどこにもなく、クロケルがその不老故に迫害されることを避け、自分以外のヴィータに出会えるように旅立たせねばという、両親の切ない「方便」(クロケルR・1話)であり、「奇跡の子」は単なる演技に過ぎない。
 話の本筋は、街の少女が盗賊に誘拐された事件を中核に進む。
 少女を救うため、殺されかけたクロケルは、両親に不孝を詫びる。

クロケル
(お父さん…お母さん…
ごめんなさいなのです…
だけど私は奇跡の子だから…
自分の幸せよりも…他の誰かを
幸せにするのが使命ですから…)
(クロケルR・9話)

 そもそもクロケルが「奇跡の子」という嘘を信じた振りをして早々に旅立ったのは、両親が自分を案じているのを理解していたからだ。けっこう押しの強い性格ではあるが、本質的には「自分の幸せ」よりも「他の誰か」を優先する人物なのである。大事な描写が、リジェネのあとに挿入される。
 誘拐された少女が、クロケルを「天使」と勘違いする場面だ。

パパ
「そう言えば、吟遊詩人の物語で
聞いたことがあるな…
世界を旅する天使の話なんだけど…
その天使が持ってるベルを鳴らすと
人々に奇跡が起こるんだ、って」

エリス
「えっ!?
じゃあクロケルちゃんは…
天使だったってこと?」

ママ
「そうだったのかもしれないわね…
お礼を言おうとしたけれど、
もういなくなってたし…」

パパ
「物語の天使もね、人々を幸せにして
すぐに姿を消してしまうんだ
そうやって…世界中の人々を
幸せにしてるんだよ
(…)なんだか僕も…
本当にその子が天使なんじゃないか
って思えてきたよ」
(クロケルR・10話)

 両親の方便に過ぎない「奇跡の子」を演じ続けるうちに、いつのまにかクロケルは「世界中の人々を幸せ」にする「天使」ではないか、と称される。繰り返す演技は、自然にその人の本態に染み付いていくものだろう。あるいは、演技と、演技する本態とに、厳密な区別などあり得ないのだろう。そのどちらもが、その人の在り方そのものであると言える(故にアリキノの「二枚舌」は切ないのだが)。
 だからこそ、強面の武人と柔和な女を演じるサタナイルは、どちらだってサタナイルには違いない、とはっきり肯定して物語を結ぶのは、まさしく本物の「奇跡の子」となったクロケル以外にあり得なかったのだろう。【了】

メギド72『カカオの森の黒い犬』について

 スコルベノトの告知を見たとき、女装少年の話か、と思った。そうなると予想がつくのは男女の性差(社会的な圧)なんて気にせず、自分の好きな格好をすればいいという流れで、実際スコルベノトのキャラエピはそういうベタな話でもある。ただ、実のところ、イベント本編を読めば、スコルベノトは「女装」からはけっこう遠い位置にある人物である。むしろ「女」の振舞いを装ったのは、スコルベノトではなくバティンだったんじゃないか、というのが今回の結論だ。
 
 バティンについて話す前に、まずはスコルベノトの物語を読んでいこう。
 最初に重要なのはプロローグだ。掃除の巧みさを軍団長ストリガに一応誉められつつも(これはメギドとしては特異な能力だろう)勝手な装飾を千切られた場面に続く、スコルベノトへの叱責である。

軍団長ストリガ
「スコルベノト…
お前、うちの軍団に入ってから
どれぐらい経つ?」

スコルベノト
「さ、3か月ぐらいになりますかね…」

軍団長ストリガ
「その間、お前が挙げた戦果は?」

スコルベノト
「な、なにもないです…!」

軍団長ストリガ
「そうだ、ゼロだ
「非戦期間(バナルマ)」明けの
お前を軍団で受け入れてから――
お前はなにひとつこの軍団…
「ルクス・レギオ」に対して
貢献できてないということだ」

スコルベノト
「ご、ごめんなさい…
だって戦うのは怖いし…」

軍団長ストリガ
「ふざけるんじゃない!
いつまでバナルマ気分なんだ!
しかも戦うのが嫌だと言うから
屋敷の片づけをさせてみれば、
妙な飾りでかえって汚して…」

スコルベノト
「よ、汚すなんて…!
ボクはそのほうがカワイイと
思ったから…!」

軍団長ストリガ
「スコルベノト…
お前がどんな服装をしようが
お前の自由だが…
それを人にまで押し付けようと
するのはよせ!
それは「個」への侮辱だぞ!」

スコルベノト
「ご、ごめんなさい…っ!
でも…そのほうが絶対に…
カワイイから…」
(プロローグ)

 

 スコルベノトはバナルマ明け直後であり、三か月の間、本来求められる軍団への貢献を一切果たしてこなかった。戦闘が嫌だという彼の感性を尊重し、屋敷の掃除に配置転換はしてみたものの、勝手に飾り付けをする始末だ。

 興味深いのは、スコルベノトはストリガに「お前」の「カワイイ」を「人にまで押し付け」ることは、相手の「個」への侮辱である、とはっきり説明されているにもかかわらず、「そのほうが」「絶対に」「カワイイ」と実のところ意見を譲っていないことだ。だから、ここでスコルベノトが謝罪しているのは、他人に「カワイイ」を押し付けたことを反省しているのではなくて、軍団長を怒らせてしまったこと自体に詫びているのであって、説教で何かが変わっているわけではない。
 「絶対」という言葉通り、ここでのスコルベノトの「カワイイ」には相対的な世界はない。ここにあるのは、自分にとって正しい観念は、絶対的に他人にとっても正しく心地よいという、一種の幼さである。

 とはいえ、一応、ストリガもスコノベルトの「個」を汲み切れていない、と言えなくもない。バナルマ明けの戦闘嫌いで、裁縫や農業にも適性のあるスコノベルトを戦わせようとすることも、言ってしまえば「押し付け」には近いのだが、それは彼が軍団に所属している以上、致し方ないルールでもある。スコノベルトはこの時点で、「そんな風には言うけれど、そっちだってお前のルールを押し付けているだけじゃないか」ぐらいの気分にはなっていたかもしれない。
 ただ、ストリガはスコノベルトを見限っているわけではない。

軍団長ストリガ
(持っている能力自体は悪くない
だからこそもっと自信を付ければ
使えるようになるはずなんだ…
そう…プルフラスのように…)
(プロローグ) 

 彼はスコノベルトの資質を実のところ評価し(630号に第1話・4で「見所ノアル若イメギド」と伝えていたように)欠如しているのは単に自信だと想定している。確かにストリガは、プルフラスに「自信」の重要性を教えている(プルフラス・第8話)。彼女の物語で重要なのは、目前の敵に打ち勝ち、サタナキアに敵討ちを果たすため、プルフラスが「女の姿」を捨てることだ。 

プルフラス
「…女の姿だから舐められるんだ
振る舞いも変えなきゃダメだ
今日で私は、生まれ変わるんだ!」
(プルフラス・6話)

 この決意を機に、プルフラスの一人称は「僕」に変わる。
 プルフラスは「女」の姿と振舞いを捨て、強さのために男装を選んだ。アシュレイの敵を討つためにそうせざるを得なかった、とも言える。一方、スコノベルトは最初から最後まで「カワイイ」自分の姿を捨てようとはしない。
 ストリガとスコルベノトの会話から転じて、サタナイルとプルフラスがチョコレートを受け取る場面が続く。思えばサタナイルも、合理的なメギドラルの思考から抜け出すためにヴィータの言葉遣いを真似てみればどうかと、バールゼフォンから「女」の振舞いを教えられた人物である。
 メギドラルにおいて、本来男女の性差というのは然程気にされるものではない。有性生殖でもない種族だから、当然のことだろう。プルフラスは、アシュレイによって本来あり得ない「兄妹関係」を教えられたように、知らず知らずにヴィータの女の振舞いを取り込んでいたのかもしれない。スコルベノトの男性らしからぬ「カワイイ」服装を性差から謗るのはメギドではなく、むしろヴィータである(スコルベノト・3話)。
 とはいえ、性差のない世界でスコルベノトが苦しまなかったわけではない。
 スコルベノトはヴィータの少女・エーコに出会う。エーコに自分の服装を「素敵」と褒められたとき、スコルベノトは思わず涙を流す。

スコルベノト
「う、ううっ…!
(…)ボク、う、嬉しくて…!
メ、メギドラルじゃずっと…
カワイイなんて意味がないとか
くだらないとか言われてたのに…!
そんなに褒めてくれるなんて…
ボク…それだけで…!」
(第02話・1)

 「カワイイ」など「意味がない」「くだらない」と言われ続けたことに、彼が傷付かなかったわけでは決してない。すなわちスコルベノトの問題は、戦争社会であるメギドラルにどうしても馴染めないことであり、「カワイイ」を分かち合う仲間の不在、その孤独である。
 「カワイイ」を理解してくれる人物は、作中ではもうひとり居る。ブエルだ。
 自作のリボンと服装を誉められたスコルベノトが、お礼にブエルへリボンを贈ろうとする場面は、彼にとってエーコと同程度に重要な人物であることを伺わせる。ザガンを自ら盾にして押し出すほど、自己保身が第一だったスコルベノトが、幻獣に襲われたブエルを助けるため飛び出す流れも、同様である。

ブエル
「スコルくんも戦ってくれて
ありがとっ!怖くなかった…?」

スコルベノト
「こ、怖かったです…でも…
カワイイって言ってくれた人が
いなくなると悲しいので…」
(第03話・END)

 村に帰ればカカオ泥棒として殺されるかもしれない、と不安がるスコルベノトに、ソロモンは自分たちの仲間を装えばいい、と提案する。しかし、仲間であることは同時に戦わねばならないことを意味するわけで、スコルベノトはその提案にすら躊躇う(スコルベノトは当然受け入れるべき提案のメリットとデメリットの計算すら出来ない程に幼いのである)。そこでのソロモンの発言が重要だ。

ソロモン
「…今はそれでいいよ
だけどスコルベノトはさっき
ブエルのために戦ってくれたろ?
あんなに戦うことが嫌だって
言ってたのにさ」

スコルベノト
「ブ、ブエルちゃんはボクを
カワイイと言ってくれたので…
む、夢中で…」

ソロモン
「…ありがとう
でもさ、それってもう仲間みたいな
もんじゃないか
(…)俺たちは別になにかを傷付ける
ために戦ってるわけじゃない
守りたいんだ
大切な人とか、大切な場所とか
大切な思いとか…
そのために、誰かを傷付けたり
誰かに傷付けられたりすることが
あったとしても…
守りたいから戦うんだ
悲しいけど、そうしなくちゃ
守れないものってのもあるからさ」
(第03話・END) 

 「カワイイ」と言ってくれたブエルがいなくならないよう戦うのは、守るための戦いに相違ない。たとえ自己中心的であったとしても、それは「大切な人」=ブエルを守るための戦いであり、「大切な思い」=「カワイイ」を守るための戦いなのだから。だから、ここでスコルベノトはソロモンにとって仲間なのだろう。

 洞窟に迷い込んだエーコの救出を最初に提案するのも、他ならぬスコルベノトである。

スコルベノト
「ソ、ソロモンさん…!
た…助けに行きましょう!
(…)エーコちゃんは、ボクの服を
カワイイって言ってくれたんです!
あの子になにかあったら…
ボクをカワイイって言ってくれる
人が減っちゃう…!」
(第03話・END)

 これが無関係な村人なら、この時点のスコルベノトは救出を提案しなかったかもしれない。ただ、たとえ限りなく利己的な理由であろうと、他人のために一歩踏み出す行いは、ソロモンにとっては「仲間」なのだと思う。

 バティンは、ブエルのために飛び出すスコルベノトを見て「意外な行動」「心の底まで腐っているわけではない」と評価を改める(第03話・4)。スコルベノトは黒い犬を裏切った以上メギドラルに戻ることは出来ず、ハルマに見つかったときの面倒を防ぐためにも、身分保護としてソロモンの召喚を受けたほうがいいと説明されたにもかかわらず、なお軍団長に許しを乞うためカカオを密かに収穫しようとするのを、バティンがきつく叱責した、その直後のことである。

バティン
「事実はどうでもいいんです
あなたは今、敵であるはずの
ソロモン王と一緒にいる…
その事実だけで、彼らはあなたが
裏切ったと考えてもおかしくは
ありませんよ
あなたが、私たちに必死で抗う
様子でも見せていれば別ですが…
あなたは無様に命乞いをして
赦しを請いましたしね」

スコルベノト
「そ、そんな…!
じゃあボク…どうしたら…」

バティン
「そんなことは知りません
自分で考えてください
私はあなたの幼護士でも
なんでもないんですから」
(第03話・4)

 自分の立場を説明されたにもかかわらず、なお日和見的にメギドラルへの帰還を目論み、場当たり的に命乞いをし、今後の行動の指針も自ら立てられないことが「腐っ」ている。つまり、バティンが批判しているのは、状況に流され続ける、その自立心の欠落である。スコルベノトがブエルを守るために飛び出したのは、彼が初めて自分の意志を見せた場面でもある。これは第04話・2で、スコルベノトがエーコの悲鳴を聞いて飛び出す場面でも再演される。
 だからバティンは評価を改めるわけだが、バティンからスコルベノトへの辛辣な批判もまた、二度繰り返される。幻獣が村を襲撃したとき、戦うことも逃げ隠れることも出来ないスコルベノトに、バティンが苛立つ場面である。

バティン
「ブエルや村の女の子を守るために
あなたが飛び出していったときは、
少し見直したんですが…
戦いを避けてあちこち移動して
逃げ回るとは…
やはりクズだったんですね」

スコルベノト
「だ、だって…!
ボクなんかががんばっても…
その…足手まといですし…」

バティン
「…だったら貯蔵庫に隠れていたら
どうですか?
正直、戦う気もないくせに戦場を
ウロつかれるのが一番迷惑です」
(第05話・1) 

 スコルベノトが貯蔵庫に隠れていたら、これ程の辛辣な物言いはなかっただろう。ここでも批判されているのは、状況になんとなく流されて戦場に出てきたはいいものの、戦うことも出来ず右往左往している、その自立心の無さである。とはいえ、ブエルや二バスが戦う様子に触発されて、スコルベノトは立ち上がる。

スコルベノト
「みみみみんなを見てたら…
カワイイのに戦ってて…
す、すごいなと思って…
ブ、ブエルちゃんだって…
戦えないのに戦ってて…
そ、それなのにボクだけ逃げてたら
もう二度とあの子にカワイイって
言ってもらえない気がして…
それは、い、嫌なんです…!
ボクなんかのことカワイイって
言ってくれたのに…
その人と胸を張って会えないなんて
そ、それじゃ…嫌なんです…!
だ、だから、あの…
ボク…戦いますっ!
こここ怖いけど…!」
(第05話・2)

 「カワイイのに戦ってて」とあるが、「カワイイ」と「戦う」がスコルベノトのなかで相反する概念かは、ちょっと判断が難しい。というか、スコルベノトにおける「カワイイ」が何かを掴むことは、この物語のなかでは難しい。ヒントになるのは、オリエンスに服装を「カワイイ」と称され、初めて「カワイイ」という概念を知ったときの、その興奮の描き方である。

スコルベノト
(「カワイイ」って言われたとき…
なんかドキドキした…
ボクは「カワイイ」…
ボクが好きなリボンやフリルは
「カワイイ」…)
(スコルベノト・1話)

 スコルベノトはまず「リボンやフリル」や「ヒラヒラ」したものを好んでいる。「リボン」と「フリル」の共通概念として、オリエンスが与えた言葉が「カワイイ」だった(これは、この話を聞かされているべバルとアバラムが「カワイイ」「カッコイイ」をヴィータの子供たちに教えられる場面によく似ている)。そのうえで、更にオリエンスはスコルベノトもまた「カワイイ」と称している。
 スコルベノトが「ドキドキ」した理由を正確に読み解くのは難しい。しかし、自分が魅了される「リボンやフリル」に、自らも「カワイイ」という言葉で繋ぎ合わされたとき、惹かれるものに一体化するような快感を覚えたのかもしれない。
 べバルとアバラム、そしてスコルベノトの「カワイイ」「カッコイイ」は、それぞれ「フワフワ」「カチカチ」(べバル・2話)そして「ヒラヒラ」に対応した語彙となっている。ただ、彼らとスコルベノトの大きな違いは、この憧れの概念との距離の取り方にある。べバルとアバラムは「カワイイ」「カッコイイ」を好みはするが、その服装は取り立てて「フワフワ」でも「カチカチ」でもない。
 一方でスコルベノトは「ヒラヒラ」したリボンやフリルを自ら縫製した服に飾り、「カワイイ」ものとの同一化を図る。だからこそスコルベノトは自分のメギド体が可愛くないことを気にしているのだし(スコルベノト・4話)自分以外の外部を可愛く飾り付け、自分のなかの「カワイイ」に取り込むのかもしれない(でも、これは読み過ぎだと思う)。

 話を戻そう。
 スコルベノトの戦う決意はちょっと複雑なロジックをしている。①「カワイイ」ニバスやブエルが戦っている姿に触発されただけではなく、②理由をつけて戦いから逃げることは「胸を張って」ブエルに会えなくなってしまいそうで、だから戦うのである。
 「ボクだけ逃げてたら/もう二度とあの子にカワイイって言ってもらえない気が」したというのは、ちょっと不思議な論理の繋がりでもある。「カワイイ」というスコルベノトにとっての至上の概念が、ブエルという他者からの承認を得たとき、それは戦う理由になる。
 
 スコルベノトにとって、「戦うことへの怖れ」と「カワイイへの憧れ」がどういう関係にあるのかは、この物語はあまり踏み込もうとはしていない。だからその関係性を掴むことは難しい。でも、スコルベノトのスキルが「カワイイに誓って」である以上は、この「カワイイ」の意味の変遷こそが、彼の物語にとって最も大きな変化だと思う。

 スコルベノトの「カワイイ」は、軍団の何人にも理解されてこなかった。それ故に、と接続していいかは分からないが、更に自分のなかの「カワイイ」に固執し、しかも他人に押し付けるように独善的で、絶対的で、孤独な信仰こそが、「カワイイ」だった(たとえばマルバスの「美しさ」はそもそもカソグサに教えられたものであり、彼女が理解者である)。
 ブエルやエーコという理解者に「カワイイ」と評されたとき、スコルベノトにとっての「カワイイ」は、他人の支えを得て更に強く信じることが出来る信仰になったんじゃないか。ある種の現実逃避、戦いから逃げ続けた末の心の依りどころにも近かっただろう「カワイイ」が、戦う理由に転じたのである。
 スコルベノトの成長、つまりは自立心の獲得を描いたもうひとつ重要な場面がある。それは、チョコレートを食したために瀕死となったロクサーンを前にして、スコルベノトがバティンに治療を懇願する場面である。

スコルベノト
「バ、バティンさん…
黒いワンちゃんさんのこと…
治してあげてくれませんか…?
(…)黒いワンちゃんさん…
悪いヒトじゃ、ないんですよ…
サタン様にカワイがられるために
一生懸命がんばってるだけで…」
(第05話・END)

 バティンはスコルベノトに手痛い治療を加えているし、辛辣な言動も何度か重ねている以上、恐れられていて当然だ。そのバティン相手にスコルベノトが治療を願う自体が、ひとつの成長だろう。
 「カワイイ」と「カワイがられる」が意味するところは別だろうが、スコルベノトが「悪いヒトじゃ、ない」と評するは、ロクサーンが他者(サタン)の承認を得るため「一生懸命がんばって」いるだけだ、というただそれだけに過ぎない(むしろ劇中のロクサーンは、スコルベノトには高圧的な振舞いに出がちである)。ロクサーンもまた黒い犬のなかでは地位の低い「下位ナンバー」であり、自分の価値を認めてもらおうと必死だった。それは、認められた自分の価値を損ねたくない、という新たな思いを得たスコルベノトにとっては、決して自分と遠い感情ではなかった(そしてこれは、軍団内で誰にもカワイイを理解されなかった頃のスコルベノトには、決して得られなかった洞察ではないかと思う)。
 スコルベノトとロクサーンは、ともにひとつの軍団で「下位ナンバー」としての扱いを受け続け、抑圧されてきた者である。
 スコルベノトは下っ端の辛さを知っているし、だからこそこの場面がある。

スコルベノト
「な…泣かないでください…!
折角のリボンが濡れちゃいます
(…)ほら…サタン様の代わりに
ボクが撫でてあげますから…
よしよし…!」
(第05話・END)

 メギドとしての自分の個が失われたことに慟哭するロクサーンに、リボンが濡れることを気にするのは毒のある描写だとも思うが、大切なのはむしろこの「撫でて」あげる場面なのである。この前提にあるのは、エーコに褒められてスコルベノトが流涙したとき、その心情を案じたエーコから「ナデナデ」される場面だ。スコルベノトがロクサーンを撫でられるのは、エーコから自身への気遣いがあり、「頭を撫でられると」「落ち着」く(第02話・1)ことを知っていた故である。
 ここにある認識は、人が他者を思いやれるのは他者に思いやられた経験があってからこそであり、そしてスコルベノトの成長物語は、取りも直さずエーコやブエルという、自身を承認し、安心して心を委ねられる人物が居たからこそだ、というごく素朴な、でもけっこうシビアな見方だと思う。

 このあとロクサーンとスコルベノトは共にクリオロ村に受け容れられ、スコルベノトは630号というナンバーしかない彼に新しい名前を与える。このナンバーと名前という取り合わせは、『守りたいのは、その笑顔』で、ネフィリムが被検体の番号で呼ばれたのにサレオスが激昂する場面を思い出させる。
 思えばネフィリムとスコルベノトは、ちょうどサレオスが怒ったような自己犠牲と自己保身(我が身可愛さという日本語があるが)が主題の人物であり、その意味では対となる二人でもある。彼らは、共に戦いを厭い、自分の服を縫い、装飾に関心を寄せる。一方で二人には、圧倒的な強者と弱者という差異がある。
 ただ、自己犠牲に徹してしまうネフィリムがサレオスに自分を大切にするよう説かれた『守りたいのは、その笑顔』と、自己保身に走ってしまうスコルベノトが、他者のために飛び出し、他者を気遣うことを学ぶ『カカオの森の黒い犬』には、一対の連作のような趣があると思う。

 長々と書いたが、スコルベノトの成長物語は次のように要約出来る。
 それは、戦争社会に馴染めず、半ば現実逃避のように「カワイイ」にすがり付いていたスコルベノトが、エーコとブエルという二人の他者の承認を得て、その「カワイイ」を戦うための「誓い」へ転じさせる物語だ。そして、その環境故に、自己保身のことしか考えられなかったスコルベノトが、エーコに撫でられた経験をもって、かつての自分と同じように涙したロクサーンを気遣い、同じように撫でてやれるまでの物語なのである。

 とはいえ、ここには「女装」の出番は乏しい。そもそも男/女という性差の概念が薄いメギドラルでは、「女装」という概念自体が成立し辛いのである。
 むしろそれを担うのはバティンだ。『カカオの森の黒い犬』の一面がスコルベノトの成長物語であるならば、もう一面はバティンの言動の理由を追う謎解きの物語でもあると思う。
 さて、バティンは美人である。これは作中に書いている。

プルフラス
「相手は名前も知らない人なのに…」
バティン
「そんなことは関係ありませんよ
見た目をきっかけとして他人に
好意を向けるヴィータは大勢います」
(プロローグ)

 バティンのキャラエピは単純な話である。男たちに酒場へ誘われたバティンが、気分転換にやりたい放題をして出ていくだけの話だ。

バティン
「ハァ…どうしてヴィータの街は
いつもこうなんでしょう
のんきで、バカ丸出しで…
見ているだけでめまいがします
その中でもソロモンさんの
バカさ加減は
特に度を越してますし
今日の戦いの最中でも自分の
身の危険を顧みず仲間を
かばったり…
いつものことながら…
思い出しただけで
イライラしてきますね」

男1
「おい、向こうからすっげー
美人がやってくるぞ!」
(バティン・1話)

 バティンの苛立ちは、ソロモンをある程度心配している感情の裏返しとも言えるのだが、ともかくまずヴィータはバティンにとって「バカ」である。

バティン
「ふーん…ヴィータのメスは
繁殖の相手を探すために
こんなところに集うわけですね
(……)あなたたち、下心も丸見えで
欲望もむき出しで…
そんなことでは、
そこの盛りのついたメスぐらいしか
相手してくれる女性はいませんよ」
(バティン・3話)

 バティンは純正メギドのようにヴィータを軽蔑していながらも、同時に「オス/メス」というヴィータの性差を強く意識している。男に殴りかかられそうになったバティンは、「女性相手に手を上げるつもりですか」と自分の女性性をあらためて物語る。メギドであり、ヴィータでもある追放メギド特有の価値観を、特に性の意識において強く持ち合わせているのが、バティンである。今までも「美人」と呼ばれ、「下心」と「欲望」を剥き出しにされたことが少なからずあったのではないかと思う。女性の身体に生まれついた以上、その性や、あるいは「美人」というルックスを嫌でも意識しないわけにはいかないのだろう。
 
 だからこそ、プロローグの「見た目をきっかけとして他人に好意を向けるヴィータは大勢います」があるのだろう。冒頭でのバティンの物言いは「盛りのついたメス」同様に非常にシャープである。二人を当てこすったわけではないが、二人は「見た目」が良いから贈り物を渡された、と言っているも同然である(バティンには一切の悪意はなく、ヴィータはそのような生き物である、という事実を述べているだけだ)。プルフラスとサナタイルがそれに反応することはないが、彼ら、特にサタナイルには「美」の概念はあってもルックスの「美醜」の概念はないかもしれない。二人は自分が「美人」であることも自認していないのだろう。

 バティンは、ヴィータを純正メギドのように軽蔑しているが、女性性・男性性という生物的性差が厳然と存在することを認識しつつ、さらに社会的性差による偏見には嫌悪を示す。たとえば、ソロモンとの、こんなやり取りである。

バティン
「なに1人で俯いてるんですか?
元気がないなら注射でも打ちます?」

ソロモン
「いや、そうじゃないんだ…
ただ男が俺だけだからさ、
しっかりしなきゃと思って…
(…)な、なにその冷たい目…」

バティン
「意外とどうでもいいことに
こだわるんですね、あなたも」
(第01話・1) 

 バティンはこの後、「護衛」は足手まといだから必要がない、とわざわざソロモンに釘を刺す。「あなたも」の「も」が示唆するところは、キャラエピに代表されるようなヴィータの一般的な男達だろう。男ならしっかりしなくてはならないという発想は、バティンには下らないこだわりとしか思えない。スコルベノトが男と知って驚くソロモンとのやり取りでも、同様の場面が繰り返される。

バティン
「驚くほど節穴ですね
その顔にあるのは眼球じゃなくて
ガラス玉かなにかなんですか?」

ソロモン
「いや、だって…!
細いし、小柄だし…
全体的にピンクでフリフリだし…」

バティン
「…なるほど
つまりソロモンさんの中では
「細くて」「小柄で」「ピンク」
なのが女性の象徴なんですね
(…)じゃあ私もピンクでも着ますか
そうすれば、もっと女性として
意識してくれそうですし…」

ソロモン
「ち、違うからっ!
別に細くて小柄でピンクなのが
女性的ってわけじゃなくて…!」
…………」

バティン
「…………」

ソロモン
「(…)いや、なんとなく、その…
偏見で…そういう風に…
思い込んでたかも…ごめん…」

バティン
「偏見の塊の眼球節穴男にはキツい
「治療」が必要かと思いましたが…
認めるなら勘弁してあげましょう」
(第03話・冒頭) 

 「細くて」「小柄で」「ピンク」なのはソロモンの先入観であり、偏見でもあり、それが偏見であることも認められないのであれば、「治療」が必要なものですらある。ここに続く場面も興味深い。

ソロモン
「お、俺の睡眠時間まで
把握してるの!?」

バティン
「…当然でしょう
他の仲間たちは把握しているのに
あなただけ特別だと思うんですか?
意外と自惚れが強いんですね」

ソロモン
「う、自惚れかな、それ…?」
(第03話・冒頭)

 この場面にはいろいろな読みがあり得ると思うが、私はバティンが本当にソロモンを「特別」に思っていたからこそ、「意外と自惚れが強いんですね」というシャープな、しかしソロモンが不思議がるように奇妙な応答に転じていた、と読んでいる。

バルバトス
「ソロモンもたまには女性陣と
話したほうがいいかな、ってね
なんて言うか…「ウブ」だろ、彼
アジトでも大抵、年の近い男どもと
バカ騒ぎするほうを好むしさ
それが悪いわけじゃないし、
本人が女性陣と接するのを望んでる
ってわけじゃないんだけど…
…少し、遠慮があると思うんだよ
同じメギドの仲間同士でも、
女性陣に対してはさ」

バティン
「…なんの遠慮もデリカシーもない
人たちよりはマシだと思いますが?」

バルバトス
「はは…そうかもね
だけど、この先のことを考えれば…
少し女性に慣れてもらったほうが
いいかなって気がしてるのさ」

バティン
「私には余計なお節介のようにしか
思えませんが…
…あなたの気持ちはわかりました」
(第1話・02) 

 バルバトスの「この先」が意味するところは曖昧だが、「仲間同士」の話である以上は、異性との関係を結ぶというよりは、軍団の長として、単純に異性と話し慣れしたほうが良いのではないか、というぐらいの意味合いなのだろう(とはいえソロモンも作戦や事件解決のためなら異性とは平気で話し合うだろうから、バルバトスのこれはちょっと不思議な提案ではあるのだが)。
 とはいえ大事なのは、別にバティンはソロモンが女性に躊躇いを覚えていようが「なんの遠慮もデリカシーもない人たちよりはマシ」なのだと感じているし、バルバトスの発想は「余計なお節介」でしかないとそれとなく諫めている点である。

ソロモン
「(…)バティンはそこまで
甘い物は好きじゃないだろ…?
なのにそこまでするっていうのが
ちょっと意外だなと思って」

バティン
「…そう思いますか?
意外に私のことを理解してくれて
いないのですね
軍団の長が…
そんなことでいいんですか?」
(第01話・4) 

 このバティンの応答は独特だ。

 「私のことを理解してくれていない」のと「軍団の長」としての在り方には関係など大してなくて、チョコレートを欲していることを「意外」と思ったのはサタナイルも変わらない。にもかかわらず「軍団の長がそんなことでいいんですか」とソロモンにだけ不必要な追撃を加えたのは、やはり「私のことを理解してくれていない」のに、それなりの寂しさを覚えた、としか取れない。となると、物語の結末から考えても、バティンはやはりソロモンにチョコレートを渡したくて、だからカカオを求める旅に出たとしか考えられない。

 バティンからソロモンへの想いを描いた、もっとも重要な描写がある。ザガンへの治療を見かねたソロモンが、バティンにそっと言葉をかける場面である。

ソロモン
「あのさ、バティン…治療なんだけど
も、もうちょっとだけ優しく…
できないもんかな…?」

バティン
「…………」

ソロモン
「いつも助かってるけど…
その…みんなが怖がるだろ…?
バティンの治療をさ…
それはバティンにとっても
あんまり良くないことのような
気がして…」
(第04話・END)

 何故あえて痛い治療がバティンにとって「あんまり良くないこと」なのかは、作中では明確には語られていない。ここで彼女が言い返すのは、あえて治療を痛くすれば、進んで怪我をする人数も減るはずだ、という持論である。

 ただ、バティンはそう言い切りながらも、ソロモンの言葉を待たずに「先の様子を見てきます」と理由をつけて、走り去る。ソロモンが(余計なこと言ったかな)と感じる通り、この言葉は、やはりバティンの琴線に触れているのである。
 バティンはメギドラルにおいて、後方支援として負傷者を癒す任についていた。

負傷したメギド
「へ、へへ…しょうがねえだろ
かなり戦況が激しくてよ…
それに、どうせお前が治療して
くれるんだし…いいじゃねえか」

バティン
「…私の治療をアテにして無謀な
戦い方を続けてるんですか?
だとしたら、バカなんですね
(…)後方部隊とはいえ…
私がいるこの場所も戦地なんです
私がいつまでも「生きている」とは
限らないんですよ?」

バティン
(みんなバカですよね
治しても治しても死地に赴いて…
結局、死ぬまで戦って…
ま、律義に治してあげる私も
バカなのかもしれませんが…)
(第04話・END) 

 数限りない戦傷者を癒しながらその死を目の当たりにしたバティンは、彼らを「バカ」と罵りつつも、自分の存在こそが彼らの負傷を招いているのではないか、と感じていたのだろう。それが今現在、メギド72の軍団員としてあえて不必要に手痛い治療をする理由でもある。本質的には、気遣いと慈愛の振舞いだろう。

ソロモン
「いや、ちょっと意外でさ
バティンって結構、他の仲間のこと
見てるんだなって
あまり他人に興味がないタイプかと
勝手に思ってた…」

バティン
「間違ってはいませんね
興味があって見ているわけでは
ありませんから
…看護師としてやるべきことを
やっているだけです」

ソロモン
「あ、そういうことか…
気遣ってくれてるんだな
みんなのこと」
(第03話・冒頭) 

 このソロモンの直球の指摘に対してバティンが言葉で答える場面はないのだが、この段階でソロモンはバティンが気遣いの人であることを見抜いているのである。

 バティンのこの「看護師だから」は、彼の反応を先取りした言い訳でもあると思う。でも、それは「気遣い」の理由には、ならないはずである。「律義に治してあげる」「バカ」だからひたすらに治療をしているのであって、それが嫌なら辞めればいいだけだ。
 では、ソロモンがバティンの手痛い治療は、何故バティンにとってもあまり良くないことと直感的に感じ、かつそれがバティンの精神を揺さぶったのか。これは明瞭には語られていないから、想像で書き補うしかないが、本質的に気遣いと慈愛の人であるバティンにとって、あえて痛みを与えることは、やはり不思議な矛盾だろう。出来ることなら、彼女も余計な痛みを与えることなく、さっさと治療を終えてしまいたいはずだ。そこで「あえて」痛みを与えることは、彼女自身の本質に沿わないし、得にもならない。だから、「あえて」なのである。
 ソロモンが指摘しているのは、そういう地点だと思う。
 ただ、ここで決定的にソロモンが見落としていることがある。

バティン
(それにしてもソロモンさんに
あんなことを言われるとは…)

バティン
「ふふ…!
次の彼の治療は特別に痛くして
あげないといけませんね、これは
考えただけでゾクゾクします…」
(第04話・END) 

 キャラエピでも、バティンはソロモンが自分を理解していることに喜びを覚えていたし、イベント本編で「私のことを理解してくれていない」と感じれば、「軍団の長としてどうなんですか」と不必要にきつい責め方をしている。だから、ソロモンがバティンの本質を見透かすことは、本来的には喜ばしい。

 だから、バティンは笑う。
 しかしソロモンが見落としているのは、その喜びの表現型が、手痛い治療という嗜虐でも表されることだ。これが、バティンの心情を読みにくくしている一因でもある。バティンはソロモンに理解されることは嬉しい。だが嬉しいと同時に、いじめたくもなる。バティンにとって手痛い治療は、怪我人がこれ以上無意味な怪我を重ねないようにするための「あえて」の気遣いでもあるが、しかしこのソロモンへの「特別に痛」い治療とは、一種の好意の表現という気がしてならない。
 バティンはサドなのである。

 バティンのリジェネレイトは、ソロモンがまだ戦いへの恐怖を捨てきれないスコルベノトを庇い、小さな怪我をしたことをきっかけに起きる。

バティン
「(…)…今のは自分から怪我をしに
行ったようなもんでしたね
貧弱なヴィータが自分より強靭な
メギドを守るために傷つくなんて…
バカの極みです」
(第05話・3) 

 メギドと比べて貧弱なはずのソロモンが、メギドを守るために身を張ることも、治したところで繰り返し戦争に出て死に果ててゆく兵士たちも、無駄と分かり切っていて彼らの治療を続けてしまうバティン自身も、皆等しく「バカ」なのに違いない。いずれにせよ、バティンがリジェネレイトするのは、ソロモンが敵を理由に手痛い治療を延期させたからで、「敵がいなくなればいいんですか/そうですか…」という言葉と共にバティンは新たな力を得る。

バティン
「なるほど…
この力で敵を倒せと…
そういうことですか
(…)
いいですよ
あなたを治療できるなら…
いくらでも敵を倒してやります
さっさと「再召喚」してください
すぐに終わらせますから」
(第05話・3) 

 ソロモンの傷は手当も簡単に済む軽傷であって、必要以上に手痛い治療をするのは「自分の立場の重要さ」を理解させる意味もあるのだろうが、やっぱり嗜虐趣味はあると思う。ただ、ザガンが見抜いているように、バティンはソロモンが自分の身を顧みずスコルベノトを庇ったことに「怒って」いるのであり、それはバティン自身がソロモンを大切に想っていなければあり得ない。
 だから、ここでも描かれているのは単純にバティンの好意であり、そこに嗜虐心も伴うために非常にわかりにくくはなっているが、基本的にはソロモンの身を案じてのリジェネレイトである(これは意外とメギドでは珍しいものだろう)。

 では、最後の場面はどうなのか。

バティン
「…これを渡しに来たんです
(…)あなたにはそれなりにお世話に
なっていますからね…
時々バカをしてイラッとしますけど」

ソロモン
「ご、ごめん…」

バティン
「ふふ、いいんですよ
そういうあなたも…
実は嫌いじゃないですし」
(第05話・END) 

 ここまではいい。

バティン
「ところで…どうしてチョコレートが
女性から男性への贈り物として
珍重されているかわかりますか?」

ソロモン
「いや…わかんないけど…」

バティン
「カカオに含まれる成分が…
精力剤になるからですよ
だから男性に贈るんです」

ソロモン
「せ…精力…剤…?」

バティン
「たくさん子作りができるように…ね
(…)ふふ…顔が赤いですね
お熱を測りましょうか?」

ソロモン
「い、いや…いい…大丈夫…」

バティン
「そうですか…
体に変調があればいつでも
言ってください
…それでは」
(第05話・END)

 メギドには、いちばん肝心な場面で、肝心な心情が説明されないときがある。

 たとえば、『君に捧げし大地のソナタ』における、アリキノの心情である。『折れし刃と滅びの運命』で、大洪水が迫る中、わざわざソロモンに敵対することを選ぶアガレスの心境だ。一見これはまったくよくわからない行動なのだが(アガレスはもともとよくわからない人物だ、というのでは私は納得いかなくて、小説の登場人物はある程度論理に従って生きているし、それは私たちだってそのはずだ)散りばめられた要素を繋ぎ合わせれば、なんとなくこうなんじゃないか、という像を浮かび上がらせることが出来る。
 メギドの物語の大半は、断片を読み繋げることがUI上面倒ではあるとはいえ、基本的に書かれている事実を押さえさえすれば、何が書かれているかは分かる。ただ、このアガレスの心境だとか、あるいはこのバティンの発言の理由のように、どうしても読み手が勝手に想像するしかない部分がある。
 だからここから書くことは、まったくもっての空想、妄想である。

 まずここまでの描写を振り返ってみよう。

 ①バティン自身は甘味を大して好まないのであり、チョコレートを買い求めた理由はソロモンに贈るためと推定するのが自然である。

 ②バティンはソロモンが自分の本質を理解していることに好感を覚えていた。同時に、バティンにとって、自分を理解されることは嗜虐心を刺激されることでもあった。ソロモンに対する「手痛い治療」は、彼が自身の身を軽んじることへの怒りもあるだろうが、そこに自身の趣味がないとは言えない。

 ③バティンは、「下心も丸見えで、欲望もむき出し」な男たちを厭う。「美人」として男たちからおそらく繰り返し言い寄られてきた経験があるのだろう。そして女性についても、同様に「盛りのついたメス」と軽蔑している節がある。

 ④バティンは、周囲をよく観察する人物である。だからザガンが攻撃役としても実力を発揮出来ることに気付いているし、ソロモンが「ウブ」であることも以前から知っていただろう(仮に気付いていなかったとしても、バルバトスとの会話で気付いていたはずだ)。

 ⑤とはいえ、バティン自身は彼のそうした「ウブ」さについては、「なんの遠慮もデリカシーもない人たちよりはマシ」として、バルバトスの女慣れしてほしいという発言については、批判はしていないものの、「余計なお節介」だとコメントしている。

 ⑥バティンは、「カカオの薬効」が大したものでないことを知っている(第05話・冒頭)。

 こうして振り返ってみると、バティンのこの発言は、まったく意味がわからないのである。「カカオに含まれる成分が…精力剤になるからですよ」とはいっても、その興奮作用などたかが知れている。「ふふ…顔が赤いですね」「お熱を測りましょうか?」と身体を寄せる行為はまさしくバティンの厭う「盛りのついたメス」の振舞いだし、そもそもこうしたセクシュアルな誘いに、「ウブ」なソロモンが乗るわけがないのは百も承知のはずだ。

 これは私の想像だが、バティンがチョコレートを贈ったのは、「あえて」の試し行為の側面もあったのだと思う。つまり、バティンは精力剤としての作用など乏しいのは重々承知で、あえてそれにつられて男へチョコレートを贈る女の振る舞いをした。「盛りのついたメス」の振舞いをした。それをソロモンが断ることは予想出来たに決まっているから、予想していたうえであえて誘ったとしか言いようがない。それによってむしろバティンは、ソロモンが「ウブ」であること、「なんの遠慮もデリカシーもない人たちよりはマシ」であることを再確認したかったのではないかと思う。

 これは、バルバトスの言うような異性に慣らすための行為ではなく、単純にバティン自身の愉しみ、嗜虐心、欲望であったと思う。何故なら、むしろそのような行為は「余計なお節介」と本人が言い切っているのだから。だが、バティンの行為は「お節介」などという生易しいものではなく、その後のシバとの会話を振り返るに、長く尾を引く劇薬の行いだ。これもバティンが予想しなかったはずがない。だから、これはバティン自身の嗜虐心としか説明の付きようがない。

 まとめよう。この精力剤の発言は、まず次の三つの意味を有していると思う。

①まずは、バティン自身からソロモンへの素直な行為の表明である。これは、チョコレートを買い付ける理由がそもそもソロモンのためでもあるし、本人自身が「嫌いじゃない」と語っているし、そもそも他人に理解されにくい自分の本質を見透かされることに、バティン自身が喜びを覚えているのだから。

②同時にそれは、ひとつの嗜虐でもある。バティンにとっての好意は、純粋な愛情と嗜虐心との二面を持つ。バティンほど聡明な人物であれば、自分の発言がソロモンを動揺させることは絶対に分かり切っているはずである。「ふふ…顔が赤いですね」とバティンは笑うが、これはサディスティックな笑いだと思う。

③第三にそれは、ソロモン自身が「ウブ」であり、自分が軽蔑する「下心も丸見えで、欲望もむき出し」な男たちと同一ではないことの確認であり、一種の試し行為だった。そのために、わざわざチョコレートが精力剤であることを本気で信じ込むような、「バカ」な「盛りのついたメス」の振舞いをした。しかも、自分がわざわざ批判したような、「ピンク」の包装にチョコレートを包んで、である。

 バティンの好意の伝え方は実に奇妙だ。精力剤の話なんかされたら、相手が自分を想っていることの理解より、間違いなく動揺が先立つ。距離だって置かれるだろう。もっと上手いやり方は、バティンならいくらでも思い付いたはずだ。
 でも、個人的には、バティンはそれで良かったんじゃないかと思う。
 今のソロモンとバティンが結ばれることは考え辛い。
 メギド72という軍団はあくまでハルマゲドンという脅威の前に成立しているだけの軍団であって、戦いが終わればソロモンとバティンの距離は今ほど近いものにはならないだろう。今のソロモンは、状況から言っても誰かと男女の仲になれる余裕はないに違いないし、更にはバティンのような年上の女性と付き合う勇気もないだろうし、仮にバティンが迫っても距離を置くだけだろう。ウブであることの再確認だとして、ウブならば尚更ソロモンは自分から遠いのである。
 
 だからこそ、わずかばかりの傷を残したかったんじゃないか。
 わずかじゃないし、倫理的にはとんでもないが。
 ソロモンはこの夕暮れのことを、たぶん一生忘れられないだろう。
 勝手な読みにも程があるが、そんな想像もちょっとしてしまう。

 とはいえ、バティンがソロモンの身を案じているのは間違いない。とりわけソロモンの自己犠牲は、バティンは強い怒りを示す。だからこそ、この物語でソロモンにチョコレートを贈るメギドは、ウェパルとバティンなのだと思う。
 ウェパルこそ、7章3節でソロモンの自己犠牲に「自分を殺さないで」と真っ向から口にした者なのだから。その想いを素直に表出出来るのがウェパルであり、手痛い治療とひねくれた方法でしか伝えられないのがバティンである。
 
 あらためて、『カカオの森の黒い犬』は、ひねくれた物語だと思う。
 それはバティンの突拍子もない発言に、なんら心情の説明をしてくれないのもそうだし、性差の乏しい世界に生まれ、自分が男であることを明かすのに然程の躊躇いと葛藤もないスコルベノトより、あえて「盛りのついたメス」の振舞いを装うバティンのほうが、よほど「女装」しているように見えるのも、やっぱりひねくれている。ごく素直にクリスマスの物語だった『美味礼賛ノ魔宴』に比べて、これはちょっとひねくれ過ぎなぐらいである。そこをメギドらしいと評する気にはちょっとなれないけれど、個人的には味の濃い、忘れ難い物語だった、というのは最後に書いておきたい。