メギド72『そして灯火は静かに消える』について

 2021年の『そして灯火は静かに消える』までの四つの物語において、その基底音としてあった主題は「愛」だった。
 固執、という呼び方も出来る。たとえば将来の妻に向けて、ある男からこんな風に物語られた情念のことだ。

フォラス
「…俺の中には
もっと独善的な情念が
渦巻いてるんだ
好奇心を薪にして世界を燃やす
炎のような…
世界を切り刻んで分析しようとする
刃物のような…
誰かを傷つけることさえいとわない
純粋で、それだけに残酷な知識欲が
俺という個の奥底にあるんだ
(…)わからないことが許せない!
知らないことが我慢できない!
世界など知ったことか!
自分の好奇心を満たしたいから
研究するんだ!
世界のすべては俺の研究の
ためにある!
(…)それが俺の「個」なんだ」
(フォラスC・8話)

 セレナへのこの衝動的な語りは、メギドという種族の性質をも言い表している。
 メギドの「個」とは「独善的な情念」であり、その固執する対象が手中になければ「我慢できない」のであり、「世界のすべて」はさながら自らの情念のためにあるように振舞い、だからこそ時に「誰かを傷つけること」も、「世界を燃や」し、「世界を切り刻」むも同然のことも「いとわない」。この「誰か」や「世界」を自己に置き換えれば、それは激烈な自己犠牲になる。それほどまでに「純粋で、それだけに残酷な情念」がメギドにはある。
 
 たとえばヴェルドレは過去の友の記憶のため残虐な処刑を半ば受け容れ、マスティマは彼女を踊らせるため自らの身体を犠牲にしようとした。フルカスにとって拷問とは、相手の丸裸の「真実」を知ろうとする「残酷な知識欲」であり、同時に自ら痛みつけられることをも厭わない、奇妙な自己犠牲との混交物でもあった。ルキフゲスの「蒐集」は、自ら愛するもののためにはいかなる財物をも支払い続けていた。
 メギドの魂を持ち合わせることは、特有の「個」あるいは固執、愛を有することでもある。
 彼等はしばしば、その「個」に苛まれさえする。

 たとえばフォラスの告白を振り返るなら、なぜ「純粋な知識欲」を、わざわざ「純粋で、それだけに残酷な知識欲」と言い表さなければならなかったのか。もちろん、「残酷」な振舞いをしていたからだ。
 この告白は、セレナから本当に自分と結婚したいのか、と問われて衝動的に成されたものだった。
 当のフォラスは、セレナの純真無垢な善意を理解出来ないが故に、強く彼女に魅了されている。フォラスが本当に「残酷」ならば、ヴィータには理解し難い知識欲など黙っていれば良かったはずだ。
 それが出来るだけの「社会性」は手にしていたのだから。

フォラス
(やはり…嫌われた、か
メギドとしての俺の
価値観を曝け出せば…
変わり者の学者では済まない
理解されるはずもない
予測はしていたことだが…)
(フォラスC・8話)

 では、予測していても、なお告白せずにはいられなかったのは何故か。
 ところがこの劇的な場面において、その心の理由はまるで語られない。メギドが頻用する手法だ。いちばん肝心な心の動きは、あえて書かない。解釈の余地を作る。この場面に限れば、別の言い方も出来る。告白とはしばしば、理由が先立たない行為だ。自分でも言葉に出来ない理由で告白を果たしてから、あとからその断片に気付くこともある。
 ありふれているかもしれないが、ここはやはり、フォラスがセレナの善性に魅了されていたからではないかと思う。 「純粋」に善なる女に対して、自身の「残酷」な衝動を打ち明けざるを得なかった。
 フォラスは決して、自分の「独善」を告白してなお受け容れられるか、という「独善」の試し行為をしたのではない。
 真正の「善」をもって魅了された対象だからこそ、「社会性」の仮面を脱がざるを得なかったのではないか。

フォラス
「…そうだよな
研究のために結婚をするなんて
そんな考え方はあまりに身勝手だ
そして、こんなことを言えば
君に好かれなくなることも
なんとなくわかってた
いくらヴィータの心の機微に疎い
俺でもね
でも…君にはそれを
伝えておくべきだと思った
俺は、そういう男なんだと」
(フォラスC・8話)

 『そして灯火は静かに消える』におけるフォラスの苦悩は、この「身勝手」という一語に集約される。
 そもそも、彼が真にメギドらしい人物なら、研究のための結婚という「身勝手」など当たり前であって、そこに躓く必要などないはずだ。己の「身勝手」に悩むのは、倫理の問題であり、社会的なヴィータ的な感性だろう。
 フォラスは確かにメギドらしい人物ではあるが、同時に彼が思っているほどメギド的ではない、柔らかい部分がある。
 
 フォラスに限らず、追放メギドはこうした自己認識のギャップに直面することが多い。あるいは、最初にメギドとしての純粋な魂を持ち合わせていても、次第にヴィータの身体、社会生活によって変質させられていく精神がある。*1

 典型例が、たとえばデカラビアだ。
 彼はもともと、幼少期より自身がメギドであることを強く意識していた。だからこそ、ハルマゲドンによって「滅びの運命」を定められた自身の無力に苛まれた。それでも、薬師の父に愛され、同年代の理解者さえ有していた。
 自身の街が盗賊に滅ぼされたとき、デカラビアは自らの心情を語りはしない。しかし、彼が成したのは明らかに純然たる復讐行為だった。家族や故郷は、喪失によって激烈な怒りと悲しみを引き起こすだけの価値があった。

デカラビア
「…世話になった
ヴィータの魂は死んだら
大地の恵みになるというが…
…いつかおまえたちの魂を糧に
戦えることがあるかもしれんな
俺が…メギドの力を取り戻せば」
(デカラビアB・7話)

 盗賊団が街を襲ったのは、ハルマゲドンの前には無力だという深い諦念がヴィータの間に蔓延っていたからだ。デカラビアはそのような諦観に満ちた世界、ヴィータの無力を変革しようとして、果ては王宮への襲撃に至った。
 しかし何故、そこまでする必要があったのか。

デカラビア
(ハルマゲドンか…
俺が混乱を煽るまでもなく、
ヴィータどもは恐れ慄いている…)
(このままでは勝手に滅びるだろう
ハルマゲドンを待つまでもなくな)
(だが、気に入らん…
俺以外の要因でこの世界が
滅びることは…)
(デカラビアB・6話)

 デカラビア自身はこれを破滅を愛する「個」に帰着させているが、当然この変革への発想は、ヴィータへの愛着が無ければあり得ない。だからこそ、彼の理解者であったフルカネリは問う。

フルカネリ会長
「君がメギドラルにいたころから
ハルマゲドンを止めようと画策
していたことは聞いている
だからこそヴィータとなってからも
君はハルマゲドンを止めるべく
計画を練り続けていた…
だが、かつての君がハルマゲドンを
止めようとしていたのは…
メギドラルのためだったのだろう?
しかし君は…ヴィータとなって以降
ヴァイガルドのために奮闘していた
ように思うんだ
それは君がヴィータとして、
この世界を愛しているからなのか?」
(デカラビアB・5話)

 デカラビアは友の遺骸を前に盗賊を滅ぼすことを決意し、父母の遺体を前に感謝を述べる。
 追放メギドとしての無力を強く噛み締めながらも、現在の自分があるのは間違いなく彼らのおかげだった。
 とりわけ、自身の薬物への関心を否定せず、育ませた父親の貢献は大きく、それだけに愛着も深かっただろう。
 告白を聞き終えたフルカネリ会長は、何気ない言葉でデカラビアの核心を突いている。

フルカネリ会長
「ふふふ…楽しみだね
彼が今後、ソロモン君の軍団で
どんな活躍をしていくのか…
息子の活躍を願う父親のような
思いでその報を待つとしようか」
(デカラビアB・7話)

 『そして灯火は静かに消える』では、デカラビアからフォラスへの気配りが目を惹く。
 仲間への想いが決して強固でもなさそうな彼が、何故フォラスの身を案じ続けるのか。
 その理由は決して語られていないけれど、思い付く理由は二つある。
 ひとつは、デカラビア自身が「父親」への愛着を強く持つ人物であること(もっとも「父親」としてのフォラスは、実はCのキャラストの終盤にさらりと書かれただけなのだが)。もうひとつの理由は、フォラスがデカラビア同様、メギドである自身とヴィータである自身とのギャップに悩み、後者に起因する愛着を前者の性質に心中で帰したことだ。 

フォラス
(もし俺が死んだら…どうする?
メギドってことは隠しときたいし
ただ「死んだ」と伝えてもらうか)
(1話)

 何故フォラスは妻子に自分の正体を隠し続けているのか。
 実はこの肝心な部分からして、作中ではほとんど語られていない(語られていたら教えてください)。セレナは夫の強烈な「個」の告白を受けてなお許容し得る人物だ。それでもフォラスが、自身の本性を告白しないのは何故なのか。
 これも、いくつかの理由があるだろう。
 第一に、そもそも自分がメギドであると明かす理由がない。
 第二に、同時に軍団の最前線で戦っていることを告白せねばならない可能性が高く、家族の心配を招く。
 そして、ヴィータ同士であるかのように振舞い続けてきた以上、今更それが嘘であると明かすわけにはいかない。
 どの理由だろうが「独善」であり、「身勝手」ですらあるだろうが、後者のどちらであろうとフォラスの場合、それは愛情に起因している。家族に心配されたくない、嘘で嫌われたくない。『そして灯火は静かに消える』においてフォラスが生きる問いは、この「独善」を「愛」と呼び得るか、真に自分は彼らを愛しているか、というものだ。
 実際に語りを振り返ってみよう。ウコバクに、妻を愛していないのかと問われた場面だ。

フォラス
「…踏み込んでくるねえ
それを聞かれると弱いんだ、実は
(…)俺も自分自身で明確な
答えが出せてない問題なんでな
(…)メギドの俺にとっちゃヴィータ
感情ってのはまだまだ未知の
部分が多いもんだからな
普段は俺もヴィータみたいな顔を
してるが、ひと皮剥けば自分は
メギドだって実感することも多い
だから俺が嫁のことを「愛してる」
なんて思ってたとしても…
それが心の底からの感情なのか、
俺の表面だけの感情なのか…
自分でも判断がつかないのさ」
(第03話・3)

 単に研究対象としての興味でしかないのか、それとも真に「愛して」いるのか。
 カイムがソロモンに、ウコバクから兄への執着をどう思うのか問い尋ねる。

ソロモン
「お兄さんにあんなに会いたがって…
それはつまり「お兄さんだから」
大事だってことじゃないか」

カイム
「…そこなのですよ、我が君
問題はまさにそこなのです
彼女は兄君に異常とも言える
執着を有している…
それを単なる「家族愛」と見れば
これは安っぽくはあれど、美談と
言えなくもないでしょうな
しかし、彼女の執着が、
「人ならざる者」の感情から
来るものなのであれば——
これは途端におぞましき話に
変じてしまう可能性もあるのです」
(4話)

 このカイムの台詞は、短いが含みが多い。「安っぽ」い感性を揶揄されたソロモンも、意味を理解出来ていない。ヴィータの家族愛なら「美談」かもしれない。しかし、「人ならざる者」すなわちメギドの執着であれば、「家族愛」は「おぞましき話」に変じる。これは近親相姦を意味しているだろうが、むしろ重要なのはフォラスの奇妙な反応である。

フォラス
「そこに関しては耳が痛いよ
俺も無関係じゃないからな」

カイム
「ほう…?
実体験がおありだと?」

フォラス
「勘違いするなよ
ウコバクと「まったく同じ」って
話じゃない
だけどソロモンが言ったように
俺には嫁さんも子供もいる
その2人が俺の家族なわけだが…
俺の家族に対しての愛情は、
たぶんヴィータのいう愛情とは
違うもんだって気がしてるんでね
(…)根本的な話をすれば…
俺は生まれてすぐにメギドとしての
記憶を取り戻してるんだ
だから思考回路もメギド時代の
ものを引きずってる
俺にとって家族ってのは「研究」の
対象なんだよ、あくまでな
そういう意味で「大事」なんだ
もちろん、ヴィータとしての俺も
家族を大事に想ってる…つもりだ
そういう「俺」を演じてもいるしな」
(4話)

 このフォラスの発語は、カイムの言葉と全く噛み合っていない。

 カイムが意味する「おぞまし」さとは、ヴィータの倫理・感性=近親相姦への忌避を飛び越えた執着と読むべきだろう。だからフォラスが「無関係じゃない」といったとき、「実体験がおあり」かと問うている。この「実体験」とは、妻子との家庭生活ではないだろう。ところが、フォラスはその文脈を強引に「人ならざる者」の執着をめぐる語りに歪めてしまう。この場面でいちばん「勘違い」しているのはフォラスだ。読み過ぎだろうけれど、ウコバクのように燃え盛る愛に生きる者を目の当たりにして、会話の文脈を強引に捻じ曲げるほどの動揺と波紋が、ここにはあった。

フォラス
「俺はついついそうやって俯瞰で
物事を観察しちまうんだ
愛ってのはたぶん、もっと
身勝手で自己中心的な…
そういう感情だと思うんだよな」

(そして俺にはそういう感情は
一生、抱けそうにない…
そう、ウコバクみたいな
あんな情熱はな…)
(4話)

 ウコバクもフォラスも、共に「身勝手で自己中心的」な感情の持主には違いない。

 フォラスは研究への固執のためならば他を犠牲にし得るだろうし、ウコバクは己の愛のためソロモン一行を利用している。生まれながらにメギドの自我に目覚めたのも同じだ。
 しかし、彼らの決定的な違いは、「俯瞰」である。
 妻子を愛しているつもりでも、どこかでメギドとしての心性が自分を見下ろしている。「あくまで」「家族ってのは「研究」の対象なんだ」と語り掛けてくる。心中の声が、「愛」と「情熱」への没頭を阻む。

 ウコバクの希望は、モノバゾズの死をもって無残に打ち砕かれる。
 しかし、そもそも兄妹のメギドラルへの渡航自体、最初から破綻した計画ではある。自身に下された不当な裁定について異議申立てをすれば帰還できる、という発想はたとえばマルコシアスも持ち合わせていたが、フラウロスにはっきりと非現実的だと断言されている。追放者の言い分など今更聞く必要もなく、無力な追放メギドに出来ることなど何もない。聡明なモノバゾズがそれでもゲートの先に飛び込んだのは、ヴィータとの生活がそれ程までに耐え難かったのもあるのか。あるいは、辺境の果てという村の地理的条件もあったのかもしれない。
 妹と別れてからの数十年、モノバゾズは死ぬことすら能わず、ただ無力で呆けた存在として惨めにメギドラルで生き続けるしかなかった。ヴァイガルド以上に無残な生活を強いられた彼は、ウコバクの身体と力を奪わんと凶刃を向ける。
 ただひたすらに兄を愛していたウコバクは、動揺こそしていても、究極的には自己犠牲も厭わなかっただろうが、結局この対立はモノバゾズの死を以て終わる。生の希望を失ったウコバクは、死を願う。

ウコバク
「どうか…放っておいてください
私には、もう…なにもない…
せめて兄様と夢に見たこの世界で
…死なせてください」
(4話)

 ウコバクを説得しようとするソロモンを、シトリーとカイムが止める。
 生きる者には、死に場所を選ぶ権利がある。そこに介入する権利は、まして彼女の希望を奪った自分たちにはない。
 二人の意見はもっともだ。ソロモンがここで躍起になる理由は特段描かれていないが、自身が生死不明のエイルを追うためメギドラルへのゲートに飛び込んだ経験も、ある程度は影響しているのかもしれない。
 ところが、ここでフォラスが説得のために居残る。何故無関係な自分のため、危険な場所に残るのか、問われる。

フォラス
「たしかに…無関係と言えば
無関係かもしれないな
俺とおまえさんの間に血の繋がりが
あるわけでもないし、メギド時代の
縁があるわけでもない
だけどな、ここでおまえさんを残したまま俺たちだけで向こうに
戻ったとしたら…
俺は嫁さんにも娘にも顔向けが
できなくなっちまう
(…)俺はこの先…
「1人の女を見捨てたヤツ」として
2人と接していかなきゃいけねえ
嫁さんが作ったうまい料理を
食ってるときも、娘の成長を見て
ジーンとしてるときも…
どこかでおまえさんの顔がチラつき
心の底から笑えなくなっちまう
…そうなるのが嫌なのさ」
(5話)

 フォラスらしい「独善」もあるが、これはいかにも通りの良過ぎる理由付けだ。当然、ウコバクに問い返される。

ウコバク
「あなたの、その個人的な事情の
ために生きろというのですか?
縁もゆかりもない私に…」
(5話)

フォラス
「…………
たまにだけどな…
自分が死んだ後のことを考えるんだ
(…)ソロモンと一緒にメギドラルと
戦ってる身だからな
万が一ってこともある
そのとき、嫁さんと子供には
なんて伝えてもらうか…
こいつが悩みどころなのさ
「死んだ」と伝えてもらうか
どっかに「消えた」ことにでも
してもらうか…
(…)おまえさんは、兄貴と離れた直後に
兄貴が「死んでる」と聞かされたら
こうして生き続けたかい?
(…)うちの嫁さんがおまえさんほど
一途かどうかは知らないが…
やっぱ「消えた」ことにしたほうが
俺のことを覚えててくれるかな」
(5話)

 ウコバクの愛は、ジェヴォーダンが「考察」するように、愛する者による殺害をも受け容れる、自己犠牲の愛だ。

 一方でフォラスの「愛」は、どこまでもエゴイスティックだろう。そもそもフォラス自身、妻子に自身の正体どころか、最前線への従事すら明かしていないこと自体、彼らに心配をかけないためであろうとも極めて独善的な気遣いだ。「消えた」ことにしたほうが自分の記憶を強く刻み付けられる、忘れられずに済むのではないか、と想像の上でも考えてしまう。そのような固執と独善であり、確かな「愛」でもある。
 二人の愛は対岸同士にある。だからこそ、フォラスはウコバクに問う。

フォラス
「察するに、おまえさんの兄貴は
おまえさんを殺そうとしたんだな?
(…)そんなヤツのために、自分の命を
差し出すなんてくだらない…
とは思わないのか?
おまえさんは、兄貴に会って…
一緒に生きたかったんだろ?
(…)おまえさんもメギドなら…
「他」のために「己」を差し出す
ことに嫌悪感はないのか?
メギドってのは「個」の生き物だ
自分のためなら他者を犠牲にする…
そういう側面があるはずだ」
(5話)

 フォラスとウコバクは、生まれた直後からメギドの意識に目覚めながら、同時に長くヴィータの倫理規範に縛られ続けた者たちだ。だからこそ、彼女のこの告白は、フォラスの急所を突いたのではないか。

ウコバク
「私と兄様は…
…愛し合っていました
少なくとも私は、そう思っています
(…)それがヴィータの視点では非常に
奇異なことだというのはわかります
ですが…生と同時にメギドとしての
意識を持っていた私と兄様にとって
血縁など意味のないことでした…
(…)私たちはただ…
ヴァイガルドでただ1人の「仲間」
として、お互いを求めただけです
それは…おかしな感情でしょうか?
(…)あなたの言うとおり、
私が兄様のために「己」を差し出す
ことがメギドとして不自然なら…
私のこの感情は…兄様への想いは…
果たしてメギドとしてのものなのか
ヴィータとしてのものなのか…
メギドとしてのものならば、
私はなぜ己を差し出そうとまで
思ってしまうのでしょう…
ヴィータとしてのものならば、
なぜ私たちの関係は白い目で
見られてしまうのでしょう…」
(5話)

 ヴィータとしての規範に生きれば兄を愛することは忌避され、メギドとしての規範に生きれば兄のための犠牲は不自然となる。であれば、自分のこの衝動は果たして何なのか。
 単に追放者同士の仲間意識に過ぎなかったのか、それを超える執着があったのか。フォラスは、ウコバクを思うがまま「愛」を捧げられる人物だと推量していた。だからこそ、予想外の告白だったに違いない。
 フォラスもまた、ヴィータとして生きれば研究対象に過ぎないという内心の声が「愛」への没入を阻み、メギドとして生きれば彼らを研究対象として愛しているに過ぎないのかという倫理の声が心を乱す。
 彼らは対岸にありながら、同じ問題を抱えた仲間でさえあった。このことを鋭敏に見抜くのが、デカラビアだ。

デカラビア
「今はフォラスに任せておけ
アイツで説得できんのなら、
無理だと諦めろ
(…)愛だのなんだのの話は俺が苦手だ
俺たちの中でそういう感情に対して
探究心を持つのはヤツくらいだろう」
(5話)

 ウコバクとフォラスは、いずれも「愛」に生き、「愛」故の問題にこそ苛まれた人物だ。研究は問い=問題からしか起こり得ない。何故、フォラスはウコバクを助けに引き返したのか。愛する対象は違えども、彼らは追放メギドというメギドにもヴィータにもなり切れない生物として、他者を愛する仲間だった。
 だからこそ見捨てられなかったし、独善的ですらある態度で、その生を願った。

フォラス
「やっぱり、生きるべきだ…
おまえさんは…
(…)卑下するなよ…
おまえさんは…大したもんだ…
俺は、うらやましいよ…
(…)俺はな、駄目なんだ…
「愛する」ってことが…
どうにも…よくわからない…
家族は、大事だ…
嫁さんも、娘も…そりゃ大事だ…
でも、それが本当の「愛」なのか…
自分でも…わからねえ…
判断が…できねえんだ…
ウコバク…
おまえさんは言ったよな…
兄貴と愛し合ってたって…
迷うことなく…そう言えた…
おまえさんは…そりゃ立派だよ…
もっと誇っていいぜ…自分を…
誰に、なにを言われようと…
白い目で…見られようと…
おまえさんが…何者だとしても…
誰かを「愛せた」って事実が…
おまえさんには…あるんだ…」
(5話)

 このフォラスの語りは、ウコバクの問いとの相違点と一致点を、同時に示している。
 フォラスにとって問題は、自身の愛が単なる研究対象への冷徹な興味関心ではなく、「愛」と呼び得るのか否かである。しかし、ウコバクにとって「愛」はすでに真正に「愛」であり、問題はそれが何者にも認められず、また己のどの性質にも帰せられない点にある。そもそもこれは愛なのか、何人にも認め難いこの愛はどこから来るのか。
 このふたつは、明らかに問う位相が異なる。
 一方で、この問いの根源は、メギドとしての性質(=絶対的な個の孤独、他者の犠牲)とも、ヴィータとしての性質(=近親相姦の忌避)とも相容れない、自分たち追放メギドの「愛」とは何なのか、とも言い換えられる。
 単なる研究対象への情熱に過ぎないのか。メギド故の愛なのか、ヴィータ故の愛なのか、そのどちらでもないのか。

 ウコバクが最初に非難したように、フォラスが彼女に生きていてほしいと願うのは「個人的な事情」の独善に過ぎない。瀕死の語りには、ウコバクに自分の死をソロモンに伝えてほしいという依頼が続く。残された者の苦しみを知るウコバクにとって、これほど断り難い頼みはないだろう。そういう意味でも、フォラスはおそろしくずるい人物だ。
 彼は家族に対して自身の正体を明かすこともなければ、ウコバクにも常にエゴイスティックに接している。フォラスにおいてメギドらしさとは、「研究」をめぐる想いの吐露もそうだが、この「個」の強烈なずるさにあると思う。

 同時に重要なのは、これ程エゴイスティックでなければウコバクを救うことは出来なかったということだ。
 たとえばシトリーのように長年ヴァイガルドを旅し、酸いも甘いも噛み分けるような、あるいはカイムのように愛の対象を喪失した「大人」では、ウコバクの苦しみに介入することは出来なかった。
 淡い思慕の対象であったエイルを喪ったソロモンもまた、その説得は出来なかったのではないか。必要なのは悲しみへの共鳴ではなく、むしろ愛の尊重だったのだから。愛する対象の喪失をおそらくは知らないであろう(少なくとも描かれていない)フォラスだからこそ、悲しみに暮れるウコバクを救い出せたのではないか。
 己の愛と情念にただ振り回されるだけだったウコバクは、フォラスの強烈な独善の前に初めて自分の意志を告げる。

ウコバク
「フォラス様…ごめんなさい…
あなたの願いは…聞けません
私は…あなたを死なせない!
私なんかのために戻ってくれた…
あなたを死なせては…
あなたの家族が悲しむ…!
私のせいで「残される者」など…
生み出すわけには…」
(5話)

 フォラスのリジェネレイトは、自分の死後、妻子が別の男と結ばれる空想で成立する。学者として、ロマンチストでない部分も大いにあるだろう。夫に先立たれた妻は、早々に他の男と結ばれて何らおかしくない。
 その光景をありありと思い浮かべて、夫の座、父の座を決して誰にも譲り渡したくないという。

フォラス
「まったく…馬鹿げた話だぜ…
俯瞰だの観察だの…研究だの…
小難しい理屈ばっか並べといて…
いざ死の淵に立ってみりゃ…
身勝手な欲望ばかり…浮かびやがる…
あるいは、これが…
本当の俺なのかもわからねえが…
どうだっていいさ…
はっきりしたのは、ひとつだけ…
家族のこと…愛してるわ、俺
面白いもんだ…」
(5話)

 セレナに自身の欲望を吐露した時点で、フォラスは自分の「身勝手」に気付いていた。
 他ならぬ己の「身勝手」を、何故フォラスは「愛」として受け容れられたのか。
 第一は、「俯瞰」とかけ離れた生々しい欲望としてフォラスの内側に燃え広がったのがあるだろう。
 過ぎた空想をするなら、その激しい情念を自ら「愛」と呼んだウコバクに触発されたのではないか。一見通り良いが、内実「身勝手で自己中心的な」感情の持主である点は、フォラスもウコバクも変わらない。しかし、フォラスが常に護り続けてきた倫理的体裁、規範を飛び越えてしまってなお、ウコバクは自身の情念を「愛」と呼んだのである。
 ならば、フォラスもまた、己自身の固執を「愛」と名付けていいのではないか。

 フォラスは否定しているが、ジェヴォーダンもまた「愛」の研究者であった。

ジェヴォーダン
「僕はただ…興味があっただけだ
ヴィータどもが言うところの
「愛」という感情にな
(…)ヴィータは自分の気に入った
個体を「愛する」らしい
それは実に素晴らしいものだと
多くのヴィータが口にするが…
本当にそうなのか?
「真実の愛」とはなんなんだ?
他者のために自己を犠牲にするのが
「真実の愛」なのか?
自分を愛してくれる者のために
自分を投げ出す決意をしたとして…
誰かが愛してくれている自分を
蔑ろにすることは、相手の愛を
否定することになるんじゃないか?
…なあ?
お前たちはどう思う?」
(4話)

 ジェヴォーダンの問はシトリーに切り捨てられるが、非常に重要な示唆を含んでいる。
 己の「身勝手」から離れた「真実の愛」を思い描き、その空想に苦しんだのは他ならぬフォラスだからだ。
 では、何故「真実の愛」を問い求めるジェヴォーダンが、フォラスにおいては「話にならん」のか。

ジェヴォーダン
「手間をかけた割にはあまり
面白くない展開になったな
愛し合っていたはずの兄と
見苦しく殺し合うか…
さもなくば兄を殺したお前たちと
醜く殺し合うか…
どちらかを期待していたんだがな」

フォラス
「予想外の結末だったか?
だがな、そういうときこそ
「面白い」って感じるもんさ
おまえさんの探究心が本物ならな
「本物の愛」に興味があるとか
なんとか言ってたが…そもそも
探究心すら偽物じゃ、話にならんぜ」

ジェヴォーダン
「黙ってろ、そもそも
「愛」なんてくだらないものに
価値などないんだ
それがよくわかった…
それだけのことなのさ」
(5話)

 己の予想から外れたとき、その対象自体を「くだらない」と棄却する。それは「研究」の不徹底であり、フォラスには「話になら」ない態度だった。フォラスにとっての「予想外」とは、「俯瞰」している自分が片側に居つつも、同時に妻子を奪われたくないと必死になる自分を再発見したことだった。あるいは、己の身勝手と、独善と独占の欲望たる「愛」が相通ずるものだということだろう。妻子との日々において、「面白い」「予想外」も数多くあっただろう。

 いずれにせよ、フォラスにとって「愛」とその対象とは、「予想外」故にこそ「面白い」ものだった。

 深手を負ったジェヴォーダンの最期に、ウコバクが寄り添う。
 ウコバクには、最初からジェヴォーダンへの殺意も怨恨もなかった。

ウコバク
「…ありがとう
(…)それが、伝えたかったのです…
あなたが私の下に現れてくれて、
私はその間…孤独ではなかった
(…)理由なんて、どうでもいい
あなたは一緒にいてくれた…
そうでしょう?
ずっと、心が折れそうだった…
もう諦めて、死んでしまおうかと
何度も考えていた…
私は、兄様が生きているかどうかも
わからぬまま、ずっと孤独で灯台
火を灯し続けていたから…
でも、あなたが来てくれて…
兄様が生きていることを
教えてくれたから…
私は、生きてこれたんです
ここまで…どうにか
(…)今の私には…
あなたを癒やす力はない…
ですが、一緒にいることはできます
あなたが…孤独のまま死なぬよう…
それまでは、傍に…」
(5話)

 孤独の苦しみを知っているウコバクだからこそ、ジェヴォーダンの最期に寄り添うことを願った。
 理由はどうあれ、ジェヴォーダンは間違いなく孤独を癒してくれていた。それを彼がどう受け取ったかはわからない。「ただの自己満足」であり、「つまらない感情」には違いない。しかし、悪意の末に「つまらない」温かみを身を以て知ったのだとすれば、それはジェヴォーダンにとって最大の慰めであり、同時に最大の一撃だっただろう。
 こんな見方も出来るのではないか。ウコバクを長年傍らで眺め続けたジェヴォーダンの行為は、まさしく「研究」であり固執であった。その理由が「身勝手」で「つまらない」悪意だとしても、モノバゾズへの再会への段取りをつけたのは、もはや献身じみている。猫は飽き性なんだ、というだけで片付けられる行為ではないだろう。
 ジェヴォーダンからウコバクへの感情は、作中で明確に描かれることはない。
 あるいは彼自身、名前のつけられない感情だったのかもしれないが、その固執を独善的な「愛」と呼んだとして、それを否定する理由もさしてないのだろう。もっともウコバクの「愛」は、決してモノバゾズから移動しなかった。
 「つまらない」悪意で片付けてもいいが、残虐極まる行為に、多少の嫉妬があってもいいとは思う。
 ジェヴォーダンの破滅は、振り返ってみれば、ウコバクの「愛」に興味を惹かれたからではないか。
 その構図は、彼女が「愛」故に灯す炎へ、幻獣たちが次々と吞み込まれていく光景に酷似している。

若い男の声
「くそっ! くそっ!
俺はお前のこと…少し…くそっ!
それが、魔女だなんて!」

老婆の声
「お前のせいじゃっ!
去年の流行り病もお前のせいで…!
そのせいでうちの人が…!」

中年女の声
「うちの人もそうさ!
あの魔女の呪いのせいで、どこかに
消えちまったんだ!
返しとくれっ!
うちの旦那をっ!
この魔女めっ!」
(1話)

 ウコバクが火刑に処されるとき、ボダン村の人々は身勝手な「愛」を叫ぶ。異物を恐れる「全」の意識だけではなく、そこには身勝手な「愛」の暴走もあっただろう。ジェヴォーダンの言葉を借りれば、それは『行き場を失くした「愛」』(4話)だった。村人たちはウコバクの炎で焼け死ぬが、覚醒の直前、彼女は愛する者の無事を願っていた。

 ウコバクは「愛」に生き、その「愛」の激しさ故にこそ、期せずして周囲を焼き続ける「炎」のような存在だった。
 その炎は、なにより自身の「愛」を抑え切れぬウコバク自身を焼き焦がすように苦しめ続けた。
 さながら、フォラスが自身の研究をめぐる「独善的な情念」を、「世界を燃やす炎」に喩えたかのように。

 物語は、ウコバクが火を灯し、そして静かに消す場面で結ばれる。

ウコバク
「もう、なんの意味もないのに、
こうして灯台に火を灯してしまう…
仕方がないことですね…
何十年もそうしてきたのだもの…
(…)兄様…私はやっぱりあの場所で
死ぬべきだったでしょうか…
だけど、あのとき…
フォラス様に「自分を誇れ」と
言われたとき…
私は…嬉しかった…
誰からも白い目で見られてきた、
私たちの愛を…認めてもらえて…
メギドラルでさえ…
「愛」などという感情は決して
貴ばれるものではないでしょうに…
「この世界」に…いたのです
私たちを認めてくださる方が…
「この世界」は私たちが思っていた
ほどには無慈悲ではないのかも…
そう、思えたんです
だから、兄様…決めました
どうか怒らないでくださいね…
私、もう少しだけ…
生きてみようと思います」
(5話)

 ウコバクにとって「愛」は、自分を苦悶させる炎であると同時に、己とジェヴォーキンだけの世界で唯一頼りに出来る灯火でもあった。その孤独が、フォラスの言葉と共に溶けたとき、「この世界」の偶然の慈悲に触れたとき、彼女にはもう孤独な火を灯す必要はなかった。だから、決して自分を認めなかったように思えた「この世界」と和解するとき、ウコバクは生きることを願い、そして灯火は静かに消える。

*1:余談だが、この魂と肉体-感性の差異への苦しみの描写は、「多様性」の標語や追放メギドがヴァイガルドにおいては圧倒的に少数者であることを踏まえると、実はマイノリティの物語の語り口に似てくるように思える。

メギド72『メギドラルの悲劇の騎士』について

悲劇とは何か

マスティマ

「おお、ヴァイガルドよ!
私たちの侵略に怯え、
泣いて許しを請う憐れな
ヴィータたちよ!
このマスティマが、
今こそ真実を語ろう!
この世は悲劇だ、すべての命は
その結末へとさ迷いながらも
歩みを止めぬ愚直な犬だ!
行先がどこかもわからず
ただ群れを成して進む
魚の群れなのだ!
さぁ、雷雨の激しさに戦き、
荒れ狂う海に怯え震えるがいい
かようにこの世は悲劇であると…
私は伝えに来たのだ!
この悲劇の騎士マスティマが!」

 『メギドラルの悲劇の騎士』は、複数の「悲劇」が連なる物語だ。まずヴァイガルドに降り立ったマスティマが迷子になり、行き倒れ寸前となったのも「小さな悲劇」と題される。あくまで他愛ないコントだが、より重要な悲劇が直後に語られる。ヨニゲマン一家への暴力だ。

眼つきがヤバい感じの村人
「そりゃあ、あんたは
村の恩人かもしれねぇが…
あんたのその「方法」で…
…子供がいなくなったのは事実だ
子供を奪われた親の収まりが
つくはずねぇんだ
なぜならヨニゲマン、
あんたにも子供はいて、そっちは
無事なままなんだからな!」

 なぜ重要なのか。これがヴェルドレへの暴力をめぐる論理と、近い位相にあるからだ。
 ヴェルドレは、確かに街の対立を解消し、混乱から救い上げたかもしれない。しかし、それと実際に関係したかは別として、女たちは「男の愛」を決定的に喪失し、ヴェルドレは尚もそれを持ち得ながらも、平然と拒んでいる。

 「村」を「街」に、「親」を「女」に、愛する「子供」を「男の愛」に置き換えれば、村人の語りはそのままヴェルドレへの暴力の論理になる。「嫉妬」と別の言い方をするならば、「収まりがつ」かないのである。
 では、マスティマはそれをどう止めたのか。

マスティマ
「待ちたまえ!
「それ以上」は悲劇になる
それゆえに、私が認めない!
(…)恐怖に突き動かされ…
あるいは焦燥にかられ、怒りが、
嫉妬が、閉塞感が、私たちの
「魂」を突き動かす
それを、衝動のままに許すとき
悲劇は生まれるのだ
考えるのだ、ヴィータ
「もし」ヨニゲマンに今、
制裁を加えたあと…
…子供が無事なまま帰ってきたら、
キミたちは彼にどのようにして
責任を取るつもりなのかな?」

 ソロモン王が息子を捜索しているから待て、というのがマスティマの主張だ。
 それに対し、村人が反論する。 

眼つきがヤバい感じの村人
「…あんたの言うことはわかる
俺たちをただ非難するではなく、
尊重しようとしてることも…
…だけど、怒りや悲しみは
理屈じゃないんだ!」

マスティマ
『「わかるとも」
(…)そう、衝動に突き動かされるとき
私たちの行動は「理屈ではない」
私自身それを「よく知っている」
…知っているのだ
その結果、悲劇が大喜びで
関わった者たちに与える「罰」を
(…)後悔』

 つまり、マスティマ自身「衝動に突き動か」され、「罪」を犯し、「後悔」しているという。同じ「悲劇」の経験者として、お前の気持ちは理解出来る、という。

 「悲劇」とは、「恐怖」や「焦燥」や「怒り」や「嫉妬」や「閉塞感」が、「魂」すなわち情念と「衝動」を突き動かした結果、巻き起こる「暴力」である。この「悲劇」の定義は作中で一貫している。ヴェルドレへの暴力は「愛の悲劇」だし、マスティマの悲劇は自殺、すなわち自己への暴力である。
 
 さて、ヴェルドレは、中央議会の騎士によって滅ぼされた、まつわろぬ者の生存者だった。「秘密の古戦場」におけるその影響を、最初から見抜いていたのがアマイモンだ。

アマイモン
「…ズレてるのは、僕も感じます
周囲への影響も含めて、
少し危険な存在な気がしますね」

 この「影響」は、後々まで長く続くものだったはずだ。たとえば同じ旅団に育ったマスティマは、乳牛を「彼」と呼んだとき、農夫に「乳出すから「彼女」ずら」と訂正され、それを素直に受け入れる。

マスティマ
「それは失礼した!
このような身体を得ることは…
…男女の区別を得ること
メギドはそれを知っていながら
その方面には疎くてね」

(それは大事なことだと…
「彼女」も言っていた…)

 「彼女」とはヴェルドレのことであり、踊り手故に自らのヴィータ体の性別を理解するのは重要だったのだろうが、それはマスティマにまで「身体」は「男女」の性差を有するという、純正メギドには特異な認識を与えていた。
 もうひとつ、彼女が下等生物と見ていたヴィータに最初に感銘を受けるのは、案山子を自作したという農夫の造形の能力だ。破壊と戦争に慣れ親しんでいるはずのメギドが、このような創造に興味を寄せるのもまた、特異な描写だろう。軍団内で例えるなら、アルテ・アウローラの面々に近い素質があるはずだ。
 造形はともかくとして、少なくとも性差の認識に関しては、ヴェルドレの影響は間違いなくあっただろう。

 ひとつ、興味深いやり取りがある。

アマイモン
「僕はまつろわぬ者のことが
知りたかったのですが…
それを知ろうとしていることを
知られることが今後の不利益に
なるかもしれませんから」

ヴェルドレ
「うん…うん…
ぐるぐるしててわかんない
知りたかったことを
知ろうとしていることを
知られたくないから…?」

 『メギドラルの悲劇の騎士』は悲劇の物語であり、悲劇とは暴力の果てしない円環である。この「ぐるぐる」は何気ないけれど、物語の主題と形式をさっと言い当てた一語でもある。

 そのヴェルドレの舞とは、どのようなものか。

ヴェルドレ
「ビルドバロック時代から
伝えられてるものなの
メギドがヴィータの姿を
取ったとき、動きを理解する
「型」から進化したらしいわ」

 紡ぎの舞は、そもそも「ペルペトゥムで踊られたメギドを歓迎する踊り」(4話)であり、それが「持ち帰られて、メギドたちに真似されるようにな」り、「ヴィータ体により馴染み上手に身体を動かせるようになる訓練として」転用された。彼女を使い捨てようとした「秘密の古戦場」の訓練が、ヴィータ体への順応を目的としてたのは、いささか皮肉な呼応ではある。

ヴェルドレ
「…踊るのは好きだけど、
誰かが見てくれるのはもっと好き
どうだった?」

アマイモン
「(…)言葉が思いつかない
目が離せなかった、あれは…」

マスティマ
「…「魅力的」だった」

ヴェルドレ
「!!!!」

 まつろわぬ者唯一の生き残りであったヴェルドレの孤独は、体制的な集団において一層深まったはずだ。理解されないと思っていた踊りを、そこで「魅力的」と讃えられたのは、喜ばしい瞬間であったに違いない。

ヴェルドレ
「あんな集団に放り込まれて
もう二度と笑ったりできないと
思ってたわ、「ありがとう」!」

マスティマ
「…「うれしい」」

アマイモン
「…「ありがとう」」

 鍵括弧に囲まれた言葉たちは、「秘密の古戦場」では決して口にされない、不慣れな単語だったのだろう。ヴェルドレは喜びを与えられたことに感謝し、アマイモンは彼女の喜びを喜び、アマイモンは彼女の感謝を感謝する。それが彼らの喜びの円環であり、「遠き情景」だった。
 その関係の終わりは「悲劇」だった。

軍団長
「夜ごとの秘密で親交を深めた
3人が別れなければならんのは、
悲しいことかもしれん
(…)そう、これは「悲劇」だ
(…)どれほど親交を持とうとも、
いつかは別離のときが来る
所詮メギドは1体1種
結局は別の道を進むことになるのだ
そうでなければ「個」を尊ぶべき
メギドとは言えないからな」

 重要なのは、この「悲劇」を導く情念だ。
 マスティマは、旅団長からアマイモンとヴェルドレが二人で脱走したと知らされ、強く動揺する。彼を決闘で昏倒させ、友達だったのではないかと彼女に問い詰められ、激昂する。

マスティマ
「友達だったともっ!!
キミのことも、そうだと
信じていたっ!!
(…)どうして「2人」で」

 つまりマスティマが「悲劇」に直進した衝動は、「嫉妬」や寂しさの入り混じった感情だった。「2人」から置き去りにされた痛みだった。

ヴェルドレ
「…アマイモンが
騎士を目指すあなたに
迷惑はかけたくないって
(…)アマイモンはただ、
「別の視点」を持つ者から
話を聞きたかっただけなのに…!」

 マスティマは沈黙する。彼女を置き去りにするためではなく、友情故にこそアマイモンは二人で旅立った。そのことにも思い至らず、ただ衝動と暴力で友情を破壊した己の行為は、まさしく「悲劇」だった。

マスティマ
「…後悔しているのだ
長いときを経て、ただそれだけを
ゆえに、キミに会いたい
ただキミの踊りが、今はこの世界で
輝いていることをたしかめたい
ヴェルドレ
今ははるか遠き、私の情景
再びそれを目にしたのち…
…私は、私を殺し
この悲劇を最後まで終わらせるのだ」

 こうしてマスティマは軍団内で力を認められたにもかかわらず、ヴェルドレへの執心のために全てを捨て、ヴァイガルドに旅立った。
 似た境遇の経験者が、プルフラスだ。
 マスティマとプルフラスは、共に復讐者だった。ただ、プルフラスの復讐対象はサタナキアという他者であったのに対し、マスティマは彼女自身への復讐、自死こそが目的だった。
 積もり続けた自責、自己への暴力は、最後には自らを殺すことでしか止まられない。
 それがマスティマの悲劇だった。

愛の悲劇、奪われた悲劇

 ヴェルドレの無残な姿に、マスティマは絶望する。踊り続けていると思い込んでいた友が、手足と自由を奪われ、個の核たる舞踏さえ奪われた。それを、知りもしなかった。マスティマには、あまりにも絶望的な帰結だった。
 興味深いのは、次の描写だ。

ヴェルドレ
「…遠い情景を思い出して
…私は後悔しているの
…踊っていたかった
…無心に、ただ
…踊っていたかった」

 それを聞いたマスティマは「やめてくれ」と絶叫する。「遠い情景」を破壊したのも、ヴェルドレから踊りを奪ったのも、すべて自分の引き起こした「悲劇」が原因だ。その無残な事実を突き付けられるのに、耐えられなかった。
 もうひとつ、可能な読みがある。
 振り返ると、この第3話の「奪われた悲劇」という章題は奇妙だ。出来事としては、無残な姿のヴェルドレを発見する程度しかないからだ。
 となると、「悲劇」が「奪われ」た瞬間は、マスティマがヴェルドレの呟きに絶叫したときぐらいしか残らない。

 では悲劇が奪われるとは、どういうことか。
 これはマスティマの言葉だけでは分からない。けれど、別の「悲劇」における叫びを下敷きにすれば、ひとつの意味が浮き上がってくる。
 それは、4話のアンガ婆さんの叫びだ。
 先んじて書くならば、アンガ婆さんとマスティマは、同じように「愛の悲劇」を生き、そして「悲劇」を「奪われ」て慟哭する者たちだ。
 
 マスティマが騎士たり得たのは、その「悲劇」の旅立ち故であり、だからこそ彼女はヴェルドレを数百年に渡って想い続けた。
 こんなやり取りはどうだろうか。

ユフィール
「別のよく似たヴィータの身体から、
「部品」を切り取って移植します」

マスティマ
「殺すのか」

ユフィール
「方法論のひとつとしては
または死体から新鮮な部品を
手に入れる方法もあります」

マスティマ
「(…)私の手足ではダメなのか
問題ないなら提供する」

 ヴィータ体の損壊は死に等しい。ヴェルドレが再び踊るには四肢の全移植が必要だから、これは自分の命と引き換えに彼女を救ってくれ、と請願しているのにも等しい。
 さらりと書かれているが、ここにあるのは無私の愛であり、究極の自己犠牲だ。過去に旅団長から予言された「1体1種」の孤独から、マスティマはとっくに逸れていた。
 そう在れなかった。

 何故ヴェルドレは、破滅の待ち構える街にわざわざ戻ったのか。その答えは結局最後まで物語られないが、推測は出来る。

路地裏の男
「この街にはかつて、2人の男がいた
高潔なる騎士オルパイラーと、
天才策略家トッカルオだ
(…)それが、街を訪れたヴェルドレに
同時に恋をして言い寄ったのさ」

 騎士と策士。マスティマとアマイモンを彷彿とさせる人物が、自分をめぐって対立したのが、何よりヴェルドレには耐え難かったのではないか。マスティマとアマイモンが共にヴェルドレを想い続けていたように、彼女もまた「遠い情景」の友を想い、悔やみ続けていたのではないか。

路地裏の男
「罪悪感を覚えたのか、
それとも親切心からなのか、
殺し合いなんか嫌だったのか…
とにかく彼女は戻ってきた
そしてオルパイラーとトッカルオを
街の大広場まで呼び出した
我も我もと詰めかけた群衆の前で
ヴェルドレは、今度は逃げずに
はっきりとその2人をフッたんだ
たかが女1人で、街の者たちに
殺し合いまでさせることなんていかに
ちいせぇことか、説教もつけてな
(…)…かっけぇよなぁ、
俺は、この話が大好きで
ヴェルドレのファンになったんだ」

 路地裏の男の「罪悪感を覚えたのか」「殺し合いなんか嫌だったのか」という推量は、遺骸にも事態を正確に言い当てていたはずだ(ヴェルドレ自身は、そう語りはしないだろうけれど)。


 4話はアンガ婆さんの絶叫で結ばれる。

アンガ婆さん
「ま…
待つんだよ…
待って…
待っておくれよ!
行かないで…
行かないでおくれぇ!
そいつに逃げられたら、
あたしの人生はなんだったんだい!
憧れだった男は廃人になって
大好きだった姉さんだって
大好きだった男に殺されて
そいつが原因なんだ!
そいつさえいなけりゃ…
(…)ずっと憎んできたんだよ!
それだけがあたしの
人生だったんだ!
素敵なものを奪われたんだ、
そうするしかないだろぉ!?
なのにそれまで…
それまで奪っていかなくたって
いいじゃないか!
もう老いて先もないのに!
今更…
…今更あたしの人生の意味を
目の前から奪っていくなんて
あんまりだよぉ、あんまりだ!」

 マスティマは自らを「悲劇の騎士」と名付け、後悔と罪悪感、そして己への憎悪を生の支えとして生き続けてきた。愛するものが全て失われる、その遠因たるヴェルドレを憎み続けることが老婆の人生の支えであるならば、悲劇を成し遂げた自分を憎み続けることこそが、マスティマの生の、最後の地盤だった。
 自己への憎しみを以て生きるしかなかったマスティマと、他者を憎しみ続けるしかなかったアンガ婆さんは、極めて近い位相で隣り合っている(アンガ婆さんを幻獣から助けるのが、かつての復讐者プルフラスであるのも偶然ではないのだろう)。老婆が老いと人生の終焉を目していたとき、マスティマ自死を考えていた。

アンガ婆さん
「最後までやらせておくれよ!
返しておくれ!
あたしの憎しみを
返しておくれぇぇぇ!!」

 罪を悔いるべきは、ただ自分ひとりだけ。
 そう頑なに思い続けていたマスティマに、ヴェルドレ自身もまた自らの過ちを悔いていたという事実は、あまりにも残酷だった。そしてヴェルドレは、己と罪を分かち合ってくれる心と言葉すら持ち合わせていない。
 アンガ婆さんの言葉を借りるならば、廃屋で慟哭したマスティマの声は、「私の罪を返してくれ」という叫びだったのではないか。
 自分ひとりだけが悪者であれば良かった。
 自己への憎悪が壊れてしまうなら、「私の人生はなんだった」のか。愛していた踊り手は廃人になり、愛していた友は他ならぬ己に殺された。自分さえいなければ、それを憎むことだけが、自分の人生だったはずなのに。それが、「悲劇」が「奪われる」ということではないか。

 もうひとつ、アンガ婆さんとマスティマを結び付けるものがある。それは4話の章題である「愛の悲劇」だ。マスティマは二人の友を愛していた故にこそ、逃亡の「共犯」として選ばれなかった悲しみに突き動かされた。老婆は姉と男を愛していたからこそ、ヴェルドレを生涯憎み続けるしかなかった。
 「愛の悲劇」は、一見ヴェルドレの引き起こした悲劇を指しているように見える。

路地裏の男
「たとえば舞台で踊り始めたら、
もう途中ではやめられないだろ
下手くそだろうと失敗しようと、
とにかく最後までやり遂げる
しかないじゃないか
「それと同じ」さ
いい悪いの話じゃない、
最悪なのがわかってても…
…最後まで、やり遂げる
(…)だからこれは「悲劇」なんだ
ただただ、悲劇でしかない
愛の悲劇、さ」

 しかし、ここで「最後まで、やり遂げる」のはヴェルドレではない。「最悪なのがわかってても」「やり遂げ」るしかなかったのは、愛する者を奪われた女たちだ。
 そして、物語で「愛の悲劇」を引き起こそうとしていたのは、愛する姉と男を失ったアンガ婆さんであり、愛する友を失ったヴェルドレだった。

紡ぎ紡がれる円舞

リリム
マスティマの目的は死ぬこと
(…)マスティマは、最初から…
騎士になってからも…
高潔であろうとすればするほど
かつて自分がしたことを
許せなかった
それが限界に達した頃…
ヴェルドレの生存を知ったの
転生してまだ生きてるって…
アマイモンは死んだと思ってる
だから詫びる相手はもう、
ヴェルドレしかいない
だから執着してる
ヴェルドレだけでも、幸せに
生きていけるって見届けたかった
そのために偏見を持ってた
ヴィータのことさえ、認めた
たとえヴィータでも、踊れればいい
ヴェルドレの個はそれで認められる
そしてそれを見届けて、自分は
死んでアマイモンにも詫びる
(…)それが、マスティマの目的
これまでの行動原理
(…)だけど彼女は…
ヴェルドレを助けることが
まずできなかった
(…)わかったのは彼女が二度と
踊れないということだけ
マスティマは今、宙ぶらりん
後悔しかない、絶望しかない
まともなことも喋れない
ヴェルドレを抱えてただ泣いてる
(…)これが「悲劇の騎士」
これを終わらせてほしいから…
…みんなの前から、逃げたの
さよならを告げるでもなく、
逃げたのは、追ってほしいから
自分が怒りに染まって
ヴィータに復讐するって
疑ってほしかったの」

 「遠い情景」を失った地で、物言わぬヴェルドレを抱いて涙し、最後はヴェルドレの死んだ街で、悲劇の演じ手のように、虐殺の「演技」をする。そうすれば、きっと殺してくれる。
 そんな思惑があったのではないか。

 かつての決闘で、アマイモンはマスティマに敗れた。それは「必死さで、真剣さで、執念で」負けていた。マスティマはこのとき、置き去りにされた苦しみで、既に勝っていた。けれど、アマイモンもまた、己の過ちを悔い続けていた。

リリム
「昔の自分を思い出して…
もっとうまくやれたかも
なんて思わないで
自分を許してあげて
あれは「失敗」なんかじゃないよ
素敵な思い出を…取り戻して」

 マスティマが悲劇を自らの名に刻み、苦しみを反復したのに対し、アマイモンは過去を抑圧し、追憶を自らに禁じた。けれどその抑圧の源泉は、「もっとうまくやれた」という後悔、「自分を許」せない怒りだった。

アマイモン
「僕が考えるに…
…武器を下ろすことで
回避できる悲劇もあるのですよ
このように
(…)そう、決着はつかない
ただ、それは「悲劇ではない」
(…)思いどおりにいかぬ現実を相手に
僕もまた自分がやるだろうことを
「しない」ことで対抗する…
…智ではなく、心ですよ
それもまた、未来を変える
「戦術のひとつ」なのですよ」

 メギドの本性は、戦争への欲望であり、「1体1種」の孤独だ。決闘ならば、相手の命を奪うのが自然な成行だ。けれど、その悲劇、衝動、暴力の連環に対して、「心」をもって「武器を下ろす」。それが悲劇を断ち切る。マスティマと、他ならぬアマイモン自身の罪悪感を断つ。
 それが彼の、もうひとつの「断罪」だった。
 マスティマは友と和解し、「縛られた現実」から解放される。アマイモンもまた、封じていた記憶を取り戻すことを、己に許す。

ソロモン
「…俺は、ソロモン王だ
アンタを助けに…
いや、迎えに来たんだ
(…)迎えに、来れたんだよ
いろんな人たちが、この
「遠き情景」まで紡いでくれたから
(…)最後に俺はただ、指輪っていう
着替えの部屋と、材料になる
フォトンを提供するだけだ」

 『メギドラルの悲劇の騎士』は、実はソロモンの活躍はこれまでの物語と比してそう多くない。彼が謙虚に語る通り、「助けに来た」のではなく、あくまで物語の終着点で「迎えに来た」に過ぎない。

 踊りを愛するリリムが、異界に失われたヴェルドレの魂を再びこの世に迎え直そうとするとき、彼女もまた別のかたちで「紡ぎの舞」を踊っていた。別の言い方をすれば、「いろんな人たち」が知らずして「紡ぎの舞」を重ねていたからこそ、ヴェルドレを愛した男が、舞踏や美貌を失った彼女を世話するよう命じていたから、二代目旅団長が夢見の者にヴェルドレを探させたから、マスティマが生存を知らされたから、夢見のリリィがリリムに助力を求めたから、リリムが複数の夢を渡り歩いたから、アマイモンがミュトスを送り出し、ソロモンがその依頼を受けたから、遠き情景への道が編まれた。

 
 物語は、二代目旅団長の言葉で結ばれる。

旅団長
「…悲劇みたいなのはよ、
許しがたいものなんでな」

 それはマスティマの、「悲劇というものはね、キミ」「許しがたいものなのでね」という言葉と呼応している。
 彼らは共に、ヴェルドレの紡ぎの舞に心を奪われた。ビルドバロック時代、敵味方を問わず魅了する術として研究されていた域まで、果たしてヴェルドレの舞が深化していたかは分からない。しかし、彼らが他者に降りかかる「悲劇」を許せなかったのは、この舞からではないか。

ヴェルドレ
「私は、燃えさかる炎…
形の定まらない揺らぎそのもの…
法則のない躍動…
(…)私は、吹き抜ける風…
時に優しく、時に気まぐれに…
そして…
時には、激しい突風となる!」
(ヴェルドレの章・4章)

 悲劇はマスティマが最初に語ったように、その結末へと」「愚直」に「歩みを止め」ず、「ただ」直進する情念の終着点でしかない。それは仮に踊りになぞらえられるとしても、「途中ではやめられない」「下手くそ」で「失敗し」た(4話)ぎこちなく硬直した足のもつれあいに過ぎない。
 対して、「舞」は「時に優しく、時に気まぐれに」変幻自在な動きとしてある。

 ヴェルドレはただ己の喜びのままに、自由に踊り続ける。
 だからこそマスティマは、再会を喜びながらも、軍団や戦争に縛られることを拒み飛び出していく彼女を、ただ静かに見守っていた。
 
 かつて遠い日々、ひとりの踊りを見守り、そして悲劇から決別しなければならなかった者たちが、同じ踊りのもとで「縁」を繋ぎ直す。『メギドラルの悲劇の騎士』とは、そんなしなやかな、何重もの円舞の物語だったのだろう。

メギド72『フルカネリ、最後の計画』について

※メインストーリー8章2節までの重大なネタバレがあります。

 支配と自立

 『フルカネリ、最後の計画』は、もちろん前後編にまたがって続く物語の前半に過ぎない。デカラビアの真意は明かされないし、ひとつの物語としてある程度完結していた2018年、2019年の前編と比較しても、まだ何の物語も終わっていない。
 メギドはプレイヤーの予想を裏切るのが大好きだし、ここで予想をしたところで大した意味はないけれど、でも『フルカネリ、最後の計画』は物語後半まで続くだろうひとつのテーマを擁している。支配と自立だ。
 そしてそれは、「多様性」というメギド72の主題に大きく関連するはずだ。「多様性」は、強力な支配下において花開くものではない。それぞれが多様性を発揮するには、それぞれの自立が確約されていなければならない。たとえば「多様性」の果ての「混沌」を象徴するアスモデウスが、誰よりも強烈な我を発揮しているように。あるいは軍団で最も戦闘を忌避するスコルベノトが、その忌避自体は許されているように。

 『フルカネリ、最後の計画』は「洗脳」と「強制力」という支配を行使するデカラビアとフルカネリに対峙する物語だ。
 そうはいっても、デカラビアの立ち位置はどうも複雑なようだ。たとえば、ヴェステン公国である。暗君に統治されていた公国を、デカラビアは「洗脳」という別の支配の果てに救った。それでも彼は悪人か、とフルカネリは問い、ソロモンも一瞬『「だったらいいか?」みたいな顔』(1話)をしてしまう。
 そのヴェステン公国は、エルプシャフト文明圏——というけれど、実際にはハルマの間接統治下にあるものと見ていい。
 

カマエル
「こっちも陛下を通じて何度も
統治を改める通告を出してたんだ!
それが最後通牒の手前で、
悔い改めたと書面をよこして
きやがったんだぞ!
誰だって「脅し」が効いたと
思うだろうがよ!」
(2話)

 カマエルのこの反応は、「陛下」とフラム王の立場を立ててはいるが、実質的な統治者の反応だろう。歴代のエルプシャフト王族がハルマの助言や命令に従わなかったとは思えないし、その意味ではある程度の自立が許されているとはいえ、文明圏とはハルマの支配領域の意に近い。

デカラビア
「まったく気に入らんな
ヴィータの世界の出来事に
ハルマどもが干渉する…
それはこの上ない「歪み」だ
そんな世界は滅びたほうがいい
…そうは思わんか?」
(5話) 

 デカラビアの言葉を借りれば、その支配は「歪み」である。たまたまその支配者がハルマというだけで、ヴィータを卓越した能力を持ち合わせているのであれば、それがメギドであった可能性もあり得ないわけではない。だが、いずれにせよ、それらはヴィータの世界においては「よそ者」からの内政干渉、すなわち「歪み」なのである。
 フルカネリ商会が最初に登場したのは、同じくヒュトギンが初登場した『その交渉は平和のために』だが、舞台となるトーア公国もまた、ヴェステン公国と並んで「国」を名乗ることが許されただけの支配領域だった。トーア公は背後のハルマにまで意識が向いていなかったかもしれないが、いずれにせよ彼の反乱計画はエルプシャフトという統治権力への対抗だったし、それを「愛と正義」のフルカネリ商会が利用したのだった。

 『メギド72』という物語が(このあたりはサービスの継続時期によるから一概には言えないけれど)最終的にハルマとの物語も書き綴るならば、彼らがヴァイガルドにおける実質的な支配層という設定は当然見逃せない。
 たとえばこんなやり取りはどうだろうか。

ガリアレプト
「でも大砲は、幻獣に限れば
かなり有効な手段と
言えるんじゃないかしら」

ガブリエル
「…かもしれませんね
ヴィータ自身が戦う気ならば」

ガリアレプト
「あ、そういうことなのね
三つ巴のハルマゲドンなんて
ごめんだわ、不毛な議論だったわね」
(『ソロモン王と悪魔の鏡』)

 ここでアガリアレプトが話を切り上げるのは、「三つ巴」すなわちメギドとハルマに限らず、ヴィータが「大砲」すなわち武力を持つことの面倒さに気付いたからだ。それは、ハルマによる安定した統治体制を乱しかねない。事実、ヒュトギンがフルカネリ商会を強く敵視するのは、彼らによるマキーネの普及が戦禍を呼び起こしかねないからだ(1話)。

 実のところ、ヴィータが自己の防衛戦力を有するべきだという発想は、何ひとつ間違っていない。『フルカネリ、最後の計画』の冒頭ではマキーネの登場を喜ぶ学者が登場するし、レラジェが語るようにそれは「自衛するための力」としては「下手な傭兵よりもずっと強」く、「たぶん経済的」だ(この「経済的」のニュアンスは難しいけれど、ヴィータの命と比べれば、どんなマキーネも「経済的」だろう)。

 あくまでエルプシャフト文明圏はハルマに守護された(世界全体からすると、おそらく)極手狭な領域に過ぎず、たとえば幻獣相手に王都の騎士団が防衛戦力として役割を果たせているかは疑問だし、そこから外れた辺境となると貧相な「自警団」を作り上げて対抗するしかない。そもそもマキーネという幻獣にも対抗し得る新技術があるならば、まずは王都の防衛戦力として活用してもいいはずだ。ハルマがそれをしないということは、相応の思惑があると取っていいのだろう。

 つまりマキーネは、ヴィータが自立するための基盤となり得る力だった。デカラビアの真意や計画、その生涯、在り方については未だ書かれていないが、おそらくはメギドであるからこそ、実質的なハルマの支配下にある現在のヴァイガルドの歪さを理解出来たのではないか。

 その力をヴィータが手にするきっかけとなったのが、タムスとデカラビアの偶然の出会いだった。タムスはその「個」に則り、ただマキーネを愛し続け、そしてその技術をヴィータへと伝播させることになる。
 たとえば『悪夢を穿つ狩人の矢』のネルガルも、同様にヴァイガルドの水準を遥かに超越した技術を伝え広げることになるが、そこにはバフォメットという調整弁があった。タムスにはそれがなかった。

 だが、いずれにせよ「大砲」が開発される日は遠くなかったのではないか。
 メギド72が描くヴァイガルドはあくまで世界の一部に過ぎないだろうが、ヴィータはその個体数の多さからか、卓越した技術を有する存在が少なからず居る。たとえばセーレの義父・ダディオはその好例だろうし、飛行機(ベリトBのキャラエピ)の開発に成功したヴィータすら居る。
 幻獣がヴァイガルドに与えた影響は甚大だった。
 それはキャラバンの交易を苛酷なものとし、技術の交通を困難にしただろう。裏返せば、ソロモンとシバの女王がヴァイガルドに平和を取り戻すことで、交通は再び可能となり、それまで抑圧されていた文化が新たに花開くことになる。たとえば、『カカオの森の黒い犬』では、贅沢品であるチョコレートをめぐる商習慣が成立したのは、ソロモンの尽力の結果なのだと説明されていた。そもそも、原料であるカカオマスからして、遠方のクリオロ村との交通無しでは入手出来ない。
 故に、仮にハルマが抑圧しようとしても、たとえば技術者が互いの知識を交換し交通させたとき、「大砲」の開発は決して遠い未来ではないはずだ。

ソロモンとタムス

 タムスはソロモン達の仲間となり、フルカネリ商会と激しく対立する。その対立の理由は明快だ。

タムス
「戦って壊されんのは腹立つが
仕方のねェことではあるからな
(…)自爆そのものだって…
最後の最後の手段で使う分には
悲しいけど受け入れてんだ…
だけど…さっきのは別だぜ
いきなり自爆なんて…
あれじゃ「道具」じゃねェか!
オレがアイツらの「個性」を
引き出すためにあれこれ考えながら
直してやったのに…
あんな使い方じゃ意味がねェ!
オレの「仕事」を…!
アイツらは台なしにしやがったッ!」
(4話) 

 一見同じ外観のマキーネを識別番号で細かく判別したように、タムスにとってマキーネは単なる道具ではなく、「個」を有した存在なのである。フルカネリ商会がどのような野望を有しているのかタムスの知るところではないが、少なくとも自身の愛する機械を使い捨ての「道具」として見なす態度において、彼らとタムスが相容れることは絶対にない。
 タムスの機械への偏愛は、標準的な道理を超えている。
 カンセに使役された彼らの自爆をその身で受け続けるのもそうだし、戦いのための駒としての側面は認識しながら、そこに多様な「個」を見出している。単なる「道具」への情念では説明がつかないし、マキーネを商売道具や自衛力と見なすこともない。
 似た思想の持主がひとり居る。ソロモンだ。

???
「…お前はなにができる?
(…)暴力は好きか?
蹂躙は好きか?
メギドの長になって
他者を使役し、他者を踏みにじる
他人任せの暴力は好きか?」
(『折れし刃と滅びの運命』) 

 『折れし刃と滅びの運命』でソロモンが幻聴の声に苛まれるのは、そのものずばりソロモン自身の密かな自己認識を言い当てているものだと見なしていいだろう。裏返せば、どれだけソロモン自身が身体を張り、仲間たちとの関係が良好であろうが、指輪による支配は(デカラビアがベリアルに対してそうしたように)「道具」としての側面を併せ持つ。
 集団の長とは、他者を駒として使役する支配者でもある。
 支配の極北とは処罰である。支配者が他者の裏切りを処罰出来るのは、その人自身が法であるときである。メギド72という軍団は、実のところソロモン自身がメギドたちの拘束を厭うことで、厳格な規則を設けることはほとんど無い)。その場その場でヒュトギンとバラムがソロモンを交えて議論したように「一線」を定め、日常生活においてはフォカロルやウォレファルのような個々人の「説教」が最低限の秩序を形作っている。

 『美味礼賛ノ魔宴』から『フルカネリ、最後の計画』に至るまで、バラムがソロモンを見定めようとしているのはこの「処罰」が可能な器かどうか、ということだ。どれだけ仲間に情があろうが、その相手が過ちを犯した時に罰することが出来るか。故障品に対してそうするように、「道具」として廃棄出来るか。
 それだけの冷徹さを、軍団の王として有することが出来るか。

バラム
「だけど、目を逸らすわけには
いかねえ話だろ?
「軍団に裏切り者がいた」のなら、
その処断は軍団長の責務だからな」
(1話) 

 それは若干18歳のソロモンには苛酷な課題だろうが、けれどメギド72という集団としてメギドラルと対峙しようとする以上、必然的に求められる能力でもある。
 事実、それが問われていたのが8章のフォルネウスであった。一方で、そこではフォルネウスはソロモンに処刑されることを選ばず、自身の身を投げ打って世界を護ることを選んだ。
 つまり自分から進んで自死に至ったわけだし、その厳格さはフェニックスが部分的に引き受けてしまった。デカラビアの物語はその再話のようだが、8章で語り切れなかったものの語り直しになるんじゃないかなと、個人的には思う。

 とはいえ、ソロモンがメギド達を単なる駒として扱っているはずがない。彼らは大事な仲間であり、死した時には当然涙する存在だ。ウェパル、フェニックス、フォルネウスの三者三様の死において、ソロモンはいずれも打ちひしがれ、最も長く旅したウェパルとの別離においては、その意志を挫かれさえした。
 それは、マキーネの破壊を嘆くタムスの姿に似ている。

 「指輪」は本質的には「支配」の道具である。
 フルカネリ・デカラビア・ソロモンというアルスノヴァ形質を持ち合わせた三者において、彼らが共に他者を「支配」する人物なのには変わりない。ただ、ソロモンにおいては(タムスがマキーネに対してそうであるように)没個性な「道具」ではなく相手の「個性」すなわち自立した人格を見なす感性があり、可能なはずの「強制」を避けることになる。
 処罰すべき人物に相対したとしても、彼はフォルネウスに対してそうしたように、まずは一個人としての対話を選ぶ。そんなソロモンだからこそ、ベリアルはその「魂」に触れられる感触を、不快なものとして退けなかったのだろう。

 裏切りと秘密は、関係の故障だといっていい。ソロモンはそこで、関係の放棄ではなく「修理」を選ぼうとする。
 たとえば『心惑わす怪しき仮面』でサタナキアが極秘の実験を続けていたことに、ソロモンは彼の研究への熱意を理解しなかったこと、その事情を打ち明けられなかった責任を同じ目線で担保しようとした。タムスはマキーネが自爆しようとしたとき、それを自身の身を以て止めようとした。
 力の封じられた追放メギドに力を取り戻させるソロモンと、壊れたマキーネを発掘して再起動させるタムスの立場は、そもそも似通っている。もっともタムスの機械への愛と、ソロモンの味方への仲間意識とをまったく同じ盤面で語ることは出来ないだろうが、『折れし刃と滅びの運命』で共に故郷の「滅びの運命」を体験したアガレスと、あるいは8章3説で故郷喪失者としてのフォルネウスとソロモンの在り方が重なったように、ここでタムスはソロモンの「王」としての在り方を反映している。

 もちろん『フルカネリ、最後の計画』から続く物語においてもっとも重要な登場人物は、当然デカラビアだろう。
 同じ指輪の行使者とはいえ、デカラビアとフルカネリにおいて思想の差異があれば、それが物語の駆動力になるかもしれない。ただ、デカラビアがリジェネレイトする物語において、「修理屋」すなわち壊れたものの再生(=regenerate)を担うタムスの存在が、ちょっとでも面白い方向に作用してくれれば、これ以上嬉しいことはない。

書くことを作業にするために

 絵を描く人はよく作業という。言葉を書く人は、あまり使わない言葉だ。たまたま共通する言葉に、原稿がある。これは、もうすこし作業の色合いを帯びた語かもしれない。とはいえ、絵や漫画を描くことは工芸的な作業として見なされがちだが、言葉を書くことは頭を使う、考える仕事のように思われがちだろう。
 人は考えながら書く。あるいは、言葉は考えることを強いているともいえる。人は考えるときに言葉を用い、言葉を用いない思考を直感と呼ぶだろう。私は絵を描いた経験はそうないが、線を引きながら考えることはあまりない気がする。
 考えながら書くのは大変だ。私が言いたいのはただそれだけのことだろう。
 言葉には文法がある。日本人の大半は日本語文法に何年も漬かってきているから、このルールに則って書き続けることは難しいことではない。しかし、文法という思考と、内容をめぐる思考を同時に並列するのは、あまり気付かれないが、大変なことなんじゃないか。
 考えることと書くことは、別の作業であったほうがいい。考えながら書くことは、単純に二倍の労力がかかる。なにより、書けなくなったとき、人は暗い画面の前で、ぼんやりと時間を潰さなくてはならない。
 これは相当な苦痛で、その記憶自体が書くことを嫌にさせる。
 書くことはひとつの感情の持続だろう。三島由紀夫が小説家の仕事を銀行員にたとえたのは有名な話だし、ジャック・ロンドンは毎日書くことを推奨している。たしかフォークナーが、私はインスピレーションに基づいて書いていて、それは毎朝同じ時間に来る、と洒落たことを書いていたのを引用で読んだ気がする。
 英語には、writer's blockという便利な表現がある。どうにも書けない状態のことだ。あらゆる書き手はその壁に閉じ込められることを経験するだろう。毎日書いているほうがその期間を脱する速度はより速い、という研究をこの前見つけた。
 しかし、人は生活する。
 書いて日銭を稼げる人は稀だろう。ますます稀になるかもしれない。人は安定した生活に誘惑される。私はそうだ。仕事は感情を動揺させる。大学時代や、実家にいるときは気軽に書けても、ひとりで生計を立てるとそうはいかない。毎朝同じ時間に書けといっても、毎朝同じ気分でいることは難しい。
 私は朝の寝覚めが悪い。
 最初、書くことは、悪い現実から少しでも目を逸らすための、鎮痛的な気晴らしとしてあったのかもしれない。しかし、暗い画面を繰り返し凝視しているうちに、それは現実よりもずっと悪いものになる。仕事は業務をこなしさえすれば終わる。明確な目標を達成するために、時間を投入することには心地よさがある。書くことと、仕事の価値は逆転する。こうして人は書かなくなる。
 そんな状態で書く意義なんて、どこにあるのだうろか。
 しかし、人は書こうとする。
 惰性なのか、幼少期の成功体験を引きずり続けているのか。源流を回顧するのはそれぞれの勝手だが、書かなくては気持ちが悪いから書こうとする。
 実際には、人は現実の仕事に専心していたほうがよっぽど幸福だろう。私は仕事の能力が高い人間ではないし、まだまだ駆け出しだが、今の自職業はそんなに嫌いではない。少なくとも、他の仕事をやれ、と命じられたら首を横に振ることになる。世間体としても良い仕事に属するだろう。
 でも、やっぱり日曜日には書こうとする。困った話だ。
 であれば、より良い書き方を求めるのは自然なことだろう。

 文章には、内容と文体がある。
 文体という言い方が格好をつけすぎならば、雰囲気でもいい。
 内容と文体は相互に規定し合っている。悲惨な物語は相応の文体で語られるだろうし、幸福な結末を欝々と語るのも変な話だ。上機嫌な口振りで、陰鬱な現実の話ばかり並べるのもおかしい。というか、意識的な倒錯がなければ、難しい。
 人が考えながら書こうとするとき、それは文体から書こうということなんじゃないか。絵を描く人は、手癖で描いた、というかもしれない。文章は、そうはうまくいかない。絵はある一瞬間の描写に労力を費やし続けることが出来る。文章は、そうはいかない。内容が要求される。漫画を手癖で描き続けるのは難しいんじゃないか。ネームという言葉もあるし。
 
 なぜ手癖で書こうとするのか。
 それは、書きながら考えることの成功体験があるからだ。言葉は時に、筆を滑らせて自走する。自分が思いがけないことを、書きながら発見することは多い。物語であれば、なんとなくの粗筋を用意はしているけれど、自分でも思ってみなかった、しかしより正解だと思えるような素晴らしい道筋に行き着く経験は、執筆過程における最良の愉しみだろう。自分の予想を超えるとは、自分を越えたものに触れるということであって、素直に喜ぶべきだ。
 人は苦痛より、快楽の体験に記憶を割く。
 実際にはこれは、書く喜びというより、考える喜びだろう。しかし、書くことと考えることは、そもそも文法のうえで考え続けている以上、微妙に分かち難い作業内容でもある。だから、書く喜びと考える喜びは、しばしば混同されてしまう。考えることは、書くことの後回しにされてしまう。考えてから書くことは、むしろつまらない気さえする。人は、常に自身の成功体験から最善を選び続ける。
 こうして、書きながら考えようとする仕事のスタイルが生まれ落ちる。
 しかし、書く対象=文体と、考える対象=内容は、いずれも気分に左右される。とりわけ文体はそうだ。人は日常のなかで同じ気分で居続けることは出来ない。たとえば知人友人の自殺に直面して、昨日と同じ文体で書き続けることは難しい。
 書くことは時間がかかるが、内容を考えるのは一晩で済む。
 一夜で固定できるとも言える。眠れない夜を潰すために、内容をメモしておくようになった。それを文章に、一個の文体として書くのは別の作業だが、製作図を眺めて、実際に出来上がるものを期待するのは、そんなに悪い気がしない。
 文体と内容が相互規定するのであれば、より早く終わり、中身を固めやすいほうから着手するほうがいい。だから、人は考えてから書いたほうがいい。
 繰り返すが、書きながら考えるのは、労力が二倍である。
 
 私が憧れる作業のスタイルは、好きな音楽を聴いたり、ラジオを聞きながら作業を書くことだ。ソシャゲの周回でもいい。絵を描く人が、アニメを流しながら線を描き続けているのを聞くと、正直羨ましくなったりする。
 書くことを聖なる儀式にしないほうがいい。たしか太宰治の『お伽草紙』に、小説を書く前にピアノを引き鳴らし、風呂で足を洗う女の子の話があった、あれは家で飯を食わせてもらっているから出来ることのはずだ。儀式は、社会人の平日には難しい。というところで文章を終えるつもりだったけど、確認したら『ろまん灯篭』で、女の子は二十一歳だったから、記憶はつくづくあてにならない。

配布メギドについて

 二月から三月のメギドは配布メギド無しだった。プロデューサーレターによると、四月まではこの方針のままということで、理由となったオリエンスの修正にそれだけ重いインパクトがあったのは間違いないだろう。三か月の配布メギド無しには何らかの影響があることは運営側も想定しているだろうけど、ひとつには会社に対するケジメの付け方なのかもしれない。現実的な方針か非現実的かでいえば、前者だろう。

 それはそうと、あらためて配布メギドの意義について考える機会にもなったので、サタナキアBのことも含めて短く書いておく。

 まずは二月の『カカオの森の黒い犬』をあらためて思い返してみる。確かにあそこで実装されたのはスコルベノトとバティンだけだったが、あのイベントはそもそもメギドを配布しない予定だったんじゃないか、と時々思うことがある。
 強いて配布候補になるかな、と私が感じたのはリジェネザガンだった。闘牛士というバトルスタイルからは、ブレイクでの実装もあり得るかもしれないし。
 とはいえ、物語でザガンが活躍する場面は少なめで、スコルベノトとの交わりも、交流というよりは、背中を押されたぐらいである。スコルベノトとバティンのどちらが配布でもおかしくないような話の作り方はしているけれど、それでもザガンの活躍が書かれない説明にはならない。オリエンス修正から一月の猶予はあるにせよ、ザガンの活躍を削るのも急な話だろう。
 そもそも、配布が無いから急いでオーブと報酬を準備しました、ではさすがに制作が間に合わない気がする。なので、昨年の『さらば哀しき獣たち』と同じく、最初から配布メギド無しだったんじゃないか。その代わりに前回同様SSRオーブと、新たに霊宝を追加してみよう、という発想は自然だし。
 月に三柱から二柱に減らすだけでも、制作コストの多少の緩和にはなるだろう。徐々にイベントも恒常化されているから、序盤特有のメギドが少な過ぎて戦略のバラエティに乏しいという問題は、少しずつ解決していくのだろう。
 
 一方で、三月の『心惑わす怪しき仮面』は、サタナキアBは配布だったんじゃないかと勝手に考えている。物語自体がサタナキアを主役に「成長」(プルフラス)を描いているのもあるが、キャラエピでオレイとアシュレイの関係が書かれているのもそうだし、もっと興味深かったのはウァプラからサタナキアへの折り合いの付け方だ。
 ちょっと妄想が過ぎるけど、あれはまもなく復刻されるだろう『見習い女王と筋肉の悪魔』に向けての布石だったんじゃないか。単純化するなら、その本筋はウァプラがザガンやマルチネのような、決して考えが相容れない他者にも「マシ」な連中が居ると認めるまでの物語だ。『心惑わす怪しき仮面』の時系列ではサタナキアと折り合いがつけられるぐらいになっていて、これはリジェネ後のウァプラなんだよ、と事前に描写を用意しておけば、物語はすっと読み易いものになるだろう。

 もちろん性能は見逃せない。
 サタナキアBは、初心者から上級者まで使いこなせる性能だ。その見所はまずはスキルによる前列無敵だ。リーダー時にアタックでチェインを開始するMEは、素早さの遅いガープへ容易にチェイン出来る。メギドの序盤はまず防戦体制を整えることが課題だから、初心者には大いに役立つ性能だろう。
 さらにサタナキアBは、中級者以上をターゲットにしているだろうチェインの既存の問題点を丁寧に潰したメギドでもある。チェインで気になりやすいのは①覚醒上げが面倒だし、②チェインに必要なメギドが多いあまりディフェンダーが入り辛く、準備段階で戦闘不能になってしまうし、③そもそもフォトンの縛りが厳しく肝心のチェインで決めたい時に上手く決められないし、④チェイン自体のメリットが基本的に乏しい、の四点が挙がりやすいだろう。①は特性、②はスキルの無敵、③覚醒スキルによるC→Sへの変換、④奥義の攻撃力昇華と正確に対応している。つまり、ハイドロボムにおけるアイムRに近い役割がサタナキアBには与えられている。
 フォトン予知と攻撃力低下(防戦)のオリアスCや、列攻撃のアガレスCなど、初心者にこそ使いやすい性能のメギドを配布しつつ、時にニバスB、ベリトBのような中級者以降のプレイで輝く性能のメギドをバランス良く配布してきたのが去年から今年までの配布メギドの戦略だろう。サタナキアBは、その両面を併せ持った、非常に良く練られたキャラコンセプトだった。
 それだけに、(実際どうだったのかは確定できないし、近いうちに明かされることはまずないだろうが)配布とならなかったのがつくづく惜しいな、というのが正直な気持ちだ。

 そもそも配布メギドは、初心者から上級者まで、あらゆる層のプレイヤーが召喚出来るメギドである。上級者でも初心者がどう運用すればいいか考えられるし、初心者は最終的にそういう使い方があるんだ、と知ることが出来る(たとえば中級者がオリアスCを取り扱えば、その耐久力を活かしてサタニックリブラを持たせたサブ盾の運用が出来るだろう)。
 そして「今ならクズが無料!」「今なら博打で全財産スったギャンブラーが無料!」と新規参入を呼びかけることも出来る。その呼びかけの効果は分からない。内輪の流通で終わるかも。
 でも、『メギド72』というソーシャルな要素を極力排したソシャゲゲにおいて、非常に貴重なソーシャルな部分を担当しているのが配布メギドなんじゃないか。

 ソーシャルゲームの原義は、「SNS上で(ソーシャルアプリとして)配信されているゲームの総称」らしい(Weblio辞書)。この定義がいわゆる「ソシャゲ」からずれていることは既に数多く指摘されているだろうけれど、「こんなメギドでパーティを組むと攻略出来るよ」「こんな運用も出来るよ」という書き込みや動画が、たとえばtwitterで共有され回覧されていくのを眺めていると、SNSをすっ飛ばして、インターネット黎明期の攻略掲示板を読んでいるような、とても懐かしい気持ちになる。
 
 メギド配布の三か月取りやめはそうせざるを得なかった可能性が高いし、これまでメインストーリーでも惜しみなく配布してきた以上、いずれどこかで必要な期間だったのかもしれない。
 とはいえ、ちょっぴりさみしくなってしまったのも確かだ。
 私はいずれ毎月の配布メギドには限界が来るだろうし、霊宝・オーブ報酬だけでもイベントとしては間が持たせられるんじゃないか、手持ちが少ない初心者には恒常イベントを用意すればいいはずだと信じていた。この冬の方針通りのことだ。
 自分でも意外なさみしさだった。
 しかし、それも五月で終わりだろう。メギドにとっても厳しい冬だったかもしれないが、是非春からも無理のない範囲でゲームを盛り上げていってもらえればと願う。

メギド72『心惑わす怪しき仮面』について

 『心惑わす怪しき仮面』はサタナキアがリジェネを果たす物語であり、そしてプルフラスが復讐を終える最初の一歩を歩むまでの物語でもある。先に結論から書くならば、自己の合理性を最優先としていたサタナキアが「マナー」に順応し、アシュレイという他者に依存していたプルフラスが「自立」を得るまでの成長物語である。

 それを読むためには、そもそも『プルフラス・復讐の白百合』で描かれた復讐とはどういったものだったかを読まねばならない。プルフラスの復讐は、殺人という終焉を回避こそしたが、監視という持続を選んでいる。実は『プルフラス・復讐の白百合』で難解なのは、自身の内面の変化に鈍感で、あまり心情を語らないサタナキアではなく、むしろ明晰に物語るプルフラスの論理である。そして、より厄介な問題に取り憑かれているのもまた復讐者の彼女である。
 まずは『プルフラス・復讐の白百合』を読まねばならない。
 
 まず重要なのは、序盤のプルフラスに、軍団長ストリガが投げかける確認の言葉である。

軍団長ストリガ
「…勘違いするな
俺は引き止めたくて
お前に会いに来たわけじゃない
…お前に
メギドラルへの未練がないか
確認しに来たまでだ
万が一、ヴァイガルドに行けて、
目的が達成できたとしても…
メギドラルにお前の居場所はない
(…)ハルマゲドンに興味がない
非戦思想を持つメギドが、
我が軍団に戻ってきても…
俺は決して
お前を受け入れるつもりはない
…いいな?」
(01話)

 私は再読するまで気付かなかったのだが、このやり取りは非常に重要な設定を説明している。ひとつは、プルフラスはアシュレイのように戦いを厭う反戦思想の持主であること。そして、ストリガの説得を以て尚ヴァイガルドに旅立つプルフラスには、サタナキアが軍団を離脱したように、もはや帰るべき場所がないことである。
 その復讐をめぐる心境が最初に描かれるのは、ソロモンとのやり取りである。プルフラスとアシュレイは、共にヴァイガルドへの渡航を夢見ていた。「仇を討つためだけに生き」(2話)強さを得たという彼女に、ソロモンが疑問を呈する。

ソロモン
「…なあ、プルフラス
オマエ、復讐だけが
生きる理由なのか?」

プルフラス
「ああ
この復讐の炎こそが
僕の原動力だ
サナタキアを憎むほど…
僕は弱い自分を捨て、
より強くなることができたから!」

ソロモン
「じゃあ、サタナキアを殺したら…
もうプルフラスは
強くなれないのか?
(…)大切な人を殺されて、
憎しみを抱くのは
すごく、自然なことだと思う…
でも、俺にはさ…
プルフラスは
仇討ちのためじゃなくて…
弱さを隠すために、
復讐を誓っているように見えるよ…
(…)プルフラスは、
サタナキアを殺した後
どうするんだ?」
(03話)

 では、このプルフラスの「弱さ」とは何なのか。
 ソロモンもプルフラスに負けず劣らず直感で(途中経過を飛ばして)相手の弱点を突くことが多い人物だが、リジェネの物語を読めばその意味は分かる。
 それは復讐以外に生きる意味がないという「脆さ」のことだ。
 彼女は戦争社会のメギドラルには本質的には順応し得ない「反戦思想」の持主であり、心を通わせ、人生の指標、生きる理由に等しかったアシュレイを失った時、サタナキアへの復讐以外に生の目標を見出せなかった。平凡なメギドであれば戦争こそが生の目標であり、戦いを厭うのであれば「カワイイ」を信仰するスコルベノトや、あるいは「芸術」を信じるアルテ・アウローラのような生き方があったのだろう。
 実は、この意味では先月の『カカオの森の黒い犬』のスコルベノトよりもプルフラスのほうが脆い。むしろ、ストリガのもとで不適応だった彼のほうが、力は無くとも強かに生き抜いている(このイベントの順序構成は、もしかすると意図的なものかもしれない)。
 プルフラスはアシュレイという指標を見失った「迷子」なのである。
 
 そもそも、何故サタナキアはアシュレイを殺したのか。

プルフラス
「サタナキアは
僕の知っているメギドの中でも
かなり手強いメギドだ…
いろんな軍団を渡り歩いて、
いつもその合理的な考え方を
評価されていたらしい…
…それなのに、
ヤツは自分の軍団を築こうとせず、
別の誰かに従い続けてきた
あいつは研究ができればいいんだ
だから軍団を持つことや戦果には
少しも興味がない…
そしてあいつは研究のためなら
たとえ同じ軍団の仲間だって
利用して、使い捨てる…
それがどんな相手でもあいつに
とっては研究のための材料でしか
ないんだよ…
…アシュレイ兄さんのようにね」
(04話)

 キャラエピ、あるいはプルフラスの語りからも分かる通り、本来サタナキアは冷徹なまでの合理主義者である。
 にもかかわらず、幻獣化研究をめぐるその行動においては、不合理が目立つのも確かだ。アナキスを自身に寄生させたサタナキアは、宿主を乗っ取ろうとする「個」の強さに驚嘆しつつ、心中で語る。

サタナキア
(それに最初から気づけていれば
もっと違う道もあったのかも
しれないが…
まぁ、今となっては
どうでもいいな…
俺は、この研究を完成させれば
どんな手順を辿ってもいい
ヴィータが大量に死のうが、
幻獣の屍が増えようが…
そして、俺が死のうが…
この研究さえ完成させれば――)
(04話)

 「もっと違う道」とは何か。アナキスの性質を理解していれば、アシュレイを死なせずに済んだかもしれない、という意味だろう。
 重要なのは、サタキナアにとっては自身の身よりも研究の完遂こそが重要だということである。
 これは不思議な発想だ。たとえば『心惑わす怪しき仮面』では、サタナキアは失敗した研究は平然と放棄する。そもそもアシュレイを被検体にして失敗したのであれば、その研究はそこで打ち止めにすべきだろう。にもかかわらず、サタキナアは同じ研究にこだわった。それは、何故なのか。

 そもそもハルマゲドンを見越したサタナキアの幻獣化計画は、メギドの知能と人格を幻獣の水準まで落とすことで、護界憲章に抵触しないようヴァイガルドでメギド体に変身出来るようにすることを目的としている。上位の指導者はメギド体に変身出来なくとも、大半が幻獣程度の知性であっても、前者が後者を導けばいいのである。
 これはサタナキアらしい、ひとまずは合理的な発想ではある。

アシュレイ
「寄生メギドの件なんだけど…
メギドを使った生体実験の結果は
まだ下りないのか…?」

サタナキア
「…まだ無理だ
生体実験を行えば、他の軍団から
目をつけられかねない
メギド体を使うにはもっと隠密に…
そして、正しい時期に行うべきだ
そう、上層部の連中から
何度も言われていただろう?」
(05話)

 これがメギドラル上層部から快く思われなかった可能性は決して低くないはずだ。端的に「個」の蹂躙だからである。プーパとメギドの線引きを考えれば、なおさら嫌厭される発想だろう。
 「目をつけられ」るのはその社会の規則からして当然だ。とはいえサタナキアも研究者らしく、「他のメギドがハルマゲドンを起こす別の方法を発見し、成し遂げてしまう」と焦っていたのも確かだった。
 正直に交渉したところで生体実験の承認が降りるはずもない。だからアシュレイが、軍団への加入を命じられ、戦死が目に見えているプルフラスを護るため、幻獣化した上でヴァイガルドへの逃亡を決意したとき、サタナキアはそれを利用することに決めたのである。
 サタナキアは、実験を利用したアシュレイの逃亡計画を上層部にあえて暴露し、彼とプルフラスに暗殺の危機が迫っていると伝えた。
 実験に成功し、アシュレイがヴァイガルドに渡航すれば、彼らを捕えることは難しいだろう。本来、近い位置にいるサタナキアも責任を問われるだろうが、それは上層部への密告で減じられるだろう。
 上層部の許可を得ないまま生体実験を行い、かつその責任を可能な限り負わないための合理的なリスクマネージメントこそ、サタナキアの計画だった。全てが上手く進めば、アシュレイは問題なくヴァイガルドに渡航し、サタナキアはその責任を出来るだけ負うことなく、生体実験の成功を収められるはずだった。
 
 サタナキアが「親友」をどれぐらい想っていたかは分からない。
 ただ、「俺たちは、アシュレイの信頼を裏切ったオマエとは違う!」(5話)というソロモンの啖呵は、的外れだろう。彼の計画は、たとえ二枚舌の卑劣さはあるにせよ、自身とアシュレイの利益と、かつ己の損失の軽減を合理的に目指したものには違いないからだ。

 ところが、肝心の生体実験が失敗する。秘匿していた幻獣化計画が明るみに出ることを怖れてか、アシュレイを殺しはしたものの、結局はプルトンなる人物に研究を全て潰されることになる。
 
 サタナキアは研究を進めるため、アナキスを自身に寄生させ、ヴァイガルドに渡った。これは、上層部に機械化による不死の発想を問題視され、研究を継続するためにヴァイガルドへ渡ったネルガルの経緯とも似ている。被検体となり得るメギドは、当然サタナキアしか居ない。だから彼は自身を被検体に選ぶ。

サタナキア
「この成果をメギドラルに持ち帰れば
ハルマゲドンに大きく貢献できる…
…よかったな、プルフラス
アシュレイの死も
無駄じゃなかったなぁ!!」
(05話)

 確かに、サタナキアが研究の成果をメギドラルに持ち帰れば、その有用性が認められて再び軍団に復帰することは可能かもしれない。
 しかし、戦果に興味のないサタナキアが、果たしてメギドラルからの称賛を期待するだろうか。そもそも、メギドの尊厳を根本から踏み躙り、制止されたにもかかわらず軍団を離反して進めた研究など、今後も抑圧されるのが目に見えているのである。
 それが分からないサタナキアではないだろう。故にこのサタナキアの言葉は、私は不自然だと取りたい。むしろ重要なのは、「アシュレイの死」が「無駄」にならないという後半の部分ではないか。

 サタナキアとの戦いは、「弱点を見抜く」プルフラスの「心眼」によって終止符を打たれる。プルフラスの以下の台詞は、まさしくサタナキアの「弱点」を射貫き、その指摘を認めさせている。

サタナキア
「さぁ、プルフラス
俺を殺せ…
それが望みだったんだろう?」

プルフラス
「…いや、僕はお前を殺さない
(…)お前とボクは似たもの同士だ
復讐しか、生きる意味がない僕と
研究が生きがいだったお前…
サタナキア…
お前、本当はハルマゲドンなんて
どうでもいいんだろう?
…お前のことだ、
何度も何度も
潰された実験を再開させ…
ただ、幻獣化計画を完成させれば
満足だったんだろう?
(…)僕はお前が死ぬほど憎い…
けど、その憎悪を理由に
僕は自分の弱さから逃げてきた
…僕は自分の弱さを克服したい
だから、お前を殺さない」

サタナキア
「…ハハ、自己満足だな」

プルフラス
「ああ、そうだ
お前と同じになりたくないという
ただの意地だよ
…サタナキア、お前は
アシュレイの死と罪を悔やみ、
苦しみながらこの先も生きろ
研究を失ったこの世界で、
もがきながら生きろ!!」

サタナキア
「ハ、ハハハ…
それが、お前の復讐か…
クク…
俺のことをよく、
わかって、いるじゃないか…」
(05話)

 まず重要なのは、サタナキアはアシュレイの死と、死に至らしめた「罪」を悔いているのである。計画自体は合理的だが、サタナキアは、失敗したときのリスクマネージメントを考慮していなかった(これは「焦り」だけでは説明が難しい箇所でもある)。しかし、事態を円滑化させるための嘘こそ口にはしているが、サタナキアが起こしたのは殺人ではなく、過失事故に近い。

プルフラス
「…軍団をやめるって本当!?
ならアシュレイ兄さんとの研究は
どうなるの…!?」

サタナキア
「…先日の「アシュレイの事故死」が
原因で研究は打ち切りになった
まぁ…俺は勝手に続けるけど
…で、なにしに来たんだ?
もう俺と話すこともないだろう?」

プルフラス
「(…)1つだけ聞かせて
兄さんを…
アシュレイを殺したのは
サタナキアだって…本当なの?
(…)…みんながそう言ってる
兄さんはサタナキアの研究のために
事故死に見せかけて殺されたって…
本当なの!? 嘘だよね!?」

サタナキア
「…もうそんな噂が広まってるのか
だったらシラを切る必要もないな
…お前の言うとおりだよ
アシュレイを殺したのは俺だ
(…)もう用事は終わりかい?
なら研究所に戻らせてもらうよ
これ以上は時間が惜しいからね
誰よりも早く研究成果を挙げる…
それが研究者にとっての戦争だ
だから他の連中よりも先に
「幻獣化計画」を完成させる
必要があるんだ」
(『心惑わす怪しき仮面』01話)

 このやり取りで大事なのは、サタナキアはそもそもアシュレイは「事故死」であると最初に述べ、続けて殺害の関与の有無を問われたとき、素直に「アシュレイを殺した」と答えていることだ。
 これはどちらも嘘ではない。事実に即している。
 プルフラスの結論も合っている。だが、「サタナキアの研究のために」と「サタナキアの研究のためであると同時に、結果的にはアシュレイとプルフラスの渡航のため」では、途中経過が違ってくる。
 過失を殺人と読むのは、罪と後悔の意識なくしてはあり得ないはずだ。アシュレイ殺しが事故だったと説き伏せる、あるいは嘘でその場をしのぐことは、サタナキアには実に容易だったろう。しかし、そうはしなかった。わざわざ自身が殺人者であると認めたのだ。

 何故サタナキアは、プルトンに中止された研究をあらゆる手段を用いて完成させようとしたのか。たとえハルマゲドンに興味がないとしても①科学者の「戦争」への意欲はあったとも読めるし、②既に費やしたアシュレイというコストを無駄にしたくないと合理的に判断した、③あるいは親友への情でその死を無駄にしたくなかったためとも読める。このどれかは確定しようがないし、その全てを併せ持っている可能性も十分にある。あるいは、②と③を区別する意味など大してない。『心惑わす怪しき仮面』におけるサタナキアの意志こそが、まさにそのように判断されているのだから。
  
 プルフラスの啖呵に戻ろう。
 自分とサタナキアは似たもの同士だとプルフラスは主張する。彼女には復讐しか、サタナキアには研究しかないのだから。一方で、サタナキアを殺すことで「お前と同じにはなりたくない」という。
 では何故、サタナキアを殺すことは他ならぬ彼と「同じ」なのか。
 あるいは、何故それは「弱さ」なのか。
 実はこれは『プルフラス・復讐の白百合』だけでは読み辛い。そこに引かれる補助線が、他ならぬアシュレイの言葉である。

アシュレイ
「…じゃあプルフラス
ひとつだけ僕からアドバイス
死ぬのは「弱い」からさ
でも君はこうして「生き残った」
だから君は決して弱くなんかないよ
(…)生きてるってのが大事なんだ
この世界ではね」
「(…)改めて言っておくけど、
君は決して弱くなんかないよ
…それだけは覚えておいてくれ
結局は最後まで楽しく生きた者が
強いし、勝ちなのさ」
(プルフラスB・9話)

 
 結果だけを見れば(すなわち、サタナキアの心情を無視して、事実だけほ鑑みれば)結局プルフラスとサタナキアは、いずれもアシュレイの喪に服することに人生を費やしてきたと言える。
 前者が復讐、後者が研究という姿を取っただけだ。
 アシュレイを喪失したとき、親友への情であれ、死を無駄にしたくないというコスト判断であれ、サタナキアはその犠牲を埋め合わせるために研究を続けるしかなかった。だが、研究が完成してもその死は変わらないし、先々の目標や見通しがあるとも言い難い。そもそも、自身が無事に回復出来るかも分からない、既に失敗した実験の被検体になること自体が、脆さを感じさせる選択だろう。プルフラスも同様に、ルクス・レギオという帰り得る場所を捨て、後先考えぬままに復讐へ走っていたのである。
 彼らの共通点は、どちらもアシュレイの死を自身のなかで処理出来ず、強引な行動化に走るしかなかったということだ。この点で、彼らはどちらも同じように「空っぽ」(プルフラスB・9話)なのである。そのためにサタナキアは、ほとんど自己破壊じみた、我が身を顧みぬ研究を継続していたし、あるいはプルフラスに復讐されるのも満更でなかった可能性さえあるかもしれない(これはさすがに勝手な読みが過ぎるが)。

 アシュレイの死に真正面から向き合えない限り、彼らはいずれも「空っぽ」で「楽しく生き」れないのであり、それが「弱さ」なのである。そして復讐を成し遂げることは、たとえ虚しさを理解していても研究を継続するしかないサタナキアと同じく、「弱さ」をただ回避し続けることだ、というのがこの場面の論理だろう。
 だから、サタナキア殺しは止める。
 しかしより陰湿に、研究を奪う復讐は持続するのである。
 一緒なのではないか。
 復讐を果たしたいのか、より持続的で効果的な復讐を続けたいのか。殺人より陰湿な復讐は、「弱い」復讐とどう違うのか。
 正直に書けば、ここはよく分からない。

 ここがこの物語でもっとも難解な場所だと思う。『プルフラス・復讐の白百合』で私がいちばん分からないのは、最初から謎めいた人物として描かれているサタナキアではなく、プルフラスである。
 私は基本的にメギドで整合性が取れない、理由のよく分からない部分を粗と取らない。「あえてそうしたのだ」とか、「この矛盾にこそ解釈の余地がある」という手続きで理由をつける(贔屓の引き倒しという気もする)。
 しかし、プルフラスのこの論理は、私には補いようがない。物語の勢いが強過ぎて、論理がねじ曲がっているのか。私が単にこね回し過ぎで、素朴に受け取ればいいものを変に力んで読んでいるだけかもしれない(まさにそんな文体だし)。でも、その論理の矛盾にこそ、こんなケアが用意されたのではないか、とも思う。

プルフラス
「ねえ、兄さん…
僕、気づいたんだ
僕はどうしてサタナキアを殺さなかったんだろうって、
ときどき考えてたんだけどさ…
きっと、サタナキアを殺したら、
兄さんと繋がっていた存在が
ひとつ消えてしまうから…
僕は、それが嫌だったんだなって…
おかしな…話だよね…
アイツが兄さんを…殺したのにさ…
それでも僕は…」
(プルフラスB・11話)

 プルフラスがサタナキアを殺さなかったのは、復讐の持続というよりは、単純に彼がアシュレイの親友だったからなのではないか。その論理は破綻しているが、そもそもそれは「サタナキアは殺したいほどに憎いが、兄の親友は殺したくはない」という感情の矛盾があったからなのではないか。

 『復讐の白百合・プルフラス』で救われているのは、プルフラスよりもサタナキアなのではないか。プルフラスが復讐を終えられなかったのとは対照的に、最も自己破壊的で空虚な幻獣化研究を他者に終了を強制されたことは、むしろ幸運に近いだろう。
 プルフラスは殺害によって復讐を終えたのではなく、監視によって復讐を延長した。それどころか、本来憎いサタナキアにはソロモンの手助けという別の目標を与え、どうあれ彼自身は参謀の自己認識を以て動き続けてきた。いずれ軍団が解散すればプルフラスの監視から逃れることも出来るだろうし、他の研究だって出来るはずだ。  
 「僕は自分の弱さを克服したい」とはどういうことか。
 アシュレイの言葉に従うなら、それは彼のいない世界で遅延させた復讐を終わらせ、「楽しく生きた者」になるということだ。それはやり場のない不在の悲しみを受け止め切ることでもある。
 プルフラスリジェネの物語は「自立」とはっきり名付けられている(リジェネ紹介文)。これは、裏返せばアシュレイを想い続けた復讐自体が「依存」という、非常にシビアな認識を物語っている。
 プルフラスは、なぜリジェネの奥義で涙を見せるのか。
 凛とした無印の奥義モーションに対して、今更の涙である。しかしこれは、無印が「泣かない」ではなく「泣けない」ということだったと思う。サタナキアへの復讐を本当に精神的に終え、あらためてアシュレイの死に涙し、それを己の手で拭い立ち上がる動作こそが、プルフラスの本当の門出なのではないか、と思う。

 プルフラスのリジェネの物語は単純だ。ある植物学者の男が、彼女に嘘の護衛任務を依頼し、妹の敵討ちをしようとする。
 自身の似姿といっていい彼の復讐を、プルフラスは止める。

プルフラス
「…話は聞いたよ
君が妹さんのために復讐を
しようとしてるって
(…)だけど、やめたほうがいい
復讐をして…どうするんだい?
君はその先のことを考えてる?
(…)考えてないだろ?
だって今の君にとっては復讐だけが
生き甲斐なんだからさ
だけど、復讐が終わったって
別にそれでなにもかもが終わる
わけじゃないんだ
…僕はそれをよく知ってる」

復讐者ユーリ
「だからなんだ…!
それがなんだってんだッ!
(…)俺は「その先」なんていらねぇ!
あいつを殺せばそれで満足だ!
それでいいんだよッ!」

プルフラス
「じゃあ、復讐が終わったら…
死ぬの?」

復讐者ユーリ
「ああ…!
それでも構わねえ…!」
(プルフラスB・10話)

 復讐の先に待ち受けるのは単なる空虚であり、故にこそプルフラスは復讐の終焉を先延ばしにしたのかもしれない。サタナキアにはそんな意図はなかっただろうが、彼が憎み監視すべき人物だったからこそ、プルフラスは空虚から逃れられたのである。
 プルフラスの「自立」は次の三段階で素描出来る。
 第一は、依存していたアシュレイの死に衝撃を受け、その復讐に執心する段階。第二は、復讐の終焉でなく持続を選び取り、サタナキアの監視に全てを費やす段階。彼の研究がソロモンに公的に認められ、もはや監視出来なくなった後の第三は、自身の似姿に等しい復讐者の姿に己を見つめ直し、真に依存から自立する段階である。

 

 ユーリはそのまま日本語の百合、その妹リーリエは独語の百合である。貴族の兄弟の名はフルーとルドリス、フルールドリスは仏語の百合だ。だから、名前からしてこの物語は『プルフラス・復讐の白百合』を意識している。

 妹の愛した者を殺そうとするのと、兄が信じた親友を殺そうとするのはパラレルだろう。では、ユーリに必要だったのは何か。
 物語は、彼と、その妹の愛したルドリスの対話で結ばれる(ルドリスは意図してユーリの妹のリーリエを死なせたわけではなく、不運の連鎖によって死なさせたわけだが、これはサタナキアのアシュレイ殺しと少なからず重なるものがあると思う)。
 何故彼女は死んだのか、そしてルドリスは彼女を本当に想っていたのか。復讐というこじれた表現形ではあるけれど、本当はそれこそ、ルドリスの知りたかった問いと答えだろう。
 物語はそこまでプルフラスとサタナキアを近付けはしない。またサタナキア自身が殺した以上、今更その経緯を明かす意味もない。
 だから、プルフラスには、ユーリとは別の解決が与えられる。

プルフラス
「僕にはたくさん時間があるんだ!
その中でいろんなものを見て、
いろんな経験をして仕事をして…
それがみんな繋がっていって
僕の「その先」になっていく!
たぶん、そういうことなんだ…!
そうやって生きていくのが、
きっと「楽しく生きる」って
ことなんだよね、兄さん!」
(プルフラスB・11話)

 「その先」を教えてくれる者など誰も居ない、それが答えなのである。プルフラスは兄の言葉を自分の自由に解釈しているだけだが、そうやって自分の意味で、足で、世界を読み歩いていくこと、ひとつずつ視野を広げて「いろんなもの」に触れていくことが、真にプルフラスにとっての復讐の「終わり」であり、兄と復讐からの「自立」なのだろう。

 ずいぶん長い前座になってしまったが、実は『心惑わす怪しき仮面』は、『復讐の白百合・プルフラス』の正統続編のようでありながら、実際にそれを語り継ぐのはプルフラスのリジェネの物語である。今回のイベントシナリオはここ数回でも屈指の面白さだが、それはたぶん、物語の主題が重過ぎないからではないかと思う。サタナキアのリジェネの物語でありながら、実は彼の変化は意外に大きなものではない。状況の変化より、自覚の変化が中心である。
 だからこそ、単純によく出来た怪盗の物語が書けたのではないか。
 とはいえ、これはサタナキアのリジェネを語る物語である。
 後半は、そのリジェネレイトまでの道筋を読んでいこう。

 物語は、一度は破産したはずの貴族・アルミンが、曰く付きの秘宝を手にしたと同時に再興したこと、そしてその領民が行方不明になっている噂を知ったソロモンが、何らかの遺物の関与を疑ってその晩餐会に忍び込んだところから動き出す。晩餐会の最中、「怪盗オレイコルトス」を名乗るメギドにその秘宝「プラチナ・マスク」を盗まれ、それを取り返したところで、偽物だと明らかになる。
 ここで同行していたサタナキアが、実はオレイとサタナキアは旧知の仲で、プルフラスの監視を逃れるためにオレイはサナタキアに返送し、見返りにオレイの怪盗業を研究で支援する協力関係にあり、「プラチナ・マスク」こそ実はサタナキアの研究の産物だと告白する。本来、「プラチナ・マスク」は、生物から安全にフォトンを取り出し、メギドラルとの交渉のために作られた装置だが、生物が硬化を来すため一時凍結された研究だった。しかし、それが軍団の損害を減じるほうに再利用出来るのではないかと研究を進めていた矢先に、ある商人に盗まれた、アルミンの手に渡り、領民をプラチナと化して財を得ていたのだった。アルミンは、あえて偽のマスクを盗ませることで、自身の悪行が世に知れぬよう計画したのだった。
 その実行犯たる執事クロムを追うものの、彼は幻獣の襲撃で瀕死となり、道連れにソロモンを石化させようとする。寸前でサタナキアが身代わりとなり、最期の言葉からプラチナ化したブラブナが石化を解く鍵と知ったソロモンは、ブラブナを大量捕獲するため、オレイの導きで彼の研究所に赴く。そこでプルフラスと、そもそもプラチナ・マスクの研究が、軍団員の損害を減じるためのものであったと知る。最終的にサタナキアの石化は解除され、アルミンは貴族院に捕縛される。今回の事件は元を辿ればサタナキアの研究が原因だが、ソロモンは彼の研究への熱意を理解していなかったことを理由に、その罪と責任を分かち合い、今後の研究を許可する。何故軍団員の損害を減じる研究をしたかについて、オレイは「仲間が取り代えの効かないものになったから」と推論するが、サタナキアは否定する。同時に彼はリジェネレイトを果たし、その後、プルフラスに「お前も自分も成長している」と言われ、わずかな和解を果たす。

 大事な描写は次の三点だ。

サタナキア
((…)俺は負けた…
だから従ったに過ぎない…
ただ「ハルマゲドンの阻止」という
難題にどんな解答が見出せるかに
興味があっただけで…
「ソロモン王」なんてそのための
材料のひとつに過ぎなかった…
それなのに俺はどうして…
どうして「ソロモン王」を
救うためにあんな…真似を…)
(04話)

 第一は、サタナキアが石化しかけたソロモンを庇ったことに、自ら困惑している描写だ。実際には彼は、序盤で幻獣に襲撃された女を助けて驚かれたように、ソロモンの軍団員として適切な行動を取り続けている(これはサタナキアのキャラエピを踏まえると大きな変化だろう)。プラチナ・マスクが途中から軍団員の損傷を減らす用途に転用出来ないか検討されていたのも、同様だろう。
 これらは、(意図的ではあるかは分からないが)ブラブナが環境に適応するように、サタナキアがメギド72という軍団に、あるいはソロモンの考え方に適応していることを意味している。
 しかも、サタナキア自身は自身の内面の変化には鈍感なのである。
 あるいは、アシュレイ殺しの後悔をプルフラスに指摘されてようやく認めるように、「合理的な判断をする自分」が先立って、それと内面の区別がついていないのかもしれない。
 たとえばサタナキアは、ソロモンを庇ったことに対し、「合理的に判断すれば、プラチナ化の糸口は掴めていたものの、それが実際に正しく作用するかは分からない。指輪の所有者である以上、彼の安全を優先するほうが軍団においては合理的だろう」と説明はつけられてしまうのだろう。
 

プルフラス
「僕だって成長するんだよ
お前が成長したみたいにさ」

サタナキア
「せ、成長…俺が…?」

プルフラス
「そうさ…たぶん
だから僕も少しだけ前に
進む気になれたよ
お前のことは完全に許した
わけじゃないけど、前よりは
「仲間」として接しようってね
今あげたチョコレートは
その「証」さ」
(05話)

 
 第二にサタナキアは、プルフラスに「成長」を指摘されている。この「成長」が何かは具体的に物語られないが、研究の性質を考えれば推測はつく。たとえアシュレイと自身の利益の両方を考慮したとしても、基本的にその事故死はサタナキアが安全を犠牲に、自身の研究を第一に考えたのが原因であり、無印のキャラエピでソロモンに対立するのも、自身の考える合理性を最優先とするからだ。
 「独りよがりの自称参謀」という言い回しが実装当時のガチャにあったが、サタナキアは自分のなかの「合理性」を最優先するという意味では、客観的かもしれないが自分勝手でもある(幻獣化研究が本質的に他のメギドの個を蹂躙したものなのもそうだろう)。そのサタナキアが、軍団の一員である以上損害を減らすのは当然だ、という他者を慮る研究をしたこと自体が、「成長」なのだろう。
 他者への思慮なのか、軍団員としての合理的な判断なのかは、厳密に区別することは出来ない。でも、別にそれは、どちらでもいいのだ。

ソロモン
「あのとき俺を助けてくれて
ありがとうな」

サタナキア
「気にしなくていいよ
自分自身よくわからないまま
行動しただけなんだ
なんでだろうね…俺にとっては
他人なんてみんな替えの利く
一要素に過ぎなかったはずなのに
(…)お前は分かるっていうのか」

オレイ
「わかるさ…
「仲間」だからだよ
もしや彼らは君にとって
替えの利く要素ではないのさ」

サタナキア
「(…)そう思うのは勝手だよ
だけど俺としてはそんな安っぽい
感情じゃないと主張したいね
(…)ひょっとしてリジェネレイトか
俺にそんなことがあるなんて
思ってもみなかったけど」

(…)

プルフラス 
「ひょっとしてソロモンを
「仲間」だと思ったから…?」

サタナキア
「だから違うって
強いて言うなら仲間ってものの
定義を再構築しただけさ
(…)あとは自分で考えなよ」
(05話)

 第三に重要なのは、オレイの素朴な指摘を素直に認めないサタナキアである。なぜ、仲間意識を「安っぽい感情」と退けるのか。
 それは、他者を取り代えのきかないものとして慮るようになった「成長」と、軍団の一員として他者に慮るべきだという理性的な「配慮」とは区別が付かないからではないか。オレイの指摘は確かに「安っぽ」くて、基本的に傍若無人なサタナキアが他者にそこまでの思い入れを得たかというと、正直判断が難しい(私は否に寄る)。
 しかし、だとしても、その「配慮」と「仲間想い」とに区別を付ける必要などない。芯から他人を思いやれなくても、それに配慮する身振りを出来ること自体が、大人になるということだからだ。
 それがこの物語の良さだ、と思う。
 サタナキアは「仲間想い」には一生なれないかもしれない(むしろ、仲間想いのサタナキアはちょっと怖い)。でも、軍団の内部で生き続けることで、結果的にヴィータを救い、仲間を慮る研究が出来たのなら、それはもう「仲間想い」と同じ地点に立っている。
 人は倫理の意義を理解していなくとも、他人の大多数がその倫理のもとに生きていることを想像し、それに倣うことは出来る。まさしくサタナキアが、ソロモンの倫理に沿ったように、である。
 それが「マナー」であり、環境への順応であり、大人になるということだろう。
 そう考えれば、何故ウァサゴとフリアエがこの物語の登場人物として選ばれたかも結び合わせたくなる。『心惑わす怪しき物語』は(アルミンに代表されるように)法と罪の物語なのであり、そこに法の番人たるフリアエが召喚されるのは自然な流れだろう。
 これは同時にサタナキアが軍団=社会における「マナー」と「法」を学ぶ、というよりは、既に学んでいたことを遅ればせながら自覚する物語でもある。だから、貴族の「マナー」を序盤に説くウァサゴなのだ、ではさすがに強引な読みが過ぎるが。
 ただ、ウァサゴが貴族院に捕縛されるアルミンを見送るとき、さりげなく「成人」の概念を持ち出しているのを思い起こしてしまう。
 彼は人生の最後まで、貴族のマナーに沿えなかったのである。

 

 最後にひとつ、大切な描写を付け加えておきたい。

 サタナキアの研究の産物で多数の人間が死んだ責任を、ソロモンは彼ひとりに負わせようとはしない。むしろ、その研究への熱意を理解していなかった自分にも問題があったと、軍団長ではなく「仲間」として、その責をプルフラスと共有する。これは、アシュレイの死を(どういう心情かは最後まで分からないが)結果的に単独で引き受け、研究を続けていた頃とは大きな違いだろう。

 サタナキアは領民の死を「終わったこと」として合理的に処理することは出来るに違いない。それでも、その罪を分かち合える者が居るかどうかは、やはり少なくない差異があると思う。

 

 サタナキアは言動が飄々としていて、さらに自身の内面に鈍感であるか、意図的に合理性を先立たせているために分かり辛いが、基本的には『心惑わす怪しき仮面』とその周囲の物語は、サタナキアとプルフラスの成長物語だろう。
 合理性のもとに他者を配慮してこなかったサタナキアが集団で生きる「マナー」を学び、アシュレイという他者に全依存してきたプルフラスが、復讐の終焉と共に、アイムやサタナキアという複数人からの世話を受ける、つまり軍団の一員として依存先を複数有することで「自立」を学ぶ。どのような理由であれ他者を慮る、少なくともそんな規則があると学んだサタナキアと、唯一の他者から離れることを学んだプルフラスとは、鏡合わせの位置にあるのだろう。

メギド72『キミに捧げし大地のソナタ』について

 前回開催時にあまりちゃんと読めなかったイベントなのだが、今回ゆっくり目を通すと非常に面白かったので、感想を書いておきたい。
 『キミに捧げし大地のソナタ』におけるサタナイルとバルバトスの境遇は、作中で彼自身が感慨を覚えるように、ごく近しいものだ。彼等はいずれも音楽を知り、それを愛するが故にメギドラルの秩序から逸脱し、その果てに腹心の部下を殺めねばならなくなる。
 一方でバルバトスとサタナイルには演奏者と指揮者という差異がある。彼等は共に自身より優れた演奏技術を持つ者に触れるが、そこでサタナイルは、アスラフィルの才に圧倒されたと同時に、彼女に嫉妬することを恐れ、指揮者の道を選ぶ。
 この差異は、ごく大雑把には、バルバトスが己の愉しみを、サタナイルが他者を慮り優先する傾向にある、とも言い換えられる。二人は酷似した境遇にはあるが、この差異はサタナイルの問題をより複雑化している。
 第一に、バルバトスとサタナイルという、同じ異端者の類似点と対比点を追っていきたい。そのためには勿論、バルバトスが追放されるまでのリジェネの物語を読まなくてはならない。
 第二に、アリキノは何故凶行に走ったのか。表面の言葉だけを信じるならば、「用無し」になったからサタナイルを殺そうとするのだが、ここには少なからず疑問がある。なにか、他の理由があったのではないか。
 第三に、何故物語を結ぶのがクロケルなのか。
 それはバルバトスの物語において、ソロモンが「バルバトスはバルバトスだ」と言い切ったのに対応している、と考える。ではその言葉はどのような文脈で発せられ、そして何故バルバトスにはその答えが必要だったのか。
 いずれにせよ、まずバルバトスのリジェネの物語を読まなくてはならない。

 まず、音楽を知る前のバルバトスは、ごく普通のメギドと同じように「単純な暴力」(バルバトスR・3話)を楽しんでいた。

バルバトス
議席なんかには興味ないが、
メギドに生まれたからには
武勲こそが誉れだ
死して尚、語り継がれるような
なにかを残すのが俺の「個」…」
(バルバトスR・3話)

 彼は音楽を奏でる奇妙な女メギドと出会い、楽器を学ぶ。

女メギド
「楽器を学ぶには、文化を学ぶ
ヴィータになりきるところからよ」
(バルバトスR・4話) 

 メギドが度々描く「ヴィータ」らしさは、しばしば現実の生存における無駄=余剰を尊ぶ姿勢として描かれる。サタナイルがキャラエピでバールゼフォンに説かれた芸術の価値がまさにそうだし、次の引用部で描かれるような、本来は単なる栄養摂取でしかない「食」に、快楽を見出せる感性もそうだろう。

バルバトス
「「食べる」ってのも、
身体を維持するためだけじゃなく
楽しむことができるはずだ
この世界にある
およそすべてのものは、
楽しむことができるらしい
それを誰かに伝え、
心を共感させる…
その手段を模索する者、
表現者」か
(…)うん、この果実、なんか好きだ
「おいしい」ってヤツだな
この気持ちを、誰かと
共感できるといいんだが…」
(バルバトスR・4話)

 「表現者」としての生き方と芸術を知ったバルバトスは、束の間の幸福を味わう。ところがそれは「悪夢」によって終わる。音楽にかまけるあまり、数年間戦争を放棄していた議席を取り上げられる。その原因たる女メギドを殺そうとした腹心の副官と、対立を余儀なくされる。

軍団副官
「(…)そいつがいる限り、
あんたは先に進めない…
あんたのためなんだ、
バルバトス団長!!
そいつを…
…殺すっ!!」
(バルバトスR・6話) 

 重要なのは、副官は「あんたのため」と言い切り、バルバトスを思慕していたからこそ対立せざるを得なかったことだ。結局バルバトスは、腹心の部下を自ら殺めてしまう。音楽が自分の喜びのためというのなら、何故楽しかった戦争ではないのか。そう問われたバルバトスが、長い台詞で答える。

バルバトス
「俺は…気づいたからだ
世界は自分の外にこそあり、
「個」である自分を覆ってる
俺は世界のすべてを見たいんだ
それは美しい…
音も、光も、言葉も、戦いもだ
そのすべてを含むのが世界なんだ
俺たちはそれを構成する
部品でしかないんだ」
(バルバトスR・6話) 

 バルバトスは世界の「美しさ」に気付いた者である。音も、光も、言葉も、戦いも、果実の味わいも、そこにあるのはいずれも刹那の感覚的な喜びに過ぎない。そうした微細な快楽がひとつの「美しい」光にまで昇華するには、順序の逆はあるかもしれないが、世界に対して自分が「部品」のように小さくある認識がなくてはならない(あるいは、優れた芸術や、あるいは世界の美しさは、視る者に自身の存在を「小さく」感じさせるものだろう)。
 「世界のすべて」を観測することを夢見るバルバトスは、もはや戦いによって死と殺戮をまき散らすような、粗大な「個」にはなり得ない。この前半の芸術家としての台詞は、後半に転調する(だからこの長回しは、一続きの台詞ではなく、二つの調を異にした台詞として読むべきだろう)。

バルバトス
「戦争はただの器なんだ
その中で「個」を輝かせるのは、
小さな武勲なんかじゃない
わかるか? 武勲じゃないんだ
想像してみろよ、「物語」を
いつか誰かが語る話の中で、
俺の存在が描かれることを
勝ち負けじゃないんだ
それ以外になにが成せるのか、
なにを成してきたのか、なんだ
だから俺は―
―俺の物語を作りたくなったんだ
音楽と、言葉で、美しい話を
俺たちの生きた瞬間を、
永遠に残すためにだ!
その中には、オマエだって…
オマエだっていたのに
…どうして
…どうして
「戦争じゃなきゃダメ」なんだ!
殺すだけが物語じゃないだろう!
それは、あまりに…
あまりに美しくない」
(バルバトスR・6話) 

 世界を前に、芸術家という極小の「個」を手にしたバルバトスにとって、もはや一個人の「武勲」や「勝ち負け」や、あるいは「殺す」ことなど単なる出来事に過ぎない。それが何故「美しくない」のかは明白に物語られない。だからここは勝手な補いになるが、殺し殺される現在ばかりに執心し、「永遠」など夢見ようがない世界では、世界の美しさを観測することなど出来るはずもない。バルバトスの「芸術」とは、世界の一瞬の煌めきを①言葉にすることで永遠に留め置き、②さらにその感覚を誰かに伝える手段を意味する。
 殺すことは、本質的にその「永遠」に反しているのかもしれない。
 いずれにせよ重要なのは、数年戦争を放棄していたとはいえ、バルバトスが副官を大切に想い、「俺たちの生きた瞬間」の物語に、彼の存在も含まれていたことだ。その副官を殺めねばならなかったバルバトスの心は、当然のように苦い。

軍団副官
「軍団を捨てて、
俺を殺したあんたが憎い
武勲を否定して、
裏切った俺を殺したことさえ
誇れないあんたを軽蔑する
(…)俺も…嵐に飲み込まれて、
ただ消えることにするよ
さよなら、軍団長」
(バルバトスR・6話) 

 バルバトスのこの戦争放棄は、たとえ消極的であっても、戦争社会においては副官が指摘するがごとく「嵐」のように強烈なエゴの行為に他ならない。副官の凶行も、自身の理想をバルバトスに押し付けるという意味では、同じように強烈なエゴだろう。その意味でこれは、我欲と我欲の衝突である。だから「嵐に飲み込まれ」るという言葉が自然に浮かんできたのだろう。
 ここまでが回想だ。肝心のリジェネは、寿命を迎えたバルバトスが、小村の納屋に忍び込んで静かに死を待つところに、ソロモンが駆け付ける場面から始まる。無印のキャラエピで、かつてイニエに物語を語り続けたように、バルバトスもまたソロモンから扉越しに言葉を受け続ける。

ソロモン
「最後の瞬間を邪魔したい
わけじゃないんだ
ただ、せめてそのときは
小屋の外からでもいいんだ
見送りたいと思ってさ
俺が「勝手に、ここで
話してるだけ」だから
(…)直接触れ合えなくても
言葉を交わしてれば、
なんか繋がってる感じだろ
俺は、バルバトスに、
それを断ち切ったまま
世界から消えてほしくないんだ」
(バルバトスR・7話) 

 かつてバルバトスが出会った少女・イニエは、フォトンの貧しい土地で、大地の恵みを引き寄せ、周囲にそれを分け与える代償として、あまりに短い生涯を約束された存在だった。老い衰える彼女からの応答がないにもかかわらず、バルバトスが小屋の扉越しに物語を語り続けたのは、少しでもその最期の時間を彩らせるためだった。
 イニエはバルバトスに接吻を求める。詩歌に謡われる恋の経験を味わってみたい、そんな単純な好奇心も混合していただろうが、最後に彼女の詩が酒場で朗読される場面から察するに、それは恋慕に近いものだったのだろう。
 バルバトスはまさしく、「勝手に」話し続けることでイニエの死を見送る。
 それは応答や見返りを要求しない、ただ自分がそうしたいが故にそうしただけの、長い手向けの行為である。バルバトスは、いつかイニエの存在を誰もが忘却することに切なさを覚えながらも、その詩を物語ることで彼女が「永遠」に近付くときを夢見ている。そしてこれに応答するのが、ソロモンの次の台詞だ。

ソロモン
「「バルバトスの物語」を
俺が伝えちゃダメかな
(…)バルバトスがいなくなるのが
仕方ないことだとしても…
…結末のわからない
中途半端な物語みたいには
したくない
誰かが最後の瞬間まで付き合って、
バルバトスが最後まで生きたことを
伝えるべきだと思うんだ
(…)あの書置きの、
星空の話、よかったぜ
俺は表現者じゃないから、
あんな風に時間を越えて、
多くの人になにかを残せない
でも身近な人に
バルバトスがどんなヤツか、
話して聞かせることはできる
この世界を守るためとはいえ、
戦うことばかりが
俺たちの物語じゃないよ」
(バルバトスR・7話) 

 イニエがその感性と魂を詩に結晶させ、それをバルバトスが酒場で唄うのと、ソロモンがバルバトスの物語を語り継ぐことは似通っている。「戦うことばかりが俺たちの物語じゃない」というのは、まさにバルバトスが自分を理解しない副官に伝えたかった言葉だ。ここでソロモンが演じる身振りは、二重の意味で過去のバルバトスに近似している。
 では、何故バルバトスはこの説得でリジェネを果たせるのか。
 その論理を読むことは、この台詞のやり取りだけでは難しい(私には分からなかった)。ただ、イニエの死を聞かされたときのバルバトスの反応は重要だと思う。顔馴染みの男から、最後までバルバトスの物語を楽しんでいたと聞かされたときに漏らす、さりげない言葉だ。

バルバトス
「そんなこと、わからないよ
俺にできることはただ…
発するだけだ
彼女の「心の世界」に
それが届いたのかどうか、
知る術はもう…」
(バルバトス・14話) 

 実際には、イニエの「心の世界」をバルバトスは確かに満たしていた。それ故の返礼と、おそらくはささやかな恋文の意味合いも含めて詩が贈られたのだろう。それでも、バルバトスにとって本当にこの選択が正しかったかは、最後まで悩む問だったはずだ。若く美しいまま、イニエの自害を見送る結末は、いかにも美しい物語の結びだろう。バルバトスの接吻と延命は、まさにソロモンがそうしたように「勝手」なエゴであって、無意味な延命であったのかもしれない。それが正しいかは、どんなに純粋な詩でも正確には答えてくれないのである。
 では、そのイニエの立場に置かれたバルバトスは、どう感じていたのか。

バルバトス
「美しく完結するだけが、
物語の在り方ではない、か…
(…)それだけじゃ、物足りないのかも
無様だろうと、蛇足だろうと…
(…)一番の聞き手が、これだもんな」

(「長命者」としちゃ、もう
いつ死んでもおかしくない
終わった男だが…
表現者」としてなら、
まだやれることが
あるかもしれない)
(バルバトスR・7話) 

 ソロモンがバルバトスとの繋がりを断ち切ることなく、その死を見届けたうえで、最期を含めた物語を語り伝えていきたいという想いを受け、なぜ「やる気」になったのか。それを、この場面のみで読むことは、私には出来なかった。バルバトスに音楽を教えた女メギドが誰かといった「謎」も、この物語だけではどこまで真剣に追い求めるべき「謎」かはちょっとはっきりしない。

 しかし、この場面の論理は、イニエを下敷きにすれば別の読み方が出来る。
 イニエは「いつ死んでもおかしくない」「終わった」存在だった。それでも「表現者」として、最後には自分の時間を詩に結晶させて遺した。それは、美しいまま自ら命を絶つ女から、醜く生き延びる老婆に成り下がる「無様」で「蛇足」な在り方だったかもしれない。それでも、バルバトスにとってその「蛇足」は、何としても送らせてやりたい時間だった。本人がどんな詩を書こうが、そこに単なる自己満足の側面があることは否定できない。
 苦い罪悪感がなかったわけではないはずだ。同じように小屋の扉越しに語られて、イニエのことを回想しなかったわけがない、と思いたい。
 そして、いざ自分がイニエのように死に瀕したとき、ソロモンが関係の繋ぎ目を断ち切らぬよう、そして己の死を見届けるために自分を見つけ出してくれたことは、決してあからさまには物語られないが、バルバトスには一種の福音だったはずだ。自分が迷いながら果たした行為の本当の意味を、身をもって教えられたのである。イニエを延命させ、扉越しに彼女に語り続けたことは、果たして適切な行いだったのか。
 そうだったはずだ、というのがソロモンが知らずして提示した答えだった。
 「表現者としてなら、まだやれる」という決意は、かつてイニエが詩を遺したことに触れているのだと読みたい。自分もイニエのように、「表現者」としてまだ出来ることがあるかもしれない。それこそが、文面通りに、バルバトスの決意だったのだと思う。それは、たとえリジェネレイトを予想していなかったとしても、ソロモンに自分のこれまでを語り残す行為だったかもしれない(苦笑を連想させる「一番の聞き手が、これだもんな」という台詞は、意味の解釈が難しいが)。結果的にリジェネと延命に繋がったのは、ちょっとした物語の奇跡だろう。
 リジェネの直前に、こんな掛け合いがある。

バルバトス
「ただし、いいか
(…)俺はここでずっと、
「メギド時代のこと」を
思い出してた
(…)再召喚されると、嵐の時代の
俺が表に出てしまうかも
キミの知ってる、穏やかな俺じゃないかもしれないぞ」
(バルバトスR・7話) 

 バルバトスが副官と対立しなければならなかったのは、音楽への耽溺を、「もはやバルバトスではない」と判断されたからだ。これまでのリジェネレイトの傾向からして、性格や人格が大幅に変わることは無いはずだ。だからこの「キミの知ってる、穏やかな俺じゃないかもしれない」は、不思議な警告でもある。
 何故バルバトスは、このような言葉を発さなくてはならなかったのか。
 バルバトスは音楽を知ることで重大な変化を来し、故に副官を殺さねばならなかった。それは、生涯最後まで、バルバトスの心に傷と後悔として残り続けた。だからこそ、リジェネレイトという新たな変化を目前にして、たとえ不条理な問であったとしても、ソロモンにそう確認せずには居られなかったんじゃないか。
 答えは単純だ。

ソロモン
「バルバトスはバルバトスだろ」
(バルバトスR・7話) 

 この答えに対するバルバトスの反応は描かれない。でも、この何気ない念押しこそが、変化によって手痛い傷を受けたバルバトスには、必要な答えだったのかもしれない。
 イニエの延命と、身勝手な寄り添いは、果たして正しかったのか。
 自分が重大な変化を来したとして、ソロモンはそれを受け入れてくれるのか。
 バルバトスのリジェネレイトは、この二つの問いに、ソロモンが知らずして答えたことで成し遂げられたのではないかと思う(ただこれは読み過ぎだろう)。

 ではイベント本編、サタナイルの物語はどうか。
 野良の幻獣に襲われて気絶したバルバトスと、彼を助けたサタナイルは、互いに「ストラ」「ソナタ」と何も知らないヴィータを装い、偽名を名乗る。
 何故、サタナイルは見ず知らずのバルバトスを救ったのか。

黒髪の女
「私は…私の欲望に従って
行動してるだけだから
(…)私は…「死」が嫌いなの
だから「死」を見たくないのよ」
(第01話・1) 

 サタナイルはかつてのバルバトスのように、既に音楽を知り、メギドとしては引き返せない段階に来ている。「欲望に従って行動」しているのに過ぎないのも、創造とは対極の破壊や「死」を厭うようになるのも、似通っている。

 バルバトスはサタナイルを、あくまでソナタとストラという、ヴィータの男女として口説く(第01話・3)。互いにメギドであることを明かし、敵対したくないというバルバトスの意志を確認したサタナイルは、自分が何をしているのか確かめてほしいという。サタナイルの口調は、部下のアリキノに接するとき、もとはバールゼフォンから教えられた「女」の演技から切り替わる。

バルバトス
(この高圧的な感じ…
これが彼女の「素」なのか?
それとも…)

バルバトス
「…予想もしてなかった展開だね
俺を助けてくれた謎の美女の正体が
部下に恐れられる強面の隊長とは…」

サタナイル
「気弱な態度を取ると舐められるわ
だからどうしても気を張ってしまう
…それだけのことよ」
(第02話・3) 

 バルバトスとサタナイルの境遇は鏡の似姿のように近い。それを劇中で裏付ける台詞が、この場面のあとに続く。かつて苦い後悔を味わった自身の過去を思うからこそ、彼女のことが気にかかって仕方なかったのかもしれない。

バルバトス
(俺の演奏を聞いていたときの
彼女の嬉しそうな顔…あれは
どう見ても演技じゃなかった
俺も「そう」だからわかる…
彼女は音楽を愛してるんだ
だからなんだろうな…
出会ったときから彼女のことが
気にかかるのは
まるで…昔の俺みたいだから)
(第02話・3) 

 とはいえ、サタナイルにはバルバトスといくつかの重要な相違点がある。
 ただ戦争を放棄し、ひたすら自身の愛する音楽に耽り続けたバルバトスに対し、サタナイルはメギドラルの変革を願うからこそ、一兵卒が任じられるようなフォトン収奪の命令にあえて従っている。
 そして、自身より演奏技量の優れた女に一切の引け目を感じなかったバルバトスに対し、才能溢れるアスラフィルと自身の差異を痛感し、同志である彼女に嫉妬する不安を覚えたために楽器演奏から手を弾き、同志を支え導くために指揮者を選んだサタナイルでは、すべてが同じというわけにはいかない。さらに(後述するが)サタナイルはアリキノを想い、音楽と理想を捨てる可能性について考えたことがある、という示唆もある。
 自らの喜びに耽り、自由を謳歌していたバルバトスと、他者や外界を自己より優先しがちなサタナイルでは、当然その問題も変わってくる。むしろ彼女のほうが、当時のバルバトスより状況は更に厄介なものになっている。

 破壊を厭い、ハルマゲドンを快く思ず、創造を尊ぶサタナイルの在り方は、ソロモンとも分かり合える、手を取り合えるはずだというバルバトスの誘いを、サタナイルは拒む。それでも、メギドラルは自分を「生んでくれた」愛すべき世界なのであり、「功を挙げ、地位を得て」「あの世界を変えられるだけの存在に」なるほうに賭けたいという。

バルバトス
(メギドラルへの「愛」か…
彼女は気づいてないんだろうな…
メギドラルって場所はその愛さえも
否定する世界だってことに)

バルバトス
「俺は…
俺は、どうすればいいんだろうな…」
(第03話・1)  

 この苦い実感には、すこし推量が要ると思う。

 バルバトスは、決してメギドラルという世界自体への「愛」を持っていなかったわけではない。むしろ、謎の女にそう話していたように、彼にはヴァイガルドに渡ろうという意志など全くなく、自分が生きるメギドラルという世界の輝きに瞠目し、その美しさをただ愛し続けていた。そのような世界への愛、刹那の快楽に耽り、破壊と殺戮を厭うこと自体が、戦争社会では許されざる異端だった。
 結果としてバルバトスは副官を殺めざるを得なかったが、原因の根は戦争社会という体制だし、この意味ではバルバトスはメギドラルの社会体制そのものに己の「愛」を否定されたとも言える。サタナイルのような、自身を創造したことへの恩義ではなくとも、メギドラルへの愛であることには変わりないはずだ。だからこそ、自身がその愛したメギドラルに傷付けられた記憶を思い返し、サタナイルに何か出来ることがあるのではないかと迷ったのではないか。

 サタナイルは、バルバトスが音楽への愛故に、副官を殺すしかなかった過去を知らない。故に、こんな鋭い問を発している。

 

サタナイル
「(…)貴方もまた
「芸術」を理由に罰を受けた身
罰を受けるくらいなら芸術を…
音楽を捨てようとは思わなかった?」

バルバトス
「(…)俺は音楽を覚えて…
もうそれが「自分の一部」に
なってしまっていたからね」

サタナイル
「音楽を捨てなければ「殺す」と
言われても?」

バルバトス
「同じことさ
「自分の一部」を捨てることも、
殺されることも…大した違いはない」

サタナイル
「じゃあ…貴方の大切な人を
「殺す」と言われたら?
それでも音楽は捨てない?」

バルバトス
「…なんでそんなこと聞くんだい?」
(第03話・END) 

 音楽への愛故に大切な部下を死なせなくてはならなかった時、それでも音楽を捨てずに居られるのか。それまで問いに答え続けていたバルバトスが、一瞬黙って、問の理由を問い返すこと自体が、この質問の鋭さを物語っている。
 サタナイルが密かに持ち続けている音楽への愛も、フォトンを回収するうえでの手ぬるさも、上層部からは不服従、裏切りと見なされて不思議ではない。部下として彼女の行動指針を受け入れていたアリキノもまた、重罰は免れないだろう。
 この場面においても、サタナイルが考えてしまうのは自身の音楽への愛ではなく、むしろアリキノという他者の身の安全である(バルバトスは自分の行動が部下と軍団にどのような帰結を招くのか、副官に言われるまで考えもしなかったのだから、この差異はやはり大きい)。この意味でも、サタナイルは献身と優しさの人であって、本来ならバルバトスのような「嵐」の自我こそがメギドらしい在り方なのだろう(この差異は、あるいは旧世代と新世代の差として説明出来るのかもしれない)。
 サタナイルが実際に音楽と思想を捨てようとしていたかは作中では物語られていないが、そもそも人生相談じみた質問をしている様子からして、彼女に一切の迷いがなかったとは考えにくいだろう。

 会話はソロモンにヴィータ殺しを悟られ、戦いに破れたアリキノの足音で遮られる。アリキノの死を目にし、サタナイルは、ソロモンへの怒りと悲しみを露にする。死体を野晒しにするわけにはいかない、という彼女の気持ちを汲み、バルバトスは死体をフォトンの貯蔵庫へ運ぶことを手伝おうとする。

バルバトス
「こんなことになった以上…
キミと一緒にいることは難しく
なってしまったな
だから、せめて…
最後にそれぐらい手伝わせてくれ
いいだろう、「ソナタ」?」

サタナイル
「…………
ええ、お願いするわ…「ストラ」」
(第04話・冒頭) 

 何故ここでバルバトスが「ソナタ」と呼ぶのか理由は語られないが、メギドラルの異端者として、「同志」として通じ合えた関係は、最早アリキノの死を以て崩れ去ってしまった。だからこそ、最初から互いの素性など知らぬまま、音楽を楽しめた時間を懐かしむと同時に、出会ったときの「赤の他人」(第01話・1)同士に戻ろうというバルバトスなりの哀切な符号だったのかもしれない
 呼び名は、彼女がソロモン王への敵討ちを物語るとき、再び「バルバトス」(第04話・1)に戻る。それは、ソロモン王の配下、すなわち「敵」としてバルバトスを見るという意思表明でもある。
 志を同じくするサタナイルを、このまま死なせるわけにはいかない。考えた末に、バルバトスは、あえてサタナイルの敵討ちに協力する演技をして、互いに会話が始まる糸口を探ることになる。ソロモンとサタナイルが対話に至ることはないが、そこに予想外のアリキノの襲撃が起きる。アリキノを退け、その消滅を前にしたサタナイルは、バルバトスと共に「大地のソナタ」を奏でる。

サタナイル
「(…)この曲はせめてもの…
お前への手向けだ
至らぬ上官であった私を許してくれ
そして…これまでご苦労だった
さらばだ、アリキノ…」
(第05話・END)

 アリキノは何故凶行に走り、サタナイルは「至らぬ上官」として詫びるのか。
 これは非常に難しい。
 まずアリキノはサタナイルの指揮術を盗み取るため、上層部から送られた「犬」であり、「用済み」として彼女を殺めようとする。しかし、別にアリキノ自身がサタナイルを殺す必要などないのである。サタナイルの思想と行動を上層部に報告さえすれば、あとは勝手に処罰が進むはずだ。であれば、わざわざここでサタナイルを殺そうとするには、何らかの理由があるとしか考えられない。それも、サタナイルからの命令が重複したとき、わざわざ自分に従うよう幻獣たちを調教していたのだから、いずれこういった事態を迎えることは予想していたはずだ。
 アリキノは最初から、サタナイルへの暴力の意志があったはずなのである。
 では、その理由は何なのか。

アリキノ
((…)思ったぜ…
結局、力がなきゃクソだってな
ゴミみてェな理想だろうと…
それを叶えるためにゃ力がいる!)

アリキノ
「キレイゴトだけのてめえにゃ
わからねえだろうな…
サタナイルよぉ!」
(第05話・4)

 

 この「ゴミみてェな理想」が指すのは、サタナイルの創造を尊ぶ思想だろう。
 戦争と破壊が第一に尊ばれるメギドラルで、サタナイルの異端の理想を広げるには「力」が必要だ。そしてアリキノ自身が経験したように、たとえ美しい理想に生きていたとしても、力が無ければ圧倒的な暴力には呆気なく崩される。
 そのような現実から目を伏せ、自身が処罰される危険も考慮せずに小手先の「キレイゴト」に耽るように見えたサタナイルに、苛立ちは少なからずあったのだろう。

バルバトス
(蘇る力…
ひょっとするとそれが彼を
変えてしまったのか…?
力の弱いメギドが、
力を得た瞬間に豹変する…
そんなのはよくある話だしな
力がないときにはサタナイルの
理想に共感できていても…
力があればそれは戯言ってわけだ)
(第05話・3)

 バルバトスは、アリキノはサタナイルの理想自体には共感していた、と読む。破壊と戦争を厭うサタナイルの思想は、(たとえばスコルベノトのように)弱者のメギドには都合が良いものだ。そもそも「犬」として上層部の命令に従っていたアリキノだが、サタナイルの言動に接するうちに敬慕の念を募らせ、その思想を受け入れたのだろう。彼が鈴を得物に選んだのは、自身の適性が第一であるが、サタナイルのためでもあった。

アリキノ
「それに…(…)
「楽器」を指揮に用いることで、
上層部も「音楽」の重要性を
理解してくれるんじゃないかと…
(…)メギドとしては無力な私に、
いつもあれこれ手を焼いていただき
…感謝しています
だから私も…
サタナイル様の理想を実現する
力になれればと思うのです」

(…)

サタナイル
「アリキノなりに…
音楽や芸術に希望の「光」を
見出したのかもしれないわ
アリキノは…メギドとしては
戦う力に欠けていたから」
(第04話・1) 

 
 実際には戦う力を有することと、音楽や芸術への愛は(アルテ・アウローラでもっとも保守的なべバルとアバラムがそうであるように)矛盾しない。だが、いずれにせよアリキノが音楽をサタナイルに寄り添って解していたことは、クロケルのベルの音に「情緒」の欠如を見る様からも伺われる(第05話・3)。
 アリキノはサタナイルに隠れ、密かにヴィータを殺し続けていた。

アリキノ
「指揮術のおかげでギリギリ首が
繋がってるくせに、俺にペラペラと
音楽の話をしやがって…
しかも「誰も殺したくねえ」だ…?
そんなことが上層部にバレたら、
どうなるかわかってンのかよ?
(…)だ、け、ど…安心しない
デキる部下の俺が…ばーっちり、
カス上官のケツを拭いておいたぜ
お前が逃がした貴重な貴重な
フォトン袋…ヴィータどもをっ!
ちゃーんと回収してなぁ!」
(第05話・1)

 劇中で説明されたように、サタナイルのフォトンの回収法は非効率的で、上層部にそのささやかな反逆が露呈する可能性は決して低くなかったはずだ。
 上司の命令に反してヴィータからフォトンを回収していれば、たとえサタナイルが罰されるとしても、アリキノ自身の保身は達成されるだろう。しかし、結果から見れば、アリキノが「上官のケツを拭いて」いたおかげで、サタナイルは上層部からの刑罰を免れていたのである。

 アリキノの精神は非常に悩ましい状態にあったのではないか。
 それこそ、サタナイルがアリキノが処罰される可能性を考え、ともすれば音楽と理想を捨てるべきか悩んだのと同時に、アリキノ自身もまた苦しめられていたのではないか、というのが個人的な読みである。

 アリキノの行いは奇異で、指揮術をある程度以上習得出来たのであれば、あとはサタナイルの行動を上層部に報告してしまうだけで良かったはずだ。にもかかわらず、彼女の行動が上層部に露見しないよう、ヴィータ殺しという不合理な手間を取った。であれば、その手間に理由があったと見るのが自然だろう。
 もしそれが、敬愛するサタナイルを護るためだとしたら、残酷である。
 アリキノはサタナイルを護ろうとするが故に、その理想から反し続けることしか出来なくなるからだ。サタナイルは、その指揮術のオリジナリティ故に、辛うじて生存を許されている。言い換えれば、アリキノが指揮術を十分に修得すれば、異端の思想をまき散らすサタナイルは、「用無し」としていつ処刑されてもおかしくない。
 ここでもアリキノは二重の苦しみに苛まれている。
 サタナイルのもとで指揮術を学ぶことは幸福な体験だろうが、自身がそれを習得し切り、彼女を凌駕してしまえば、いずれサタナイルは処刑される可能性が高い。にもかかわらず、サタナイルはアリキノに指揮術を熱心に指導し続け、また露呈する可能性が決して低くない回収作戦を続けていた。
 アリキノが真にサタナイルを敬慕していたのであれば、破滅に直進するようなその振舞いは、見ていて相当に苦しかったはずだ。

 アリキノはサタナイルの理想自体には共感していた。ただし、それには手を汚し、現実の「力」を得る必要があると考えていた。ただ、アリキノがわざわざヴィータを殺し続けたことは、サタナイルを延命させたかったと見る他ない。

 であれば、アリキノはあえてサタナイルに敵対し、自身の力で屈服させ、支配下に置くことで、彼女を延命させたかったのではないか。「思想的には問題はあるが、現在は自分が律しており、指揮術の腕前自体はやはり貴重である」などと理由をつけて。アリキノがケジメとしてサタナイルを屈服させれば、上層部を説得する材料になるだろう。そのようにアリキノは計画していたのではないか。

 アリキノの最大目標は「サタナイルを存命させること」だった。
 彼は既にヴィータを殺害したことをソロモン王に知られている。思想的に近いサタナイルがソロモン王の配下に就く可能性は十二分にあり得るが、ソロモンが自身を受け入れる可能性は高くない。むしろ、ソロモンからサタナイルに事実が伝われば、清廉な彼女がアリキノを許さず、拒絶する可能性も十分にある(なにせ、アリキノは「女」としてのサタナイルの言動には触れず、もっぱら「舐められない」ための高圧的な口調ばかり聞かされてきたのだから)。

 既に一度破れたソロモン王相手に、無策で再戦を挑むことは無謀である。であれば、何故アリキノは密かに逃げることなく、わざわざサタナイルとソロモンに戦いを挑むのか。
 サタナイルがアリキノを大切に想ってくれていることは、彼自身も理解していた。であれば、他ならぬ自身の存在がサタナイルをメギドラルに繋ぎ止める枷のひとつとなっており、また音楽と理想を捨てさせかねない原因となっていることも、思い及んでいたのだろう。
 
 アリキノの凶行の理由を、厳密に確定することは難しい。ただ状況から推察して素描するならば、個人的な読みは次のようになる。
 
 アリキノはサタナイルの理想に共感しながらも、彼女の思想と行動が上層部に露見し、死刑になることを恐れていた。おそらくは蘇生の力を得たのと同時期から、サタナイルの行動が露見しないよう、密かにヴィータを殺してフォトンを回収していたが、彼女はそのような事実にはまったく気付く様子を見せず、無警戒に指揮術を教え続けた。自身が指揮術を習得すること自体がサタナイルの処刑を早め、さらに彼女の理想を護るため、その理想に反してヴィータを殺し続けなければならないジレンマは、アリキノの精神を確実に追い詰めていた。
 そんな中、ソロモン王にヴィータ殺しが露見し、アリキノは死を迎えてしまう。貯蔵庫に置かれた状況から、サタナイルに死なれたと思われているのは明らかである。自分が蘇生の力を持ち、ヴィータ殺しの事実を明かさない限りサタナイルへの再会は叶わないが、それを知った彼女は、アリキノを拒絶するだろう。
 残された選択肢として、アリキノはサタナイルとソロモン王に戦いを挑むことしか出来なかった。いずれにせよ、いつかサタナイルと対立することは予想の範疇で、故に幻獣の調教も前もって施していた。戦いに勝利し、傷付いたサタナイルをメギドラルへ連行すれば、自身が監視し、今後もメギドラル上層部に造反するならこのように処罰を加えるという名目で、サタナイルを存命させられるかもしれない。戦いに敗北したとすれば、サタナイルは自身との繋がりを断ち、後腐れなくソロモン王の軍団に加わることが出来るだろう。勝敗のどちらであろうが、最終的にはサタナイルが存命する結果に違いはない。
 
 この読み方を採用するのならば、『キミに捧げし大地のソナタ』のアリキノの豹変は、彼とサタナイルが共に互いを想いながらも、その心情を言葉にして語ることがなかったが故の悲劇でもある。たとえばサタナイルが、アリキノのために音楽と理想を捨てるべきか迷ったことを明かしていれば。あるいはアリキノが、サタナイルを存命させるため、理想に反してヴィータを殺していることを告白していれば、おそらくこの二人には別の結末が待っていたと思う。
 ただし、アリキノの凶行の理由は、作中では明白に物語られてはいないし、「用無し」として殺すのは、別にこのタイミングである必要はないというだけだ。その行動の不自然さを踏まえ、こう仮の説明は出来る、という程度に過ぎない。

 話を本筋に戻そう。アリキノの死を見届けたサタナイルは、メギドラルに帰還しようとしてバルバトスに引き止められる。ここの口調の変化が、細やかでいい。

バルバトス
「正気か、サタナイル…?
アリキノの言葉がどこまで
本当かはわからないけど…
キミの「思想」が上層部に
漏れていた可能性もある…
だとしたら確実に罰されるぞ」

サタナイル
「承知の上だ
それでも私は…メギドラルを
捨てることはできない」

バルバトス
「今のメギドラルは…
キミを必要としていないのに?
(…)酷な言い方だけど…
それが真実だろう?
キミがメギドラルを救いたいと
願うその気持ちは立派だよ
だけど相手にそれを受け止める
用意がなければ…そんな気持ちも
無駄になるだけだ」

サタナイル
「だったら…どうしろと言うの…」
(第05話・END) 

 メギドラルへの愛と、処罰の可能性を十分に理解し、メギドラルとは敵対する他ないのではないかという気持ちとに、サタナイルは引き裂かれている。バルバトスの説得は、愛するからこそ内部ではなく外部から変えればいい、という引き裂かれた選択肢の統合だ。そうすれば、メギドラルの「敵」にならず、愛するが故に戦うことが出来る。
 サタナイルは、クロケルの無邪気な言動に笑いを漏らす。

サタナイル
「…ふふっ
貴方たちは本当に…
「変わり者」ばかりなのね」

バルバトス
「やっと笑ったね…「ソナタ」」

サタナイル
「…二度とその名前で呼ばないで
そう言ったはずよ」

バルバトス
「最後にそう呼びたかったのさ
これから先は…お互いメギドとして
接することになるだろうからね」

(…)

サタナイル
(ありがとう…「ストラ」
貴方に会えて良かったわ)
(第05話・END) 

 サタナイルは結局、弟同様に大切にしていたアリキノを自ら殺めねばならなかった。その後悔はバルバトス同様、永く残り続けることだろう。
 それでも、束の間、何も知らない、ただ音楽を愛する男と女同士で居られた時間を懐かしむように、バルバトスは「ソナタ」と呼ぶ。それは単なる幻への郷愁に過ぎないけれど、サタナイルもまた、その時間を幸福だったと思わないわけにはいかない。そこには、アリキノの存在もまた織り込まれているのかもしれない。
 短いけれど、とても切ない応答だと思う。
 
 この引き裂かれたものの統合こそが、『キミに捧げし大地のソナタ』で繰り返される動きなのだろう。バルバトスがソロモンに嵐の時代の自分も受け容れられるか問うのもそうだし、凶行に走ったアリキノが、最後に敬慕の声を漏らすのもそうだ。サタナイルのジレンマが「愛するが故に外側から変える」というバルバトスの説得で統合されるのも、「少し前まで敵同士だったのに、たった1曲でわかりあえ」る、と楽譜を書くことを約束して喜ぶクロケルに、サタナイルが心動かされるのもそうだ。そして何より、最後のこの会話である。

クロケル
「ところでサタナイルさんは…
どっちが本当のサタナイルさん
なのですか?
(…)まあ、どっちでもいいです
あんな美しい指揮をできる人が
悪い人なわけないですし」

サタナイル
「ふふ…ありがとう」
(第05話・END) 

 何故この言葉を発するのがクロケルなのか。その答えはクロケルリジェネのキャラエピにあると思う。最後に彼女に触れて、この感想を終わりにしよう。

 クロケルリジェネのキャラエピは、物語というよりは、性格の描写に近い。彼女がそもそも奇跡の子を名乗るのは、年老いた両親に十歳から歳を取らぬ理由をそう説明されたに過ぎない。奇跡の子には世界を平和にするという使命があり、だからこそ人助けの旅に出なければならないという両親の言葉を、クロケルは信じた振りをする。
 実際には、その根拠などどこにもなく、クロケルがその不老故に迫害されることを避け、自分以外のヴィータに出会えるように旅立たせねばという、両親の切ない「方便」(クロケルR・1話)であり、「奇跡の子」は単なる演技に過ぎない。
 話の本筋は、街の少女が盗賊に誘拐された事件を中核に進む。
 少女を救うため、殺されかけたクロケルは、両親に不孝を詫びる。

クロケル
(お父さん…お母さん…
ごめんなさいなのです…
だけど私は奇跡の子だから…
自分の幸せよりも…他の誰かを
幸せにするのが使命ですから…)
(クロケルR・9話)

 そもそもクロケルが「奇跡の子」という嘘を信じた振りをして早々に旅立ったのは、両親が自分を案じているのを理解していたからだ。けっこう押しの強い性格ではあるが、本質的には「自分の幸せ」よりも「他の誰か」を優先する人物なのである。大事な描写が、リジェネのあとに挿入される。
 誘拐された少女が、クロケルを「天使」と勘違いする場面だ。

パパ
「そう言えば、吟遊詩人の物語で
聞いたことがあるな…
世界を旅する天使の話なんだけど…
その天使が持ってるベルを鳴らすと
人々に奇跡が起こるんだ、って」

エリス
「えっ!?
じゃあクロケルちゃんは…
天使だったってこと?」

ママ
「そうだったのかもしれないわね…
お礼を言おうとしたけれど、
もういなくなってたし…」

パパ
「物語の天使もね、人々を幸せにして
すぐに姿を消してしまうんだ
そうやって…世界中の人々を
幸せにしてるんだよ
(…)なんだか僕も…
本当にその子が天使なんじゃないか
って思えてきたよ」
(クロケルR・10話)

 両親の方便に過ぎない「奇跡の子」を演じ続けるうちに、いつのまにかクロケルは「世界中の人々を幸せ」にする「天使」ではないか、と称される。繰り返す演技は、自然にその人の本態に染み付いていくものだろう。あるいは、演技と、演技する本態とに、厳密な区別などあり得ないのだろう。そのどちらもが、その人の在り方そのものであると言える(故にアリキノの「二枚舌」は切ないのだが)。
 だからこそ、強面の武人と柔和な女を演じるサタナイルは、どちらだってサタナイルには違いない、とはっきり肯定して物語を結ぶのは、まさしく本物の「奇跡の子」となったクロケル以外にあり得なかったのだろう。【了】